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母(父)子家庭 子育てについて
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「次の子」が出来た時の不安
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子持ちのつき合いを積極的に
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夫婦関係が問われる時
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子育てに関して、祖父母とどう付き合うか
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親父のスタンス
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子育てに疲れたと感じたら
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わが子と自分の両方を大切にする気持ち
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子育てで一番参考になるもの
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「子どもを育てる」ってどういうこと?
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望まれる父親と子の関係とは
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父親も家庭に参加すべきである
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いま求められている父親像とは
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子どもの良いところを見つけて、気づかせてあげる
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子育てに関して自分を責めない
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子育てのためにも夫婦の関係は大切
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子どもを自分の思う通りにしようとしていませんか?
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人格評価をやめて行動評価を
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かわいがるよりも子どもの行いを認めよう
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子どもに失敗から学ばせることを教える
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世のなかには罰ではなくルールがあることを教えよう
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感情的になると、親子関係は悪化してしまう
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自分もちょっぴり役に立つということを教える・自覚させる
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子供に「完全」を求めてはいけない
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周りの人と協力すること・他者へ関心を持つことを教える
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人との関わりがうまくできる子に
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自分を肯定的に受け入れることができるように育てる
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「勇気」を育てておくこと
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親の成長がなくては、子どもの成長もない
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孤独な育児の危険性
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愛、交友、勉強、子どもの三つの課題に親はどう接すればいいのか?
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「自分を大切にする心」をどう育てるかが問題
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子どもの問題行動は大人への問いかけ
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最近の子ども達をどう理解したらいいの?
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子供の行動を見ればいろいろなことが分かる
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どんな社会になっても幸せになれる子どもを育てよう
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子育てで本当に必要なのか疑問に思う3つのアイテム
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子供が安心できる居場所が必要
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片親の子育てをうまくこなすには
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子供の心身症
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安定した人格を育む子育て・教育が大切
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子供の甘えとわがまま
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子供の食事のしつけ
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幼い子どものうそは、あまり心配ない
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子供の発達
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友達と遊べない
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子育て・教育とは、子供を社会に適応させること
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「赤ちゃん返り」にはこう対処しよう
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共働きの子育てを成功させる考え方
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育児は「情」でするもの
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心理療法の特徴
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子どもの資質に合った子育てをしなければいけない
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親が変われば子どもも変わる
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子どもをまるごと受け入れる
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過保護、過干渉では耐える力は身につかない
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「がんばれ」ではがんばれない子がいる
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子供の目の高さで接する
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子どもをしつけるには、叱らず、引き下がらず
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不登校によって不利益を受けない配慮をする
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学校へ行けなくなってしまった子どもを特別扱いしない
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子供の「耐える力」を育てるには
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不登校の子供には、行動を起こすまで「待つ」ことも重要
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子どものうそ
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兄弟げんかは気配りしながら黙ってみてましょう
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子供の不登校を相談する機関と医療機関の役割
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子供の性格・気質
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「ほうび」を与えることの注意点
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子供が「学校へ行かない」ということ
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あなたが聞き上手になれば、子供は愛される大人に育っていく
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子供の反抗は自己主張
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「自分で決める」経験を積ませる
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上手な子離れ
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「ほめること」と「おだてること」
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手のかかる子供はよく育っていく
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親の都合で子供を忙しくさせていないか
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親が子供を信じる気持ちを持っているか
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ちゃんと育てればストレスに強くなる
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子供の個性を伸ばす教育が必要
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子供のやる気を引き出す親の接し方・考え方
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子供の個性を押し付けていませんか?
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しゃべらないことが気持ちのバランスにつながることもある
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子供の気持ちを知りたいと思っている大人への処方箋
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子供は、「勉強は苦痛」と教え込められている
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子供が育つ教育とは
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子どものおねしょは叱らない
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いたずらをする子供の「心の叫び」
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子供の心の病気に気を向ける必要がある
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子供はなんとなく察知する
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子どものストレス病が増えている
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本番に弱い子、プレッシャーに弱い子に育ってしまう原因
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音楽教育について
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子供の創造力を育てるには
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母親が働いている子どもと、専業主婦の子どもの発達の差異について
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やる気満々の子供、無気力な子供
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子供の教育環境の在るべき姿
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子どもの健康な発育に必要なもの
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「いじめ」をなくすためには
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子育てに疲れたら、公園でストレス解消
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子どもの成長には「適度な失望」が必要
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子育てで大切なこと
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子どもの性格は育て方だけでは決まらない
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子供は真似をして育つ
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子どもの可能性は無限です
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母(父)子家庭 子育てについて
現代では、シングル・マザーとかシングル・パパとかが珍しくはなくなりましたが、
こと子どもをめぐる「家庭のあり方」となると、まだ、両親そろったケース、それも両親が仲むつまじく暮らしているケースだけが取り上げられる傾向にあるようです。
いうまでもなく、父母であることと、夫婦であることは、つねに両立するとはかぎりません。
いくらいっしょにいても、不仲で修復の望みさえないばあいには、子どもは同時に両親に甘えることはできません。
また、子どものためだけに無理に仲むつまじく装っていくのも、果たしてどんなものか。
たがいに消耗が耐えがたいほどなら、むしろ別れたほうが新しい展望が開けるのではないでしょうか。
そのさいには、世間体や経済上の制約がのしかかってくるでしょうが、それは一生にかかわる問題として勇気をもって決断されてよいことです。
しかし、子をもうけた男女が別れるのはすごく大変なこと。
どうしても情が残るでしょうし、子どもへの愛着もあって、とてもかんたんに清算できそうにありません。
まして、子どもにとって父母は、自分をこの世にもたらした人。
成長につれて、自分はだれの子か確かめたくなり、実の親を知らなければ調べてみたくもなるものです。
この宿命を、親は重く受け止めておかねばならぬでしょう。
別れた相手のことを子どもがたずねてきたら、その場にふさわしいかたちで、はっきりと教えてやるべきだと思います。
また、別れた相手と会わせるかどうかは、子どもと自分と相手の三者がその必要を感じたら、会わせるのがよいと思います。
そのさい、ある程度のとりきめはかわしておくべきですが。
人情の中で育てる
さまざまな事情から母(父)子家庭になったばあいも、世間の目などひとつも気にすることはありません。
自分でそういう生き方を選んだか、そういう運命になったので、いまはひたすらその道を歩むほかはないのです。
むしろ、夫がいない分だけ、わずらわされずにしっかりと育児ができたり、
妻がいないために普通の男より生活力がついて、子どもから愛着と尊敬を受けられるくらいに思って、おおらかにやってほしい。
子どもがかわいそうだとか、不欄などと考える必要はありません。
家族にもいろいろなタイプと内実があって、母(父)子家庭もそのひとつ、子どもはそうした暮らしをともにする仲間になってもらったらよいのです。
母(父)子だけだと、なにかとピンチに弱いこともありますから、公的援助はもちろん、友だちや近所のひとたちの力を借り、つき合いを広くもって、その人情の中で親子が生きるようにしたらいいでしょう。
ただ、まわりからの援助は気持ちよく受けるとしても、それに甘えないようにはしたいものです。
カテゴリー:子育て
「次の子」が出来た時の不安
一人目とはまたちがった感慨
二人目の子をいつつくるかはそれぞれの夫婦の人生設計によりますが、一人目を宿したときとは異なった感慨を覚えるのではないでしょうか。
一人でも手に余るほど忙しいのに、二人の面倒をみるなんて想像するだけで目がまわりそう。
そのうえ、お金の問題から住宅事情、仕事との兼ね合いまで、現実はなかなか厳しそうです。
共働きの家庭では、ようやく仕事にもどれるようになったのに、すくなくとも女性は、再び仕事を休まねばならないのです。

一人目との関係も大いに気になるはず。
はたして次の子も同じようにかわいがれるだろうか。
上になる子に手が十分かけられなくなるけれど、大丈夫かしら、なんだかかわいそう。
そんな心配を、どの親も大なり小なり持つようです。
ひとりっ子より兄弟がいるほうが幸せだろうか、間隔は何年くらい離れるのが理想的かといった迷いも生じてきます。
こうしたさまざまなことは、現在避妊をしている夫婦にも、常に突きつけ続けられている難問であるでしょう。
産後四十日もすれば、生理はなくとも、妊娠の可能性はあるのですから。
「次の子」への対応は、まずは夫婦と第一子とで共有したい。
産むのならば、それぞれの人生設計をあらためて了解し合い、三人で誕生を待つようにするのがよいと思います。
母親が妊娠すると、幼い子でも敏感に察知するし、親もかまえがちになるので、早く話してやり、大きくなったおなかを大切にする約束などをして、たがいにいらだたない工夫をしてほしい。
父親ができるだけかまってやるようにすれば、母親を奪われる不安を静めることができるでしょう。
たとえば、定期の健康診断にいっしょに連れて行くと、産院になじめてよさそう。
いざ出産のときは、父親または祖父母ら、なじんだひととともに母親の傍らに寄れれば、ずいぶんと安心するかと思います。
「次の子」はできてしまえば十分にかわいいし、男でも女でも変わらぬもの、「上の子」も程なく落ち着くことでしょう。
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子持ちのつき合いを積極的に
子持ちになると、なにかファミリーのようなまとまりができて、他人には以前とはちがった雰囲気を感じさせるのかもしれません。
まだ子どものいない友だちはちょっと入り込みにくい感じだし、すでに子どもがある友だちも、事情がわかるだけにへんに遠慮したり、
子どもを介したつき合いにかたよりがちになるのではないでしょうか。
でも、子どもができたためにこれまでのつき合いがうすまるとすれば、やはり寂しいことです。
親子三人での暮らしがいくら楽しいといっても、社会からしだいに閉ざされていったのでは、やがて物足りなさを感じることは目に見えています。
とくに毎日ひとりきりで家に閉じこもって育児をするお母さんの場合は、世間から取り残されてしまったような気持ちになってしまうかもしれません。
こんな状態は、おそらく赤ちゃんにとっても好ましくないだろうと思います。
赤ちゃんは母親と父親だけで育てられるものではありません。
親以外の人とも接し、ときには親から離れて世の情けを知ることも大切なのです。
そうしてこそ、「社会性」といわれるものが身につくし、独立心も鍛えられるはずだからです。
つき合いが狭いと、じっさいの生活でもいろいろと困ることがおこります。
なにかのときに赤ちゃんの世話を頼めるひとがいなかったり、相談にのってくれる相手がみつからなかったりすれば、途方に暮れてしまうでしょう。
だとすれば、なるたけ積極的につき合いを広げるように心がけるのがよさそうです。
近所に住む同じような年ごろの子をもつひとに声をかけて親しくするのもいいでしょう。
昔の友人に久しぶりに声をかけるのもわるくないのでは?
また、子どもを預けて趣味のサークルなどに顔を出すのも友だちづくりにはいいかもしれません。
いずれにせよ、ある時期からは赤ちゃんを通りこした自分たちどうしの友人関係をつくるように努めだしたほうが、かかわりかたが狭くならないでいいと思います。
カテゴリー:子育て
夫婦関係が問われる時
赤ちゃんが生まれてからしばらくは、ばたばたとした子育ての日常に追われ、夫と妻は「親」を自覚することに精一杯、愛情の軸も赤ちゃんに強く焦点を結んでいます。
しかし、やがて子持ちの暮らしにも慣れ、赤ちゃんもしっかりしてくると、おたがい、自分の人生に対する意志が再びめばえてくるはずです。
ただ、その意志は二人だけのときとは異なったものにならざるをえません。
なぜなら、赤ちゃんを中にはさんで、それぞれがどう向き合うかという点で、異なる性向があらわれてくるからです。
そこには、男と女の生来の差もあるでしょうし、それぞれの気質と育ちも大いに関係するでしょう。
「男は外で働き、女は家を守るもの」という通念に知らず知らずひきずられているかもしれません。
ここで、夫と妻が家族のありかたをきちんと話し合っておくことが、二人だけでなく、赤ちやんの将来のためにも大切なのではないかと思います。
絶え間ない日々の育児の中で感じるおたがいの不満は、たとえいまは些細なことでも、意外と大きな問題の芽をはらんでいるものです。
妻の「勝手すぎる」「自分ばかり損をしている」という不満も、夫の「なっていない」「かまってくれない」という思いも、どちらもいいかげんにはすませておけません。
これらは赤ちゃんをはさんで、二人の愛情の軸がずれはじめた兆しなのかもしれません。
その元凶がもし社会通念にもあるとすれば、それに対してもとことん議論しておく必要がありそうです。
育てかたについての意見のちがいはあるのに、一方だけに強制したり、まかせてしまったりするのでは、他方のいいところが生かせなくなるでしょう。
育児は夫婦で分かち持つのが原則。
かならずしも形の上での平等でなくとも、両方が心と生活の中に子どもをきちんと組み込んでいればよいのです。
カテゴリー:子育て
子育てに関して、祖父母とどう付き合うか
子どもが生まれると、その世話をめぐっておじいちゃん、おばあちゃんと若夫婦との間できわどい人間模様が展開されることでしょう。
じっさい、若夫婦と祖父母が子育てで対立するケースは少なくないようです。
おじいちゃん、おばあちゃんにしてみれば、孫がかわいくてしかたがない。
しかも、わが子の性格が子育てに反映し、孫にもその欠点や美点が受け継がれていくのを客観的に見ていると、若夫婦の育て方に対して思い入れも深くなるし、口出しもしたくなるというものです。
反面、義理の息子や娘に対する遠慮も当然あります。
そこにジレンマが生じるわけです。
反対に若夫婦の側からすれば、祖父母が孫を甘やかしたり、いちいち干渉するのをうとましく感じることもあるでしょう。
だから、若夫婦は祖父母に対して、思い切ってフランクにつきあうほうがいいと思います。
自分たちが育児にはりきっていて、自信もあるのなら、「思うようにやらせて」と宣言してしまったほうが、すっきりします。
ただ、その場合でも、祖父母の孫への愛着を粗末にしないように。
逆に、祖父母から育児の経験を聞きたいというのであれば、率直に頼んでみることです。
あまりかまえないで、先輩後輩くらいの感じでつきあったらどうでしょう。
もし、育児の方法をめぐってトラブルがおきたときは、それが子どもにどれほどの差をもたらすかをまず考えてみてください。
「靴下をはかせるか、はかせないか」とか「服をもう一枚着せるか、着せないか」などは、どちらかが妥協すればすむことです。
にもかかわらず、どちらもあとに引けないというなら、これはもう衣服の問題ではありません。
なにかほかの感情がうずまいているにちがいないのです。
それぞれの暮らしをかき乱すようなことになっては困りますが、生き方の根本の部分でたがいに節度を守るようにして、おじいちゃん、おばあちゃんには、若夫婦もおおいに甘えてもいいのではないでしょうか。
それぞれの思いが重なり合う中で、子どもは成長していくのです。
カテゴリー:子育て
親父のスタンス
子育てでは、父親というのはどうも割が悪い、自分だけ取り残されたような感じがすることが多いと感じているでしょう。
それはそのはずで、そもそも子を宿すのは女性、男ははたから見聞きするほかありません。
生まれるときも、たいていは産院の廊下、タイミングが悪いとあとからあたふたと駆けつける始末です。
生まれてからにしても、ハンディは決定的。
なにより男にはふくよかなおっぱいがありません。
いくら女に負けない育児をしたいと思っても、乳房をふくませている姿を見せつけられてはお手上げ。
母子の間には割り込めないみたいな気分になるのも無理はありません。
まして、男が「おれは稼ぐ、育児はおまえにまかせる」というスタンスをとった場合には、ますます母子から浮き上がらざるをえないでしょう。
気まぐれに子どもの相手になることはできても、ひとたび世話が必要となれば、たとえちょっとしたことでも、母と子のむつみ合いからはずされてしまうにちがいないのです。
それでよいのだ、男は寂しくても家族を養い、妻を精神的にリードするのが務めなのだという考えがあるかもしれません。
世間には、父親は大局的なところで子に感化を与えるべきだという意見が強いようです。
しかし、それでは子どもとのこまごまとした、しかし懐深いところでの接触は少なくなるにちがいありません。
そして、父と子との人格的な交渉も上滑りになってしまいそうです。
たとえ男性が社会的に広い視野を持っているとしても、生活のすみずみで発揮されなければ、子どもにはとどきにくい。
妻を介してといっても、子の世話の機微を知らなければ、説得力に欠けると覚悟しなければなりません。
それに、このようにしていたら、せっかく子どもを持った楽しみも満喫できないのではないでしょうか。
男だって、わが子のかゆいところまで手を差し伸べてやりたい気持ちはあるのに、そこをパスしてしまうのですから、親冥利を十分に味わえそうにありません。
父親も断然子どもに肉薄するスタンスをとるべきだと思います。
少々の照れや面倒くささは乗り越えて母親と同じ世話をすれば、きっと確かな手応えをえられるでしょう。
カテゴリー:子育て
子育てに疲れたと感じたら
育児の分担は半々に
赤ちゃんや幼い子をもつお母さんがいらいらやからだの不調をうったえるケースでは、
ちょっと家事の手をやすめ、子どもから離れればよくなると思うのに、なかなかそれができないというひとがたくさんいます。
夜は帰りがおそい夫につき合い、朝は明け方から目をさます子どもの面倒でくたくたになっているお母さんの悲鳴もよく聞きます。
こうした状態は、お母さん自身はもちろん、子どもにとってもよいことではありません。
私さえ我慢してがんばれば、といった気持ちで乗りきろうとするのには、どうも無理があるような気がします。
もともと子どもを育てるのはたいへんですし、少々のピンチや苦労は親をきたえてくれるでしょうが、
お母さんだけがそれを全部背負って「犠牲」になっているというのでは、どこかにその不満のはけぐちが出てくるにちがいないと思うのです。
やはり、育児には男性の協力が必要です。
それも、手伝いという程度ではなく、いっしょに育てるという気がまえでなければだめでしょう。
もちろん、仕事の事情は考慮されなければなりませんが…。
ぼくの知り合いの夫婦でも、
夜中に子どもに泣かれたときには交代で起きる、
奥さんが病気になったら夫が家と子どもの面倒をひきうける、
といったひとたちが増えてきました。
また、ピンチのときに手伝ってもらえる近所のひととか友だちをもっていることは、とても心づよいことです。
世間とのつき合いが疎遠になりがちな若いカップルは、そうしたつきあいを大切にし、自分たちにあったやりかたでつくっていったらどうでしょう。
それは、同時に、子どもの世界をひろげることにもつながるはずです。
ときには気晴らしも必要
どんなに子育てに自信のある人でも、ときには「もういや」「できない」といった気分に襲われ、「ダメな親」と自分を責めさいなむことがあるでしょう。
このような状態では、だれだっていらいらしたり、落ち込んだり、なにをするのもおっくうになったりしても不思議はないと思います。
よく、わけがわからず涙がこぼれることがあるといいますが、それもこうした辛さのなせるわざなのでしょう。
なのに、少しでも鬱うつとしていると、すぐに「育児ノイローゼ」とか「マタニティ・ブルー」といったレッテルがはられるのは心ないこと。
母親自身まで自嘲的にそのようにいわざるをえなくなるのは、いかにも残酷なことだと思います。
でも、それはだれにも大なり小なりあること。
あまり自分を責めすぎないようにするにかぎります。
むしろ、ダメと感じる親のほうが、それだけ育児に対する熱意が高い証拠なのですから、誇りをもっていいくらいなのです。
でも、たぶん落ち込んでいるときというのは、そうたやすく気分が晴れないのも事実。
そんなときはまず、どんなふうにダメなのか、感じているとおりをしゃべってしまうのがいちばんのようです。
ただし、相手はなるべくだまってこちらのいうことを聞いてくれるひとを選ぶこと。
忠告や激励するばかりのタイプは避けたほうが無難です。
また、わが子への否定的感情は、なにより吐き出してしまうにかぎります。
暗い顔を隠そうとせず、できないことは無理にやろうとしない。
愚痴をこぼしたって、当たり散らしたって、かまわないと思います。
それから、なにもかも忘れて眠るチャンスをひねり出すことや、気晴らしをすることも効果があります。
一日か半日でもいい、夫や実家や友人に子どもを預けて、ぐっすり眠るとか、美容院や映画にでかけたりすると、気がずいぶんと晴れるのではないでしょうか。
早い話が、母親ひとりで全責任を負わず、疲れたら夫をはじめ、祖父母、知人などに子どもを預けて休むことができれば、ずいぶんと楽になるはずです。
母親自身もまわりに気をつかわず、マイペースでやるのがよさそう。
親も子もひとりひとりちがうのですから、よその育児と比較するのはつまりません。
およそ子どもは、相当にでたらめをやっても、なんとか育つものなのです。
カテゴリー:子育て
わが子と自分の両方を大切にする気持ち
子どもには「つきあいきれない」ところが、たくさんあります。
気が強くて活動的な子どもをもったお母さんなどは、それを身にしみて感じていることでしょう。
片時もじっとしていず、家中をはいずりまわり、ひっくり返して、それをとめれば火のついたような泣声をたてる。
買いものに連れて出れば出たで、親の手をふりきって、どんどん行ってしまう。
お母さんは一目子どものあとを追い、始末をつけるのに精いっぱいです。
かといって、おとなしい子なら楽かというと、そんなことはありません。
お母さんにくっつきっぱなしで、ろくに用事をさせてくれないなどということがおきるでしょう。
ちょっと台所に立っても足元にまとわりつき、そばのいすに座らせるのもだめ、洗たくものを干しに出ようものなら、大泣きに泣く。
これではトイレにもゆっくり入っていられません。
こうした悩みは、子どもをもった以上、避けられません。
幼い子どもをかかえた暮らしというものは、子どもの面倒をどれだけみるか、みきれるかという問いかけに、いちいち答えをだしていかねばならぬ毎日であるでしょう。
相手は生身の人間だし、年が二十以上もちがうのですから、いっしょに暮らすのはたいへんむつかしい。
もちろん、育児の知識や技術で少しはカバーできるでしょうが、とことんまで合わせるというわけにはゆきません。
それでも、親は子どもとなんとかやってゆくほかないのです。
それを世間では 「責任」とか「教育」の問題にしがちですが、
親はもっとなまなましいところで、子供とやってゆくようにしたらどうでしょう?
かわいくてたまらなければ存分に面倒をみてやるし、どうにもつきあいきれなくなったら、多少の勝手はさせてもらうのです。
そのときでも、もちろん子どもの状態をちゃんとつかんで、危険や精神不安の限界ではかまってやるだけの余裕をもたなければなりません。
そのためには、母親がいつも育児の犠牲になっているのでなく、自分の時間と生活をもつということが必要です。
子どもをもった不自由は、このような、自分をも大切にしようとする母親の「子がかわいい」という気持ちによってのみ、乗り切られてゆくのだと思います。
カテゴリー:子育て
子育てで一番参考になるもの
小児科がよく受ける子育ての相談の一つに、
「いつから離乳食を始めたらよいでしょうか」
とか
「しつけはいつから始めればよいでしょうか」
といった、長い目でみた子育ての計画をたずねられることが最近多くなっているそうだという。
たしかに、育児にはそうした見通しをもってかかることが必要です。
それに、人間が人間を育てるのですから、理想やスケールの大きなもくろみがあってもよいでしょう。
子育てについて、医者にたずねたり、本を読んだりするのもいいでしょうが、
同じような子をもって悩んでいるお母さんどうしで意見や体験を交換すれば、もっといろいろなことが学べるはず。
そのほうが、より安心できるし、おたがいが育児についての考えを深めることができるようにみえます。
もちろん、離乳食をいつから、どのようにすすめるかなどは、いちおうの医学的な知識がいります。
ですが、実際にやるとなると、子どもや家庭の事情によって一律にはいかないのがあたりまえ。
サラリーマン家庭の主婦と共働きや自営業では同じようにいきませんし、よく食べる子と下痢しやすい子とではとうぜんやりかたがちがいます。
いたずらをどうするかといったことについても、生活は大いに関係します。
家具の少ない持家と調度の多いアパートでは、いたずらへの許容量にも差がでるにちがいありません。
きょうだいや年寄りがいるかいないかでも、お母さんのやりかたはずいぶんちがってくるようです。
子どもにはいろいろな「たち」があり、同じ「しつけ」をしても、ひとりひとり反応がとても異なります。
おとなしくて気の弱い子はちょっと叱っただけでべそをかくでしょうし、活動的で気が強い子は少々どなられても平然としています。
そんなとき、ほんとうに参考になるのは、医者や本からえた知識ではなく、いろいろな事情をもったほかのお母さんの体験ではないでしょうか。
育児の計画には、こうしたちがいをもっと取り入れてみたらどうでしょう。
たとえ医者に言われたり、本に書いてあっても、無理なことは
「そんなのできないわ」でいいのです。
あれこれと思いまどわずに自分のやり方をもつことが、育児を楽しくやる秘訣。
自信をもってマイプラン、マイペースでやってください。
カテゴリー:子育て
「子どもを育てる」ってどういうこと?
産院から赤ちゃんを連れてわが家に帰ってきたとき、ほかでもない「わが子」を迎えたという感慨がひしひしと胸に迫ってくるでしょう。
いかにも頼りなげな存在であっても、二人の間にいま一人の「ひと」が「いる」のです。
そのときから、親子三人での新しい暮らしがはじまります。
それは、やれおっぱいだ、おむつだ、おふろだと、おとなとはまったくちがう生活のリズムで日常をかき乱してきます。
親たちはいやおうなしにその生の営みに巻き込まれていくことになります。
甲高い泣き声をたてていれば真夜中でもおっぱいをふくませなければなりませんし、寝自首たてずに静かにしていれば、寝ているとはわかっていてもそっとのぞかずにはいられないのが親の情です。
おっぱいをやるにしても、育児書のグラビアをかざるようなファンタスティックなものではありません。
親としてこういうわずらわしさになじんでいくためには、いさざよく生活のスタイルを一変させてしまうのがよいかと思います。
二人だけのときのようにスマートにはいかないかもしれませんが、「ごぶつき」の暮らしを新たにつくり出してゆくのもまたおつなもの。
それをきらって、身軽なときのままを守ろうとするほうがかえってみじめさを増しそうです。
赤ちゃんができると、夫は妻をとられたような寂しさや嫉妬を感じたり、妻は、育児に無関心な夫にいらだちや不満をおぼえたりすることがあります。
どうやら、親と赤ちゃんとの新たな関係は、これまでの夫婦の関係を問い直すことにもなりそう。
ここでは、二人の関係を新しく組み換える必要がありそうです。
女のひとは子育て以外の自分があることを忘れないで、男のひとだってわが子はかわいいのだから子育てはするというふうにしたほうが、二人の間はずっと成熟していくのではないでしょうか。
とはいえ、ときにはつらいな、やすみたいなと思うこともあるはず。
そんなときは、気張らず、適当にするくらいののんきさをもったほうがよさそうです。
すやすやと眠るわが子をながめながら、二人でお酒を楽しむ、そんなひとときも大切にしたいものです。
カテゴリー:子育て
望まれる父親と子の関係とは
最近の父親が、子どもの教育やしつけに及ぼす影響は、ほとんどないに等しいと言えましょう。
それは子どもを権力的な関係のなかで支配していた、かつての「父権」の失墜の反動とも言えるかも知れません。
父親は子どもに対して無力、ないしは、無関心になっています。
しかし権力的であれ無力な父であれ、どちらにしろ父〜子の関係は、支配〜服従という縦の構造であることに変わりはありません。
必要なことは親子の関係を支配〜服従の関係でなく、対等〜協力の関係に変えることであると思います。
