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子どもがテストを持ち帰ってきたときが、親子で勉強するいいチャンス
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無口な子よりおしゃべりな子のほうが理解力があり学力も高い
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規則正しい生活をしていると、しせんに算数の勉強にもなる
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お母さんが子どものいいところを認めてあげるだけで子どもは勉強好きになってくる
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子どもがテストを持ち帰ってきたときが、親子で勉強するいいチャンス
学校では、一つの単元が終わったときにテストをします。
ですから、テストの点数は結果を表すもの、とだけ考えがちです。
でも、それは学校のカリキュラムの中だけでのこと。
家庭学習においては、テストの点数はむしろ、一つのきっかけ、スタート地点と考えたほうがいいのです。
学校では、クラス全体としてどのくらいの点数がとれたかを目安に、以後の授業のプランを立てるでしょうが、一人ひとりの子どものまちがえた問題のフォローまではしてくれません。
テストの時点で理解できていなかったところは、家庭でフォローしなければ、そのままになってしまうかもしれないのです。
つまりテストの点数は、お母さんに「ここを子どもに復習させておく必要がありますよ」という貴重な情報を伝えてくれているわけです。
(1)余白の書き込みをチェックする
子どもがテストを持って帰ってきたら、まず答案用紙の全体をよく見てください。
算数のテストの場合、解答欄に答だけを書く形式のテストでも、子どもによっては余白に式や計算などを書いている場合があります。
逆に、答えだけが書かれていて、余分なことはまったく書かれていなかったり、書いたあとはあっても消しゴムで消してあったり、という場合もあります。
余白に何か書いてあるかいないか、これが第一のチェック・ポイントです。
余白にいろいろと書いてある子どもは、考えることのたいせつきを知っている子どもだと考えていいでしょう。
したがって、こういう子どもは学力が伸びる可能性は高いと言えます。
反対に、何も残っていない子どもは要注意です。
たと、答えはあっていたとしても、結果だけに目がいっている子どもは、「できる」ことだけで満足している子どもである可能性があります。
式や計算はたいせつなものですから、かならず書き残しておくよう指導してあげてください。
(2)まちがえた問題をほかのノートに書き写させる
続いて、まちがえた問題に対するフォローです。
まちがえた問題は、「まちがいノート」をつくって、かならずそこに自分の手で書き写させてください。
このノートは、子どもがつまずいたポイントを記録する、貴重な資料になります。
まちがえた問題の中には、答えが書いてあるけれども×がついているもの、答えも書いていないものの二種類があるでしょう。
答えが書いてあった場合は、式や計算をよく確かめたり、子どもにやり方を説明させたりすることで、ただの計算違いなのか、それとも考え方をまちがえていたのかを調べます。
考え方が正しかったら、そのことを認めてあげ、計算をやり直しさせて○をつけてあげればすみます。
考え方が違っていた問題、そして答えが書いてなかった問題は、きちんと復習する必要があります。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
無口な子よりおしゃべりな子のほうが理解力があり学力も高い
おしゃべりな子ども、とくに女の子のパワーには圧倒されます。
こちらがロをさしはさむ余地などまったく与えてくれません。
一つの話が終わっても、切れ目なくつぎの話題に移り、5分でも10分でも、えんえんとしゃべり続けて、疲れることを知らないようです。
でも、よく聞いてみると、この話がじつにおもしろいのです。
事実はきちんと分かりやすく整理されていて、その子供の意見も筋が通っています。
大人たちが、意外なほど鋭い目で観察されていることに気づいて、ギクッとすることもあります。
もちろん、なかには子どもらしくない大人びた難しい言葉や言い回しも、平気で出てきたりしますが、言葉に対して子どもなりにアンテナを張っていることがわかって、妙に感心させられます。
こういう子どもは、たいがい学力も高いようです。
「おしゃべり」というのは人に自分の考えやメッセージを伝えようという行為の一つですから、おしゃべりの好きな子は、いつの間にか自然に自分の考えをまとめる力を身につけているのでしょう。
それに、耳新しい言葉を使ってみたいという欲求が語彙を自然にふやしていて、話し好きな子どもは、小さな「もの知り博士」であることも多いようです。
つまり、すべての学力の基本である「国語力」を、おしゃべりの中で養っているというわけです。
おしゃべりな子どもは、しゃべるのが得意なだけではありません。
人の話をきちんと聞き、理解する力もあるのがふつうです。
自分の話を聞いてもらう喜びを知っているからこそ、人の話を聞いてあげられる力も身につけているのです。
また、自分の気持ちを表現するのが上手なだけに、人の気持ちを思いやることもできます。
授業中も、先生の話をよく聞き、積極的に手をあげる子どもが多いようです。
それに比べると、無口な子どもは表現力のトレーニングが少ないわけです。
これでは、学校の勉強を同じようにこなしていても、国語力に差がついてしまうというのはしかたありません。
また、自分を表現するのが苦手ですから、授業中に手をあげるということも少なくなり、それもマイナスに働きます。
それだけでなく、自分の気持ちを表にあまり出さない子どもは、人の気持ちにも無頓着になりがちです。
おしゃべりな子どもは、他人に嫌われることもありますから、ただしゃべればいいということではありませんが、無口な子どもに比べると学力が高くなる傾向にあることは確かです。
では、どうしたら「よくしゃべる子ども」に育つのでしょうか。
ポイントは、家庭での親子の会話です。
まず、自由に話ができる雰囲気が必要です。
そして、子どもが自由に話をしても、べつに誰からも怒られたり注意されたりしないのだということを子どもに示してあげてください。
無口な子どもも、心の中では話したいことがいっぱいあるはずです。
ただ、それを表に出すことに慣れさせてあげてください。
感情表現が苦手な子どもは、最初のうちはあった出来事だけを話すかもしれません。
そうしたら、「そのときどんな気持ちだった?」「あなたはそれについてどう思う?」というような質問をしてあげます。
そして、子どもがそれに答えたら、まず共感してあげることがたいせつです。
もし、お母さんの考えが子どもと違うのなら、共感したあとで「お母さんは、こう思うな」「お母さんだったらこんな気持ちになったかもしれないな」というようにつけ加えます。
「でも…、」というような、子どもの話を一度否定するような言葉は、最初のうちはなるべく避けたほうがいいでしょう。
せっかく話をしようと思いはじめた気持ちが、否定されたと感じることでしぼんでしまうかもしれないからです。
お母さんがよくしゃべる家庭の子どもは、やはりよくしゃべる子どもになる傾向がありますが、お母さんが一方的にしゃべって子どもの話を聞いてあげないと、子どもも人の話を聞くのがへたになります。
話すときは話す、聞くときには聞く、という会話のキャッチボールを、お母さんがまず実行し、子どもにちゃんと教えてあげてください。
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学力を伸ばしたがったら、問題集を亨えるよりも図鑑を用意してあげる
自宅学習と聞くと、練習問題をたくさんやることというイメージは、どうしても強いよぅです。
たしかに、問題を解くことは勉強の一つに違いありませんし、こなした問題の数でどれだけ勉強したかが一目でわかりますから、お母さんとしては問題を解かせておけば安心していられるのではないでしょうか。
それでついつい一つの科目について二冊、三冊と、問題集を買いそろえることになってしまうようです。
しかし、練習問題というのは、基本的には、問題に慣れるために練習することにほかなりません。
習ったばかりの知識を、復習で確実なものにすることはひじょうに有意義なことですが、だからといって、そのための教材を何冊もやるのはかえって子どもを勉強嫌いに仕向けている感すらあります。
なぜかと言えば、練習問題の中には、子どもの好奇心を満足させてくれる内容が少ないからです。
まして、すでにマスターしている単元の問題を二度、三度と繰り返させても、テストで100点がとれるという満足感を与えることはできるかもしれませんが、子どもの学力にとってプラスになるとはかぎりません。
原則として、問題集は一科目につき一冊で十分だと思います。
答えはノートに書かせ、問題集に絶対書き込ませないようにすれば、同じ問題を繰り返してやらせることもできますし、なかなか理解できない問題については、お母さんが数字を変えるなどして、手作りの問題をつくってあげたほうが効果があります。
さらに何かを用意したいなら、図鑑や事典を買ってあげるほうがいいと思います。
お母さんといっしょに散歩に出たときなど、道端の草花などを見て、「これ、何て花かしらねぇ」と注意を向けさせ、家に帰ってから図鑑で調べる習慣をつけさせるのです。
最初のうちは名前を確かめるくらいかもしれませんが、しだいに興味をもってくると、解説の部分も読むようになっていきます。
男の子の部屋などで、図鑑が一セットきれいに並んでいる中、昆虫図鑑だけボロボロになっているというような光景を見ることがあります。
そんなとき、ああ、この子は虫が好きなんだなあ、と微笑ましくなります。
こういう子どもは、観察力が鋭くなり、私たちが同じものだと思っていた二種類の虫のこまかい区別を説明してくれ、ほんとうに驚かされたりします。
また、このような子どもは、小さな虫たちの営みを見つめているうちに、生命の偉大さやたいせつさもしぜんに理解していってくれるものです。
事典としては、百科事典もそろっていればいいのですが、場所もとりますし、いずれにしても小学生には説明文も難しいので、とりあえず、はじめは子ども向けの事典シリーズで十分です。
それも、一度にそろえなくても、興味のある分野のものを中心に何冊か与えるという形でもいいでしょう。
参考書売り場には、理科や社会の学習事典タイプのものも売っています。
これはちょっと詳しい参考書といった内容ですから、入門書としてはうってつけです。
しかし、すこし詳しく何かを調べようと思ったら、中学生向きの図鑑があるととても便利です。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
偏差値はほんとうに必要か?
1994年から首都圏や埼玉では、高校入試の偏差値がなくなりました。
しかし、私は偏差値を利用しての進路指導の方法はなくならないと思っています。
なぜそれが弊害になったかという理由は二つあります。
一つは、業者テストの偏差値を利用した、推薦制度そのものが青田買いになるということの弊害です。
もう二つは、偏差値で推薦が決まるというので、悪質な塾が資料を入手して先回りして生徒に答えを教えてしまい、公平さを欠くということです。
この二つが偏差値を追放した理由だと思います。
しかし、偏差値自体を追放しようと思ったら、資格制度の入試にしないかぎり絶対になくなりません。
いまの入試制度そのものが他人の成績を気にする相対評価の一つですから、どんなやり方をしても、競争入試は相対評価がかかわってくると思います。
偏差値という言葉は使わなくても、競争入試であるかぎり、相対評価は絶対になくなりません。
そして、相対評価の中でもいちばん便利な指標はというと、偏差値なのです。
学校からは、表面的にはなくなるかもしれません。
しかし、学校の外に出るだけであって、会場テストでは似たようなものが出てくるでしょう。
実際、大手の塾などでは独自で偏差値をどんどん出しています。
ただ学校の外に移ったというだけで、偏差値自体はけっしてなくならないでしょう。
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「わかる」喜びは、子どもの好奇心・探究心を伸ばす
幼稚園前後の子どもは、「これは何〜?」「どうしてこうなるの?」という質問を、たえず音発します。
家事に忙しいお母さんからすると、つい「うるさい」「わずらわしい」と感じてしまうくらいです。
どうやら、人間は生まれつき、旺盛な好奇心・探究心をもっているようです。
こうした好奇心・探究心は、大人になっても消えるわけではありません。
奇々怪々な事件などが報道されると、そこでもここでも話題になって、真相はああでもない、こうでもないと議論が起こり、つぎの報道を心待ちにします。
また、世界の珍しい話題を集めたクイズ番組など、テレビ各局のヒット番組となっています。
これは、私たち大人も、じつは好奇心の固まりであることの証拠でしょう。
ただ、その好奇心を満足させるために、自分で積極的に調べたり考えたりという行動をとるかどうか、ということになると、これは大きな個人差があるようです。
専門の学者や研究者は別ですが、ふつうは、新聞に載れば読む、番組になっていれば見るという程度で、わざわざ本を買いそろえたり、その場へ出かけていったりというところまでする人は、あまりいません。
もちろん、大人の場合は日常の仕事があり、時間があまりとれませんから、これはいたしかたないことです。
しかし、子どもの場合は違います。
「子どもの仕事は勉強」などといいますが、実際、子どもの生活時間の大部分が、学校の内外を含めて、勉強にあてられているといっても過言ではありません。
そしてこの「勉強」とは、好奇心・探究心を満足させるためのものですから、本来とても楽しいことのはずなのです。
それなのに、なぜ勉強が嫌いになってしまうのかといえばこの旺盛な好奇心にフタをしてしまうような、好奇心の満足のさせ方に問題があるのではないでしょうか。
「知らなかったことを知る」喜びも、たいせつなものには違いありません。
でも、「わからなかったことがわかる」喜びはそれとは比べものにならないのです。
考えに考えたすえ、自分の頭の中でもやもやしていたものがパッと整理され、「そうか、そういうことだったのか」と思わずひざを打つ、そんな喜びは、誰にでも何度か経験があるはずです。
そんな喜びの経験を積み重ねている子どもは、自分の好奇心をすくすくと伸ばしていけます。
学校の先生が教室で話す一つひとつの言葉も、覚えなければならない課題というよりも、心の中の疑問に対する答えとして聞くことができます。
こういう子どもにとって、勉強は苦しいものでもつまらないものでもないことがおわかりいただけるでしょう。
そして、この好奇心・探究心こそが、ほんとうの「やる気」につながることは、いうまでもありません。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
親子で本屋に行くようにすれば、子どもの学力はアップできる
本をよく読むか読まないかが子どもの学力を大きく左右することは、もう常識といってもいいでしょう。
読書によって、漢字力、語彙力、読解力という、国語の基本的な力が身につくことはいうまでもありませんが、これはすべての科目の学力の基礎でもあります。
また、算数や理科の学習にとくに必要な論理的思考力、社会の学習に必要な常識的知識なども身につきますし、発想を豊かにする想像力も養えます。
「本物の学力」をつけるのに、読書はもっとも効果的な方法だと言えるでしょう。
そこまでわかっていても、子どもに読書の習慣をつけさせることは容易なことではありません。
漫画、テレビ、ビデオなど、子どもにとっては本よりも魅力的に思えるメディアはたくさんありますから、子どもがついそちらを選んでしまうのは、いたしかたないことかもしれません。
しかし子どもは、もともと本が大好きなのです。
小さいころ読み聞かせをすれば、夢中になって聞いていたお子さんも多いはずです。
まず、子どもに本を読ませようと思ったら、親が本を読むことは絶対条件です。
親が本を読まないのに、子どもに本を読ませようとしても、それはうまくいきません。
反対に、親が本が好きで、「このあいだ読んだ本にこういうことが書いてあったんだけどね」というような会話が日常的に行なわれている家庭の子どもは、しぜんに本への興味が湧きます。
また、親が本を読まなくても、本をよく買う家庭では、子どもは本を特別なものではなく身近なものと感じるようで、ごく自然に読書の習慣が身につくと言われているくらいです。
ですから、たとえば一ヶ月に一回親子で本屋へ行き、本を買い与えることを習慣にします。
読む本は子どもに選ばせるようにします。
「1000円以内で漫画以外だったら何でもいいから、読みたい本を選びなさい」と、決めておきます。
親はつい、偉人の伝記やいわゆる名作と呼ばれる作品などを読ませたくなりますが、あまりこだわらず、本の内容よりも、最後まで読み通させることのほうがたいせつだと考えてください。
自分の意思で選んだ本なら、子どもも責任を感じて、最後まで読もうという意欲が強くなるものです。
ただ、自分が子どものころ読んでおもしろかった本をすすめるのはいいと思います。
子どもが読み終えたあとで、自分の子ども時代の思い出などをまじえてその本について語り合えたら、親子のよいコミュニケーションになりますし、子どもも本の楽しさをより強く感じることができます。
また、子どもが本を買うとき、親も自分の本を買って、「いっしょに読もうね」という感じにすると、子どもにとっては励みになります。
最初のうちは、勉強の時間と同様に読書の時間というのをもうけたほうがいいでしょう。
そして、なるべくその日読んだ部分の内容を聞いてあげてください。
読解力、表現力のトレーニングになります。
また、最後に「つづきが楽しみだわ。また教えてね」と言ってあげると、子どもも読書が楽しくなってくるはずです。
子どもといっしょに買った自分の本の内容を、おかえしに話してあげるのもいいでしょう。
読書の習慣は、子どもの学力を伸ばすためだけでなく、子どもの人生を豊かなものにするうえでも、ひじょうにたいせつなものです。
ぜひいろいろな方法を工夫して、本に興味をもたせるようにしてあげてください。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
子どもの「なぜ」という疑問には、答えでなく考え方を教える
子どもが、「なぜ夏は暑くて、冬は寒いの?」とたずねたとします。
これに対して、「夏は太陽が高いところにあって、冬は低いとろにあるからよ」と、ズバリと教えてあげることもできます。
でも、いっしょに考えてあげて、子どもの考える力を伸ばすという意味からは、ぜひもうひと工夫してあげたいものです。
たとえば、次のような形で説明してはどうでしょうか。
まず、「一日のうちで、いちばん暑いのはいつかな?」というように質問してみます。
この質問には、子どもはおそらく「お昼ぐらい」などと答えるでしょう。
そこで、「そうね、それからだんだん夕方になっていくと、涼しくなっていくわよね。お目様はずっと出てるのに、どうして涼しくなるんだと思う?」と質問を続けます。
今度は「わからない」と答えるかもしれません。
そうしたら、「お昼ぐらいに、お目様はどこにある? じゃあ夕方は〜」という形で、昼と夕方で太陽の位置が違うこと、そしてそこには高さの違いがあることに目を向けさせます。
それから、
「お目様が高いところにあるときは暑くて、低いところにあるときは寒くなるみたいね。
だから、きっと、夏はお目様が高いところにあって、冬は低いところにあるのよ。今度確かめてみましょうね」
というようにまとめます。
これは一例ですが、最初のように答えをそのまま教えるのとどう違うか、考えてみてください。
まず第一に、子どもが質問に答えるという形で、考える過程に参加しています。
それによって、答えを知ったときの体験は、「知った」という体験から「わかった」という体験に変わります。
第二に、「昼は暑くて夕方は涼しい」という、日常よく知っている感覚をもとに考えているということです。
体験に結びつけて考えるという習慣は、子どもにとってとてもだいじをものです。
第三に、「畳と夕方の温度差」と「夏と冬の温度差」という別のものを関連づけて考えさせることによって、科学的な思考に欠かせない「類推」という技術をしぜんに体験させているということです。
べつに「類推」などという言葉を教える必要なまったくないのですが、こうした体験を繰り返すことで、子どもはやがて、そういう考え方もあるということを知り、しだいに自分でも使えるようになっていきます。
どんな質問に対しても、こううまくいくとはかぎりません。
ときには、答えをそのまま与えるしかないような質問もあります。
ただ、なるべく答えでなく考え方を教えてあげられるよう、いろいろ工夫をしてみてください。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
規則正しい生活をしていると、しせんに算数の勉強にもなる
算数の学習の中で、「時間と時刻」の単元は、子どもがつまずきやすいポイントの一つです。
「三時」と「三時間」の区別はもちろん、六十進法、十二進法などが入りまじった単位のシステム、それが一つにまとめられている時計の文字盤の見方など、たしかに子どもにはややこしい問題です。
ところが、教えるまえからこうしたことをほとんど身につけてしまっている子どもがいるのです。
そういう子どもの家庭を調べてみると、たいていは規則正しい生活習慣を身につけさせている場合か多いようてす。
朝は七時に起きる。
朝食は七時三十分。
お父さんは八時に家を出て、自分は八時十五分に学校に出かける。
家に帰ったら三十分勉強をして、それから遊びに行く。
夕食は六時半だから、外で遊んでいても六時までには家に帰る。
渡るのは十時。
こんなぐあいに、毎日のタイムテーブルが決まっていて、親もそれを意識させている家庭の子どもは、しぜんに時間や時刻の感覚が身につきます。
もちろん、時間に縛られて行動しろというのではありません。
ただ、基本的な時間が決まっていて、それが守られていれば、「きょうはいつもより30分遅くなったわね」というような会話もできますし、子どももそれを意識することができるのです。
規則正しい生活をしている子どもは、計画性も身につきます。
夏休みの計画表などをつくらせても、こういう子どもは一日の予定表をきちんとつくってきて、「もしいなかに出かけた場合は、そこで勉強をする」などということまでちゃんと考えています。
それに対して、いつも規則正しい生活をしていない子どもは、ひじょうにおおざっぱな、計画とも言えない計画を立ててきたり、とても実行できそうもない計画表を書いてきたりします。
サラリーマンの家庭なら、家族ぐるみで規則正しい生活を送りやすいけれども、自営業の家庭などでは難しいといった事情の違いはあるかもしれません。
ですから、その家庭ごとの約束ごとで構わないと思います。
子どもには、なるべく規則正しい生活をさせてあげてください。
また、「もうちょっと待ってね」と言う代わりに「あと15分待ってね」、「もう遅いから瀬なさい」という代わりに「もう9時半だから寝なさい」というような具合に、時間や時刻を表す言葉を日常会話の中に意識的にとり入れるのも、子どもに時間を意識させるうえで効果的です。
また、「時計のこの長い針がここまできたら三時だから、おやつはそれまで待ちなさいね」というように、時計に注目を向けさせるのもいいでしょう。
それだけで、子どもの時間に対する感覚は大きく変わってきます。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
子供の国語力を上げる方法
辞書は五年ごとに買い換えるくらいのつもりでいたほうがいい
小学生が使う辞書というと、国語辞典と漢和(漢字)辞典になります。
こうした辞典を上手に活用できる子どもは、確実に国語力が伸びます。
ところが、お母さん方はあまり国語辞典や漢和辞典をひいた経験がないのではないでしょうか。
たしかにふだんの生活の中で、意味を調べなければならない言葉にぶつかることはめったにありません。
せいぜい手紙を書くときなどに、記憶があやふやな漢字を確かめるくらいでしょう。
それで、辞書というと、どうしても中学・高校・大学とお世話になった英和辞典のイメージのほうが強くなってしまいます。
国語辞典と漢和辞典は、根本的にまったく性格の違うものです。
たとえば、「societyの意味は?」と聞かれれば「社会」と簡単に答えられるかもしれませんが、「では、社会の意味は?と聞かれたら説明にとても苦労するはずです。
