なぜ落ちこぼれるのか?増えている自学自習できない子どもたち
落ちこぼれる子どもたちがふえてきた背景に、根本的な問題として、自学自習できる子がひじょうに少なくなってきたことが考えられます。
その理由について、ここでは家庭と学校に分けてすこし考えてみることにします。
地域や家庭の教育力の低下
自学自習できる子が減少してきている理由として、家庭や地域での教育力の低下をあげることができます。
核家族がふえてきた現在では、どうしても親が過保護か、または無関心かの両極端になってしまう傾向があるのです。
塾でも過保護の子どもがふえてきています。
過保護にしつけられた子どもたちは自学自習がまずできません。
そして学力も低い傾向があります。
これは完全に家庭の教育力の低下の一つです。
また、親自身が孤独になってきていることも、地域や家庭の教育力低下の一つの遠因になっています。
一つの組織である共同体(地域社会)の中で、いわゆるアイデンティティーが欠如している、つまり自分の存在を確認できるところがないわけです。
すると、子育ても孤立化し、子育てを他人の子どもとの競争ととらえるようになってしまうというのは、まえに述べたとおりです。
加えて、子どもをどのように育てたらよいのかわからないという親もふえています。
そこから、過保護になるか放任主義になるかのどちらかに分かれるのです。
塾やスイミング、剣道、そろばんなど、さまざまなおけいこごとがありますが、そういうところに通わせておけばいい、という親もけっこういます。
これは、見方によれば教育熱心にもとれますが、放任主義と同じだといってよいと思います。
そういうお子さんは、目が死んでいます。
月並みな言葉ですが、親の愛情が欠けているのです。
自分の子どもでありながら、あまり一生懸命育てたくないという親もふえています。
しかし、むかしに比べればお金はあるので、スイミングや体操などのクラブに入れて、本来自分が教育しなければいけないことまで放棄してしまう、または逆にずっとつきっきりになってしまうというようになります。
つまり、過保護も放任主義も根っこは同じなのです。
これは、産業社会が発達すればするほど、人間がそういう傾向になるというのは、避けられないことなのかもしれません。
人間が社会の中にはいる、組織の中にはいってその一員になるということは、連帯感が芽生えるきっかけではありますが、同時に孤独感に陥るきっかけとなる可能性もあります。
産業が発達して分業化が進めば進むほど、人間どうしのつながりも細分化されていくのだとも言えます。
ですから、これからの子育ては、こうしたことを前提にして行なう必要があります。
たとえば、よく「親の背中を見て、子どもは育つ」と言われますが、これはもう、ひとむかしまえの話だと思います。
そのころの親というのは、家で働いている人が多かったので、両親の働いている姿を見て子どもは育っていったわけです。
ところがいまは、お父さんは会社に行って、家でその働く姿を見る機会はありません。
ですから作文を書かせると、
「お父さんは土曜日、日曜日は家にいるけれども、ごろごろしてテレビを見ている。
ほんとうはお父さんに遊んでもらいたいんだ」
などと書く子がいるわけです。
また、
「お父さんはいつも11時頃に帰ってくる。
だから夕飯をいっしょに食べられないんだ。
朝はぼくがご飯を食べるときには、お父さんはもういない」
そういう家庭も多いようです。
つまり、親の背中を見て、親の働く姿を見て育つ子はひじょうに少なくなってきているのが現実です。
人間が孤立化している時代だからこそ、これからの子育ては、このことをより意識した教育をしていかなければなりません。
地域の人たちが連帯意識をもって地域で子育てをする、子育ては隣の子との競争ではないのだ、という方向に社会全体をもっていかなければ、子どもたちが落ちこぼれていくという問題の解決は難しいと思います。
多くの方の意見のように、教科書が難しくなってきたから、落ちこぼれなどの教育問題が起きたと論を進めてしまうと、このような本質的なものを見逃してしまう可能性がひじょうに強いので気をつけなくてはなりません。
過度の期待をもたれる学校
子どもたちが落ちこぼれていく理由の一つとして、よく学校の教育力の低下をあげる方がいます。
しかし、私自身は学校の教育力については、あまり変わっていないと考えています。
その理由として、三つあげることができます。
第一に、一クラス当たりの人数が減ってきていることがあげられます。
むかしは50人いたのが、いまは40人を切っているのです。
むかしより先生の目が届くことになりますから、教育環境はよくなっていると言えます。
また第二に、先生一人当たりの生徒数も、小学校・中学校とも30年まえに比べて少なくなっています。
また、環境や教育設備もよくなっています。
そして第三に、学校の先生の質に関しては、マニュアル化されている若い人が多いといわれていますが、全体から見るとがんばっている先生もいらっしゃいますので、むかしと大きな変化はないと思います。
それなのになぜ学校教育の質が落ちてきたように思えるかというと、期待が大きすぎるのではないでしょうか。
家庭や地域の教育力が低下していれば、子どものしつけや非行の問題に関しても、すべて学校で対処してもらえないかという気持ちが強くなります。
しかし、いまの学校制度では、すべてに対処するのは無理なのです。
というのは、学校の制度というのは、第二次大戦が終了して三年後ぐらいに日本の教育制度が変わったあと、40年近く基本的に変わっていないからです。
ですから、しつけの面や地域の教育力低下、家庭の教育力を補填するような機能になっていないのです。
そのような、教育制度自体が世の中の動きからちょっとずれているという意味でもあります。
高校の教科を選択制にするとか、総合学科をつくるとか、いろいろな試みがありますが、いまちょうどゆれている時期だと言えるでしょう。
ゆれているというのは、地域の教育力を補填することができない、補填するには学校以外で開拓しなければならないときだということです。
また、繰り返し述べてきたように、教育の土台である家族の形が変わってきているのに、上にのっている学校の教育制度が変わっていないので、どうしてもずれが生じてしまい、学校はだめだという批判になってくるのだと思います。
いろいろ調べてみても、30年まえと比べて学校自体が悪くなっているという部分はほとんどありません。
あまりにも学校だけに期待しすぎているのです。
勉強は教えなくてはならない、子どもたちにわかるような言葉で、しつけも含めて教えなくてはならない、だから、たいへんなことなのです。
進学塾では、たとえば平行四辺形の面積の出し方などは、底辺×高さの公式さえ教えればいいわけです。
ところが学校の先生は、なぜ底辺×高さになるのか、それを長方形の形とかいろいろな形にして教えます。
円の面積の出し方にしても、30分、1時間かけて公式を教えるわけです。
どうしてそうなるのかということもやらなければなりません。
また、学校の先生は、しつけまですることを期待されています。
しかし、このことは、中学校の管理教育につながってしまいます。(管理が厳しい学校ほど非行に走り、自由な服装で、自由な規則のところのほうが非行が少ないというデータがあるくらいですから、私は、管理教育はやるべきではないと考えています。)
しかし、どうして学校がやらざるをえないのかというと、地域や家庭がそれを望んでいる部分があるからなのです。
思春期になっていろいろな問題が起きたら、家では対処することができなくて、
「先生、なんとかしてください。非行の問題なんて、うちでは対処できません」
「登校拒否なんて家では……」
「落ちこぼれになったら……」
と、どんどん学校に要求することが多くなるわけです。
そう考えると、学校の先生はほんとうにいろいろな面でストレスがたまっているのではないでしょうか。
ヨーロッパの小中学校の先生のように、勉強を教えるだけが仕事ではないのですから。
がんばっている現場の先生を見ていると、けっして質が落ちているということはないと思います。
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