そのためのリーダーシップを取ることが、現代の父親に求められていることではないでしょうか。
夫婦や親子のお互いの役割や資質の違いを認め、その上での協力関係を作っていくこと。
このことを父親自らの行動を通して教えることは、子どもを真の意味での民主的な人間に育てることでもあるのです。
そして未来を生きる子ども達にとって、民主的に生きること、
つまり周りの人と対等の立場で協力し合って生きることができるということが、人間として最も大切な能力になると私は考えています。
カテゴリー:子育て
父親も家庭に参加すべきである
父親は家庭をいつでも手に入る憩いの場として考えがちな傾向があります。
しかし憩いの場は決して無条件で与えられるものではありません。
父親も憩いの場を作るために、家庭に参加する必要があるのです。
権威を傘に、子ども達を自分の思うままに支配することでなく、また、自分は関係ないと無関心さをさらけ出すことでもなく、
家族のメンバーとしての居場所を確認し、皆が憩えるような協力の場を、父親のリーダーシップで作っていかなければならないのです。
権威主義的な父親は命令を平気でします。
リーダーシップの父親は何かを家族のために提案します。
お互いを尊敬している人間関係では、命令するということはまずありません。
提案、話し合いが子どもとの良い関係を作る、一番いい方法なのです。
当然のことながら提案は、場合によっては子ども達に受け入れられないかも知れません。
提案とは相手に断る自由を認めることでもあるからです。
父親の提案が断られたからといって、父親の権威が否定されたわけでもないのです。
受け入れられるように提案を修正するか、次回の機会を待つかを決めればよいのです。
同様に、子どもの提案に父親が「ノー」と言うこともあるのです。
ただし子どもを納得させる、論理的な「ノー」という理由が必要なだけなのです。
そうであれば子どもも「ノー」と言われたことで、自分が否定されたのではないことを学びます。
丁寧な子どもとの話し合いが必要になります。お互いが信頼できる父〜子関係でなければならないのです。
注意してほしいのは、信頼とは親の期待通りに子どもがなってくれることではないのです。
子どものありようを、そのまま受け入れることから、子どもへの信頼は始まるのです。
そして普段から子どもとよく付き合い、自分のことをお父さんはよく知ってくれているという気持ちを子どもが持つことが大切なのです。
また子どものことをよく知るためには、父親自身のことも、子どもに知らせなければならないと思います。
かつての父親のように、働く姿を子どもに見せることは難しい時代です。
しかし、仕事について、父の考えについて、子どもと話すことは可能です。
お互いに知り合うことが相互尊敬の基本になるのです。
父親は勇気を出して自分の生き方を子どもに正直に伝えてほしいのです。
うまくいったことも、そうでなかったことも包み隠さず話してほしいのです。
ただし子どもとべたべたし合うことは、尊敬し合うこととは違います。
べたべたした関係は、自立した人間の協力関係でなく、お互いに依存を必要としている、自立することの不安を抱えた関係であることが多いのです。
子どもは両親の仲から人間関係を学ぶ
父親が子どもに影響を与えるためには、父〜子の関係だけでなく、父〜母の関係、すなわち夫婦の関係も大切です。
夫婦の結婚生活がうまくいっていないことは、子どもにとっても大きなピンチになります。
夫婦がもめているときは、子どもは手の込んだやり方で親と付き合うようになるものです。
子どもは親のどちらの立場も支持できないものです。
無意識的に問題を起こすことによって、自分に親の関心を引きつけ、夫婦の危機をひとまず延期させる子どももいます。
夫婦がもめているときに、父親は子どもに良い影響を与えることができません。
Wさん一七歳。
父五一歳、母四七歳、妹一四歳の四人家族の例です。
Wさんは高校に入る頃から何度も何度も手を洗わないと気がすまない洗浄強迫という行為がありました。
彼女が高校に入る頃に、父の女性問題で夫婦の間が険悪になっていたのです。
Wさんは、夜、両親の寝室の前を通ったときに、父から離婚という言葉が出ているのを聞いてしまいました。
ひどいショックを受けましたが、それを母親にも言うことができず、一人で悶々と悩んでいました。
そんなとき気がつくと何回も手を洗っている自分がいたのです。
初めは気にしなかった親達も一時間ほど手を洗っている娘を見て心配し出しました。
いくらかの経過があった後に、医者にかかることになりました。
この頃には父も協力的で母と一緒に病院について行ったりしてくれました。
カウンセリングを受けて比較的症状は軽減しました。
すると再び夫婦の仲が険悪になったのです。
Wさんの症状もまた悪くなりました。
このような経過が何度か続いたあとで、カウンセラーは家族療法と呼ばれる新しい方法に切り替えました。
家族の協力を作り上げるように面接を工夫したのです。
夫婦の和解が成立した頃から、Wさんの洗浄強迫はなくなりました。
子どもは親から最初の人との関係のあり方を学ぶのです。
両親が協力的であれば、人と人との関係が協力的であることを学ぶことができます。
反対に両親の関係が対立的、敵対的であれば、人との関係を対立的、敵対的と考えてしまうでしょう。
夫婦が協力的であることが、子どもを協力的な人間にするもっとも大切なことなのです。-----
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カテゴリー:子育て
いま求められている父親像とは
私達は父親という言葉からどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
年配の大人達は「厳しい」「頑固」「近寄りがたい」「乗り越える壁」「規範」など、
表現は様々ですが、力を持った権威的な存在として、父親を受け入れるにしろ否定するにしろ、思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし、最近の子ども達の父親のイメージは違うようです。
子どもと話しているとき、父親のイメージを聞く機会があります。
返ってくる答えは、「興味ない」「どうでもいい」「よくわかんない」など、
「父親が自分にあまり影響力のない、無関心などうでもよいものである」というイメージです。
M君、中学二年生。
父親は四六歳のサラリーマンです。母親は四六歳の専業主婦。
私立高校二年のお兄さんと、小学六年の弟の五人家族です。
M君は学校で何人かの仲間と一人の子どもをむかつくということでいじめました。
学校で強い指導を受け、自分からも希望してカウンセリングを受けました。
「親父? よくわかんないや。ほとんど顔を合わせたことないし。
俺に直接は何も言わないよ。
おふくろにごちゃごちゃ言っているみたいだけれど。
親父は仕事のことしか考えてないのではないか。
俺達としたって、まあ、給料さえ持ってきてくれたらいいし」。
カウンセリングをやっている友人から聞くと、M君は、父親なんかどうでもいいという素振りで話していたそうです。
M君にとっての父親は、かっての子ども達が感じていた、恐い、「厳父」のようなものから程遠いものになっていました。
もちろん父親にも言い分はあるでしょう。
「厳しいリストラのなかで、会社で一生懸命がんばっている。家にいるときぐらいのんびりと憩いたい。子育てや家のことまでやらなければならないなんて」と。
結局父親は家庭のなかでの尊敬を失い、また自らも影響力を維持することをやめ「厳父」から「ただの人」になっているのが現状ではないでしょうか。
しかし、正確には「ただの人」でなく、現代の父親は「ただの人以下」になっていないでしょうか。
「ただの人以下」の父親は、子どもの人格形成にどのような影響を与えるのでしよう。
父親が教育や子育てに参加しないことは、権威的な、ないしは権力的な親がかつて問題であったのと同じくらいに、子どもにマイナスの影響を与えているのではないでしょうか。
結論を先取りすれば、現代の父親の課題は家庭のなかに、かつてのような権力的な父親の権威を取り戻すことではないと思います。
かと言って子どもを甘やかし、影響力をほとんど持たない無関心な父撃あってもならないと思います。
第三の父親の姿、本当の意味での「ただの人」の父親とは何か、考えてみましょう。
権威ある父親像の失墜
父親には力があるもの、権威があるもの、支配するものというイメージがつきまとってきました。
またこれはかつての男性につけられていたイメージでもあったのです。
このようなイメージは農業や家内工業を中心とした共同体社会のなかで作られてきたものでもあったのです。
ドイツの精神分析学者であるミッチャーリッヒは、著書『父なき社会』のなかで、
子どもは父の働く姿を直接見ることから、自己形成や生きる知恵を学びとったと論じています。
このような父親像は、家父長制度が維持できた、わが国で言えば戦前までの社会で、その善悪は別にしてもそのなかで初めて可能であったものです。
戦後の工業化、都市化の急激な波は、この父親像を明らかに衰退させました。
私達の親の世代は、第二次世界大戦の敗北で、権力的な「父権」を放棄せざるをえなかったのです。
「父権」は戦後の民主的な価値観を受け入れるなかで、その権威を失っていったのです。
サラリーマン化した都市では、父親が働く姿を子どもに見せる機会はほとんどなくなりました。
家での父親はリーダーシップさえ放棄した、無力な姿をさらすことになったのです。
子どもにとって、父親のそのような姿から、威厳や規範を学ぶことは難しいのです。
かつての子ども達には乗り越えるべき壁としての父親が存在していました。
子ども達はこのような父親を意識的にも無意識的にも「規範」として一つの基準にしてきていたのです。
しかし現代の父親は、かつての権力的に子どもを支配する父親ではなくなりました。
子どもにとっては乗り越えるべき父親が不在になったのです。
戦前の強い「父権」主義から、その反動としてか、戦後の父親は、家庭の問題に父親みずからがリーダーシップを取ることが少なくなりました。
かつての「厳父」は、最近では「給料運搬人」とか「粗大ごみ」と揶揄されている始末です。
不登校児S君のことです。
中学一年のS君は四四歳になる父と三八歳の母の三人暮らしでした。
S君は二学期の初めから不登校を始めました。
母は強く登校を勧めましたが、S君は登校しなかったのです。
父は会社の仕事で一か月ほど外国に出張していました。
九月の終わりに父が帰ってきたときには、S君は完全な不登校になっていました。
母は父にS君の様子を話しました。
父は自分が学校に行くように言うから呼んできなさいと言いました。
学校に行かないことで、S君を強く叱りました。
明日から学校に行くという約束を、父はS君に強要しました。
S君はしぶしぶ承知しました。
父は母にS君が学校に行くと約束したことを伝え、しっかり子育てをしてくれなければ困ると不満を言いました。
次の日、父は朝早く会社に出勤しました。
しかしS君は父との約束に反して、登校時間になっても起きてきませんでした。
結局、その日も彼は学校へ行かなかったのです。
遅く帰ってきた父に、母はS君が登校しなかったことを伝えました。
これからどうしたらいいか相談しようとしました。
父は急に不機嫌になりました。
教育は母に任せてあるのだから、母がどうにかしてほしいと父は言いました。
家に帰ってきてまで家族のことで心配かけないでほしいと不満を言ったのです。
この父親は、どこにでもいるありふれた父親です。特別に家族に無関心というわけでもないのです。
子どもと接触することも少なく、また関心の大部分が仕事にあったのは事実ですが。
ある日、父親は急に子どもの問題に直面させられ狼狽したのでした。
自分が無力であるということを、父親は改めて知らされました。
自分の無力さへのいらだちが、怒りとなって母親に向けられたのだと思われます。
怒りを向けられた母親は、家庭の重大時に協力してくれない父親に失望しあきらめていかざるを得ませんでした。
父親の無力化が子どもどのような影響を及ぼすのか
父親の無力化は、いろいろな影響を子どもに及ぼします。
特に子どもの成長への影響は無視できません。
また家族各々の関係の持ち方をも変えることになります。
夫婦の関係の希薄さに逆比例して、母と子の関係が密着していきます。
精神分析によれば、子どもの倫理観の形成には、父親の権威像が必要であると言われています。
いわゆるエディプス・コンプレックス説です。
フロイトは幼い男児が母親に性的関心を向けるが、父親による去勢を恐れ、心理的な葛藤状態になることを、「エディプス・コンプレックス」と呼びました。
子どもは父親を自分と同一視することによって、この葛藤を解決していくのだと考えました。
この父親像を自分のなかに取り入れることにより、倫理や道徳の規範となる超自我(良心の働きをするもの)を形成していくのです。
去勢という強い圧力を子どもに与えることのできる父親が、子どもの心に倫理的、社会的規範を与えると主張しました。
しかしこの説に批判的な考えもあります。
エディプス・コンプレックス現象は、別に性的な特別の欲求によって起きてくるのではなく、甘やかされた子ども一般に見られる現象だという主張があります。
これはフロイトと同世代のウィーンの精神医学者アルフレッド・アドラーによって唱えられたものです。
アドラーはエディプス・コンプレックスを、甘やかされた子どもが、自分の欲求を何の制限も受けずに得ようとする、対人行動の一つであると考えました。
母親に甘やかされた子どもは、自分の欲求の全てを、母親から満足させてもらうことを期待するようになるのです。
性的に目覚めたときも、母親によって全ての欲求の満足を得ていた子どもは、自分の欲求を制限することができないのです。
発達史のなかで甘やかされた子どもは、自分の欲求を他者との関係のなかで制限することを学んでいないのです。
アドラーによれば社会的規範というものは、フロイトの言う去勢不安のようなものから生まれるのではなく、親との対人関係を適して学んでいくものだと考えました。
父親が恐ろしいもの、権威あるものとして振る舞うことではないのです。
お互いを尊敬し、家族と喜びを分かち合い、失敗を恐れない勇気を育て、周りの人と協力することの大切さを、
父親は子どもとの関係のなかで、身をもって実践し、教えなければならないと考えたのです。
このような体験を通して、子どもは社会化されていくのです。
それはまた他者と恐怖ではなく、喜びを通して協力していくことを学ぶことでもあるのです。
父親が子どもの育児や教育に参加してくれないと失望した母親は、父親への期待を捨て、自分一人で子どもを守ろうとします。
さらに核家族化や、少子化によって、母親は子どもの教育のために自由に時間を使えるようになりました。
このような母〜子の関係のなかで、現代の母親は、必然的に子どもを甘やかし、結果的に過保護の育児になっていくのです。
母親は心理学や育児書の情報をふんだんに学び、子どもが発達途上で自らの力で乗り越えなければならない課題を、先回りして、手を回し、子どもが失敗するのを防ごうと一生懸命になります。
失敗してもそこから子どもが何かを学び、立ち直るということを信じることができないのです。
「この子のために」という論理で、母親は子どもに干渉することを正当化します。
このことがどのくらい子どもを甘やかすことになるかを考えないのです。
母親の心理には、子育てに失敗したら大変だという不安が、色濃くあるのです。
この不安が、母親の自分こそ守ってあげなければという気持ちを、肥大化させています。
こうしてアドラーの言う甘やかされた子どもが、社会化の不十分な��わがまま″な子どもが、圧倒的に多くなっているのです。
中学三年のP子の例です。
四〇歳のサラリーマンの父と三九歳の専業主婦の母、中学一年の弟の四人家族でした。
P子は中学二年の頃からいわゆるつっぱりグループと付き合いがあって、家に帰ってくるのが遅いときがよくありました。
弟と仲が悪く、つかみ合いのけんかをよくしました。
あるとき、私は夫婦二人で二、三泊の旅行に行くことを提案しました。
父は賛成しましたが、母は頑として賛成しません。
理由は母がいなければ、子ども達だけでは何もできないし、子どものけんかは収まりがつかなくなるだろうということでした。
また姉はこれ幸いと外泊してくるかも知れないし、とても子どもだけ残して親が旅行に行くなんてとんでもないという考えでした。
母は自分がいるから、かろうじて家族が持っているので、いなければ皆てんでに勝手なことをすると考えていました。
説得に難航しましたが、私は、とにかく一泊だけしてみるよう勧めました。
結局両親は一泊旅行に出かけました。
お母さんの心配をよそに、子ども達は一度もけんかしませんでした。
むしろ協力的で仕事も分担し、親がいるとき以上に仲が良かったのです。
もちろんP子は、外泊や遊びに行くこともありませんでした。
母にとっては大きなショックだったようです。
子ども達を信頼することを、母親が学んでいくにつれてP子の問題行動も減っていきました。
この例のように親の信頼は子どもを大きく成長させるのです。
子どものありのままのを受け入れることで、父親は信頼される
子ども達に父親が一番教えなければならないことは、
人は皆お互いが平等であり、尊敬し合って、協力していくのだという民主的な具体的な生き方ではないでしょうか。
教えなければならないことは、人は皆、性別とか、国籍とか、年齢とかに関係なく、対等であり、相互に尊敬し合うなかで、協力的な関係を築いて生きていくことが必要だということです。
「厳父」のような理想的な父親像を作り、そうあらねばならないとがんばることではないのです。
いまの父親に必要なのは、子どもの現実の姿を認め、良い関係を作り、そこから父親の影響力を取り戻していくことではないでしょうか。
父親の強さというものは、完全な父親の姿を、子どもに見せることではないと思います。
不完全であること、父親といえども失敗することがあるということを、ありのままの姿として子どもに示す必要があるのです。
不完全であることを認める勇気こそ、最大の勇気であるということを、子どもに教えなければならないのです。
カテゴリー:子育て
子どもの良いところを見つけて、気づかせてあげる
賢い子育てのできるお母さんは、子どものいいところを見つけることが上手なお母さんでもあります。
子どもは、少しくらい問題のところがあってもいいのです。
百パーセントいい子なんていません。
いいところも悪いところも併せ持っているのが子どもです。
成功する子育ては、いいところをできるだけ見つけて、そのことを子どもに気づかせることでもあるのです。
「自分にもいいところがある」と思える子どもは、自分に自信を持つことができます。
でも、子どものいいところって何でしょう。
やさしいところでしょうか。
思いやりがあるということでしょうか。
正直だということでしょうか。
もちろんこれらもいいことには違いありません。
しかし成功する子育てで言ういいところとは少し違います。
いいところには二つの面があります。
一つはいい行いです。
子どもを伸ばすためには、「行い」を通してされる必要があります。
なぜなら「行い」は具体的なことです。
そして実際に「行う」ことができたことを評価しなければいけません。
以前書きましたように、
「お手伝いしてくれて、おまえはいい子だね」
ではなく、
「お皿を片付けてくれて、お母さん助かったよ。ありがとう」
と言った方が子どもの成長には役立つのです。
手伝うという行いができたということが、子どもにやれるという自信をつけるのです。
もう一つは「行い」が誰のためのものかということです。
私達は、「ほかの人にも役立つ行い」を望ましいと考えています。
たとえば成績を上げるために、一生懸命勉強している子どもよりも、妹や弟の勉強を手伝ってあげる行為の方を評価したいのです。
もちろん成績を上げるためにがんばる勉強を否定しているわけではないのですが。
このように子どもの行いのいいところを見つけるのは、結構難しいのです。
人間はもともと欠点や悪いところを見つけるのは上手なのです。
しかし、いいところを見つけるのはそれほど得意ではないのです。
いいところというのは立派な行為を言うのではないのです。
八時三十分まで、遅刻ぎりぎりに寝ていた子どもが、八時二十分に起きてくるようになっただけでもいいことなのです。
七時半に起きて、ゆっくり慌てずに学校へ行くようにならなくてもいいのです。
前の日よりもほんの少しでも進歩していれば、それがいいことなのです。
親の理想通りに行動することだけが、いいことではないのです。
小さないいところの進歩を、親に認められて、少しずつ理想の子どもに近づいていくのです。
子どものいいところを見つけることのできるお母さんは、自分のいいところも見つけることのできるお母さんです。
逆に言えば、親である自分のいいところを、上手に見つけることのできる親は、子どものいいところを見つけることもできるのです。
「自分はダメな人間だ。
だから子どもにこそ、いい人間になってもらわなければ」
という考えは、不幸なことです。
「自分にはダメなところもあるけど、いいところもある。
子どもにも自分のいいところを伝えたい」
との思いで育てられた子どもは、お母さん同様、自分の悪いところも受け入れ、それにも関わらず、自分のいいところもちゃんと受け入れることができる子どもになっていくのです。
子どもの喜ぶおいしいご飯を作ってあげるだけだって、子どもへのいい「行い」ではないですか。
親の「行い」の大多数は、あたり前の行いかも知れません。
そんなこと誰でもやっていると言われるかも知れません。
あたり前なことこそ、子どもにとって必要な「行い」であり、それが「いい行い」なのです。
あたり前のことのできる自分を、もっと肯定する必要があるのです。
あたり前のことをやめたらどんなに子どもが困るかを考えてください。
どれだけ皆さんが子どもに必要な「いい行い」をしているか、わかるのではないでしょうか。
カテゴリー:子育て
子育てに関して自分を責めない
「こういう子どもにしてしまったのは私の子育ての失敗です。どんなことをしてもこの子を直してやります」と考えている親は結構います。
あるお母さんの話です。
子どもが中学二年生のときに、不登校を始めました。
それからすぐに「こんな自分にしたのは親のせいだ」と、お母さんに些細なことで乱暴をするようになりました。
確かに、子どもが小さいときに、共稼ぎをしていた関係で、子どもに無理をさせていたのも事実でした。
少しぐらい熱があっても、お母さんが休みを取れないために、我慢させて保育園に行かせたり、自分の急の仕事で退社が遅れて、お迎えに行くと保育園で一人で泣いていたこともありました。
子どもに言われて、自分は悪いお母さんだったと思うようになりました。
そのせいか、お母さんは
「子どもがこうなったのは自分のせいで、どんなことがあっても子どもの要求を受け入れなければいけない」
と思うようになりました。
子どもに暴力を振るわれ、胸の骨にヒビが入るくらいのパンチを受けても、
「自分がいけなかったからだ」と耐え忍ぶ生活を続けました。
お父さんが介入しようとしても「私がどうにかするからそっとしておいて」と言うだけです。
お母さんは仕事をやめて、子どもと一緒にいる時間が増えました。
子どもの暴力行為はますますひどくなりました。
真夜中に
「自分が寝られないのに、何で勝手に寝ている」
と一晩中起こされたり、
「こんなまずい飯、俺に食べさせる気か」
とお茶碗を投げつけたりもされました。
それでもお母さんはひたすら自分の責任だからと子どもの言いなりになっていました。
子どもは、
「親父はうるさい。あんな親父と別れろ。一緒にいるだけでも息が詰まる」
と言い出しました。
お母さんは
「子どもを助けるために、偽装離婚をしてほしい」
とお父さんに言い出しました。
どんな親でも子育てのなかには、一度か二度は、必ず失敗の経験はあるはずです。
しかし、だからと言って、それらの失敗がそのまま子どもの成長を決めるなどということはありません。
失敗の影響よりも、その失敗したことで自分を責めて、「子どもにすまない」とか「悪かった」などという気持ちを強く持ちすぎることの方がよくないのです。
どんな親でも、失敗のない子育てなどできません。様々な状況のなかで失敗するのです。
親が子どもに悪意を持って、悪い子どもに育てようと願っているということなどありません。
良い子に育ってほしいと願いながらも、結果として失敗した子育てをしてしまうのです。
成功する子育てを願うなら、まず親は過去の子育ての失敗を償うというような考えはやめなければいけません。
自分のせいで子どもがこうなったという考えをやめる必要があります。
最終的には自分の人生は子ども自身が選んでいるのだということを、このような考え方はどこかで否定してしまうことになるからです。
カテゴリー:子育て
子育てのためにも夫婦の関係は大切
家族のなかには、親子の関係と、夫婦の関係の二つがあります。
日本の家族の多くは、子どもが生まれると子どもを中心とした親子の関係が、家族の中心になっていきます。
お母さんは子育てにかかりきりになります。
また、ご主人も子育てをお母さんに任せて、会社の仕事中心になっていきます。
日本の社会の仕組みに、そのような部分があるというのも事実ですが、
これからの社会では、やはり父親もお父さんとして子育てに参加していくことが必要だと思います。
もちろんお母さんと同じように子育てしろというのではありません。
子どもは両親を通して異性との付き合い方を学んでいます。
おのおのの異性を代表する両親が、お互いに信頼し合い尊敬し合って協力し合う家庭であれば、子ども達は異性を当然尊敬し、協力していくことを学びます。
しかしこのような家族はまれです。
夫婦げんかを一度や二度は、ほとんどの家庭で行っているのではないでしょうか。
仲良くするときは仲良くし、けんかするときはけんかしていいのです。
一番いけないのは見かけを取り繕い、仲の良いふりをしているけれども、心のなかは冷え切っている夫婦です。
子どもは夫婦のけんかにも傷つきますが、一番傷つくのは雰囲気にです。
夫婦が心のどこかでお互いの信頼を失っていることがあれば、それは家庭の雰囲気に現れてきます。
よく子どもが大人になるまで、子どものためを思って離婚を踏みとどまっているという話をするお母さんがいます。
もちろん離婚を勧めるわけではありません。
しかし離婚しない理由を、子どものためにとするのはよく考えてみる必要があります。
自分のためにお母さんが犠牲になったということを知って喜ぶ子どもはいません。
もし離婚をしないなら、それはお母さん自身の責任で離婚をしないのだと考えなければいけません。
カテゴリー:子育て
子どもを自分の思う通りにしようとしていませんか?
私の友人にカウンセリングをやっている方がいます。
友人に聞くと、夫婦カウンセリングを行う場合、大多数の夫婦は話し合いのなかでお互いを責めるそうです。
「あなたが約束を守らないから私だって……」とか「お前がそういう態度を取るから俺だって……」などなど、
あなたの親子関係でも同じようなことが起こっていないでしょうか?
「子どもがもう少し勉強をしてくれたら私だって文句は言わないのに」
とか、
「あの子の口のきき方が変われば、自分も素直に子どもの話を聞けるのに」などと平気で言います。
また
「どうしたらあの子を私の言うことを聞く子にできるでしょうか」
という相談もあります。
友人が言うには、「相談にこられるお母さんの多くが、子どもを自分の思う通りにするための方法を教えてほしいと願っている」、ということでした。
しかしこれは無理です。
子どもが変わりたいと思って相談にくるのならば、子どもを変える方法はいくらでもあります。
しかし子どもが願っていない方向に変えることは不可能なのです。
私達ができるのは、子どもが自分で変わろうという気持ちにどうしたらなれるかを考えていくことです。
「どうしたら子どもを変えられるでしょうか」という質問に、友人は次のように答えたそうです。
「子どもさんを変えることは無理ですが、子どもさんを見てお母さんがイライラしなくなるようなお手伝いはできますよ」と。
実際、お母さんの子どもへの対応が変わると、子どもの様子も変わってきます。
「はやく起きなさい」とけんか腰で言っていたお母さんが、やさしく「明日の朝は起こそうか、それともあなたにまかそうか」と言うだけで、子どもの様子は変わってきます。
カテゴリー:子育て
人格評価をやめて行動評価を
私達は子どもを評価するときに何の気なしに、人格評価を行っています。
「君は偉いね」とか、「やさしい子だね」という言い方は、相手の人格や人柄をほめている言い方です。
この言い方は気をつけないと、子どもをうぬぼれの強い子どもにしてしまう可能性があります。
小学校五年生の君江(仮名)さんが廊下に落ちていたごみを拾ってごみ箱に捨てました。
それを見ていた担任の先生は、君江さんを
「廊下に落ちているごみを拾って捨ててくれて、君はいい子だね」
とほめました。
それまであまりほめられることのなかった君江さんにとって、先生にほめられたのはとてもうれしいことでした。
それから君江さんは学校中のごみを拾って歩くようになりました。
そしてごみを捨てると、先生のところにやってきて、「私ごみ捨てたよ」と報告にくるのです。
その報告も、暗に「いい子だよ」とほめてもらいたいそぶりを感じさせるものでした。
先生も君江さんの要求に応えて「君はいい子だよ」とほめていました。
ところが学校のどこにもごみが落ちていなくなると、君江さんは自分で鼻紙を捨てて、それを拾い出したのです。
自分がいい子だと言われることが、彼女の行動の目標になっていったのです。
このように、人格評価は自分をうぬぼれさせたり、自分の価値を他人に決めてもらおうとする子どもになっていくこともあるのです。
私達が育てなければならないのは、人格をほめられることに喜びを感じる子どもではなく、行動を評価されることを喜ぶ子どもです。
人格はどんな子どもでもそれだけで尊敬されるものです。
どちらの子どもの人格が優れているかを、比較することは間違っています。
人格とは人の命でもあるのです。
人の命に比較はありません。
それでは私達はどういうふうに子どもを評価したらいいのでしょうか。
行動を評価するようにしましょう。
行動には育ててほしい行動と、やめてもらいたい行動があります。
私達は、子どもの望ましい行動をしっかりと評価してほしいと考えています。
たとえばこうです。
「義彦、妹におもちゃ貸してあげておまえは良い子だね」
というほめ方は人格の評価です。
「義彦、妹におもちゃ貸してくれてありがとう。お母さんもうれしいな」。
こういう言い方が行動を評価することになります。
行動を評価された子どもは「そうか、私でもいいことができるんだ」と、
「自分にも望ましい行動が取れるし、そういう行動を取れば、お母さんも自分を認めてくれるのだ」
という風に、自分に自信を持っていくのです。
子どもの強さとは、頭でいろいろなことを考えるのではなく、具体的な場面で、実際の行動を取れるかどうかで決まってくるのです。
カテゴリー:子育て
かわいがるよりも子どもの行いを認めよう
「子育てには愛情が何より大切です」と言う人がたくさんいます。
もちろん子どもの成長に親の愛情は大切です。
しかし愛情とは何でしょうか。
かわいがりすぎて子どもがよく見えなくなっている親もいます。
子どもが迷惑がっているのに、親だけが「愛情が大切だ」と、子どもに愛情の押し売りをしている人もいます。
子どもは生まれたときから自立へのスタートが始まっているのです。
上手に自立させることも、親の大切な愛情です。
甘やかすことと、愛情をかけることは違います。
子ども達が求めているのは、やさしくされることではなく、認められることなのです。
一人前にいろいろできるということを認めてもらいたいのが、子どもの願いなのです。
この承認の欲求は、子どもにとっては愛情の欲求よりも強いものがあります。
場合によっては、「自分は能力がある」と過剰に誇示したりします。
この自己顕示欲の強さは、子どもがまだ真の自分に自信が持てないことを現しています。
それなのに自分が親に保護してもらうことを、受け入れがたいと感じているのです。
失敗するのではないかとか、笑われるのではないかといったような自意識は、もっと年齢を経てから出てくるものなのです。
しかし最近の子どもは認められることが少ないせいか、あるいは自分がいろいろなことを体験しているという実感を持っていないゆえか、この失敗を恐れる子どもが多くなっていると感じられます。
このような子どもにしないためにも、親はもっと子どもの行動を認めてあげてほしいものです。
まだ四歳の小さな子どもがお母さんと通りを歩いていました。
途中で子どもが、石につまずいて倒れました。
ひざを強く打ったせいか、大きな声で泣き出しました。
一瞬、お母さんは、子どものそばに駆け寄りました。
お母さんは「怪我しなかったかな?」とやさしく声をかけて、子どもの傍にじっと立っていました。
すぐに子どもは自分で立ち上がりました。
お母さんは
「自分でがんばって立ち上がれたね。ちょっとひざを見せて」
とここで初めて子どもを抱いてひざを調べました。
「かすり傷だね。一人で歩けると思うけど、どう?」
とやさしく言いました。
子どもも
「痛かったけど大丈夫。僕強いの。一人で歩ける」
と泣きやんで、また歩き出しました。
普通は転んだりすると親は
「何よそ見して歩いているの。ちゃんと歩かないから転ぶのよ」
とか、すぐに抱き起こし
「だいじょうぶ? 痛かったでしょう。お母さんおんぶしてあげるからね」
と言って、すぐに救いの手をさしのべたくなります。
子どもが転んで泣いているのを見守ることは、一見愛情のないお母さんに見えるかも知れません。
しかし子ども達は弱い自分を守ってもらいたいと思っているだけではないのです。
自分の行いを認めてもらうということも、子どもにとってはとてもうれしいことなのです。
すぐに抱きかかえることの方が、親にとっても楽なのです。
じっと子どもが自分の力で起き上がるのを待っていることは、とても勇気がいるのです。
子どもが自分で乗り越えることができるということをしっかりと信頼していないとできないのです。
愛情は当然必要ですが、子育てのなかで成功するためには、子どもの行いを認めることがより大切になります。
カテゴリー:子育て
子どもに失敗から学ばせることを教える
いまの子どもは全体に甘やかされていると思います。
しかしこれは子どもを叱ったり、厳しくしつけていないということではないのです。
いまの子どもが豊かな物のなかで溺れているということも事実でしょう。
食べ物に感謝したり、物を大切にしない現象があちこちに見られます。
ある小学校の先生が言っていました。
ゲームボーイやファミコンのカセットを平気で忘れていく。
学校で忘れ物を保管していたが、ぜんぜん取りにこない。
何日かして先生が
「この忘れ物は君のではないか」
と聞いても、子どもは
「新しいの買ったから、それ捨てていいよ」
と言う。
先生は子どものそういう行動を嘆いていましたが、しかし物を大切にしなくなったのは子どもだけでなく、日本人全体に言えることでもあります。
私の住む団地でも大型のごみを出す日には、まだ使えるテレビやテーブルがどんどん捨てられています。
ちょっと手を加えればまだ十分使える自転車が何台も駅前に放置されています。
しかしこのような現象からいまの子どもが甘やかされていると言っているのではないのです。
いまの子どもが甘やかされていると言うのは、
失敗から学ぶという体験を、ほとんどしていないからです。
親の側に「子どもに失敗させてはいけない」という強い不安があるのです。
親が先回りして失敗をしないようにしてしまうのです。
いま塾に行かせなければ将来落ちこぼれてしまうのではないかと心配し、子どもがいやがっていても無理にでも行かせるのが親の務めだと考える。
子どものためにと考えて、失敗から子どもを守ろうとする。
このことが子どもへの愛情だと考えているのです。
これは少し違うのではないでしょうか。子どもを本当に信じているのでしょうか。
一度は失敗をするかも知れません。
しかしいまの親は子どもが失敗から何かを学び、必ず立ち直るということを信じる勇気を持てないのです。
子どもをいつまでも自分の監視下で保護しつづけることが親にはできないのですから、子どもが自分で失敗から立ち直るように育てておくことが大切なのです。
体験を通して子どもは、社会で生きていくことのできる力を育てているのです。
失敗を恐れず、子どもに失敗から学ばせることが大切なのです。
カテゴリー:子育て
世のなかには罰ではなくルールがあることを教えよう
寛(仮名)君は小学五年生です。
五時に帰ってくると約束した寛君は、友達と遊ぶのが面白く、つい五時に帰るのを忘れ七時に帰ってきました。
お母さんはすっかりおかんむりです。
「あんた、いま何時だと思っているの。七時よ。
五時に帰ってくるって言って遊びに行ったのでしょ。二時間も遅いじゃないの。
何やってたの。約束守らないで。本当にお前はうそつきなんだから。
約束を守らないのなら、明日から遊びに行ってはいけません」
と怒っています。
「僕だって五時に帰ろうと思っていたよ。だけど友達誰も帰らないよ。
僕が帰ってきたら、メンバー足りなくなってゲームができなくなるよ」
と言い返します。
お母さんは
「つべこべ言わずに早くご飯を食べて、宿題をしてしまいなさい」
と強い調子で言います。
寛君は納得できない様子でぶすっと食事を始めました。
このお母さんの対応では子どもの年齢が小さいときにはいいのですが、寛君が大きくなると心配です。
お母さんはもっと寛君の言い分を聞いてあげる必要があります。
この会話では、寛君はお母さんが一方的に「明日遊びに行くことを禁止した」ととります。
子どもはどんなときでも命令されるのはいやがります。
子どもをしつけるコツの一つに叱るのではなくルールを使う方法があります。
同じく寛君とお母さんの会話です。
約束を守らず七時に帰ってきた次の日です。
寛君「お母さん友達と遊んでくるよ」、
お母さん「遊んでくるのはいいけど、何時に帰ってくるの」、
寛君「五時には帰ってくるよ」、
お母さん「わかったわ。もし五時に帰れなかったらどうする」、
寛君「電話で連絡するよ」、
お母さん「わかった。遅れるときは電話してね」。
このように約束を守れなかったときはどうするかを決めておくと、寛君も遅れるときに電話をかけてくるようになるでしょう。
約束(ルール)を決めるときに、その約束が守れなかったときに、どうするかを決めておくことが大事です。(メタルール)
子ども達に守らせなければいけないのは、このメタルールなのです。
「他人のお金を盗んではいけない」というのは、ルールです。
「人のお金を盗めば裁判によって服役する」というのが、メタルールです。
ルールを破ったときにはこのメタルールによって処罰されるのです。
カテゴリー:子育て
感情的になると、親子関係は悪化してしまう
子育てのなかで、親もつい子どもの行動に感情的になってしまうことがあります。
というよりほとんどが感情的なしつけかも知れません。
この感情的なしつけは多くの場合、怒りの感情です。
具体的には叱るというやり方です。
子どものために叱るという親の意識的な気持ちはその通りだろうと思いますが、
無意識的には自分の言う通りにならない子どもに怒りの感情を向けていることがよくあります。
怒りの感情には怒ることによって、相手を支配したいという気持ちがあります。
感情は対人関係のなかで相手を操作するために使われます。
すなわち感情は目的を持っています。
私達を苦しめる感情には大きく分けると不安、憂鬱、怒りの三大感情があります。
怒りについてはすでに述べました。
不安の感情は、未来と関係がある感情です。
不安は過去の出来事や、現在の出来事には関係ありません。
未来を想像して、その不透明なことに不安を感じるのです。
子育てのなかでも不安はよく起こってきます。
「このままでは受験に失敗してしまうのでは、いや間違いなく失敗してしまう。どうしよう。心配だ」
と未来を不安がります。
子育ての失敗の多くは、この不安に駆られた子育てです。
親の不安は結局子どもが何かに失敗して、将来不幸になるのではないかということが中心です。
子どもの失敗を回避するために、先回りをして子どもに失敗をさせないように手助けをしています。
これは子どものためにという名目で行われる、甘やかしです。
この甘やかされた子どもがたくさんいます。
結局、子どもは自分で未来の人生を選ぶ自由を得ることができなくなります。
親に従っていれば安全だという、依存的な対人関係を学んでしまいます。
不安は心配を生み出し、子ども自らが決めなければならない出来事に、親が手を出すことになってしまいます。
次は憂鬱です。
