周りの人と協力すること・他者へ関心を持つことを教える
人間は十か月も母胎のなかにいながら、生まれてくるときは、親の保護がなければ生きていくことのできない、不完全な存在として誕生します。
動物のなかでも、最も生きていく力の弱いものとしての誕生です。
その後の歩みでも、特別の能力が備わっているわけでもありません。
走ることはライオンやチーターがはるかに勝っています。
泳ぐことはイルカに負けます。
空は飛べません。
木に登るのは、サルにかないません。
しかし人はそのような不足している部分を、お互いが協力して克服することを通して、文化を生み出してきました。
これは知恵と言ってもいいでしょう。
このような知恵によって、自動車を発明し、ライオンより早く走るようになりました。
船で海の上を自由に往来できるようになりました。
いまではもっともハンディのあった人間が、この地球の運命を担う存在にさえなったのです。
単独では他の動物の能力にかなわないこのようなハンディを通して、生きのびるためには、人間同士が協力して文化を作らなければならないことを知ったのです。
人間は一人では生きていけないのです。
皆が力を合わせて、初めて生きていくことができるのです。
このことはかつての大昔の出来事ではなく、現代でも同様です。
有形無形の多くの人の力で、私達は生きているのです。
最近の子育てでは、このことが忘れられがちのように思います。
日本という国は一九七〇年代から、ものの考え方が変わった、とよく言われます。
人に迷惑をかけない限り何をしてもいいという考えが、日本人の考えの主流をしめだしたのです。
それまでの貧しい日本では、皆が欲望を将来の希望にかえ、当面は我慢してお互いが助け合っていくモラルがあったのです。
私が育った子どもの頃は、スーパーもありませんでした。
味噌や醤油がよくなくなります。
すると母は、隣の家に借りに行きました。
相手の家にも余っているほどのものはありません。
それでも気持ちよく貸してくれました。
もちろん、その道もありました。
お互いが協力しなければやっていけない時代でもあったのです。
長屋がマンションに変わり、経済が向上するに伴い、我慢したり、お互いが助け合わなくてもやっていける時代になったのかも知れません。
他人への関心より、自分の関心だけで、十分生きていけるのです。
私達の子どもの頃は公園でいたずらしていると、知らないおじさんによく怒られたものです。
しかし最近では他人の子どものいたずらを叱ると、
「あなたには関係ないでしょう。叱るなら私が叱ります」
なんて逆に、お母さんに抗議さえ受けてしまいます。
他者へ関心を持つこと
ある評論家に言わせると現代はナルシシズムの時代だそうです。
自分のことに関心が向き、自分以外のことに関心が向かない人が増えているようです。
子ども達も同様です。
いまの子ども達は、あまり他者に関心を向けないと言われています。
友達同士といっても、その間の関係は限定的なものであり、その限定的なものも、しんどいと感じている子ども達が増えているのです。
現実の人間関係よりも、ファミコンに見られるロールプレイングのなかの世界での人間関係の方を好みます。
理由はいくつかあると思います。
バーチャルな世界では、常に自分が主人公でいられる。
失敗しても、いつでもやり直しがきく。
うまくいかないときには、いつでもやめることができる。
ゲーム中に怪物に殺されても、リセットさえすれば、いつでも自分は生きかえることができる。
いまの子ども達はこのバーチャルな世界で、人と人との関係を体験しているのです。
神戸の悲惨な事件で逮捕された中学三年生の少年は、奇妙な神の名を書き、その神への儀式として、よく自分になついている小学生を殺害しています。
少年は人間の壊れやすさを実験するために殺人を犯したようなことを書いています。
この発想は、ある意味ではオウム真理教の発想とよく似ています。
オウム真理教のなかにも奇妙な科学性(サリン)と宗教(密教系の仏教)のつぎはぎが見られます。
少年の実験と儀式もまた同じ構造です。
また劇画的でもあります。
人間が心のある人間でなく、ものとして実験材料の一部になっているのです。
バーチャルな世界の人間は、人間でありながら人間ではない。
気持ちを分かち合い、協力し合えることが、人間の原点であるはずです。
悪い人間だからこれ以上悪行をつませないという理由で、ポア(殺す)することを正当化するのです。
ポアする側の異常な思いあがりの考え以外の何ものでもないのです。
同様なことは少年にも言えます。
殺人を犯してまで人間が壊れ易いものかどうかを知りたければ、まず自分の身体を使って実験すれば良いのです。
常に自分は神の位置にいて、安全な世界を妄想するのです。
もちろんあの少年を非難するつもりで書いているのではありません。
他者と共に社会のなかで協力して生きているのだという原点を忘れると、ときには人間はとんでもないことをしでかしてしまうのだということを言いたいのです。
このような子どもは小さい頃から親の前でも過剰な適応、すなわち「良い子を演じる」ことが多いのです。
親はよく「お友達と仲良く遊ばなければいけないよ」とか「人の気持ちを考えなさい」と子どもに注意をします。
もちろんこのような注意は大切なことです。
しかし、たまには「ノー」と言いたくなることもあるのです。
いつも相手にばかり合わせていてはくたびれてしまいます。
それは私たち大人でも同じことです。
子どもが
「学校の帰りにちょっと付き合ってと言うの。我慢して付き合ったけど、すごくくたびれた。
あすは付き合いたくないな……」
とお母さんに話してきました。
お母さんはちょっと考えて
「ごめん、今日はお母さんと夕食作る約束してきたの。
材料を買って帰らなければいけないんだ。
付き合えなくてごめんね、みたいに言ってみることできるかな」
と、上手な断り方を教えました。
子どもも「そうね。そう言ってみるわ」と少しはほっとした顔つきになってきました。
このようなことは子どもだけではありません。
私たち大人が競争に勝つことしか考えていないことを証明する事件のいかに多いことでしょう。
それもルールを無視して、勝てば官軍と考えるのです。
子どもたちに共に生きているのだということを教えるためには、まず親がそのことを身をもって子どもに示すことが大切です。
あるお父さんです。
中学二年生の息子が非行グループに入り、夜遊びや帰りが遅くなりだしました。
不良との付き合いはいけないと何度も注意をしました。
しかし息子の行動はやみません。
お父さんは環境を変えようと遠く離れたところに引っ越しをしてしまいました。
そうすれば不良少年とも付き合えなくなると考えたのです。
しかし一週間もしないうちに、息子は家出をして非行グループの家を転々と泊まり歩くようになりました。
かえって親の目が届かなくなり、子どもの行動はエスカレートしていきました。
お父さんの気持ちもわからなくはないですが、思春期の子どもを立ち直らせるには非行少年の親同士が協力していくことが大切です。
我が子だけではなく非行グループ全部を立ち直らせようと考えることが必要なのです。
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