子供の教育環境の在るべき姿
「しつけ」の欠如と過度な「しつけ」はいろいろな問題を起こします。
このような立場からみると、子どもの生活の場である生態システムは人間的でなければならないと思います。
それには、教育環境を人間化する必要があります。
家庭教育
まず、家庭教育の立場から考えてみましょう。
優しい心、人間を信頼する心、他人を受容する心を育て、子どもに基本的なしつけをするには、家庭教育の果たす役割が大きいと思います。
なかんずく、乳幼児期におけるそれは決定的といえましょう。
家庭教育は両親によってなされるものですが、父親と母親とでは分担が異なり、乳幼児期では母親の役割が大きいと思います。
したがって、乳幼児期の母親の役割を中心として次の対策を強調したいと思うのです。
子育てに専念し、子育てを楽しむことができるようにするには、
働く母親は出産前数週から出産後のある期間まで仕事を休むことができるような育児休業制度を確立する必要があると思うのです。
これは、母子相互作用が豊かに行われ、母親の母性的愛情の確立と子どもが母親に対し愛着を十分に持つことができるようにすることが目的なのです。
愛される体験を持つことです。
もちろん個人差はありますが、母親の母性的な感情がとくに高まるのは出生後六か月ぐらい、離乳の始まるころといわれています。
また、子どもの母親に対する愛着は相対的に長く、その意味で生みの親より育ての親であり、一〜三年、すなわち乳児期全般、さらには幼児期前半も重要であるといわれています。
したがって、育児休業の必要な期間は短くて六か月、長くて三年ぐらいといえますが、家庭や個人の条件はいろいろ異なるので、母親の希望によって期間を決めるのがよいと思います。
私は個人的には、子どもが集団生活の場である保育園あるいは幼稚園に喜んで行くようになる時期までがよいと思っています。
もちろん、初めての赤ちゃんとそれ以後とでは、やり方も大きく違うと思います。
この期間の収入を保障する失業保険に準ずるような制度や、再就職でハンディにならないようにするための職業教育などについても、社会として配慮すべきではないでしょうか。
また、母親によっては、働く生きがいと子育ての楽しみとが両立するようにくふうする必要があるでしょう。
母親が子育てに専念し、母子相互作用がうまくいくには、母親の心が安定していなければなりません。
それには、エモーショナル・サポートが重要なのです。
そのためには、分娩後の数週間、必要に応じて父親も育児休暇を取ることができるように、配偶者出産休暇とか育児協力休暇とでもいうべきものをもっと活用するべきでしょう。
個人の申請により休暇を得るというものではなく、会社・企業が積極的に休暇を当てるべきでしょう。
また、母親が子育てに奮闘している重要な分娩後の一年ぐらいは、必要に応じて父親の遅刻・早退も認めるようにすることも一案ではないでしょうか。
乳幼児期の子どもに対する父親の役割は、子どもに直接接触して子育てをするとともに、子育て中の母親の労働的な支援ばかりでなく、精神的安定を保つ意義が大きいのです。
すなわち、子育て中の母親へのエモーショナル・サポートです。
父親としては、子どもが外に関心をもちはじめ、歩行を開始し、社会性が発達しはじめるに従って、社会生活に必要な基礎基本としてのしつけをする役割と責任が大きく、社会的な規範意識をしっかり子どもにつけなければいけません。
甘いばかりでなく、厳しい態度も必要でしょう。
さらに母親には十分にできないような活動的な遊びを介しての相互作用が期待されます。
また、赤ちゃんをだっこしたり入浴させたりすることも、父と子のきずなを作るのにもちろん必要ですが、
子どもに優しさを、さらにそれを介して基本的信頼を体得させる親の役割としては、母親に期待されるものが大きいことは、心理学のなかでしばしば言われることです。
それは、「大いなる母」を子どもに体験させることなのです。
非行や暴力など、思春期の行動問題を起こした子どもたちをみていると、母親の優しさを求める姿が多いのです。
乳幼児期における母親との体験は、(母なる大地)のように、土地や海などの自然にみられるもの、マリア像や仏像などに表現されている、人間の心の中に無意識のうちに普遍的に存在する母なるものと結び付いているのです(ユング)。
ですから父親に期待されるのは、どちらかというと、よちよち歩きを始めるまでは母親へのエモーショナル・サポートが第一で、父親と母親には大きな役割分担があると思うのです。
私は学校・授業参観に対する親の休日制度を確立してもらいたいと思います。
親、とくに父親が子どもの保育園・幼稚園・学校などの参観日に出席する場合、それを指定休などに準ずる休日として認めることも、親の教育的役割を強化し、学校と家庭を結びつけるのに重要なことでしょう。
このような育児に関係して父親・母親の休暇・休日を制度化することは、我が国の社会では、決して実現困難なことではないと思うのですが、いかがなものでしょうか。