これもよくある感情です。
憂鬱は過去と関係がある感情です。
過去に自分のなかで未解決の問題が残っていると、現在の感情に憂鬱感を与えます。
過去にこだわりがあるのです。
憂鬱は自分が憂鬱であることによって現在の課題を回避しています。
何もできないことを強調し、それゆえ憂鬱であるという事態を弁解します。
感情的にならないためには、逆説的ですが自分の感情に気づくようにする必要があります。
そのためには感情的だなと思ったらその場から離れることです。
そして三分もすれば感情はだいたい収まります。
その後に、自分は何に感情的になっていたのかを考えるのです。
聖子(仮名)さんは中学一年生です。
よくお母さんともめます。
帰りの遅いことでお母さんは怒っています。
もちろん聖子さんも「うるさいママ」に腹を立てています。
そのお母さんが
「ちょっと待って。お腹が痛くなったので少しトイレに行ってくる」
とその場を離れました。
するといままでカッカしていた気持ちが収まってきて冷静になりました。
トイレから出てきたお母さんも普段の気持ちに戻っています。
聖子さんは
「お母さんごめんなさい。今度はもう少し早く帰ってくるように努力する」
と素直に謝りました。
お母さんもすっかり落ち着いていました。
「そうしてね」で話は終わりました。
子どもともめているときは親も子も感情的な場合がほとんどです。
「うれしいな」とか「楽しいな」というような感情は子育てに大いに役立ちます。
しかしここで述べたような否定的感情はまず間違いなく親子の関係を悪くさせるのです。
感情的になったなと思ったならその場を離れ、時間をおいて感情が静まってから話し合いをすればいいのです。
子どもたちは無意識的に大人を感情的に挑発してきます。
親が感情的になっているときは子どもの挑発に乗せられているときなのです。
カテゴリー:子育て
自分もちょっぴり役に立つということを教える・自覚させる
いまの子ども達は日本が豊かになったせいか、少子化のせいか全体に甘えて育っていると思います。
私達は子どもの要求にも、金銭的にはそれほど困ることなく要求を聞き入れることができます。
ほしがるものは結構何でも買い与えることができます。
ほとんどの子どもがファミコンを持っています。
自転車も何台も持っています。
ものが乏しかった時代に育った私から見れば、いまの子どもは本当にうらやましいかぎりです。
昔、友達のなかで、たった一人自転車を持っている子がいました。
自転車に乗りたくて一五分借りるために宿題をかわりにやってあげたことを思い出します。
恵まれたいまの子ども達は、親を含めて周りの人が自分に何かしてくれて当然だという気持ちを持っています。
自分も誰かに役立つことができるなどということをあまり考えません。
というより役立っことができるのだということを教えてもらっていないようです。
他人に役立つことを貢献と言います。
子ども達にはこの貢献感が育っていないのです。
貢献感はどうしたら育てることができるのでしょうか。
いまの子ども達は家の手伝いをしなくなりました。
というより、あまり子どもが手伝う家の仕事がないのかも知れません。
それに子どもの手伝いは、かえってスピードは遅いし、中途半端だし邪魔になることさえあります。
お手伝いする時間があるなら、勉強に使ってほしいというのが、親の本音かも知れません。
しかし子どもにはお手伝いをさせてほしいのです。
もちろんお手伝いが目的ではありません。
お手伝いをしてもらい、「それがお母さんに役立ったよ、ありがとう」ということを子どもに言うためなのです。
貢献は他人からその行為を感謝されることを通して初めて学ぶことができるのです。
いまの子どもが、他者に貢献しないのは、もしかしたら私達大人が、子ども達に「ありがとうよ」ということを言っていないからではないでしょうか。
紀夫(仮名)君は小学六年生です。
お母さんが
「紀夫、お風呂の掃除をやってくれるとお母さん助かるけどな」
と頼みました。
紀夫君は
「ダメだよ。今日は友達と遊ぶ約束をしてきたから」
と断ります。
「わかった。急に言っても無理だよね。じゃいつならお手伝いしてもらえるかな」
とお母さんは聞きました。
「来週の日曜日に手伝うよ」
と紀夫君は自分で手伝う日を決めました。そして日曜日がきました。
紀夫君は自分から風呂掃除を手伝いました。
お母さんは
「風呂掃除ありがとう。本当に助かったわ。ご苦労さん」
と言いました。
紀夫君は
「大したことないよ。この次また言ってよ。手伝えるときは手伝うから」
とにこにこしています。
カテゴリー:子育て
子供に「完全」を求めてはいけない
十人に自分の意見を言ったとしましょう。
すると二人はすぐに賛成してくれるでしょう。
しかし、一人はどんなに説明しても納得してくれないものです。
自分の努力次第で残りの七人の意見は変わってきます。
若干の変化はあるかも知れませんが、この2:7:1の法則は、人生のいろいろの場面に当てはまるように思います。
私達は百パーセントの完全を求めることはできないのです。
百パーセントの完全を求めることそのものが、ストレスになるのです。
子育てでも同じです。
百パーセント完全な子育てというものは無理なのです。
どんな立派な子どもを育てたとしても失敗の体験はどこかに必ずあるものです。
むしろ失敗があったからこそ良い子育てができたとも言えます。
人間を最も不幸にする考え方の一つに完全主義と言われるものがあります。
人生をすべてか無かに分けて考えないと落ち着かない人達がいます。
こういう人は神経症的性格とも言えます。
子育てのなかでも子どもに教えておかなければいけないことの一つにこの完全主義に陥ってはいけないということがあります。
若干の不完全性を自分のなかに持っていることを認める勇気を育てる必要があるのです。-----
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カテゴリー:子育て
周りの人と協力すること・他者へ関心を持つことを教える
人間は十か月も母胎のなかにいながら、生まれてくるときは、親の保護がなければ生きていくことのできない、不完全な存在として誕生します。
動物のなかでも、最も生きていく力の弱いものとしての誕生です。
その後の歩みでも、特別の能力が備わっているわけでもありません。
走ることはライオンやチーターがはるかに勝っています。
泳ぐことはイルカに負けます。
空は飛べません。
木に登るのは、サルにかないません。
しかし人はそのような不足している部分を、お互いが協力して克服することを通して、文化を生み出してきました。
これは知恵と言ってもいいでしょう。
このような知恵によって、自動車を発明し、ライオンより早く走るようになりました。
船で海の上を自由に往来できるようになりました。
いまではもっともハンディのあった人間が、この地球の運命を担う存在にさえなったのです。
単独では他の動物の能力にかなわないこのようなハンディを通して、生きのびるためには、人間同士が協力して文化を作らなければならないことを知ったのです。
人間は一人では生きていけないのです。
皆が力を合わせて、初めて生きていくことができるのです。
このことはかつての大昔の出来事ではなく、現代でも同様です。
有形無形の多くの人の力で、私達は生きているのです。
最近の子育てでは、このことが忘れられがちのように思います。
日本という国は一九七〇年代から、ものの考え方が変わった、とよく言われます。
人に迷惑をかけない限り何をしてもいいという考えが、日本人の考えの主流をしめだしたのです。
それまでの貧しい日本では、皆が欲望を将来の希望にかえ、当面は我慢してお互いが助け合っていくモラルがあったのです。
私が育った子どもの頃は、スーパーもありませんでした。
味噌や醤油がよくなくなります。
すると母は、隣の家に借りに行きました。
相手の家にも余っているほどのものはありません。
それでも気持ちよく貸してくれました。
もちろん、その道もありました。
お互いが協力しなければやっていけない時代でもあったのです。
長屋がマンションに変わり、経済が向上するに伴い、我慢したり、お互いが助け合わなくてもやっていける時代になったのかも知れません。
他人への関心より、自分の関心だけで、十分生きていけるのです。
私達の子どもの頃は公園でいたずらしていると、知らないおじさんによく怒られたものです。
しかし最近では他人の子どものいたずらを叱ると、
「あなたには関係ないでしょう。叱るなら私が叱ります」
なんて逆に、お母さんに抗議さえ受けてしまいます。
他者へ関心を持つこと
ある評論家に言わせると現代はナルシシズムの時代だそうです。
自分のことに関心が向き、自分以外のことに関心が向かない人が増えているようです。
子ども達も同様です。
いまの子ども達は、あまり他者に関心を向けないと言われています。
友達同士といっても、その間の関係は限定的なものであり、その限定的なものも、しんどいと感じている子ども達が増えているのです。
現実の人間関係よりも、ファミコンに見られるロールプレイングのなかの世界での人間関係の方を好みます。
理由はいくつかあると思います。
バーチャルな世界では、常に自分が主人公でいられる。
失敗しても、いつでもやり直しがきく。
うまくいかないときには、いつでもやめることができる。
ゲーム中に怪物に殺されても、リセットさえすれば、いつでも自分は生きかえることができる。
いまの子ども達はこのバーチャルな世界で、人と人との関係を体験しているのです。
神戸の悲惨な事件で逮捕された中学三年生の少年は、奇妙な神の名を書き、その神への儀式として、よく自分になついている小学生を殺害しています。
少年は人間の壊れやすさを実験するために殺人を犯したようなことを書いています。
この発想は、ある意味ではオウム真理教の発想とよく似ています。
オウム真理教のなかにも奇妙な科学性(サリン)と宗教(密教系の仏教)のつぎはぎが見られます。
少年の実験と儀式もまた同じ構造です。
また劇画的でもあります。
人間が心のある人間でなく、ものとして実験材料の一部になっているのです。
バーチャルな世界の人間は、人間でありながら人間ではない。
気持ちを分かち合い、協力し合えることが、人間の原点であるはずです。
悪い人間だからこれ以上悪行をつませないという理由で、ポア(殺す)することを正当化するのです。
ポアする側の異常な思いあがりの考え以外の何ものでもないのです。
同様なことは少年にも言えます。
殺人を犯してまで人間が壊れ易いものかどうかを知りたければ、まず自分の身体を使って実験すれば良いのです。
常に自分は神の位置にいて、安全な世界を妄想するのです。
もちろんあの少年を非難するつもりで書いているのではありません。
他者と共に社会のなかで協力して生きているのだという原点を忘れると、ときには人間はとんでもないことをしでかしてしまうのだということを言いたいのです。
このような子どもは小さい頃から親の前でも過剰な適応、すなわち「良い子を演じる」ことが多いのです。
親はよく「お友達と仲良く遊ばなければいけないよ」とか「人の気持ちを考えなさい」と子どもに注意をします。
もちろんこのような注意は大切なことです。
しかし、たまには「ノー」と言いたくなることもあるのです。
いつも相手にばかり合わせていてはくたびれてしまいます。
それは私たち大人でも同じことです。
子どもが
「学校の帰りにちょっと付き合ってと言うの。我慢して付き合ったけど、すごくくたびれた。
あすは付き合いたくないな……」
とお母さんに話してきました。
お母さんはちょっと考えて
「ごめん、今日はお母さんと夕食作る約束してきたの。
材料を買って帰らなければいけないんだ。
付き合えなくてごめんね、みたいに言ってみることできるかな」
と、上手な断り方を教えました。
子どもも「そうね。そう言ってみるわ」と少しはほっとした顔つきになってきました。
このようなことは子どもだけではありません。
私たち大人が競争に勝つことしか考えていないことを証明する事件のいかに多いことでしょう。
それもルールを無視して、勝てば官軍と考えるのです。
子どもたちに共に生きているのだということを教えるためには、まず親がそのことを身をもって子どもに示すことが大切です。
あるお父さんです。
中学二年生の息子が非行グループに入り、夜遊びや帰りが遅くなりだしました。
不良との付き合いはいけないと何度も注意をしました。
しかし息子の行動はやみません。
お父さんは環境を変えようと遠く離れたところに引っ越しをしてしまいました。
そうすれば不良少年とも付き合えなくなると考えたのです。
しかし一週間もしないうちに、息子は家出をして非行グループの家を転々と泊まり歩くようになりました。
かえって親の目が届かなくなり、子どもの行動はエスカレートしていきました。
お父さんの気持ちもわからなくはないですが、思春期の子どもを立ち直らせるには非行少年の親同士が協力していくことが大切です。
我が子だけではなく非行グループ全部を立ち直らせようと考えることが必要なのです。
カテゴリー:子育て
人との関わりがうまくできる子に
いまの世のなかは、人との関わりが薄くなっています。これは子どもだけでなく、社会
一般についても言えることかもしれません。
こんな話を学校の先生から聞きました。
小学二年生です。休み時間に教室に残っている子が十人くらいいたそうです。何かをするでもなく、ただぼーっとしているだけでした。
先生が
「天気もいいことだし外でみんなと遊んできたら」
と外遊びを勧めたそうです。
子ども達は
「遊ぶと気を使わなければならないので一人の方がいい」
と言ったそうです。
子どもが遊びで気疲れしてしまうとはどういうことでしょうか。
また、こんな子どももいました。
中学二年生の女の子です。
五人ほどの仲間といつも一緒に過ごしていました。
仲間の一人が、
「帰りにカラオケボックスに寄っていかない。一人五百円で時間制限なしよ」
と提案しました。
彼女はあまり寄り道したくなかったしカラオケも好きとは思いませんでした。
一瞬「私は行かない」と言おうと思ったそうです。
しかし仲間外れになるのではないかと心配がよぎりました。
付き合うことにしました。
口から出た言葉は反対のものでした。
「行こう、行こう」というものでした。
当然ながらカラオケはあまり楽しくはありませんでした。
でもその気持ちを仲間に悟らせないように普段以上に気を使い仲間に調子を合わせました。
「この曲好き。歌いたい」
と自分からマイクをとって歌うこともありました。
帰り際に
「ああースカッとした。ストレス発散。明日もきたいな」
などと言わずもがなのことを言ってしまいました。
家に帰るとひどい自己嫌悪になりイライラしました。
帰りの遅いことを母親にとがめられた彼女は
「うるさいわね。いちいち私のこと干渉しないでよ。もうお母さんとなんか口をきかない」
と親子の関係も悪くなっていきました。
一見仲良くしているように見えても、いまの子ども達は仲間外れになることを恐れ、無理に相手に調子を合わせているのです。
これも見かけとは反対に、結局は、仲間を信頼できない、いまの子ども達の薄い仲間関係の現れでもあるのです。
相手と関わることによって、自分が傷つくことを恐れているのです。
その結果は、無理に相手に合わせて過剰適応するか、相手との接触をできるだけ避けて、引きこもるかになるだけです。
カテゴリー:子育て
自分を肯定的に受け入れることができるように育てる
子どもの心が健康に育っているかどうかを知る一番いい方法は、子どもに「自分が好きかな?」と聞いてみることです。
「好きだよ」と言う子どもは、少しぐらい問題があったとしてもそれほど心配する必要はありません。
自分が好きだということは自己肯定感があるとも言えますが、
この自分を肯定的に受け入れることができるようにすることこそ、子育ての目標でもあるのです。
子どもを親や大人の言うことに従順な見かけだけ良い子どもに育てることが、子育てで
はないのです。
大人になったときに、人に依存して生きるのではなく、自分の力で他の人とも協力して、生きていけるようになればいいのです。
子育ての失敗とは、子どもが自分を肯定的に見られなくなることです。
子育てには、しつけの部分も含まれます。
確かに、何でも子どもの言う通りになっているわけにはいきません。
子どもを叱ることも必要かも知れません。
叱ってはいけないと言っているのではありません。
どうやって叱られることを体験させるかが大切です。
上手に失敗を叱れば、この次は失敗しないようにしようと、別の工夫を子どもは考えます。この努力が人間を向上させたのだと思います。
しかし向上心にも二通りのものがあります。
一つはいまの現状を肯定的に見て更に向上しようというものです。これは大切な向上心です。
一方、いまの現状が不満で否定的に見ており、その不満から自分を向上させようとします。
多くの場合、不満をもっと増やすことになります。
自分を肯定的に見るということは、決して現状のままでいいということではないのです。
しかし自分がより向上するためにも、まず現状のありのままの肯定が必要なのです。
子どもがそうなるためには、ありのままの子どもを親は受け入れ、それを子どもに伝えることが必要です。
具体的には子どもが生きていることをもっと喜んでほしいのです。
どんなにいたずらをして困らせる子どもでも、万が一父通事故で亡くなってしまったと考えてください。
生きているだけで子どもは親にすてきなプレゼントをしてくれています。
カテゴリー:子育て
「勇気」を育てておくこと
子どもは無力なものとして生まれてきます。圧倒的な能力のなさが、劣等感を生みます。何でもできる大人に比べて、何もできない自分に不安や心配がつきまといます。
不安を体験すると、子どもは自分からいろいろなものに挑戦するよりは、大人の力によって守られていたいと感じるようになります。
すなわち子どもは、ほっておけば依存的になります。
一方新しい体験をしたい、大人のように何でもできるようになりたいという願望もあります。
しかし失敗が怖いのです。
そのために本来子どもの持つ能動性が制限され、消極的になるのです。
子どもに世のなかと関わることをおそれない、積極的な勇気を育てておくことが大切なのです。
それでは勇気とは何でしょうか。
言葉の語源は「気が湧き出す」ということのようです。
すなわち命のエネルギーがあふれ出すことを勇気と言うようです。
生き生きと力強く出来事に挑戦する力が勇気でしょうか。
このように勇気は与えられるわけではなく、湧き出す力を引き出すことが、勇気づけと言われるものです。
子どもが勇気を持つためには、湧き出す力を邪魔するものを、とり除くことが大切なのです。
この邪魔なものが、脅えや不安なのです。
不安は自分に自信を持てないときに起きてきます。
失敗して恥をかくのではないかという気持ちは、脅えを生み出します。
このような不安や脅えを与えないような状況を作ることが、勇気ある子どもに育てるために必要なことなのです。
友彦(仮名)君は中学二年生です。
テニスが上手な子どもでした。
地区大会でどんどん勝ち上がり決勝戦まで進みました。
でも、相手は県大会に出ている大変強い選手です。
どう考えでも勝てる相手ではないのです。
学校では先生を始め、友達から日曜日の決勝戦をみんなで応援に行くからぜひがんばって勝ってねと言われています。
友彦君は全く勝てる自信がありません。
決勝戦の前日お母さんのところにやってきました。
「どう考えたって勝てっこない相手だよ。
それどころか一点も取れないかもしれない。
そうなったら先生やみんなは何と思うかわからない。
笑われるよ。
明日の試合は棄権したいな」
とお母さんに言いました。
息子がひどく落ち込んでいる姿を見てお母さんは言いました。
「うん、おまえが勝てないと思って悩んでいる気持ちはよくわかるよ。
でも棄権したらもっとみんなががっかりしないかな。
やるだけやってそれで負けても何も恥ずかしいことではないよ。
それよりやらないで逃げ出してしまう方がもっと恥ずかしいよ。
勝とうと思うのではなく自分のベストを尽くしてくれるとお母さんはうれしいな」。
息子が言いました。
「そうだね。挑戦だね。挑戦を逃げてはいけないね。
がんばって勝たなければダメだと言うかと思っていたけど、そうじゃなかった。
ありがとう」。
友彦君は次の日の決勝戦に参加しました。
結果はやはり大敗でした。
しかし友彦君は胸を張って家に帰ってきました。
「やるだけやったからさっぱりした」
と元気でした。
カテゴリー:子育て
親の成長がなくては、子どもの成長もない
子育ての成功って何でしょうか。
一流の大学へ入学することでしょうか。
一流企業の社員になることでしょうか。
やさしい相手と我が子が結婚することでしょうか。
それとも我が子が自分の老後の面倒を見てくれるということでしょうか。
もちろん、これらは皆成功した子育てかも知れません。
というより失敗した子育てってどんなものでしょうか。
私がお会いしている多くのお母さん方は、子育てに何らかの悩みを持っています。
そしてほとんどのお母さん達は、自分の子育てを失敗だと考えています。
小学校六年生の宏一(仮名)君のお母さんです。
宏一君は少しばかり元気がありすぎる子どもです。
学校でも先生の言うことをあまり聞かず、けんかが絶えません。
ある日女の子をいじめていました。
先生に見つかり強く叱られました。
お母さんが相談にきました。
いままでの経過を聞いていくうちにお母さんは、自分の育て方がいけなかったと涙を流しながら話し出しました。
家庭の事情で父方の祖父母と同居で、母親は働いていました。
そのために子育ては、ほとんどが祖母の仕事でした。
祖母は長男ということもあり、猫かわいがりと言われるほどに沸愛しました。
母も溺愛を心配していましたが、自分が働いているために気兼ねがあり、祖母にやり方を変えてとは言えませんでした。
母親はこのことを悔やみ
「息子がわがままになったのは、自分が責任を持って子どもを育てなかったからだ」
と言うのです。
世間では子どもが問題を起こすと、親がしっかりした子育てをしていないからと非難することがあります。
しかし子育ての失敗は、親の責任なのでしょうか。
私のいままでの経験では、親に責任のある子育ての失敗など見たことがありません。
もちろん子どもはいろいろの問題を起こします。
しかしどんな親でも、我が子が問題を起こすことを願って、育てているなどということはありません。
上手な子育ての方法を知らなかったために、結果として子どもが問題を引き起こしたのです。
結果的に失敗したからといって、その親を責めることはいかがなものでしょうか。
子育てによって、親も成長する
子育ては親が絶対的なものであり、未熟な子どもが親によって育てられ、子どもは親の影響によって変わっていくというものではないのです。
影響は相互にしているのです。
愛情というものも、相互の関係のなかで育っていくものです。
よく子どもにとって愛情は最も大切なものであると言われます。
子どもに愛情を持って接しなさいと。
しかし愛情とは子どもとの相互の関係のなかで、芽生えてくるものではないでしょうか。
子育てとは、子どもと親との関係のなかで育っていくものではないでしょうか。
子どもだけが成長していくのではないのです。
親もまた、子育てを通して子どもから学び、成長しているのです。
すなわち共に成長しているのです。
親の成長がなくては、子どもの成長もありません。
二人が成長できるそんな子育てが大切なのです。
子育てをすると、親はどんな成長をするのでしょうか。
情緒的にもたくさんの喜びを子どもから与えられます。
子どもの微笑一つで親は幸せを感じます。
この喜びはその人を豊かにします。
子育ての方法、言いかえれば子どもとの付き合い方をいろいろ具体的に学びます。
これは親の知恵と呼ばれるものになります。
そしてこれは親子のなかだけでなく、すべての人との付き合いのなかでも、お母さんに役立つ知恵になります。
和美(仮名)ちゃんのお母さんはあまり人付き合いが好きではありませんでした。
一人で読書したり音楽を聴いたりするのが好きだったのです。
和美ちゃんが小学三年のときに不登校になりました。
お母さんはどうにかしなければと必死になりました。
不登校のお母さん達のグループに参加してみました。
そしてお互いが助け合っていることを体験し、お母さんもそのグループでみんなと力を合わせるようになっていきました。
お母さん自身も社会への関心がどんどん増えていきました。
学校の先生の前でほとんど意見も一言わなかったお母さんが半年後には自分の希望をしっかりと言えるようになりました。
不登校の子どものグループにも子どもを連れていくようになりました。
どんどん子どもも活動的になったのです。
「子どもが不登校になったのはつらかったけれども、自分にとって役に立つことがたくさんあった。
みんなが力を合わせることが大切だということを身にしみてわかった。
いまでは和美に感謝している」
とお母さんは言っていました。
カテゴリー:子育て
孤独な育児の危険性
若いお母さんを中心に虐待と言われる問題も起きています。
公園デビューなどと関連があるのですが、いまのお母さんは、子育ての相談できる相手もおらず、孤立しています。
ストレスがたまり、そのはけ口が小さな子どもに向かってしまうのです。
虐待してしまった後、そのお母さんはひどく自分をいやになり落ち込んでしまいます。
それでもまた我慢できなくなり、虐待してしまうのです。
そしてまた落ち込むという悪循環を繰り返しています。
子どもの様々な問題に一人で対応することは大変なことです。
相談し、支援してもらえる人がいないことが、いまのお母さん達、特に若いお母さん達の子育てのストレスになっているようです。
自分の言うことを開かずに、泣き続ける我が子をついたたいてしまうということが日常茶飯事になってしまいます。
これが繰り返されると、この子さえいなかったらと、極端な場合、子どもを殺してしまうこともあります。
また、虐待は多くの場合繰り返される可能性があるのです。
虐待を受けた子どもが大人になったときに、再び我が子を虐待してしまう。
そのような悲劇の繰り返しがよく起きるのです。
若いお母さんの話です。お母さんは専業主婦です。
赤ちゃんが生まれる前はデザインの会社で仕事をしていました。
自分も気に入った会社だったのですが、妊娠を機に会社を辞めて子育てに専念することにしました。
はじめは子どもがかわいくて夢中で育てていましたが、だんだん子どもも思うようにならなくなりました。
二歳になった子どもは部屋中を散らかします。
注意すると火がついたように大きな声で泣きます。
近所への迷惑を考えると身のちぢむ思いがして、子どもの好きにさせてしまいます。
家で少しはデザインの仕事ができるかとも思っていたのですが、いつまでたってもそんな時間はありません。
じっと我慢していろいろな子育ての本を読んだり、自分なりには一生懸命がんばっていました。
ところが子どもの方はますます自分の思う通りになってくれません。
イライラが限界に達したときだったのでしょう。
「牛乳をこぼさないように飲むのよ」とコップを子どもに渡しました。
お母さんが別の片付けをしているときに、子どもはわざとこぼしながら遊んでいます。
それを見つけたお母さんは切れてしまいました。
「何であなたはお母さんの言うことがわからないの」と、思いきりたたいてしまいました。
気がつくと子どもの腕のあちこちに青あざができていました。
「何てことをしてしまったんだろう」とひどく落ち込んだ気分になりましたが、その事件を契機にいつのまにか我が子をたたいては落ち込む子育てになっていきました。
幸いお母さんはこれではいけないと気づき、自分から相談の電話を保健所にかけました。
保健婦さんが丁寧にお母さんの謡を聞いてくれました。
ご主人の子育てへの協力も得られるようになりました。
保健婦さんに教えられ、育児仲間もできました。
デザインの下請けもほんの少しですが引き受けてもみました。
一年後には「何であんなに自分がイライラしていたんだろう」と不思議に思うほど親子の関係もよくなりました。
自分の気持ちがイライラして子どもをたたいてばかりいるお母さんには、専門家の手助けが少しいるかも知れません。
子育て仲間やお父さんの協力も必要なのです。
そうすればイライラして子どもをたたき、自分で落ち込んでしまうという悪循環から抜け出ることができるのです。
カテゴリー:子育て
愛、交友、勉強、子どもの三つの課題に親はどう接すればいいのか?
心理学の世界では、性格は遺伝によって決定されるのか、環境によって決定されるのかという論争がよく行われます。
アドラー心理学というものがありますが、それによると、
外部からその人に影響を与えるものが環境であり、その人の内部から影響を与えるものが遺伝であると考えられてます。
人は、環境を無視し、完全な自由のなかに生きているわけでもないし、また環境に完全に人生が拘束されているわけでもないと考えています。
このような考えをソフト・デターミナント、すなわち「柔らかい決定論」と言います。
私達は環境や遺伝から完全に自由ではないが、環境や遺伝によって自分の人生が決定されるのではないのです。
環境を私達がどのように意味づけし、行動していくかは、その個人の責任であると考えています。
私達にとって重要なものは、この環境(ライフタスク)に私達がどのように応答するかであると考えています。
環境は受け身ではなく、どうその課題を引き受けるか、私達に常に答えを求めています。
私達が応答しなければならない環境、すなわちライフタスク(人生の課題)には三つの課題があります。
子どもにとっては、この課題は愛の課題、交友の課題、勉強の課題であると考えています。
愛の課題に失敗する親子が増えている
愛の課題(ラブ・タスク)について考えてみましょう。
愛とは人と人との関係を近づけさせるものであり、人を信頼し、深い安心感を与えるものです。
子どもにとって、「ラブ・タスク」は親子の関係と考えることもできます。
この親子の関係の課題に失敗して起きる問題も数え切れないほど多く見られます。
最近は親の育児への関心が減ってきていると言われています。
子育てだけに専念するのに満足できずに、自分の楽しみも満足させたいという欲望が親にもあるのでしょう。
自分の欲望を満足させる行動に走る親もいます。
パチンコ依存症と呼ばれるようなお母さんは、車に子どもを放置したまま何時間もパチンコを続けます。
結果として、子どもが熱射病などにかかり極端な場合には子どもが死亡してしまうことさえあります。
カラオケ依存症とかアルコール依存症と呼ばれる母親も増加しているようです。
また、若いお母さん達は子育てに孤立しています。
公園デビューと呼ばれる奇妙な現象があります。
公園に我が子を遊ばせに連れていくと、すでに先輩のお母さん達が仲間を作っています。
その仲間に入れてもらうには、それなりの気を使わなければなりません。
目立つ服を子どもに着せてもいけないし、みすぼらしい服でもいけない。
某デパートでは公園ルックスと呼ばれる子ども服を売っているという話を聞いたことがあります。
仲間に入れないお母さんは、入れてもらえるグループを探して、いろいろな公園をさまようとも言われています。
これを公園ジプシーと呼んでいるとか。
もちろんこれらは一部の親達であり、全体的にはもう少し事情が違うかもしれません。
しかしどちらにしろ、これらの問題が取り上げられることそのものが、現代の育児の困難な現状を表していると言えましょう。
この根底には、親たち自身が孤立化し、子育てを母親一人で行わなければならなくなっている現状があるのではないでしょうか。
子育てに協力してくれる人達との連携が希薄になっているのではないでしょうか。
カテゴリー:子育て
「自分を大切にする心」をどう育てるかが問題
自尊心(セルフ・エスティーム)を育てる三つのポイント
子育てのなかで比較的忘れやすいものの一つに、「セルフ・エスティーム」という概念があります。
日本語では一般には自尊心と訳されることが多いようです。
この自尊心は自己形成にとって、とても重要なものです。
この自尊心が十分育っていないと、心の健康上の問題が起きると言われています。
さて、このような「セルフ.エスティーム」を育てるには、どのような子育てが必要でしょうか。
「セルフ・エスティーム」を育てるには、三つのポイントがあります。
すなわち、「生きている自分を喜び、自己に敬意を払えるようにすること」、
「個々の問題に具体的に対応できる力を高め、自信を持たせること」、
「仲間への肯定的な関心や社会的貢献感を育てること」
の三つです。
こういう子育ては、日々の家庭でのしつけで実践されるものです。
様々な出来事に対する、子どもと親の関わりのなかで、親によって実践されるのです。
上手に実践するためには、親が子どもと関わる対処能力を高めておく必要があるのです。
たとえばお母さんが勉強を教えていると考えてください。
お母さんが質問をしました。
子どもが答えました。
ところが残念にも答えが間違っていました。
こういうときは、子どもの「セルフ・エスティーム」にとって、大ピンチのときでもあるのです。
「セルフ・エスティーム」を守るためには、親は子どもの解答が間違っていても、できるだけ肯定的な応答を返す必要があります。
答えが正しいかどうかではなく、答えを述べたことに敬意をはらって、子どもを扱う必要があります。
間違った答えを露骨に笑ったり、冷やかしたり、批判したりしてはいけません。
からかうきょうだいがいたら、その子達に、失敗した子どもに協力し、助け合ってほしいということを、教えなければいけません。
また、自信なげに子どもがしているときには、その子の得意としている話題を取り上げて、緊張を取りながら回答を引き出す工夫が必要になってきます。
答えの結果ではなく、答えたことに、お母さんから敬意を払ってもらえると感じた子どもは、
間違った答えを励まされて正しい答えに訂正していく作業を、決して否定的なものとはとらえません。
「セルフ・エスティーム」を健全に育てるには、子育てや学校の教育のなかで、子どもは親や教師に敬意を持って取り扱われていると感じる必要があります。
発言したり、意見を言うことが期待されているのだというメッセージが常に与えられている必要があり、やり方や答えが間違っても許され、親や先生や仲間と助け合えるという雰囲気が教室や家庭になければなりません。
このような体験を、学校や家庭で子ども達が持つことができれば、子ども達の「セルフ・エスティーム」は確かなものになっていくでしょう。
「誰でも自分の感情や意見を表明する価値や権利がある」ということを、しっかり子どもに教えることです。
またこれは子どもの権利条約のなかにある、子どもの意見表明権を大人が認めることでもあります。
一方、競争や他人との比較では、本当の「セルフ・エスティーム」は獲得できません。
ある論文に、アメリカの子ども達に、「セルフ・エスティーム」を教える面白い方法が書いてありました。
「部屋を暗くして自分のろうそくに火をともす。自分の周りが明るくなる。
次々に仲間がろうそくに火をつける。部屋が全体に明るくなる」。
そこで子ども達に考えさせるのです。
「他の人がろうそくをともしても、自分のろうそくが暗くなることはない。
自分のろうそくの火を明るく輝かせるために、他人のろうそくを消す必要はない」
ことをこの経験を適して確かめるのです。
「自分のろうそくも輝く。
それに仲間のろうそくが加わることにより、全体がいっそう輝く。
皆の協力する力が、個人の力をはるかに上回る」。
このことを教えることによって、他人の成功や失敗にいちいち左右されない、適切な「セルフ・エスティーム」を育てていくことができるのです。
自尊心を育てるには、
「セルフ・エスティーム」を育てるために、特に「セルフ・エスティーム」のなかでも中心になる、子どもの自己評価を高くするためには、次のことを重視します。
自己評価は、自分で自分を評価するのではなく、他者との関係のなかで、他者に自分が肯定的に評価されることによって、はじめて自分への評価を確立することができるのです。
自己評価を高くするためには、親や教師から無条件の肯定とも言うべき、ありのままの自分を受け入れてもらえる体験を持つ必要があります。
無条件の肯定とは、自分が生きているということを喜んでくれる人がいるということでもあります。
命の尊さを知っている親や教師は、子どもが生きているだけで無条件で喜べるのです。
お母さん達は我が子の命の誕生に立ち会っています。
我が子が生まれたときにはどんな気持ちでいたのでしょう。
産科のお医者さんや看護婦さんに
「先生、うちの子ども頭の良さそうな顔をしていましたか」
などと子どもの能力を聞いたでしょうか。
そんなお母さんはいないはずです。
どんなお母さんでも
「赤ちゃん、元気でしょうか? 大きな声で泣きましたか〜」
などと赤ちゃんが生まれてきたそのことを無条件で喜んだのではなかったでしょうか。
お母さんが自分の誕生を無条件で喜んでくれたのだと知った子どもは、自分の存在がどんなに意味のあるものかを感じることができるでしょう。
機会あるごとに生まれたときの話をしてあげることで子どもは自分を好きになるでしょう。
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子どもの問題行動は大人への問いかけ
様々な子ども達の問題行動の背景には、他者とのつながりの薄さが見られます。
子ども達はつながりを求めていないのではなく、信頼と結びついた実存的つながりを求めながらも、自分自身に対する信頼感を持てずにいます。
より自己を表現することの少ない「システム」的な、ブーバーの言うところの「我−それ」の関係のなかにいます。
しかしこれは子ども達を満足させる関係ではないようです。
「我−それ」の関係を断ち切り、ありのままの自分が本当に信頼してもらえるかどうかをためす行動として、様々な問題を起こしていると言えるかも知れません。
いま子ども達に私達が教えなければならないものは、自分を信頼する「共同体感覚」の育成であります。
私達は戦後「個」の尊重を最優先として考えてきました。
このことは正しいと思います。
しかし個の優先と個の欲望をすべて認めることとは違います。
個を認めることは、他者を認めることとセットの関係にあります。
他者によって個が支配されるのではなく(過剰適応症候群)、また個によって他者を支配するのでもなく(自我肥大症候群)、
他者と関わる勇気を求め(無関心症候群)、社会に参加する決断を育てる(閉じこもり症候群)ことが必要なのです。
私達は子ども達に何を教え忘れたのか。
私達は、子ども達に自分一人ではなく、他者と共に生きていく喜びこそ大切なのだということを、どれだけ教え、体験させてきたでしょぅか。
私達は子ども達に、
「ありのままの自分をもっと好きになっていいんだよ」、
「人を信じて遠に協力していこうよ」、
「ちょっぴり人にも役立つことをしてみようよ」
という呼びかけを、子ども達が問題を多発させるいまだからこそ、もっともっと伝える必要があるのではないでしょうか。
こんなちょっとした事例が参考になるかも知れません。
小学校二年の道夫(仮名)君は乱暴な子どもでした。
ちょっと気に入らないとすぐにものに当たったり、弟や妹をいじめます。
妹の大好きなおもちゃを取り上げて返しません。
めったに怒ることのないお父さんも我慢できなくなりました。
お父さんは宣言しました。
「今後おまえがものに当たったりきょうだいをいじめたりしたら、この紙にいじわるシールを貼る。
反対に家の仕事を手伝ったり、きょうだいの面倒を見たりしたら、いじわるシールをはがしてやさしさシールを貼る」
と。
しかし道夫君は相変わらずです。
いじわるシールがどんどん増えていきました。
いじわるシールで紙がいっぱいになりました。
自分でその紙を見て、少しずつお手伝いやきょうだいの面倒を見るようになりました。
いじわるシールが少しずつ剥がされていきました。
やさしさシールが増えていきました。
お母さんはやさしさシールを貼るたびに「やさしいことできたね」と声をかけていました。
妹が公園に遊びに行っているときに急に雨が激しく降ってきました。
お母さんが公園に傘を持っていこうとすると、道夫君が
「お母さん、僕持っていくよ。妹も困っていると思うよ」
と言って、土砂降りの雨のなかを妹のために、公園まで傘を届けにいきました。
その話を聞いたお父さんは道夫君に言いました。
「傘を届けにいってくれたんだってな。お父さんもおまえがやさしい子どもになってうれしいよ」
と。
道夫君は照れくさそうに
「でも、いままで妹にたくさんいじわるしてきたから、こんなんじゃまだお返しが足りないよ」
言いました。
それからまもなく紙にはやさしさシールがいっぱいになりました。
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最近の子ども達をどう理解したらいいの?