前半が英和辞典の役目、後半が国語辞典の役目です。
高校生が大人用の辞書を使ってもあまり問題はありません。
でも、それと同じ感覚で小学生の子どもに大人用の国語辞典を買い与えると失敗します。
まちがって小学生に中・高生向けや大人用の国語辞典などを買い与えた場合、一つの言葉の意味を調べても、その説明の意味がまたわからず、あちこち調べて結局何が何だかわからなくなってしまうのが落ちです。
小学生用の国語辞典では、意味の説明がすべて小学生にもわかる言葉だけを使って書かれています。
これは漢和辞典も同様で、やはり意味の説明がわかりやすいだけでなく、大人用の漢和辞典にはない筆順や漢字の成り立ちなどの説明もついています。
そして、辞書は、かならず新しいものを一冊買ってあげてください。
とくに小学生用の辞書は、学校のカリキュラムの変化に応じて改訂されますし、ひきやすさや説明の内容などもつぎつぎと新しい工夫が盛り込まれています。
兄や姉のものが残っていたりすると、ついもったいないという気になりますが、ひき比べさせて、一つの言葉についてもいろいろな説明のしかたがあることに気づかせるのも、またいい勉強になりますから、新しいものをそろえてください。
また、小学生用の辞書は、絵や図なども使っておもしろく工夫されています。
説明や例文は、読むだけでとても勉強になりますし、大人が読んでも、なるほどそうだったのかとあらためて納得させられることが少なくありません。
ですから、日常の会話の中でも「あれ、○○ってどういう意味だっけ。あなたの辞書でちょっと調べてみてよ」というように、辞書に親しむきっかけをつくってあげられれば理想的です。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
お母さんが子どものいいところを認めてあげるだけで子どもは勉強好きになってくる
わが子を愛さない親はいませんが、その愛情のせいで、子どもを見ていると、かえって欠点ばかり見えてしまうということがあります。
それでつい、子どもにかける言葉は、ほめ言葉よりも小言が多くなってしまうのです。
子どもは、親に認めてもらうことで自信がつきます。
反対に、親に認められないととても不安になります。
親から小言ばかり聞いていると、しだいに自信も失われていきます。
「もちろん、子どものいいところは認めています」と言うかもしれませんが、それを子どもにわかるように伝えてあげないと、何にもなりません。
子どもが、自分が認められていることを感じるのは、まずほめられたときであることは言うまでもありません。
また、感謝されたときにも子どもは自分が認められていると感じます。
子どもが何かしてくれたら、どんな小さなことでも、かならず「ありがとう」と、お礼を言うようにしてください。
家族どうしだと、かえって照れ臭いということもありますが、言葉に出さなければ子どもには伝わりません。
子どもに、「自分は必要とされている」「自分の居場所がある」と感じさせることもたいせつです。
そのためには、手伝いなどもどんどんさせ、家の中での役割をもたせることです。
「あなたがいてくれて助かるわ」というような言葉をかけてあげると、子どもは自分が必要とされていることを実感します。
親に認められている子どもは、自分でも自分を認めることができます。
これが自信です。
そして、自信は子どものエネルギーのもとです。
こういう子どもは、学校でもうまくいきます。
クラス内での仕事なども積極的に引き受け、友だちからもしぜんに認められるようになります。
家の中での自分の役割を意識していますから、責任感も強いのです。
また、自分を認めているので、他人のことも認めることができ、思いやりがあります。
自信があるということは、向上心をもつことにもつながります。
ですから、自信のある子どもは、勉強を好きになることはまちがいありません。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
子どもの発想を豊かにする「創造力」は、「わかる」ことから生まれる
「ソウゾウリョク」と言った場合、「創造力」と「想像力」という二つの漢字が当てられます。
この二つは、「新しいものをつくり出す力」と「そこにはないものを思い浮かべる力」ですから、意味は違いますが、根っこのところで深く結びついていることはまちがいありません。
ですから、「創造力」のベースには「想像力」が不可欠だ、という言い方もできます。
「創造」というと、どうしても音楽や絵画、小説などの芸術分野や発明といったものを思い浮かべてしまいますが、べつにそういうものにかぎったものではありません。
新しい料理を考えたり、部屋の飾りつけを考えたり、部屋の飾りつけを考えたりという、日常生活を豊かで楽しいものにしてくれるさまざまな工夫や発想は、すべて「創造力」の賜物です。
大人は、あまりにいろなことを知りすぎているために、かえって自由な発想が妨げられるということがあります。
その点、子どもは知識が少ない分、大人をあっと驚かせるような奇抜な発想をします。
子どもの絵や詩などには、そうした発想が溢れていて思わずうなってしまう、という経験をよくしますが、べつに絵や詩をかかせるまでもなく、ふだん話している言葉の中にも、子どもならではの発想はポンポン飛び出します。
こうした発想を生み出すのは、子どもの「創造力」です。
では、子どもの「創造力」を伸ばすには、どうしたらいいのでしょうか。
さきほども述べたとおり、「創造力」というのは芸術分野にかぎられるものではありません。
ですから、創造力を伸ばすといっても、べつに絵や音楽を習わせなければならないわけではないのです。
ふだんの勉強の中でも、発想のもとになる創造力は、十分伸ばしていくことができます。
ただし創造力は、「できる」ことからは生まれません。
たとえば、繰り上がりのしくみを覚え、繰り上がりのたし算を何度も練習しても、ここには何の工夫も必要ありません。
練習を重ねて正確に計算が「できる」ようになっても、それだけでは、創造力が伸びる余地は、まったくないのです。
ところが、「わかる」となるとそうはいきません。
繰り上がりのしくみ一つをとってみても、なぜそうなるのかを理解することは、けっしてやさしくありません。
学校の先生はそれを理解させるために、あれこれ手をつくして説明するわけですが、それに乏しい知識をもって立ち向かう子どもたちはたいへんです。
子どもにとって、知識や経験の乏しさを補うものは想像力しかありませんから、頭の中では想像力を駆使してあれこれ工夫し、理解しょうとつとめるでしょう。
その過程で、「想像力」はより豊かになります。
それが「創造力」につながることは、最初に述べたとおりです。
自分の頭であれこれ工夫した結果、「そうか、わかった」という経験をした子どもは、無意識のうちに想像力のたいせつさも実感することになります。
そして、いろいろなものに対して、自分なりの工夫をしてみようという意欲ももつでしょう。
反対に、途中であきらめてしまった子どもは、あれこれ自分で考えるより、結論だけを覚えていったほうが楽だ、というふうに考えてしまう恐れがあります。
そういう子どもにとっては、想像力も無用の長物でしかありません。
自分では何も考えずに、誰かにやり方を教えてもらうことばかり考える「要領だけはいい子」に育ってしまうかもしれません。
カテゴリー:子供がつぶれない為の勉強法、学習法
教科書はやさしくなっているのに、受験は難しくなっている
いちばん誤解されていると思うことは、教科書は年々難しくなっていると信じられていることです。
一般の学校の先生方や大学の教育学部の先生の中にも、そう考えている方がひじょうに多いのが現実です。
つまり、文部省のカリキュラムが過密になり、教科書の内容が盛りだくさんで難しくなってきたために、登校拒否や落ちこぼれなどの問題が起きてくるのだというのです。
しかし、実際に調べてみるとつぎのような事実がわかります。
30年まえの小学校の算数や中学校の英語の教科書を現在のものと比べてみると、英語は文法で勉強する量が3分の2ぐらい、数学に関しても2割以上減っているのです。
算数も学習項目が2割ほど減っています。
それから、難問といわれるもの、考えさせる問題、パズル的な問題などは、いまの教科書にはほとんどありません。
算数でいえば、むかしはつるかめ算、流水算、和差算などのような問題がかならずありましたが、いまではほとんど出ていません。
教科書が難しくなってきたから進学競争や受験競争がより激化してきたという人も多いのですが、それは逆だと私は考えています。
教科書がやさしくなってきたから、進学塾がふえてきたといっても過言ではありません。
なぜならば、中学入試問題は30年まえに比べてひじょうに難しくなっていますが、教科書はやさしくなっています。
そのギャップを埋めるためには、20〜30年まえでしたら、ちょっと家庭教師をつけて自分で受験参考書を買って勉強すれば、そこそこの学校に合格できました。
ところがいまは教科書はやさしくなっているのに入試問題は難しく、ギャップが大きすぎて、自学自習ではそれを埋めることはほとんど無理になってしまったのです。
その結果、家庭学習のやり方も変わらざるをえなくなって、今日のような進学塾の進出を促し、受験競争が激化したと言えるのです。
高校入試問題に関しては、難易度はむかしとほとんど変わりません。
教科書がやさしくなっていますが、そのギャップの広がり方は中学受験ほどではありません。
中学受験のフィーバーの原因は、教科書(授業内容)と入試問題のギャップが広がりすぎたところへ進学塾がはいり込んだからだと考えられますから、入試問題にそれほど変化のない高校受験の場合、中学受験ほど過熱してはいないのです。
いくらか変化があるのは、早稲田、慶応、開成、桐朋などの上位校です。
これらの学校の入試問題は明らかに難しくなっています。
これらの学校を受験する場合は、入試問題と教科書の内容ではギャップがかなり広がっていますから、ギャップを埋めるために進学塾に通って勉強する必要があります。
こんなところに、高校受験で進学塾がふえてきた一つの要素があると思います。
以上のように、進学塾がふえたのは、教科書が難しくなったからではなくて、やさしくなったからだというのが私の考えです。
このことを、逆にとらえる人がひじょうに多いのが現実です。
では、逆にとらえるとどのような弊害が起こるのでしょうか。
「教科書が難しくなってきた、だから子どもたちにいろいろな問題が起きてきた」とすると、登校拒否や落ちこぼれ、いじめの問題がなぜ起こるのか説明できません。
教科書がやさしくなっているのに、こうした問題が起きているということは、カリキュラムに原因を求めることができないからです。
ですから、お子さんが何か問題に巻き込まれたり、何か問題を抱えている場合、それを学校や受験競争のせいにするのではなく、家庭でもしっかりと考える必要があるのです。
もちろん、心理学、社会学、経済学などいろいろな分野の先生方がいっしょになって真剣に考える必要があることは言うまでもありません。
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子どもが「本物の学力」を身につけているかどうかは、作文を書かせてみればわかる
作文指導は技術的にたいへん難しく、とくに力を入れている先生でないかぎり、学校の国語の授業の中で子どもが作文を書かされる機会はあまりありません。
しかし、子どもの考える力をみるうえでも、またそれを伸ばすうえでも、作文を書かせるのはたいへんよい方法です。
小学校の高学年になると、作文の好きな子どもと嫌いな子どもに、はっきり分かれるようです。
そのもっとも大きな要因は、やはり本をよく読んでいるかいないかですが、低学年のうちから文章を書くことに慣れているかいないかによっても変わってきます。
そこで、ぜひお母さんが、家で作文を書かせてみてください。
いやがらせないコツは、まずあまり長いものを書かせないこと。
原稿用紙は一枚400字ですが、悪のうちは半分の200字程度が適当でしょう。
もちろん、長く書きたがったら自由に書かせてください。
テーマ(題)は何でもかまいませんが、子どもがいつも接しているもの、最近の印象的な出来事などから、はじめるのがいいでしょう。
「同じ題で、お母さんも書いてみようかな」という感じでいっしょに書いて、あとで朗読しあったり、子どもの作文に返事を書いてあげたりというような方法もいいと思います。
文章の流れがきちんと整っていて、全体として言いたいことが伝わってくるようなら、心配はいりません。
「本物の学力」が身についていると考えていいでしょう。
このとき、誤字・脱字やこまかい「てにをは」のまちがい、文章のうまい・へたで判断してはいけません。
それはまた別に指導する必要がありますが、とりあえず内容だけに注目します。
考える力のついていない子どもの作文は、話が途中でとんでまた戻ったり、途中で別の話に変わってしまっていたりします。
同じことについて、最初は「楽しかった」と書いているのに、終わりでは「つまらなかった」と書いていたりもします。
書きはじめるまえに、何をどう書くかを、頭の中でまとめることができていないからです。
こういう場合、中学年以上でしたら、まずメモをつくらせて構成を考えさせるという方法が効果的ですが、低学年のうちは難しいでしょう。
テーマを決めたらまず、それについてしばらく話し合って、それから書かせるというのも一つの方法です。
まず書かせてみて、それを読みながら、「これはどういこと〜?」「どういうところがおもしろくて、どういうところがつまらなかったの〜?」などといろいろ質問をし、頭の中で整理させて、もう一度書かせてみてもいいと思います。
なかには、たとえば「電車で○○駅まで行って、それから歩いて動物園に行きました。
最初に猿を見て、つぎに象を見ました。
それからおべんとうを食べました……」というように、事実だけを羅列した文章を書く子どももいます。
こういう子どもは、感情表現が苦手だということですから要注意です。
こういう場合も、やはり質問をしながら、じっくり引き出してあげるのがいいでしょう。
「象さんどうだった?」「大きかった?」「どんなことしてた?」
「子どもの象さんがいて、かわいかった」「そうなの。お母さんも見たかったな。そういうことを書いてくれたら、もっとおもしろかったのに」
こういう会話の中で、子どもの気持ちをしだいに引き出すようにしてそうすれば、すらすら書けるようになるでしょう。
お母さんは、ついうまい文章を書かせようと、あれこれ教えてしまいがちです。
「ここはこう書いたほうがいいわよ」とか、ときには「ここはこうだったんじゃないの?」などと、書くべきことを勝手に決めてしまったりもしますが、これは逆効果です。
これでは、子どもの書こうという意欲をそいでしまいます。
子どもに書きたいことを書かせ、お母さんはそれを引き出すことに徹する。
そのことに、くれぐれも注意してください。
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友だちといっしょに遊ぶことで、子どもの頭の回転は速くなる
子どもにとっての勉強は、机に向かっているときだけではありません。
とくに子どもは、遊びの中からさまざまなものを吸収します。
ファミコンの登場以来、子どもの遊びもずいぶんおもむきが変わってしまいましたが、それでも屋外で何人かの子どもたちが遊んでいるのを見かけると、やはりむかしと変わらず、子どもは遊びの天才なのだということに気づかされます。
子どもたちは、「そのときその場にあるもの」を何でも利用します。
たまたま落ちていた板切れは、野球のベースにも、戦争ごっこの安全地帯にもなります。
昨日あったものがなくなっていても、めげません。
すぐ代用品を見つけてきます。
遊びのルールも変幻自在です。
人数がふえれば変わり、一人帰ればまた変わります。
場所の広さや、道具のあるなし、そうした違いでもルールを微妙につくりかえます。
こういう工夫は、遊びの中だからこそできるのです。
すこしでも早く遊びたい、すこしでも楽しく遊びたいと思うからこそ、子どもたちの頭はフル回転します。
こうした、頭の体操は、勉強にも通じるものであることは言うまでもありません。
子どもは、一人で遊んでいるときも、いろいろと工夫をします。
しかし、やはり友だちと遊んでいるときの工夫にはかないません。
人数がふえればそれだけ状況は複雑になりますから、より多くの工夫が必要ですし、一人ならあきらめてしまうことでも、何人かいれば何とかしようということになるからです。
友だちと遊ぶことによって得られるものは、頭の回転の速さだけではありません。
小さな子や女の子がまじっていれば、ハンディキャップをつけてやる。
早く帰る子がいれば、それまでに終わるようにルールを変える。
遊びを楽しくするためのそうした工夫をとおして、みんなが楽しむためには仲間への思いやりが必要だということを実感するのです。
また、誰かがルールを破れば遊びが台なしになりますから、ルールを守ること、公平であることのたいせつさも実感します。
チームワークを必要とする遊びなら、責任感も身についていきます。
これらはすべて、社会生活を送るうえで必要不可欠なものです。
最近は、友だちと遊ぶといっても、ソフトを持ち寄ってファミコンをやるということが多いようです。
みんながやっていることは、一通りやらせてあげたほうがいいのですが、ときには外に追い出すくらいのつもりで、ほかの遊びもさせたいものです。
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お母さんの手伝いをよくする子どもは、ものごとを順序だてて考えられる子になる
お母さん方が家事をこなす様子を見ていると、いつも感心させられます。
たとえば炊事をあげることができます。
かぎられたスペース、かぎられた数のコンロを使って、何種類もの料理を作り、そのどれもが、食卓に並んだとき冷めないように、絶妙のタイミングで仕上がります。
掃除にしても洗濯にしても、時間のムダが出ないよう、じつによく考えられた手順でこなされていきます。
家事は、創意工夫の宝庫と言えるでしょう。
お母さんのお手伝いをよくする子どもは、こうした工夫をしぜんに身につけていきます。
たとえば、おっかいによく行かされる子どもがいるとします。
何度か行くうちに、回る店の順番を工夫するようになります。
そして、「歩く距離だけを考えるとスーパーのあとに八百屋さんに行ったほうが早いけど、スーパーでの買い物が多いから八百屋さんに先に行ったほうが楽だ」というように、いろいろな条件をあわせて考えることもできるようになっていきます。
掃除でもそうです。
テーブルと床を掃除するとき、せっかく床を掃除したのに、テーブルからゴミが落ちて二度手間になった、という体験をすると、「今度は先にテーブルを掃除したほうが楽だ」というように考えるでしょう。
こうした経験を積み重ねると、「順序」ということのたいせつさを理解していきます。
同じことをするにも、順序を変えるだけで楽にもたいへんにもなる。
そして、よく考えれば、実際にやってみなくても楽な方法を見つけることができる。
こういうことがわかっていくのです。
なにより重要なのは、子どもがそれを、体験をとおして知ることができるということです。
お母さんのアドバイスがあったにせよ、かならず子どもは感覚的に確かめることができます。
たとえば、「ぞうきんがけは、汚れの少ないところを先に」と教えられて、あとで実際にぞうきんを見れば、たしかにこのぞうきんで棚を拭いたら、かえって汚れてしまいそうだ、ということを実感できるはずです。
順序だててものごとを考えるという発想は、高学年以降の算数ではとてもたいせつなことの一つです。
しかし、口による説明だけでは、実際の使い方もありがたみも、なかなか理解させることができません。
子どもが体験を通して身につけていれば、こんなにすばらしいことはありません。
もちろん、この発想がほんとうに役に立つのは、社会に出てからです。
同じことをやってもどうも人より時間がかかり、「要領の悪いやつ」「グズなやつ」と呼ばれてしまうような人は、子どものころにあまり親の手伝いをしなかったのかもしれません。
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いま求められる「資格試験制度」を考えてみる
偏差値をほんとうになくすためには、資格試験制度の導入が必要だと思います。
高校受験でしたら、数学はこのライン、英語はこのラインと決めておきます。
たとえば数学だったらABCの三つのランクを決めればいいのではないでしょうか。
こうして九科目を決めておいて、ある高校はAがいくつでBがいくつ、Cがいくつなら合格と表示して、そういう子を希望するのです。
そういう子が集まって、全員入学ではありませんが、試験なしで合格できるような形がいいのではないでしょうか。
全員入学の制度は、私はある意味で賛成できません。
実際に現場で子どもを教えていて、いま全員入学すると、高校の現場が困るということがわかるからです。
中学三年生でも、成績が下から一、二割の子どもの中には、小数、分数の計算ができない子がかなりいます。
そういう子が、いまの高校の教育制度のままで全員入学したら、子どもたち自身がかわいそうです。
ですから、いろいろと学科をふやして、高校卒業の資格が取れるような高校制度にすれば問題ないと思います。
大学ですと、フランスのバカロレアが資格制度ですし、ドイツの場合も資格制度を取り入れています。
資格試験でAをいくつ取っているか、Bをいくつ取っているか、その結果、大学一年生が定員の倍になっても入学させていいのではないかと思います。
学生があふれたらどうするのかと言われるかもしれませんが、進級のときに厳しくすればいいのです。
はいったときが1000人、二年生のときが800人、三年生のときが600人、四年生のときが400人というように、トータル的に人数を考えるのです。
いまの大学は、担当教授の本を読んでいなくても、授業に出席しなくても、進級できる制度ですが、もうすこし厳しくしてもいいのではないかと思います。
さらに、資格制度になれば、隣の子と自分の子を比べる必要がありません。
自分は自分、これだけ勉強すればこれだけの資格が取れるのだということになれば、他人を意識することも少なくなると思います。
そして、黄初に戻りますが、子育てが競争になるということが、まずなくなるに違いありません。
子育てが競争になるのは、隣の子に比べてうちの子はどのくらいできるか、ということを知りたがるからです。
しかし、競争入試がなくなれば、比較する必要もなくなるわけです。
やるべきことをきちんとやるということは、小さいときからのきちんとしたしつけがだいじです。
そうすると、小さいときからしっかりとしつけられて、学習する習慣を身につければ大丈夫というように、本来あるべき学習環境が家庭に戻ってくるでしょう。
また、競争意識をむきだしにして、たとえば中学受験で、隣の子がどこそこの学校に受かって、どうしてうちの子がこうなのだろうというような気持ちにもならないと思います。
ほんとうの意味を知っていれば「偏差値」はこわくない
偏差値=入試の諸悪の根源だと思っている人はけっこういます。
でも、偏差値というのは、全体の中で自分はどこに位置するかということを示す数字で、競争入試があるかぎりそれを利用するのはやむをえないことだと思います。
ただ、それによって子どもをランクづけるとか、偏差値によって高校をランクづけるとかということは避けなければなりません。
偏差値でなくても、ランクづけは絶対評価でもできます。
たとえば東京でいうと、桐朋学園という進学校がありますが、桐朋に合格する子はいつも学校の成績が95点以上だったとします。
すると、桐朋という学校は、95点以上必要なのかという評価になるわけです。
このようにテストの点数でもランクづけができるわけですから、偏差値だけを悪者にするのはおかしいことです。
偏差値やテストで序列化して、輪切りにするということがおかしいのです。
たとえば高校の評価の序列の場合、いまは偏差値で輪切りにされているかもしれませんが、偏差値ではなくて、教育の内容で競争するという考え方が出てきてもよいのではないでしょうか。
そういうかたちで学校が競争しようと思えばいくらでもできるわけです。
偏差値は平均が50で、最高が75、最低が25となっているのがふつうです。
あくまで、全体の中でどれだけできたかできないかを表す数字なので、その人の絶対的な能力を示しているものではありません。
ですから、偏差値にこだわると、子どものほんとうの実力さえ見失いかねません。
ちゃんと勉強していけば、誰でも本物の学力が身につきますから、相対評価の偏差値を気にしすぎないようにしましょう。
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生活体験と知識を結びつけることが、勉強好きな子を育てる
有名私立中学に合格するような子どもたちは、みんながみんな、四年生ぐらいから進学塾に通い、寝る間も惜しんで勉強してようやく合格するというわけではありません。