学校教育
次に、学校教育の立場から考えてみましょう。
とくに、保育園・幼稚園の果たす役割が大きいと思うのです。
幼稚園の先生や保育園の保母の資質の向上、これがまず必要ではないでしょうか。
子どもに直接対応する幼稚園の先生や保育園の保母さんには、子どもの心と体の健康、さらに発育などについての十分な知識を、また行動問題などを早期に発見するために、
それを基盤としたカウンセリング的な技術を少しでも持ってもらいたいのです。
さらに、子どもたちに優しさを体験させるために、「子ども好き」な性格であることを幼稚園の先生や保育園の保母さんなどの採用条件にするのもよい考えでしょう。
こういう人たちにとって、わが子を育てる育児休暇はある意味で研修の役割を果たすことも忘れてはなりません。
保母さんや先生が世話をする子どもの数を少なくしなければなりません。
乳児期のマルチマザーリングは、乳児の心の発達に好ましくないことが指摘されています。
したがって、とくに生後一年間の保育の現場ではひとりの保母さんが世話をする乳児数を少なくし、しかも決まった乳児に限って養育する体制を作ることが望ましいと思います。
いちおう、現行でもそうなっているようですが、私は保母一人に対して乳児三人ぐらいが適当であろうと思います。
そうすれば、保母さんは三つ子の母親の役目を果たすことになるのです。
幼稚園・学校などの教育施設では、教育効果を考えて一クラスの子どもの数を可能なかぎり少なくする必要があるのではないでしょうか。
欧米諸国並みに、幼稚園では十五人、小学校低学年では二十人、小学校高学年さらに中・高校では三十人などが望ましいようですが、
授業方法によって数を変えるなどの方法も考えられると思います。
教育環境は自然を豊かにしなければなりません。
子どもたちが楽しく勉強し、伸び伸びと遊び、スポーツを楽しむことができるように、保育園・幼稚園・学校およびそれに関係する施設の人間化も重要です。
例えば、校舎を木造の温かい感じのものにする、校庭には花や樹木を多くして自然を豊かにするなどの必要があると思います。
公園と学校を組み合わせたりするのもひとつの考えでしょう。
それには、子どもの生活を考えた学校建築学・都市工学の発展が必要です。
べディキスティックスというこの方面の学問体系もできているのです。
アメリカのシアトルでは、町全体を子どもたちにとって住みやすくするために、「キッドプレース」というプロジェクトがあります。
わが国のどこかの市や町でも始めていただけないものでしょうか。
さらに、いろいろな方法で、自然学級などによって豊かな自然に触れる教育の枝会を多くすることが望まれます。
また、学校における行動間墓に対する相談機能を充実してもらいたいと思います。
いじめの舞台は学校だからです。
行動問題をもつ子どもたち、とくに「いじめられっ子」は、学校で心身の愁訴、例えば頭痛・腹痛などを訴えて保健室を訪れる場合が少なくありません。
やがてそれが登校拒否にも発展し得るのです。
したがって、養護の先生は体の健康ばかりでなく、心の健康もモニターする重要な役割を果たします。
そのためには、専門性を高める必要があると思うのです。
子どもの心と体のプログラムをよく理解して、カウソセリングの能力を持ってもらいたいと思います。
また、スクール・カウソセラーなどの心理の専門家を配置したり、あるいは学校を月一回ぐらいの割で巡回するような体制をつくる必要もあると思うのです。
学校保健室はそういった子どもたちの行動問題のサーべランスの基点となりうるので、その情報を集め、それを整理して対策を立てることも可能だと思います。
さらに、地区医師会、とくに小児科医のグループなどの医療システムと連携すれば、対策はよりよいものになるのではないでしょうか。
現在の学校はあまりにも閉鎖的ではないでしょうか。
学校に起こっている「いじめ」などの行動問題は、ある意味では社会から隔離され、地域社会の人々の目の届かない学校という子どもたちの生活の場で起こっています。
極言かもしれませんが、一般社会から見ると特別ともいえる独特の文化や規範のもとに起こっているとさえいえます。
そのうえ、問題となる学校は、「いじめ」の加害者・被害者の双方にとって健全な心の発達、さらには人格の完成の場としての機能を果たしえていないにもかかわらず、
多くの場合、社会的にみるとみずから閉鎖的にして、隠しているのではないでしょうか。
一般に、子どもや親が学校を選ぶことは簡単でなく、場合によってはその閉鎖性のために社会からの助けを受けられないのが実態であるという例も見られるのは重大なことです。
「いじめ」などの行動問題が今日の学校において多発していることの一因として、このような学校の閉鎖性が指摘できると思います。
「いじめ」問題
この「いじめ」問題は、さらに次の三つに整理することができます。