子育てが「間違っていた」のではなく、「足りなかった」
相変わらず子ども達は様々な問題を私達の前に現しています。
問題行動は、その広がりだけではなく程度においても過激になっています。
ナイフ事件に見られるように、教師を刺殺してしまう事件まで発生しています。
中教審などの議論も、学校を中心とした教育的対応には限界があると言い出しています。
家庭教育に期待を表明しています。
しかし、親にとっても、いまの子ども達にどう対応していいのか戸惑っているのが現状ではないでしようか。
「どのような子どもも問題を起こす可能性がある」
などと言われると、
「我が子がとんでもないことをしでかすのではないか」
と不安な日々をすごさなければならなくなります。
今後問題を起こさないようにするためには、原因を知ることも必要でしょう。
しかし、いま現在、問題の渦中にいる親や教師にとって必要なことは、原因を知ることではないと思います。
どう対応したらいいかという目の前の子どもの成長に役立つ異体的方法や関わりを必要としているのではないでしょうか。
私達大人の、親や教師も含めて、子どもの育て方や、教育してきたことが間違っていたわけではないのです。
問題は、「教える必要のあることを教えてこなかった」だけだと思います。
子育てが「間違っていた」のではなく、子育てを通して教えることが「足りなかった」のです。
いまの子ども達に改めて「教えなければならないもの」、「作り出さなければならないもの」が何であるかを考えてみましょう。
子どもの姿はその時代を反映してどんどん変わっていきます。
五年前の子どもといまの子どもではその反応が違っています。
五年前には、学校の帰りに必死に「今日僕と遊ばないか」と友達を探している子どもを何人も見かけました。
最近はそういう子どもも少なくなりました。
かわりに無関心症候群とか過剰適応症候群とか呼ばれる子ども達の姿がよく目につきます。
もちろん症候群という言葉は、病気を表す言葉として使っているわけではありません。
一群のそういう子ども達がいるという意味で使っています。
変わってきた子どもの姿(1) − 無関心症候群
無関心症候群のケースです。
良子(仮名)の場合を見てみましょう。
援助交際で補導されたS子がカウンセリングにやってきました。
S子が友達だと言って良子を連れて面接にきました。
そこでS子の了解を取り、良子と面接をすることにしました。
良子はS子の行為に、
「S子のような援助交際は自分はしない。
良くないことだと思う。
でもS子が援助交際をするのは彼女の自由。
私がやめなさいと言うようなことではない。
彼女が自由にやっているのだからそれでいいんじゃないの」
と答えました。
これは最近の子ども達からよく聞く答えの一つです。
友人が行っていることには干渉しない。
「自分は良くない行いだと思っていても、相手の自由を尊重する」
というのが言い分です。
相手の自由を尊重するという名目で他者と関わることを避けるのです。
関わることが干渉であるかのごとくに考えています。
次に最近増えている、引きこもり症候群と呼ばれる子ども達を見てみましよう。
他者への無関心から、一歩進んで、他者との関係を遮断し、自分の安全である世界へ、多くの場合は家庭ですが、引きこもってしまう子ども達も増えています。
一九歳の治夫(仮名)の場合です。
治夫は高校を不登校気味ながら、かろうじて卒業することができました。
しかしそれ以後、働くこともせず、家に閉じこもっています。
家を出るときは自分の好きな歌手のコンサートを聞きに、武道館やいくつかのホールへ行くだけです。
歌手に関する雑誌は、母親に言って買ってこさせています。
歌手のビデオも収録し何回も繰り返して見ています。
一九歳になっても生活は変わりません。家族との会話も必要最小限。
ただし注意されても文句を言い返したり、暴力的になったりすることはありません。
黙ってうつ向いています。
歌手の話だと一生懸命になります。
自分が有名な歌手であるかのような気分で話しています。
自分の気に入るビデオも見せてくれます。
しかしそれ以外の話をしようとすると、黙ってしまい沈黙が続きます。
郵便配達の人や集金の人がきても出ようとはしません。
電話にも出ない。
ファミコンと芸能界の世界で毎日を過ごしています。
変わってきた子どもの姿(2)〜過剰適応症候群
次は過剰適応症候群と呼ばれる子ども達です。
一見良い子に見えるので、問題を起こしたときに周りの人がびっくりする子ども達です。
見かけは適応状態がよく、親だけでなく教師を含めて、良い子どもだと思われています。
博美(仮名)の場合を見てみましょう。
博美は中学二年生のまじめな、評判の良い女の子でした。
そんな博美が中学二年の秋に不登校になってしまいました。
そのために、彼女は私達のカウンセリングを受けにきました。
博美には六人の仲良しがいます。
ある日の放課後、仲間の一人がハンバーガーを食べに行くことを提案しました。
しかし彼女はお腹もすいていないし、疲れていたので早く家に帰りたいなと思っていました。
気分としては断りたかったのです。
しかし現実に彼女の口から出た言葉は自分の気持ちとは裏腹に、
「行こう、行こう。私もちょうど提案しようと思っていたの」
というものでした。
彼女は
「ここのバーガーおいしいわね。私大好き。またきたいわね」
などと、場を盛り上げました。
実際には、おいしさなどほとんど感じていないのにも関わらずです。
寝るときに
「明日も、帰りに寄り道を誘われたらどうしよう。
断ったら皆に嫌われてしまうかも知れないし、調子を合わせるのはくたびれる。
でも仲間に入れてもらえなくなるのはもっとつらい」
と考え、なかなか寝つくことができませんでした。
博美のように、相手の気持ちを傷つけたり、嫌われることを恐れて、自分の気持ちを殺してまで迎合している子どもが結構います。
変わってきた子どもの姿(3) − 自己中ー(自我肥大症候群)
最後に、「超自己中」とも言われる、自我肥大症候群の子ども達を見てみましょう。
周りの人と関係なく、自分の欲望のままに行動する子ども達も増えています。
和彦(仮名)の場合です。
和彦は中学二年のいわゆるツッパリ少年でした。
小学校のときに、先輩の中学生から声をかけられ、仲間扱いされることがよくありました。
中学に入るころには、すっかりいっぱしのツッパリになっていました。
たばこは吸うし、家のお金は無断で持ち出す。
注意しても
「うるさい。文句あるか。俺は俺のやり方でやる」
と宣言し、親にも暴力を振るうようになりました。
高校生を数人で取り囲み、お金を巻き上げる恐喝行為で補導されました。
一応警察官の前では二度とやらないと約束しましたが、家に帰ってくると
「あんなのその場しのぎさ。今度は捕まらないようにうまくやるから」
と平然と言っています。
自分のやたいことだけしか考えないのです。人の迷惑はどうでもいいのです。
結局この子ども達も人との建設的な関わりを教えられてこなかったのです。
こういう子ども達の話が、児童精神科医や臨床心理学関係の専門家の間でもよく話題になります。
専門家のなかにも心配する人がたくさんいます。
もう少し、こういう子どもの心の問題を見ていきましょう。
人とのつながりが薄い子どもたち
最初は、人と人とのつながりを子ども達はどう考えているかということです。
子ども達に共通して見られることに、他の人とのつながりの薄さがあります。
家庭でも、学校でも、もっとも大切な仲間集団でも、自分がメンバーだという気持ちを持てない子ども達が多くいます。
どこかにつながっている、所属しているという感覚が薄いのです。
このような子ども達でも、形式的には何らかのつながりを持っています。
親子のつながり、教師と生徒のつながり、友達同士のつながり、これらがまったくなくなったというわけではありません。
つながりの薄さとは何が問題なのでしょうか。
人と人とのつながりを表す言葉に「関係性」という言葉があります。
この「関係性」は大きく二つに分けられます。
少し難しいですが、その二つは「システム的関係」と「実存的関係」と呼ばれています。
これは有名な哲学者マルチィン・ブーバーが主張した「我とそれ」と「我と汝」と言うときと同じものです。
関係が薄いということは、関係が成立していないということではありません。
関係の質の問題なのです。
いまの子ども達も「友達いる?」と聞くと、ほとんどの子どもが「いるよ」と答えます。
子ども達は関係を持ちたくないと言っているのではありません。
いまの子ども達の関係のなかに人間的関係、言いかえれば「実存的関係」が希薄なのです。
自分の都合だけで相手を見ている「我とそれ」の関係が多いのです。
しかし子ども達はどこかで実存的関係を求めているのです。
本当は心のつながりを求めている子ども達
警察の少年係の人から聞いた話があります。
夜の十二時過ぎに、スーパー近くの道路にたむろしている少年達の集団を発見しました。
補導する前に、彼らを少し観察することにしました。
彼らはお互い同士で何か話をするわけでもなく、ただ、ぼーっと一緒にいます。
しばらくして、補導をしたのですが、お互いの本名を誰も知らないのです。
もちろん住所も知らない。
お互いが呼び合うのも、あだ名だけです。
九時過ぎに何となく集まり、プライベートなことは話さず、関係ない芸能界やサッカーの話をするだけです。
話題が途切れれば、後はただぼーっと一緒にいます。
「何が楽しいのか」という警察官の質問に、
「一緒にいるだけでその時間は落ちつけるんだ」
と答えたそうです。
本名も住所も知らない、ただあだ名で呼び合うだけの仲間でも、子ども達は必死に求めています。
いまの子ども達の心の乾きがわかるような気がします。
インターネットが多くの人の関心と、利用者を増やしています。
このインターネットでのつながりは、まさにシステムとしてのつながりです。
文字情報を通して自分で作り上げた他者のイメージと自分とのコミュニケーションです。
「システム」のつながりは、できるだけプライベートな気持ちや感情を表面に出さずに、情報を中心に関係が作られます。
実際の人間の関係は、匂いもあり、表情もあり、声にも高低があります。
インターネットは生身の相手とのコミュニケーションではありません。
常に匿名性に隠れることのできる、安全な場所に自分を置いてのコミュニケーションです。
あだ名で呼び合う子ども達の人間関係の方がまだ、お互いの姿、形を確認しているだけ、人間関係としては深いものかも知れません。
いま、子ども達が求めているのは「実存的人間関係」です。
人と人との心からの人格的なふれあいとでも言いましょうか。
それができないゆえに、私達から見れば関係の薄い「システム的人間関係」になっているのです。
「実存的人間関係」は必ずしも安全なものではないかもしれません。
傷つけられたり、傷つけてしまうこともあるでしょう。
自分を賭ける勇気や、他者に関与する勇気が求められます。
このような「実存的人間関係」を作り出すことを可能にするためには、いまの子ども達に何を教えればいいのでしょうか。
子ども達に教え忘れたものは共同体感覚と呼ばれるものだ考えています。
では、共同体感覚とは何でしょうか。
共同体感覚は、
「自分を大切な存在と感じ、肯定的に見ることができ」、
「他者を信頼し共存して生きていることを受け入れ」、
「自分も他者にほんの少しでも貢献できることがある」
という、自分への信頼感なのです。
アドラー心理学の創設者であるアルフレッド・アドラーは、
「私達は一人では生きられない、社会的存在であり、社会の進歩に参加する勇気こそもっとも大切なものである」
と考えました。
さらに
「このような共同体感覚は時代や文化を超えてすべての人間が生まれつき持っているもの」
とも考えました。
共同体感覚は、教育や、子育てを通して、常に教えられ、育てられなければならないものでしょう。
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子供の行動を見ればいろいろなことが分かる
最近の子どもはよくわからないという話を聞きます。
子どもを理解するためには、実は心ではなく行動をよく観察するのです。
心の内面はわかりにくいけれど、逆に表に現れた子どもの行動はわかりやすい、だから、その行動をよく観察して、そこから問題に対処していきましょう。
よくお母さんがうちの子は暗い顔をしていますとおっしゃいます。
しかしこれではあまりにも漠然としています。
よくわかりません。
学校から帰ってきても、下ばかり向いていて、ご飯もあまり食べないと言われれば、わかりやすいですね。
これなら表に現れた子どもの下を向いていて、ご飯をあまり食べないという行動から、子どもの心理状態が良くないのではないかと推量できますよね。
そうすれば子どもの状態を変えていくにはどうしたらいいかを考えればいいのです。
行動は自分が決心すれば変えられるが、心はそう簡単に変えられません。
心の問題を行動の問題から見る必要があるのです。
変えることができるのは心ではなく、行動なのです。
心の問題というのは何かしら行動に反映するのですよね。
たとえば、いじめられている子がいて、あとで周りの人が全然気づかなかったと言われるのですが、それは子どもの行動に関心がいかず、結局子どもの行動の観察が足りなかった結果かも知れません。
子どもの心のなかをのぞこうとしても、行動を観察しないと「げすの勘ぐり」になってしまいます。
行動を見たら相手の心理状態がわかりますね。
よく相手の心理を読むというと、いきなり心から入りがちなんですが、それは非常に難しいんです。
逆に身体から心を見た方がわかりやすいんです。
私は仕事がら子どもと向き合うことが多いのですが、よくやることに握手があるんです。
ちゃんと握手をしてくれればある程度私のことを受け入れてくれているなと。
それがちゃんと握ってくれなかったり、下を向いたりされると、まだ心を開いてくれていないなと。
これは心を読んでいるのでなく、相手の行動を見て判断しているのです。
心と身体は別々ではありません。
どっちかと言えば身体の方が基本というか、先にあると言っていいのではないでしょうか。
子どもの行動には必ず「目的」がある
相手の行動を観察するときに大事なことは、その行動がいつもと違っていないかどうかを見ることです。
「変化」を見ることが大事なポイントです。
行動というのはその行動が向かう相手が必ずいるのです。
誰かに向かって行われているものなのです。
もちろんその場にいる人とは限りません。
そうすると、その行動が誰に向けて行われているのかということを見つけないといけません。
たとえば、いつも一人だけ他の子と違った行動をして手を焼かせる子どもがいたとしますね。
普通にはしょうがない子だと怒ってしまいますよね。
しかし、そこでよく考えてみる必要があるのです。
違った行動をすれば先生なり親が注意してくれる、
すなわち注意するということで自分に関心を向けてくれるという結果になります。
関心を引いてもらいたいと思っている子どもにはこれは願ってもない結果なのです。
一般に注目を浴びるような行動は、親なり先生なりから関心を向けてもらいたいサインなのです。
ですからちょこまか動いて落ちつきのない子どもは、単に脳に問題があるとかではなく、誰かに注目してもらいたい、関心を払ってもらいたいのです。
人間というのは、一番恐ろしいのが「無視」ということなんですね。
誰からも相手にされなくなることが一番恐い。
いつも誰かからはめられるのが一番だけど、もし、それが無理なら、二番目には怒られることを選ぶ。
怒られるより無視される方が辛いのですね。
無視されると存在そのものが否定されたように感じるのですね。
怒られている間は、まだ存在が認めてもらえていると感じているのです。
存在を確認してもらいたくて、ちょこまか動く子がいます。
だから子どもの行動には「目的」があるんです。
「原因」というのはよく分からないもの。
「なぜ」そうなったのか。
非行の問題にしても、よく子どもの頃の家庭環境が原因だったと言われますが、では、家庭環境が悪い子どもは皆非行に走るかというとそうでもないのです。
だから過去が必ずしもその人の現在を決めているのではないのです。
それよりも自分がこれからどうしたいか、あるいはどうなりたいかを、いま、その人が選択し決定していく態度の方が行動に影響が大きいのだと考えます。
「原因」があって何かするというのではなく、「目的」が先にあるということです。
カテゴリー:子育て
どんな社会になっても幸せになれる子どもを育てよう
親は子どもに良かれと一生懸命子育てをしています。
しかし必ずしも子どもは親の希望通りには育たないものです。
子育てで何よりも大切なことは、一人前に社会に自立していける子どもを育てることです。
いま、目の前の子どもに一喜一憂することではないのです。
日々の子育てはうまくいったり、失敗したりの繰り返しです。
そうしながらそれほど遠くない将来に、子どもは一人前の大人として、親から離れていくのです。
どんな大人として自立していけるかが、子育ての成功か失敗かを決めるのです。
そのためにも子ども達が大人になる二〇一〇年から二〇二〇年の頃を考えた子育てが必要なのです。
今の子ども達が大人になる頃の日本の社会は、厳しい社会になると予想されています。
年金にしろ消費税にしろ失業率にしろ、いまのままではとても済みそうにありません。
大企業と言われる会社も果たして存続していられるかどうかわかりません。
そんな不透明な社会でいまの子ども達は、その日本を支えていかなければならないのです。
ある中学生が言っていました。
「どうせ俺達が大人になる頃はろくなことはない。せめていまのうちは自由にやらせてよ」
と。
これは彼らの生活を弁解する言葉かも知れません。
しかしそれだけではなく、いまの子ども達も自分達の将来が明るくないということを感じ取っているのかも知れません。
アルフレッド・アドラーという精神科医がいました。
彼はアドラー心理学の創始者です。
彼は人間がどんな状況にあっても幸せになれる条件は三つあると言っています。
その第一は自分を好きと思える自己肯定感、
第二が他人への信頼、
第三がほんの少しだけれども人の役に立つことができるという貢献感だと言うのです。
そして成功する子育ての秘訣は、アドラーの言うこの三つの感性や能力を育てることでもあるのです。
いま子育てに問題はないけれど、二十一世紀に我が子がたくましく一人前に自立していってほしいと願っているすべての皆さんに、
第二は、自分の子育ては二十一世紀に生きる子ど庵にとって、これでいいのだろうかと不安を感じていられるお母さんに、
そして二十一世紀ではなく、現在お子さんのさまざまな問題に悩まれているご両親にこのサイトが少しでも参考になれば幸いです。
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子育てで本当に必要なのか疑問に思う3つのアイテム
携帯電話、ベビーカー、おしゃぶり
携帯電話については電磁波の人体への影響が指摘されていますが、明確な害については医療機器を使用している人への配慮にとどまっているようです。
この明確にはわからないということが安全であるということではなく、まだ幼い命に絶対安全とはいいきれません。
すぐに、でなくとも将来何らかの影響が現れないとはいいきれないのではないしょうか。
生物としての身体への懸念もさることながら、携帯電話に支配された現代の生活が、
子育てに及ぼす精神的影響についても考えてみたいと思います。
いまや携帯電話が人々の重要なコミュニケーションの道具になっていることを否定はしません。
しかしそれがないと人と意思を通じ合うことが難しそうな様子があり、目の前にいる人の表情や声、身振りからじかに感じとり、相手と交流していく力が弱まっているのではないかと思わされることが多くなりました。
とりわけ言葉の通じない乳幼児を育てる時には丸ごとの自分で、じかに子どもと向き合っていかなければなりません。
子どもの表情を読み、泣き声からも子どもが求めていることや気持ちを汲みとって、その場その場で言葉や行動で応えていくことが大切な時期です。
街中でも、そばで話しかけたり訴えかけたりしてくる子どもを尻目に、携帯電話の操作に夢中になっている人をたくさん見かけるようになりました。
自宅で電話で通話するだけならまだしも、散歩の途中や電車のホームや車中でさえ、あの小さな携帯の画面に夢中で見入る親の姿を、子どもはどんな気持ちで見ているのでしょうか。
散歩では見るもの聞くもの子どもにはめずらしいものばかりで、あれは何、これは何、と聞きたいことはたくさんあるでしょう。
見ているものについて「きれいなお花ね」「大きいワンワンだね」と話しかけてもらいたいのだと思います。
電車の中でも駅でも、子どもには話したいこと、聞きたいことはいっぱいあるに違いないのです。
しかし親子が黙々と無表情にそばにいる姿は、親子のコミュニケーションや人と関心を共有し共感する力がどう育っているのか、気になる光景です。
ベビーカーに乗せられた子どももすっかりあきらめ顔で、クッションも悪く、地面に近くてほこりを吸い、親の顔も見えない方向を向いて、無表情にひたすらおとなしく揺られています。
かなり歩けそうな子ども、歩き回りたいのではないかと思える子どもも、歩くことをあきらめたのかのように窮屈な席に乗せられています。
荷物が積めて移動が楽、電車やバスにも持ち込めるようになった今、ベビーカーは便利な道具ですし、とくに一人での子連れ外出には必需品であるのは間違いありません。
しかし、両親や祖父母など大人の手が複数ある場合にも、子どもをベビーカーに乗せる必要があるのでしょうか。
ベビーカーの上で大泣きしている子どもにお構いなく、談笑しながら歩き続ける大人たちも見かけるようになりました。
子どもは泣くことで、どうにかしてほしいと何かを訴えているはずです。
抱き上げないまでも、子どもに声をかけたり、気持ちを確かめたりして泣かなくてもすむようにしてあげればよいのに、と思います。
すぐに抱っこしてあやしながら歩けば簡単なこと、子どもも温もりにふれて安心するのではないでしょうか。
重たいベビーカーを扱い、駅の階段を持ち上げるより、歩ける子どもなら手を引き、必要なときには抱っこやおんぶ紐を使って移動することは、考えられないでしょうか。
車の危険を避け、子どもが勝手な方向へ行かないようにベビーカーに乗せた方が安全ですし、親のペースで行動しやすいでしょう。
しかしその使用は、
子どもの行動する自由と喜びを抑えず、動き回ることによる身体・運動機能の発達を阻害しない範囲にとどめたいものです。
そして抱っこやおんぶは子どもに安心感を与え、スキンシップや会話を容易にするメリットもあることを、今一度見直したいと思います。
もう一つ、おしゃぶりですが、親の方から積極的に与えなければならないものでしょうか。
人工乳で吸うことが不足していたからとか、鼻呼吸が身につくからといった理由もあるようですが、子どもが求めていなくても、泣き始めた時、寝かせたい時などに口に突っ込む人を多く見かけます。
中には子どもがいつでも使えるように、子どもの胸に紐で下げている人もいます。
これは衛生的にも問題ですが、どういう意図でそうしているのか理解に苦しみます。
子どもが声を出して泣くのは当たり前のことで、意思を表明したり人に何かを訴えたりする手段です。
それをしようとしているときに異物を口に突っ込まれるのはどんなものでしょうか。
吸うことは嫌いでないので、しかたなく声を出すことを中断して吸い始めるでしょうが、子どもが伝えたかったことはどうなってしまうのでしょうか。
子どもが口をふさがれ、ごまかされているように思えてしまいます。
また伝える力や言葉の発達への影響も気がかりです。
電車の中などでは泣かせにくい雰囲気は確かにあります。
人々が子どもの泣き声にも寛容ではなくなっていることも残念です。
まわりの人が一緒にあやしてくれる社会になることが必要なのかもしれません。
カテゴリー:子育て
子供が安心できる居場所が必要
物理的・心理的に安心できる場所
子どもの居場所がなくなりつつあるといわれて久しくなります。
家庭においても、地域社会においても子どもが安心して遊び、憩える場所が少なくなっています。
居場所というのは、物理的な空間と心理的に安心できる場の両方を含んでいます。
子どもの居場所がなくなってきた原因として、社会全体の変化があげられるでしょう。
子どもが2〜3歳になると、極端な場合は0歳の頃から、いろいろな習いごとや塾に連れて行き、他児よりも早く上手に何かができるようになることを親が子どもに要求する家庭が増加しています。
早期教育の普及は、本来は憩いの場であり、子どもがリラックスしてありのままの自分でいられた家庭を変えてきたように思われます。
早くしなさい、上手にしなさいとせかされ、そのままの自分では受け入れてもらえないことを直感し、幼い時からがんばってよい子でいるようふるまわなければならなくなりました。
子どもの成長・発達を、せかさずにゆっくり見守ってくれる大人の気持ちとまなざしが必要でしょう。
また、少子化や電化により家事にかける時間と労力が削減され、一人の子どもに注がれる親の目や期待が過剰になり、子どもに逃げ場がなくなっているように思われます。
さらに、保護者による虐待が増加していますので、被虐待児にとって、家庭は安心して生活できる子どもの居場所ではなくなっています。
地域社会においても、人と人とのつながりが希薄になっていますので、子どものことを気にかけて見ていてくれる近隣の人が少なくなってきています。
地域社会の崩壊は、子どもに対する悪質ないたずらを許し、危険な場所を増やすことになり、子どもが安心して外遊びができなくなってきています。
ですから、保育所や幼稚園は、子どもにとって快適な居場所であってほしいと願います。
保育所だけでなく幼稚園でも延長(預かり)保育を行う園が増えましたので、保育時間が長くなりました。
一日のうち、かなりの時間を過ごす保育所や幼稚園が、子どもの居場所として機能することは今の時代には不可欠です。
経済効率を第一にしてしまいますと、園の規模が大きくなり、クラスの子どもの数が多くなり、子どもを集団で一斉に動かす活動が増加します。
それでは、園は子どもの居場所としては不適切でしょう。
乳幼児は、発達が未熟なだけでなく、発達を含むさまざまな面で個人差が大きいのですから、子どもによって生活のリズム、活動のペースや遊びの好みなどが異なります。
子ども一人ひとりのペースを大事にし、保育者と子どもの個別のかかわりを大切にすることで、園が子どもにとって楽しく、気持ちの安らぐ居場所となることでしょう。
最近、保育所や幼稚園での子どもの様子をビデオに撮影して、保護者がいつでも見られるような設備を備えた園があります。
子どもは見られていることを知らないかもしれませんが、ここまで子どもに監視の目が注がれると、ますます子どもの居場所がなくなってしまうような危惧をもってしまいます。
いつでも保護者の保育参加を許し、園に来てもらって保育に入ってもらい、自分の子どもだけでなくよその子どもの様子も見てもらうことができれば、園に対する保護者の見方や子どもを見る目が変わるでしょう。
園やクラスのおたよりを増やしたり内容を工夫したりすること、保育者と保護者の直接のコミュニケーションの機会を増やし、意思疎通をはかり信頼関係を築くことなどができれば、
ビデオで子どもを見られなくても保護者が不安にならず、園も家庭も子どもにとって安心できる心地よい居場所になることでしょう。
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片親の子育てをうまくこなすには
父親(母親)がいないための苦労を子供にさせたくないと、
困難をひとりで背負ってはいませんか?
思春期の子どもにとって、父親と母親がそれぞれにはたす役割の重要性については、先に見てきたとおりです。
しかし、不幸にして両親のいずれかを欠いた場合、親として思春期の子どもをどのように扱ったらよいでしょうか。
両親がそろっていても、子どもがまともに育ちにくい世の中です。
まして両親のいずれか一方が欠けるということは、子育てにとってたいへん困難な条件となることは否定できません。
一人娘が五歳のとき、夫と離婚した佐伯(仮名)さんは、以来再婚もせず女手一つで子どもを育家庭生活と親子関係ててきました。
中学一年生のころまでは、テレビを見ながら母の帰りを待つおとなしい子でしたが、二年生になってから非行グループに入り、服装なども目立つようになりました。
あるとき、娘の部屋からたばこの吸いがらを発見した佐伯さんは、はじめてきびしい口調で子どもを叱りました。
ところが、娘はいままで一度もみせたことのないひどい態度で、母親に反抗したのです。
以来、彼女の反抗はエスカレートする一方で、母親の帰りが少しでも遅くなると、
「腹が減ったよ。早く飯をつくれ」
と怒鳴り、おかずが気に入らないといっては、食器を投げつけたりするようになりました。
彼女の登校拒否が始まったのは、そのころからです。
それと同時に、母親に暴力をふるうようになり、夜中に娘に締め出された佐伯さんを、近所の人が見かねて泊めてやったこともあったといいます。
「父親がいないことで肩身が狭い思いをしたり、苦労したりしないように育ててきたつもりなのに」
そういう佐伯さんがやってきたことは、一生懸命に働いて、子どもに物質的に不自由させないことと、子どもに家の仕事をいっさいさせないことでした。
その結果が、子どもの登校拒否、家庭内暴力だったのです。
家庭の教育的機能には、二つの機能があります。
一つは親の「しつけ」という意図的に機能する教育であり、もう一つは家庭生活の中で自然に機能する教育です。
意図的におこなわれる教育には、父親のきびしさ(父性)と母親のやさしさ(母性)が必要であることはいうまでもありません。
ところが、佐伯さんの場合、生活面では父親の役割と母親(主婦)の役割の一人二役ですが、
「しつけ」の面では、父性の欠如を補おうとせず、「不憫だ」ということで、甘やかすだけの母親になってしまったのです。
そもそも父親がいないための生活上の困難を、母親ひとりが背負って生きようとするところに問題があるように思います。
父親がいないための苦労を子どもにはさせたくない、というのは親心でしょうが、結果は裏目に出る場合の方が多いのです。
父親がいないという現実を子どもにもしっかり見つめさせ、
母と子が力を合わせてこのきびしい現実をどう生きていくかということを、ともに考えるような親子の関係が望ましいあり方だと、わたしは思うのです。
子どもに頼ると、子供から受け入れられる
それは父子家庭でも同様です。
長女が中学三年の受験期に妻に蒸発された二児の父親・家庭生活と親子関係植村(仮名)さんは、
二人の子どもと、これから親子三人でどう生きていくかについて、率直に話し合いました。
高校受験を控えてはいましたが、長女は夕食の用意を、小学六年生の息子はお風呂の用意と洗濯を受けもつことになりました。
それまで職場の仲間とよく飲んで帰った植村さんでしたが、仕事が終わるとまっすぐに家に帰って、食事のあとの洗いものをしたり、二人の子どもの勉強を見てやるよう努力しました。
朝早く起きて、朝食を作るのも植村さんの仕事です。
「母親がいたころは、わがままな子としか見えなかった娘と息子が、わがままをいわなくなったばかりでなく、別人のようにたのもしく見えるようになった」
と植村さんはいいます。
佐伯さんのように、子どもが不憫だからと特別あつかいするのでなく、子どもを大胆に頼りにすることによって、生活の危機ばかりでなく、子育ての危機をものり切ったのです。
親と子が力を合わせて生きていく家庭の生活が、すばらしい教育の機能を発揮した例といっていいでしょう。
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子供の心身症
互いに深くかかわっている心と体
何らかの身体的な症状が、その発生と経過に心理的な要因が深く関係している場合を心身症といいます。
心と体は互いに影響し合っているので、一方の状態がよくないと、もう一方の状態も悪い状態に変化しやすいものです。
検査を受けて病気の原因が具体的にわからない場合に心身症と診断されることがありますが、ぜんそくや胃潰瘍のように、心身症として認められている代表的な病気もあります。
ストレスに直接影響を受けて身体の症状に現れる一次的な心身症と、日常の生活習慣や不適切な生活の仕方が長期間持続されることによって身体症状が現れる二次的な心身症の二種類があります。
心身症は、子どもから大人までの発達段階に見られますが、
特に子どもの病気は、すべて心理的な要因が関係しているといわれます。
子どもは外からの刺激や環境の影響を受けやすく、ストレスを感じやすいといえます。
ですが、まだ十分に発達していないので、言葉でうまく伝えることができず、大人のように不安や緊張を表現することで和らげることができません。
そのため、心の問題はさまざまな身体症状として現れると考えられています。
心身症の原因となるストレスは、子どもの発達時期によって異なります。
乳児期は、いらいらした感情や凡帳面すぎる接し方や愛情の欠如、放任などの養育者の育児態度がストレスとなります。
幼児期は、養育者の感情的な育児態度や弟妹の出生、共働きで不在が多くなるなど愛情が欠乏することがストレスとなります。
ストレスから下痢や便秘、食欲不振や拒食、腹痛、頻尿、夜尿、気管支ぜんそくといった身体症状が現れます。
また、言語や身体の全体的な生育の遅れ、チック、指しゃぶりなどの癖も心身症に含まれます。
相談では、子どもや保護者から身体症状の訴えがあっても、それが心理的な問題によって生じているかを判断することはとても難しいことです。
このような場合は、第一に身体の病気に原因がある場合を考えて、医療機関で検査を受けるようにすすめます。
医療機関へ紹介した場合でも、再度来談する可能性があります。
相談員は、このような状況を想定して、子どもと保護者の両方とよい関係性を築いておき、医療機関を紹介する時には
「またいつでも相談においでください」
などと伝えて、相談者が再び相談に来やすい配慮を心がけておきます。
心身症になると、子どもの発達は損なわれがちになります。
子どもは、発達過程にあって常に成長していますので、健全な発達を促進することを第一に考えたケアが大切です。
そのためには、子どもの情緒的な側面へのアプローチと周囲の環境への働きかけをする必要があります。
成人のように言葉で気持ちを伝えることができないので、子どもの相談では玩具、描画、箱庭、ゲームなどを用いて、主に非言語的な遊戯療法や芸術療法が行われます。
心理療法の中で、子どもは激しい怒りを表現したり、予測しない行動(行動化)をしたりすることがあります。
これらは子どものやりきれない気持ちや混乱を表しているので、相談員は、子どもを注意深く観察し、行動の変化に対応できるように準備しておくことが大切です。
子どもの心身症に対しては、必要に応じて養育態度や教育、人間関係などの養育環境を検討し、環境の変容を試みることが重要になります。
また、身体的な病気になったことで保護者がショックを受けて動揺し、子どもはその動揺を敏感に受け取って混乱することもあります。
このような子どもと保護者の混乱の連鎖を止めるため、相談員は子どもの周囲の人の動きにも配慮して対応することが望まれます。
心身症のケアでは、身体面淘心理面、環境面、成育史的側面、遺伝的側面、子どもと保護者の性格や能力など、多面的な問題を検討することが重要です、
十分な検討を行って、子どもの自由な自己表現の獲得と発達段階に応じた適応能力を育てていくことを目標として、心身症には全面的にアプローチする必要があります。
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安定した人格を育む子育て・教育が大切
たいていの親はきびきびとした積極的な行動をわが子に期待しますから、内気で憶病、友だちと活発に遊べず、すぐ泣き出してしまうような子は、情けなく思われがち。
「弱虫」で「ぐず」、気がよすぎるというのも、歯がゆく感じられることでしょう。
でも、気が弱そうにみえていた子が土壇場でびっくりするような勇気をみせたり、もたもたしていた子がいつの間にかたいへんな大仕事をなしとげたりといったことはめずらしくないし、
逆に、強そうな子がいざというときに尻込みしたり、てきぱきしている子がさっぱり長続きしないといったこともよくあります。
外向的でなく、能率に欠けていても、やさしい心とかデリケートな感性をもち、内にあふれんばかりのエネルギーを秘めているタイプの子だっているでしょう。
ですから、子どもの表面に現れている性向だけをみて、それを欠点と決めつけるのはやめたほうがよい。
それよりも、奥深いところで安定した人格を育ててやることのほうがずっと大切。
弱虫やぐずだからといって、すぐになおすことばかりを考えないようにしてください。
なるべく、子どもにまかせて放っておき、好きなだけ友だちの中にもだすようにする。
もし、おずおずしているところがあれば、その気持ちを受け入れて、打って出る勇気を分かちもってやるように。
時間もせかさず、敗北はなじらないことです。
こうしているうちに、弱虫の子はむしろ屈辱に耐えることで強さを育むか、またはひとを許すことでやさしさを根づかせるのでは。
ぐずの子もなんとか自分で世間とつきあっていく才覚を身につけるのではないかと思います。
ただ、どちらのばあいも、それが卑屈にならないようにするのはもちろん。
そのためにも、あまり勝敗ばかりを気にさせないこと、親自身が卑屈な態度をみせていないことが大切かと思います。
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子供の甘えとわがまま
子どもの成長に「甘え」は欠かせない
「甘えの心理とは、母子関係における乳児の心理にある」と土居健郎がその著書『甘えの構造』に記しています。
人間の(動物一般にも)生後における親子(とりわけ母子)の一体感は、「甘え」を通し愛着の形成に重要な働きをもっています。
つまり人間の健康な育ちに欠かせない人間関係を育てる基盤となるものという理解のもとに、甘えを位置づけて考えてみます。
では並列して取り上げる「わがまま」にはどのような意味があるのか、広辞苑にその意味を求めてみました。
自分の思い通りにすること、自分の思い通りになると記されています。
人と人との相互関係における意識にあるものとは異なり、自己を中心にした行動や意識がうかがえることに甘えとの違いを感じます。
2歳半になるT君は半年前にゆっくり「卒乳」をしました。
家族は祖父母とT君の父母が共に生活する3世代5人です。
新旧の育児感覚を様々な形であびせられながらも、可愛がられてすくすくと育ち、いまはトイレットトレーニングが課題というところです。
ある日のこと、突然ママの胸元をめがけて飛び込んできたT君は、あれよあれよと驚くうちに、ママのおっぱいを赤ちゃんのように吸い始めました。
その唐突な行動に何が起きたのかわからないまま数日が過ぎました。
お母さんはあまりの痛さに耐えかねて本人に問いかけたところ、
「Tちゃんはまだ赤ちゃんだから…」
と甘えた声を出したそうです。
「そういえば一人っ子なのに、“お兄ちゃん”や“お兄ちゃんなのに…”という言葉が家族の中で使われるようになっていました」
と報告されました。
この年齢で既におむつが取れた育児経験をもつ祖母の感覚では、
「お兄ちゃんなのにどうしておむつがね‥」
としばしば口にし、お嫁さんであるママは気になりながらも追従する姿勢があったのでしょう。
幸い人生第一歩の課題である「信頼」を十分に築いていたT君は、この「甘え」の蓑に自分を入れ、退行現象をもって自らの防衛を果したということでしょうか。
幸いT君のママは賢い人ですから、十分に甘えを受け入れた後、あせらずT君とは母乳以外のスキンシップや会話を大切にした育児を心がけ、
家族間のコンセンサスづくりも始めました。
「甘やかし」と「わがまま」
(1)電車の中でバギーに乗ったまま泣いている赤ちゃんに、親がキャンデーを与えると、赤ちゃんは直ぐに静かになる情景、
(2)デパートの玩具売り場ではしいものをねだっている幼児が、大声で泣いたり怒っている場面で戸惑う親の姿、などにはよく出会います。
いずれもどのような対応が望ましいのかは議論のあるところです。
でも、子どもの成長過程によっては大人の行動が大きく意味をもっていることを理解したいのです。
(1)の場面では、バギーの赤ちゃんは本当は抱っこを求めて泣いたのかもしれません。
(2)の事例では玩具がほしいと言って駄々をこねている状況と判断できる年齢のようです。
空腹や愛情を満たすための慰めは必要なことです。
でもほしいものをすぐに手に入れたいとの要求をつねに満たすのは甘やかしであり、「わがまま」を育て、多く与えても子どもの幸せ感は薄いでしょう。
発達課題を踏んで やがて自立期を迎える子どもは、これまでの母子一体感から抜け出て、そろそろ自分を親とは別の存在と理解しはじめます。
自分の恩いや力で動けるようになる技能の獲得は、幼児期の子どもの心に自信や喜びを生みます。
第一次反抗期とも重なり、心地よかった大人の受容から「自律」という新しい発達課題の形成に向けた「しつけ」といわれる親子の「対決」場面も生まれます。
自律を子どもの側に求めるだけでなく、親自らも変らねばならない時のようです。
土居は
「成人後も人間関係が結ばれる際には、初めには甘えが発動し、その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果している」
とも記しています。
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子供の食事のしつけ
発達課題へ挑戦する子どもの姿ととらえる
乳幼児期の相談の中で、最も多いのがこの「食事」をめぐる問題です。
親は、1歳未満では離乳食のこと、味覚が次第に増してくる離乳食完成期頃からは子どもの食事の好み、量の問題がとても気になってくるようです。
育児書に記された一定の食事量に達しないことから、栄養バランスが悪くならないかと心配になることが多いようです。
またこの頃になると身のまわりのことにさまざまな関心が増えてくるため、親の気がかりになるのが食事時の「いたずら」です。
子どもを叱ることが増えてくるのも、親の思いと子どもの興味関心の芽生えとのずれが生み出すトラブルであることが多いようです。
さらに「大人に食べさせてもらいたい」といった依存しながらの「食事態度」のことなど、1歳から学童期に至るまで、さまざまな問題が取り上げられています。
食事のマナーとして1歳前後の子どもによく見られることですが、食器の中の食べものを「ごちゃごちゃに混ぜる」「食べながら遊んでしまう」
また「スプーンやお箸、コップなどを落として楽しむ」などをはじめ、「他の人のお皿から好きなものをとってしまう」、「手づかみで食べる」「食べものを握りつぶす、鼻につめる」などの訴えがあります。
