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      <title>「心」が育つ、子育て・教育・しつけの仕方</title>
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      <description>「教育」の在り方を捉えなおす必要があります。キレる子供、青少年の事件が相次いでいる中、知識でなく「心の豊かさ」を形成する子育て・教育が現代には必要です。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2011</copyright>
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         <title>あまりにも高すぎる目標は、子どものやる気の芽をつんでしまう</title>
         <description><![CDATA[子どものやる気を引き出すために、目標をもたせることはいいことです。

ただ、親は欲ばりですから、つい高すぎる目標を設定してしまいがちです。

これは、<span class="b red">逆効果</span>になりますから、注意する必要があります。


これは受験生の例のほうがわかりやすいと思いますが、たとえば偏差値が５０の子どもに対して、偏差値６５の中学校を目標として選んだとします。

最初のうちは子どももやる気満々です。

ところが、一生懸命勉強してもなかなか成績は上がりません。

六年生の夏休みに、偏差値が５５になっていました。

ここへきて目標は達成できそうもないということが、親子ともにはっきりわかってきます。

すると、子どもはいっぺんにやる気をなくしてしまうのです。

じつは努力のかいあって偏差値は上がっているのですが、それよりも子どもの心の中は、挫折感でいっぱいになってしまうのです。

この期におよんで目標を偏差値５５の学校にかえても、もう手遅れです。

たとえ合格したとしても、ほんとうの満足感を得ることはできませんから、中学へ行っても、あまりいい成績はとれないのではないでしょうか。

また、成績が落ちて、希望校に合格できないことも十分考えられますから気をつけてください。

<span class="b blue">目標を設定してそれをクリアしたとき、子どもは大きな満足感と自信を手にします。</span>

<span class="b blue">反対に、クリアできないと、挫折感と自信喪失を味わいます。</span>

とくに高すぎる目標を設定してしまったときには、達成できそうもないとわかったときから子どもはやる気を失います。

しかも、挫折感を感じているわけですから、目標を設定するまえよりも悪い状態です。

だからといって、低すぎる目標では、目標を立てる意味がありません。

ですから、目標を設定するときは慎重になってください。

問題集のページ数を目標にするにせよ、時間的な目標を立てるにせよ、適当にきりのいい数字を選ぶのではなく、子どものふだんのテストの内容などから、適切と思われる目標を立てましょう。


また、一年先、半年先というような遠い目標も、とくに低学年の場合はあまり効果がありません。

そういう場合は、一ヶ月後にここまで、つぎはここまでというように、小刻みの目標にかえましょう。


テストの点数を目標にするのも感心できません。

点数を左右する要素が、子どもの力以外にいろいろとありすぎますし、努力がそのまま反映するとはいえません。

それに、子どもを点数にこだわらせてはいけないというのは、これまで何度も述べてきたとおりです。

目標を立てるとき、親が一方的に目標を押しつけるのではなく、子どもといっしょに目標を立てるという形にすると、より効果的です。

もちろん、実際の目標はお母さんが決めていいのですが、そのとき

<span class="b purple">「このくらいできるかな？」</span>

<span class="b green">「うん、できる」</span>

<span class="b purple">「じゃあ、やってみる？」</span>

<span class="b green">「うん、やってみる」</span>


こんな会話をかわしておくのです。

すると、子どもには<span class="b">「自分の選んだ目標」</span>という意識も出てきますから、よりやる気が出るはずです。

そうして、一度目標を立てたら、ほったらかしにしないで、なんとしても達成させるように協力してあげてください。

手伝いすぎてはだめですが、子どもが<span class="b green f11em">「自分でやりとげた」</span>という意識をもてる範囲で援助してあげましょう。

そうすることではじめて、子どもは、目標を立てること、それを達成することのたいせつさを学ぶのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 21 Nov 2009 13:36:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもがテストを持ち帰ってきたときが、親子で勉強するいいチャンス</title>
         <description><![CDATA[学校では、一つの単元が終わったときにテストをします。

ですから、テストの点数は結果を表すもの、とだけ考えがちです。

でも、それは学校のカリキュラムの中だけでのこと。

<span class="b">家庭学習においては、テストの点数はむしろ、一つのきっかけ、スタート地点と考えたほうがいいのです。</span>


学校では、クラス全体としてどのくらいの点数がとれたかを目安に、以後の授業のプランを立てるでしょうが、一人ひとりの子どものまちがえた問題のフォローまではしてくれません。

テストの時点で理解できていなかったところは、家庭でフォローしなければ、そのままになってしまうかもしれないのです。

つまりテストの点数は、お母さんに<span class="b purple">「ここを子どもに復習させておく必要がありますよ」</span>という貴重な情報を伝えてくれているわけです。


<h3>（１）余白の書き込みをチェックする</h3>


子どもがテストを持って帰ってきたら、まず答案用紙の全体をよく見てください。

算数のテストの場合、解答欄に答だけを書く形式のテストでも、子どもによっては余白に式や計算などを書いている場合があります。

逆に、答えだけが書かれていて、余分なことはまったく書かれていなかったり、書いたあとはあっても消しゴムで消してあったり、という場合もあります。

余白に何か書いてあるかいないか、これが第一のチェック・ポイントです。


<span class="b">余白にいろいろと書いてある子どもは、考えることのたいせつきを知っている子どもだと考えていいでしょう。</span>

したがって、こういう子どもは学力が伸びる可能性は高いと言えます。

反対に、何も残っていない子どもは要注意です。

たと、答えはあっていたとしても、結果だけに目がいっている子どもは、「できる」ことだけで満足している子どもである可能性があります。

式や計算はたいせつなものですから、かならず書き残しておくよう指導してあげてください。


<h3>（２）まちがえた問題をほかのノートに書き写させる</h3>


続いて、<span class="b">まちがえた問題に対するフォロー</span>です。

まちがえた問題は、「まちがいノート」をつくって、かならずそこに自分の手で書き写させてください。

このノートは、子どもがつまずいたポイントを記録する、貴重な資料になります。

まちがえた問題の中には、答えが書いてあるけれども×がついているもの、答えも書いていないものの二種類があるでしょう。

答えが書いてあった場合は、式や計算をよく確かめたり、子どもにやり方を説明させたりすることで、ただの計算違いなのか、それとも考え方をまちがえていたのかを調べます。
考え方が正しかったら、そのことを認めてあげ、計算をやり直しさせて○をつけてあげればすみます。

考え方が違っていた問題、そして答えが書いてなかった問題は、きちんと<span class="b">復習</span>する必要があります。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 21 Nov 2009 01:31:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>無口な子よりおしゃべりな子のほうが理解力があり学力も高い</title>
         <description><![CDATA[おしゃべりな子ども、とくに女の子のパワーには圧倒されます。

こちらがロをさしはさむ余地などまったく与えてくれません。

一つの話が終わっても、切れ目なくつぎの話題に移り、５分でも１０分でも、えんえんとしゃべり続けて、疲れることを知らないようです。

でも、よく聞いてみると、この話がじつにおもしろいのです。

事実はきちんと分かりやすく整理されていて、その子供の意見も筋が通っています。

大人たちが、意外なほど鋭い目で観察されていることに気づいて、ギクッとすることもあります。

もちろん、なかには子どもらしくない大人びた難しい言葉や言い回しも、平気で出てきたりしますが、言葉に対して子どもなりにアンテナを張っていることがわかって、妙に感心させられます。

こういう子どもは、たいがい学力も高いようです。

「おしゃべり」というのは人に自分の考えやメッセージを伝えようという行為の一つですから、おしゃべりの好きな子は、いつの間にか自然に<span class="b blue">自分の考えをまとめる力を身につけている</span>のでしょう。