なかには、六年になってから受験でもしてみようかなどと言いはじめ、たいして勉強もしていないのにスッと合格してしまう子どももいます。
はたから見ればうらやましいかぎりですが、そういう子どもは、やはり頭がよくて知能が高いのでしょうか。
しかし、こういう子どもたちは「勉強していないように見える」だけで、ほんとうは人一倍勉強しているのです。
といっても、ほかの受験生たちのように、何時間も机にかじりついているわけではありません。
日々の生活体験そのものが、その子にとっては勉強なのです。
頭脳が違うとしたら、生活体験と学習した知識を結びつけて考える能力、ということになるでしょう。
たとえば、学校で歴史の勉強をすると、そういう子どもは教科書にも参考書にも載っていないような人名まで、たくさん知っています。
でもそれは、たまたまこのあいだ見たテレビドラマが、その時代の話だっただけのことです。
割合の計算も苦もなくこなしてしまいますが、それは新聞の折り込みチラシとバーゲンセールのおかげです。
速さの問題も簡単に解いてしまいますが、乗り物が好きで、速い乗り物にあこがれているせいです。
たしかに記憶力がいいということは言えるかもしれませんが、それもどちらかといえば、自分の頭の中でいろいろな知識を結びつける「隠れた能力」のおかげのようです。
ですから、このような子どもにとっては、勉強は楽しくてたまりません。
興味が興味を呼び、どんなものを見ても目を輝かせます。
ただ知識と経験を結びつけるだけの能力ですから、ここでは「隠れた能力」と呼んでおきますが、この能力は特殊なものではありません。
ただし、子どものうちからこの能力が使えるようになるには、やはり訓練が必要で、それができるのほお母さんしかいません。
といっても、幼児英オ教育のような、特別の訓練方法があるわけではありません。
このサイトで述べてきたことを、きちんと実行すればいいのです。
とくに、日常生活での子どもに対する接し方と、生活体験をたいせつにする意識はつねにもち続けてください。
ちゃんと実行したからといって、私立中学に合格できるような学力を簡単に得られるというわけではありません。
でも、勉強嫌いにならずに、中学、高校と進んでも落ちこぼれることなく、社会に出てもりっぱに通用する知恵をもった人間に育っていくことは、まずまちがいありません。
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子どもたちをとりまく受験環境
いまの競争入試の制度があるかぎり、受験生やその親としては、自分の成績の位置が気になるのは当然です。
300人が定員という中学校を受験する場合、80点以上の子が自分以外に300人いれば、80点取っても合格できません。
つまり、受験においては絶対評価は信用できないということです。
しかし、小学校の評価は絶対評価なので、母親の多くが小学校の評価を信用しなくなっているようです。
偏差値がなくならないのは、このよう競争入試のため、ほかの子どもに比べて自分の子の位置がわからないと合格できないということが理由の一つにあげられます。
もう一つは、子育てが競争になりつつあることです。
いまと比べると、20年から30年まえには、中学受験に熱心なお母さん方は少数でした。
ここまで競争意識が蔓延してきたというのは、高校受験の入試が激化したからだとは考えられません。
というのは、高校受験に関しては、受け皿が30年まえに比べて統計的にすごくふえているからです。
また、進学率も96パーセント前後になりましたが、進学を希望している子はせいぜい97〜98パーセントいればいいというのが私の考えです。
そうすると、98割る96で単純に全国を平均した場合の競争率が出てくるわけで、1.02倍前後です。
つまり、競争率は激しいとは言えません。
30年まえの高校受験のときは、進学率はいまより低かったわけですが、絶対的な人数が多かったので、高校に行きたくても行けなかった子が10万人以上いました。
そのような時代が何年か続いたことと比べたら、いまは、高校受験に関してはひじょうに恵まれていると思います。
単純計算しても1.02倍なので、国の政策によって入学者の頭が押えられているという人もいますが、私は当てはまらないと思います。
都立高校の場合、客観的な状況から見ても、競争率は下がっているので、競争は激化していないと言えるはずです。
ところが、なぜだか受験競争は年々激化しているように見えるのです。
それは、さきほど述べましたが、子育てが競争になってきていることと、わが子を隣の子よりも一ランクでも上の高校に行かせたいという意識がひじょうに強くなっているからと思われます。
つまり、競争率は下がっていますが、競争意識はそれぞれの家庭で高まってきているということになります。
その理由としてはいろいろ考えられますが、一つは、男女に関係なく、管理社会が発達するにつれて、人々が孤独になってきていることがあげられます。
たとえば、昔は子育ては共同でやったものでした。
「うちの子、よその子」というのではなく、村全体で、または隣近所の町内会や子ども会で子育てをする、という意識がありました。
それが、管理社会が発達し、分業化が進むにつれて、子育てまでが各家庭でばらばらになってしまったのです。
子育てが各家庭ごとにばらばらになった、つまり核家族という単位で子育てをすることになった結果、子育てが競争になってきたのではないでしょうか。
塾に行くにしても、大手の進学塾に通うことが一種のステータスだと考えたり、中学受験をさせることで、あそこの子はすごいと思わせるなどといったこともそうです。
つまり、子育てが競争になってきたために、実質的には激しくないにもかかわらず、意識のうえで、受験戦争が高まっていると考えられてしまうのです。
この高校受験に関する状況は、中学受験の場合とはだいぶ違います。
中学受験の場合は、意識も高まっていますし、実質倍率が高くなっています。
20〜30年まえに比べて、かなり倍率が高くなり、受験者数もふえているという事実からみても、中学受験が激化しているというのは明らかです。
ですから、中学受験と高校受験とは分けて考えなければなりません。
また大学受験に関しても、第二次ベビーブームの受験生はそろそろ終わりになりますから、これからは高校受験と同じで、受け皿はだんだん広くなってくると思います。
ただし、競争意識というのはなくてはなりませんので、銘柄大学に行きたいという意識は、より強くなることでしょう。
高校受験においてもその傾向は強まっています。
首都圏の場合、ある程度の都立高校、公立高校に行けるのに、もっとランクが上の私立に行きたいという受験生がふえているようです。
ですから、偏差値65以上の私立高校に関しては、むかしに比べて競争は激化していると言えるでしょう。
名まえを出せば、早稲田系統や慶応系統の付属です。
さらに、中大、成城、学習院、青山学院などの大学付属校が軒並み20年、30年まえに比べて難しくなっています。
これらを考えると、一部で激化しているということは確かです。
マスコミは、こうした点だけに注目しがちですが、このことだけで、高校受験は30年まえに比べてたいへんなのだというように解釈されては困ります。
教育関係の方でも、年年受験競争は激化しているという説をとっている人がけっこういらっしゃるようですが、一般のお父さんお母さん方も、自分たち団塊の世代が受験したときのたいへんさを忘れてしまっているのです。
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なぜ落ちこぼれるのか?増えている自学自習できない子どもたち
落ちこぼれる子どもたちがふえてきた背景に、根本的な問題として、自学自習できる子がひじょうに少なくなってきたことが考えられます。
その理由について、ここでは家庭と学校に分けてすこし考えてみることにします。
地域や家庭の教育力の低下
自学自習できる子が減少してきている理由として、家庭や地域での教育力の低下をあげることができます。
核家族がふえてきた現在では、どうしても親が過保護か、または無関心かの両極端になってしまう傾向があるのです。
塾でも過保護の子どもがふえてきています。
過保護にしつけられた子どもたちは自学自習がまずできません。
そして学力も低い傾向があります。
これは完全に家庭の教育力の低下の一つです。
また、親自身が孤独になってきていることも、地域や家庭の教育力低下の一つの遠因になっています。
一つの組織である共同体(地域社会)の中で、いわゆるアイデンティティーが欠如している、つまり自分の存在を確認できるところがないわけです。
すると、子育ても孤立化し、子育てを他人の子どもとの競争ととらえるようになってしまうというのは、まえに述べたとおりです。
加えて、子どもをどのように育てたらよいのかわからないという親もふえています。
そこから、過保護になるか放任主義になるかのどちらかに分かれるのです。
塾やスイミング、剣道、そろばんなど、さまざまなおけいこごとがありますが、そういうところに通わせておけばいい、という親もけっこういます。
これは、見方によれば教育熱心にもとれますが、放任主義と同じだといってよいと思います。
そういうお子さんは、目が死んでいます。
月並みな言葉ですが、親の愛情が欠けているのです。
自分の子どもでありながら、あまり一生懸命育てたくないという親もふえています。
しかし、むかしに比べればお金はあるので、スイミングや体操などのクラブに入れて、本来自分が教育しなければいけないことまで放棄してしまう、または逆にずっとつきっきりになってしまうというようになります。
つまり、過保護も放任主義も根っこは同じなのです。
これは、産業社会が発達すればするほど、人間がそういう傾向になるというのは、避けられないことなのかもしれません。
人間が社会の中にはいる、組織の中にはいってその一員になるということは、連帯感が芽生えるきっかけではありますが、同時に孤独感に陥るきっかけとなる可能性もあります。
産業が発達して分業化が進めば進むほど、人間どうしのつながりも細分化されていくのだとも言えます。
ですから、これからの子育ては、こうしたことを前提にして行なう必要があります。
たとえば、よく「親の背中を見て、子どもは育つ」と言われますが、これはもう、ひとむかしまえの話だと思います。
そのころの親というのは、家で働いている人が多かったので、両親の働いている姿を見て子どもは育っていったわけです。
ところがいまは、お父さんは会社に行って、家でその働く姿を見る機会はありません。
ですから作文を書かせると、
「お父さんは土曜日、日曜日は家にいるけれども、ごろごろしてテレビを見ている。
ほんとうはお父さんに遊んでもらいたいんだ」
などと書く子がいるわけです。
また、
「お父さんはいつも11時頃に帰ってくる。
だから夕飯をいっしょに食べられないんだ。
朝はぼくがご飯を食べるときには、お父さんはもういない」
そういう家庭も多いようです。
つまり、親の背中を見て、親の働く姿を見て育つ子はひじょうに少なくなってきているのが現実です。
人間が孤立化している時代だからこそ、これからの子育ては、このことをより意識した教育をしていかなければなりません。
地域の人たちが連帯意識をもって地域で子育てをする、子育ては隣の子との競争ではないのだ、という方向に社会全体をもっていかなければ、子どもたちが落ちこぼれていくという問題の解決は難しいと思います。
多くの方の意見のように、教科書が難しくなってきたから、落ちこぼれなどの教育問題が起きたと論を進めてしまうと、このような本質的なものを見逃してしまう可能性がひじょうに強いので気をつけなくてはなりません。
過度の期待をもたれる学校
子どもたちが落ちこぼれていく理由の一つとして、よく学校の教育力の低下をあげる方がいます。
しかし、私自身は学校の教育力については、あまり変わっていないと考えています。
その理由として、三つあげることができます。
第一に、一クラス当たりの人数が減ってきていることがあげられます。
むかしは50人いたのが、いまは40人を切っているのです。
むかしより先生の目が届くことになりますから、教育環境はよくなっていると言えます。
また第二に、先生一人当たりの生徒数も、小学校・中学校とも30年まえに比べて少なくなっています。
また、環境や教育設備もよくなっています。
そして第三に、学校の先生の質に関しては、マニュアル化されている若い人が多いといわれていますが、全体から見るとがんばっている先生もいらっしゃいますので、むかしと大きな変化はないと思います。
それなのになぜ学校教育の質が落ちてきたように思えるかというと、期待が大きすぎるのではないでしょうか。
家庭や地域の教育力が低下していれば、子どものしつけや非行の問題に関しても、すべて学校で対処してもらえないかという気持ちが強くなります。
しかし、いまの学校制度では、すべてに対処するのは無理なのです。
というのは、学校の制度というのは、第二次大戦が終了して三年後ぐらいに日本の教育制度が変わったあと、40年近く基本的に変わっていないからです。
ですから、しつけの面や地域の教育力低下、家庭の教育力を補填するような機能になっていないのです。
そのような、教育制度自体が世の中の動きからちょっとずれているという意味でもあります。
高校の教科を選択制にするとか、総合学科をつくるとか、いろいろな試みがありますが、いまちょうどゆれている時期だと言えるでしょう。
ゆれているというのは、地域の教育力を補填することができない、補填するには学校以外で開拓しなければならないときだということです。
また、繰り返し述べてきたように、教育の土台である家族の形が変わってきているのに、上にのっている学校の教育制度が変わっていないので、どうしてもずれが生じてしまい、学校はだめだという批判になってくるのだと思います。
いろいろ調べてみても、30年まえと比べて学校自体が悪くなっているという部分はほとんどありません。
あまりにも学校だけに期待しすぎているのです。
勉強は教えなくてはならない、子どもたちにわかるような言葉で、しつけも含めて教えなくてはならない、だから、たいへんなことなのです。
進学塾では、たとえば平行四辺形の面積の出し方などは、底辺×高さの公式さえ教えればいいわけです。
ところが学校の先生は、なぜ底辺×高さになるのか、それを長方形の形とかいろいろな形にして教えます。
円の面積の出し方にしても、30分、1時間かけて公式を教えるわけです。
どうしてそうなるのかということもやらなければなりません。
また、学校の先生は、しつけまですることを期待されています。
しかし、このことは、中学校の管理教育につながってしまいます。(管理が厳しい学校ほど非行に走り、自由な服装で、自由な規則のところのほうが非行が少ないというデータがあるくらいですから、私は、管理教育はやるべきではないと考えています。)
しかし、どうして学校がやらざるをえないのかというと、地域や家庭がそれを望んでいる部分があるからなのです。
思春期になっていろいろな問題が起きたら、家では対処することができなくて、
「先生、なんとかしてください。非行の問題なんて、うちでは対処できません」
「登校拒否なんて家では……」
「落ちこぼれになったら……」
と、どんどん学校に要求することが多くなるわけです。
そう考えると、学校の先生はほんとうにいろいろな面でストレスがたまっているのではないでしょうか。
ヨーロッパの小中学校の先生のように、勉強を教えるだけが仕事ではないのですから。
がんばっている現場の先生を見ていると、けっして質が落ちているということはないと思います。
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世の中の出来事に関心をもつ子どもは、優しく貰い子に育つ
「最近気になっていること」などという題名で作文を書かせると、ほとんどの子どもは自分の身の回りのことを題材にしますが、なかに何人か、社会的な出来事を題材にする「どもがいます。
たとえば、
「最近、ゴミ問題が大きく取り上げられています。
このままゴミがふえていったらどうなってしまうんだろう。
私たちも何かしなければいけないと思います」
とか、
「日本では、平気で食べ物を残す人がたくさんいるのに、アフリカでは餓死する子どもたちがいる。
日本から食べ物を送ることはできないのでしょうか」
といったぐあいです。
こういう子どもの作文は、文章もしっかりしていますし、考え方の筋道もとおっていて説得力があります。
国語力が身についていますから、ほかの科目についても優秀で、たいていクラスでも上位を占めています。
ニュースや新聞などの報道を理解しているのですから、それは当然とも言えるでしょう。
また、人の気持ちを思いやれる、優しい子どもたちだという点でも共通しています。
社会に関心を向ける中で、人間はたがいに助け合って生活しているということを、しぜんに感じているのでしょうか。
このように、世の中の出来事に関心のある子どもを育てるには、まず親自身が、そうしたことに関心をもつことが必要です。
子どもかニュースなどを見ていて、「これ、どういうこと?」などと聞くことがありますが、「お母さんにもわからないわ」ですましてしまうと、子どもは「こういうことは知らなくてもいいんだ」と考えて、しだいに興味をもたなくなってしまいます。
たとえ知らなくても、「わからないわ。お母さんも勉強しなくちゃね」とか、「あとでお父さんに聞いてみましょう」というように言っておきます。
実際に、父親と協力したり新聞などで調べたりして、あとで説明してあげることができればベストです。
また食卓でも、積極的に社会的な話題をもち出して、子どもを含めて意見を述べ合うというような体験も、子どもにはいい影響を与えます。
べつに、問題を正確に理解して言う必要はありません。
知っている範囲の知識をもとに、子どもに説明してあげられて、自分なりの意見を述べることができれば、子どもに関心をもたせるには十分です。
子どもが社会の授業で習ってきたことを話題にする、というのもいい方法です。
自分の習っていることが、大人たちにも関心のあるたいせつな問題だということがわかれば、子どものやる気も変わってくるはずです。
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高校受験をめぐる現状
いまの中学生は、30年まえに比べて勉強する量は少なくなりました。
また、受け皿もたくさんあります。
ですから、序列化された方法で学校を選ぶのではなくて、地理的なことや学校の設備や校風など、内容で選んでほしいと思います。
しかも、むかしよりもずっと選択範囲も広くなっているので、むやみに競争意識をもつ必要もありません。
受験競争のため「たいへんだ」とあせって受験勉強に取り組まないでもらいたいのです。
自分なりにきちんと教科書を中心に基礎学力をつけておけば、けっして心配することはありません。
また、「進学するには私立でなくては……」と言われますが、東京都内にかぎっても、進学校の数では、まだ都立のほうがかえって多いくらいです。
私立の場合は一部のかぎられたところが進学校であるにすぎません。
その、ほんの一部の進学校の受験競争だけが、ひじょうに厳しくなっているのです。
すべての高校の受験競争が激しくなっているわけではありませんから誤解しないでください。
ただ、私立の中堅校以上の、とくに大学付属高校では明らかに難しくなりました。
教科書だけの勉強で受験するのは難しいので、教科書プラスアルファの学習が必要です。
前述したように、30年まえの受験は、教科書だけの勉強でたいていのところに合格できました。
一部の国立系統はたしかに難しかったのですが、それでも、教科書プラス問題集を一冊やれば、自学自習でトップクラスの都立校やほとんどの私立に合格できたのです。
ところが、いまは教科書がやさしくなり、入試問題が一部の学校でひじょうに難しくなって、私立の中堅校でも教科書だけでは太刀打ちできなくなっています。
そういう意味で進学塾がふえてきたのです。
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子どもは遊びや家族とのふれあいの中でいろいろなことを学んでいる
遊びの中にも子どもを成長させる要素はたくさんあります。
伝統的な遊びでいえば、こまやおはじきなどは、子どもの集中力を高めるのに役立ちます。
いろいろと難しい「ワザ」などもありますが、子どもは、遊びだからこそ誰に言われなくても熱心に取り組み、いつの間にかクリアしてしまいます。
そのときの集中力は、大人にもなかなか真似できません。
将棋やダイヤモンドゲームなどの知的ゲームが、子どもの想像力を伸ばすことに加え、落ち着きや考える習慣も身につけてくれることはよく知られています。
トランプの好きな子どもが数字に強くなるのは当然ですし、途中で点数などを計算しなければならないゲームもたくさんありますから、算数の学力にも影響します。
また、いろいろな「ごっこ」遊びは、子どもの想像力を養うとともに、大人の世界のさまざまなルールを体験させてくれます。
大勢の友だちとの遊びは、さらにいろいろなことを子どもに教えてくれますが、それについてはまえにご紹介したとおりです。
家族とのふれ合いも、子どものたいせつな学習の場です。
家庭は、社会の最小単位といわれるように、社会生活のルールのほとんどが、家族どうしの関係にもあてはまります。
そうしたものを、子どもは知らず知らずのうちに学んでいくわけです。
これも広い意味では、しつけということになるのかもしれません。
また、子どもは、家族の一人ひとりをじつによく観察しています。
親のちょっとしたくせが子どもにうつってしまう、ということがよくありますが、そういう意味では親はいつも気を抜けません。
よくも悪くも、親は子どものお手本なのです。
こうした日常生活の中での学習は、学校でのいわゆる「勉強」と区別して考えがちですが、この両者は密接に結びついています。
子どもがどんな遊びをしているか、家族関係や、親子のコミュニケーションはうまくいっているか、こうしたことのすべてが、学力にも深い関わりをもっているのです。
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忘れものをしないようにあ母さんが準備をしてしまうと、子どもの学力は上がらない
子どもが学校へ出かけるとき、「忘れものない?」という言葉は、多くのお母さんの日ぐせになっているようです。
子どもがこの時点でもう一度確かめればいいのですが、急いでいるうえ、もう慣れっこになってしまっているので、あまり気にとめません。
せっかくお母さんが心配しているのに、子どもは忘れものをしてしまいます。
それが、たまのことであれば、しょうがないでしょう。
でも、授業に使うたいせつなものを、いつも忘れるということになると話は違います。
「つぎの授業は角度の勉強をするから、かならず分度器を持っていらっしゃい」「つぎの授業は地図帳を持ってくるんですよ」そういった指示が出されたとき、かならずといっていいほど忘れてくる子どもがいます。
本人は、あまり悪びれた様子もありません。
「また忘れました」などと、当然のような顔でニヤニヤ笑っていたりします。
話を聞いてみると、お母さんが翌日の準備をしているという場合が多いようです。
子どもがきちんと伝えないかぎり、お母さんはつぎの授業で何が必要になるかは知らないわけですから、忘れものをするのは当然です。
ところが子どもは、自分で準備をしたわけではないので、ちっとも責任を感じないのです。
このような子どもは、勉強に対する姿勢がどうしても消極的になります。
時間割表を見ながら自分で準備をすれば、しぜんに授業に対する心の準備をすることができます。
子どもによっては、「あしたから新しい単元だな。今度はどんなことをやるんだろう」などと、期待感をふくらませることもあるでしょう。
しかし、お母さんが準備をしてしまうと、そういうチャンスが失われてしまうのです。
いつまでたっても受け身のままで、自分から学ぼうとする気持ちがなかなか出てきません。
忘れものをしないようにしつけるということは、結局、責任感を身につけさせるということにはかなりません。
自分のことは、自分でする。
その責任も自分にあるのだと、子どもに早いうちから教えてあげたいものです。
責任感をもつということは、言うまでもなく社会に出てからもたいせつなことですが、このように学力にも関係してくるのです。
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しつけのきちんとできている子どもは勉強も得意になる
子どものやることには、いっさい口を出さない。
やりたいことは自由にやらせる。
そういう放任主義が、子どもをのびのびと育てる方法だと勘違いしている家庭は少なくありません。
しかしこういう子どもは、大人とのコミュニケーションがうまくいかなかったり、責任感がうすいので友だちとの信頼関係もつくれなかったりと、学校生活もあまりうまくいかないという場合が多いようです。