中には11か月くらいから一人で食べるといって「親の手を払う」という元気な赤ちゃんもいるのです。
しかしながら、このような子どもの姿から、すぐに何がよくて何が悪いかを決めつけてしてしまうのは避けたいものです。
なぜならそれが大切な子どもの成長過程であり、発達課題へ挑戦する姿であることも多いからです。
親にとって心配な食事に関する主訴(問題)
月齢や年齢によっては「食べにくい食品」や「好き嫌い」があって食べられない、あるいは「新しい食品」への抵抗などの理由から問題が起きている場合もあります。
親が心配(問題)と思っていることがらには、以下のようなものがあります。
(1)「親の手を払い自分で食べないと気がすまない」11か月
(2)「おかずを一切食べない」2歳
(3)「白いご飯以外には食べない」2歳
(4)「食事量が少ない」「牛乳が好きで食事量が少ない」2歳
(5)「口の中のものを飲み込まない」2歳4か月
(6)「好き嫌いを言う」2歳4か月
(7)「家の中で一日中食べものをほしがる」2歳5か月
(8)「自分から食べようとしない」2歳7か月
(9)「食事をしないでお菓子類をほしがる」2歳8か月
(10)「だらだら食べる」「やってもらいたがる」3歳2か月
(11)「好きなものだけ食べる」4歳
子どもの興味・関心が育てる生活の中のしつけ
親の手を振り払って、下手ながら自分で食べる喜びを達成していく11か月の赤ちゃんのエネルギーは、実は、本人自身はもちろん、まわりの人を育てているのです。
「食べさせてもらうのを待っている」よい子で育ってきた2歳7か月の子どもは、むしろ自分の力を発揮する時期を少々逸したのかもしれません。
こうしたさまざまな子どもの姿には本人自身がもっている育つ力があることを理解しながら、その時期への対応を考えていきたいものです。
家庭にはその家庭を営む人たちの願いや方針があるのですが、子どもが自己を形成していく過程には日々の小さな生活、睦眼や着脱、いたずら・乱暴、きょうだい関係、親子関係、甘えなどが存在することに気づきます。
子どもの機能的・精神的発達段階と照らし合わせて、それぞれの対応の仕方を考えていくことが必要でしょう。
子どもが育つ土壌は、親子関係や家庭のもつさまざまな背景につながっていることを心にとめたいものです。
子どもの「意欲」を育てるためにも、肯定的な対応や表現を用いながら、楽しい食事態度を育てていきましょう。
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幼い子どものうそは、あまり心配ない
親や保護者の一貫した態度が大切
うそをつくということは、言葉を話せるようになってからですから、2歳くらいからでしょう。
また子どもといっても、ここでは、就学前の子どもを考えてみます。
子どもの問題行動の一つに「うそをつくこと」があげられます。
親や保育者は、子どもがうそを言うことを、何かのサインではないかと考えがちです。
年齢やうその内容、また頻度について、確かに注目すべきケースもあるかもしれません。
一般的には、幼い子どもの場合は、あまり心配のいらない「うそをつく」ことのほうが多いことに、気がつきます。
たとえば、ピアジェ(J.Piage)の認知発達理論からすると、
2歳から7歳は前操作期にあたり、「ことばが発達し、イメージを便りた思考(象徴思考)ができるようになる。自己中心的な思考が優先で、保存の概念が未発達な直観的思考が見られる」
という認知の仕方です。
その後の具体的操作期(7歳〜11歳)に入り、
「具体的なものについて論理的思考ができるようになり、自己中心性が弱まり社会的行動が生じるようになる」のです。
つまり簡単にいえば、かなり幼い年齢では、うそがうそなのだとわからないからです。
エリクソン(E.H.Erikson)によれば、幼児後期(3歳〜6歳)は、「自発性対罪悪感」という発達課題にある時期です。
子どもはそれぞれの自分の住む社会や文化から、子どもがふれることのできない領域があることを知ります。
そこにふれると、禁止されたり罰せられたりします。
その経験から、大人、とくに親が何を期待し何を禁止するのか、自分がどうすれば親を喜ばせ、怒らせるかに敏感に反応します。
その結果、それに自分を合わせるようになります。
それが、モラルや良心として、その子どもに内在化されるのです。
ですから、幼児後期になれば、道徳心が芽生えてきて、自分の欲求や行動を表そうとする時、罪悪感をいだき、自分自身をコントロールすることもできるようになります。
それができれば、自分自身に自信もでき、自発性が発達し、遊びや探索したい気持ちがわくことになります。
このように、この時期は、親が最も重要な倫理的モデルになるのです。
子どもが「自発性対罪悪感」という危機を解決することに、親の子どもへの評価や制御が深く結びついています。
「うそをついてはいけない」ということをどの親も子どもに教えているかどうかはわかりません。
しかし、「うそをついていいよ」と教える親は少なそうです。
幼児後期となれば、親にとって「よい子でいたい」ために「うそをつく」かもしれません。
子どもの多くは、うそをいたずらでつくのではなく、すでに述べたように罰せられることや「悪い子」と拒絶されることを避けるためにつくと思われます。
子どもが最初にうそをついたら罰するのではなく、学習の機会にしていくことが大切です。
しばしば保育者は、保護者から子どものうそについて相談を受けたり、また保育場面で子どものうそに遭遇したりすると思います。
保育者が子どもに対して、また保護者にアドバイスできることとして、以下に例をあげておきます。
「うそも方便」といって、大人は人間関係を悪くしないためのうそを許容することがあります。
しかし、子どもは、自分がいけないといわれていることを親がしていると、混乱します。
親がついているうそとの違いがわかりません。
ですから、子どもの前で親がうそをつくのはやめます。
子どもが、きっとこういう場合にはうそをついてしまうのではないかと思える時に、本当のことを話したら、その子どもをほめることです。
本当のことを話してくれてうれしいことを子どもに伝えましょう。
真実を話すことの大切さを、説明できるようにします。
うそを言ったことのネガティブな結果についても教えます。
その時は、できるだけ具体的に説明することです。
3、4歳 以下の子どもは「うその概念」がよくわかっていないので、本当のことを話すこととうそをつくことについて、具体的な例を話します。
子どもがうそをつき通す時でも、落ち着いて対応するように努めます。
子どものうそへの対処法が、一貫しているようにします。
一定のルールを作って、うそをつくことの理解ができるようになったら、うそをついたことに対して何らかの結果を与えるようにします。
しかし、罰として恥をかかせることは避けましょう。
親は うそをつかれてがっかりしたというメッセージを伝えます。
子どもがうそをついた行動に対してで、その子自身の価値を下げるものではないことも、しっかり伝わるようにしましょう。
「うそつき」というレッテルを貼るのはいけません。
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子供の発達
人の発育や発達には個人差がある
人の発育や発達には個人差があります。
発育曲線の上限と下限の幅の中に入っていて、元気であれば、まず心配はないと考えてよいでしょう。
ここでは、よくある状態を取り上げて考えてみようと思います。
二つの言葉…「発育」と「発達」について理解したいと思います。
発育について
発育とは「育つこと」「発生成育」を示す言葉で、成長と同義語に使われます。
英語ではgrowthといい、形態の量的な変化、明らかに測定することのできる身長・体重などの変化を示す時に用いられます。
つまり数量としてカウントが可能なもので、目に見える形の変化をとらえる際に使用できるものです。
身長も体重もその変化の中で、乳幼児の健康管理ができます。
一般的には乳児では、生後1年で生下時体重の3倍になるという平均的な数量が示されています。
昨今は栄養状態が良好なせいか、ほとんどの赤ちゃんはそれを上回る発育ぶりです。
大切なのは身長と体重のバランスであり、食の細い赤ちゃんも元気で機嫌のよい状態であればあまり問題ではありません。
1歳3か月で90%以上の子どもが独歩を開始していますが、それを過ぎても歩かない場合に過度な心配をする親もいます。
昨今1歳の誕生日の頃に歩行を開始する子どもが増えており、心配の種になっている親もいます。
これは特別な例を除き生活の状況によるところが大きいので、心配な時は保健センターのようなところに相談することをすすめます。
発達ということ
発達とは生体が発育して完全な形態に近づくことで、英語ではでdevelopmentといい、機能の成熟に向かう量的、質的な変化をいいます。
知能、感情、また肝機能、腎臓機能なども発達の代表的な分野です。
そして簡単には計測が難しい分野ですから、発達で問題になることは、その量や質を十分にとらえることが必要です。
たとえば言葉の表出が普通より遅れているとみなされる場合、男児は言葉が遅いとの言い伝えもあり、つい「もう少し待ってみよう」ということになりますが、
その月齢における言葉の数のみでなく、質を見ることが大切です。
その際、各分野の専門家が参与している乳幼児健診を十分に利用することが重要です。
たとえば、言葉の出ないことにのみ気づかって難聴をつい見過ごすこともあります。
音を取れない難聴は、子どもの行動から発見されることが多いもので、行動と理解がずれたりすることや、音声の出し方を注意してみること、専門家の診断を仰ぐことで、早期発見が可能になります。
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友達と遊べない
子どもの遊び 遊びの意味
子どもの遊びは子どもの生活そのものです。
遊びと学習の最も大きな違いは、学習は取り組んでいる活動そのものが目的ではなく、ある目標に達するために行う活動ですが、遊びは、遊びそのものが目的で行う活動です。
子どもは遊びを通していろいろなことを学習し、心身共に発達していきますが、心身の発達は目的ではなく結果です。
大人の視点からは、子どもの遊びの意味は、運動機能、言語機能、認知や探索、手指操作、情緒・社会性など、全ての領域の発達を促し、
バランスのよい心身の発達を促すために不可欠な活動といえるでしょう。
しかし、子どもにとって遊びは、子ども白身の意図や好みにしたがって選択し展開していくことができる活動ですから、遊びは楽しく、子どもの気持ちを満足させる営みといえるでしょう。
心身の発達の中でも、人と人との関係性の発達は、子ども同士の遊びを通してでなければ得ることができないでしょう。
ですから、幼い時から子どもは子どもの中で育てることが大切です。
乳児期から保育所に通う子どもでは、非常に早期から子ども同士のかかわりが見られることがわかっています。
0歳前半の子どもでさえ、子どもが並んで仰向けや腹ばいになっていますと、互いに他児に関心を示し、他の子どもの方を見たりさわったりします。
0歳後半になり、はいはいや伝い歩きなどで移動できるようになりますと、他児のそばに近づいて行ったり、他児が持っているおもちゃに手を出すようになります。
1〜2歳児になりますと、子ども同士のかかわりが増えます。
他児は、魅力的で気になる存在ですから、他児のしていることに興味をもち、傍らに行って同じようなことをしたり、他児に直接働きかけるようになります。
子どもだけではまだ遊びが続きませんし、自我の目覚めを迎え自己主張も激しくなる年齢ですから、子ども同士のぶつかり合いも多く、保育者の介在が必要です。
大人が間に入って、子ども同士をつなぐように配慮すれば、遊びの継続や盛り上がりも見られます。
同じことでも一人でするよりも、他の子どもたちと一緒にする方がずっと楽しいのです。
保育者は、子どもがそういう経験を豊かにもてるよう、保育の方法や内容を工夫します。
3〜5歳児になりますと、大人と遊ぶよりも子ども同士で遊ぶことをより求めるようになります。
毎日の子ども同士の遊びの中で、貸し借り、譲り合い、順番を待つことなどを体験します。
譲ってばかりでは楽しくないけれど、自己主張ばかりしていても他児とうまくいかないこと、大人との関係とは違って我慢もしなければならないことなど、
人とかかわりをもつために必要な技術や感情のコントロールの仕方などを学んでいきます。
言語発達の未熟な段階では、言葉で「貸して」とか「今は私が使っているの、後で貸してあげる」とかを表現できませんので、ほしい物を力づくで取ってしまうことも少なくありません。
自分の欲求を満たすために、時には相手を押したり、たたいたりすることもあります。
そういう場合には、保育者が介入して、子どもが怪我をしないように配慮するでしょう。
保育者は、双方の子どもの気持ちを理解するよう努め、一方の子どもの気持ちを他方にわかりやすく伝え、子どもたち同士がなるべくお互いの気持ちを理解できるよう対応します。
幼くても、本気でぶつかり合い、相手の気持ちを理解したり、自分の気持ちを主張することは、人間関係を学ぶうえでたいへん重要です。
ですから、子ども同士のトラブルも、大人の力で止めてしまわずに、時には見守ることも必要でしょう。
子ども同士の密な関係を日々経験し、保育者の理解と適切な対応によって、子どもの情緒・社会性が発達していきます。
自己主張をするけれども相手の話も聞くことができる子どもに育ってほしいと願います。
そうすれば、5〜6歳になると、子とも同士のトラブルを子どもだけで解決する力がついてきます。
子ども同士のトラブルを避けるために、子どもを大人の中で育てたり、子ども同士のトラブルに干渉しすぎてしまうと、友だちと遊ぶ力が育ちにくくなってしまいます。
幼児期、児童期に子ども同士のかかわりを豊かに経験しないまま成長してしまうと、情緒・社会性の発達に歪みが生じやすくなります。
現代のような少子社会ではきょうだいの数が少なく、家庭の中で子ども同士が密な関係をもつことが困難です。
さらに、近隣にも子どもが少なくなっていますので、子ども同士で遊ぶ体験をもちにくくなっています。
ですから、保育所や幼稚園では、子ども同士が関係をもてるような環境を意識的に準備することが必要です。
子ども同士のトラブルを大人の視点でとらえてしまうと、保護者同士のトラブルに発展してしまうこともあるようです。
発達段階によって子ども同士のかかわり方が変化していくこと、たたいたりたたかれたりはどの子どもにもあり得ることを、保護者会やおたよりなどを通じて理解してもらうことも必要でしよう。
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子育て・教育とは、子供を社会に適応させること
心理療法というものにかかわるとき、子どもたちにどう育ってほしいのかについて考え続けます。
なぜならうっかりすると子どもに浮世のしがらみや、そのときだけの常識を押し付けてしまうことがあるからです。
ちょっと昔のことを振り返っただけでも、戦争に参加することが善であり、人を殺すことすらはめたたえられた時代があります。
今は学校へ行くのが当り前で、行かないことは普通じゃないとされてしまうことがありますが、
数十年さかのぼっただけで学校なんか行かなくていい、それより家の手伝いや、家計の助けになる仕事をしなさいと言われた子どももたくさんいたはずです。
こうして考えると、
子どもにどう育ってもらいたいのか、どんなおとなになってほしいのかが時代を背景に目まぐるしく変わってくることは容易に想像できます。
今正しいと思われることがその子の一生正しくあり続けるわけではないことを心に留めておかねばなりません。
中学に入ってから休みがちなサブロウ君は、なぜ学校へ行けなくなってしまったかを考え続けていました。
そして自分の勉強がしたいと思う気持ちと、学校での勉強にズレがあるということに気づいたというのです。
彼は科学が大好きで、科学雑誌や宇宙の本はいくら読んでも飽きることがありません。
たとえ英文の本でも辞書を片手に何とか読みこなしたいと思ってしまいます。
ところが中学での成績は、理科や数学はまあまあながら、全体としてはあまり芳しくないために、科学に詳しくても希望する高校は受からないと言われています。
たしかに、そつなく平均的に点数が取れないと受験では不利になるという現実があります。
子どもの個性を伸ばす観点から考えると矛盾を含んでいる話です。
おとなも悩んでいる今の受験体制のひずみは、万事納得してから行動したいサブロウ君にとっても大きな悩みでした。
「受験のやり方がおかしいんだよなあ……。
ぼくはずいぶん考えた。
将来、文部省に就職しようかなって。
科学が大得意のぼくみたいな子が自由に勉強できることも必要だと思うから……。
でも、そのためには高校に入らなくちゃね。
学校へ行くよ。
そして苦手な教科も勉強しようと思う」
将来、彼がほんとうに文部省に就職するのかどうかはわかりません。
でも彼が現実に流されてしぶしぶ勉強したり、やけになってりせず、社会と積極的にかかわっていこうとする姿は、生涯を通して自分自身の幸せを追求していくことができるだろうと予感させてくれるものでした。
子どもには今の社会のあり方にただ流されて生きてほしくはありません。
また背を向けて社会から逃れるような生き方もさせたくはありません。
子どもには今生きている社会と生き生きかかわりながら、生涯にわたって自分のしあわせを追い求める生き方をと願っています。
これを心理学では社会への適応と言います。
社会や環境がどんな状況や価値観であっても、自分をそれにあわせて流されてしまうことを順応といます。
突然暗い部屋に入ったとき、全然見えなかったのにだんだん目がなれて見えてくるようになりますが、こうした現象を順応というのですが、
同じように社会に働きかけることをせず、ひたすら社会に自分のほうを合わせてしまうことを順応と言うのです。
適応は自分を殺して合わせることではなく、
自分のやりたいことがわかり、現実の社会のあり方がおかしいと感じたら、その中でどうすれば自分が幸福になれるかについて考えることができるファイトのことなのです。
犯罪のように社会に背を向けて生きることにも、そうなってしまったにはわけがあります。
自分に閉じ込もってしまうことも、それぞれに理由のあることですが、そこには自分の幸せを社会とのかかわりの中で見つけられなかった不幸があります。
なぜなら人間は一人で生きているようで、一人で生きているわけでなく、社会の中でよりよく生きられるはずの動物だからです。
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「赤ちゃん返り」にはこう対処しよう
突然弟や妹がこの世に出現し、戸惑った子どもたちはさまざまなパフォーマンスにでることがあります。
家族の態度の微妙な変化に動揺するだけの高い感受性を持っていて、自分が家族の中でいつも愛され続けたいと考えている子どもたちは、自分の存在が脅かされたと感じるものです。
それまで一身に集めていた家族の愛情を失うかもしれないという心の危機は、さまざまな波紋を引き起こします。
多くは赤ちゃん返りという方法でその戸惑いをあらわします。
おしっこをちゃんと教えられるようになっていたのにおもらしするようになったり、おまるでウンチができるようになっていたのに、おむつが必要になってしまうことがあります。
またおねしょが始まったり、指をしゃぶったり、赤ちゃんことばに戻ったり、ときにはどもり始める子もいます。
弟や妹の出現で忙しくなったお母さんはそのことでイライラするようになり、ちょっとヒステリックに叱りつけたりすることが多くなります。
子どもにとっては今の自分より何もできなかった頃にもどれば、これまで通りに家族の安定した愛情と注目を取り戻せるのではないか、
「夢よ、もう一度」というせつない行動なのですから、その純な心情をくみとってやらないことにはいい方向には向かいません。
叱られたりするとますます困った行動が多くなったりします。
ときには一人でそうした寂しさをまざらわそうとする子もいます。
三歳のNちゃんのお母さんが、とても深刻そうな表情で相談にやってきました。
Nちゃんが自分の性器をいじるようになったというのです。
最初はさわっている程度だったというのですが、最近では布団にこすりつけてボーッとしていたり、顔を真っ赤にしてうんうんいったりしているものだから、お母さんはすっかりあわててしまったのです。
いくら叱って止めさせようとしても、止めるどころかますますひどくなります。
日毎に回数も増えて、お客さんがいるところでもやるので、お母さんとしてはほとほと困ってしまったのでした。
小さい子の性器いじりというのは、男の子、女の子に限らず、そんなに珍しいことではありません。
偶然さわっていたら気持ちがよかった、癖になってしまったというのがほとんどです。
ところが指しゃぶりや爪を噛む癖と違って、それを見たおとなたちはあわててしまいます。
こんなに小さいうちから性的なものに興味をもつなんておかしい、将来痴漢になったり、淫乱なおとなになったらどうしようというところまで考えがいたります。
おとなのほうが顔を赤らめながらやめさせようとします。
子どもにとっては痺いところをかいたら気持ちよかったぐらいのところから始まっているのに、おとなは子どもが性的興味や快感を求めてやっていると思いこんでいるのです。
そうしたおとなの気持ちは子どもにすぐ伝わりますから、なんだか秘密めいたおもしろさがありそうと感じてしまいます。
こうした二次的な意味づけが、一時的な行動をあえて子どもの癖として定着させていることが珍しくありません。
問題はむしろ自分の身体をいじることで気を紛らすことが必要な子どもの状況や、それ以上に楽しいことが今は何もないということが問題なのです。
Nちゃんは三カ月前に弟が産まれました。
それまではお母さんと公園に行ったり、絵本を読んでもらったり、いつもお母さんはNちゃんのそばにいたのですが、今は違います。
弟がお母さんにだっこされていると自分もとそばに行くのですが、
「赤ちゃんは一人では何もできないの、いい子にして一人で遊んでいなさい」
と言われることが多くなりました。公園に行くこともほとんどなくなりました。
その頃からNちゃんの性器いじりが始まっていたのです。
Nちゃんに必要なことは、今の寂しさや弟へのやきもちに気がついてあげることと、もっと楽しいことを見つけてあげることでした。
お母さんがNちゃんと二人だけで遊ぶことは今は無理でしたから、お母さんにNちゃんといっしょに「弟を育ててみる」という提案をしました。
ミルクを飲ませることやおむつをかえることを、Nちゃんといっしょにやることで、Nちゃんを一人でいることを減らして、お母さんといっしょにいるという安心した気持ちにしてあげようということになりました。
ときにはお母さんに抱いてもらったり、お父さんと公園に行ったりするうちに、
いつのまにかNちゃんはつたい歩きを始めた弟といっしょにあそんだり、けんかしたりで忙しくなり、昔の癖は忘れてしまったのでした。
きょうだいが突然出現するということは、子どものそれまでの人生で最大のイベントだったりするのです。
それをちゃんとわかってくれる家族のところに生まれてきたいと、神様の前で生まれる前の赤ちゃんたちが集まって、あみだくじでもやっているかもしれないと思うことがあります。
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共働きの子育てを成功させる考え方
「家で、母親の手で、朝から晩まで面倒をみてやらないのは悪いこと」
子どもをだれかに預けて仕事に出ている母親たちは、多少ともこうした罪の意識をもっているようです。
母親はとくに子どもにつくそうという気分になりがちで、それが自己犠牲にはまりこんでいく素地をつくりやすいのです。
でも、働きたいお母さんは、ここのところでくじけないでほしいと思います。
もし仕事に出たいのに子どものことを考えてあきらめたとすれば、子育てはひどく献身的、それでいて内面では嫌悪感をかかえたものになりかねません。
そうした親の葛藤が子どもにとってよいわけはありません。
そんなことを考えると、むしろ仕事に出たほうが、子どもにとっても親にとっても、ずっといいのではないかと思います。
親が生きがいを感じ、さっそうとしていれば、子どもにのしかかることもなく、かえって明るい子育てができるようになるはずです。
共働きをつづけるためには、どうしても「ずぶとさ」がいるのではないでしょうか。
それも、ただ「ずうずうしい」のではなく、
芯に自分の主張のようなものがしっかりとある必要があるでしょう。
働くお母さんは、子どもをかかえているからといって、責任のある仕事をさけたりせず、背水の陣をしいたほうが、けっきょくは強そうです。
そうなれば、子どもとのあいだも、いやおうなしに、あいまいな一体感から断ち切れて、ひとりの自立した人間として見なおす機会がえられるのでしょう。
また、共働きに不可欠な、男性の協力にしても、背水の陣をしいているひとは、一方的に損をさせられることが少なく、およそ平等に家事を分担するのに成功しているようです。
「子どもには子どもの人生があり、わたしにはわたしの人生がある」
少々子どもが病気しようと、大したことがなさそうなら、がまんさせたり、保育園に頼むという勇気も、そこからうまれてくるはずです。
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育児は「情」でするもの
まじめで神経質なお母さんほど、とかく外から入る知識や情報をかんべきに守ろうとするようです。
たとえば、授乳はお母さんの心臓の音を聞かせながらするのがいいと本に書いてあれば、左腕や肩がガチガチにこってしまっても左手で抱き続けますし、
赤ちゃんが泣き出したら手を握ってあやしてあげないと情緒不安定になると聞けば、一生懸命にスキンシップをしようとします。
でも、育児は「情」でするもの。
自分の感じることをもっと大事にしてほしい。
これは育児、幼児だけではなく、思春期・青年期の子供を教育する時にも同じです。

「きょうはずいぶんぐずるわね。
このところ外へ散歩に連れていっていないから、エネルギーを発散させたいのね」
というように感じとることが大切なのです。
母と子のふれあいやきずなが必要だからといって、一日に何時間抱かなくてはいけないなんていう育児は、どこか変だし、それではほんとうの母子関係は育ちません。
だいいち、人生って そんなにセオリーどおりにいくものでしょうか。
子どもが持って生まれた性格が千差万別であるように、お母さんの性格だっていろいろでしょう。
だから、それこそ千差万別の育て方があっていいわけです。
とにかくセオリーだけに頼らないで、自分の感性を大事に、そして信じてください。
あくまで自分と自分の子どもの関係なのですから。
けっきょく子育ては自分が思うようにやるのがいちばんなのかもいれません(放棄するという意味ではないですよ?)。
スパルタだろうと、甘やかそうと、放任しようと、科学的にやろうと、どれでもたいした問題はなさそうです。
ようするに、親が子どもに対して〝情″をもっているかどうか、子どものことを思っているかどうかが肝心なのです。
子どもだって、自分が親から信じられているんだと感じていれば、裏切れないものでしょう。
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心理療法の特徴
さまざまなストレスにさらされている子どもがここにいるとしたら、私たちは子どものことばに熱心に耳を傾けようとします。
子どもの気持ちを理解したいと真に望めば、子どものそばへ行ってしゃがみこみ、微笑みかけることが、言葉を越えたしぐさとしてごく自然に出てきます。
問いつめて聞き出すのではなく、結論など急がずに、子どもに寄り添うようにして子どもと同じことを感じようとするものです。
子どもの中には、社会生活の約束ごとを守れなかった子どももいます。
ものを盗んでしまったということもありますし、飲酒や喫煙や性の問題を打ち明けられたこともあります。
子どものそばにいるおとなとしてその場に居合わせたなら、そんなことをしてはいけないと言ってあげるべきだと思います。
心理療法の中でのつきあいは、世間一般のつきあいとちょっと違っています。
心理療法の大きな特徴は、守られた空間の中にいて、さまざまないきさつを含んだ今ここにいる自分を無条件にまるごと受け入れられ、さらに人間として対等な立場で自分の心に寄り添ってくれる人がいることを経験することにあります。
共有する空間と時間の中では、世間では「いけない」と善悪で判断されることが、同じようにとりざたされるということにはならないのです。
むしろそうなってしまった心の事情や、そのことで苦しんでいることに焦点をあてていくことによって、心の問題を解決し、心が元気を取り戻すように援助するものなのです。
子どもが「盗んだ」と話したとき、心理療法では「盗んだ」行為に注目するのではなく、盗むことになってしまった子どもの心の経緯に焦点をあてることがその役割であるといえます。
これはそれほどたいへんなことではなく、この子はどんなすばらしいものを持っているのだろうと探し出す楽しい作業でもあります。
彼らの行動の善悪を裁くことは目的ではありませんから、なぜそんなことをしてしまったのかをまず感じてみようとするのです。
欲しかったから盗んだのだろうか、ひょっとしたら寂しかったのかもしれないなどと子どもの気持ちをいっしょに感じてみる努力をするのです。
そして心理療法の中で話されたことを、あくまでも二人だけのものとして大切に守ることで子どもの気持ちは解放され、発散されていくのです。
子どもがあるがままを安心して振舞えると感じるようになれば、子どもはみずからの生き方を変えてみることに多くは抵抗がなくなります。
たとえどう変わろうと今と同じように、もしくは今以上に安心していられることを信じられるようになるからです。
子どもとの出会いから、子どもが本来持っている立ち直る力を信じて、ちょっと肩の荷を下ろしてやること、そして再びいっしょに背負ってやることが心理療法のなかで行われることなのです。
たしかに私たち自身の正義感や人生観から逸脱した話というものを聞かなければならないことも少なくありません。
もしそこでイライラしたり、腹が立つ自分を感じたなら、そのときは子どもの気持ちよりも、子どもの行為のほうに強い関心が向いてしまったということですから、心理療法として成立しないことを意味します。
相性が合わないというシグナルでもありますので、誰かと代わってもらう決断をするのが心理療法にかかわる者の良心と言えるでしょう。
ちょっと厳しい世界でもありますが、これは心理療法を通して自分自身をちゃんと理解してくれる人に出会ったなら、それだけで社会に適応する準備が整っていくものだからなのです。
人は理解しようと努力してくれる人がいるだけで、心が元気になっていきます。
それは心理療法という枠の中だけのことではありません。
カテゴリー:子育て
子どもの資質に合った子育てをしなければいけない
「同じように育てたつもりなのに、どうしてこの子だけが病気になってしまったのでしょう」ということはよくあることです。
子どもがSOSを出すとき、それがお父さんやお母さんの育て方にばかり問題があったとは断言できません。
育て方に問題があったとすれば、きょうだいみな同じようにSOSを出すはずなのにそうとは限らないからです。
このことは子どもがもって生まれた感じ方に違いがあるからだということを示しています。
M君は頭の後ろのほうに丸いはげができてしまいました。
皮膚科を受診したところ円形脱毛症と診断されました。
その原因にストレスが多いと聞いて、お父さんやお母さんはびっくりしてしまいました。
すぐにはストレスになりそうなものが思い浮かばなかったからです。
お父さんやお母さんは、M君とお姉さんは同じように育てたつもりなのにどうしてM君だけがこんなことになったのかと悩んでいます。
お姉さんは部屋のかたづけも勉強もあまり好きではありません。
自分からやろうとするよりは、「やりなさい!」と言われてからやりはじめます。
最近は強いはげましや激励が意欲を刺激したのか、成績も少し伸びて勉強にも意欲的になってきています。
しかしM君は叱られると、それがちょっと気になるのか落ち込んでしまうことがあります。
それに自分のペースでやらないと万事納得できない性格です。
もうすぐ中学だからとちょっと厳しくなった両親の叱咤激励は彼にとって毛が抜けるほどのストレスになっていたのです。
お姉さんには「○○しなさい」が合っていたのかもしれないのですが、M君には「自分でやってみなさい」と動き出すまで待つ対応が必要だったのです。
きょうだいを同じように叱っているつもりなのに、切り替えが上手な子がいるかと思うと、いつまでも気にしてしまう子がいたりします。
上の子はこの叱り方が効果的だったけれど、弟にはかえって傷つける結果になってしまうことだってあるということを知っていると、
子どものもって生まれたものを客観的に見抜くゆとりが生まれますから、大切なキーポイントを逃さずに済みます。
子どもが持って生まれたものはいっしょなのに、あえて期待するものが異なるために性格や行動が影響を受けることもあります。
一卵性双生児は遺伝的にはまったく同じものを受け継いで生まれてきます。
ところが一卵生双生児であっても「この子が長男の○夫で、こっちが次男の△夫よ」とあえて、おにいちゃんと弟に役割を設定することがあります。
不思議なことにおにいちゃんということになった子はいつの間にか典型的な長男的性格、比較的慎重でむちゃはしない子になり、弟と設定された子はやんちゃないたずらっこで、おにいちゃんを頼っていたりすることがあります。
遺伝的には同一なのに、周囲が期待するものの違いによって、子どもの性格が影響を受けているのです。
顔も身体つきも区別がつきにくいほどよく似ていたのに、やがて表情や顔つきにだんだん差が出てくることもあります。
年齢を経ていくうちに明らかに別の顔へ変化していくことも珍しくありません。
一人の人間が別の人生を歩むとどうなるのかを示しているようで、生まれたときの無限の可能性をどう生きるかで容貌まで変わっていくことを知るのです。
このことは言い換えると、
生まれたときに持ち合わせたものを親の育て方や、それに影響を受けた生き方によって人生が変わってしまうこともあるということでつくづく考えさせられてしまいます。
子どもが必要としているものに答えようとする柔軟な感性を身につけることも親の役割なのかもしれません。
ときには潔く
「これまでのお母さんのやりかたは、ちょっとあなたに合わなかったみたい……」これからはあなたにあったやり方を探すからねと子どもに伝えられる、
そんなお母さんやお父さんはすごいと思っています。
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親が変われば子どもも変わる
愛と憎しみの感情はそれぞれ遠くかけ離れているようにみえますが、
関心無関心の次元でとらえるとどちらも強い関心があるという点でほんとうはとても近い存在なのです。
「かわいさあまって憎さ一〇〇倍」というように、
かわいいと思い、相手のために自分の気持ちを精いっぱい込めても、相手がそれに答えてくれないとき、それは怒りとなって向かったり、相手を突き放す行為に出たりすることがあります。
愛がなければ憎しみもわくはずがなく、愛と憎しみはいつも隣合わせにあります。
いちばん遠いところにあるのが無関心という気持ちが向かない心のありようであることに気がつきます。
子どもをかわいいと思う気持ちがちょっとずれてしまうとそこには
「あなたなんか嫌いよ」「うちの子じゃない、出ていけ」
と、心を切り刻むことばとなって出てきてしまいます。
拒否的になっているとき、親の心の片隅に、子どもを傷つけている後ろめたさがほんの少し宿り始めるものだというのは、あまり知られてはいません。
驚いたことに拒否と溺愛は裏表の関係にあることが多いのです。
ジロウ君は小学二年生です。成績はあまりよくありません。
やればできそうなのだけれど勉強が嫌いなのです。
家ではファミコンばかりやってます。
ジロウ君は新しいファミコンカセットを買ってくれと次々に要求してきます。
夜中にコンビニで漫画を買いたいと言い出したときも、結局は彼の要求通りに応じてしまいます。
それに心配なのはジロウ君は外に遊びに行きたがらないことです。
お父さんは新しいファミコンカセットがあればおともだちが家に遊びに来てくれるかもしれないと買い与えました。
たしかに友だちが遊びに来るのですが、ジロウ君が自分のやり方を押し通そうとしたりするので、友だちはやっぱりうんざりしてしまいます。
お母さんはなんでも要求通りに与えてしまうのはあまりよくないことだとわかってはいるのですが、漫画やおもちゃがないと友だちが遊びに来てくれないなどと言われると、家計をやりくりして買い与えてしまいます。
ジロウ君は三歳のとき小児喘息になって以来、大きな発作を繰り返していました。
五歳のときは一年間遠くの病院に入院しなければなりませんでしたし、お父さんやお母さんは体力的にも経済的にも、とてもたいへんだったといいます。
発作に苦しむ姿を見てかわいそうだと、ついわがままと思いながらもおもちゃを欲しがるままに買い与えたりすることがありました。
そうかと思うと徹夜の看病が続いて疲れきってしまったとき、
この子がいるばかりになんてたいへんなんだろういう気持ちが心をよぎったりして邪見に扱ったこともあったといいます。
すぐにかわいそうにとふびんに思い、そしてジロウ君がいないはうがいいという気持ちがよぎったことに後ろめたいものを感じたとお母さんは話してくれました。
最近は発作もだいぶおさまって元気になってきています。
あんなにつらい思いをさせてしまったのは健康に産んでやらなかったからだというお母さんの気持ちと、ときどき心をよぎったこの子がいるばかりにという投げ出したくなった気持ちの後ろめたさが、
どこかでジロウ君の物を欲しがることに毅然と対応できないことにつながってしまっているようにみえました。
がまんすることをあまり経験しないで育ったジロウ君は、友だち関係もぎくしゃくしていましたが、本人はなぜそうなるのかがわからず、友だちの関心をひこうとファミコンカセットや漫画をすぐにあげようとします。
まさしくお父さんやお母さんがジロウ君にしていることを友人関係の中で再現しているのでした。
ジロウ君のお父さんやお母さんは毅然とした態度がとれない自分たちの気持ちの裏側に気づいて相談にやってきましたが、知らないうちに親の気持ちの揺らぎにはまり込んで、大切なものを失って行く子どももいるのです。
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子どもをまるごと受け入れる
社会と堂々と渡り合い、自己主張しながら生きていくことがどうしてこんなに下手なんだろうと考えるとき、
親とのかかわりの中に、子どもは自分に自信が持てずに、周囲と生き生きかかわろうとする意欲を失っていく根が潜んでいることに気づきます。
子どもが一〇〇点取ったテストをお母さんに見せたとき、
「あら、珍しいこと。雨が降るかもしれない」
とひやかしたり、
「おまえが一〇〇点取るくらいだったら、他の子も一〇〇点だったんじゃないのか?」
とけなしたりするお父さんがいたりします。
お母さんやお父さんの本音をのぞいてみれば、
「一〇〇点か、よくやったのね」
とにんまりしていたり、
「他の子なんかに負けないでまた一〇〇点取ってこいよ。本当はすごく期待してるんだぞ」
と優秀なわが子が次々とよい成績を取ってくることを思い描いていたりします。
しかし子どもは一〇〇点とれない自分はお父さんにとって望まれていないと感じるか、反抗する気持ちをつのらせていくかもしれません。
こんなとき、子どもは親がほんとうは喜んでいるはずだという確信は持てないことのほうが多く、どうしたらお母さんやお父さんに受け入れてもらえるのかと戸惑うのです。
ときには親が子どもの存在を望んでいないとはっきり伝え続けたために、よりどころを求めてしがみつこうとすることもあります。
フユコちゃんの場合、三歳では子どもへの心理療法はまだ難しいので、お母さんとの面接が中心です。
フユコちゃんは最近お母さんにひどく甘えるようになり、ぐずぐず言うことが多くなりました。
それまでは一人でできることも多かったし、保育園でもしっかり者のフユコちゃんは他の子のめんどうをみるほどだったのに、とうとう保育園にも通えなくなってしまったのでした。
お母さんはフユコちゃんが生まれてからは仕事を止めていました。
やっと仕事に復帰することになったのに、これでは仕事を続けられません。
何とか今までのようにしっかりしてほしいと鍛えるつもりで、今まで以上に叩いたり、 「ちゃんとしない子は嫌いよ」と言うのですが、かえって状態は悪くなるばかりでした。
私は困りはてたお母さんの相談のったところ、お母さんに、
「フユコちゃんをどのように育ててきたか教えてください」
と言うと、
「早く仕事に戻りたいと思っていましたから、甘やかさないように気をつけました。
一人でやれるのにやらないときは『おまえなんかうちにはいらない』と言って夜ベランダに出すこともあります。
子どもは厳しく育てないといけないと思っていますから」
お母さんはどうやらかなり厳しいようなのですが、それより気になるのは、フユコちゃんを鍛えたいという気持ちばかりではないように思えることです。
フユコちゃんの話をするとき、いやに冷たい響きがするので、フユコちゃんの存在がうとましいと思っているのではないかと感じたのです。
お母さんとフユコちゃんがいっしょにやってきたとき、フユコちゃんはお母さんのスカートのはしをしっかり握っていますが、ほんとうほお母さんと手をつなぎたいのがわかります。
でもお母さんは気づかないふりをしています。
そのうちその手を振り払ってしまいました。
そしてフエコちゃんの前で、
「この子はお父さんに似ちゃったから、ブスなんです。生まれたときはもう少しましだったんだけど」
と言いだしました。
「お母さんはフユコちゃんが嫌いなのですか」
とはっきりとたずねてみました。
子どもをかわいいと思いながらも、子どもの要求に無関心であったり、欠点ばかりが目につくことがあります。
心が健康なおとなであっても、突然自分の生活に飛び込んできた子どもとの生活に疲れてしまうことはとてもよくあることだからです。
お母さんははっと顔をあげた途端、目には涙があふれていました。
フユコちゃんはお母さんにとっては姑にあたるフユコちゃんのおばあちゃんに顔も性格もとてもよく似ているのだそうです。
お母さんはおばあちゃんと折り合いが悪くずっと苦労してきたのでした。