それに、耳新しい言葉を使ってみたいという欲求が語彙を自然にふやしていて、話し好きな子どもは、小さな「もの知り博士」であることも多いようです。

つまり、すべての学力の基本である「国語力」を、おしゃべりの中で養っているというわけです。


おしゃべりな子どもは、しゃべるのが得意なだけではありません。

人の話をきちんと聞き、理解する力もあるのがふつうです。

自分の話を聞いてもらう喜びを知っているからこそ、人の話を聞いてあげられる力も身につけているのです。

また、自分の気持ちを表現するのが上手なだけに、人の気持ちを思いやることもできます。

授業中も、先生の話をよく聞き、積極的に手をあげる子どもが多いようです。


それに比べると、無口な子どもは表現力のトレーニングが少ないわけです。

これでは、学校の勉強を同じようにこなしていても、国語力に差がついてしまうというのはしかたありません。

また、自分を表現するのが苦手ですから、授業中に手をあげるということも少なくなり、それもマイナスに働きます。

それだけでなく、<span class="b red">自分の気持ちを表にあまり出さない子どもは、人の気持ちにも無頓着になりがちです。</span>

おしゃべりな子どもは、他人に嫌われることもありますから、ただしゃべればいいということではありませんが、無口な子どもに比べると学力が高くなる傾向にあることは確かです。


では、どうしたら「よくしゃべる子ども」に育つのでしょうか。

ポイントは、<span class="b blue">家庭での親子の会話</span>です。

まず、自由に話ができる雰囲気が必要です。

そして、子どもが自由に話をしても、べつに誰からも怒られたり注意されたりしないのだということを子どもに示してあげてください。

無口な子どもも、心の中では話したいことがいっぱいあるはずです。

ただ、それを表に出すことに慣れさせてあげてください。


感情表現が苦手な子どもは、最初のうちはあった出来事だけを話すかもしれません。

そうしたら、<span class="b purple">「そのときどんな気持ちだった？」「あなたはそれについてどう思う？」</span>というような質問をしてあげます。


そして、<span class="b blue">子どもがそれに答えたら、まず共感してあげる</span>ことがたいせつです。

もし、お母さんの考えが子どもと違うのなら、共感したあとで<span class="b purple">「お母さんは、こう思うな」「お母さんだったらこんな気持ちになったかもしれないな」</span>というようにつけ加えます。


<span class="b purple f11em">「でも…、」</span>というような、<span class="b red">子どもの話を一度否定するような言葉</span>は、最初のうちはなるべく避けたほうがいいでしょう。

せっかく話をしようと思いはじめた気持ちが、否定されたと感じることでしぼんでしまうかもしれないからです。

お母さんがよくしゃべる家庭の子どもは、やはりよくしゃべる子どもになる傾向がありますが、お母さんが一方的にしゃべって子どもの話を聞いてあげないと、子どもも人の話を聞くのがへたになります。

話すときは話す、聞くときには聞く、という会話のキャッチボールを、お母さんがまず実行し、子どもにちゃんと教えてあげてください。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 20 Nov 2009 19:21:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>学力を伸ばしたがったら、問題集を亨えるよりも図鑑を用意してあげる</title>
         <description><![CDATA[自宅学習と聞くと、練習問題をたくさんやることというイメージは、どうしても強いよぅです。

たしかに、問題を解くことは勉強の一つに違いありませんし、こなした問題の数でどれだけ勉強したかが一目でわかりますから、お母さんとしては問題を解かせておけば安心していられるのではないでしょうか。

それでついつい一つの科目について二冊、三冊と、問題集を買いそろえることになってしまうようです。


<span class="b red">しかし、練習問題というのは、基本的には、問題に慣れるために練習することにほかなりません。</span>

習ったばかりの知識を、復習で確実なものにすることはひじょうに有意義なことですが、だからといって、そのための教材を何冊もやるのはかえって子どもを勉強嫌いに仕向けている感すらあります。

なぜかと言えば、練習問題の中には、子どもの好奇心を満足させてくれる内容が少ないからです。

まして、すでにマスターしている単元の問題を二度、三度と繰り返させても、テストで１００点がとれるという満足感を与えることはできるかもしれませんが、子どもの学力にとってプラスになるとはかぎりません。


原則として、<span class="b">問題集は一科目につき一冊</span>で十分だと思います。

答えはノートに書かせ、問題集に絶対書き込ませないようにすれば、同じ問題を繰り返してやらせることもできますし、なかなか理解できない問題については、お母さんが数字を変えるなどして、手作りの問題をつくってあげたほうが効果があります。

さらに何かを用意したいなら、図鑑や事典を買ってあげるほうがいいと思います。

お母さんといっしょに散歩に出たときなど、道端の草花などを見て、<span class="b purple">「これ、何て花かしらねぇ」</span>と注意を向けさせ、家に帰ってから図鑑で調べる習慣をつけさせるのです。

最初のうちは名前を確かめるくらいかもしれませんが、しだいに興味をもってくると、解説の部分も読むようになっていきます。


男の子の部屋などで、図鑑が一セットきれいに並んでいる中、昆虫図鑑だけボロボロになっているというような光景を見ることがあります。

そんなとき、ああ、この子は虫が好きなんだなあ、と微笑ましくなります。

こういう子どもは、観察力が鋭くなり、私たちが同じものだと思っていた二種類の虫のこまかい区別を説明してくれ、ほんとうに驚かされたりします。

また、このような子どもは、小さな虫たちの営みを見つめているうちに、生命の偉大さやたいせつさもしぜんに理解していってくれるものです。

事典としては、百科事典もそろっていればいいのですが、場所もとりますし、いずれにしても小学生には説明文も難しいので、とりあえず、はじめは子ども向けの事典シリーズで十分です。

それも、一度にそろえなくても、興味のある分野のものを中心に何冊か与えるという形でもいいでしょう。


参考書売り場には、理科や社会の学習事典タイプのものも売っています。

これはちょっと詳しい参考書といった内容ですから、入門書としてはうってつけです。

しかし、すこし詳しく何かを調べようと思ったら、中学生向きの図鑑があるととても便利です。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 20 Nov 2009 00:12:26 +0900</pubDate>
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         <title>偏差値はほんとうに必要か？</title>
         <description>１９９４年から首都圏や埼玉では、高校入試の偏差値がなくなりました。

しかし、私は偏差値を利用しての進路指導の方法はなくならないと思っています。

なぜそれが弊害になったかという理由は二つあります。


一つは、業者テストの偏差値を利用した、推薦制度そのものが青田買いになるということの弊害です。

もう二つは、偏差値で推薦が決まるというので、悪質な塾が資料を入手して先回りして生徒に答えを教えてしまい、公平さを欠くということです。

この二つが偏差値を追放した理由だと思います。


しかし、偏差値自体を追放しようと思ったら、資格制度の入試にしないかぎり絶対になくなりません。

いまの入試制度そのものが他人の成績を気にする相対評価の一つですから、どんなやり方をしても、競争入試は相対評価がかかわってくると思います。

偏差値という言葉は使わなくても、競争入試であるかぎり、相対評価は絶対になくなりません。

そして、相対評価の中でもいちばん便利な指標はというと、偏差値なのです。


学校からは、表面的にはなくなるかもしれません。

しかし、学校の外に出るだけであって、会場テストでは似たようなものが出てくるでしょう。

実際、大手の塾などでは独自で偏差値をどんどん出しています。

ただ学校の外に移ったというだけで、偏差値自体はけっしてなくならないでしょう。</description>
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         <pubDate>Thu, 19 Nov 2009 20:55:51 +0900</pubDate>
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         <title>「わかる」喜びは、子どもの好奇心・探究心を伸ばす</title>
         <description><![CDATA[幼稚園前後の子どもは、<span class="b green">「これは何〜？」「どうしてこうなるの？」</span>という質問を、たえず音発します。

家事に忙しいお母さんからすると、つい<span class="b purple">「うるさい」「わずらわしい」</span>と感じてしまうくらいです。

どうやら、人間は生まれつき、旺盛な好奇心・探究心をもっているようです。

こうした好奇心・探究心は、大人になっても消えるわけではありません。

奇々怪々な事件などが報道されると、そこでもここでも話題になって、真相はああでもない、こうでもないと議論が起こり、つぎの報道を心待ちにします。

また、世界の珍しい話題を集めたクイズ番組など、テレビ各局のヒット番組となっています。

これは、私たち大人も、じつは好奇心の固まりであることの証拠でしょう。


ただ、<span class="underline">その好奇心を満足させるために、自分で積極的に調べたり考えたりという行動をとるかどうか、</span>ということになると、これは<span class="b red">大きな個人差</span>があるようです。