その第一は、学校・教室が地域社会および家庭から隔離された施設であり、
父母・地域住民が学校における子どもの日常の姿を、地域・家庭と違った同世代集団のなかでどのように行動しているかを把握しにくい状況にあります。
この点、学校はもっと開放されなければならないと思うのです。
第二は、元来、子どもの文化は世代間および同年代間の交流、さらには淘汰によって社会的に発達し、成熟することが期待されるものです。
しかしながら、現在の多くの学校においては社会に向けて中心となる窓口は先生だけであり、極めて閉鎖的になっています。
また、先生自体には必ずしも社会規範の代弁者たり得ていない場合が少なくないと思います。
「いじめ」が問題となっていた学校で、生徒と教師によってつくられる文化的な空間では、
いわゆるパロディー文化、いじめの正当化論理、偏差値偏重の一元的価値基準といった独特の文化・規範が形成されているようにみえるのです。
第三は、いじめが自分のクラスに起こっているのに気付かない先生、気付いても見て見ぬふりをする先生、さらにはいじめに加担している先生さえおられることです。
いじめる子どもたちの書いた弔辞に名を連ねた先生とか、いじめられた子どもを除くクラス全員にいじめられている子どもについての作文を書かせた先生とか、
「いじめ」に加担しているようにみえる先生のことが報道されるたびに、心が痛みます。
いじめられる理由はいろいろあるにしても、その子を追い詰める先生では困ると思うのです。
どんなに悪い子であっても、少しでも味方になってやってもらいたいと思うのです。
その子の将来を目の前のことだけで予測するのはたいへんに難しいということを忘れてはなりません。
わが国の教育システムにはその画一閉鎖性についていろいろな問題があり、
とくに学校指定・就学義務の問題と教育組織との固い関係が大きいことも指摘されますが、かといって自由化による混乱も心配です。
しかし、もう少し柔軟であってよいと思います。
子どもたちには憲法によって教育を受ける権利が保障されています。
この実現のため、公立の小・中学校においては学区制による学校指定が行われ、子どもたちの多くは事実上この指定校への就学が義務づけられています。
もちろん、経済的に余裕があったり、上級学校の受験を目標として限られた有名校に進む例外もみられます。
問題なのは、「いじめ」の加害者・被害者双方にとって、指定された当該学校の教育能力が著しく低下していることです。
アメリカのように自由にするのがよいかどうかは問題ですが、もう少し自由にならないものでしょうか。
さらに、教育界の各機関自体および機関相互の関係にみられる硬直性も問題です。
教育というすべての国民にかかわりの深い行政について、親の考え方を反映させる方法が十分でないと思います。
情報の交流、さらには教育機関相互の連携が十分でないばかりか一部には対立関係すらあり、他の機関との連携も不十分である点が問題なのです。
文部省のなかで、子どもたちの心と体の健康を管理する部門と、「いじめ」が多発したときに対応する部門とが違っているのに驚いたことがあります。
これらを解決するためには、いろいろな局面でこの固いシステムや画一閉鎖性を開放していかなければならないのです。
まず、校舎・教室などの学校の施設を明るく開放的にし、地域住民・父母が学校での子どもたちの生活を気軽に見られるようなものにする必要があると思うのです。
また、学校という施設のあり方を検討し、地域住民に学校施設の利用を認めるのみならず、地域の施設(民営、公営)を学校教育の場として一時または常時使うことを考える必要があります。
つまり、学校と家庭、さらに地域社会との交流の活性化です。
第四は、子どもの発達段階に応じて社会的・文化的に成熟させるため、
地域の工場、病院、老人ホーム、乳児院、障害者施設、公共棟閑などへの見学、勤労体験の機会をできるだけ多くすることが必要であると思います。
また、先生がたの社会的見識を広め、社会人として共通の基盤をする機会を作ってもらいたいと思います。
とくに、わが国では、まだまだ社会主義国の実態についての認識が偏っているように思われるので、ぜひそれらの国を見ていただきたいと思うのです。
私は何回か訪れて実際に見る機会がありましたが、それについて考えるところがありました。
そういった国々と比べると、わが国の教育はまだまだ良いと思うのが実感です。
また、いろいろな社会人を教員に登用して、教育の人間性を高めるのも良い手段かと思われます。
さらに校用のなかで毛髪の長さとかスカートの丈などを細かく規制しなくてもよいのではないでしょうか。
今の子どもたちは情報化社会のなかで育ち、いろんなことを知っているので、規則だけではすべては直せません。
「いじめ」の解決の方法
学校教育のシステムの硬直性・画一性、閉鎖性に「いじめ」の一因があるとするならば、解決の方法は二つあると思います。