そうしたうっ積した気持ちがフユコちゃんに向かい、ときには顔を見ただけでイライラするほど拒否的になっていたのでした。
フユコちゃんは特別な例ではありません。
親子と言えども相性がいいとか悪いといった程度のことは、どこにでもあることです。
大切なのはそのことに目を背けず、どういうつきあいをすればいいのかを前向きに考えるということです。
家族関係の歪みの結果だけではなく、子どもへの愛情を素直に表現できない照れをそのまま子どもにぶつけたり、
親子だからわかっているはずという甘えから、子どもへの気持ちとは反対の行動に出てしまうことがあります。
子どもをほんとうはかわいいと思っているという裏の気持ちが伝わることは少なく、子どもは自分は親にとって大切な存在ではないと思い込み育っていきます。
フユコちゃんの心の中には、大好きなお母さんからつきはなされているという不安がいつもあったことでしょぅ。
不安で張り詰めていたら、子どもの心の体力が弱まったとき、限界がやってきます。
フユコちゃんは三歳でプッツンと糸が切れましたが、大きくなってから限界に気づくと、家族みんながもっと苦しむことになることがあります。
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過保護、過干渉では耐える力は身につかない
過保護とか過干渉とか、最近よく耳にしますが、いったいどういう意味かとたずねると、明確な答えは返ってこないことが多いようです。
甘やかしてるとか、かまいすぎていると感じることを表現しているのですが、では何が甘やかしで、何がかまいすぎなのかというと、みんなが暖味なところで納得しているように感じています。
やっとそろそろ離乳食が始まったくらいの赤ちゃんの側にいて、フーフー冷ましながらスプーンで食べさせてあげている光景はほのぼのとしていますね。
しかし小学生の子どもにスプーンで食事を食べさせているのを見たときはどうでしょう。
ちょっと違って何だかおかしいと感じるものです。
もう一人で食べられるのに過保護なんじゃないのと言いたくなります。
中学生の子どもに、「忘れものはない?」と声をかけるとき、
子どもは、「なんて口うるさい親なんだ、過干渉なんだ」と内心うんざりしているかもしれません。
なぜうるさいと感じるかというと、自分の持ち物は自分で管理できるし、たとえ忘れものをしたとしても自分で責任をとれると思っているからです。
こうしてみると過保護か過干渉かの判断は、子どもができることにまで口や手を出しているのか、できないから手伝っているのかということに関係ありそうだということがわかります。
親が子どものできないことを支えてやるのは親として当然なことですが、できることに対して、できるはずがないと決めつけたり、
本当にできるのかしらと疑ったりして介入してしまうとちょっとした問題が起こってしまいます。
喉が渇いたと感じたとき、すぐに冷たいジュースがコップにそそがれて与えられる生活をしている子どもと、
自分で冷蔵庫を開けて麦茶を出して、自分でコップに注いで飲む生活をしている子どもがいるとしたなら、どちらが耐える力が育っているかというと言うまでもありません。
自分で喉の渇きをいやすために麦茶をさがすことがあたりまえになっているなら、少なくとも喉が渇いているときにジュースがないからといって、イライラしたりすることはありませんし、
お母さんがコップに入れてくれないからといって、泣きわめいたりストレスを感じる心配はないでしょう。
自分が考えたり、努力しなくても親が代わりにやってくれるのであれば、子どもは自分でやる方法が身につきませんし、一人でできるという自信も育ちません。
子どもは小さな欲求不満を何度も乗り越えた経験をすることによって、高いハードルを乗り越える準備が整っていくものなのです。
見渡せば、あれやこれやと子どもにまとわりついていたいという親の気持ちが、親がいなければ何もできないという期待通り(?)の子どもにしてしまうことがあります。
がまんさせる経験を積むことが心の健康の為に大切
人間は他の動物といろいろなところが違っています。
その一つは赤ちゃんに始まります。
仔馬や仔牛の赤ちゃんは生まれてまもなく立ち�Tがり、おぼつかないながら母親の後について歩くことさえできます。
よく見ると身体は小さくてもおとなの身体に近い体型をしていて、まるでお母さんやお父さんの縮小コピーみたいです。
馬や牛のような草食動物は、生まれてすぐに群れの他の仲間といっしょに行動できなければ、肉食動物に食べられてしまう危険があるからだともいわれています。
比べてみれば人間は立って歩くどころか、一人では何もできない状態で生まれてきます。
身体の割には頭が大きく、おとなの体型とはずいぶん違っています。
それは生まれたときに、まだ目もあかない未熟な状態で生まれる犬や猫などの動物の誕生と共通したものがあります。
しかし、たいがい一人で生まれてくる人間と比べると、ほとんどは数匹いっしょに生まれていますので、やはり少し違います。
ボルトマンという人は、人間は牛や馬の赤ちゃんよりちょっと早くお母さんのお腹から出てくると考えれば説明がつくということから、これを「生理的早産」と呼びました。
牛や馬のように、生まれてすぐに歩けるくらいまで母胎の中で成長していれば、ずいぶん育てやすいことでしょう。
無防備ですべてを与えねばならない時期を、守られた母親の中で過ごすにこしたことはありません。
お母さんたちに、「一歳になるまでお腹で育てればよかったのにね」と言ったら、たいていは、
「とんでもない、大きくなりすぎてたいへん!」と答えることでしょう。
生理的早産のわけはそこにあります。
大脳が発達した人間は頭が大きくなりました。
一〇ヵ月以上お腹の中にいたならば、頭が大きくなりすぎて出産が難しくなります。
こうしたわけで人間は一人ではなにもできない存在として未熟な状態のまま生まれてくることになったのです。
本来はお腹の中で過ごすはずだった時期を外で過ごすことで、とても早いうちにさまざまな刺激を受けることになりました。
このことがますます人間を他の動物とは違うものにしていきました。
かつて、生まれて早い時期にオオカミにさらわれて育てられた子どもが見つかったことがありました。
話しかけられたり、周囲のまねをしながら人間らしさを身につけていく時期にオオカミに育てられたのです。
推定年齢が一歳半と八歳で発見されたのですが、ことばは言 まえずオオカミのような恥える声を出していました。
生肉しか食べず、二本足で歩かず、服を着ることを嫌がりました。
八歳の子どもはその後九年間生きていましたが、周囲の努力にもかかわらずその発達は三歳レベルまでしか伸びなかったことが報告されています。
オオカミとの生活は、幼い子どもが人間として生きていくにはかなりの障壁を与えてしまったわけですが、ここまで人間社会から隔絶されたならばともかく、一般には人間は幼い頃の学習や記憶が、将来のすべてを決定してしまうほど単純ではありません。
新たな情報を集めることも、それによって行動を変えることも、みずからの意志と気力によって補うことができます。
発達は身体が大きくなる狭い時期を意味するのではなく、生涯にわたっての心身の変化を意味し、人間は変わり続けるものだからです。
生まれてからの早い時期に周囲から与え続けられたメッセージは、心に深く根付いてしまうこともあり、それを修復するためにはそれまで生きてきたエネルギーの何倍も必要になることがあります。
「三つ子の魂、一〇〇までも」とのことわざは、できれば幼いうちから身につけさせるほうがいい、苦労せず心が幸せになれるという先人の戒めではないかと思っています。
一人では移動すらできないその時期に、お母さんやお父さんは育てるためにさまざまな働きかけをします。
子どもはそれに反応し、さまざまなやり取りが繰り返されていきますが、早く生まれた時期が人間らしく成長する基礎となるからです。
幼さにほどほどの耐える経験は、子どもにとって苦痛というよりは挑戦できる経験でもあります。
こうして、耐える力を早い時期から育てていくと、子どもは楽しんで耐えることを身につけていきます。
子どもができるがまんを見つけて、ちょっとはがまんしてみる経験を大切にしていきたいものです。
きっと心の体力がついて、生涯にわたって心が健康になることでしょう。
カテゴリー:子育て
「がんばれ」ではがんばれない子がいる
最近は心理的ストレスが人間の身体にさまざまな影響を与えるということが衆知の事実となってきています。
身体と心を分けて病気を考えるのではなく、それぞれ大いに関係し合っているということは多くの研究が証明しています。
そうした目で子どもを見ると、子どもはもっと身体と心が分かれていないことに気づきます。
おとなは心配なことがあって胸のあたりがもやもやしていれば、心理的原因があってなんとなく重苦しい気分を味わっているのだと見当をつけることができます。
とても後悔することがあって、胸がちくちくするような痛みが続いても、失恋のときのきゅんとしたしめつけられるような感じがするときも、多くは病院に駆け込むことはなく、気持ちとのかかわりについて納得していることが多いものです。
ところが子どもの場合は、心のありようによって変わる身体の感じは、そのまま身体の痛みとして表すのです。
さまざまな医学的検査をして、彼らの痛みの重大な問題が見つからなかったときは「心が痛い」と訴えているときなのだと理解しておく必要があります。
このようなとき、子どもたちを励まそうと、「がんばれ」ということばを聞くことがあります。
「がんばれ」ということばは、「おはよう」のあいさつと同じくらい気軽にみんなの口から出てきます。
でも「がんばれ」ではがんばれない子どももいるのです。
このようなとき、
「検査してみたけれど、どこも悪くないよ。だからがんばりなさい」
と病院で言われ、その報告を聞いた学校の先生が、
「たるんでいるだけだ。しっかりしろ」「がんばりなさい」
などということは本当によくある話なのです。
これは病院でボディーブローを入れられて、学校でだめ押しのアッパーカットがきまるようなものです。
そしてとうとうダウンしてしまった子どもたちにときどき出会うのです。
そうした子どもの多くは、心の中でがんばってきたけど駄目だったんだ、これ以上しっかりなんてできないと叫んでいることが多いのです。
病院で起立性調節障害と診断された中学二年生のL子さんは、授業中に気分が悪くなって、保健室で休むことが多いのです。
起立性調節障害とは児童期から思春期の子どもたちにときどき見られる病気です。
朝なかなか起きれなかったり、めまいを起こしたり、動惇息切れがして疲れやすいなどの症状があり、学校生活に支障をきたすこともあります。
しかしこれらの症状はたいてい成長とともに消えていくと言われています。
L子さんは主治医の先生からきついときは無理をしないで休むように言われているのですが、身体も大柄で健康そうに見えるためか、担任から、
「病院で休むように言われても起立性調節障害という病気はやる気があれば克服できるのだから、休まないように」
と言われてしまいました。
ずる休みだと思われていると感じたL子さんは、そのことがつらくて心因性の発熱を繰り返すようになってしまったのです。
今、苦しいと感じている子どもに、苦しくないはずだといったところでますます彼らの自信を喪失させるだけです。
何も解決しない空回りは鈍感な人間の根性論です。
誠実に子どもの気持ちを理解しょうとしたら、はげましをもとめているのか、今のつらさを受け止めてほしいと思っているかぐらいは判断がつくはずなのです。
医学的検査に特に重大な問題が見つからなかったという報告を受けたなら、
「よかったね。悪い病気じゃなかったんだね。痛くてもできることがあるか、いっしょに考えてみよう」
と彼らの身体の苦しさをちゃんと受け止めるゆとりと、彼らの力になりたいおとなとしてそばにいることを伝える努力をしてほしいものです。
朝、学校へ登校するまえに、「今日もがんばってね」と声をかけるお母さんにL子さんは、「お母さん、『がんばって』とは言わないで」と頼みました。
「ただ、『いってらっしゃい』でいい。これ以上がんばるのはちょっとつらいから」
すべてを察したお母さんは、「いってらっしゃい」と送りだしたのでした。
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子供の目の高さで接する
子どもがストレスによるさまざまな症状に苦しんでいるとき、
おとなの目の高さではなく、子どもの目の高さで周囲を見てみることも大切です。
アキコちゃんは最近微熱が続いています。
小学四年生になってからのことです。
学校では明るく振舞っているようですが、家では大好きな漫画を描くこともしなくなり、元気がなくなってしまいました。
小児科を受診したところ、いろいろな検査の結果からストレスが原因かもしれないと言われたのです。
心理療法を受けるように勧められてお母さんといっしょにやってきました。
子どもの心理療法は、自分のことをことばを通して十分に語れず、問題点を明らかにすることが難しいために、一般に遊戯療法や箱庭療法といったことばを媒介にしない方法が多いのです。
また家族、とくにお母さんやお父さんから話を聞いたり、はたらきかけたりします。
アキコちゃんも家族のこと、学校のことを話してくれましたが、熱がでるほどのことについてはよくわからないと言います。
次にお母さんの話を聞きました。
「アキコが心の病気になるなんて……。そんな弱い子に育てたつもりはないのですが」
お母さんはストレスによって身体に症状が出たことを受け入れられずとり乱していました。
お母さんの動揺を受け入れ、そして心身症になったからといってそれが弱い子を意味するものではないことを時間をかけて話しました。
そして少し安心したのか、
「アキコは小さい頃からがまんをする子だったんです。何かをまたがまんしているのかもしれませんね」
と冷静に今の状況を考えることができるようになりました。
発熱を繰り返すようになってからのアキコちゃんの様子について、担任の先生とも話し合うことを勧めました。
お母さんはさっそく学校を訪ねました。
その結果、最近アキコちゃんの隣の席の男の子が、アキコちゃんの教科書をかくしたり、つっついたりなどいろいろといたずらをしているらしいということがわかったのです。
お母さんは事情を担任の先生に説明しました。
担任の先生はさりげなく席替えをするなどの配慮をしてくれました。
それからアキコちゃんは少しずつ明るさを取り戻し、半年後にはほとんど発熱することもなくなりました。
お母さんは、「自分の気持ちを言えずにつらかったでしょうね」とアキコちゃんの気持ちに共感できるまでになりました。
このように、困った状況を解決したり、ときには環境をかえたりすることで、いろいろな問題があっさりかたづくことがあります。
子どもの場合、自分で問題をはっきりさせて周囲にはたらきかけたりすることができないことのほうが多いわけですから、可能な環境調整は配慮してあげたいものです。
そのためにも子どもの目の高さで子どもの周囲を見直してみることも必要です。
そうは言っても、世の中ままならぬことが多いのは子どもの世界も同じこと、やはりある程度耐える力を身につけておくことも必要になってきます。
子どもの気持ちに共感できるようになると、子どもにとっていま何が必要なのかに気づきやすくなります。
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子どもをしつけるには、叱らず、引き下がらず
親は子どもをしつけることをときどき諦めても、子どもは親をしつけることは絶対諦めません。
気がついてみると子どもにしつけられていたということはよくあることです。
お菓子売り場の床でジタバタと泣きわめき、親を脅迫し続けている子は何度かお母さんに粘り勝ちした経験の持ち主なのです。
学習心理学に、ねずみを使った部分強化の実験があります。
お腹のすいた三匹のねずみをそれぞれ三つの箱に入れます。
箱にはレバーがついていて、それぞれはレバーに触っても「何も出ない」箱と、
レバーに触ると餌がぽろりと転がり出てくる「押すと出る」箱、
レバーに何回か触ってやっと餌が出てくる「たまに出る」箱になっているのです。
狭い箱に閉じ込められたねずみたちは、やがて尻尾の先か足の先かが偶然にもレバーを動かしてしまいます。
そうしているうちに餌が「押すと出る」と「たまに出る」箱に入っているねずみたちはレバーを動かして餌にせっせとありつくことをしっかり覚えるのです。
レバーと餌の関係に夢中になった頃、餌を止めてしまいます。
そうするとどうなるでしょう。
もちろんレバーを足でいくら押しても「何も出ない」箱に入ったねずみはなにもかわりません。
ところがいちど味をしめたねずみたちはそうはいきません。
何度もレバーを真剣に押し続けるのでした。
そうした二匹を観察すると意外にも「押すと出る」を経験したねずみはもう出なくなったんだと割に早く諦めるのです。
ところが押すと「たまに出る」を知ってしまったねずみは出ないときを経験済みですから、きっとまた出てくるに違いないと、めったなことでは諦めずにレバーにしがみつくのでした。
外から眺めている人間は「ハハハ…」と笑ってみているわけですが、ふと気がつけばわが身に思い当たることが多くてその笑いは凍りついてしまいます。
これは「今日こそは出るかもしれない」と餌ならぬパチンコ玉へのこだわりそのものだからです。
ついつい通いつめてしまうその気持ちは今のねずみの気持ちと同じものなのです。
およそギャンブルといわれるものの醍醐味は、たまにしか得られない餌ならぬお金のその不確実性にあるといえるでしょぅ。
今日は駄目でもあすは夢がかなうかもしれないと思わせてくれる、それが継続への情熱となっているのです。
ギャンブルはおとなのもののようで、実は子どもたちにとっても魅力的らしく、けっこうはまっている子どももたくさんいます。
「この子は私の言うことをきかなくて……本当に困っているんです」
という悩みは多いものですが、この「言うことをきかない」の中にはいろいろあるにしても、子どもがひょっとしてギャンブルにはまり込んでいるかもしれないと言ったら、驚くかもしれません。
ギャンブルというのは、いちかばちか、伸るか反るかといったところで、うまくいくかいかないのかそのスリルをあじわいながらやってみるというものです。
しかもまともな人間がすることではないといった思い込みもありますから、まさかうちの子がと驚くかもしれません。
でもやっている側からすればうまくいったら大儲け、だめなら次で取りかえすという醍醐味がおもしろくてやめられないもののようです。
一応は「だめ」と言ってみるお父さんやお母さんがいます。
「今日はテレビを一〇時までみていい?」
とたずねられると、
「だめ、遅くまでテレビ見ていると朝起きれないでしょう」
といいます。
それでも、
「お母さん、お願い、いいでしょう」
としつこく迫られると、
「しょうがないわねえ、今日だけよ」
ということになります。
子どもの立場からするとどうせ駄目かもしれないと思いながらも、許されることもあるというギャンブル性の高い経験をすると、やがて深みにはまっていきます。
テレビに執着する子どもというよりも、子どもにねだられると結局根負けしてしまう親の姿がそこにあります。
私たちは「叱らないで、だけど引き下がらないで」ということがとても大切だと思っているのは、心理学を通して先ほどのねずみたち実験結果があるからです。
子どもがぐずぐずとねだるのは、お母さんの叱り方の迫力が足りないためではなく、ひょっとしたら今日は許してくれるかもしれないと期待を抱かせる、これまでのいきさつにあるということを知っているのです。
お母さんがやさしくにっこりと「だめよ」と言っても、お母さんの「だめ」はいくら頼んでもいつも駄目なら、子どもはレバーを押しても餌の出ない箱に入っていたねずみのようにレバーにこだわったりはしないのです。
「しょうがないわねえ、今度だけよ」
とたまに大穴を当ててしまうと、なかなか足を洗えない世界にのめりこんでいってしまうのです。
そんなレバーにしがみつく子どもはとても増えてきているこの頃です。
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不登校によって不利益を受けない配慮をする
子どもが不登校になったとき、お父さんやお母さんがもっとも不安を訴えることは、学校を休んでいると進級や卒業ができないのではないかということです。
タロウ君も小学四年生の三学期から休みはじめました。
五年生になってもなかなか登校できずにいた頃に
「このままだと六年生になれないし、卒業もできない。除籍する」
と言われたことがあります。
お父さんやお母さんはタロウ君が学校へ行けなくなったとき、身体的病気がないと診断されて、心理的理由によって登校できないという現実を受け入れられずにずいぶん苦しんだのです。
タロウ君を叱ったり、無視したり、
「お願いだから学校に行ってちょうだい」
と頼み込んだりすることもありました。
やっとタロウ君のつらい気持ちがわかりかけ、タロウ君にとって家が安心できる場所となったとき学校から「除籍する」といってきたのです。
お父さんやお母さんは再び混乱し、動揺してしまいました。
ゆっくり待つ時間がないと言われたのと同じだったからです。
困ったことにこうしたトラブルの多くは、子どもに対して、
「たいへんだ、このままさぼっていたら学校を卒業できなくなってしまう」
とあわてて学校へ登校し始めることを期待し、脅しの意味もこめて宣告されていることから生まれているのです。
その結果、親は無理に登校させようとして、親子の関係までが修復できないほど破綻してしまうこともあります。
こうした焦りはお母さんやお父さんの心のバランスを崩し不安に陥れてしまいます。
子ども以上にお父さんやお母さんが揺れてしまうことはよく経験することです。
これまでもこうしたはたらきかけの結果として登校するようになった例は経験していません。
いわゆる家でファミコンやっていたいから休むとか、怠けていたいから学校へ行かないことと根本的に違うことを知ったなら、安直な方法に頼るのはやめたほうがいいのです。
最近は小学校、中学校の義務教育では子どもが将来、卒業していないことからこうむる不利益から守ってやらなければならないという考えが主流になってきています。
中学を卒業していなかったばかりに、おとなになって勉強したくなったのに、高校や専門学校への道を閉ざされることになってしまうなら、それは再起としての一つの選択を奪い取ってしまうことになりかねないからです。
義務教育の間は学校長の裁量で進級や卒業をさせる配慮がなされるようになってきています。
私たちも小学校や中学校で本人がもう一度同じ学年をやりたいと希望した以外は、これまで不登校により進級や卒業できなかった例は経験していません。
もちろん高校や大学ではちょっと事情が違ってきます。
義務教育を終えた以上、自分が勉強するという意志をもって入学するところだからです。
高校に入学したもののやっぱり登校できなくなることもあります。
励ましてもそれが問題の解決にならないのなら、もうちょっと後ろにさがって眺めてみるのも悪くはありません。
一五の春に中学を卒業したからといって、一人の春に高校を卒業することにこだわらなければ、もっと自分らしい生き方をゆっくり考えることができるのになあとしみじみと思うことがあります。
現に一八の春にこだわらずに自分の夢を実現している子どももたくさんいるからです。
もし勉強は学校に行っている間だけと狭い了見に縛られるなら、やっぱり「人並」にこだわらざるをえないかもしれませんが、それでは人生ちょっと寂しいものです。
現に長いこと学校に行っていなかったけれど、とても勉強したくなったからと勉強を始め、大学へ進学した子どももいますし、
二〇以上の仕事を転々としながら、自分にあった仕事を見つけることができて、生き生き働いている姿に接することもあります。
漫然と「人並」に進学しても、いつも生き生きした心が気持ちいい生活がおくれるものかと考えると、今の自分に正直な生き方の応援も悪くないなと感じるときがあります。
子どもの発達する環境を保障すること、それは不登校によってこうむるダメージをできるだけ少なくしてあげることであり、
進級ができなければますます学校に登校するチャンスを失うであろうということをふまえて、将来の可能性を保障してあげることが今できる最良のことである場合もあるのです。-----
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学校へ行けなくなってしまった子どもを特別扱いしない
学校へ行けなくなってしまった子どもは自分を恥ずかしい存在と思い込んでいることが多いのですが、
これは現代社会が価値があると評価していることに添っていないと感じているということです。
つまり学校の成績がよく、学歴も高く、明るくて友だちにも信頼されるなどということからは程遠いことをしているのだから自分はだめな人間なんだと思い込んでしまっているのです。
たしかに、これほど不登校が問題になる風潮の中には学校に行っていなければ何もできないし、始まらないという思いがあるからでしょう。
学校へ行くことはたくさんある生き方の選択肢にすぎないとしたら、こうまで社会問題として取り上げられることはなかったはずです。
子どもたちは学校へ行けなくなったことで社会から受け入れられなくなったと感じ、自分自身を否定し続けることが多いのです。
しかし成績がいいとかいい大学を出たといったことが人それぞれの心の幸福に結び付くのかというと、必ずしもそうではありません。
心理療法に携わる方たちは、今を自分らしく生きていると感じ、今日も幸せなときを多く過ごせたと感じることができるということが、
学歴だとか社会的地位によって得られるものではないことを、日々の仕事を通してたくさん経験しています。
子どもたちにはいわゆる世間の言う「ふつうじゃない」や「ふつう以下」が価値がないのではなく、
自分にとって幸せなものを知り、心の幸せが続く生き方に気づいてほしいと願っています。
こうして考えると、登校していようといまいと、
そのことで子どもへの気持ちが変わるものではないというつきあい方になってくることでしょう。
学校へ行かないことを責めたり、学校へ行ったことを極端に喜んだりということもなく、子どもがどんな生き方を選ぶのかをエールをおくりながら、ながめるようになるのではないでしょうか。
タロウ君が六年生の二学期になって一年以上も行っていなかった学校へ行き始めました。
とはいうものの三時間目が始まる頃、お母さんといっしょに教室へ行き、給食を食べずに帰ってくるので、教室で過ごすのは二時間だけでした。
担任の先生はあたかも昨日まで風邪で休んでいた子が、今日は治ったので登校してきたぐらいに淡々と接してくれました。
「よく来たね」「よかった」「がんばろう」などとはおくびにも出さなかったのです。
先生がその調子ですから、友だちも特別に扱ったりはしません。
心地よい程度の無視と、そこにいるのがあたりまえという雰囲気に自然にクラスになじんでしまいました。
先生はさりげなくタロウ君が学校にいる三、四時間目に毎日国語と算数の授業をするという配慮をしてくれましたので、タロウ君は国語と算数の勉強について行けるようになり、自信もついてきました。
やがて給食をみんなといっしょに食べ、午後の授業にも参加することができるようになっていきました。
無事小学校を卒業して中学に入学した今では、遅くまで部活に忙しい毎日を送っています。
タロウ君が自分のやり方で学校に戻ったのは、
お父さんやお母さんが、タロウ君が学校へ行きさえすればすべてが解決するなどと短絡的に考えず、自分で選び取った「学校へ行く」気持ちを大切にできたからです。
それだけではなく担任の先生が、タロウ君の不登校を責めたり、学校へ来たことを派手に喜んだりせず、日常のできごととして受け入れたことが学校への抵抗感を減らしてくれたのでした。
みんなが特別な子ども、問題のある子どもととらえなかったからということがとても大きな理由だったのです。
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子供の「耐える力」を育てるには
がまんさせるだけではだめ
子どものストレスが増えている一方で、ストレスに耐える力が弱くなっていることにも気づきます。
世の中ままならぬことが多いのは、子どもの世界でも同じことです。
そこである程度ままならぬことに耐える力を身につけておくことが必要になるのです。
子どもを育てているときに誰もが、子どもにはさまざまな困難に打ち勝ってよい人生が歩めるようにと願うものです。
そのためにはストレスに耐える力を育てなければなりません。
しかしそれはがまんさせるだけ、つまり耐える経験をたくさんするだけでは育たないのです。
子どもにとっては、とても魅力的なお菓子やおもちゃが常に目のつくところに並べられています。
いっしょにスーパーやデパートに行けば、子どもに買ってほしいとねだられることも多いことでしょう。
しかもそれは親にとって買えない金額ではないのです。
そんなときお父さんやお母さんは、簡単に買い与えることは子どものわがままを助長するものだ、がまんすることを覚えさせなければと考えて踏みとどまろうとします。
子どもと買物に出かけたとき、お菓子売り場で、
「お母さん、お菓子が欲しいの。買ってちょうだい」
と子どもはねだることが多いものです。
お母さんはいつも子どもが欲しがるままに与えてはいけない、少しはがまんさせなくてはと考えます。
「駄目よ。今日は買わないからがまんしなさい」
子どもによってはしぶしぶ諦めるかもしれませんが、そんなことではめげずにがんばる子もいます。
「嫌だ。絶対買ってよ。ウエーン……」
ここで泣かれては困るし、ちょっと面倒くさくなったお母さんは、
「しょうがないわね」
と買い与えてしまいます。
お母さんのがまんさせるための最初のしつけはいったい何だったのでしょうか。
ちっともお菓子を食べたい欲求をがまんすることになりませんし、初めからあっさり買ってあげたほうがお互い気持ちよくすごせたはずです。
そしてスーパーに行くたびに子どもとの押し問答は覚悟しなければならなくなります。
そこでお父さんやお母さんは簡単に買い与えることはやめようとします。
「お母さん、お菓子が食べたいの。買ってちょうだい」
「だめよ。今日は買わないからがまんしなさい」
毅然として親の威厳を保つことはできました。
しかしお菓子を食べれなかった欲求不満を引きずりながら、しぶしぶ足をひきずる子どもと、
「いつもお菓子ばかり欲しがって、少しはがまんする気にはなれないのかしら」
とわが子にため息をつくお母さんの二人は、来たときよりずっと不機嫌になったまま帰ります。
子どもはお菓子を結局は食べれなかったわけで、自分の要求が通らなかった経験をしたわけです。
世の中はそんなに甘くはないとがまんする力ついたかというと、それこそ甘くない話で、子どもはお母さんはケチなんだ、今度はおばあちゃんときて買ってもらおうと思っているかもしれません。
それとも今日は頼むタイミングが悪いから買ってもらえなかったに違いない、次のチャンスを待とうと思っているかもしれません。
二人がスーパーの玄関を出たときに、お母さんが、
「今日は偉かったね。お菓子が欲しかったのに、がまんしたんだね。お母さんはとてもうれしかった」
と子どもに伝えたとしたら、そして子どもの頭を撫でてあげたり、手をぎゅっと握ってあげたりしたら、子どもの気持ちはどうなるでしょう。
子どもはお母さんが自分が食べたかったものをがまんしたことを感じ取ってくれた上に、それを褒めてくれたとなんだかいい気持ちになってきます。
そしてがまんするって悪いもんじゃないと知ることでしょう。
このことは次のがまんへのエネルギーとなって心に蓄えられていきます。
こうした繰り返しが将来へのストレスに耐える力となって育ってゆくのです。
耐えたこと、そしてそれをちゃんと認められたということを日常生活の中で繰り返し体験するだけでなく、欲しかったおもちゃを誕生日までがまんするといった長い時間待つという体験も大切です。
「ファミコンの新しいカセットが欲しかったんだろう。おともだちがみんな持っているのにお誕生日までよくがまんして待っていたね。お父さんはうれしいよ」
大好きなお父さんに言われたら、うれしさは何倍にもなることでしょう。
ところが、
「こんな高いものばかり欲しがっていてしょうがないな。勉強もしないで……」
などとイヤミを言われたら、耐える力より、この親にどうやって欲しいものを買わせるかということに気持ちが集中するせこい関係になってしまうかもしれないのです。
そろそろ親元を離れて行こうとする大学生の中には、小さい頃がまんさせられたから、自分でお金を稼ぐようになったら貯金なんかしないで、子どもの頃買えなかったものが買いたいと思っているという話を聞いたりします。
親は子どもに堅実な金銭感覚を身につけさせようとしたことがうかがわれるのに、きっとがまんさせることに熱心なあまり、
がまんすることと心地よい体験とを結び付けることをしてこなかったのかもしれません。
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不登校の子供には、行動を起こすまで「待つ」ことも重要
学校へ行けない子どもの中には、みずからの問題を自分で考えたり、解決するまでに育っていないことがあります。
年齢相応に耐えることをほとんど経験してこなかったので、困難な状態を自分の力で乗り越えることができないとき、学校で起こるさまざまな問題から逃げる結果が、不登校として出現することがあります。
学校に行くとテレビも漫画も見れないから家にいたいと子どもが思っているのなら、年齢より未熟でわがままであるのかもしれません。
そうなれば教育によって育てなおすという判断も必要になってきます。
また原因が学校でのちょっとしたできごとで、取り除くことも容易ならば、できるだけ早く登校させるほうが望ましいと判断される場合もあります。
こうした例では学校へ行けなくなってもきっかけさえつかめれば比較的短期間で学校に行き始めることがあります。
小学一年生のハナコちゃんが学校へ行けなくなってしまったきっかけは、学校で具合いが悪くなり早退したのに、お母さんが家にいなくてとても心細い思いをしたことのようでした。
お母さんと離れて過ごす学校での時間に不安を感じるようになってしまったのです。
お母さんといっしょなら登校できたので、しばらくはお母さんといっしょに教室で過ごしてもらうようにしました。
そのうち、お母さんが一時間ぐらい教室にいなくても大丈夫になり、やがて朝と帰りの送り迎えだけですむようになって、今では元気に一人で登校しています。
多くはゆっくり待ってあげなければならないことも多いのです。
小学四年生のときから学校へ行けなくなってしまったハルコちゃんを、お父さんやお母さんは無理に登校させようとしました。
本来なら今ごろ学校で元気に過ごしているはずの子どもがベッドで寝ているのをみるのは、親としてはどうしてもなさけなくもなり焦る気持ちになるものです。
ところが登校させようとすればするほど、ハルコちゃんは苦しむようになり、とうとう学校どころか家から一歩も外に出られなくなってしまいました。
中学に入学したある日、学校へ行きたいと外に出ようとしたときには、玄関においてあったハルコちゃんの靴はサイズが小さくて履けなくなっていたほどでした。
ハルコちゃんが不登校に至ったいきさつが昨日今日のできごとに由来するものではなく、ある一定の準備状態を経て、表面に現れるものだったのです。
学校とのかかわりを持とうと動き出すまでには、靴のサイズがすっかり変わってしまうほどの期間が必要だったのでした。
それは成人病といわれるものが、その人の何十年間の生活の積み重ねとして現れることがあり、治療には養生も含めて長期の見通しが必要になることに似ているかもしれません。
不登校の中には集団の中で長い間自分を周囲に合わせ続け、自分らしさを出せなくなってしまった苦しさを背負った子や、
おとなや友人が望む「いい子」を演じ続けるのに疲れてしまった子どもがいます。
その多くは学校ではとても元気だと評価され、どうみても学校を休む子には見えないと言われているのです。
無理をして学校へ行けば「積極的でいい子」を演じて、くたくたになって帰ってくるのですが、そうした姿は、学校での「笑顔での談笑」からは想像もつかないほどのものであったりします。
もうこれ以上合わせ続けるのはできないところまできたとき、学校へは行けなくなってしまうことがあります。
しかもこれまでのいきさつから説得したり、励ましさえすれば登校できるかのように思い込まれてしまった子どもには、それまでのつらい積み重ねについて語るほどの元気もなくなってしまっていることも少なくありません。
そんな子の一人、ナツコちゃんは小学五年生になってまもなく学校へ行けなくなってしまいました。
「学校へ行く」と言ってはみるのですが、朝になると身体が動かなくなるのです。
学校へ行けない苦しさをお父さんやお母さんにもわかってもらえるようになったのは、夏休みも間近に迫った頃でした。
少しだけゆとりが出てきたナツコちゃんは、「終業式に行きたい」と言うようになりました。
会うたびに、「終業式には行くからね」と決意表明していきます。
ナツコちゃんは自分自身に言い聞かせていたのでした。
そんなある日病院にやってきたナツコちゃんは、
「私は学校へ行けなくなってしまった」
と泣きだしてしまいました。
先生から手紙がきて、
「夏休みになる前に学校に来るように」
と書いてあったのだそうです。
先生はあんなに積極的で勉強もよくがんばるいい子なんだから、学校に来さえすればすべてが解決されると思っていました。
そしてとうとう待ちきれずにナツコちゃんに手紙を書いたのでした。
しかし子どもの中に時間をかけてできあがった問題を、子どもがいったんばらばらにして再び組み立てるには、それまで以上の時間が必要になることがあり、個人差もあります。
ナツコちゃんにとって、終業式に自分から行くことが自分らしく振舞う第一歩でした。
ナツコちゃんは今までとは違ったやり方で、学校で生活するきっかけにしたかったのです。
先生に言われてしまうと、今までのように「先生の言うことをきいて学校へ行くいい子」を振舞わなければならない、振舞いたくなる自分を感じていました。
何よりも主体としての自分が学校へ行くということを大事にしたいと思い始めていたのです。
一学期のうちにとか、小学校を卒業するまでにとかおとなの守備範囲にこだわらず子どものことを考える体制づくりがが必要になってきているのです。
あと少し親や先生が待ってくれたらと残念に思うことがずいぶんあります。
子どもが自分から行動を起こそうとするとき、それは舞台の花道を通ってそでに大見えをきって引き下がり、やがて衣装替えをして堂々と再び舞台に再登場することに似ています。
子どもに、「さあ、変わりなさい」とせかすことは、舞台のまん中で、みんながみているところでいきなり衣装を着替えさせることと同じです。
子どものメンツは丸つぶれになってしまいます。
そんな恥ずかしいことはおとなだって嫌なことです。
親も学校もそして子どもにかかわるすべての人が子どもの花道を大切にして、
準備を整えて登場した子どもに拍手をおくってほしいのです。
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子どものうそ
五歳のI子ちゃんのお母さんは、I子ちゃんがつく「うそ」に振り回されています。
「水槽のおさかなさんとお話した」とか「こびとさんとお友だちになった」などというくらいは子どもの言うことだからとがまんもできるのですが、
「今日、幼稚園の先生がお休みしたよ」といった話から、「恐いおじさんに連れて行かれそうになった」などはそのたびにお母さんは振り回されてしまいます。
うそをついてはいけない、うそは悪いことだからやめようといくら言っても同じことを繰り返します。
お母さんはなさけなくなって泣きながら叱ります。
「お母さん、もうしないよ。もううそつかないよ」
とI子ちゃんも泣きながら言うのですが、それでも「うそ」が減らないことをを心配してお母さんは相談にやってきたのでした。
うそをつくということは悪いことです。
なぜかというとそれは誠実でないことを意味し、人と人とのかかわりの中では許されないことだからです。
うそは相手をだまして混乱させたり、自分だけが得するための手段だったりします。
果ては犯罪を連想させる後ろ暗いことも伴いますから、親としては「うそはいけない」と言わなければなりません。
ところがI子ちゃんのうそはおとなのお母さんが考えているうそとはちょっと違うのです。
子どもの話を聞いていると、楽しいことがあります。
それは子どもの心の中にありありと浮かんだ想像の情景をとりとめもなく話してくれることがあるからです。
ときには面接室中が色とりどりの花畑になったり、宇宙基地になったりもします。
花畑がいつの間にか空を飛んだり、宇宙にいたはずなのに怪獣と戦っていることもあります。
子どもたちはその日に写る殺風景な白壁をスクリーンにして自分の世界を映しだしているのでした。
そうしたときは見事に現実と彼らの想像の世界とは融合していて、どこまでが現実だとか夢だとかたずねることがいかに野暮な質問であるかに気がつきます。
いっしょにその世界に浸っていると結構楽しいものであることを知るのですが、それがありふれた日常の中で起きると、折り合いが悪いことが起きたりします。
うそをつくことと間違われてしまうからです。
子どものうそはときにその想像力ゆえにおとなには見えないものを見てしまうために起こることがあるのです。
それをいじましいおとなのうそと混乱しないようにしなければなりません。
そもそも絵本やおとぎ話は「うそ」のかたまりではありませんか。
それを与えて想像力を育てようとしているわけで、子どもの子どもらしいうそが想像力の産物であるなら、それはあえておとなが育てようとしたものであることをちゃんと認識する必要があるのです。
子どもだって本気でうそをつくときがあります。
それは学校の担任の先生から、
「今日、お宅の1君がK君と教室でけんかをしまして、K君はあざができて……」
などと電話があったときのことです。
カッと頭に血が昇ったお母さんは、服を破って帰ってきた1君を、
「なんでけんかなんかするの!」
といきなり怒鳴りつけました。
J君は、
「けんかなんかしていないよ。ころんだだけだ」
と口を尖らせて言い返しました。
J君のうそにますます怒ってしまったお母さんが、
「うそをついているわね。先生から電話があったのよ」
と言うと、
「ぼくは悪くない、何もしていないのにK君がいきなりなぐつたんだ」
と泣きだしました。
「どうしてうそをつくの最初からそういえば言いじゃないの」
イライラしたお母さんはJ君を責めるのでした。
会社から帰ってきたお父さんにお母さんは、
「Jはどうしてうそばかりつくのかしら。将来が心配だわ」
と嘆くのでした。