専門の学者や研究者は別ですが、ふつうは、新聞に載れば読む、番組になっていれば見るという程度で、わざわざ本を買いそろえたり、その場へ出かけていったりというところまでする人は、あまりいません。

もちろん、大人の場合は日常の仕事があり、時間があまりとれませんから、これはいたしかたないことです。

しかし、子どもの場合は違います。

「子どもの仕事は勉強」などといいますが、実際、子どもの生活時間の大部分が、学校の内外を含めて、勉強にあてられているといっても過言ではありません。

そしてこの「勉強」とは、好奇心・探究心を満足させるためのものですから、本来とても楽しいことのはずなのです。

それなのに、なぜ勉強が嫌いになってしまうのかといえばこの旺盛な好奇心にフタをしてしまうような、好奇心の満足のさせ方に問題があるのではないでしょうか。

<span class="b blue">「知らなかったことを知る」喜び</span>も、たいせつなものには違いありません。

でも、<span class="b blue">「わからなかったことがわかる」喜び</span>はそれとは比べものにならないのです。

考えに考えたすえ、自分の頭の中でもやもやしていたものがパッと整理され、<span class="b green f11em">「そうか、そういうことだったのか」</span>と思わずひざを打つ、そんな喜びは、誰にでも何度か経験があるはずです。

そんな喜びの経験を積み重ねている子どもは、自分の好奇心をすくすくと伸ばしていけます。

学校の先生が教室で話す一つひとつの言葉も、覚えなければならない課題というよりも、心の中の疑問に対する答えとして聞くことができます。

こういう子どもにとって、勉強は苦しいものでもつまらないものでもないことがおわかりいただけるでしょう。

そして、この好奇心・探究心こそが、ほんとうの「やる気」につながることは、いうまでもありません。]]></description>
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         <pubDate>Thu, 19 Nov 2009 10:12:04 +0900</pubDate>
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         <title>親子で本屋に行くようにすれば、子どもの学力はアップできる</title>
         <description><![CDATA[<span class="b">本をよく読むか読まないかが子どもの学力を大きく左右する</span>ことは、もう常識といってもいいでしょう。

読書によって、漢字力、語彙力、読解力という、国語の基本的な力が身につくことはいうまでもありませんが、これはすべての科目の学力の基礎でもあります。

また、算数や理科の学習にとくに必要な論理的思考力、社会の学習に必要な常識的知識なども身につきますし、発想を豊かにする想像力も養えます。

「本物の学力」をつけるのに、読書はもっとも効果的な方法だと言えるでしょう。

そこまでわかっていても、子どもに読書の習慣をつけさせることは容易なことではありません。

漫画、テレビ、ビデオなど、子どもにとっては本よりも魅力的に思えるメディアはたくさんありますから、子どもがついそちらを選んでしまうのは、いたしかたないことかもしれません。


しかし子どもは、もともと本が大好きなのです。

小さいころ読み聞かせをすれば、夢中になって聞いていたお子さんも多いはずです。

まず、<span class="underline">子どもに本を読ませようと思ったら、親が本を読むことは絶対条件です。</span>

親が本を読まないのに、子どもに本を読ませようとしても、それはうまくいきません。

反対に、親が本が好きで、<span class="b purple">「このあいだ読んだ本にこういうことが書いてあったんだけどね」</span>というような会話が日常的に行なわれている家庭の子どもは、しぜんに本への興味が湧きます。

また、親が本を読まなくても、本をよく買う家庭では、子どもは本を特別なものではなく身近なものと感じるようで、<span class="b blue">ごく自然に読書の習慣が身につく</span>と言われているくらいです。

ですから、たとえば一ヶ月に一回親子で本屋へ行き、本を買い与えることを習慣にします。


<span class="b">読む本は子どもに選ばせるようにします。</span>

<span class="b purple">「１０００円以内で漫画以外だったら何でもいいから、読みたい本を選びなさい」</span>と、決めておきます。

親はつい、偉人の伝記やいわゆる名作と呼ばれる作品などを読ませたくなりますが、あまりこだわらず、<span class="b">本の内容よりも、最後まで読み通させる</span>ことのほうがたいせつだと考えてください。

自分の意思で選んだ本なら、子どもも責任を感じて、最後まで読もうという意欲が強くなるものです。

ただ、自分が子どものころ読んでおもしろかった本をすすめるのはいいと思います。

子どもが読み終えたあとで、自分の子ども時代の思い出などをまじえてその本について語り合えたら、親子のよいコミュニケーションになりますし、子どもも本の楽しさをより強く感じることができます。

また、子どもが本を買うとき、親も自分の本を買って、<span class="b purple">「いっしょに読もうね」</span>という感じにすると、子どもにとっては励みになります。


最初のうちは、勉強の時間と同様に読書の時間というのをもうけたほうがいいでしょう。
そして、なるべくその日読んだ部分の内容を聞いてあげてください。

<span class="b blue">読解力、表現力</span>のトレーニングになります。

また、最後に<span class="b purple">「つづきが楽しみだわ。また教えてね」</span>と言ってあげると、子どもも読書が楽しくなってくるはずです。

子どもといっしょに買った自分の本の内容を、おかえしに話してあげるのもいいでしょう。

読書の習慣は、子どもの学力を伸ばすためだけでなく、子どもの人生を豊かなものにするうえでも、ひじょうにたいせつなものです。

ぜひいろいろな方法を工夫して、本に興味をもたせるようにしてあげてください。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 18 Nov 2009 23:09:22 +0900</pubDate>
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         <title>子どもの「なぜ」という疑問には、答えでなく考え方を教える</title>
         <description><![CDATA[子どもが、<span class="b green">「なぜ夏は暑くて、冬は寒いの？」</span>とたずねたとします。

これに対して、<span class="b purple">「夏は太陽が高いところにあって、冬は低いとろにあるからよ」</span>と、ズバリと教えてあげることもできます。

でも、いっしょに考えてあげて、子どもの考える力を伸ばすという意味からは、ぜひもう<span class="dotted">ひと工夫</span>してあげたいものです。


たとえば、次のような形で説明してはどうでしょうか。

まず、<span class="b purple">「一日のうちで、いちばん暑いのはいつかな？」</span>というように質問してみます。

この質問には、子どもはおそらく<span class="b green">「お昼ぐらい」</span>などと答えるでしょう。

そこで、<span class="b purple">「そうね、それからだんだん夕方になっていくと、涼しくなっていくわよね。お目様はずっと出てるのに、どうして涼しくなるんだと思う？」</span>と質問を続けます。

今度は<span class="b green">「わからない」</span>と答えるかもしれません。

そうしたら、<span class="b purple">「お昼ぐらいに、お目様はどこにある？　じゃあ夕方は〜」</span>という形で、昼と夕方で太陽の位置が違うこと、そしてそこには高さの違いがあることに目を向けさせます。

それから、

<span class="b purple">「お目様が高いところにあるときは暑くて、低いところにあるときは寒くなるみたいね。</span>

<span class="b purple">だから、きっと、夏はお目様が高いところにあって、冬は低いところにあるのよ。今度確かめてみましょうね」</span>

というようにまとめます。

これは一例ですが、最初のように答えをそのまま教えるのとどう違うか、考えてみてください。


まず第一に、子どもが質問に答えるという形で、考える過程に参加しています。

それによって、答えを知ったときの体験は、「知った」という体験から「わかった」という体験に変わります。


第二に、「昼は暑くて夕方は涼しい」という、日常よく知っている感覚をもとに考えているということです。

体験に結びつけて考えるという習慣は、子どもにとってとてもだいじをものです。


第三に、「畳と夕方の温度差」と「夏と冬の温度差」という別のものを関連づけて考えさせることによって、科学的な思考に欠かせない<span class="b">「類推」</span>という技術をしぜんに体験させているということです。

べつに「類推」などという言葉を教える必要なまったくないのですが、こうした体験を繰り返すことで、子どもはやがて、そういう考え方もあるということを知り、しだいに自分でも使えるようになっていきます。