第一は、システムの現状を維持しつつ、子どもたちにとって快適な空間となるように、校舎や校庭などのハードな面と、先生の資質などのソフトな面の大幅な改革を行うこと、
第二はシステム自体を大幅に弾力化し、自由化し、さらには開放的なものにすること、すなわち教育システムを人間化することです。
今日の教育問題の現状は、社会的パラダイムの転換期において、教育目的(国家の役割、国家と個人の関係)の変遷、親ばかりでなく子ども自身の、そして社会の教育ニーズの変化、教育を供給する機関の理念や方法の多様化、民間の教育(情報提供)能力の向上などに、現在の教育システム持ちうるように知識を高める必要があります。
そのための研修を充実したり、海外を見学したりが対応しきれていないことによるものと理解されます。
したがって、弾力化を進め、自由化を選択することも考えられると思います。
もし、「いじめ」に直接関係する子どもたちにもっとふさわしい人格の形成にとって良い教育をする学校や教育機関などがあるとすれば、
彼らにそういう教育を受けさせる機会を選択する権利を与えることこそ必要なのではないでしょうか。
好きな学校で好きなように勉強できるようにしてやってほしいのです。
楽しい学校なら楽しんで勉強できるものです。
もちろん、これは程度問題であり、すべての子どもたちの教育を受ける権利に応えるよりよいシステムはどうあるべきかが今問われているといえます。
無論、現在の教育問題は一過性のものであり、急いだ改革より漸進的改革が望ましいという主張は十分傾聴に値します。
しかし、画一的・統括的な改革ではなく、地域の特異性や学校の実情に応じて、もろもろの条件の整った市町村において勇断をもって多様な試みの一つとして実施するのも一つの方法と思われます。
最後に、社会教育の立場から考えてみましょう。
まず、家庭の教育棟能を高めるサポーティング・システムを作らなければなりません。
社会は先進化・都市化とともに核家族化し、また女性の就労は増加し、家庭の教育機能は低下しています。
したがって、家庭の教育機能を強化するサポーティング・システムが必要なのです。
とくに、子育てのあり方についての社会教育が重要でははないでしょうか。
すなわち、保育園・幼稚園・学校・保健所・児童館などの場で、小児科医・心理カウンセラーなどによる授業形式でする子育て教育ばかりでなく、
子育ての体験者やこれから子どもをもつ妊婦が輪になり、その中に専門家も入って、自然なやりとりのなかで教育効果を高める方法が考えられます。
つまり、その昔、井戸端で行われた子育ての情報交換を現代的にするというわけです。
臨時教育審議会の答申に述べられているいわゆる「新井戸端会議」がこれなのです。
さらに、地域のなかに行動問題をもった子どもの親が気楽に相談できるカウンセリングのシステムを作ることは、家庭の教育機能を強化するのに有用だと思います。
現に教育相談所・保健所などもありますが地域の医師会や小児保健協会が対応するシステムを作ることも考えられます。
私たちは、社会の中の「いじめ」現象についても考えなければなりません。
「いじめ」のモデルは社会の中にも少なくないと思うのです。
例えば、学校管理者、政治家や芸能人などに対する「いじめ」ととられやすい出来事を、新聞・雑誌・テレビなどで見る機会があることは御存じのとおりです。
これが子どもたちの「いじめ」のモデルになりうるという可能性は否定できないと思うのです。
私たち大人も、子どもたちのことを考えて、みずからのあり方を反省する必要があります。
現在は、日本人のもっている伝統的な「武士のなさけ」、すなわち人を許す心が見られないように思いますが、いかがでしょうか。
社会教育に対する対策は、子どもの社会活動が大きくなる思春期前後から重要になるでしょう。
エロ・グロ・ナンセンスなどのテレビ・雑誌の内容は、子どもの心に、とくに思春期の子どもたちに決してよい影響を与えてはいません。
とくに、非行などに関連しては、性教育などの立場からジャーナリズムなどの報道メディアのあり方を考えなければならないと思います。
こういったメディアをつくる人々の心こそが問われているのです。
「ノーテレビ・デー」を決めるとか、あるいは「もう九時になりました。子どもたちは寝ましょう」など、テレビの画面にテロップを流すなどの方法を提案した小児科医がおられます。
結局のところ、優しい心を育てるには、赤ちゃんのときに母親、そして父親によって愛のプログラム、信ずるプログラムにスイッチを入れてやること、
そしてその後の子どもたちの生活の場、すなわち生態システムを人間化し、愛のプログラムを回し続けるように、私たち大人が努めることです。
そのための社会制度の確立に対して、私たちがやらなければならないことがたくさんあります。
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