こうしたうそは子どもが自分を守ろうとついたうそで、空想と現実がごちゃまぜになったうそとはちょっと違います。
J君もうそをついてしまったことに気がついていることでしょう。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
こんな想像をしてみました。
お母さんがJ君が帰ってきたとき、
「あらあら大変、服が破れているわよ。けがをしてるんじゃない?だいじょうぶ?」
と声を掛けると、J君は、
「……あのね、お母さん……今日ぼく学校でK君とけんかしちゃったんだ」
と言います。
「それで服が破れているのね」
「うん、ぼくはこぶができちゃって、K君はあざができたんだ。K君が先になぐったんだけど、その前にぼくが『ばか』って言ったんだ」
「それでどうしたの」
「先生にしかられちゃった。それからあやまって仲直りしたんだよ」
「よかったわね。でもけんかはしないほうがいいわね」
「うん、わかった」
こうしたやりとりなら、J君がうそをつく必要がなくなります。
そうしてけんかについてその事実関係と自分の気持ちをちゃんとふりかえることができました。
子どもがうそをつくという相談の背景には子どもがうそをつかざるを得ないように追いつめてしまっていることに気づかないお母さんやお父さんがいることがあります。
自分がこれ以上叱られたり怒られたりしないようにと、たまたまついてしまったうそを子どもの中に植え込まなければ、子どもはうそでぬり固めた人生は送らずにすむことでしょう。
自分を守るために何度もうそをつかせてしまうと、うそをつくことがあたりまえになってしまうかもしれません。
とは言っても、社会的に地位のある「立派な」おとながテレビに出て、平然とうそをついていたりすれば、子どもはうそもつき通せば本当になると本気で信じ込んでおとなになっていくのかもしれませんが……。
カテゴリー:子育て
兄弟げんかは気配りしながら黙ってみてましょう
きょうだいはけっこう派手なけんかをするものです。
年の差があるのだから、お兄ちゃんやお姉ちゃんには少しは手加減してほしいのにと思っても、弟や妹はもう少し遠慮すればいいのになどと思っても、どこまでも対等にデスマッチを繰り返すものです。
ここで考えなければならないことは、いわゆる「けんか」と「きょうだいげんか」の違いです。
この二つは根本的に質が違うのです。
きょうだいげんかは、どこか夫婦げんかに似ています。
外国の小話に、夫婦が大げんかをしたとき、その仲裁に入った警察官が奥さんをかばおうと夫を押さえつけようとした途端、奥さんに「私の夫に何をするの!」とフライパンで殴られたというのがあります。
ほんとうは仲がいいのにそれでもけんかをするのが夫婦げんか、
人がみたら大げんかしてると思うかもしれないほどのものであっても、当人たちにとっては猿の毛づくろいにも似たスキンシップ程度のものであったりして、かかわり合っては割に合わない「犬も喰わない」代物なわけです。
またやっているなと心配せずに見ていればいいものだと、みんなが知っているのです。
最近はちょっと深刻な夫婦げんかもありますが、それはここでは論外で、もともと仲のいい夫婦のけんかは、きょうだいのそれにもよく似ています。
きょうだいを相手に行う対人関係のウォーミングアップのおかげで、社会生活をしていく上で必要な手加減や自己主張について知ることができるはずですから、きょうだいげんかを思いきりやることによってほんとうのけんか上手に成長していくということができます。
きょうだいげんかは嫉妬する心の表明でもあるわけですが、
「やきもちをやいているんだ」と自己主張できるということは、成長していく上で大切なことです。
家の中でチョコレートひとかけらのことで泣きをみるけんかをして、
「どうしてぼくは一人っ子に生まれなかったのだろう」
とおにいちゃんが嘆いていたとしても、公園で弟がいじめられているのを見てしまったら、
「ぼくの弟になにをするんだ!」
とあわてて助けに飛び出していくことでしょう。
おにいちゃんの姿をみつけた弟はまるでスーパーマンが助けにきてくれたのと同じくらい嬉しくなることでしょう。
最近はきょうだいに限らず、幼い頃のけんかを止められることが多くなってきました。
おかげで仲間とどうつきあっていいかわからないまま大きくなってしまうことがあります。
自分の限界を知らないまま育ち、相手の力加減を推し量る訓練もできていないわけですから、みんなの中でどう振舞っていけばいいのかについて戸惑うことが多くなります。
手加減がわからないのですから、いじめているということに気づかないまま、必要以上に相手に痛めつけたりすることが起こってしまいます。
子どもはけんかをしたり、仲良くなったりの繰り返しの中で、人とのつきあい方の基本を体験をするようになっているものなのです。
きょうだいげんかは嫉妬心の完全燃焼のようなもの、親はできるだけ黙って見守りたいものです。
小さい頃きょうだいげんかをいつも止められて、「おにいちゃんだから」とよけいに叱られたと思い込んだり、「弟でいつも損をした」と思い込んでおとなになってしまうと、おとなになってもあまり仲のよいきょうだいにはなれないことが多いものです。
ある程度の年齢になっても、嫉妬心の不完全燃焼はけっこう長く心の中でくすぶり続け、しこりとなって残るものだからです。
きょうだいげんかは、てんぷらを揚げているそばで取っ組みあいをしているとか、ベランダから落ちそうになってまでやっているといった危険がない限りは、
家族は精いっぱい気配りをしながら、それでもだまって見ている心のゆとりが必要なのです。
そしてけんかが一段落ついたとき、
「いっしょにおやつを食べようよ」と誘ってあげましょう。
「けんかをしている二人は嫌い」ではなく、仲良く遊んでいるとき、
「お母さんは二人が仲がいいととても嬉しいの」
と伝えてあげれば、やがて仲良く過ごす時間が増えてお母さんを喜ばせてくれることでしょう。
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子供の不登校を相談する機関と医療機関の役割
不登校については精神科を含めた治療機関や、児童相談所やその他の教育相談機関で相談を受け付けてくれます。
しかし自分の子どものことをよそへ相談するべきかどうかを含めて、どうしたらよいのかがわからず途方にくれることが多いものです。
相談にのってくれるところの利用の仕方についての情報を知らない人も多いと思います。
子どもは親だけでも、親がいなくても育たない部分があることをふまえて、社会がともに子どもを育てていくということをこれまで以上に考えなければなりません。
さまざまな問題が起こったとき、大きく開かれた窓口がほんとうに必要になってきています。
子どもが学校を休み始めたとき、たいていの親はあわててしまい、子どもを叱ったり何とか登校するようにと哀願したりしますが、すべてがうまくいかないとやがて不安に陥ります。
不登校の多くは、子どもたちが登校前の頭痛や腹痛など身体のさまざまな不調を訴えることから始まることが多いのですが、
発熱や、下痢、食べた物を吐くといった目に見える症状で、この子は身体の深刻な病気だと周囲が納得するほどの症状がでる場合もあります。
親は身体相伝の病気を心配し、小児科や内科を受診します。
したがって現実的に不登校の子どもが最初に訪れるのが病院であることが多いようです。
ここで一番身近で、たぶん最初に不登校の問題を抱えた親子が訪れるであろう医療機関の役割について考えてみたいと思います。
朝になると頭痛や腹痛が始まり、登校できなくなって病院を受診したとき、病院ではまず身体の病気について検査してそうした症状の原因について知ろうとします。
そしていくつかの身体の不調につながるものがわかったとしても、それが学校を休まなければならないほどのものでもなく、
大きな病気が隠されているわけでもないことがはっきりしたならば、そのことを本人や親に伝えることになります。
身体に異常なしと喜ぶべき結果が出ているのですが、それが学校へ行かないことの問題解決になることは少ないのです。
むしろ「異常がないから心配ない」ということを機械的に伝えてしまうと、
今度は病気でもないのに学校へ行けないという現実が親や子どもに重くのしかかってきてしまうことがあります。
学校へ行かないことを周囲にも納得してもらうほどの理由がないとはっきり宣言されたようなものですから、ますます追いつめられて途方にくれてしまうことがあるのです。
あいかわらず学校へは行けませんから、その後もいくつかの病院をわたり歩くことになったり、親が子どもを責め続けるなど、問題解決からはどんどん横道にそれる結果になることもあります。
最近では学校に行かない子どもがとても増えてきました。
かつてはほんとうに少数派であったために学校に行かないことは、当然の義務をはたしていない親と子として責められることも多かったといいます。
怠け者のレッテルを貼られたり、問題の親、問題の家庭と言われていました。
子どもが学校へ行かなくなったとき、親や家庭に問題があるといった狭い原因論を振りかざす風潮もありますが、
どんな家庭であっても「たたけばほこりが出る」ものであり、問題のある子どもの家庭として眺めれば、問題の一つや二つは簡単に見つかるものです。
たしかにほこりを取り除く努力も必要ですが、そのことにこだわっているだけでは問題は解決されません。
不登校になるにはいくつかの要因が複雑に絡み合って熟成した結果であることを認識して早く適切な対応が必要なのです。
医療機関でも身体の疾患がないことがわかったとき、登校前に身体症状が出ることや、休日は比較的元気であるとかの情報をもとに不登校と判断し、適切な対応をする重要性が叫ばれています。
いくつかの研究でも、身体症状が出ている間に心理的配慮をすると、よい結果が出るということが言われていますので、ちゃんとした知識を持った人たちが望ましい配慮をしてくれるところも増えてきました。
子どもに現れる身体症状は、強い不安感や、行かなければならないのに行けないという葛藤によって引き起こされたものであるということがわかっています。
身体の病気はないからといって、
「心配ないからがんばれ」とか、「気の持ちようだからしっかりしろ」などと叱ったり激励することは、身体的苦痛を感じていて、決してうそをついているわけでもなく、自分のあずかり知らぬところで症状が出ている子どもの人格を見事に傷つけてしまいます。
必要なことは今学校に行けない子どもを無条件に受け入れ、少なくとも病院や家庭では不登校による偏見や不利益を受けないという保障をしてやることです。
身体の症状を否定されてしまうと子どもは自分自身が否定されたと感じ、それでなくても学校へ行けないことに後ろめたいものを感じているところに、阻害感や罪悪感をよけいにつのらせる結果となってしまい、問題をさらに複雑にしてしまうからです。
こうしてみると病院では身体の症状を受け入れ、苦痛を取り除いて楽になるための援助と、できることなら問題を整理するための援助が望ましいと言えるでしょう。
こどもを支え、育てていくために必要な情報を提供できる役割も担ってほしいと願っているのです。
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子供の性格・気質
子どもは一人ひとり、それぞれの個性をもって生きている
4歳のA君、お母さんはおとなしくて気が弱いことをとても心配しています。
保育者から見ても確かにおとなしくはありますが、工作が好きで長い時間熱心に製作する姿は楽しそうに見えます。
仲のよい友だちにははっきりと自分の意見も言っています。
お母さんに「大丈夫ですよ」と伝えても、不安はなくならないようでした。
現代の子育ては、親が子どもの性格・気質に過敏になりやすい状況となっています。
性格とはその人特有の一貫した行動様式、気質とは性格の基礎となるその人固有の気分といえます。
今、多くの大人は、子どもが成長する姿を身近に見る経験をもたずに親となります。
親になってからも、少子化で近所の子どもの集団関係も希薄であり、きょうだいも少なくなっています。
2歳児の自己主張も3歳児の引っ込み思案も4歳児の強がりも身近にその姿を見、それをこえてさらに発達していく子どもの姿を見ていれば安心してつきあっていくことができますが、
そのような経験がなければ、その時その時の我が子の状態が生涯続く欠点のように思われるかもしれません。
子どもを取り巻く環境の変化(いじめ、犯罪の低年齢化など)も、親たちに大きな不安を与えています。
親たちは子どもに、人とうまくやっていける性格を過度に求める傾向もあります。
望ましい性格・気質、よい性格・気質というものが存在し、教えること努力することによってそれが身につくように多くの親が考えているようにも思われます。
しかし、完壁な子育てをしても親の思い通りの性格に育つわけではありません。
一人ひとり、それぞれの個性をもって、生きて、発達、変化し続ける子どもです。
そもそも、望ましいよい性格・気質というものがあるのでしょうか。
よくいわれることですが、長所と短所は表裏一体のものです。
「乱暴」な子が「活発」であったり、「臆病」な子が「慎重」であったり、「ぼんやりした」子が「おっとり」していたり、さまざまな性格・気質がありますが、「よい性格」「困った性格」というものはないのです。
親にとって「よい」か「困る」かなのです。
子どもは親が自分の性格に困っていることに困っているのです。
冒頭のA君も、お母さんが困っています。
社会とA君の間に立ち、このままでは社会で受け入れられないのではないか、うまくやっていくことができないのではないかと不安になっているのです。
少しでも生きやすいように、嫌な思いをしないようにと切実に願う親心ゆえに、事細かな注意を子どもに与えています。
こんな時、保育者は何ができるでしょうか。
いくら言葉をつくしても、お母さんの見方・考え方、行動を説得により変えるのは容易ではありません。
それよりはむしろ、親にしてほしいと思うことと同じことをしてあげるとよいでしょう。
困った親だ、よい親だと考えずに、心配しているお母さんの気持ちをそのまま受けとめるのです。
そして保育者自身がA君の性格の長所をたくさん見つけ出し、お母さんに伝えていきましょう。
一般的な話ではなく、今日A君はお友だちとこんなことをしていました、こんなことを言っていましたよ、とエピソードをもって伝えられるとよいですね。
A君の性格を別のとらえ方でお母さんに伝えることになり、自分以外にも我が子のよさを見てくれる大人がいるという安心感を与えることにもなります。
安心して余裕ができたり、保育者の子どもを見る視点に影響を受けると、親の育児観も変わるでしょう。
他の子どももわが子と同様に、失敗しながら成長していることにも気がつくかもしれません。
大勢の子どもに囲まれている保育者と異なり、親は我が子だけを見つめています。
期待や不安が過大になることもあるでしよう。
全ての性格・気質の中に長所を見つけ出し、
「大丈夫。○○ちゃんのよいところ、私たちも見ているよ」
と伝えてあげられたら、親も子もどんなに幸せになるでしょう。
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「ほうび」を与えることの注意点
犬に「おすわり」とか「ふせ」といった動作を教えようとするとき、よくほうびに食べ物を与えようとします。
犬に「おすわり」と声をかけ、犬が地面におしりをついてすわったら、それでいいのだと伝えるために餌を与えます。
犬は餌をもっともらおうという意欲をかき立てられ、だんだんと「おすわり」の意味を理解していきます。
これは一見なかなか効果的な方法にみえます。
ビスケットひとかけらや、ちびた者芋のためにけっこうがんばるからです。
ところがいつのまにか「おすわり」と言われると、座りながらよだれをたらす犬になってしまうことがあります。
犬を上品に育てたかったら、「餌でつる」のはほどほどにしたほうがよさそうです。
ところがこうしたできごとは犬に限らないのです。
一〇〇点とったら、おもちゃを買ってあげようとか、お金をあげようとか、こうした犬には効果的なビスケットや煮干がわりの報酬を使って、なんとか子どもの成績をあげようとすることがあります。
子どもはおもちゃやお金欲しさにがんばるかもしれません。
そしてそのうち一〇〇点とるたびに「おもちゃを買って」「お金ちょうだい」と要求するようになることでしょう。
そのうちもの欲しそうによだれをたらしたりして……。
ところが問題はそれだけではないのです。
子どもにはもともと新しいことが知りたい、のぞいてみたいという気持ちが備わって生まれてきています。
物を壊すいたずらの多くは、子どもの知りたい気持ちがこうじたものであることに気づきますし、
子どもがわからないことに出会うと「なぜ?」「どうして?」ときらきらした目をして質問してくることからもわかります。
学校の先生たちの中には、そうした子どもの知りたい気持ちを大切にして、やる気を引き出すためにいろいろと工夫を凝らすことに、とても熱心に取り組んでいる先生も多いものです。
ところがおもちゃやお金という目的を鼻先にぶら下げられてしまうと、子どもの心はおもちゃやお金のことで大きく膨らみ、
勉強の目的が「ほうび」にみごとにすりかわってしまいます。
それまで、子どもがもともと生まれたときから持っていた知りたい気持ちややる気は、とうとうどこかへ押しやられてしまうのです。
子どもはやがて、親からもらうほうびを期待するだけのために勉強するようになることでしょう。
そうなると、ほうびがもらえなければ勉強したいという意欲がわかなくなったり、そしてとうとう少しぐらいのおもちゃやお金ぐらいでは意欲をかき立てることができなくなってしまうのです。
気がつけば勉強への意欲をそぎとってしまった仕掛人は、一番勉強してもらいたいと思っている親自身だったりします。
大きくなるにしたがってだんだん勉強しなくなった子どもの中には、おもちゃやお金で一時的にがんばってしまった子どもたちがいます。
勉強で知った知識がおもしろかったり、苦しい練習の結果が上出来だったりすれば、子どもはそれを次のステップへの励みとすることができます。
たとえ結果が思わしくなくても、それまでの努力をちゃんとわかってくれるお父さんやお母さんがいてくれたなら、子どもは次の課題にチャレンジする意欲がわいてきます。
やがて自分の意志で自分のためにやりはじめることでしょう。
犬だっておすわりができたときに、頭を撫でてその賢さに心から敬意を表すれば、次もまた喜んでおすわりをしてくれることでしょう。
自分の意志で喜んでやるという行為に少なくとも餌の見返りを期待する卑しさは感じられません。
子どもも物につられて動く卑しい人間にではなく、上品に育てましょう。
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子供が「学校へ行かない」ということ
なぜ学校へ行かなくなってしまうのか、そんな子どもたちにどんなことをしてあげられるかについては、これまでに多くの人たちがたくさん論議を繰り返してきました。
心理療法としてのかかわりという観点からみても、とても大切な問題が含まれているので真剣に考えなければなりません。
不登校には心身症や他のさまざまな心理的な問題とそのとらえかたにおいて少し違うところがあります。
それは不登校を考えている専門家によって、子どもの何を目指すのかが異なっている点なのです。
胃潰瘍や気管支喘息などの病気は治療目標がはっきりしています。
苦痛を取り除くことであり、病気そのものが治ってしまうように皆が努力をします。
頭痛や腹痛といった痛みもそれを取り除くか、楽になるために治療をします。
しかし不登校の場合、そのゴールは必ずしも同じではないのです。
多くはまず学校に行けるようになること、学校からはみ出しているのだからちゃんと戻れるようにはたらきかけるのだといったとてもはっきりした目標をかかげることがあります。
しかし、今子どもたちが通っている学校は知識偏重があきらかであり、集団から逸脱することを許さず対人関係も歪んでいじめなどの問題を抱えていることを考えれば、
子どもが学校に不適応を起こすことは正常な反応なのだ、大切なのは学校にこだわらずに生きていけることと考える学者もいます。
教育現場では学校に再び登校するようになったとき、子どもががまんする力をつけ、学校生活をちゃんとやって行こうと決心したのだと考えることが多いので、学校に戻れるようになるよう子どもにはたらきかけ、周囲も努力することが多いようです。
医療や心理療法をする側では、子どもに学校場面も含めてストレスが増えていることや、社会の歪みや学校そのもののさまざまな矛盾が背景にあると指摘する人が多いように思えます。
どちらが絶対正しいということはなく、子ども自身の状況やその置かれている環境によって複雑な問題があるというのが実際のところのようです。
不登校に取り組む人によって背景のとらえ方が異なれば、当然その目指すところが微妙に変わってきます。
こうしたことから学校へ行かなくなった子どもを前にして、何を目指して子どもとかかわるかについて親や先生も含めて混乱してしまうことがあります。
今の社会の中で子どもの幸せがわかりづらくなっているとも言えます。
少なくとも私たちがいつも考えることは、
子どもたちが自分自身のことがよくわかり、自分のしたいことがちゃんと見えるように援助することが必要だということです。
学校に行く行かないに振り回されている状況から、ちょっと離れて子どもが自分らしく生きるために何ができるかを考えてみる努力をしなければならないと思っているのです。
それがほんとうに望ましい将来への道づけであるようにとみんなで考えていくことができるようにのぞんでいます。
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あなたが聞き上手になれば、子供は愛される大人に育っていく
お母さんが子どもの代わりにしゃべり続けることがあります。
「頭が痛いのは、どんなときに多いの?」
と子どもにたずねます。
子どもが口を開く前に、
「一日中痛いと言うんです。それからスイミングに行く前なんか特に痛いって言うわねえ。
ひょっとしたらコーチの先生が厳しすぎるのかしら? 薬を飲んでもきかないんですよ。
それから学校では……」
ついでに、
「この子は自分では何も言えなくて……」
などと締めくくられると、今度は私がこの子に同情して何も言えなくなってしまうのでした。
たしかに子どもは自分のことをちゃんと相手に伝えられるほど器用ではありません。
話すことを繰り返して育っていくうちに、上手な自己主張ができるようになっていくのです。
その大切な過程をいつも邪魔し続けてしまうと、本当に自分のことが何もしゃべれなくなってしまうことがあります。
最近は、「さあ、しゃべっていいよ」と言うと、戸惑った顔をする子が増えてきました。
これまでしゃべってこなかったこと、そしてしゃべったときに聞いてもらえなかったことがわかるのです。
家族は子どもの自己主張を受け止めるという大切な役割をも担っているのです。
なにより子どもはお父さんやお母さんに話を聞いてもらうのが好きなのです。
ところが、
「部活の練習がきついんだ」
「じゃあ、やめなさい。やめないんだったら文句言わずにちゃんと続けなさい。
話はそれだけなの? ぐずぐずしないで宿題やりなさい」
これでは子どもの話を聞いたのではなく、指示しただけの会話で終わってしまっています。
子どもは部活をやめるとか続けるとかその判断をしてもらいたかったのでしょうか。
練習のきつさを聞いてもらいたかっただけかもしれないのです。
きついのにがんばっているのをみとめてもらいたかったのかもしれません。
いずれにしても子どものしゃべりたい気持ちをすっかりしぼませてしまったことには間違いなく、話してもしょうがないということだけはちゃんと伝わったことでしょう。
「うちの子は学校で自分の意見が言えないんです。どうしたらいいでしょう」
という相談の中には、こうして育った子どもがたくさんいます。
今どきは、お母さんが忙しくなってきました。
子どもがお母さんに話したいと思ったとき、それがお母さんにとって、とても忙しいときだったりします。
そんなとき、「後で話を聞くから」ということが多いものです。
ときには、
「うるさいわね。あっちへいってなさい」
とまるで悪いことをしたかのように扱うことすらあります。
お母さんの気持ちとしては、どうして私の忙しさがわからないのかしらと子どもの配慮のなさを嘆いたりしますが、
子どもは今話したいことを今話さなければ、煙のように話したい気持ちが消えていったりするので、焦って話そうとするのです。
その証拠に、子どもの話はちゃんと聞いてやらなければならないという子育ての基本に気がついたお母さんが、後になって、
「なにか話したいことがあったんでしょう。話してごらん」
と声をかけても、漫画に夢中の子どもはそれどころではなく、「別に……」と漫画本から顔すらあげようとしません。
せっかく聞いてあげようと言ってるのにとここでまたお母さんと子どもの気持ちはずれてしまいます。
幼いうちにずれ続ければ、大きくなって思春期にでもなればもっと派手にずれてしまいますから、わが子が何を考えているのかわからない、話してくれない親子ができあがってしまいます。
働いているお母さんが増えてきました。
子どもと接する時間が短いというハンディがありますが、私たちの経験からして、働いているお母さんの子どもに問題が多いということはありません。
働いているお母さんでも、子どもが、
「あのね、お母さん……」
と駆け寄ってきたとき、頭をからっぼにして子どもの話を聞く心のゆとりさえあればいいのです。
たとえ夕食の準備がちょっと遅れようが、洗濯物を取り込んでいる途中であろうが、今話したい子どもの気持ちに感度よく反応できるデリカシーがあれば子どもはちゃんと自分のことを伝えることができるように育っていきます。
子どもの話はたいして時間はかからないものです。
それにちゃんと聞いてもらった経験が積み重なると、「後でちゃんと話す」ことができるようになりますから、お母さんの手の空いたときにゆっくり聞けるようになるものなのです。
周囲を見渡せば、話を聞いてもらいたい友人がいるものです。
相手の話にちゃんと耳を傾けることができる、そして同じ気持ちを感じようとしてくれる友人です。
そんな友人と話していると穏やかな気持ちになって、ややこしい問題もなんだか解決の方法が見えてくることがありますが、
ちゃんと話を聞いてもらって育った人は、聞き上手になって、愛される大人になっていくのです。
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子供の反抗は自己主張
反抗期という時期があります。
二、三歳頃にやってくる第一次反抗期、そして思春期の第二次反抗期をさしていいますが、「この頃反抗期で……」という場合、親の言う通りに行動しなくなったことと同義に使われることが多いようです。
おとなの立場からするとおとなに反抗するから「反抗期」ということになりますが、はたしてそうなのでしょうか。
中学生のH美さんは勉強もできるし、真面目でいい子だと言われています。
H美さんに仕事を任せれば安心なので、担任にも頼りにされていました。
家でもあまりはめをはずしたことがなく、手のかからない子でした。
最近クラスでいじめがあり、クラス委員のH美さんはいじめの当事者と話し合ったりしていましたが、うまくいきません。
その頃より成績が落ちはじめ、家でもぼんやりすることが多くなってきました。
三歳のとき腸の手術を受けたことがあるH美さんは疲れると腹痛が起こります。
便秘にもなりやすいのですが、最近は強い腹痛で夜救急外来に駆け込むことが何度か続くようになってしまいました。
そのために学校も欠席することが多くなりました。
お母さんは病院で、腹痛の発作はストレスによって引き起こされることがあると説明を受たまけましたが、信じられません。
何でもよくできるH美さんにストレスが溜っているとはとても思えなかったからです。
しかし便秘もひどくなっていたので、治療を受けることになりました。
約三カ月後、だいぶ症状がよくなってきた頃、お母さんは、
「病院に通い始めたら、扱いにくい子になってしまいました」
とちょっと不満そうな表情でやってきました。
親の言うことに逆らったことがなかったH美さんが、最近は「いやだ」と言うことが多くなったというのです。
しかも言いつけられた家の手伝いをしなくなり、ときには親に内緒で塾をさぼったりします。
叱っても口答えをするので、お母さんとしてはとてもショックを受けたのだそうです。
H美さんにたずねると、「今は自分のしたいようにすることがちょっと楽しい」といいます。
親に逆らっているという気持ちはないのでした。
病院の心理療法はH美さんに自己主張するきっかけを与えました。
自分が思っていることを外へ表明することはストレスを避けることができたり、解決する手段になることが多いものです。
なにより心の中にため込んで「腹膨るるわざ」の腹痛や便秘にはとても必要なことだったのです。
子どもが自分でやってみようと思い始めたとき、お母さんにしてもらっていたことを自分でやるんだと言い張ることがあります。
自分でコップに牛乳を入れるんだとお母さんの手を牛乳のパックから払いのけようとします。
コップに入れるどころかこぼれることが多いとわかっているので、「いたずらはやめなさい」と叱ってしまうのです。
毎回「一人でやる、やらせない」で泣きを見ることが続くと、
「うちの子は反抗期になっちゃって……」とため息混じりにぐちりたくなることでしょう。
親からすれば反抗以外のなにものでもない、困った問題と思いがちですが、子どもからすると「ぼくがやってみるんだ」という未知なるものへの挑戦に近い感覚なのです。
自分というものを初めて意識するのが、この第一次反抗期というものです。
中学生ぐらいになると今度はおとなとしての自分を感じ始めます。
何でも万能にみえて、とても大きかった親がもう少し近い存在に見えてくるのです。
そしてもうおとななんだからと親と対等にわたり合いたいという気負った気持ちと、それでも親がいなければ一人ではやっていけない現実もどこかでわかっている力不足のジレンマを感じています。
せめて一人前に扱ってほしい、そのために「私はこうしたいの」と自己主張し始めるのです。
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「自分で決める」経験を積ませる
おとなは子どもより経験と知識が豊富だから、こっちのほうがうまくいくという見通しがつけられます。
このまま行ったら回り道になることがわかっていると黙っていられなくて、つい誘導したくなってしまうものです。
しかし子どもの責任のとれる範囲で自分で決めるチャンスを与えられる、そんな経験は子どもの自立心を育て、自尊心をはぐくむことができます。
子どもにチョコとバニラのアイスクリームのどちらを食べたいかをたずねて、選ばせてあげたとき、チョコを選んだけれど、食べてみたらやっぱりバニラがよかったのになどということはよくあることです。
お母さんに「チョコレートにしなさい」と言われて選んだのだったら、ほんとうはバニラのほうがよかったのになどと未練がましい気持ちがわくかもしれませんが、
自分が決めたとなると、こんどはバニラにしようと納得するかもしれません。
同じアイスクリームを食べても結果に満足する気持ちに差が出てきてしまいます。
アイスクリームぐらいならどうということはありませんが、
自分で決める経験の不足は将来の思わぬつまずきに発展することもあります。
Y雄君は一九歳で医学部一年生です。
彼は今大学の講義が理解できないと悩み続けています。
彼の悩みは、自分が何をしたいのかがわからないということでした。
本当にやりたいことと違うことをしているようでいつも不安な気持ちになってしまいます。
誰がみても能力はあるはずなのに、まるでパイプが詰まってでもいるかのように伸び悩んでいます。
Y雄君がこれまでどんな生活を送ってきたのでしょう。
お父さんはとにかく勉強して、大学に入れば将来が約束されるのだという思いが強く、お母さんと二人で塾へ通うことや成績をあげるための援助は惜しまなかったのです。
私立の幼稚園、小学校に通いそれなりに成績もよかったのですが、高校に入学した頃から成績が思うように伸びなくなり、大学受験にも失敗して浪人しました。
それでもお父さんの決めた予備校で、マニュアル通りの受験勉強をして今の大学に入学したのです。
お父さんは大学にさえ入れば将来は約束されたと、あとは何も言わなくなりました。
お祝いに海外旅行にも行かせてくれましたし、車も買ってくれました。
Y雄君は大学生活を大いに楽しむはずだったのですが、一年生の単位がとれるかどうかもあやしい状況になってしまいました。
Y雄君はこれまでの自分を振り返り、勉強したのは親のためで、
いい点数をとっても、自分ががんばって成績をあげたという実感が持てずに苦しんでいたのでした。
大学に入学できたのも自分の力で受験を克服したというより、お父さんの決めた方法でやれたのだから、自分の力ではないという気持ちになってしまうのです。
いいことばかりが「親のおかげ」というわけにはならず、成績が下がるとこんどは「親のせい」で親を恨みたくなってしまう自分を持てあましていたのです。
必死で親を越えようとジタバタする青年期という時期に、自分で自分のことを決めたという実感が持てないまま一九歳までなってしまっていたのです。
大学は自分で勉強の仕方を試行錯誤する場面にぶつかります。
Y雄君はこれまで選びたくても選べないことを繰り返すうちに、与えられることになれてしまったので、突然の自由はこの上なく不自由となってしまいました。
Y雄君のお父さんは、そのつどY雄君の将来にとって最善と思われる方法を選択してきたことでしょう。
こうした親の気持ちの中には、子どもは何もわからないのだからという思い込みがあります。
子どもと深くつきあっていると子どもには判断する力や考える力がかなり備わっていることに気づきます。
足りないのは知識と経験だけなのです。
おとながきちんとした情報を伝えること、そしてみずからの経験を判断材料として子どもに話すとき、子どもは驚くほど冷静に判断することが多いのです。
「子どもが自分で決めたんですよ。決して親が押し付けたわけではありません」
というお父さんやお母さんがいます。
たしかに子どもは自分で決めたかもしれませんが、ときには親の気持ちを先取りして、親が喜びそうなはうを選ばされていることがあります。
こうした場合、親も子どももとりあえず「手続きをふんだ」という儀式を繰り返しているに過ぎないことがあります。
こうした場合、親は子どもの気持ちを尊重したつもりになっているし、子どもは親の意向にただ添っただけというもっとややこしい問題になることも少なくありません。
私たちは子どもが自分で判断できそうなことにはちゃんと情報を提供して判断させることをもっと考えなければなりません。
そして自分が選んだことには責任があるのだということを知らせてやったほうがいいのです。
だからといって、「あなたが決めたんでしょう。お母さんは知りません」
とまるで、「だからお母さんがいいと言ったほうにしておけばよかったのに、これからはお母さんの言うことを聞くのよ」
という影の威圧するメッセージを送ったりすることもありますが、取りきれない責任をときどき背負ってあげるのも、子どもを育てるということです。
チョコとバニラのアイスクリームをニッと笑って交換したりするのはご愛敬、言ってみればハンドルの遊びのようなものなのです。
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上手な子離れ
子どもが親から離れて生きていけるようにと前もって大げさに考えなくても、子どもの気持ちを尊重して育てていれば、子どもの成長のあかしとしてやがてその時期はやってきます。
G雄君は身体が小さくて中学に入学しても、小学生によく間違われます。
お父さんは単身ふにん赴任が長く、小さい頃からお母さんとの生活が中心でした。
最近頭痛がひどく病院に適っています。
さまざまな検査をしましたが、特に病気は見つかりませんでしたので、心因性のものだろうと言われました。
G雄君にどんな悩みがあるのかたずねてみますが、特に何もないと言います。
あまり話してはくれません。
学校では何でもよくできると言われ、成績もよいほうでした。
お母さんはとても心配して自分も頭が痛くなると言います。
小さい頃から二人で生活してきたので、今もいっしょに寝ていますし、G雄君専用の個室があるのに、いつもお母さんのいる部屋で勉強していました。
ところが最近、ときどき自分の個室に閉じ込もるようになりました。
机にかぎ鍵をかけたりするようにもなりました。
お母さんは学校での様子を聞き出そうとしますが、なんだか以前のようには話してくれないのでした。
心配でたまらないお母さんはG雄君が学校へいっている間に部屋を調べたりします。
G雄君の頭痛はその頃から始まったようなのです。
G雄君はそろそろ身体にもいろいろな変化が現れる思春期に入ろうとしていました。
今までほお母さんといっしょがとても心地よかったのですが、最近はちょっと違います。
お母さに話したくないことや秘密にしておきたいことができてきたのでした。
ところがそうした心身の成長に気づかないお母さんは自分を無視されたような気になりますから、あれこれ聞き出そうとしますし、G雄君のことをすべて知ろうと努力していました。
思春期のおとなの入口に子どもが親から自立するとき、それは子どもが秘密を持ち始めるときから始まっていくということを知っておかねばなりません。
そしてそうした秘密を打ち明けることができる親友ができたときおとなになる準備が整うのです。
デスモンド・モリスという人はサルの観察からその子育てを「しっかり抱いて、下におろして、ほっといて」の三段階があるといっています。
(1)赤ちゃんのときは片時も離さず、しっかり抱いて育てて、
(2)自分で歩けるようになった頃は下におろして何かあったらすぐかけつけることのできるお母さんの目の届く範囲内で遊ばせ、
(3)思春期になったら自立させるという子育てがいいということです。
最近は赤ちゃんは何もわからないからとほっといて、思春期になってもまだ子どもだといつまでも抱き続けることが増えてきたように思います。
できればサルのあざやかな子育てに大いに学びたいものです。
G雄君はぎこちない親離れに頭痛があらわれ、そこには子離れがもっと下手なお母さんがいたのでした。
子どもが生まれて、お母さんと子どもはとても緊密な関係になっていきます。
それはとても大切なことです。
そしてお母さんとは異なった役割でお父さんとも緊密な関係がつくられていきます。
ところが何らかの原因で夫婦としての緊密さより、親子の緊密さが強くなってしまうとちょっと厄介なことが起きることがあります。
G雄君のお父さんは単身赴任で不在がちでしたが、家族のことを考えるより、仕事の段取りを考えるほうが生き生きしていたり、
家族に向き合うことを少し面倒に思うお父さんやお母さんは、たとえいっしょに生活していてもいなくても、やっていける程度の存在感しかなくなってしまうことがあります。
そんなとき家に取り残される夫や妻は相手に向ける関心の分までも子どもに向けるようになって、ときには親から自立しようとする子どもの助走に立ちはだかることがあります。
ここで大切なことは、お母さんとお父さんの心理的距離なのです。
子どもの存在が両親の杵をより強くしていくことができれば、子どもを一人の人間としてちゃんと扱うことはそんなに難しいことではありません。
ところが夫婦の杵よりも強く親子が結び付いてしまうと、子どもの自立に戸惑いと孤立感が生まれてしまいます。
「私を捨てないで」と意識するしないにかかわらず、
子どもをいつまでも「私だけの子ども」にしておきたくなってしまうのです。
子どもが生まれるということは、それまでの夫婦だけの杵から、親と子という新しい絆が生まれることを意味します。
子どもを含めた関係は、夫婦だけの生活にはなかった複雑さがあります。
子どもが親離れの時期をむかえたとき、
夫婦の関係が以前にもまして親密な間柄に成長し、子ども抜きにしても充実した生活が送れるのなら、子どもの自立を心から喜び、援助していくことができます。
これこそが「上手な子離れ」と言うことができましょう。
上手な子離れのためにはずっとその前から、夫婦としての「心の貯金」が必要です。
父親と母親の役割が一段落ついたとき、二人で過ごす時間がなにより心満たされるように、お互いの心をすり寄せて積み上げておかなければならないということです。
これは老後の年金や貯金と同じくらい、もしかしたらもっと大切なことなのかもしれないのです。
母子家庭や父子家庭は「欠損」家庭と呼ばれることがあり、それだけで問題がありそうに言われたりしますが、それは偏見にすぎません。
心身ともに健やかに育っている子はたくさんいます。
あえて問題があるというなら、一人の親が二人分の役割を担うたいへんさがあり、混乱することがあるということです。
そうしたややこしさがあることをちゃんと心にとどめて育てていけばいいのです。
両親がそろっていても一人分の役割を担うこともできない家庭もあるのですから……。
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「ほめること」と「おだてること」
「この子が小さいときから、ほめてきました。どうしてこんなことに……」
�]夫君のお母さんは戸惑った顔をして私のところに相談しにきました。
隣に座っていた�]夫君は、
「お母さんは『がんばったわね』とか『上手ね』っていつも言うけど、それはお母さんの口癖だよ。
だって喜んでないもの」
お母さんはとてもびっくりした顔をしていました。
�]夫君は、
「怒るときはとても真剣なんだけど、はめるときはいいかげんなんだ」
お母さんの顔は赤くなったり、青くなったりしていましたが、やがて自分がなすべきことに気がついたようでした。
最近は育児書やしつけの本には「はめて育てましょう」と書いてありますから、お母さんやお父さんはほめることの大切さを知識として知っています。
ところがほめているつもりなのに、叱ったり、けなしたりすることがそれ以上に多かったり、ずっと深く気持ちが込められていることがあります。
またことばでほめさえすればうまくいくといった思い込みが、叱られたり、けなされた子どもの気持ちへの気づきを鈍らせ、子どもを傷つけてしまっていることがあります。
子どもが床に紙をまき散らして遊んでいるとき、
「かたづけなさい! 何度言ったらわかるの。全部捨てちゃうからね」
とお母さんは叱りつけ、子どもがしぶしぶかたづけ終わったとき、
「しょうがないわねえ、これからは散らかさないで遊んでよ」
ほめて育てるはずのお母さんはいったいどうしたのでしょう。
盲導犬や人間のパートナーとして活躍する犬たちの訓練は、どのように行われるのでしょうか。