どんな質問に対しても、こううまくいくとはかぎりません。

ときには、答えをそのまま与えるしかないような質問もあります。

ただ、なるべく答えでなく考え方を教えてあげられるよう、いろいろ工夫をしてみてください。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 18 Nov 2009 10:21:55 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>規則正しい生活をしていると、しせんに算数の勉強にもなる</title>
         <description><![CDATA[算数の学習の中で、「時間と時刻」の単元は、子どもがつまずきやすいポイントの一つです。

「三時」と「三時間」の区別はもちろん、六十進法、十二進法などが入りまじった単位のシステム、それが一つにまとめられている時計の文字盤の見方など、たしかに子どもにはややこしい問題です。


ところが、教えるまえからこうしたことをほとんど身につけてしまっている子どもがいるのです。

そういう子どもの家庭を調べてみると、たいていは規則正しい生活習慣を身につけさせている場合か多いようてす。


<div class="box2">
<p>朝は七時に起きる。</p>
<p>朝食は七時三十分。</p>
<p>お父さんは八時に家を出て、自分は八時十五分に学校に出かける。</p>
<p>家に帰ったら三十分勉強をして、それから遊びに行く。</p>
<p>夕食は六時半だから、外で遊んでいても六時までには家に帰る。</p>
<p>渡るのは十時。</p>
</div>


こんなぐあいに、毎日のタイムテーブルが決まっていて、親もそれを意識させている家庭の子どもは、しぜんに時間や時刻の感覚が身につきます。

もちろん、時間に縛られて行動しろというのではありません。

ただ、基本的な時間が決まっていて、それが守られていれば、<span class="b green">「きょうはいつもより３０分遅くなったわね」</span>というような会話もできますし、子どももそれを意識することができるのです。

<span class="b blue">規則正しい生活をしている子どもは、計画性も身につきます。</span>

夏休みの計画表などをつくらせても、こういう子どもは一日の予定表をきちんとつくってきて、「もしいなかに出かけた場合は、そこで勉強をする」などということまでちゃんと考えています。

それに対して、いつも規則正しい生活をしていない子どもは、ひじょうにおおざっぱな、計画とも言えない計画を立ててきたり、とても実行できそうもない計画表を書いてきたりします。

サラリーマンの家庭なら、家族ぐるみで規則正しい生活を送りやすいけれども、自営業の家庭などでは難しいといった事情の違いはあるかもしれません。

ですから、その家庭ごとの約束ごとで構わないと思います。

子どもには、なるべく規則正しい生活をさせてあげてください。


また、<span class="b purple">「もうちょっと待ってね」</span>と言う代わりに<span class="b purple">「あと１５分待ってね」、「もう遅いから瀬なさい」</span>という代わりに<span class="b purple">「もう９時半だから寝なさい」</span>というような具合に、時間や時刻を表す言葉を日常会話の中に意識的にとり入れるのも、子どもに時間を意識させるうえで効果的です。

また、<span class="b purple">「時計のこの長い針がここまできたら三時だから、おやつはそれまで待ちなさいね」</span>というように、時計に注目を向けさせるのもいいでしょう。

それだけで、子どもの時間に対する感覚は大きく変わってきます。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 17 Nov 2009 12:41:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の国語力を上げる方法</title>
         <description><![CDATA[

<h3>辞書は五年ごとに買い換えるくらいのつもりでいたほうがいい</h3>


小学生が使う辞書というと、国語辞典と漢和（漢字）辞典になります。

こうした辞典を上手に活用できる子どもは、確実に国語力が伸びます。

ところが、お母さん方はあまり国語辞典や漢和辞典をひいた経験がないのではないでしょうか。

たしかにふだんの生活の中で、意味を調べなければならない言葉にぶつかることはめったにありません。

せいぜい手紙を書くときなどに、記憶があやふやな漢字を確かめるくらいでしょう。

それで、辞書というと、どうしても中学・高校・大学とお世話になった英和辞典のイメージのほうが強くなってしまいます。


国語辞典と漢和辞典は、根本的にまったく性格の違うものです。

たとえば、<span class="b purple">「societyの意味は？」</span>と聞かれれば<span class="b green">「社会」</span>と簡単に答えられるかもしれませんが、<span class="b purple">「では、社会の意味は？</span></span>と聞かれたら説明にとても苦労するはずです。

前半が英和辞典の役目、後半が国語辞典の役目です。


高校生が大人用の辞書を使ってもあまり問題はありません。

でも、それと同じ感覚で小学生の子どもに大人用の国語辞典を買い与えると失敗します。
まちがって小学生に中・高生向けや大人用の国語辞典などを買い与えた場合、一つの言葉の意味を調べても、その説明の意味がまたわからず、あちこち調べて結局何が何だかわからなくなってしまうのが落ちです。

小学生用の国語辞典では、意味の説明がすべて小学生にもわかる言葉だけを使って書かれています。

これは漢和辞典も同様で、やはり意味の説明がわかりやすいだけでなく、大人用の漢和辞典にはない筆順や漢字の成り立ちなどの説明もついています。

そして、辞書は、かならず新しいものを一冊買ってあげてください。

とくに小学生用の辞書は、学校のカリキュラムの変化に応じて改訂されますし、ひきやすさや説明の内容などもつぎつぎと新しい工夫が盛り込まれています。

兄や姉のものが残っていたりすると、ついもったいないという気になりますが、ひき比べさせて、一つの言葉についてもいろいろな説明のしかたがあることに気づかせるのも、またいい勉強になりますから、新しいものをそろえてください。


また、小学生用の辞書は、絵や図なども使っておもしろく工夫されています。

説明や例文は、読むだけでとても勉強になりますし、大人が読んでも、なるほどそうだったのかとあらためて納得させられることが少なくありません。

ですから、日常の会話の中でも<span class="b purple">「あれ、○○ってどういう意味だっけ。あなたの辞書でちょっと調べてみてよ」</span>というように、辞書に親しむきっかけをつくってあげられれば理想的です。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 17 Nov 2009 06:49:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもは「勉強のおもしろさ」を知ればやる気が出る</title>
         <description><![CDATA[現代の教育をめぐる状況について色々書いてきましたが、私がいちばん言いたいことは、点数を取ることだけではなくて、<span class="b green">「勉強って、わかるとおもしろいんだなあ」</span>という子どもが増えると、<span class="b blue">変な競争意識がなくなる</span>ということです。

そういう子は自分から自然に勉強しはじめます。

ほかの子に負けたくないという気持ちで勉強するのではありません。

たとえば、算数だったら算数がおもしろい、理科だったら理科がおもしろいから勉強する子がいます。

マイペースで勉強しますし、コツコツやっていますから、結果的に、競争意識をもっているお母さん方が羨ましがるような学校に合格できるのです。

そのためには、<span class="underline b">お母さん、お父さんから、まず「受験競争はたいへんだ」という意識をなくしてほしいと思います。</span>

ご両親がくぐり抜けてこられた受験競争と比べても、現状はそれほど悲観するものではありません。

それでも、一部の受験競争が激化している学校をうけさせようと希望するなら、そのときは隣近所と競い合うのではない方法でお子さんに勉強をすすめてほしいと思います。

「隣の○○ちゃんよりいい点をとれた」ではなく、<span class="b purple">「全体でいまこの辺にいるから、もうすこしがんばってみよう」</span>とか、<span class="b purple">「わかると勉強っておもしろいでしょ。こうして勉強していくとどんどん問題が解けるようになるんだよ」</span>と、このように子ども自身の興味を引き出すようにしてほしいのです。

これが「わかる」と「おもしろい」勉強なのです。


しつけが子どもの学力に大きく影響していることはまえにも述べました。

しつけの基本は、「誰々がしているから同じようにしなければいけない」のではないし、ましてや「きちんとやらないと誰々に叱られるからそうする」というのではありません。
かならず、<span class="dotted">なぜそうしなければいけないのかを理解させる</span>ことが必要ですし、<span class="b purple">「こうしてくれると、お母さんはうれしい」</span>とか<span class="b purple">「こうしてもらえないとお父さんは悲しい」</span>のように、かならず、そこに、子どもとお父さん、お母さんの<span class="b blue">関係</span>が必要です。