そればかりでなく、しつけができているかいないかは、学力にも大きな影響を与えるのです。
しつけがきちんとできていない子どもは、「やらなければいけないこと」「がまんしなければいけないこと」に対応できません。
そうすると、三年生、四年生と学習内容が複雑になるにつれて問題が起こってきます。
たとえば国語なら、文章が長くなってくると、最後まで読みとおすということができなくなります。
本を読み慣れている子どもにはわけもないことですが、ふだん漫画ばかり読んでいるような子どもにとっては、教科書の説明文などを読むのは、たしかにかなり苦痛をともなうことかもしれません。
そのとき、しつけのできていない子どもは、途中で投げ出してしまいがちなのです。
算数なら、繰り上がり、繰り下がりが二度、三度重なるような計算が出てきたあたりで、しつけのできていない子どもはもういやになってしまいます。
「できない」のではなく、めんどうくさいから「やらない」のです。
そして、「めんどうくさい」→「やらない」1「わからなくなる」→「もっと、めんどうになる」という悪循環がはじまってしまいます。
こういう子どもは、塾に行かせてもあまり効果がありません。
たとえ学力が低くても、なんとかわかろうと努力してくれる子どもは、少人数でじっくり教えればかならず成果が上がります。
しかし、やる気のない子どもはどうしようもないのです。
しつけができている子どもは、「つらくても、やらなければいけないことがある」ということを知っています。
国語の長文も、つまらないと思いながらも読みとおしますし、めんどうな計算も苦労しながら練習します。
学校の勉強というのは、そのようにして努力すれば、かならず成果が上がるようにできているのです。
こういう子どもは、「わかる」喜び、「できる」喜びを体験することができ、学力も上がっていきます。
「しつけ」と聞いただけで、「なんだ、古臭い」というイメージをもってしまうお母さんもいるかもしれません。
でも、古臭いのはしつけの方法だけで、最低限教えなければならないことは、「むかし」も「いま」もあまり変わっていないのです。
箸を正しく使える子は、勉強もよくできる
最近は大人でも箸を正しく使えない人がふえてきました。
大学生が集まっていたりすると、変な持ち方をしている学生が一人二人ではないので、びっくりします。
まして子どもとなると、じつにバラエティーに富んだ箸の使い方をします。
食べ物がちゃんとつかめるんだから、持ち方くらいどうだってかまわないじゃないか、というかもしれませんが、それがそうでもないのです。
子どもたちをずっと観察していると、どうも箸を正しく使える子どもは、使えない子どもに比べて学力も高いという傾向があるのです。
理由はいくつか考えられます。
一つめは、大脳生理学的な理由です。
指先をよく使う人はボケないなどといいますが、手の運動と脳の働きのあいだには密接な関係があるようです。
ですから、手先の器用な子どもは頭の働きもいいということは考えられます。
長い目で見れば、指先を使わせる習慣をつけたほうが脳のためにいいということは言えるかもしれません。
二つめは、箸を使う練習の過程が、子どもに忍耐力を植えつけているということです。
箸の練習は、しつけの中でも、子どもにもっとも大きな努力をしいるものの一つでしょう。
何しろ箸の使い方は、文字どおり食べるためにどうしても必要な技術ですから、子どもはとりあえず自分なりの方法を編み出してしまいます。
そこから先は、ほとんど親子のがまん比べのようになってきます。
子どもは、正しい持ち方がうまくいかないうちはどうしてもイライラしますから、つい自分流の持ち方に戻ります。
それをふたたび、親が正しい持ち方に戻す。
この繰り返しで、親子ともども苦労します。
しかし、それを通り抜けて、ついに正しい持ち方をマスターしたときには、子どもは大きな達成感を感じるはずです。
「がまんして、努力して、それが報われる」この体験が、子どもにとっては重要なのです。
いっぽう、親が途中であきらめてしまった子ども、最初から努力させられなかった子どもは、この体験をすることができません。
この体験があるかないかが、すこし複雑な学習内容に出合ったときに、努力しても身につけようとするかしないかの差になって表れるのです。
これが、学力を大きく左右することは言うまでもありません。
三つめは、これは箸にかぎらないのですが、指先を使うこまかい作業は子どもの集中力を養うということです。
箸で豆をつまむ。
折り紙をきれいに折る。
ナイフでエンピツを削る。
こうした作業は、かなりの集中力を必要とします。
こうしたこまかい作業ができる子どもは、計算ミスなども少なく、学力も高い場合が多いようです。
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「わかる」子どもは、「できる」ことの大切さもわかっている
「わかる」ことのたいせつさばかり強調してきました。
このあたりで「じゃぁ、わかってさえいれば、できなくてもいいんですか?」という質問がきそうです。
もちろん、そんなことはありません。
どんなに問題の解き方がわかっていても、計算違いで答えがまちがっていたら、やはりテストでは×がつきます。
答えはわかっていたのに、漢字をまちがえた。
これもやはり×です。
とくに、解答欄に答えだけを書く形式のテストの場合、考え方がわからなかった場合も、考え方はわかっていたのにうっかりたし算の繰り上がりをまちがえただけの場合も、まったく同じ減点をされることになります。
「わかっていること」がちゃんと評価される、システムになっていればいいのですが、現在の学校教育は、残念ながらそうではありません。
答えが正しいか正しくないかははっきりわかりますが、考え方がわかっているかいないか、わかっていないとしたら、どこまでわかっていてどこからわかっていないのかを、答案用紙から正確に判断することはひじょうに難しく、ましてそれを、点数という形で表すことは至難です。
また、ただでさえ忙しい先生は、テストの採点にそんなに時間をかけることはできません。
その結果、答えだけを評価するという形のテストがふえることになります。
こうなると、「わかってはいるけれども、計算や漢字が苦手な子ども」たちは、挫折を感じることになります。
「わかった」という喜びも、低いテストの点数を見てがっかりしてしまうとしたら、こんなにもったいないことはありません。
どんな子どもでも、そんな経験を繰り返していたら、やはり、だんだん勉強がいやになっていってしまうのではないでしょうか。
でも心配することはありません。
お母さんが、子どもの「わかっていること」をきちんと評価してあげればいいのです。
たとえば、子どもがテストを持ち帰ったときに、
「いちばんたいせつな考え方はちゃんとわかってるんだから、偉いわね。
でも、計算違いをしただけでこんなに点数を引かれて、とっても残念ね。
毎日計算の練習をして、まちがえないようになりさえすれば、すぐにいい点数がとれるようになるわよ」
とか、
「読み取りはちゃんとできてるんだから、国語の力はあるのね。あとは、漢字さえきちんと練習すれば、点数もあがるわね」
というように言ってあげます。
こうした言葉で、子どもは失いかけていた自信を回復します。
そして、しぜんに計算や漢字を練習しようという気持ちになります。
「わかっているけどできない」ことの悔しさをいちばん痛感しているのは、いうまでもなく子ども本人です。
わかったときの喜びも、記憶に残っています。
ですから、あとは練習さえすれば「できる」ようになる、ということがわかれば、人一倍努力するものです。
努力した結果、テストの点数が上がれば、もう大丈夫です。
その子どもは、「わかる」ことと「できる」ことがそろえば喜びが二倍になるということを、自らの体験で知ることができたのです。
その喜びの大きさは、「できる」だけの子どもには絶対に経験することのできないものです。
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テストの点数にこだわると、子どもは勉強が嫌いになる
子どもがテストを持って帰ってきたとき、どんな言葉をかけてあげるでしょう。
このとき、あまり点数にこだわると、子どもにいい影響を与えません。
たとえば、「どうしたの、こないだより30点も下がったじゃないの」というように言ったとしましょう。
ほんとうは、前回のテストと今回のテストとでは、内容が全然違うわけですから、比べても意味はないのです。
それを、「点数」という観点だけで比べてしまうことで、子どもは知らず知らずのうちに、「たいせつなのは点数なんだな」という意識をもってしまいます。
こうした点数にこだわった言葉というのは、つい出てしまいがちです。
「つぎは80点を目標にしようね」とか、「国語の点数をすこし算数に回せたらいいのにね」と言っている方も多いのではないでしょうか。
しかし、よく考えてみると、勉強本来の目的からいえば、テストの点数などはおまけみたいなものでしかありません。
運動会での順位や、習いごとの成果などにこだわるお母さんもいます。
とくに、習いごとの場合は、特別に力がはいるようです。
ピアノの発表会などでは、プログラムの順番に目の色を変え、「どうしてうちの子が最後じゃないんですか」などと先生に文句を言って、かえって子どもにたしなめられる、などという場面も目にします。
親が子どものテストの点数や成果にこだわるのは、愛情の結果でもありますから、そのこと自体を責めることはできません。
自分の子どもがかわいいからこそ、ついよその子どもと比較してしまいますし、点数や順位などという目に見える形で、自分の子どもの能力を確かめたくなるのです。
しかし、それを子どもの前で口にしてしまうと、子どもも結果にばかりこだわるようになります。
その結果、勉強が嫌いになってしまいます。
子どもを、結果より内容、過程をたいせつにするように育てるためには、やはり日常の会話に注意する必要があります。
子どもがテストを持って帰ってきたら、どんな点数でもまずそれを認めてあげます。
そのとき、「60点とったこと」よりも「三間解けたこと」に注意を向けさせるようにしましょう。
運動会でも、順位が何位でもがんばったことをほめてあげて、ほかの子どもの順位などはなるべく話題にしないことです。
ピアノを一生懸命練習していたら、そのことをまず認めてあげて、その子の演奏が自分をどんなに楽しい気持ちにさせるかを伝えてあげます。
結果より内容ということをいつも頭に入れて、子どもに接してください。
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子どもの考える力をもっとも伸ばしてあげられるのは親
子どもにとっては、「できる」ことよりも「わかる」ことのほうがたいせつだと力説してきましたが、学校の授業では、残念ながら「できること」のほうが重視される傾向は強いようです。
もっともこれは、先生にばかり責任を負わせることはできません。
いまの日本の受験制度では「できる」ことをよしとする風潮は避けられないのです。
それに、たとえ先生が「わからせる」ことを重視する意識をもっていたとしても、30人、40人の生徒を前にして、一人ひとりの子どもの理解度を紳かくチェックすることができるでしょうか。
まして、それぞれの子どものレベルに応じて、きちんとわかるまで指導することができるでしょうか。
指導している先生もいますが、残念ながら少数派のようです。
それでは、塾に行かせればいいのでしょうか。
とくに低学年のうちは、これも考えものです。
ベテランの先生がごく少人数を相手に教えてくれるような塾が見つかればいいのですが、アルバイトの講師が、5名、10名の子どもを相手に教えているような塾では、あまり効果は期待できません。
むしろ小学校の低学年のうちは、家庭学習で十分だと私は思います。
ですから、子どもが「わかる」体験ができるまで、じっくりと考えさせてあげられるのは、やはり親、とくに子どもといつも接することができるお母さんしかいない、ということになります。
こう言うと、「しろうとの私が教えても大丈夫だろうか、教え方をまちがえたらどうしよう」と不安に思うお母さんも多いことでしょう。
でも、心配することはありません。
なによりお母さんには、学校や塾の先生にはない、大きな強みがあるのです。
- (1)子どもの性格やくせ、習慣などを、誰よりもよく知っているということ。
- (2)時間を気にせず、子どもがわかるまで責任をもってつき合えるということ。
- (3)最初から子供とのあいだに強い信頼関係ができあがっているということ。
これらの点で、学校の先生では逆立ちしてもできないぐらい、子どもの学力を伸ばすためには有利な面をもっているのがお母さんなのです。
三番目の信頼関係はとくに需要なところにあります。
ですからお母さんが自分なりに工夫して一生懸命に教えて上げれば、子どもにとってはかならずプラスになります。
教え方については、自分が習ったときの記憶に従うのではなく、子どもの教科書をよく見て、それにそった教え方をするということさえ守れば、まちがえるということはありません。
家で教えるときのポイントは、参考書や問題集だけに頼らず、実際のものを使って考えさせるということです。
学校などでは絵や図を使うところですが、家なら本物のくだものや硬貨、トランプのカードなどを使って、実際に手を動かして体験的に理解させることができます。
買い物にいっしょに出かけたり、公園に遊びに行ったりしながら、勉強というより遊びのような感覚で、楽しく取り組めればいいのです。
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子どもは叱り方一つで勉強が苦手になる
こんな話があります。
以前アメリカで、黒人の小学生と白人の小学生の学力を比べたところ、明らかに黒人のほうが劣っていました。
このことは、「だから黒人は劣った人種だ」と、人種差別主義者のかっこうの論拠になっていたのですが、ある学者がこれに疑問をもちました。
いろいろ調べてみると、黒人の親と白人の親では、子どもの叱り方が違うということがわかりました。
黒人の親は、ただ「いけません」と怒鳴るだけだったり、すぐ手をあげてしまったりします。
それに対して白人の親は、きちんと理由を説明して「だからそういうことをしてはいけないのよ」というように叱っていたのです。
そこでその学者は、黒人の親たちに、叱り方を変えるように指導しました。
すると、黒人の子どもの学力は、みるみる白人に追いついてしまったというのです。
この話は、叱り方が子どもの学力にいかに大きな影響を与えるかを、端的に示してくれています。
みなさんの家庭では、子どもをどのように叱っているでしょうか。
口より先に手が出てしまったり、ただ頭ごなしに「そんなことをしてはいけません」とだけ言って理由を説明しない叱り方。
これはいまのアメリカの例でもわかるとおり、望ましくありません。
論理的な考え方ができるようになりませんし、自分で善悪の判断をする力も身につかないからです。
いつもこういう叱り方をされている子どもは、どこか人の顔色をうかがうようなおどおどしたところがあり、勉強に対してもあまり積極的になれないようです。
ほとんど叱ることがなく、子どもにやりたいことをやらせている放任主義も感心しません。
子どもは、自分にとってよいことか悪いことかの判断はできますが、他人にとって、あるいは社会的によいことか悪いことかの判断はできません。
当然それは、経験をつんだ大人が責任をもって教えてやらなければならないのです。
それをやめてしまったら、子どもは協調性のない、社会に適応できない子どもに育ちます。
また、大人とのコミュニケーションがへたで、学ぶという姿勢にも欠けるので、学力的にもあまり伸びません。
これらはどちらかというと極端な例でしょうが、ちゃんと理由を説明して叱っているようで、じつは子どもに悪影響を与えているという場合もあります。
レストランなどで子どもが騒いでいるとき、お母さんが「お店の人に叱られるからやめなさい」というように叱っているのを耳にします。
これを聞いた子どもは、どう考えるでしょうか。
自分たちが悪いという意識はなく、反対に「怒りっぽい店員のせいでぼくは遊べない」などと逆恨みするかもしれません。
「お母さんに叱られた」という意識もうすいはずです。
これでは、何のしつけにもなりません。
ここは、「ほかのお客さんの迷惑になるし、お母さんも困るからやめなさい」というように叱るべきです。
人に迷惑をかけたり、人を困らせたりすることは、自分が迷惑したり困ったりすることを考えれば、明らかに悪いことだとわかります。
ですから、さきほどと違い、子どもは「自分は悪いことをしたんだ。だから叱られたんだ」ということをはっきり意識します。
このように、子どもを叱る場合には、なぜそれが悪いことなのか、はっきりわからせるような言葉を選んで叱ることがたいせつなのです。
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豊かな生活体験が子どもの本物の学力を伸ばす
たとえば、いつも虫をつかまえて遊んでいる子どもと、虫というとほとんど写真でしか見たことがない子どもと、理科で昆虫の勉強をしたとき、どちらがよく理解できると思いますか。
「わかりきったことを聞くな」と文句を言われそうですね。
たしかに答えはわかりきっています。
日常生活の中で体験している子どものほうが、よく理解できるに決まっています。
でも、そのことを意識しているお母さんは、どれだけいらっしゃるでしょうか。
「そんなことを言っても、うちの近くには林もないし、野原もありません」と言われるかもしれません。
しかし、生活体験というのは、自然にふれる体験だけのことではありません。
反対に、都会の子どもには都会の子どもにしか体験できないことがあり、それも立派な生活体験です。
たいせつなことは、子どもの日々の体験を、子どもの学力にどう結びつけるかなのです。
これは、お母さんの意識のしかた一つで大きく変わってきます。
たとえば、ケーキを家族で食べるときに、子どもに切り分けさせてみます。
「四人で食べるから、四等分してね。どう切ればいいかな?」
「今日はお客さまが来てるから六等分ね。ちょっと難しいけど、どうしたらいいかな?」
そうして、「はい、四分の一ずつ」「今日は六分の一ずつね」と言いながら取り分けます。
こういう体験をしている子どもは、分数の理解力もやはり違います。
また、テレビを見ていて地名が出てきたときなど、家族で地図を広げて確かめてみるのもいいでしょう。
「日本地図でいうと、このへんだね。ここを詳しくした地図でいうと、ほら、あった」。
このとき、「このへんは雪が多いのよ」「このへんはカニがおいしいのよ」などと、知っている範囲で、その地方の特色などをちょっと説明してあげます。
そうすると、地図のしくみもしぜんに理解できていくでしょうし、テレビの見方も変わってきます。
「ここはどういうところなんだろう」と、いままでより深い興味をもって見るようになるのです。
そして、そういう習慣がついていると、五年生になって地理の勉強をはじめたとき、興味も自信ももって取り組めるようになります。
自然にふれる体験にしても、都会にはまったく自然がないわけではありません。
校庭のすみ、ちょっとした空き地、家の庭先など、植物が生えている場所はじつはけっこうあります。
そして、昆虫だってかならずいるはずです。
そんなところを通ったときなど、「この花、雑草だけどきれいね。なんて花だか、うちで図鑑で調べてみようか」と言って摘んで帰る、そんなことを何度か繰り返しているうちに、子どもは自分でも、道端の草花に目を向けるようになっていくでしょう。
そうして子どもの意識が生き物に向くようになっていれば、遠足や旅行に行ったときの体験がまったく違ってきます。
それまで見たこともなかった植物や昆虫を見て、胸をときめかせる体験をするかもしれません。
体験をとおして得た知識や考え方は、かならず「本物の学力」に結びつきます。
お母さんの意識一つで、問題集を何冊も与えるよりも貴重な学習を、子どもにさせられるということを知っておいてください。
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親子でできる家庭学習法
ロールプレイングを家庭学習に取り入れてみる
電話相談や父母懇談会で、「どうやって勉強させたらよいか」という質問をよく受けるのですが、
「ほめることもたいせつだし、お母さんがお子さんに勉強を教えることも必要だけれども、それよりも、ときどきお母さんが聞き役になってほしい。
お母さんが生徒になって、子どもが先生になるときをつくってほしい」と答えています。
たとえば、二年生の算数を見ても「お母さん、これわからないなあ。○○ちゃん、教えて」と言う余裕をもってほしいのです。
子どもは「お母さん、こんな問題もわからないの。これはね……、わかった?」と言いながら教えてくれます。
子どもはお母さんに教えることによって、ふだんと逆の立場に立つことができるわけです。
低学年だとまだ難しいのですが、四年生くらいになると、塾でも子どもを相手にこれと同じことをやっています。
いま話題になっていることなど、「ぼくは知らないから、教えてくれる?」と言うと、子どもは「先生、そんなことも知らないの?」と言いながら、得意になって一生懸命しゃべります。
これを、勉強にも活用できないかと考えています。
ふつう家で親が子どもに教える場合、親のほうが一方的に教えるだけという図式が多いと思います。
すこし立場を変えて「お母さんもわからないなあ。今度いっしょに調べてみようか」と持ちかけたらどうでしょうか。
そうすれば、「またお母さんがうるさいこと言ってる」という取られ方をしなくなるのではないか、と家での接し方の例としてアドバイスをしています。
いまのお話は専門用語でロールプレイング(role playing/体験的学習法、役割演技法・以下RPと記す)と言いますが、不適応を起こした子どもの治療法としてよく行なわれています。
最近私のところに相談に来たお子さんは、小学校高学年の子で、学校に行っていませんでした。
学校に行っても友だちとどうつき合っていいかわからない、友だちに何か言われたときにどう答えればいいかわからないというのです。
そういった場面をRPで実際に演技させます。
相手や自分のふるまいをそのまま演じたり、立場を逆にして何度か練習すると、相手の気持ちがわかるようになり、自分でどう答えればいいかがわかってきます。
私が治療した中には、気分が落ち込んでうつ状態になり、自分はだめな人間だと思い込んでいるビジネスマンがいました。
趣味や得意なものを聞き出したところ、むかし、水泳をやっていて、ある程度自信があるということがわかりました。
そこで、私が水泳教室の生徒になって、その人から水泳を教えてもらうという設定で演技してみることにしました。
つまり、私が「こわくてできない」「私はだめだ」などと、その人のふるまいを演じてみせるわけです。
すると、「そこのところはこうすればいい」「そんなふうに物事を考えるから、やる気がなくなるんだ」と、そのビジネスマンが私に言ってきます。
その言葉は、じつは私がその人に伝えたかったことなんですね。
それを自分で見つけ出すことによって、ほんとうにやる気も出てきますし、気分も晴れるわけなのです。
ロールプレイングなら具体的な手がからを得られる
役割を演じることは、学習場面でも同じことが言えます。
具体的にこうすればよいという手がかりを整理することができるのです。
「子どもがお母さんに勉強を教える」ことによって、具体的な学習の手がかりをもつことができるようになります。
これがRPの一つのキーポイントだと言えるでしょう。
ロールプレイングでリハーサルをすることができる
もう一つのキーポイントは、役割を演じることによって、心理学で言う「リハーサル」をすることができることです。
具体的にこうすればいいとわかっていても、実際にできない子は数多くいます。
こういった子どもに、「リハーサル」はひじょうに重要です。
ふつう、算数の問題を解くときは、いきなり式を答案用紙に書くのではなく、いったん頭の中で問題や答えを整理してから書いています。
それは、頭の中で一回リハーサルしているのと同じことになります。
このことは、考えをまとめ上げるプロセスとして、たいへん重要です。
つまり、このリハーサルのできる子が「わかっている子」とも言えるわけで、逆に言えば、わかるためにはリハーサルが必要だということになります。
人に何かを教えることは、リハーサルすることにつながります。
「お母さん、こうすればいいよ」と教えながら、子どもは頭の中で教える内容をリハーサル、つまり自分の頭の中の考えを整理し、言語化しているわけです。
このことが、学習を促進することは言うまでもありません。
ですから、「わかっているけど、うまく表現することができない」といった子どもたちには、RPはひじょうに有効な方法だと言えるでしょう。
ロールプレイングを上手に利用した学習法とは?