まっすぐ進むことを覚えさせようとするとき、どうしていいのか知らない犬にまっすぐ歩かないからといって叱ったりはしません。
偶然まっすぐ歩くための一歩を踏み出したとき、訓練をする人は「それでいいのだ」と声をかけ、うれしい気持ちを伝えようとするのです。
そのとき犬は「なんだ、これでいいのだ」と納得し、次の一歩を踏み出すのです。
また「よし、よし」と頭を撫でられるともっとがんばろうという気持ちになっていくのです。
そしてだんだん人間をもっと好きになっていくものです。
こうした訓練の方法はとても効率的でお互いの信頼関係を揺るぎないものにしてくれることがわかっています。
犬に限らず、
「おもちゃは全部この箱に入れておこうね。そうしたら明日もすぐ遊べるよ」
かたづけ終わったあとに、
「きれいになって気持ちがいいわね。それに今日はとても早くかたづけができたねえ……よかった、よかった」
お母さんが心から喜んでいることを子どもに伝えてあげれば、きっとかたづけることがつらいなどとは思わずに、やがて自分で判断して「かたづけ」ができる子どもに育っていくはずです。
ほめるということは、はめことばを並べ立てることではなく、喜んでいることを伝え、感動を表現することと言い換えることができるといえるでしょう。
「どんなことばでほめたらいいのでしょう。教えてください」
とたずねられることがありますが、一〇〇人のお母さんには一〇〇通りの感激の仕方があり、表現があるのですから、これが正しいと言えるものはありません。
子どもが措いた絵を持ってきたとき、あるお母さんは、
「うーん、うまいね」
と言うかもしれません。
「ここよ、この色がいいわねえ」
と言うかもしれませんし、なにも言えずにポロリと涙を流すお母さんがいるかもしれません。
感動のことばなんてお母さんの数だけあるからです。
自分らしく子どもに感動し続け、ほんとうのはめ上手になってほしいのです。
あなたはいい子ねとほめるとき、私の子どもはすばらしいという気持ちから思わず出たことばである場合と、ちょっと違っている場合があります。
「いい子になりなさい、いい子というのは親が望む子どもですよ」
という有無をいわせない圧力が背景にあることがあるからです。
ほめることとまざらわしいのは、おだてることなのです。
「いい子だから、ちゃんとかたづけてよ、ちゃんと勉強してよ」
と、心のどこかで見返りを期待して子どもにちょっとした圧力をかけようとするのは、ほめているのではなく、おだてているだけです。
親の打算が潜むおだてとはちゃんと区別したいものです。
「そう言えば、あなたのこと、ちゃんとはめてこなかったわねえ……」
「ぼくは病院でほめてもらうからいいよ。急には無理だからお母さん無理しなくていいよ」
と言われてしまったお母さんもいるそうですが、子どもの忍耐にばかり期待してはいられませんね。
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手のかかる子供はよく育っていく
四歳のF美ちゃんのお母さんは、F美ちゃんがお母さんから離れなくなってしまったことで悩んでいました。
ちょっとの間ぐらいの留守番は平気でしたし、これまではお母さんを困らせることもなく、聞きわけのいい子どもだったのです。
ところが最近はお母さんがトイレに行くというのにも離れずついてくるようになりました。
叱ると泣き叫んでかえってしがみついてきます。
疲れきったお母さんは「育児相談」に電話したり、いろいろな相談機関に相談してみたのですが、「そのうち自分で離れていくので心配いらない」と言われたり、「それはお母さんが大好きな証拠だからいいことだ」と励まされても、今困っているのにと納得できません。
とうとう小児科へ相談にいきました。
お母さんは「離れなさい」と強く叱りつけたり、こっそり裏口から買物に出かけたりしてならそうとするのですが、そのたびにF美ちゃんは大泣きしてもっとひどくなることを繰り返していました。
F美ちゃんは生まれたときから手がかからず、とても育てやすかったと言います。
なぜ今ごろになってとお母さんはすっかり気落ちしていました。
F美ちゃんの気持ちを考えてみましょう。
F美ちゃんはお母さんから離れたくないと思っているみたいです。
「そういえば、もうすぐ赤ちゃんが生まれるので、しっかりさせなければと思っていました」
F美ちゃんは最近お母さんが自分を離そうとしていることに気がついて、お母さんがどこかへ行ってしまうと感じたり、自分を可愛がってくれなくなるのではないかととても心配になっていたのでしょう。
でもなぜそこまで不安をつのらせていったのでしょうか。
育てるのに「手がかからなかった」子どもの中には、少し大きくなってから忘れていたことを取りかえすかのように、
ちょっと手のかかる困ったことをしでかすことがよくあります。
「うちの子は手がかからないの。泣いたりぐずったりしないからとても楽よ」
「いいわねえ、うらやましいわ」
などと、手がかからないことははめられるべきことのように言われることがありますが、どうもそうそう安心していいものではないのです。
「手がかからない」を言い換えれば、赤ちゃんからの訴えが少ないということになります。
その多くは訴えが弱々しかったり、お母さんやお父さんに答えてもらえないことに、その場で大げさに文句を言わないだけなのですが、
周囲のおとなたちはその控え目な態度に気づかず、子どもの要求に無頓着なことを繰り返す結果になってしまうことがあります。
赤ちゃんが泣いてぐずぐず言えば、お母さんやお父さんは抱き上げてあやそうとします。
それでも泣きやまなければ、どんなに忙しくても、疲れていても赤ちゃんから離れるわけにはいきません。
赤ちゃんは抱かれている時間も話しかけられている時間も、両親を独占する時間もとても長くなっていきます。
反対にあまり泣きもせず、一人でおとなしく過ごす赤ちゃんは親をほっとさせ、「ちょっと待っててね」と待たされる時間も多くなってしまいます。
目立たない赤ちゃんの要求はそのがまん強さゆえに無視されたり、気づかれなかったりするのです。
こうしたことを繰り返して育っていけば、親子の杵は結ばれているものの、案外弱々しくてもろかったりするのではないでしょうか。
手がかかる子どもは、肉体的にも精神的にも親をへとへとにさせます。
親の立場からすれば育児に自信をなくしたり、窓の外へ赤ちゃんを放り投げてしまいたくなったり、産んだことをつくづく後悔したりと大きな苦痛となってしまうこともあります。
やたらに手がかかる子どもを抱え、疲れはててしまったお母さんたちの相談はよくあることです。
しかし手をかけてもらい、いつも自分を守ってくれる親という存在を確認できる時間が多いということは、子どもにとってとても心地のいいものです。
親に手をかけてもらった経験が多いほど、少しぐらいの困難に出会っても安心して立ち向かっていけるだけの安定感を心に刻んで育っていきます。
手のかかる子どもはそうした意味でラッキーな子どもであり、手がかからない子どもは不遇に陥りやすいと言えるでしょう。
育てやすいとほっとするより、自分から要求することが慎み深い子どもであることを心に留めて、「遠慮しないでいいのよ」と抱いたり、声をかける必要があるのです。
F美ちゃんは「今よりもう少ししっかりしてね」というお母さんからのはたらきかけに、「だいじょうぶ」と大見えをきるにはちょっと今までがまんし過ぎたようです。
おかげでお母さんとの絆はまだ確固としたものにはなっていなかったのです。
F美ちゃんの不安を安心感に変えてあげなければなりません。
F美ちゃんに、お母さんはいつもF美ちゃんのお母さんで、いつもそばにいることをからだごと伝える必要がありました。
そこでお母さんに、F美ちゃんから離れないでくださいとお願いしました。
「お母さんはトイレに行くけど、いっしょにいらっしゃい」
「お洗濯物を庭に干しに行くの。いっしょにおいで」
と、お母さんには一日中ずっとF美ちゃんにまとわりついてもらいました。
もちろんこっそり買物に出かけるのもやめてもらいました。
二週間後、F美ちゃんは、「おかあさん、一人でおしっこできるでしょ」とお母さんのトイレにはつきあうのをやめ、一カ月後には、「お留守番してるから、お買物にいってもいいよ」と、すっかり元気になったとのことでした。
引き離そうとしたとき、子どもは引き離されまいとよけいにしがみつこうとします。
まだ一人では無理なのと訴えかけてきます。
お母さんのほうがすりよって行くと、なんだお母さんはそばにいる、安心していいのだとこんどは自分から離れていくものなのです。
子どもの成長は、自分でやりたいと言い出すことであり、自分でやるには、いざというときに、すぐ飛び込める母親の羽毛のありかを確信していなければなかなか思い切れません。
ちょっとだけ離れてみては戻り、もう少し自分でやってみるといえプロセスを繰り返していきます。
それをおとなのペースでやってしまうと、もう戻れませんよとお母さんに宣告されてしまったと悲痛な思いにとらわれるのです。
そしてF美ちゃんのように「お母さんから離れない」ことが起きてしまうことがあります。
子どものためらいをゆっくりみてあげるとともに、手がかからないことが、貧乏くじを引いたことにならないようにしなければならないのです。
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親の都合で子供を忙しくさせていないか
子どもたちの様子を見ていると、「あなたたちも忙しいねえ……」とため息混じりに声をかけたくなってしまうことがあります。
忙しく動き回っていることの多くは充実感を伴うことが多いので、めりはりのある生き方の一つでもありましょう。
でもそれが身体や心を大いに圧迫するものであるとしたら、ちょっと問題になってきます。
最近は頭痛や腹痛を訴える子どもが増えてきました。
朝なかなか布団からぬけ出せず、お母さんの多大な努力によって、たたき起こされて学校へ行くのです。
ところが学校では頭がも.痛くなり、午前中はぼんやりした霧の中で過ごし、給食を食べて昼休みに遊び始めた頃からやっと少し元気になるということがあります。
ときには保健室に行かねばならぬほど頭痛がひどくなって、ずっとベットに寝ていることになります。
こんなことが続くとお母さんは病気ではと心配して病院につれてきますが、特に身体の病気は見つからず、心因性の頭痛ではないかということで、病院にやってくることがあります。
昔から「寝る子は育つ」と言われていますが、子どもの成長にとってごはんを食べることと同じくらい睡眠をとることは大切なことです。
それなのにどうしてそんなに眠る時間が少なくなってきているかというと、最近は子どもがおとなの生活リズムに巻き込まれて、
子どもとおとなの生活時間の境目が暖味になってきていることが考えられます。
それだけでなく塾通いでも忙しかったりするらしいのです。
塾から帰ってきて宿題までこなすと、一一時、一二時にすぐなってしまうというのです。
身体に頭痛をひき起こすはっきりとした理由がない以上、この過密なスケジュールによる睡眠不足は問題となります。
まずは睡眠を確保した上で次のことを考えなければならないからです。
ところがいっしょに付き添ってやってきたお母さんの中には、
「塾通いを減らすなんてできません。それより痛みどめがほしいんですけど」
と言う人もいらっうしゃいます。
ときには塾をやめさせるくらいなら、少しぐらい頭痛が続いてもいいとはっきり言うお母さんもいますから、子どもにとっては生きて行くのがつらい世の中になってきたものです。
頭痛だけでなく「お腹が痛い」の訴えの中にも、忙しさゆえの問題が潜んでいることが多いものです。
寝不足で早く起きることができない子どもたちは、身体が寝ぼけた状態では朝ごはんが喉を通るわけもなく、大きな忘れものをして学校へハタハタと出かけて行きます。
食事をしていないので、便意をもよおさないまま登校して行きます。
出すものを出していないと、思わぬときにウンチをしたくなるということはよくあることですが、学校へ到着してからトイレに行きたくなったりします。
授業中だったらがまんしようとしますし、男の子の場合は特に、トイレの個室にはいると、おしっこじゃないということが友だちにばれてしまいますからよけいにがまんしてしまうことがあります。
そうするとお腹が痛くなってしまうことがあるのです。
朝ごはんは食べてないから全然元気は出ませんし、おしりはムズムズするわけですから、とうてい先生の話などはゆっくり聞いていられませんし、ましてや集中力などあるはずもありません。
ときにはやはり保健室に行くほどになり、保健室のトイレで排便したらすぐに元気になったりすることもあります。
子ども自身こうなった理由がよくわからず、「お腹が痛い」と訴えるようになるのです。
こうした状況が続くと便秘になったりするわけで、最近は子どもの便秘も増えてきています。
腹痛や頭痛の中にはこうした単純なメカニズムで起こっているものばかりではありませんが、保健室で子どもたちの健康を眺めている養護教諭の先生たちも同じようなことを感じているようですから、最近ではよくあるできごとの一つだといえるでしょう。
ここまでくると、究極の親の役割は
「食べさせて、出させる、そして寝かせる」であり、これをまずしっかり正しく行うことが子供の発育に必要なことでしょう。
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親が子供を信じる気持ちを持っているか
どんなに子どものことを愛しているとしても、この子がいるためにとても忙しかったり、夜起こされて寝不足になったり、お金が必要になったり、泣くことが続いたりすると、ちょっとは恨みがましい気持ちが心をよぎることがあるものです。
たいがいのお母さんやお父さんが一瞬そんな気持ちになって、そしてときには自己嫌悪に陥ることが少なくありません。
一過性の子どもを疎ましく思う気持ちは、「ない子には泣かされぬ」というように、子どもがいるからこそ出現するストレスであって、塩を一つまみ入れないと砂糖の甘さが生きてこない料理のように、子育ての大切なスパイスかもしれないのです。
お母さんやお父さんに、
「あなたはお子さんのことが好きですか?」
とうとつと唐突にぶつけてみると、何を言ってるんだろう、あたりまえじゃないかという顔をします。
自分の子どもが嫌いだと思っている人なんてあまりいません。
しかし一過性の疎ましさの影にある、子どもを愛している気持ちをちゃんと伝えられなければ、子どもは疲れた心を癒し、立ち直って行くチャンスを見逃してしまうことがあります。
自分の爪を噛む癖のあるW男君は小学三年生です。
あまり熱心に爪を噛むものだから最近は爪を切るどころか、深爪になって指先が盛り上がってしまいました。
心配したお母さんはW男君を連れて相談にやってきました。
「爪を噛まないようにいくら叱ってもやめないんです」
とても心配するお母さんに、
「W男君のよいところはどんなところですか?」
とたずねてみました。
思いがけない質問にお母さんは笑いながら、
「いやだわ。そんなこと考えたことがないけど、そうねえ、勉強はしないし、あとかたづけはしないし、いつもファミコンに夢中で……困ることばかりだわ」
お母さんは、質問を軽い雑談でもしているように済まそうとしていました。
あきらかにお母さんは戸惑っていました。
「W男君のことで私に自慢できることはありませんか?」
さらにたずねると、ますますどうしてよいのかわからなくなったようでした。
「弟ならほめることがあるのに……」
W男君とつきあってみると、相手の気持ちをゆったりとさせてくれるなんとも魅力的な性格の持ち主であることがわかります。
彼はファミコンゲームを持ってきてやり方を教えてくれました。
そうした努力にもかかわらずこちらはちっとも上達しなかったのですが、根気づよく教えてくれます。
そして何より、「下手だなあ」などとは決して言わないで、「きっと上手になるよ」と励ましてくれるのでした。
お母さんに彼のこうした温かい性格について話しても、
「ゲームばかりやってるから、そんなことしかできないんですよ」
とかえって腹立たしそうでした。
わざわざ学校を早退して来ているのに、ファミコンゲームのことをほめられるなんてと思っています。
ある日、彼は「エジソンの伝記」を抱えてやってきました。
エジソンは幼い頃学校ではいわゆる落ちこぼれだったのです。
エジソンは先生に頭が悪いと言われ、学校に行かなくなってしまったのです。
エジソンのお母さんは学校によばれてそうした話を先生から聞かされます。
そのときエジソンのお母さんは、「私の子どもはいい子です」とたんかをきり、エジソンを家でのびのび勉強させたのだそうです。
エジソンを信じたお母さんがいなかったなら、発明王としての成功はなかったと言われています。
学校へほとんど行かなかったのに、多くのことを勉強し、好奇心を持ち続けた彼は、不登校の元祖などと言われています。
私はエジソンの本を開きながら、W男君に、「エジソンのお母さんかっこいいねえ」と話しました。
W男君は、
「僕もそう思うんだ。だからこの本図書館から借りてきたんだよ」
「ところでW男君のお母さんはどうなの?」
「まだまだだねえ」
「うん、まだかもね」
「でももうすぐだよ」
彼は彼特有のリズムを持っている子です。
みんなが急いでいるときに立ち止まったりするものだから、要領が悪いと学校でもはみ出してしまったりしています。
なんでもすばやくこなし、PTAの役員などで活躍しているお母さんにしてみれば自分なりのゆっくりとしたリズムで動くW男君にイライラすることが多いのです。
W男君は学校での不器用さから、先生に叱られたり、友だちにからかわれたりすることがあって疲れていましたが、そうしたストレスを家庭で癒すことができずに、爪を噛んでいました。
それでもW男君はお母さんを待っていました。
いつかエジソンのお母さんのように、この子は誰がなんと言おうと私のかわいい子だとたんかを切ってくれることを信じていました。
こうしたW男君の魅力的な性格はひょっとするとお父さんに似ているのかななどと思ったものでした。
カテゴリー:子育て
ちゃんと育てればストレスに強くなる
ミルクだけでは育たない
赤ちゃんは何で育つかとたずねれば、多くの人はミルクだと答えるでしょう。
たしかにミルクがなければ育ちません。
それどころか生きてはいられません。
しかし人間はパンのみでは生きるにあらずと言われていますが、赤ちゃんだってミルクだけでは生きられないのです。
赤ちゃんにとって大切なものについて多くの研究が示してくれています。
赤ちゃんはまだなにもわからない存在だと信じてきたのは、私たちが自分が生まれた頃の記憶がほとんどないからかもしれません。
生まれた病院のことだの、とりあげてくれた産科の先生のことだの、その頃若かった両親のことだのまったく覚えていないものだから、赤ちゃんの心は闇の中にあると思いこんでいるのかもしれません。
ところが最近は赤ちゃんはお母さんやお父さんの声や顔により多く反応することや、自分から外の世界へはたらきかけていることがわかってきています。
たくさん話しかけたり、だっこされたり、かわいいねと触れられたりするほうが、心も身体もよりよく発達していくことがはっきりしてきました。
赤ちゃんの、声をかけずにはいられない丸っこさは、神様が心の栄養もちゃんと食べられるようにと仕組んでくれた「わな」なのかもしれません。
もしやさしく触れるというスキンシップなくして育ったらどうなるでしょう。
むかし親がいない子どもたちを収容する施設や病院では、人手が足りないという理由から、子ども一人一人にやさしく声をかけたり、抱き上げたりすることが少ない状況におかれたことがあります。
きっと子どもたちに食べさせることや、清潔に保つことで精いっぱいであったことでしょう。
だきあげて晴乳ぴんを飲ませるゆとりがなくて、赤ちゃんに晴乳ぴんを手渡しして、勝手に飲むのを待つことがあったといいます。
またそれを責められない社会状況であったことでしょう。
そうして育った子どもたちは、十分な栄養を与えられたにもかかわらず、身体は小さく貧弱で、病気にもかかりやすかったそうです。
ところが問題はそれだけではなく
喜怒哀楽の感情表現に乏しく、知的発達も遅れがちでした。
こうした事実から、子どもは食べ物だけでは育たないことがわかったのです。
なぜ幼い頃のスキンシップに注目するかというと、子どもの健やかな心と身体の発達にとって必要なのはもちろんのことなのですが、
なによりストレスに強くなるために大切なことだからなのです。
ちゃんと触れられて育つということは、あなたは大切な子、あなたはいい子、あなたは望まれて生まれてきた子と感じて生きることです。
家族みんなが自分の存在を喜んでいるのだと幼いときにしっかりと身体で感じることができれば、心も身体も大きくなっていいのだと安心して育っていくことができます。
大きくなって少々じゃけんに扱われようが、自分は生きていく価値があるからだいじょうぶ、またすぐいい状態に戻れると信じることができるのです。
ドカーンといきなりふりかかったダメージよりも、嫌なことがあるかもしれないとおびえ続けたり、また起こるに違いないと先の心配をすることで、長く続くダメージのほうがストレスとしては大きいと言われています。
少なくてもそうしたストレスにつきまとう不安や恐怖感に対して、とても強い人間に育っていくには心の栄養が不可欠です。
ちゃんと触れられずに愛されたという実感がもてないままおとなになったとき、人はとう愛されたらいいのかがわからなくなります。
それだけでなく人を愛することも下手になり、冷たさを感じさせるおとなになってしまうことがあります。
人間は愛された経験を通して、人を上手に愛せるようになっていくものなのです。
カテゴリー:子育て
子供の個性を伸ばす教育が必要
みんなと同じが安心なのはなぜだろう、違っているとはみ出しているように感じてしまうのはどうしてなのかを考えてみましょう。
幼い頃は子どもの感受性を大切にしようとします。
葉のそよぎに「おしゃべりしている」と思い、朝露が滴り落ちるのを見て「おかあさんにしかられて泣いている」と言って、
木や花にも自分と同じようにさまざまな感情や行動の意味づけをする子どもの感性をほほえましく思うものです。
もっと感受性豊かにと絵本をみせ、物語を読んで聞かせようとします。
ところがもう少し大きくなると、
「いつまでそんな子どもみたいなこと言ってるの」
と知識としての植物の名前や成り立ちを覚えることのほうが大切だと言い始めます。
感受性を高め、個性をのばそうとしていたおとなたちは、その舌の根も乾かぬうちにやがてみんなと同じように行動する子どもを見てなぜかほっとするようになります。
同じ制服を着せようとし、同じ持ち物にこだわらせようとします。
みんなと同じようにすることがいいのだと暗黙のうちに圧力をかけ始めるのです。
なぜか自分は自分なんだと言おうとする芽を、あえて許さないようにしてしまいます。
そして紙に書き込む正しい答えはたった一つだからそれにこだわりなさいと言い続けます。
制服にちょっと手を加えたり、靴下の色をかえてみたりといった精いっぱいの自己主張さえ、その裏にある自分らしさの迷いや模索について感じ取ってやるだけの感受性を持たないおとなにとっては、淀やぶりであり、非行につながる重大事です。
個性の芽をちゃんと発信させてやらないから、チューブの端から中身がもれるように、ちっとも似合っていないかもしれない改造制服やちょっと違った靴下に自己主張をすることもあるのです。
子どものメッセージを感じ取ってあげようと私たちが言ったとき、
「私は『かっこいいね』と言ってあげていますよ。
でも規則だからやめなさいと説得しています」
と話してくれた中学の先生がいました。
たしかにいきなり校則違反だといきり立つ先生よりはあたりが柔らかいとは思いますが、なんだか前よりも気が重くなってしまったのです。
ほんとうはかっこいいなんて思ってはいない、ちょっとだけいい気持ちにさせて規則に従わせようと聞こえたからです。
そうとう意地悪な解釈ではありますが、
なぜ「みんなと同じ」からはみ出したくなるのか、そしてなぜみんなと同じのほうがおとなの自分たちが安心するかについて少し困って欲しかったのに、この先生はあまり困っていなかったからです。
私たちは決して制服がどうのというつもりはありません。
しかし前からあるものだから動かしがたいものだという発想は自分から型にはまろうとしているか、はまるのがあたりまえということになります。
子どもにとって制服とはどんな意味を持ち、そのことをいっしょに考えていこうという同じ目線が必要なのではないかと思っているのです。
自分で納得して「ここにいる」のと、「ここにいなさい」と言われてここにいるのでは、客観的な行動は同じであっても、心の受けとめ方は自由な青空の下と牢獄ほどの差があるものです。
子どもたちはやがてみんなと同じにしていさえすればいいのだと無力感を感じ、やがてはみんなと同じがいいに慣れてしまうのかもしれません。
だから障害をもつ「みんなと同じではない」人たちへのやさしい気持ちなど育つはずもない社会なのだ、といえば言いすぎでしょうか。
カテゴリー:子育て
子供のやる気を引き出す親の接し方・考え方
子供は何か、声を掛けてほしいと思っています。
ところが、この御用聞きもやらない親や先生がいます。
押し付けがましのも困りますが、子供に何もやらないのも困ります。
子供に声をかけてやることは、「関心があるよ」という意思表示にもなり、子供はそれだけでも安心します。
子供が頼んでくるものがあったら、自分に出来る範囲で協力してあげればいいのです。
子供の要求を聞きだすのが大切です。
もう一つ重要なのは、
子供にどれだけの能力があるかではなく、能力をどう使っているかを知ることです。
どんなに頭がいい子でも、それを自分の為にだけ使っているのでは決して偉くはない。
自分の能力を誰に使っているのか、それが問題にります。
こうした考え方を「使用の心理学」と呼びます。
巨人軍の松井選手だって、けがでゲームに出られなければ何の意味もありませんね。
松井選手よりも能力がなくても、代役の選手ががんばった方が巨人軍には役立ちます。
子どもを見るときに気をつけることは、「この子は能力を何に使っているのかな」ということです。
実際、その子にどれだけの能力があるかはわかりません。
それよりもその子がやっていること、すなわち、行動を見ている方がはるかにいいのです。
「何くだらないことしているのだ」とか「無駄なことはやめなさい」と言ってしまったら子どもはいっぺんにやる気をなくしてしまいます。
そうじゃなくて、子どもがやったり言ったりしていることから、その子の望みをくみ取り「できるといいね」とその子の希望や意欲、あるいは喜びを分かち合う、共有してやることが大事だと思います。
カテゴリー:子育て
子供の個性を押し付けていませんか?
お母さんの中には子どもが勉強をたくさんするようにと願いながら、外へ遊びに出ようとしないと心配したり、「友だちがいないのかしら」と気をもんだりすることがあります。
そして、小学校に入学する頃になると「友だち一〇〇人できるかな」と親子で歌っては、友だちは多いほうがいいと素直に信じていたりします。
集団生活が始まれば「みんなでいっしょに……」と仲間との協調をやっぱり期待されることでしょう。
たくさんの友だちの中で過ごすことが大好きな子はたくさんいます。
明るく活発な子やリーダーの素質を備えた子がいきいきと過ごしているのを見るのは、子どもらしさの象徴を見るような気にさせられます。
私たちがこの「子どもらしさの象徴」と感じる気持ちについてちょっと立ち止まって考えてみるとき、
それは友だちとは仲良くするのがいいのであり、友だちが多いということは、性格が穏やかで協調性もあるいい子なのだと「思い込んでいる」ことに気づかなければなりません。
テレビや漫画のヒーローはみんなに好かれる魅力的なキャラクターに措かれていたりして、ヒーローに自分を重ね合わせる子どもたちは自分もそうありたいと願って育っていくことでしょう。
もともと関心が外へ向かう子どもはそうした形で自己実現をはたしていきます。
しかしここでちょっと考えなければならないのは、
どの子どもも同じように「活発に動くことが好き」とは限らないということです。
一人でいるのが好きだったり、限られた友人と深くつきあいたい子どももいるということなのです。
そうした子どもに、外で元気にみんなで楽しく遊びなさいという一つの価値観を押し付けてはたしていいものなのか、
ひょっとすると子どものもって生まれた個性をどこかに押しやってストレスにすり替えてしまってはいないかを少し考えてみることも必要です。
「学校へ行くと、とても疲れる」というE子さんは身体が弱いということもあるのですが、なぜ疲れるかの本当の理由について最近まで気づきませんでした。
私たちからみると、友だちとのつきあいが疲れてしまう原因のように思えます。
「友だちとは仲良くしなければいけないし、友だちはたくさんつくらなきやいけないと思い込んでいるんじゃない?」
とはっきり伝えてみました。
「え! だって友だちは多いほうがいいに決まってる。
少ないとなんだか私が嫌われているみたいに思われてしまうでしょう?」
「たくさんの友だちとつきあうのが好きな人もいるけど、一人でいる時間がとても大切な人もいるし、いっしょに過ごしたい人がたった一人という人がいたっていいでしょう。
まだほんとうの友だちといえる人に出会わない人だっているかもしれない」
友だちがたくさんいることがいいことなんだとそのために努力していたE子さんはちょっとびっくりしたようでした。
そして自分の周囲にいる友だちに好かれようと努力してきた自分について考え始めました。
次にやってきたときには、
「私はとても友だちに気を遣っていたの。
友だちが今どうしたいのかなって先に考えてあげたりしていたの。それで疲れていたんだと思う。
それに嫌われたら困ると思って不安だった。
でももう少し自分らしくてもいいかなと思うようになりました」
と話してくれました。
周囲に合わせようと長い間続けていると、自分自身が本当はどうしたいかがわからなくなってしまうことがあります。
そうした積み重ねはおとなになって社会に媚びることを処世術と思い込み、心の幸福感とはかけ離れた「いつも心が疲れている」生活を送ることになったりします。
その反動としてときには偏った価値観がみずからの信じる道と錯覚する深刻な結果すら起こってしまうことがあります。
それはみんなと同じ集団にまざれてしまうと安心するからです。
自分らしく生きるということはさまざまな生き方を認めることから始まるということをおとなもちゃんと自覚しなければなりません。
「違っていてこそあたりまえ」がほんとうにあたりまえなのです。
カテゴリー:子育て
しゃべらないことが気持ちのバランスにつながることもある
学校へ行っていない子どもたちに行う集団療法というものがあります。
集団療法のいいところは学校へ行けない自分は「ふつう」じゃないとつらい気持ちを抱えている子どもたちが、自分だけじゃないと感じる場ができる点にあります。
�X子ちゃんは小学四年生です。ほかの子供たちと一緒に集団療法を受けていました。
ある日、大きな紙に落書き大会を行うことになりました。
おおきな紙にみんながいろいろ描き始めるのを見ていたのですが、
「担任の先生の顔をかいていい?」
とたずねるのです。
ちょっと深刻そうな顔をしています。
「それからめちゃくちゃにしていい?」
�X子ちゃんは学校へ行けなくなって半年以上経つのですが、当初の落ち込んだ様子からはだいぶ元気になった頃、お母さんといっしょに参加するお楽しみ会には行けそうだと話してくれたことがありました。
そして子どもとしての精いっぱいの勇気を出して学校にでかけていったのです。
ところがそのとき担任は
「これまで学校にこないでみんなに迷惑をかけたのだから、みんなに謝りなさい」
と言ったのです。
学校に行かなかったのは彼女自身の問題であって、そのことで級友にあやまらなければならない筋のものではありません。
「あやまれ」は担任の不登校に対する苛立ちの表現であったと察せられます。
�X子ちゃんに与えられた罰によってやっと学校にたどり着いた彼女の気持ちはずたずたに傷つき、そのまま泣きながら家に帰ったのだと、やはり泣きながらお母さんは教えてくれたのでした。
そんないきさつを知っていましたから、�X子ちゃんが担任へのくやしい思いをぶつけるつもりなのだと考えました。
�X子ちゃんは、担任の似顔絵と名前をかいてから、「大嫌い」と声に出しながら足で踏みつけていました。
ところがこのことは�X子ちゃんをさらに深く傷つけてしまいました。
先生にとても悪いことをしてしまった、足でふまれたら私はとても嫌だと思う、なのに私は先生を踏みつけてしまったと落ち込んでしまったのです。
�X子ちゃんはこれほどの優しさと、相手の気持ちを自分のことのように感じてしまう鋭い感受性を持ち合わせていました。
思っていることを何でも話してもらったほうが、どうして学校に行けないんだろうとか、どうして髪を染めてしまうんだろうとただただ悩んで迷ってしまうおとなにとっては助かることです。
ところが話したくても話せないことや、口に出して自分の耳で聞いてしまってもっとつらくなることがあります。
それはおとなでも同じことですが、子どもは自分の気持ちを表現することばという手持ちの手段がそれほどたくさんありませんし、しゃべらないことが気持ちのバランスを保つために必要だったりします。
何でも聞き出そうとすると、おとなをだまらせようとして、心にもないことを言ったり、本筋ではなく枝葉のことを言ったりします。
混乱してしまうことが少なくないのです。
子どもがしゃべらないことも大切な気持ちとして受け取ってあげなければなりません。
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子供の気持ちを知りたいと思っている大人への処方箋
私たちおとなは子どもの気持ちを知りたいと思っています。
子どもの心の中にあるものを話してもらいたい、そして解決してあげたいと思っているのですが……。
T子さんは中学二年生のとき、右腕が腫れて強い痛みに悩まされるようになりました。
小学生のときの交通事故の後遺症の可能性があり、入院してリハビリ中心の治療を行っていました。
ところがなかなか腫れと痛みがよくなりません。
T子さんに家族のことや学校のことをたずねるのですが、
「お父さんやお母さんは自分のことをとても心配してくれるし、なにも心配なことはありません」と言います。
いくら聞いてもそれ以上のことは話してくれそうもありませんでしたから、あえて開き出そうとはしませんでした。
いつも緊張しているT子さんの心と身体をリラックスさせる必要を感じましたので、リラックスする方法の訓練を行いました。
やがて表情が固くていつも構えているようにしていたT子さんも、気持ちが楽になってきたらしく、陸上部の部活が厳しくてやめたかったけれどやめると根性がないと思われそうで悩んでいることや、成績が落ちてしまったことなどを話してくれました。
その頃から少しずつ痛みがやわらぎ、目に見えて腫れがひいていきました。
「自分でリラックスする訓練を続けていけば、学校に行けると思う」と話すようになった頃、退院が決まりました。
それから五年後、大学生になってすっかりおとなびたT子さんと偶然会いました。
「あの頃、両親はいつも言い争いをしていました。離婚話が持ち上がっていたんです。
私はとてもつらかった。
家を出たいと思ったこともあったけれど自分一人では生活できないし、悩んでいたんです。
痛みが続いたのは家に帰るのが嫌で入院していたかった気持ちも関係あったと思っています。
それよりお父さんもお母さんも大好きだったから、どちらとも別れたくなかった……」
実を言いますと、T子さんの症状にそうした家庭状況がかかわっているだろうということはわかっていました。
T子さんに、どうしてあの頃話してくれなかったのかをたずねました。
「あの頃は自分でも何がつらいのかがわからなかったんです。
混乱していたと思うし、話すのがつらすぎて話せなかったような気もします。
でも今ならあの頃の自分のことがよくわかるし、話せると思ったので、聞いてもらいたくてここへ来ました」
五年たって、ようやくT子さんは自分の気持ちをことばに表すことができるようになったのでした。
話すことで楽になるとは限りません。
立ち直って話せる元気が出るまで待つのも大切なおとなの役目なのです。
そして話せないほどのつらさを知って無理に聞かないことも大切な思いやりなのです。
中学三年生のU夫君が学校へ行けなくなりました。
U夫君と初めて会い、家族のことや友だちのことをたずねても何も言いません。
しかしその表情からは言うもんかといった反抗的なものでないことがわかります。
うなだれた様子に
「学校に行くより、学校へ行かないほうが苦しいんだね。ずいぶんつらかったね」
と話しました。
それにも何も言わずに帰って行きました。
二週間後一人でやってきたお母さんは、
「U夫が少し話をしてくれました。『学校に行けなくなってから、お父さんやお母さんになぜ学校に行かないのかと登校しない理由ばかりをたずねられてきた。
同じことを学校でもきかれたけど、自分でもわからないから聞かれるたびにつらかった』と言うのです。
ここへ来たときも、『きっと同じことを聞かれると思っていたのに、先生はつらかったねと今の自分の気持ちをわかってくれたと思ったらすっとした。
それがとても嬉しかった』そうなんです」
そして、
「私もこれからは学校へ行けないつらさをわかってやれる親でいたいと思います」
とお母さんは話してくれました。
今学校に行けない子どもの行動に注目すれば、「なぜ学校に行かないの?」とたずねたくなります。
学校に行かない子どもをわかろうとすれば、苦しんでいる子どもが見えてきます。
子どもに必要なことは原因を突き詰めてもらうことではなく、今の自分の気持ちをわかってもらうことなのです。
ほんとうにつらいことはことばにできないことがあります。
何とか原因を知りたいと無理に聞きだそうとすると、子どもは心の糸口が見つからないままに、途中から糸をぷっつりと切って、みずからも納得しようとしてしまうことがあります。
そうすると心の中に割り切れないものがくすぶってしまうのです。
学校へ行けない理由を担任や親に何度も問いただされ、
「いじめられているんじゃない?」
とたずねられて、そうに違いないと思い込んでいるおとながそばにいたりすると、
子どもはそういうことにしちゃったほうがいいみたいだとか、そんな気にさせられたりすることがあります。
原因がわかったと思い込んで、転校させたりしてもやっぱり学校に行けなかったということは珍しくありません。
子どもの中で心の葛藤が熟成するまで待つゆとりも必要なのです。
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子供は、「勉強は苦痛」と教え込められている
思えば「勉強ができる、できない」とか「成績がいい、悪い」とかがこれまで生きてきて一番身近な基準だったと感じている子どもは多いことでしょう。
子どもを取り巻くおとなたちもこうした基準に振り回され一喜一憂の日々でもあります。
では勉強ができるとはどんな状況をさすのかとたずねてみれば「テストの成績がいいことでしょう」とささやく本音が聞こえてきます。
テストに象徴される勉強の中身をよくみてみると、見たり聞いたりしたものをどれだけ多く記憶したかが重要なキーポイントになっていることがわかります。
そして記憶したものをいかに要領よく表現できたか、他人との競争に勝とうと闘志を燃やしたかがとても大切に見えたりします。
「速くそつなく抜け目なく」というところがキーポイントなどと言ったらひんしゅくを買いそうですが、当たらずとも遠からずであることは否めないところでしょう。
しかし人間の能力がこれだけなら、ずいぶん貧弱なものということになります。
もし記憶力や反応の早さが能力を測る決め手なら、二〇歳も過ぎれば誰もがこうした能力が徐々に低下していくものですから、みんなが「頭が悪くなってだんだん使いものにならなくなる」というわけです。
世間を見渡せば「頭が悪くなる」頃からこそ、いい仕事をする人もたくさんでてくることを考えると、能力というものはもう少し幅広いものであることがわかります。
経験に基づく知識や何年かにわたって積み重ねられたものをまとめる能力はかなりの年齢まで発達することがわかっているのです。
子どもでも、性格を含めた個性でその能力の発揮の仕方が違っています。
狭い経験を深く突き詰めたがるタイプや、ゆっくりていねいにするのが大好きで、人のことは気にしないマイペースの子どもは、いわゆるテストを中心にした勉強にはちょっと不利なことが多いようです。
多少のハンディキャップがあるような場合はもっと不利になります。
でも問題を一〇分で解けることも大切ですが、一時間かかっても解こうとする気持ちはもっと大切です。
それに世の中を見渡しても本当に一〇分で解く必要のあるものは案外少ないものです。
それでも一定の短い時間で解ける学力がすべて主義がまかり通っていて、子どもを病気へ追い込み始めていることに気づく必要があります。
「あなたは国語の漢字は苦手だけれど、昆虫の名前はたくさん憶えているし、じっくり観察することができるしすごいなあ。理科をもっと勉強して得意な力を伸ばそう」
とは言わないで、
「教科書に出ていない昆虫の名前ばかり憶えていたってしょうがないでしょう。それより漢字の練習を毎日一〇〇回やりなさい」
とすごんだりするのです。
好きなことに打ち込んでこそ、不得手なものに取り組むファイトが出てくるというものです。
あまり好きでないことは誰だって続きません。
続けていれば間違いなく「大嫌い」になります。
なぜそのことに気づかず、勉強にこだわるかというと、やっぱりお父さんやお母さんもそんなふうにさせられてきたからかもしれません。
そして子どもにも自分が味わったような勉強を嫌いになっていく道筋を歩ませようとしているのです。
日常の中での新しいことや目新しいことを知る楽しさを削り取られた子どもは、親の期待通りに、「勉強は苦痛そのものである」と感じ、ストレスとして抱え育っていくことでしょう。
昆虫が好きで、図鑑を読むうちに難しい漢字に遭遇し、どうしても漢字の読み方や意味を知りたいと、教科書以上の漢字を読みこなすまでになったり、
知りたいという熱い思いはやがて英語やドイツ語にひろがっていくかもしれないのです。
こんなとき勉強はちっともつらいものではなくなって、楽しいエネルギーになっていくことでしょう。
「幼い頃はよく勉強したし、成績もよかったのにだんだん勉強しなくなって……」という相談が目立ちます。
知識を吸収することがおもしろいと感じる力があったのに、そうした力を発揮できないまま終わってしまっている子どもが増えてきました。
お父さんやお母さんは、勉強とは机に一定の時間しがみつくことであり、そうした苦痛に耐えることこそが勉強そのものの本随と本気で信じこんでしまっている