そうしないと、子どもはしつけられません。

これは、「わかる」と「おもしろい」というのに似ています。


ですから、「わかる」ということに興味を示す子どもはすごく伸びます。

そういう子はまた、勉強をすすんで「わかろう」とします。


それに比べて、要領のいい子で、<span class="b green">「こんなの適当に公式に当てはめておけばいいんだ」</span>と疑問があっても割り切ってやっている子は、かならずといっていいほど途中で伸びなくなります。

つまり、「わかる」ということにこだわると、まず、これから必要になる学力を身につけることができます。

それから、競争意識をそんなにもたなくてもすむようになります。

他人に勝つための勉強ではなく、自分がほんとうに楽しいと思える勉強です。

そうした意識で勉強すれば、激化している受験競争は緩和されてくるのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 16 Nov 2009 19:34:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>お母さんが子どものいいところを認めてあげるだけで子どもは勉強好きになってくる</title>
         <description><![CDATA[わが子を愛さない親はいませんが、その愛情のせいで、子どもを見ていると、かえって欠点ばかり見えてしまうということがあります。

それでつい、子どもにかける言葉は、ほめ言葉よりも小言が多くなってしまうのです。

子どもは、親に認めてもらうことで自信がつきます。

反対に、親に認められないととても不安になります。

親から小言ばかり聞いていると、しだいに自信も失われていきます。

<span class="b purple">「もちろん、子どものいいところは認めています」</span>と言うかもしれませんが、それを子どもにわかるように伝えてあげないと、何にもなりません。


子どもが、自分が認められていることを感じるのは、まずほめられたときであることは言うまでもありません。

また、感謝されたときにも子どもは自分が認められていると感じます。

子どもが何かしてくれたら、どんな小さなことでも、かならず<span class="b green">「ありがとう」</span>と、お礼を言うようにしてください。

家族どうしだと、かえって照れ臭いということもありますが、言葉に出さなければ子どもには伝わりません。

子どもに、<span class="b green">「自分は必要とされている」「自分の居場所がある」</span>と感じさせることもたいせつです。

そのためには、手伝いなどもどんどんさせ、家の中での役割をもたせることです。

<span class="b purple">「あなたがいてくれて助かるわ」</span>というような言葉をかけてあげると、子どもは自分が必要とされていることを実感します。

親に認められている子どもは、自分でも自分を認めることができます。

これが<span class="b blue">自信</span>です。

そして、自信は子どものエネルギーのもとです。

こういう子どもは、学校でもうまくいきます。

クラス内での仕事なども積極的に引き受け、友だちからもしぜんに認められるようになります。

家の中での自分の役割を意識していますから、責任感も強いのです。


また、自分を認めているので、他人のことも認めることができ、思いやりがあります。

<span class="b">自信があるということは、向上心をもつことにもつながります。</span>

ですから、自信のある子どもは、勉強を好きになることはまちがいありません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 16 Nov 2009 03:43:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの発想を豊かにする「創造力」は、「わかる」ことから生まれる</title>
         <description><![CDATA[「ソウゾウリョク」と言った場合、<span class="b">「創造力」</span>と<span class="b">「想像力」</span>という二つの漢字が当てられます。

この二つは、「新しいものをつくり出す力」と「そこにはないものを思い浮かべる力」ですから、意味は違いますが、根っこのところで深く結びついていることはまちがいありません。

ですから、「創造力」のベースには「想像力」が不可欠だ、という言い方もできます。


「創造」というと、どうしても音楽や絵画、小説などの芸術分野や発明といったものを思い浮かべてしまいますが、べつにそういうものにかぎったものではありません。

新しい料理を考えたり、部屋の飾りつけを考えたり、部屋の飾りつけを考えたりという、日常生活を豊かで楽しいものにしてくれるさまざまな工夫や発想は、すべて「創造力」の賜物です。

大人は、あまりにいろなことを知りすぎているために、かえって自由な発想が妨げられるということがあります。

その点、子どもは知識が少ない分、大人をあっと驚かせるような奇抜な発想をします。

子どもの絵や詩などには、そうした発想が溢れていて思わずうなってしまう、という経験をよくしますが、べつに絵や詩をかかせるまでもなく、ふだん話している言葉の中にも、子どもならではの発想はポンポン飛び出します。

こうした発想を生み出すのは、子どもの<span class="b blue">「創造力」</span>です。

では、子どもの「創造力」を伸ばすには、どうしたらいいのでしょうか。

さきほども述べたとおり、「創造力」というのは芸術分野にかぎられるものではありません。

ですから、創造力を伸ばすといっても、べつに絵や音楽を習わせなければならないわけではないのです。

ふだんの勉強の中でも、発想のもとになる創造力は、十分伸ばしていくことができます。

ただし創造力は、「できる」ことからは生まれません。

たとえば、繰り上がりのしくみを覚え、繰り上がりのたし算を何度も練習しても、ここには何の工夫も必要ありません。

練習を重ねて正確に計算が「できる」ようになっても、それだけでは、創造力が伸びる余地は、まったくないのです。


ところが、「わかる」となるとそうはいきません。

繰り上がりのしくみ一つをとってみても、なぜそうなるのかを理解することは、けっしてやさしくありません。

学校の先生はそれを理解させるために、あれこれ手をつくして説明するわけですが、それに乏しい知識をもって立ち向かう子どもたちはたいへんです。

子どもにとって、知識や経験の乏しさを補うものは想像力しかありませんから、頭の中では想像力を駆使してあれこれ工夫し、理解しょうとつとめるでしょう。

その過程で、「想像力」はより豊かになります。

それが「創造力」につながることは、最初に述べたとおりです。

自分の頭であれこれ工夫した結果、<span class="b green">「そうか、わかった」</span>という経験をした子どもは、無意識のうちに想像力のたいせつさも実感することになります。

そして、いろいろなものに対して、自分なりの工夫をしてみようという意欲ももつでしょう。

反対に、途中であきらめてしまった子どもは、あれこれ自分で考えるより、結論だけを覚えていったほうが楽だ、というふうに考えてしまう恐れがあります。

そういう子どもにとっては、想像力も無用の長物でしかありません。

<span class="b red">自分では何も考えずに、誰かにやり方を教えてもらうことばかり考える「要領だけはいい子」に育ってしまうかもしれません。</span>]]></description>
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         <pubDate>Sun, 15 Nov 2009 19:20:55 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>教科書はやさしくなっているのに、受験は難しくなっている</title>
         <description><![CDATA[いちばん<span class="b red">誤解</span>されていると思うことは、教科書は年々難しくなっていると信じられていることです。

一般の学校の先生方や大学の教育学部の先生の中にも、そう考えている方がひじょうに多いのが現実です。

つまり、文部省のカリキュラムが過密になり、教科書の内容が盛りだくさんで難しくなってきたために、登校拒否や落ちこぼれなどの問題が起きてくるのだというのです。

しかし、実際に調べてみるとつぎのような事実がわかります。

３０年まえの小学校の算数や中学校の英語の教科書を現在のものと比べてみると、英語は文法で勉強する量が３分の２ぐらい、数学に関しても２割以上減っているのです。

算数も学習項目が２割ほど減っています。

それから、難問といわれるもの、考えさせる問題、パズル的な問題などは、いまの教科書にはほとんどありません。

算数でいえば、むかしはつるかめ算、流水算、和差算などのような問題がかならずありましたが、いまではほとんど出ていません。

教科書が難しくなってきたから進学競争や受験競争がより激化してきたという人も多いのですが、それは逆だと私は考えています。

<span class="underline b">教科書がやさしくなってきたから、進学塾がふえてきた</span>といっても過言ではありません。

なぜならば、中学入試問題は３０年まえに比べてひじょうに難しくなっていますが、教科書はやさしくなっています。

そのギャップを埋めるためには、２０〜３０年まえでしたら、ちょっと家庭教師をつけて自分で受験参考書を買って勉強すれば、そこそこの学校に合格できました。

ところがいまは教科書はやさしくなっているのに入試問題は難しく、ギャップが大きすぎて、自学自習ではそれを埋めることはほとんど無理になってしまったのです。

その結果、家庭学習のやり方も変わらざるをえなくなって、今日のような進学塾の進出を促し、受験競争が激化したと言えるのです。


高校入試問題に関しては、難易度はむかしとほとんど変わりません。

教科書がやさしくなっていますが、そのギャップの広がり方は中学受験ほどではありません。

中学受験のフィーバーの原因は、教科書（授業内容）と入試問題のギャップが広がりすぎたところへ進学塾がはいり込んだからだと考えられますから、入試問題にそれほど変化のない高校受験の場合、中学受験ほど過熱してはいないのです。