生活体験などもまさにRPです。
算数の例でいうと、五年生になると割合の問題で「100円の10パーセント引きはいくらか」というのを勉強します。
そんなとき新聞のチラシを見ながら「一万円の30パーセント引きって、いくらになるかしら」とお母さんが子どもに尋ねるというのも一つの手ではないでしょうか。
子どもがお母さんに教えることで、リハーサルをすることになります。
そのあとでたいせつなのは「一万円の30パーセント引きはいくらですか」という問題として、もう一度ノートにやらせることです。
つまり、実際の問題として理解することが必要なのです。
そうすると、RPはリハーサルの効果をもたらして、その後の学習に役立つことになります。
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遊ばない子、遊び方がへたな子は、オモチャ以外のもので遊ぶ工夫を親子でしてみる
遊びの中には、子どもの成長にプラスになるさまざまな要素が含まれています。
なかには学力に大きな影響を与えるものも少なくありません。
ですから、遊び方がへたを子どもは、学力も高くないのがふつうです。
本来、遊びの嫌いな子どもはいません。
遊び方、遊ぶことの楽しさがわかれば、子どもはしぜんに遊ぶようになるはずです。
そして、楽しみながらいろいろなことを学ぶはずです。
机に向かって勉強させることもたいせつですが、遊ばない子どもの場合は、まず工夫して遊ぶことを教えてあげることが、学力をあげる早道だといえるでしょう。
このとき、ただオモチャやゲームを買い与えるのではなく、できればそうした既製の道具を使わずに遊ぶ工夫を、親子でいっしょにしてみるとより効果的です。
たとえば、コップやビンに水を入れて叩いたりすると、その水の量によって音の高さが変わるということはごぞんじだと思います。
それを実際にやってみて、好きなメロディーを叩いて遊ぶのです。
もっと高い音やもっと低い音がほしいということになれば、水の量を調節したり、べつの形のコップを探したりと、いろいろ工夫をはじめるでしょう。
もし、音に興味を示すようなら、ゴムをはじいて、引っ張る力によって音の高さが変わるような楽器を工夫してみてもいいでしょう。
こうした経験は、将来、理科で音について勉強するとき、かならず役に立ちます。
目と耳と手で実際に体験しているわけですから、教科書や参考書の記述を読むだけでは得られない、深い理解が得られるのです。
また、水の量やゴムの張力を微妙に調節するなどの作業をとおして、集中力や忍耐力も身につきます。
何かを部屋の中に隠して、おたがいに探しあうというような、単純な遊びでもかまいません。
そのものの一部はかならず見えていなければならない、というようなルールを決めておいて、どちらが先に相手の隠したものを見つけるか競争するのです。
何度か繰り返すうちに、子どもはなんとかお母さんの盲点をつこうと、いろいろ隠し場所を工夫します。
そのことが、子どもの想像力などを養うことにつながるのです。
硬貨を使った遊び、ヒモを使った遊び、紙とエンピツを使った遊びなど、身近な道具を使った遊びはいろいろ工夫できます。
もちろん、お母さんが考えた遊びをやらせるだけでなく、「今度はあなたがルールを決めて」「つぎはあなたが考える番よ」といったぐあいに、子どもに考えさせてください。
遊びが楽しいのはおたがいに、ある「きまり(ルール)」があるからだとか、ルールが複雑だと、簡単な遊びも頭を使う必要があることなど、子どもは遊びながらしぜんに応用力をつけていきます。
知能が発達してくると、複雑なルールの遊びが好きになってくるものです。
そして、お母さんが子どもといっしょに遊びながら、思う存分楽しむことが何よりもたいせつです。
お母さんが「遊びにつき合ってあげている」という態度ですと、子どもは敏感ですから、すぐにやる気をなくしてしまうのです。
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「なぜ」「どうして」にいっしょになって考えてあげることが子どもを賢くする
幼稚園にも上がらないころから、子どもは「なぜ?」「どうして?」と、質問しながら親につきまとうようになります。
家事に忙しいときには、わずらわしいばかりですが、このときの対応が子どもの将来を左右します。
「忙しいんだからあっちへ行ってなさい」「手が離せないからあとにしてね」と拒絶し続けると、子どもは、自分の疑問が母親に迷惑をかけている、と感じますから、しだいに好奇心にフタをするようになってしまいます。
「でも、まちがったことを教えてしまうよりは……、」と思うかもしれません。
なにも、その場で正しいことを教えてあげる必要はないのです。
「教える」よりも、「いっしょに考えてあげる」という姿勢がたいせつなのです。
まず、自分のわかる範囲で誠実に答えてあげることです。
子どもにわかりやすいような、おおざっぱな理屈でも構いません。
子どもが自分なりに納得することさえできれば、好奇心はさらに活発になります。
うそを教えるのがいやならば、「お母さんはこう思うわ。あとで確かめてみましょうね」というようにつけ加えておけば十分です。
「あとで調べましょう」「あとで確かめましょう」と言った問題については、ぜひ実際に調べて、なるべく早くフォローしてあげたいものです。
もしかすると子どもは、質問したことすら忘れているかもしれません。
でも、お母さんまでが忘れてしまうと、「あとで〜する」というのは、何もしないという意味だと子どもは解釈するかもしれません。
ですから、子どもがたとえ質問したことを忘れていたとしても、「さっき(このあいだ)○○ちゃん、こんなこと聞いたでしょ。あのときお母さんよくわからなかったけど、いっしょに調べてみようね」と言ってあげれば、子どもは、自分も忘れているようなことまで、親は覚えていてくれたと感じるはずです。
そして、親が自分をたいせつにしてくれているということを実感するのです。
それに、約束を守った親に対する信頼も深まります。
また、いっしょに図鑑や事典を開いて調べることで、子どもは「わからないことでも調べればわかる」ということを、体験として知ります。
図鑑や事典の使い道もわかります。
将来自分で使えるようになったときは、一人で調べられるようになるでしょう。
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子どもが教師役、親が生徒役になって、学校で習ってきたことを話させてみる
子どもに学校であったことを話させることは、親子のコミュニケーションをはかり、どもに話をまとめて人に伝える練習をさせ、学校での子どもの様子を把握するという、一石三鳥くらいの効果があります。
ただでさえ、小学校高学年から中学校へと進むと、子どもは学校での出来事を話したがらなくなります。
反抗期でもあり、しかたがないことなのですが、この年代には、いじめなどの問題も深刻になりますから、親子のコミュニケーション不足がとんでもない事態につながりかねません。
低学年のうちに話をする習慣がついているかいないかによって、この時期のコミュニケーションにもかなり差が出てくるようです。
子どもに学校の出来事を話させるとき、ついでに「授業ではどんなこと習ったの?」と、子どもに学習内容についても話させてみてください。
子どもは、教室でのことを一生懸命思い出そうとするでしょうが、そのこと自体が、子どもにとってはとてもよい復習になります。
復習というのは、できるだけ習った直後にやったほうが効果があるのです。
とくに低学年のうちは、こうして話をしただけでも、日常の復習としては十分なほどです。
また、忘れかけていた宿題も思い出すかもしれません。
このとき、子どもが「こんなことを習ったけど、よくわからなかった」というようなことを話したら、しめたものです。
「じゃあ、お母さんといっしょに、もう一度考えてみようか」と言って、ぜひ早いうちにお母さんが見てあげてください。
子どものつまずきのもとを、事前に取り除くことができます。
ある程度できる子どもなら、ときには、子どもが教師役に、お母さんが生徒役になるというのも効果があります。
「へえ、そんなに難しいこと習ったの。
お母さん、ずいぶんまえに習って、忘れちゃったから、教えてくれる?」。
こんなふうに言ってあげると、子どもは「なんだ、お母さんもそんなことわからないの」などと、まんざらでもない顔で教えてくれるものです。
お母さんも子どもに勉強を教えてみるとおわかりになると思いますが、よく知っているというだけでは、他人にはなかなかうまく教えられないものです。
自分の知識を整理し直して、相手に対してあの手この手の工夫をしないと、わからせるというのは難しいものです。
でも、教えたあとには、そのことについての自分の理解がいちだんと深まっていることに気がつくはずです。
子どもも、学校で習ってきたことをお母さんに教えることで、そのことについての理解をぐんと深めることができるのです。
場合によっては、子どもが自分自身の理解が不足していたところに気づくかもしれません。
このときに、「そこはね」と、お母さんが教えてしまったらぶちこわしです。
「なんだ、お母さん知っているんじゃない。インチキだよ」と言って、二度とお母さんに教えてくれなくなるかもしれません。
まず子ども自身に考えさせて、どうしてもわからなかったら、「じゃあ、明日学校の先生に確かめて、また教えてね」というふうに言ってあげればいいでしょう。
こうすることで子どもは、責任感と勉強に対する積極的な姿勢を、自然に身につけることになるのです。
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子どもに勉強を動機づけるにはどうしたらいいか
勉強する意欲の乏しい「受け身的な子ども」が多いのぼなぜか?
どのようにすれば、子どもが家庭学習をやる気になるかを、考えてみたいと思います。
テストで100点をとってきたとき「よくできたね」とはめるだけでは、勉強はそこで終わってしまうのではないでしょうか。
よい点をとるために勉強するのだと、勉強の目的がすりかえられてしまうからです。
テストのために勉強するのではなく、「わかる」とおもしろいから勉強する、というようにもっていくのがたいせつだと考えています。
それでは、勉強のおもしろさをわからせ、家庭学習を上手にさせるにはどうしたらいいかというと、動機づけや、やる気をどう起こさせるかという問題になると思います。
勉強の動機づけとして、算数のテストで100点をとってきたから今月のお小遣いを100円アップするとか、成績が上がったら自転車を買ってあげるなどといった、ものを与えるということが一つとしてあげられます。
たしかにそれも一つの動機づけですが、それを続けていくと、三年生になったらこれをあげる、四年生になったらあれを、中学受験で合格したらラジカセ、高校受験ではバイク、大学受験では車、では大学卒業したら何もあげるものがない、と同時に勉強もしなくなってしまうというようになると思います。
ものを与えだすと一種の中毒のようになって、与え続けないと勉強しなくなり、家庭学習においても、何かをもらわなくては勉強しないというようになってしまう気がするのです。
実際に塾の子どもたちに作文を書かせますと、ものを与えて勉強させる親が多いのがわかります。
しかし、そういう子を見ていて共通しているのは、勉強がおもしろいとか、楽しいという雰囲気がないことです。
「これは受験のためにやるんだ」という感じで、ひじょうにさめたところがあります。
積極的に勉強に向かうのではなく、合格するためにやる、親や学校の先生に言われたから、しかたなくやるといった受け身的な子どもが多いのです。
私はそうした経験から、「もの」で勉強させるのには限界があるのではないかと感じています。
そして、勉強の動機づけとしていちばんだいじなのは、「ああ、こういうことなのか。わかった」という喜びや楽しさだと思っています。
勉強の動機づけは子どもの発達階段によって違う
まず前提として、子どもの発達段階(子どもの学年)を考慮する必要があるということです。
すべての年齢、学年の子どもに同じ話を当てはめるわけにはいきません。
私は仕事柄、不適応を起こした子どもたちとよく話します。
その子たちを見ていると、学年によって不適応を起こしたきっかけがまったく違うことがわかります。
ですから、学年差(発達差)は重要なポイントだと言えるでしょう。
やる気の問題にしても、それを考慮する必要があります。
まず、小学校だと低学年と高学年で対応が違います。
中学校では初期(中一の二学期、中間試験まで)とそれ以降とに大きく分けて、学校の学習内容も家庭学習のねらいも違ってきます。
小学校一、二年生では、学習するうえで教材の中身にはあまり重きをおかなくてもよいのかもしれません。
むしろ学習する態度、姿勢、あるいは条件づくりの段階だと言えます。
小学三、四年生になると教科書は急に難しくなり、高学年になるとまた難しくなりますが、その段階になって、中身の理解、学習材料の理解へとはいっていきます。
さらに中学校では、カリキュラムががらっと変わります。
算数が数学に、社会や理科が分割されて、英語が新しくはいり、指導の仕方もクラス担任制から教科担任制に変わります。
これらは子どもにとっては劇的な変化なのです。
また小学校のテストは、基本的に到達度評価の観点に立っていますが、中学校ではストレートに数字で評価されるようになります。
つまり、中学の前半は、子どもにとって新しい学習スタイル獲得の時期だと言えます。
中学の後半になってようやく、中学で学ぶべき学習内容に取り組む時期になります。
また、中三の一学期には進路指導(進学指導)も具体的になり、進路を見極めて学習するということが加わります。
このように、学年によって学習目標が質的に異なります。
それを踏まえたうえで、ものでやる気を起こさせるか、わかることでそれを引き出すかという問題を考える必要があるでしょう。
小学校低学年までは生活習慣を身につける段階
小学校低学年までは、学校や家庭での生活習慣、学習習慣を身につける時期です。
お母さん方の中には、子どもが低学年のうちから猛勉強させようとする人もいますが、その時期は勉強でなくてもいいですから、机に向かう習慣がつけばいいのです。
低学年のうちに、何かするときには机に向かうという習慣づけができていれば、つぎには算数の教科書を机の上で開くようになります。
いきなり、机の前で教科書を開かせてじっとしていろと言っても、子どもには苦痛でしかありません。
ドリルや参考書でなくても、図鑑や学習漫画でもいいわけですね。
学校から帰ってすぐにファミコンをすることに比べたら、毎日30分でも図鑑や学習漫画を見れば、あとでわかる喜びをつかむきっかけを獲得する確率は高いといえます。
たとえば、小学校高学年の国語の授業で、おとなから見れば常識と言えることがらを知らないお子さんがけっこういます。
ドリルや問題集をいくらやっても、物語の背景を思い浮かべることはなかなか難しいものです。
ある教科書に、『ごんぎつね』という物語が出てきます。
江戸時代のお話で、かなり牧歌的なところがあるお話です。
その中で、主人公がウナギを獲ってびくに入れるのですが、「びく」を知らない子がかなりいるのです。
ところが、豆博士というか、きまりきった勉強はしないけれど、いろいろなことをよく知ってる子がいて、そういう子に絵を猫かせると、さらさらと描くことができます。
また、話の中に「小川が流れています」という文章があると、いまの子は両岸がコンクリートで固めてある川を思い浮かべてしまいます。
いっぽう、ハイキングなどで実際に見たことのある子は、まわりが土と岩のほんとうの小川を思い浮かべて、ああいうところでウナギを獲るんだなとわかるのです。
ですから、小学校高学年の勉強をほんとうにわかるようになるためには、そのまえに、とくに低学年のうちにやらなくてはいけないこと、体験させておきたいことがいっぱいあるのだと思います。
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「見かけの学力」だけでは勉強好きな子は育たない
「子どもの学力を伸ばしたい」と考えて、このサイトを読んでいらっしゃるお母さんに、あらためて「学力って何でしょう?」などと聞いたら、おそらく変な顔をされるでしょう。
「問題を解く力に決まってるじゃない」とか、「テストの点数、通信簿の数字」といった答えが返ってくるに違いありません。
もちろん、それはまちがいではありません。
学力は、問題を解く力やテストの点数として表れます。
でも、開票解ければ、テストの点数がよければ、「学力がある」といってよいかというと、そう簡単にはいかないようです。
学力には、「本物の学力」と「見かけの学力」がある、というのが私の考えなのです。
算数の問題を例にとってみましょう。
たとえば、「かぶと虫が3匹います。足の数は全部で何本でしょう」という問題があったとします。
かぶと虫には、1匹あたり六本ずつ足があり、それが3匹いるわけですから、「6×3=18」という式をたてて「18本」というのが答えになります。
ここでの問題のポイントは、「1つあたりの数×個数=全体の数」というかけ算の基本的な考え方が理解できているかどうかにあります。
この問題を説明したあとで、つぎに「8人乗りのボートが4そうあります。全部で何人乗れますか」という問題をやらせてみます。
「1そうあたり8人乗れるボートが4そうあるから、8×4=32で、32人」というように考えられる子どもは、さきほどの問題の意味を完全に理解していますから、心配ありません。
こうした理解を積み重ねていけば、かならず「本物の学力」が身についていく、と考えていいでしょう。
けれども、なかには、
「いまはかけ算の問題をやっている。
さっきは6×3だった。
だから今度はきっと8×4だろう」と考えて「8×4=32」という「正解」を出す子どもも、何人かいるのです。
こういう子どもは、いわゆる「要領のいい子」ということになるわけですが、私はこれを「見かけの学力」と呼んでいるのです。
問題を解く力があるかないか、ということだけを見ているかぎり、この「本物の学力」と「見かけの学力」は区別できません。
「だったら、どっちでもいいじゃないの」と思われるかもしれませんが、違いは小学校高学年から中学、高校と進むにつれてしだいに表れてきます。
「見かけの学力」しかもっていない子どもは、応用問題ができないのです。
たとえば中学校で、方程式を解くことはできても、文章題から自分で方程式をたてることができないようなことになります。
学校のテストでは、ほんとうの意味での応用問題というのはあまり出題されません。
せいぜい、教科書の問題の数字を変えただけといったものが多いので、それでもなんとかついていけるでしょう。
また、公立高校の入試なども、基本的な問題が多いですから、高校までははいれるかもしれません。
でも、そのころには確実に数学嫌い、数学アレルギーのような子供になってしまっています。
高校ではまず、落ちこぼれるでしょう。
「小学校のころは勉強も好きで、成績もよかったんですけど、中学にはいったらとたんにやらなくなって…、」と嘆くお母さんに、よく出会います。
そこで、小学校のころどんな勉強をしていたのかを聞いてみると、計算ドリルや漢字練習などを毎日きちんきちんとやっていても、文章題はあまりやらなかったり、計算だけをどんどん先に進んで練習させるような塾に喜んで通っていたり、というような場合が多いのです。
こういう子どもは、「見かけの学力」はちゃんと身につけています。
ですから、学校の成績は悪くありませんし、開票解けたりいい点数をとれたり、それでほめられたりといぅのはうれしいことですから、そのためには喜んで勉強もします。
でも、本当に勉強が好きなわけではありません。
したがって、解けない応用問題がふえてくると、とたんに勉強がいやになってしまうのです。
「見かけの学力」だけをもっている子どもは、けっして、本当の意味での「勉強好き」にはならないのです。
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問題をたくさんやらせるよりじっくり考えさせるほうがいい
子どもが20分勉強して、そのあいだに10問の問題を解いたとします。
そうしたら、おそらくお母さんは、「よくやったわね、がんばったわね」とはめてあげるでしょう。
でももし、同じ20分のあいだに一問しか解けなかった、あるいは一問を考え続けて、結局まだ解けていなかった、としたらお母さんはどうするでしょう。
「ほんとうに考えていたの? ほかのことを考えていたんじゃないの?」などと言ってしまうのではないでしょうか。
そうすると、子どもも、「時間のかかる難しい問題を考えるより、やさしい問題をたくさんやったほうがお母さんにほめられる」と思ってしまいます。
そして、ちょっと苦労しそうな問題にぶつかると、とりあえず飛ばしておいて、数だけこなすというようになります。
これは、「考える」という過程よりも、「何問解いた」という目に見える効果をだいじにする発想につながります。
矢指問題だけで数をこなすというのは、言ってみれば、野球の練習をするのに、ランニングや素振りなどの基礎的な練習ばかりして、ボールを打つ練習はなかなか当たらないからやらない、というのと同じです。
これでは、野球をしても、いつまでたってもヒットが打てるようにはなりません。
たとえ結果的には解けなかったとしても、一つの問題をじっくり考えるということは、それだけで、よい思考のトレーニングになります。
考える力は、考えることを繰り返すことによってしかつきません。
ですから、子どもが20分も考えたということは、とても素晴らしいことなのです。
できる問題を10問解くより、できない問題を考えてみるほうが、子供の学力を伸ばすためにはずっと効果的です。
子どもがよく考えた問題については、まずその「考えた」ということ自体をほめてあげてください。
「そんなに考えてたの。えらいわね」
「じっくり考えられるということは、お兄(姉)さんになった証拠ね」
というぐあいにほめられると、子どもには「考える」ことのたいせつさがわかってきます。
そして、その間題をかならず最後まで自力で解かせてあげてください。
考えても解けない、ということで、子どもの中にも欲求不満がたまっています。
それは、わかった、解けたという体験でしか解消できません。
ですから、「あとは答えを見て、やり方を確かめておきなさいね」というのはダメなのです。
子どもが、「考えるのはムダだ、答えを見たり、人に聞いたりしたほうが早い」というように考えてしまうからです。
もちろん、ヒントを与えたり、誘導してあげたりするのはかまいません。
ただ、教えすぎないことです。
「これこれこうだから、式はこうで、答えはこうなるわね」と、お母さんが説明してしまっては意味がありません。
これは、親が子どもに教えるときには、いつでも気をつけなければならないことです。
子どもがつまずいている問題は、大人から見れば簡単な問題ばかりですから、ついイライラして全部説明してしまいたくなりますが、そこはお母さんのほうもぐっとがまんすることがたいせつなのです。
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お母さんの褒め言葉は、子どものやる気を引き出す
お客さまが来て、いすに座ったとき、子どもがふと気がついて、用意してあったおしぼりを持ってきたとします。
お母さんは「よく、気がついたわね」とほめてくれ、お客さまからも「えらいね、ありがとう」とお礼を言われます。
そうすると、つぎからはお客さまが来るたびに、おしぼりやお茶などを出すようになるはずです。
こんなことは、子どもにはよくあります。
子どもにとって、大人、とくにお母さんからほめられるということは、絶対の価値をもっています。