いくらか変化があるのは、早稲田、慶応、開成、桐朋などの上位校です。

これらの学校の入試問題は明らかに難しくなっています。

これらの学校を受験する場合は、入試問題と教科書の内容ではギャップがかなり広がっていますから、ギャップを埋めるために進学塾に通って勉強する必要があります。

こんなところに、高校受験で進学塾がふえてきた一つの要素があると思います。


以上のように、進学塾がふえたのは、教科書が難しくなったからではなくて、やさしくなったからだというのが私の考えです。

このことを、逆にとらえる人がひじょうに多いのが現実です。


では、逆にとらえるとどのような<span class="b red">弊害</span>が起こるのでしょうか。

<span class="b green">「教科書が難しくなってきた、だから子どもたちにいろいろな問題が起きてきた」</span>とすると、登校拒否や落ちこぼれ、いじめの問題がなぜ起こるのか説明できません。

教科書がやさしくなっているのに、こうした問題が起きているということは、カリキュラムに原因を求めることができないからです。

ですから、お子さんが何か問題に巻き込まれたり、何か問題を抱えている場合、それを学校や受験競争のせいにするのではなく、家庭でもしっかりと考える必要があるのです。

もちろん、心理学、社会学、経済学などいろいろな分野の先生方がいっしょになって真剣に考える必要があることは言うまでもありません。]]></description>
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         <pubDate>Sun, 15 Nov 2009 00:01:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもが「本物の学力」を身につけているかどうかは、作文を書かせてみればわかる</title>
         <description><![CDATA[作文指導は技術的にたいへん難しく、とくに力を入れている先生でないかぎり、学校の国語の授業の中で子どもが作文を書かされる機会はあまりありません。

しかし、<span class="b">子どもの考える力をみるうえでも、またそれを伸ばすうえでも、作文を書かせるのはたいへんよい方法です。</span>


小学校の高学年になると、作文の好きな子どもと嫌いな子どもに、はっきり分かれるようです。

そのもっとも大きな要因は、やはり<span class="b blue">本をよく読んでいるかいないか</span>ですが、低学年のうちから文章を書くことに慣れているかいないかによっても変わってきます。

そこで、ぜひお母さんが、家で作文を書かせてみてください。

いやがらせないコツは、まずあまり長いものを書かせないこと。

原稿用紙は一枚４００字ですが、悪のうちは半分の２００字程度が適当でしょう。

もちろん、長く書きたがったら自由に書かせてください。


テーマ（題）は何でもかまいませんが、子どもがいつも接しているもの、最近の印象的な出来事などから、はじめるのがいいでしょう。

<span class="b purple">「同じ題で、お母さんも書いてみようかな」</span>という感じでいっしょに書いて、あとで朗読しあったり、子どもの作文に返事を書いてあげたりというような方法もいいと思います。


文章の流れがきちんと整っていて、全体として言いたいことが伝わってくるようなら、心配はいりません。

「本物の学力」が身についていると考えていいでしょう。

このとき、誤字・脱字やこまかい「てにをは」のまちがい、文章のうまい・へたで判断してはいけません。

それはまた別に指導する必要がありますが、とりあえず<span class="dotted">内容だけに注目します。</span>


考える力のついていない子どもの作文は、話が途中でとんでまた戻ったり、途中で別の話に変わってしまっていたりします。

同じことについて、最初は「楽しかった」と書いているのに、終わりでは「つまらなかった」と書いていたりもします。

書きはじめるまえに、何をどう書くかを、頭の中でまとめることができていないからです。


こういう場合、中学年以上でしたら、まずメモをつくらせて構成を考えさせるという方法が効果的ですが、低学年のうちは難しいでしょう。

テーマを決めたらまず、それについてしばらく話し合って、それから書かせるというのも一つの方法です。

まず書かせてみて、それを読みながら、<span class="b purple">「これはどういこと〜？」「どういうところがおもしろくて、どういうところがつまらなかったの〜？」</span>などといろいろ質問をし、頭の中で整理させて、もう一度書かせてみてもいいと思います。

なかには、たとえば<span class="b green">「電車で○○駅まで行って、それから歩いて動物園に行きました。</span>

<span class="b green">最初に猿を見て、つぎに象を見ました。</span>

<span class="b green">それからおべんとうを食べました……」</span>というように、事実だけを羅列した文章を書く子どももいます。

こういう子どもは、<span class="b red">感情表現が苦手だ</span>ということですから要注意です。


こういう場合も、<span class="b">やはり質問をしながら、じっくり引き出してあげる</span>のがいいでしょう。

<span class="b purple">「象さんどうだった？」「大きかった？」「どんなことしてた？」</span>

<span class="b purple">「子どもの象さんがいて、かわいかった」「そうなの。お母さんも見たかったな。そういうことを書いてくれたら、もっとおもしろかったのに」</span>

こういう会話の中で、子どもの気持ちをしだいに引き出すようにしてそうすれば、すらすら書けるようになるでしょう。

お母さんは、ついうまい文章を書かせようと、あれこれ教えてしまいがちです。


<span class="b purple">「ここはこう書いたほうがいいわよ」</span>とか、ときには<span class="b purple">「ここはこうだったんじゃないの？」</span>などと、書くべきことを勝手に決めてしまったりもしますが、これは<span class="b red">逆効果</span>です。

これでは、子どもの書こうという意欲をそいでしまいます。

子どもに書きたいことを書かせ、お母さんはそれを引き出すことに徹する。

そのことに、くれぐれも注意してください。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 14 Nov 2009 20:36:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>友だちといっしょに遊ぶことで、子どもの頭の回転は速くなる</title>
         <description><![CDATA[子どもにとっての勉強は、机に向かっているときだけではありません。

とくに子どもは、遊びの中からさまざまなものを吸収します。

ファミコンの登場以来、子どもの遊びもずいぶんおもむきが変わってしまいましたが、それでも屋外で何人かの子どもたちが遊んでいるのを見かけると、やはりむかしと変わらず、子どもは遊びの天才なのだということに気づかされます。

子どもたちは、「そのときその場にあるもの」を何でも利用します。

たまたま落ちていた板切れは、野球のベースにも、戦争ごっこの安全地帯にもなります。

昨日あったものがなくなっていても、めげません。

すぐ代用品を見つけてきます。

遊びのルールも変幻自在です。

人数がふえれば変わり、一人帰ればまた変わります。

場所の広さや、道具のあるなし、そうした違いでもルールを微妙につくりかえます。


こういう工夫は、遊びの中だからこそできるのです。

すこしでも早く遊びたい、すこしでも楽しく遊びたいと思うからこそ、子どもたちの頭はフル回転します。

こうした、<span class="b">頭の体操</span>は、勉強にも通じるものであることは言うまでもありません。


子どもは、一人で遊んでいるときも、いろいろと工夫をします。

しかし、やはり友だちと遊んでいるときの工夫にはかないません。

人数がふえればそれだけ状況は複雑になりますから、より多くの工夫が必要ですし、一人ならあきらめてしまうことでも、何人かいれば何とかしようということになるからです。

友だちと遊ぶことによって得られるものは、頭の回転の速さだけではありません。

小さな子や女の子がまじっていれば、ハンディキャップをつけてやる。

早く帰る子がいれば、それまでに終わるようにルールを変える。

遊びを楽しくするためのそうした工夫をとおして、みんなが楽しむためには仲間への思いやりが必要だということを実感するのです。

また、誰かがルールを破れば遊びが台なしになりますから、<span class="b blue">ルールを守ること、公平であることのたいせつさ</span>も実感します。

チームワークを必要とする遊びなら、責任感も身についていきます。

これらはすべて、社会生活を送るうえで必要不可欠なものです。


最近は、友だちと遊ぶといっても、ソフトを持ち寄ってファミコンをやるということが多いようです。

みんながやっていることは、一通りやらせてあげたほうがいいのですが、ときには外に追い出すくらいのつもりで、ほかの遊びもさせたいものです。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 14 Nov 2009 08:01:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>お母さんの手伝いをよくする子どもは、ものごとを順序だてて考えられる子になる</title>
         <description><![CDATA[お母さん方が家事をこなす様子を見ていると、いつも感心させられます。

たとえば炊事をあげることができます。

かぎられたスペース、かぎられた数のコンロを使って、何種類もの料理を作り、そのどれもが、食卓に並んだとき冷めないように、絶妙のタイミングで仕上がります。

掃除にしても洗濯にしても、時間のムダが出ないよう、じつによく考えられた手順でこなされていきます。

家事は、<span class="b">創意工夫の宝庫</span>と言えるでしょう。


お母さんのお手伝いをよくする子どもは、こうした工夫をしぜんに身につけていきます。
たとえば、おっかいによく行かされる子どもがいるとします。

何度か行くうちに、回る店の順番を工夫するようになります。

そして、<span class="b">「歩く距離だけを考えるとスーパーのあとに八百屋さんに行ったほうが早いけど、スーパーでの買い物が多いから八百屋さんに先に行ったほうが楽だ」</span>というように、いろいろな条件をあわせて考えることもできるようになっていきます。

掃除でもそうです。

テーブルと床を掃除するとき、せっかく床を掃除したのに、テーブルからゴミが落ちて二度手間になった、という体験をすると、<span class="b">「今度は先にテーブルを掃除したほうが楽だ」</span>というように考えるでしょう。


こうした経験を積み重ねると、<span class="b blue">「順序」ということのたいせつさ</span>を理解していきます。

同じことをするにも、順序を変えるだけで楽にもたいへんにもなる。

そして、よく考えれば、実際にやってみなくても楽な方法を見つけることができる。

こういうことがわかっていくのです。

なにより重要なのは、子どもがそれを、体験をとおして知ることができるということです。

お母さんのアドバイスがあったにせよ、かならず子どもは感覚的に確かめることができます。

たとえば、<span class="b">「ぞうきんがけは、汚れの少ないところを先に」</span>と教えられて、あとで実際にぞうきんを見れば、たしかにこのぞうきんで棚を拭いたら、かえって汚れてしまいそうだ、ということを実感できるはずです。

順序だててものごとを考えるという発想は、高学年以降の算数ではとてもたいせつなことの一つです。

しかし、口による説明だけでは、実際の使い方もありがたみも、なかなか理解させることができません。

子どもが体験を通して身につけていれば、こんなにすばらしいことはありません。


もちろん、この発想がほんとうに役に立つのは、社会に出てからです。

同じことをやってもどうも人より時間がかかり、<span class="b green">「要領の悪いやつ」「グズなやつ」</span>と呼ばれてしまうような人は、子どものころにあまり親の手伝いをしなかったのかもしれません。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 13 Nov 2009 23:19:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>いま求められる「資格試験制度」を考えてみる</title>
         <description><![CDATA[偏差値をほんとうになくすためには、資格試験制度の導入が必要だと思います。

高校受験でしたら、数学はこのライン、英語はこのラインと決めておきます。

たとえば数学だったらABCの三つのランクを決めればいいのではないでしょうか。

こうして九科目を決めておいて、ある高校はAがいくつでBがいくつ、Cがいくつなら合格と表示して、そういう子を希望するのです。

そういう子が集まって、全員入学ではありませんが、試験なしで合格できるような形がいいのではないでしょうか。


全員入学の制度は、私はある意味で賛成できません。

実際に現場で子どもを教えていて、いま全員入学すると、高校の現場が困るということがわかるからです。

中学三年生でも、成績が下から一、二割の子どもの中には、小数、分数の計算ができない子がかなりいます。

そういう子が、いまの高校の教育制度のままで全員入学したら、子どもたち自身がかわいそうです。

ですから、いろいろと学科をふやして、高校卒業の資格が取れるような高校制度にすれば問題ないと思います。

大学ですと、フランスのバカロレアが資格制度ですし、ドイツの場合も資格制度を取り入れています。

資格試験でAをいくつ取っているか、Bをいくつ取っているか、その結果、大学一年生が定員の倍になっても入学させていいのではないかと思います。


学生があふれたらどうするのかと言われるかもしれませんが、進級のときに厳しくすればいいのです。

はいったときが１０００人、二年生のときが８００人、三年生のときが６００人、四年生のときが４００人というように、トータル的に人数を考えるのです。

いまの大学は、担当教授の本を読んでいなくても、授業に出席しなくても、進級できる制度ですが、もうすこし厳しくしてもいいのではないかと思います。

さらに、資格制度になれば、隣の子と自分の子を比べる必要がありません。

自分は自分、これだけ勉強すればこれだけの資格が取れるのだということになれば、他人を意識することも少なくなると思います。

そして、黄初に戻りますが、子育てが競争になるということが、まずなくなるに違いありません。

子育てが競争になるのは、隣の子に比べてうちの子はどのくらいできるか、ということを知りたがるからです。


しかし、競争入試がなくなれば、比較する必要もなくなるわけです。

<span class="b">やるべきことをきちんとやるということは、小さいときからのきちんとしたしつけがだいじです。</span>

そうすると、小さいときからしっかりとしつけられて、学習する習慣を身につければ大丈夫というように、本来あるべき学習環境が家庭に戻ってくるでしょう。

また、競争意識をむきだしにして、たとえば中学受験で、隣の子がどこそこの学校に受かって、どうしてうちの子がこうなのだろうというような気持ちにもならないと思います。

<h3>ほんとうの意味を知っていれば「偏差値」はこわくない</h3>


<span class="b red">偏差値＝入試の諸悪の根源</span>だと思っている人はけっこういます。

でも、偏差値というのは、全体の中で自分はどこに位置するかということを示す数字で、競争入試があるかぎりそれを利用するのはやむをえないことだと思います。

ただ、それによって子どもをランクづけるとか、偏差値によって高校をランクづけるとかということは避けなければなりません。

偏差値でなくても、ランクづけは絶対評価でもできます。

たとえば東京でいうと、桐朋学園という進学校がありますが、桐朋に合格する子はいつも学校の成績が９５点以上だったとします。

すると、桐朋という学校は、９５点以上必要なのかという評価になるわけです。

このようにテストの点数でもランクづけができるわけですから、偏差値だけを悪者にするのはおかしいことです。

偏差値やテストで序列化して、輪切りにするということがおかしいのです。


たとえば高校の評価の序列の場合、いまは偏差値で輪切りにされているかもしれませんが、<span class="b">偏差値ではなくて、教育の内容で競争する</span>という考え方が出てきてもよいのではないでしょうか。

そういうかたちで学校が競争しようと思えばいくらでもできるわけです。

偏差値は平均が５０で、最高が７５、最低が２５となっているのがふつうです。

あくまで、全体の中でどれだけできたかできないかを表す数字なので、その人の絶対的な能力を示しているものではありません。

ですから、偏差値にこだわると、子どものほんとうの実力さえ見失いかねません。

ちゃんと勉強していけば、誰でも本物の学力が身につきますから、相対評価の偏差値を気にしすぎないようにしましょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 13 Nov 2009 07:58:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親子で楽しめる趣味やスポーツがあるとやる気のある子が育つ</title>
         <description><![CDATA[<span class="b blue">子どもの学力を伸ばすためには、家庭内のコミュニケーションがたいせつである</span>ことは、今までの記事でおわかりいただけたでしょう。