ですから、一度ほめられたことは何度でもやろうとしますし、途中ではめられたことは最後までやりぬこうとします。
勉強についてもそうです。
「よくできたわね」「がんばったわね」と、いつもほめられている子どもは、やる気も出ますし、勉強が好きになります。
反対に、「どうしてこんな問題ができないの?」「なんでそんなに時間がかかるの?」などと、いつも叱られている子どもは、勉強が苦痛になり、しだいに嫌いになっていきます。
子どもが悪いことをしたときは、きちんと叱ることが必要ですが、勉強については叱ることは禁物です。
問題が解けなかった、答えをまちがえたことについて、子どもは何も悪いことをしたわけではないのですから。
テストについても、「全部できるのが当たり前、できなかった問題はマイナス」という発想を、「現在の点数がその子どもの実力、できなかった問題ができるようになればプラス」という発想に変えてください。
どんな点数をとってきたとしても、その子どもは、できる範囲で精いっぱいがんばったのです。
まず、そのことを認め、ほめてあげます。
子どもも、点数が悪いときは内心いやな思いをしています。
それをお母さんのほめ言葉が解消して、次回はがんばろうという気持ちになります。
問題が解けたら解けたことを、考えたけれども解けなかったら考えたことを、計算ができたらできたことを、とにかく、子どもがやったことをつねに認めてあげ、ほめてあげればいいのです。
これは、甘やかすということとはまったく違います。
大人の基準からすれば、まだまだ足りないように見えるかもしれませんが、子どもなりにがんばっているのですから、ほめられて当然なのです。
お母さんが勉強について常にプラス思考をもち、その意識で子どもに接していれば、子どももしぜんにプラス思考を身につけます。
それが自信とやる気につながります。
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あいさつができない子は、消極的で学力も伸びにくい
塾にくる生徒の中には、大きな声で「こんにちは!」と言いながらはいってくる子どももいます。
また、こちらが「こんにちは」と言ってはじめて「こんにちは」と返事を返してくる子どももいます。
なかには、「こんにちは」と言っているのに黙ってわきをすりぬけていく子どももいます。
「知っている人に会ったらあいさつをする」これは、しつけの中でももっとも基本的なものの一つです。
身につけるのに、それほど苦労するとも思えません。
幼いころは、人見知りをするという一時期もありますが、小学生にもなったら、それは理由になりません。
あいさつができないと、「いちばん簡単なしつけもできていない子」ということになりますから、塾では、あいさつだけはできるまでやり直させるようにしているそうです。
あいさつというのは、人と人とのコミュニケーションの出発点です。
あいさつをかわすことによって、おたがいに「私はあなたとコミュニケーションをとる用意がありますよ」という態度を表明しあっているのです。
よく、仲たがいをしている友人どうしなどが、道で会っても横を向いてすれ違うというような光景がありますが、これは「いまは、君とはコミュニケーションをとらないぞ」という意思表示になるわけです。
子どものころから、あいさつをきちんとする習慣をつけることによって、誰とでもコミュニケーションできる姿勢がしぜんに身につくのです。
あいさつができない子どもは、ほかの場面でもその影響が出てきます。
たとえば授業中に手をあげるかあげないかもそうです。
手をあげるということは、先生とコミュニケーションをとるという積極的な態度です。
答えが「わかっていて」も手をあげなければ、先生には「わかっていない」としか伝わらないわけです。
学力をつけるためにはマイナスとなります。
もちろん、あいさつさえできれば学力が上がるなどと言うつもりはありません。
とても明るくて、あいさつも大声でするけれども、学力はいま一つという子どもも、いくらでもいます。
しかし、こういう子どもでも、あいさつができない子どもよりは、学力が伸びる可能性は高いと言えるのです。
あいさつは、学力を上げるために教えるものではありません。
ただ、あいさつのできないことが、学力の面ですらマイナスになる可能性があるのです。
将来、社会生活を送るうえで、そのマイナスははかりしれません。
「たかがあいさつ」と考えているお母さんは、ぜひ考え直してください。
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子どもの勉強意欲をなくすだけの、2つの間違った教育
勉強には「競争心」も必要だという言葉を、よく耳にします。
たしかに、はっきりとゴールの決まった結果の重視されるものの場合、競争相手がいるかいないかは、能率や成果を大きく左右します。
陸上競技などでも、大差のついた競争よりも、ゴール間際までせりあった競争のほうがいいタイムが出るということは、よく知られています。
ですから、たとえば受験勉強などにかぎっていえばライバルの存在や点数を競う環境が、よい結果につながるということもあるでしょう。
しかし、小学校、とくに低学年の勉強についていえば、これはあてはまりません。
この時期の勉強の目的は、将来人間として生活していくために必要なさまざまな考え方の基礎を身につけること、そして中学、高校、大学と続く学校生活の中で、自ら学習する姿勢を養うことです。
ここで大切なのは、結果よりも過程です。
好奇心から出てくる本当のの意欲やる気をうまく引き出してあげることが、もっとも重要なのです。
こうした場合、競争心はむしろマイナスに働きます。
他人と比べるとき、どうしても点数や成績などの「結果」で比べることになりますから、子どもは結果ばかりを気にするようになってしまうのです。
「知りたい」「理解したい」というほんとうの意欲は忘れられ、「点数を上げたい」という欲求だけになります。
こうなると、「できる」子どもにはなるかもしれませんが、「わかる」子どもには育ちにくくなるのです。
そして、点数が思うように上がらないと、一気に勉強が嫌いになってしまいます。
たしかに、お母さんどうしの競争心もありますから、よその子の点数が気になるのはいたしかたありません。
子どもがテストを持って帰ってくると、つい、「○○ちゃんは何点だったの?」とか、「△△君はこないだ100点だったらしいわよ」などと言ってしまいがちです。
また、兄・姉ができる子だった場合など、「お兄ちゃんはこんなところすぐできたわよ」「お姉ちゃんはこんな点数とったことなかったわ」といった言葉も出てしまうことがあります。
でも、こうした言葉は、じつは子どものほんとうのやる気をそいでしまう可能性がひじょうに高いのです。
同じような理由で、「100点をとったらファミコンのソフトを買ってあげる」とか、「80点以上だったらお小遣いをアップしてあげる」といった、ごほうびでつるという方法も感心できません。
なんとかやる気を出させたいという親心はよくわかりますが、かえって逆効果になる場合も少なくありません。
こんな例もあります。
小学校の高学年になったころから、成績によってお小遣いを決めていたお子さんの話です。
それが功を奏して(と親は思っていたのですが)、小学校ではまずまずの成績をとり、中学一年までは順調にいきました。
ところが、二年生になったとたん、一学期の中間テストから、ガクンと成績が落ちたのです。
驚いた親は、あわてて塾に相談に行きました。
そこで実力テストをやらせてみると、一年生の内容もけっして理解しているとはいいがたく、成績がよかったのが不思議なほどでした。
そして、期末テストのときに理由がわかりました。
先生に呼び出された親は、子どもがカンニングの常習犯だったということを聞かされたのです。
お小遣いのアップにつられたその子は、「点数」を得るため、カンニングをしていたのです。
ところが、中学二年のとき、席順が前になったことからカンニングがうまくいかず、成績が落ちてしまったわけです。
あわてて無理にカンニングに頼ろうとしたところで、とぅとうバレてしまったというのが真相でした。
子どもの心理を考えると、これはけっして特殊な例だとは思えません。
ごほうびを与えるにしろ、罰を与えるにしろ、子どもの目を結果だけに向けさせてしまうような方法は、長い目で見た場合うまくいかないことが多いようです。
子どもが興味をもったことは、ただ黙ってやらせてあげればよい
「うちの子は鉄道にだけは夢中で、部屋の中も模型やら雑誌やらでいっぱいなんですよ。
もうちょっと学校の勉強にも力を入れてくれればいいのに」。
こんなお母さんの声もよく聞きます。
鉄道であったり昆虫であったり、あるいは野球であったりサッカーであったり、何か一つのことに熱中してしまうというのは、どちらかというと男の子に多い傾向のようです。
お母さんにしてみれば、鉄道にいくら詳しくても将来べつに役に立つわけじゃないし、あるいは、スポーツに熱中したところでそうそうプロになれるわけでもありませんから、その分勉強がおろそかになったら困る、と心配になるのも、もっともです。
ですから、つい「いいかげんにしなさい」と叱りたくなるのも無理はないのです。
でも、ちょっと見方を変えてみましょう。
子どもが何かに熱中するということは、好奇心の純粋な表れであり、何かをしたいというエネルギーに満ちていると考えることができます。
好奇心というのは、一つの疑問が解決されるとそれがすぐつぎの疑問につながり、どんどん広がっていくという性質をもっています。
ですから、一つのことに熱中していた場合、それがしぜんにほかの分野のことにも広がっていくものなのです。
たとえば鉄道に興味をもっている子どもは、路線について調べているうちに、しぜんに日本の地理に興味が広がっていくかもしれません。
あるいは、列車そのものへの興味が、電気関係や工学関係への興味につながっていくかもしれません。
そして、このように一つの分野について知識を追い求めていけば、自然に難しい事柄にも挑戦するようになります。
専門的なことなら、まわりに教えてくれる人もいないでしょうから、あれこれ本を見比べたりしながら、自分でなんとか理解しようとするでしょぅ。
興味のあることなので、それはちっとも苦になりません。
そして、ついにわかったときの喜びは、何ものにもかえがたいものがあるに違いありません。
こういう取り組み方は、じつは、勉強に対するもっとも望ましい態度にほかならないのです。
つまり、何かに熱中できる子どもは、ほんとうの意味で勉強好きな子どもになる可能性が、ひじょうに高いのです。
スポーツに熱中する場合も、すこしでも上手になるために自分なりに工夫して練習したり、コーチやうまい人の話を真剣に開いて自分なりに消化したりという体験の中で、かならず貴重なものを得られるでしょう。
そして、何に熱中するにせよ、かならず得られるのが「集中する」という体験です。
子どもに集中力をつけさせることの難しさは、教育にたずさわったことのある人間なら、誰でも痛感していることです。
けれども、何かに熱中した体験をもっている子どもとそうでない子どもでは、明らかに違いがあるのです。
自分が集中できるということを知っている子どもは、「切り替え」の要領さえ覚えれば、どんな勉強であってもすぐ集中できるようになります。
ですから、子どもが何かに興味をもって、やりたいと言い出したら、ぜひ黙ってやらせてあげてください。
そして、子どもがそのことについての話をしたがったら、興味をもって聞いてあげてください。
こういう話をすると、かならずといっていいほど、「ファミコンでもいいんですか?」という質問を受けます。
これは難しい質問です。
集中力という点では、ファミコンもほかのものと変わりませんから、まるっきりマイナスだとは言えないでしょう。
ですから、もしお子さんが熱中しているのなら、「ファミコンはよくない」という理由で無理やりやめさせるのは考えものです。
ただ、ファミコンの場合には、二つ問題があります。
一つは、目をはじめ、健康的にはあまり望ましくないということです。
もう一つは、機械を相手にした遊びですから、コミュニケーションをもてないことをあげることができます。
受け身的な遊びでもあり、指示待ち人間になる可能性がおおいにありえるのです。
月並みな結論になりますが、ファミコンの場合はやはり、ほどほどにとどめさせるのがいいように思います。
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「できる子」よりも「わかる子」を育てることが大切
「本物の学力」と「見かけの学力」の違いは、「わかる」と「できる」の違い、と言い換えることができます。
以前の記事で、算数だけを例にとって説明しましたが、この「わかる」と「できる」の違いは、ほかのどの教科にも表れます。
「暗記科目」の代表と考えられている社会を例にとってみましょう。
たとえば、五年生では日本各地の自然や産業について学びますが、そこで「北陸地方は日本の穀倉地帯(米どころ)」と教わります。
このとき、「北陸地方では米がたくさんとれる」という事実だけを覚えれば、テストで点数をとることはできます。
ここで満足してしまう子どもも、少なくありません。
でも、これは「できる」だけです。
いっぽう、「なぜ北陸地方では稲作が盛んなんだろう?」というところにまで興味をもち、考、至る子どももいます。
すると、「北陸地方は雪が多く、田畑を耕作に使える期間が短い」「稲は種をまいてから収穫までの期間が短い」という事実を結びつけて、「なるほど、だから米なのか」と納得することができます。
これでこの子どもは、「北陸地方は日本の穀倉地帯である」ということが「わかった」ことになるわけです。
社会科は、けっして「暗記科目」などではありません。
歴史の勉強になれば、この「なぜ」という考え方がいよいよたいせつになります。
というより、歴史というのはこの「なぜ」「どうして」を追いかける勉強だといえるからです。
ですから、年代や事件の内容だけを暗記している「できる子」と、歴史の流れを理解している「わかる子」の違いは大きいのです。
理科は、本来科学的な考え方を養う科目です。
小学校では、できるだけ実験や観察を通して自然現象にふれ、そのうしろにある自然のしくみ、法則のようなものを理解させるようなカリキュラムが組まれています。
扱われる事実や現象はひじょうに少なくなっていますので、ただ覚えてしまおうと思えばたいした苦労はいりません。
ところが、中学校になると内容の密度は急に濃くなります。
その落差は、おそらく四教科のうちでいちばん大きいでしょう。
ですから、小学校のうちに実験の意味などをきちんと考え、「わかる」ところまでいっていないと、とたんに挫折してしまうのです。
中学にはいって理科が嫌いになる子どもが多いのは、こうした理由によるものです。
国語の場合は、「できる」だけで点数がとれるということは少ないでしょう。
「国語ができる子」というのは、基本的に「わかる子」です。
ただ、本来の国語力である読解力や表現力をつける勉強は、家庭では難しいので、ついつい漢字の練習や語句の暗記などですましてしまうことになります。
そういうことだけやっていても、国語の学力は伸びません。
「わかる」子どもというのは、ものごとをきちんと論理だてて考える力がある子どものことです。
考える力や習慣が身についているかどうかは、学校の成績に影響するばかりではありません。
じつは、社会に出たときに、その差が大きく出てきます。
言われたことはできるけれども、自分で企画を立てたり、同じやるにしても能率のいい方法を工夫することができず、「いったい学校で何を勉強してきたんだ」と言いたくなるような新社会人がふえているそうです。
これなどは、学生時代を「見かけの学力」だけでなんとか切り抜けてきてしまったために、自分で考える力が身についていなかった、ということなのではないでしょうか。
「できる子」よりも「わかる子」を育てることがたいせつだ、と私が考える理由は、そこにあります。
学校の成績はともかく、社会に出てから、意義のある仕事をし、自分で納得のいく充実した人生を送らせてあげるためにも、子どもに、自分の頭で考えて「わかる」体験を積み重ねさせてあげる必要があるのです。
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生活体験が豊かな子は、学力も確実に伸びていく
「よく学び、よく遊べ」とは、むかしからよく言われることですが、子どもの学力をすくすくと伸ばしてあげるためには、小学生のうちは、むしろ思いっきり遊ばせてあげたほうがいいぐらいなのです。
子どもは「遊び」をとおして「考える力」や「創造力」を身につけます。
さまざまな疑問を感じて、それを「なぜ?」「どうして?」と尋ねてきます。
これらのすべてが、いわゆる「生活体験」というものです。
生活体験が豊かな子は、まちがいなく学力も伸びていきます。
そして、この生活体験だけは、学校や塾では教えられません。
ですから、遊ぶ時間を削ってまで、計算ドリルや書きとりドリルばかりをやらせていたのでは逆効果になりかねないのです。
問題の解き方やテクニックだけを覚えていて、テストでいい点をとる「できる」子の学力を、私は「見かけの学力」と呼んでいます。
この「見かけの学力」は、ただ「できる」だけ、「質問の答えを出せる」だけで、子どもの考える力を伸ばしてはくれません。
ですから、いまは「できて」も、来年はどうなのか、三年後、五年後はどうなのかといえば、けっして安心していられません。
「小学校のときはできたのに……」と、途中で息切れするケースがじつに多いのです。
いまの社会では、指示されたことをこなすだけの人間より、新しいことを考える人材が求められていますが、こうした子は将来、社会に出てからも、指示を与えられないと何もできない、「創造力」「発想力」のない社会人になってしまうことさえ考えられます。
これらはすべて、はじめに述べた「生活体験」が豊かな子と、そうでない子の違いによるものです。
生活体験の豊富な子は、勉強が好きで、考える力もありますから、落ちこぼれることもありませんし、学力もどんどん伸びていくものなのです。
といっても、ただたんに子どもを好きなように遊ばせておくだけの放任がいいと言っているわけではありません。
私がここでいう「生活体験」のなかには、家の手伝いをしたり、あいさつやマナーを守るなどのしつけも含まれています。
たとえば、あいさつがきちんとできること、電車やレストランなど、おとなしくしている必要のある場所で騒がないこと、正しい箸の使い方ができることなど、こうしたいわゆる「しつけ」は、本物の学力向上のためには忘れてはならないだいじをことだということです。
机の前に何時間も座らせて、何冊もドリルをやらせるぐらいなら、こうした「しつけ」や遊びに時間を使ったほうがずっと有意義です。
そこで、子ども自身がもっと「考える力」をつけられるような家庭学習のヒントをこのサイトのなかでいくつかお話し、これからも子供の学力を伸ばす為の、生きる力をつける為のたくましい子に育てる為の、参考になる記事を書いていこうと思います。
一人でも多くの子供達が、より充実した少年・青年時代を送り、立派な大人へと育っていく、その一助になることが当サイトの目的です。
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自己実現を達成するには、どうすればよいか?
まず何よりも、自分の子供の「強み」・「弱み」は何なのかをつかまなければいけない。
知性的・感性的な能力、性格、価値観、嗜好性、問題意識といった面から見て、これからの時代において「強み」となる資源は何か、「弱み」となる資源は何かを把握するのである。
そうした前提に立って、では、どうすることが、何を実現することが、子供の人生にとっての幸福なのかと考えるのである。
将来の幸福を考える基本は、どういう方面に向いているか、何ならできるか、ということであり、
子供が何をやりたがっているかとか、親として何をやらせたいか、などではけっしてないことに注意しなければいけない。
これは、幼い子供だから、ということではなく、たとえば、大学生の就職などについても言えることなのである。
キャリア・ウーマン輩出校としても有名な津田塾大学の学生生活課長である西山京子氏は就職活動を前にした学生に対して、次のように指導するという。
1 何をやりたいかは、重視しないこと。
最近の学生は、憧れや見栄から、自分のやりたいことに固執してしまう。
そこには、それが、ほんとうに自分に向いているのか、という観点がないため、結局うまくいかない、ということになりやすい。
2 したがって、あくまで自分の得手不得手は何かという考察を踏まえて進路を決めること。
「自分が英文科にいるのなら、なぜ、英文科に来ようと思ったのか?
それは、英語が得意だったからか?
では、いつ、どういうきっかけで、英語が得意になったのか?
その背景は、いったい何なのか?」
そういう形で、突き詰めて考えていくように指導するのだという。
端的に言うならば、すでに22才に達している女の子たちに対して、10年前まで記憶をさかのぼることによって、自分自身の「人生脚本」をできるだけ正確に把握するよう指導しているのである。
まことにみごとな見識であると言えよう。
どういう経緯で、津田塾大学に入ったにせよ、それが、みずからの「人生脚本」を生かす形のものだったなら、就職の方向も、大きく踏みはずすことは少ないだろう。
しかし、「人生脚本」を生かしていないとすれば、就職もまた、選択を失敗する可能性がきわめて高い。
だからこそ、ここで、「人生脚本」の書かれた時期までさかのぼって、自分の得手不得手を、もう一度確認しよう、というわけなのである。
世の中のあかで、彼女らの直観力も曇っていることだろう。
はたして、どれほど正確に「人生脚本」は見えてくるのだろう。
仮に見えたとしても、方向転換は容易ではあるまい。
残念ながら、残された選択肢はもはや少ないと言うべきである。
やはり、「人生脚本」というものは、それが書かれた前後に、しっかりと読んでおかなければ、どんどん使いにくくなってゆくのである。
真に子供の自己実現を考えるならば、中学入試を考える時点において、「人生脚本」を生かした基本的方向づけは、どうしても必要なのである。
子供には無限の可能性があるなどと言って、決定を先に延ばそうとするのは、単なる怠惰か親としての責任放棄にすぎないということを認識しなければならない。
ただ、だからと言って、あまり神経質になることはない。
いまなすべきことは、あくまで、基本的な方向づけである。
「人生脚本」と社会環境の変化を相互ににらみながら、基本的な方向づけを行い、以後、その実行段階において、微調整を加えてゆけばよいのである。
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子供への接し方と勉強・学力の関係
中学、高校、大学受験という大事業にとり組むとなると、家族の老たちは、どうしても重苦しい気分になるし、ピリピリと神経質な気分になってくる。
状況を考えれば、それも、やむをえないことではある。
しかし、こうした雰囲気というものは、まことに不思議なことに、中学入試終了後も、程度の差はあれ、存続し、家庭内の雰囲気の基調をなすものである。
それは、結局、大学受験が終了するまでつづくのである。
たとえてみれば、中学入試のための「戦時体制」が、終戦後も維持され、大学入試という最終戦争に決着がつくまで、その体制はくずれないということなのである。
その「戦時体制」下において、子供は、さまざまな「プレッシャー」を受けることになる。通算すると、8〜9年ということになろうか?
これだけ長い間にわたる「プレッシャー」によって、子供は、いったいどんな影響を受けるだろうか?
あなたの子供は、すでに「戦時体制」下にいるのだろうか? それとも、これから入ってゆくのだろうか? いずれにしても、たいへんな「プレッシャー」に耐えなければいけない。
それは、言うまでもなく、家族からのものである。
代表的なものをあげよう。
(1)家族みんなが、入試に向けて頑張っているんだから、当事者のお前は、目いっぱい頑張れ! 恩着せがましい「国家総動員体制」。
(2)常にベストを要求し、子供の達成水準を、目標と現実の禾離という形ではかろうとする、「減点法」による評価。
(3)生活の隅々まで立ち入り、管理する。ちょっと息抜きでもしようものなら、「そんなことで、××中学に受かるとでも思っているのか!」などと言う。
(4)競争相手を蹴落とすことにのみ、プラス評価を与え・その他の価値を認めない。価値観の一元化。
このようなプレッシャーを、入れかわり立ちかわり受けることによって、子供はしだいにネガホリック(自己否定中毒症)に陥ってゆく。
要するに、自分自身に対して、OKの出せない人間になってしまうのである。
(1)〜(4)のようなあり方は、教育熱心な家庭に顕著に見られる傾向であり、これが、名門と言われる一貫校の生徒たちの特有な雰囲気を醸成していくのである。
表面の伸びやかで、自信ありげな態度とは裏腹に、彼らの自己評価は低く、いつも人の目を気にして、失敗を恐れ、おどおどしている。
「常に完壁に見せなければいけない!」という強迫観念にさいなまれ、自分の本心を悟られまいと神経質になり、自分の心のまわりには、絶えずバリケードを築いているのである。
そして、このような人間が、異性とまともにつきあえずに、30代の半ばにもなって、処女や童貞でいたり、成田離婚したりするのである。
非常によく使われる例ではあるが、このネガホリックの人間は、コップに半分入った水を見て、半分しか入っていないと思う。
それに対して、健全な人間は、半分も入っていると思う。
ネガホリックは、いまや、教育熱心な家庭に猛威をふるっている。
こうなってしまう原因には、自分の両親や、学校の友人たちの両親が、概して社会的に一流であると同時に、友人にも優秀な者が多いということがある。
しかし、実を言えば、それは子供をネガホリックにする決定的要因ではない。
子供をとり巻く人間たちが、どんなに「りっぱ」であっても、そのことが直接の原因になって子供が萎縮し、つぶれてしまうなどということはありえない。
子供をスポイルしてしまう真の原因は、子供をとり巻く大人たち自身がネガホリックである場合が多いことにある。
最初にあげた(1)〜(4)は、実は、自己評価の低いネガホリック人間特有の態度なのである。
親が高い自己評価を持っていれば子供への接し方も健全なわけであり、問題はないのである。
しかし、親の自己評価が低い場合、そうした価値観は、当然、子供へも波及するので、子供のネガホリズム度は、高まらざるをえないのである。
(1)〜(4)の親の態度に、少しでも心当たりのある人は、赤信号である。
あなた自身がすでにネガホリックになっている可能性がある。
もし、あなたが、程度の問題はあれ、ネガホリックであるなら、なんらかの方法で、それを克服してゆくことが必要である。
それをしなければ、その影響は必ず子供へと及び、不幸な結果を招くことは目に見えているからである。
挫折したエリートたちの両親には、社会的地位も高く、裕福で、教養豊かな人が多かった。
しかし、彼らには、心の健康が欠けていたのである。
自分の子供を、大学入学までつづく長い受験戦争へと投じるのであれば、まず、両親が、心の「健康診断」を受けることがたいせつであろう。
最後に、「戦時体制」下で、子供をつぶさないためのポイントを幾つかあげておこう。
(1)親がこんなに苦労しているのにとか、こんなに心配しているのに、などという態度は見せない。
(2)子供の出した成果に対し、目標と現実の諦離ではかるという「減点法」ではなく、あくまで肯定的に、「加点法」で評価する。
子供が入れたコップ半分の水を見て、なあんだ半分か、などというのではなく、半分も入れたのかという姿勢をとる。
(3)生活の隅々まで管理して、すきを見つけてはしかりつけるのではなく、多少のむだはあっても、自主性を尊重し、
しかも、その責任は自分で負うということを姿勢として植えつける。
(4)競争相手を蹴落とすことのみを価値あることとして認めるのではなく、そういう価値観の存在を認める一方で、
人間関係の基本は、相手の得る効用と自分の得る効用の積を極大にするところにあるということを教える。
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これからの時代は、感受性が鈍いと一流大学に入れない!
社会環境の大きな変化に伴い、受験界で、大学入試における科目数の削減と、小論文入試の導入が進んでいるという話をした。
そして、その小論文では、社会的関心や、人生に対する主体的な姿勢、あるいは、自分で物を考え、感じとる力が必要であると述べた。
ここでは、感受性の強弱が、小論文入試にどういう影響を与えるかを見てみよう。
長い資料文の「要約」力にすぐれた学生は、ほとんど例外なく、「感想文」を苦手とするということだ。
逆に、すばらしい感想文を書く学生は、必ずと言ってよいほど、要約がまともに書けない学生の中にいるのである。
要するに、論理的で頭の回転の速い学生には、文章の上でも、自己表現のできない者が多いということだ。
それとは逆に、論理性や頭の回転ではパッとしない学生の中に、みごとな自己表現を示す学生がいるのである。
小論文入試において、「要約」+「感想文」というスタイルは、「分析力」を要求するタイプと並んで代表的なものである。
配点比率は、要約:感想文=3:7もしくは4:6である。
そうすると、従来型の秀才や才媛は、「要約」で高得点を上げても、「感想文」がまともに書けないために、総合点では、合格ラインには届かないことになる。
それに対して、従来は、どちらかと言えば劣等生扱いされた連中だが、自己表現はみごとだという学生が、「要約」の点は悪いが、「感想文」で、大量に得点することによって、総合点では、合格ラインに到達するということが起こるのである。
しかも、こうした傾向は、けっして二、三の大学ではなく、早稲田・慶応などの超一流大学において、起きているのである。
言いかえれば、子供のころから、勉強中心の生活で、知性ばかり磨き、感受性の育っていない学生は、もう一流大学になど入れない時代になりつつあるということだ。
逆に、勉強はそこそこでも、豊かな感受性を育ててきた学生こそが、一流大学に入りやすい状況が生まれつつあるということなのである。
これからの時代、一流大学に入るためには何が必要かということが、わかっただろう。
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学力アップを目指すなら、勉強以上に注目すべき部分がある
子供の中学受験を考える場合、どうしても、偏差値至上主義に傾きやすく、子供の人間形成という面は、二の次、三の次になりやすい。
その結果として、仮に上位の中学に入ったにしても、さまざまなゆがみを生じ、本人自身が人知れず悩み苦しむという事態になる。
子供の「人生脚本」が固まりつつあるいま、知性のみならず、感受性にかかわる部分を、いかに生かしてゆくべきかを、親として考えなければいけないのではないだろうか?
「優等生」「インテリ」である前に、まず「健全な人間」でありたいものだ。
あなたの子供は、秀才型か、それとも努力型か?
人もうらやむスーパーエリートが、人知れず悩むという状況が、最近非常に多いようだ。
何不自由なく育った「お坊ちゃん」「お嬢ちゃん」に、しかも、どちらかと言えばインテリに、この手のタイプが多いというあたりに、ヒントがあるように思われる。
つまり、子供のころから、塾だ家庭教師だと言って、ほんとうに、それが子供の持ち味にかなっているかどうかという顧慮もなく、知性を伸ばすことにのみ狂奔し、感受性をすっかり微弱にしてしまっているのである。
表面的には、秀才や才媛で、しかも、すなおで優しい。
しかし、いざつきあってみると、自己中心的で、思いやりがない。
いつも失敗を恐れ、神経質で、本心を見せない。
したがって、当然、相手の心の中に飛び込んでゆくことはできない。
人の痛みを自分の痛みとして泣くこともできない。
しかも、自分では、そういう自分を知っていて、いつもいつも、心は飢餓状態にあり、しかし、自分では、どうすることもできない。
ほんとうは、どうすることもできるのだが、一歩を踏み出す勇気がない。
深い意味での、「ふれ合い」を求めていながら、全く受け身の姿勢しかとれない。
それどころか、他人が、へたに接近してこようものなら、どう対応したらよいかわからず、パニックに陥ってしまう。
肉体的な意味での、男女の「ふれ合い」は、両極に分解する。
しかし、精神的な意味での、男女の、あるいは、性を超えた人間同士の「ふれ合い」になると、ほとんど全滅に近い。
つまり、物理的にセックスはこなすけれども、心のふれ合いのない「つきあい」か、肉体的にも精神的にもふれ合うことのない「つきあい」が、いまや大部分を占めているのである。
スーパーエリートは(もちろんすべてとはいわない)、小・中学生のころから、友達はいたけれども、それは同時に競争相手であって、けっして心を許すことのできない相手だったのである。
異性の友達だって、けっしていなかったわけではないのだが、結局は、受験戦争の「戦友」であったり、「敵」であったりして、「女」として見ることはなかったのである。
そういうエリートにとっては、お母さんだけが、心を開ける人だった。
しかし、それにも限界はあり、思春期以降の性にまつわる問題は、エロ漫画を相手に妄想をたくましくする以外になかった。
そして、そういう状態が、延々と20年近くもつづいたのである。
対人面において、そうした感受性を発揮し、伸ばしていくという機会を全く得なかったために、すっかり感受性微弱に陥ってしまったのである。
これは決して極端な話ではない。
信じられないかもしれないが、20代後半から30代前半の未婚の世代にとっては、こうした現象は、いまや「常識」なのである。
勉強によって、知性を伸ばしてゆくことは、もちろんたいせつだが、それ以上に、感受性そのものを豊かにしてゆくとともに、それが、対人面において、存分に発揮されるような環境作りをすることが、いまのような時代だからこそ必要なのである。
学歴形成以上に、豊かな人間形成ということが、自己実現達成のための重要な要素であることを忘れてはならない。
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あなたの子供は、秀才型か、それとも努力型か?
ここでは、子供の能力という問題を扱っているので、中学受験生の父兄にとっては、とりわけ関心が強いと思われる、「学力を伸ばすにはどうしたらよいか?」というテーマにも少しふれてみたいと思う。
私は、東大に入るには、瞬発力(頭の切れ)よりも、持久力(努力)が必要であると考えています。
私は、いわゆる「勉強のできる子」には、下記のの四つのタイプがあると考えている。
この四つの類型の中では、タイプC・Dが最も一般的であり、タイプA・B、とりわけタイプAは少ない。
| タイプA | 瞬発力もあるが、持久力もある |
|---|---|
| タイプB | 瞬発力はあるが、持久力にやや欠ける |
| タイプC | 瞬発力は、それほどでもないが、持久力がある |
| タイプD | 瞬発力はそれほどでもないし、持久力に欠ける |
東京大学には、タイプCが最も多く、それに、少しばかりのタイプAがいる。
タイプB・Dは、まず絶対にいない。
東大に入るためには、何よりも持久力が特に必要だからである。
それに対して、慶応や早稲田などの一流私大ほ、タイプB・Cが中心である。
タイプDは、ほとんどいない。
タイプBについては、持久力が足りなくても、慶応や早稲田の受験科目の少ないのをうまく利用して、瞬発力を生かして、要領よく合格水準にたどりつくわけである。
あなたの子供は、どのタイプに属するだろうか?
属するタイプによって、今後の勉強方針も異なってくるので、正しい把握が必要である。
努力型なら、「ポイントをつかむ力」を鍛え抜け!
さて、あなたの子供のタイプが明らかになったとして、では、それを今後の勉強にどう生かしてゆけばよいだろうか?
仮に、タイプCであったとして、では、努力しさえすれば、東大や早稲田・慶応に合格できるのだろうか?残念ながら、世の中そう甘くはない。
はたから見ていて、ほんとうに気の毒になるくらい熱心に勉強をつづけても、一浪、二浪したあげく、三流大学にしか入らないなどというのは、日常茶飯である。
タイプCの子供が、タイプA並みに東大に入ったり、タイプB並みに早稲田・慶応に入れるためには、条件がある。
その条件とは何か?
それは、単に一所懸命に勉強するだけでなく、それを通じて、「ポイントをつかむ力」を身につけるということなのである。
タイプAやBの「瞬発力」というのは、勉強に即して言えば、それは、「ポイントをつかむ力」である。
教師の話であれ、教科書・参考書の記述であれ、人間が伝えようとするメッセージを聞き、あるいは見たときに、その中から最も重要なポイントをすばやく見抜き、理解する力なのである。
そうした、タイプAやBにとっては、ほとんど先天的な能力とも言える「ポイントをつかむ力」を努力で身につけることを通じて初めて、タイプCの子は、タイプAやB並みの一流大学に入れるのである。
「ポイントをつかむ力」のない子は、5倍の時間と労力が必要になる!
では、「ポイントをつかむ力」の有無によって、どの程度の差が生じるのだろうか?
医学博士で、速読の大家として知られる斉藤英治氏は、『全脳速読法』(鹿済堂出版) の中で、「一冊の本の2割の中に、必要な情報の8割が含まれている」と述べている。
これを「二・八の法則」(にっぱちのほうそく)と言うのだそうだが、
何も本とは限らず、教師の話であれ、何であれ、人間が伝えようとするメッセージには、すべて、この法則が成り立つのではないだろうか?
そして、この「2割」がどこにあるかを鋭く見抜く力こそが「ポイントをつかむ力」なのである。
いま、「ポイントをつかむ力」のある子をY君、ない子をZ君としよう。
この2人が、100時間勉強する。
その間に、マスターするのに通常10時間かかる本を何冊ずつ物にできるか?
Z君の場合は、きわめて常識的に、10冊物にする。
しかも、どの本も、最初から最後まで同じような力配分で読むために、途中、注意力散漫になった部分もあり、習熟度としては、8割となる。
10冊の本を8割物にしたということだ。
ところが、Y君の場合、ポイントをつかむ力があるので、1冊の本につき2時間程度で必要な情報の8割を得てしまう。
100時間の間に、実に50冊を物にしてしまうのである。
50冊の本を8割程度物にしたということだ。
Y君は重要なポイントについて、Z君の5倍もつかんだことになる。
逆に言えば、Z君は、Y君の5倍勉強しない限りY君には追いつけないということだ。
しかし、そんなことは、現実には不可能であろう。
Y君であれ、Z君であれ、与えられる時間には限りがあり、その中で、5倍の時間差をつけることなど考えられないからである。
「ポイントをつかむ力」身につけるには、どうしたらよいか?
結局、「ポイントをつかむ力」のない子は、ただやみくもにガリ勉しても、全然効果がないわけであり、
地道な勉強を通じて、「ポイントをつかむ力」をしっかり身につけることが、絶対に必要なのである。
では、どうすればよいか?タイプCや、タイプDの子供には、どんな「救いの道」が残っているのか?
「ポイントをつかむ力」とは、もう何度も述べているように、「文章であれ、人の話であれ、人間が伝えようとするメッセージに2割程度含まれる、最も重要なポイントをすばやく見抜き、理解する能力」である。
とすれば、そういう練習をすればよいのである。
文章であれば、その内容が、科学論文であれ、随筆であれ、歴史書であれ、小説であれ、一定の時間内に要旨をつかむ練習をすればよいのである。
なにも原稿用紙に書く必要はない。
文章を読ませたら、ただちに、それを伏せ、何が書いてあったか、そのポイントを口で言わせてもよいのである。
また、人の話の場合であれば、テレビのニュースでも見させて、終わったときに、そのポイントを解説させるのでもよい。
ニュースでなくてもよい。
ドラマでもよいし、情報番組でもよい。
かたく考える必要など少しもない。
材料は、そこらじゅうに、ゴロゴロしているのである。
人間が伝えようとするメッセージの要旨をつかむ訓練をすることによって、学校や塾での授業の聞き方も、全然違ってくるはずだし、教科書・参考書のマスター度も、まるで違ってくるはずだ。
私は、タイプCの子供であっても、努力によって、東大にも入れるし、実際、東大生には、タイプCが最も多いと言ったが、
東大に入るような、あるいは、慶応・早稲田に入るようなタイプCの子というのは、その勉強のプロセスにおいて、意識的であれ、無意識的であれ、ポイントをつかむ力を身につけていった子供なのである。
ただガリ勉を繰り返すだけで、ポイントをつかむ力を身につけることのなかった子は、結局ただのガリ勉として、三、四流の大学に入って終わってしまうのである。
中学選択の基準として、夏休みや冬休みに、何冊かの本を読ませて、その要旨をまとめさせたり、それを踏まえてレポートを書かせる学校を選ぶというのも賢明だろう。
そうした作業の積み重ねによって、ポイントをつかむ力は高まってゆくからである。
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子供の能力・特性・価値観を把握する
中国古代の戦略家孫子の言葉に、「彼を知り、己れを知れば、百戦して危うからず」というのがある。
自己実現のための将来ビジョンを作るにしても、実社会の環境変化をとらえるとともに、内部環境、この場合、とりわけ子供の能力・特性・価値観をつかんでいることが肝要となる。
あなたは、子供の「人生脚本」をつかんでいるか?
「人生脚本」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
どんな子供でも、12才までに、能力・特性・価値観の基礎が固まってしまうのである。
先天的に生まれ持った素質としての能力・特性・価値観に、生まれてから12才になるまでの間の環境とのかかわり方がプラスされて、本人の意思にかかわりなく、その子の、その後の人生のおおまかな方向が決まってしまうのである。
これを「人生脚本」と言う。
あなたの子供が、現在小学校の高学年であるとすれば、そろそろ「人生脚本」が、固まってきていることだろう。
これから先、なしうることは、社会環境の変化に対応して、能力・特性・価値観の雛型の、どの部分をより強め、どの部分をカバーしてゆくかということだけなのである。
成長するとともに、周囲が驚くような変貌をとげたように見えることがあるのは、ただ単に、周囲の人間が、その子の「人生脚本」をつかんでいなかったからにすぎないのである。
「子供には、無限の可能性があるから」と称して、将来の方向を限定することを嫌う人も多いが、
それは、単に、子供に無限の夢を託していたい夢想家か、すでにでき上がっている能力・特性・価値観の基礎を読みとることがおっくうな横着者の、どちらかである。
子供の中学受験を考えるということは、すなわち、社会環境の変化を読みとると同時に、子供の「人生脚本」をしっかり読みとって、将来の自己実現のあり方を思い描き、それを達成する手段として、どういう中学に進学したらよいかを考えるということなのである。
さあ、あなたはいったい、どの程度自分の子供の「人生脚本」をつかんでいるだろうか?
「人生脚本」をどうやってつかむか?
「ジョハリの窓」というのがある。
これは、人間に対する認識のあり方を、四つの窓にたとえて表現したものである。
つまり、四つの窓をあけることによって、子供の「人生脚本」も、その全貌を明らかにするのである。
1つめの窓は、自分自身よく知っているし、他人から見ても明らかだという自分自身の姿である。
姿とは、能力であり、特性であり、価値観であり、そしてまた、表向きの顔である。
2つめの窓は、自分自身は、よく知っているのだが、他人には見えていない、あるいは見せていない自分自身の姿、または本音である。
3つめの窓は、自分自身では、気づいていないのだが、他人の目には明らかな自分の姿、つまり癖である。
4つめの窓は、自分自身でも気がついていないし、他人の目にも見えていない自分の姿である。
子供の「人生脚本」を的確にとらえるためには、この4つの窓をしっかり、つかむ必要がある。
1は、子供自身と、父親・母親・兄弟姉妹・教師・友人知人などの複数評価によって、比較的容易に、つかむことができるだろう。
2は、周囲の人間には見えにくい部分である。
子供自身に語らせる環境を作ると同時に、さまざまなチャンスをとらえて、つかみとる努力をしなければならない。
なぜなら、この部分に隠れている能力・特性・価値観が、将来大きく花開く可能性があって、それに逆らうような方向づけをしてはならないからである。
3は、比較的容易につかめる部分であり、父親・母親・兄弟姉妹・教師・友人知人などの複数評価によって、とらえることができるだろう。
4は、2同様、いや、それ以上にとらえにくい部分であるが、将来への可能性を秘めている場合があり、父親・母親・兄弟姉妹・教師・友人知人など、周囲にいる複数の人物が、絶えずアンテナを張っている必要があるだろう。
1、2、3、4を極力正確に把握することを通じて、今後の成長過程で、どの部分を特に伸ばし、そして、どの部分をカバーするようにすべきかを見定めてゆかなければいけない。
子供の「人生脚本」を把握したとは、すなわち、よい材料も悪い材料も、すべて手元にそろったということであり、
それをどう生かすかは、すべてあなたしだいということなのである。
「人生脚本」は、いかに生かすべきか?
さて、ジョハリの四つの窓をあけ放って、子供の「人生脚本」の全貌を明らかにしたとしても、その生かし方がわからなければ、何にもならない。
では、どう生かせばいいのだろうか?
結論から言えば、第1番目として、
「子供の持ち味の中で、勝負すべき部分はどこで、勝負すべきでない部分はどこなのか?」
という視点で、「人生脚本」をとらえ直すことである。
たとえば、集団・組織の中でリーダーシップを発揮してゆくタイプの人もいれば、人にものを教えるのが特別うまい人もいるだろう。
あるいは、文章を書くことに喜びを感じる人もいるかもしれない。
あるいはまた、パソコン・ファミコンについて語らせたらピカイチの人や・競馬の予想が特技だという人もいるだろう。
このように、どんなことでもよいから、子供の持ち味の中で、人とくらべて秀でている部分はどこか、よい意味で、自分の子供を特徴づけるものは何かがわかっているということだ。
逆に、集団の中では孤立しやすかったり、忍耐力を要するこまかい作業をすると気がめいってまちがいだらけになってしまう。
あるいは、指示されなければ・何もできないとか、論理的思考がまるでダメなど、子供の持ち味の中でも、他と比較して、マイナスの部分もわかっているということなのである。
このように、子供の「強み」と「弱み」を熟知していることが、成功への条件になることをしっかり認識しなければいけない。
「人生脚本」の生かし方の第2番目としては、「強み」を生かせば成功するが、「弱み」を前面に出せば失敗することを認識するということである。
一見、あたりまえのように見えて、実は、きわめて重要なことなのである。
いくら、子供の「強み」や「弱み」を知っていても、それを、実地に活用することを知らなければ、何にもならない。
たとえば、「強み」でないことを知っていながら、さまざまな理由で、子供に無理をさせてしまうことも多いのである。
協調性がなく、組織の中では孤立するようなタイプの子供に、「東大法学部そして一流官庁へ」というコースを歩ませることもあろう。
逆に、大組織の中でこそ真価を発揮するようなタイプの子供に、「文学部から文筆家へ」というコースを歩ませてしまうこともある。
このような、子供の持ち味に逆らったやり方は、本人の猛烈な努力によって、ある程度は成果を上げても、やはり、大きな無理が伴うものであり、「強み」を発揮している人との競争では勝算は薄いと言わねばならない。
孫子の兵法において、「彼を知り、己れを知れば、百戦して危うからず」と言っても、相手の状況と、自分の状況さえ知っていれば、それだけで連戦連勝になるというわけでは、けっしてない。
そうした状況をうまく利用すれば成功するが、利用しなければ失敗するのだということをしっかり認識し、成功に導くよう努めなければいけないということである。
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早期教育は子供の為になるのか?
親というものは、わが子に一日でも早く「できる」ようになってほしいと願うものです。
ことばが巧みになり、数がわかり、文字が読め、絵も音楽も運動も上手になってほしい。
大なり小なり、そんなことを望みます。
そんな親の気持ちにとって、子どもの能力はできるだけ早く教育するほど伸びる、という「早教育」の考え方が魅力のないはずはありません。
小学校以前の子に数や文字、さらには英語やコンピュータの使いかたまでを教えて
「知能を伸ばそう」とする幼児教育や通信教育が盛んなのには、このような背景があるからでしょう。
まるで、乗りおくれるととり残されてしまいそうな感じです。
でも、実際ははたしてどんなものでしょうか。
たしかに、子どもは驚くほど早くからいろいろなことを覚えてしまいます。
だからといって、こちらから積極的に教えたのでは、どうも変なことになりそうな気がしてなりません。
子どもがなにかを覚えていくのは、実生活の中で「もの」にとりつかれたあげく、ひとりでにか、だれかにたずねてのこと。
そういったものと、数や文字などがしっかりと結びついて記憶されているわけです。
なのに、一方的に教えこもうとすれば、数や文字などは抽象化されてしまって、もとの「もの」がもつ情感やひだのようなものはそぎ落とされてしまうでしょう。
もちろん抽象化された数や文字を教えるのがいけないことだとはいいませんが、
それらを操れるようになることだけを進歩とか発達としてプラスに評価するとなると、それはどうかと思うのです。
なにごとでも、なにかができるようになることは、一方で別のなにかをできなくしてゆくというジレンマをかかえているのでしょう。
知能にしても、自然や社会についてわかるように教育していけば、わからないときに感じていた世界の魅力は失われてしまいがちだし、
そのわかったことでひどく誤解させているといったことも実はあるかもしれないのです。
以前書いた、早期教育について、私が心配していることを書いていますので、参考にして下さい。
ゲゼルという学者が行った実験を紹介していまして、少し難しいお話になってしまいましたが、
子供の心や体の準備が出来ていない段階でいろいろ詰め込んでも子供は伸びていかないことを結論付けています。
しかも「早期教育」がめざすのはエリートの養成。
体験すべき「子供の時代」を体験せずして、早くから競争社会に飛び込むことになります。
ひとより抜きんでるための感覚や知能や体力を引きだそうとするものです。
「子どものために」という親の執着はいっけん献身的なようでいて、じつは、わが子を支配し、将来までも先取りしてしまう情念でありえます。
親としては、そのことがどれだけわが子に合うか、
「できる」ようになったとして人間形成になにをもたらすかについて、十分恐れをもっておかなければならないと思います。
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受験に挑戦する動機や目的がしっかりしていますか?
受験勉強で、子供や家族が破滅しないためにはどうしたらよいのか、幸福な人生を実現してゆくにはどうしたらよいのかを、考えていきたいと思う。
まず最初は、受験の動機および選択基準の問題である。
熾烈な受験戦争に子供を投じようと決意するような父兄には受験に対するその人なりの強い思い入れがあるはずである。
そして、その思い入れが的を得たものであれば良いのだが、そうでない場合には、やがて取り返しのつかない問題となって家族全体に跳ね返ってくるのである。
ここでは、そうした思い入れが、子供や家族の幸福へと結びつくものであるかどうかを再チェックしたい。
「受験などというやっかいなものは、親として1回でも少ないほうがいい」と思っているようではダメだ!
中学受験をうまく乗り切りさえすれば、あとは大学受験だけ、あるいは、その大学受験すらないということに限りない魅力を感じてはいないか?
経済的な問題はともかく、自分たちの精神的負担を極力避けたいという思いを、「子供がたいへんだから」という問題にすりかえているとすれば、たいへん危険な傾向である。
なぜなら、そこには、「子供と家族の将来の幸福実現のため」という視点が全く欠落しているからである。
そして、かわりに、そこにあるのは、「とりあえず楽がしたい」という横着で怠惰な気分である。
しかし、その結果として、楽ができるどころか、とんでもない災難に見舞われかねないことには、まるで気づいていないのである。
親としての体面にこだわるな!
「体面を気にするな」と言っても無理な相談だろう。
だれにでも、ある程度の見栄はあるからである。
しかし、それも程度問題であって、中学受験の動機や選択基準の有力な要素になるようでは困りものである。
いま、「イタメシ」(イタリア料理)がはやっているからといって、たいして好きでもないのに、高い金を払って食べに行ったり、
必要でもなければ、似合いもしないのに、ジョルジオ・アルマーニを身につけたりする感覚で、中学受験をとらえてはいないだろうか?
「猫も杓子も中学受験をする時代なのに、うちの子は区立**中学では格好が悪い。
やっぱり、私立☆★中学に行ってるよ・なんて言えるようになりたい」
と思っているとしたら、きわめて危険な傾向である。
言うまでもなく、そこには、子供や家族の将来的な幸福実現という観点が欠落しているからである。
洋服や食事ならお金を損するだけですむが、子供の人生は、それではすまないのである。
中学受験を決意する前に、もう一度・自分たちの気持ちを見つめ直すことも必要だろう。
私立中学の授業内容を過信するな!
これは、非常に広く見られる現象である。
しかし・私立であれ、国立であれ、いわゆる超一流校の中で、大学入試に即応した授業をやっている一貫校など、ごくごく少数である。
大学進学実績だけを見れば、なるほど東大をはじめ一流大学合格者がずらりと並んではいるが、それは、たまたま生徒が優秀だったからであり、学校の教育内容がよかったからではないのが普通である。
有名なエピソードを紹介しよう。
某一流高校で、数学の先生が病気入院のために長く学校を休み、あるクラスでは、1カ月以上も数学の授業が自習になってしまった。
そして迎えた期末テスト。
ところが、なんと、その「自習」クラスが、数学の平均点で、学年トップに躍り出たのである。
そのとき、先生たちはため息をついて言った。
「われわれなんかがへたに教えるよりは、全然教えないほうが生徒のためだ」
この例は要するに、この一流校の生徒がふだんいかに厳しいトレーニングを受けていないかを示すとともに、
自学自習にゆだねられて、生徒たちが少しまじめに勉強したとたん、学年のトップになってしまうほど、試験のレベルも低いことを示しているのである。
さらに別の面から見れば、この生徒たちを大学入試即応の教育で徹底的に鍛えれば、東大合格者数も、簡単に2倍、3倍になるだろう、ということなのである。
名門の一貫校の授業それ自体には、必ずしも期待はできないことを知るべきだろう。
公立中・高に入っても、即、大学入試に不利などということはない!
公立中学・高校の荒廃あるいはレベルダウンについては、いまや知らない者はいない。
まさにこのことが、中学受験ブームの大きな要因をなしているのである。
だからといって、中高一貫校に入れば即大学入試に有利で、公立に行けば即大学入試に不利と考えるのは、あまりにも短絡である。
すでに説明したように、中高一貫校だからといって、必ずしも大学入試に有利な教育をやっているわけではなく、
大学入試という観点だけから見れば、中途半端な一貫校なら、ほとんど行く意味がないからである。
反対に、一口に「公立」といっても、それなりに多様性を持ち、特に、公立高校にはいまなお「一流校」の名を維持しているところも多いのである。
そして、そうした高校には、へたな一貫校より、よほど進学実績にすぐれている学校も多いということを知るべきである。
大学進学実績だけに目を奪われないで、子供の性格や価値観を重視しろ!
たいていの家庭では、子供の幸福というものを、「よい中学・よい高校・よい大学・よい会社」というライン上に考えがちである。
真に幸福かどうかはともかく、少なくとも経済的・社会的地位が安定しやすい、要するに安全確実に生活基盤が確立できると考えるからであろう。
そうなると当然、中学進学を考えるうえで、大学進学実績が非常に重要なファクターにならざるをえない。
その結果、御三家を筆頭にする偏差値の高い中学にばかり目を奪われることになる。
もとはと言えば、自己実現のための考えがないから、こういうことになってしまうのだが、
仮に、将来ビジョン達成のためにハイレベルの中学をねらわざるをえない状況になったとしても、それでも、大学進学実績だけで、受験校を選んではいけない。
このレベルなら許せるという範囲の学校の中から、子供の性格や価値観に適合するものを選ぶべきであろう。
たとえ、どんなにハイレベルですばらしい学校であっても、子供に合わなければ、たちまち不適応を起こして脱落してしまうからである。
「金と時間と労力をかける以上は、少しで上位の中学に」などと思うな!
中学受験には、金も時間も労力もかかる。それも並みたいていのレベルではない。
そのせいだろうか? どうせ入るなら、少しでも上位の学校に入ってほしいと思う父兄が多いようだ。
しかし、莫大な金と時間と労力を費やす目的は、子供と家族の将来的な幸福であり、自己実現なのである。
それを実現する手段として、最もふさわしい学校に入るための、金であり、時間であり、労力でなくてはならない。
「親まで巻き込んで、これだけたいへんな思いをしているのだから……」
という気持ちは、よくわかる。
だが、そのたいへんな思いは、あくまで自己実現のためであって、ただ単に、上位校に入るためではないことを、きちんと認識する必要があるだろう。
塾の進路指導は、全面的に信用するな!
おそらく、ほとんどの父兄が、塾の進路指導にもとづいて、受験する中学を決定していることだろう。
初めから、父兄のほうで受験校を決めてあり、その学校に対する合格可能性がどの程度あるかを、塾の豊富なデータにもとづいて算定してもらうのなら、塾・それも大手進学塾は有用である。
しかし、そうではなくて、父兄の側に何の準備もなく、受験校について、ほとんど何も考えていないような場合は要注意である。
表面的にどんな美しい言葉を並べてみたところで、要するに、塾というところは、金のありそうな家庭からは、何だかんだと理由をつけては金を巻き上げることを考え、金のなさそうな家庭など、適当にあしらうことしか考えてはいないのである。
受験校決定についても同じことで、有名校のボーダーライン前後にいるような生徒の父兄には、甘い言葉をかけて、すっかり、その気にさせて、片っぱしから受験させるというやり方をする。
それこそ、「へたな鉄砲も数打ちゃ当たる」である。
それによって、1人でも2人でも多く、有名校に入ってくれたほうが、安全確実に無名校に入ってくれるよりも、塾としてほありがたいわけである。
それはそうだろう。
「○○中学何人合格」という実績が、塾経営の死命を制することになるからである。
それだけではない。
塾が把握しているのは、子供の偏差値と、中学校への合格可能性だけであって、それ以外の要素、たとえば、その子が、どんな性格や価値観を持ち、あるいは、どんな特有の能力・特性を持って、将来、どういう方向に進むことが幸福につながるかなど、全く把握していないだけでなく、初めから、そんなことをする気もないのである。
塾を責めているわけではない。
そもそも、塾には、そういう機能はないのであり、どんな学校を受けて、どんなコースを歩ませるべきかなどを、塾に求めるほうに、むしろ問題があるのだ。
そうした偏差値以外の側面については、あくまで家庭の問題と言うべきだろう。
だからといって、塾の言うことなどいっさい信用するな、というわけではない。
使う以上はその使い方に注意しろ、ということだ。
たとえどんなに優秀でも、勉強嫌いの子供の受験には注意が必要!
世の中には、「勉強のできる子」=「勉強好き」という公式があるらしい。
しかし、小学校や中学校程度では、ほんとうに頭のよい子なら、それほど熱心に勉強しなくても、人の上に立つことはできる。
つまり、勉強嫌いであっても、頭のよさで、ある程度上に行くことは可能なのである。
その辺を勘違いして、この子は、よくできるからと言って、「勉強好き」の集まる中学などに入れたら、それこそたいへんなことになる。
たちまち不適応を起こし、心身症にでもなるのが落ちだ。
では、公立中に入れればよいかと言えば、話はそう単純でもない。
高校入試があるし、あるいは、さらに大学入試もあるからである。
その子の将来ビジョンとの兼ね合いもあるが、
その子の本来的な持ち味を伸ばすにふさわしい中学校に進ませるのが基本である。
ただし、大の勉強嫌いというマイナスの側面をカバーすることを考えて、大学までストレートに上がってゆけるような、準一流程度の私立校に入らせるという方法も考えられるだろう。
その場合、子供の頭の程度より低いからといって、父兄のほうがその学校を嫌ってしまうケースもあるから要注意である。
第3・4志望校選定は慎重に!
だれでも、第1志望については、よく考えるものである。
しかし、第2志望以下、特に、第3・4志望ともなれば、いいかげんになりやすい。
どうしても、第1志望校に関心が集中しがちで第3志望とか第4志望までは十分な注意が行き届かないのが普通である。
しかし、必ずしも、第1志望校に合格できるわけではない。
第2志望以下の中学に入ってから、シマッタと思うことが少なくはない。
そうならないためにも、将来ビジョンをしっかり持ち、そのうえで、それを実現してゆく手段として、どの学校が適当かという視点に絶えず立って、3〜4校を均等にながめることがたいせつである。
まかりまちがっても、偏差値順に3〜4校並べて、下位の学校を軽視して中身を調べもしないなどということがあってはならない。
子供に、自分の果たせなかった夢を託すな!
これは、よくあるパターンだ。
いわく
「自分は二流大学しか出てなくて苦労したから、子供にはなんとしても東大に行かせたい」
これが、子供の自己実現のための将来ビジョンにかなったものならなんら問題はない。
しかしもし、そうでないのなら、そうした親の思い入れは、子供にとって迷惑なだけである。
夢を託すのであれば、自分の果たせなかった自己実現の夢を託すべきだろう。
あくまで優先すべきは、自己実現であることを忘れてはいけない。
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ビジョンのない偏差値人間が待っているもの
最近の若い人に、「将来何をやりたいか?」「どんな人生を送りたいか?」と聞くと、決まって返ってくる答えが、
「何をやっていいかわからない」「考えたこともない」だ。
彼らにとって、人生とはいったい何なのだろうか?
そもそも、彼らの人生はいったい誰のために、何のために生きているのかわからないような彼らは、何ゆえに5年以上もかけて「受験戦争」を戦い抜くのだろうか?
本来人生の目的実現の手段であったはずの進学・就職が、その競争の激しさゆえに、いつしか自己目的化してしまったのだろうか?
それでも、彼らが将来、その努力にふさわしい幸福を獲得できるのなら良い。
しかし、現実には、「何をやっていいかわからない」若い人たちが、大学入学後や就職後、目的を喪失することによって、あるいは無気力化し、あるいは環境不適応を起こして挫折していっているのである。
これでは、小学生以来の努力も全くの徒労になってしまう。
ここでは、どんなに成績優秀で、名門中学・高校に入ったとしても、ビジョンもなく偏差値の追求に明け暮れた場合、将来いかに悲惨な形で、そのツケが回ってくるのかを示してみよう。
ただ勉強できるという理由だけで名門中学受験
G子さんは、いま入院中である。
東大を卒業後、あるメーカーに就職したものの、間もなく不適応を起こし、陰湿なセクハラに悩まされたことも影響して、体をこわし、入院したのである。
退職願もすでに提出ずみだという。
どうしてこういうことになってしまったのだろうか。
彼女は、小学生時代・勉強がとてもよくできたので、学校の担任のすすめもあり、某国立大学付属中学を受験する。
「君くらいの成績なら、この中学は受かるから、やってみないかって言われたんです。
それで、両親とも相談して、じゃあ、物は試しで、やってみよう、みたいな感じで受けることにしました。
でも・そのときは、両親にしても、私にしても、将来どうしようみたいなプランは何もなかったですね。
担任の先生にしても、成績がいいから受けさせるっていう感じでした」
G子さんは、6年生から都内の有名進学塾に通い・家庭教師はつけなかったが、おもしろいほど成績が伸びて、首尾よく・第1志望の国立大付属中に合格した。
もともと勉強の嫌いでないG子さんは、すっかり気分をよくして、中学入学後も、よく勉強した。
マンガも読まず、テレビも見ず、学校の成績を上げることにだけ専念した。
そのかいあってか、高校3年になったころには、学年でもトップクラスをキープできるようになった。
「その時期になっても、将来何をやろうという希望は、別にありませんでした。
成績のうえからは、文系でも理系でもだいじょうぶでした。
どこかの国立大学の医学部にでも入ろうかと思いました。
でも、まだ、そこまで自分の可能性を限定したくなかったし、せっかくいままで、トップクラスを走ってきたんだし、大学入試でも頂点をきわめたいなって思ったんです。
そうすると、やっぱり東大かなあという感じで……といっても、大学で何かを勉強したいという希望を持っているわけではなかったのでなんとなく、つぶしのききそうな文1にしようって……」
東大文1には、現役で合格した。
「東大といっても、ほんとうに優秀な学生はちょっとしかいないんです。
頭は悪いけど、小学校の3年生とか1年生のころから、さんざんお金をかけて、やっとはい上がってきたような人が多いんですよ。
女の子は運動神経の鈍い子ばっかりでしたし、男の子なんか人間的につまんない人ばっかりで、がっかりしました。
東大とかいばっていても、たいしたことないなって思いました」
G子さんは、一流志向の強い人である。
あらゆる面で、自分の上を行く人でなければ、人間としての存在価値を認めない。
そして、自分自身「一流の人」に認められるための努力は惜しまない。
そういう意味では、向上心の強い人である。
「恋愛ですか? 東大法学部の助手をやっているかたと、プラトニックなおつきあいをしました。
何でも相談できる、お兄さんのような人でしたね。
私にとって、よい思い出です」
東大法学部の助手と言えば、法学部生700名の中でも、成績上位10名程度しか選抜されないスーパー・エリートである。
さらに、その中から1〜2名が、29才前後で、法学部助教授に抜擢される。
一流好みのG子さんらしい人選である。
「でも、東大出身でないかたにお話しする場合には、言い方を変えるんです。
恋愛感情に学歴は関係ないから、親しくした人はN大学の人ですって言うようにしてるんですよ。
私って、相手に劣等感を与えやすいので、言い方にも気をつかうんです」
と言ってのける。
しかし、恋愛に学歴は関係ないからN大生とつきあうという言い方こそ、この上なく学歴主義的で、何よりもN大生をばかにした言い方ではないだろうか?
大学4年も夏になり、就職の季節がやってきた。
G子さんに特別やりたい仕事があったわけではない。
子供のころから周囲に吹き込まれてきた、「よい中学・よい高校・よい大学・よい会社」の最後の仕上げという感覚であった。
「日本の代表的な業種のそれぞれトップ企業を受けました」
学生の人気ランキング上位に椅羅星のごとく輝く企業ばかり4社受験した。
結果は全勝であった。
二流企業4社の中から好きな企業を自由に選択するというぜいたくをG子さんは楽しんだ。
翌年、彼女は、あるメーカーに就職した。才色兼備の彼女は、エリートとして、経営企画部門に配属された。しかし……
「パッとしない職場でした。
上にはこびへつらい、下にはいばり散らす小心な中年男の集まりなんです。
配属後、3日でいや気がさしました」
東大法学部に入ってさえ、程度の悪い人間の集まりだと感じるくらいのG子さんである。
メーカーの経営企画室の人間など、彼女のものさしではかれば・口をきくにも値しない「人間以下」の存在であった。
特に彼女のように、目的を持たずに会社に入ってしまうと、身の回りのマイナス要因にばかり目が行ってしまうのだろう。
しかし、もっと重大な問題があった。
つまり、大学までの生活を、人生における自己実現の手段とみなすことのできない人にとっては、いままで身につけてきたものを実社会で、いかに生かすかなどという発想を持てないということである。
そして、意識の切りかえもできないまま、いままで自分のいた「受験界」の一元的な偏差値至上主義を実社会にそのまま持ち込んでしまうということなのである。
「あの人の最終学歴は?」「東大での学部や成績は?」などということばかり気にかかってしまう。
心で思っていることは、どうしても態度に出てしまう。
G子さんの心に巣食う「軽蔑の念」は、しだいに職場の人たちに伝わっていったのだろう。
人間関係が、だんだん、ぎくしゃくしたものになっていった。
それでも、最初の数カ月は、エリートということで、職場の人たちも気をつかってくれて、仕事上のチャンスを与えてくれたのである。
しかし、周囲との溝は、決定的な段階にまで進んでいった。
「会社に行っても、やる仕事がないんです。
上司も同僚も私を無視して、かってにやっているので、しょうがないから、小説を読んで時間をつぶしたりしていました」
人間は無視されることがいちばんつらい。
ストレスがこうじ、G子さんは神経性胃炎になった。
夜になると胃ケイレンに襲われた。
職場で孤立しているとき、接近してくる人物がいた。
部長だった。
なにくれとなく親切にしてくれた。しかし……
「お前の歩き方は、まるでロボットみたいに無機的だな。
男を知らないんだろう? おれが女らしくしてやる。
今夜どうだ?」
G子さんのヒップにふれながら、不倫を迫ってきた。それも一度や二度ではなかった。
「無機的だとか言ったって、そんなことしたことないんだからしかたがないじゃないですか!
でも、だからといって、なんで、あんな男としなきゃいけないの?」
それまで冷静だった彼女もこのときばかりはほおを紅潮させ、こぶしをふるわせた。
「人事部長にも相談したんです。
でも、結局、あいつらは、同じ穴のムジナなんです。
あいつらは、腐った豚よ!」
すでに神経性胃炎を起こしていたG子さんの身体的症状は悪化し、胆嚢や脾臓にも異常が出始めた。
病気欠勤する日がしだいに多くなり、ついには出社不能になった。
こうして彼女は入院したのである。
「この先どうするつもりかって言われても……留学するか、どこかの大学の医学部に入り直すか、
それとも東大法学部に学士入学して司法試験を目ざすか……どうしたらいいんでしょう?
でも、ひょっとしたら、何もやりたいことなんかないのかもしれませんね」
11才で有名国立中学を目ざして以来、営々と積み重ねてきた努力の一つの結末がこれであった。
なるほど、常に現状に甘んじることなく上を目ざしつづけるというのは、りっはな姿勢である。
やろうと思っても、なかなかできることではない。
しかし、上を目ざすこと、それ自体を目的にしてしまったことはG子さんにとって大失敗であった。
学生時代の彼女のあらゆる努力は、あらかじめ設定された将来ビジョンの上に位置づけられて初めて生かされるものだったのである。
そうしたビジョンをけっして持つことのなかったG子さんにできたことと言えば、実社会で、もはや目ざす目標もないままに、職場の人間を受験界の「偏差値」で評価することだけだった。
やがて彼女は退院してゆくだろう。
しかし、いままでのような意識を持っている限り、何をやっても結果は同じだろう。
だからといって、いまから彼女の意識を変革することは、困難に違いない
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