そのコミュニケーションをよりよいものにするために、<span class="b">親子で楽しめる趣味をもつ</span>ことをおすすめします。

親子で共通の趣味があると、「親子」という関係のほかに<span class="b blue">「同志」</span>のような関係が加わります。

すると不思議なことに、親子のあいだでは話しにくいようなことが、同志に対しては話せるので、結果的により深いコミュニケーションがとれるようです。

それまでほとんど口も聞かなかったような父と子が、いっしょに釣りに行くようになったとたんに話しはじめるというようなこともあります。

これは男の子と父親のあいだに多く、女の子と母親のあいだでは、どちらかというと<span class="b blue">「友だち」</span>のような関係でいろいろと話し合うようです。

また、場合によっては<span class="b red">「ライバル」</span>のような関係が加わることもあります。

子どもは、親を尊敬すると同時に、どこかで、いつも押さえつけられている親を越えてやろう、というような意識をもっています。

たとえば、将棋などの勝負事やスポーツが共通の趣味になると、親に勝つために一生懸命研究したり練習したりします。

これは、子どもの向上心を高めます。


もちろん、親をライバルとは思っていなくても、親といっしょに何かをやっているという意識は、子どものやる気を高めます。

趣味の分野で上達するための努力は、苦しいものではありません。

楽しみながら努力して、望む結果を手に入れるという体験は、好きなことでなければなかなかできません。

やる気がありますから、こうした体験もしやすいはずです。

言いかえれば、<span class="b f11em">「やればできる」という体験</span>です。

この体験は、<span class="b blue">自信</span>につながります。

勉強をはじめ、ほかの分野にもこの自信は生きてきます。

多少の困難にぶつかっても、自分の力を知っていますから、何とか乗り越えようという気持ちをもつことができます。

自分の趣味に子どもを誘ってもいいですし、「いっしょにはじめてみようか」という感じで新しいことにチャレンジしてもいいでしょう。

ぜひ実行してみてください。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 12 Nov 2009 23:53:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>生活体験と知識を結びつけることが、勉強好きな子を育てる</title>
         <description><![CDATA[有名私立中学に合格するような子どもたちは、みんながみんな、四年生ぐらいから進学塾に通い、寝る間も惜しんで勉強してようやく合格するというわけではありません。

なかには、六年になってから受験でもしてみようかなどと言いはじめ、たいして勉強もしていないのにスッと合格してしまう子どももいます。

はたから見ればうらやましいかぎりですが、そういう子どもは、やはり頭がよくて知能が高いのでしょうか。

しかし、こういう子どもたちは「勉強していないように見える」だけで、ほんとうは人一倍勉強しているのです。

といっても、ほかの受験生たちのように、何時間も机にかじりついているわけではありません。

<span class="b blue">日々の生活体験そのものが、その子にとっては勉強なのです。</span>

頭脳が違うとしたら、生活体験と学習した知識を結びつけて考える能力、ということになるでしょう。


たとえば、学校で歴史の勉強をすると、そういう子どもは教科書にも参考書にも載っていないような人名まで、たくさん知っています。

でもそれは、たまたまこのあいだ見たテレビドラマが、その時代の話だっただけのことです。

割合の計算も苦もなくこなしてしまいますが、それは新聞の折り込みチラシとバーゲンセールのおかげです。

速さの問題も簡単に解いてしまいますが、乗り物が好きで、速い乗り物にあこがれているせいです。


たしかに記憶力がいいということは言えるかもしれませんが、それもどちらかといえば、自分の頭の中でいろいろな知識を結びつける「隠れた能力」のおかげのようです。

ですから、このような子どもにとっては、勉強は楽しくてたまりません。

興味が興味を呼び、どんなものを見ても目を輝かせます。

ただ知識と経験を結びつけるだけの能力ですから、ここでは「隠れた能力」と呼んでおきますが、この能力は特殊なものではありません。

ただし、子どものうちからこの能力が使えるようになるには、やはり<span class="b">訓練</span>が必要で、それができるのほお母さんしかいません。


といっても、幼児英オ教育のような、特別の訓練方法があるわけではありません。

このサイトで述べてきたことを、きちんと実行すればいいのです。

とくに、<span class="b blue">日常生活での子どもに対する接し方と、生活体験をたいせつにする意識はつねにもち続けてください。</span>

ちゃんと実行したからといって、私立中学に合格できるような学力を簡単に得られるというわけではありません。

でも、勉強嫌いにならずに、中学、高校と進んでも落ちこぼれることなく、社会に出てもりっぱに通用する知恵をもった人間に育っていくことは、まずまちがいありません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 12 Nov 2009 03:13:55 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもたちをとりまく受験環境</title>
         <description><![CDATA[いまの競争入試の制度があるかぎり、受験生やその親としては、自分の成績の位置が気になるのは当然です。

３００人が定員という中学校を受験する場合、８０点以上の子が自分以外に３００人いれば、８０点取っても合格できません。

つまり、受験においては絶対評価は信用できないということです。

しかし、小学校の評価は絶対評価なので、母親の多くが小学校の評価を信用しなくなっているようです。

偏差値がなくならないのは、このよう競争入試のため、ほかの子どもに比べて自分の子の位置がわからないと合格できないということが理由の一つにあげられます。


もう一つは、子育てが競争になりつつあることです。

いまと比べると、２０年から３０年まえには、中学受験に熱心なお母さん方は少数でした。

ここまで競争意識が蔓延してきたというのは、高校受験の入試が激化したからだとは考えられません。

というのは、高校受験に関しては、受け皿が３０年まえに比べて統計的にすごくふえているからです。

また、進学率も９６パーセント前後になりましたが、進学を希望している子はせいぜい９７〜９８パーセントいればいいというのが私の考えです。

そうすると、９８割る９６で単純に全国を平均した場合の競争率が出てくるわけで、１．０２倍前後です。

つまり、競争率は激しいとは言えません。


３０年まえの高校受験のときは、進学率はいまより低かったわけですが、絶対的な人数が多かったので、高校に行きたくても行けなかった子が１０万人以上いました。

そのような時代が何年か続いたことと比べたら、いまは、高校受験に関してはひじょうに恵まれていると思います。

単純計算しても１．０２倍なので、国の政策によって入学者の頭が押えられているという人もいますが、私は当てはまらないと思います。

都立高校の場合、客観的な状況から見ても、競争率は下がっているので、競争は激化していないと言えるはずです。

ところが、なぜだか受験競争は年々激化しているように見えるのです。

それは、さきほど述べましたが、子育てが競争になってきていることと、わが子を隣の子よりも一ランクでも上の高校に行かせたいという意識がひじょうに強くなっているからと思われます。

つまり、競争率は下がっていますが、<span class="b">競争意識はそれぞれの家庭で高まってきている</span>ということになります。

その理由としてはいろいろ考えられますが、一つは、男女に関係なく、管理社会が発達するにつれて、人々が孤独になってきていることがあげられます。

たとえば、昔は子育ては共同でやったものでした。

「うちの子、よその子」というのではなく、村全体で、または隣近所の町内会や子ども会で子育てをする、という意識がありました。

それが、管理社会が発達し、分業化が進むにつれて、子育てまでが各家庭でばらばらになってしまったのです。


<span class="b">子育てが各家庭ごとにばらばらになった、つまり核家族という単位で子育てをすることになった結果、子育てが競争になってきたのではないでしょうか。</span>

塾に行くにしても、大手の進学塾に通うことが一種のステータスだと考えたり、中学受験をさせることで、あそこの子はすごいと思わせるなどといったこともそうです。

つまり、子育てが競争になってきたために、実質的には激しくないにもかかわらず、意識のうえで、受験戦争が高まっていると考えられてしまうのです。

この高校受験に関する状況は、中学受験の場合とはだいぶ違います。

中学受験の場合は、意識も高まっていますし、実質倍率が高くなっています。

２０〜３０年まえに比べて、かなり倍率が高くなり、受験者数もふえているという事実からみても、中学受験が激化しているというのは明らかです。

ですから、中学受験と高校受験とは分けて考えなければなりません。


また大学受験に関しても、第二次ベビーブームの受験生はそろそろ終わりになりますから、これからは高校受験と同じで、受け皿はだんだん広くなってくると思います。

ただし、競争意識というのはなくてはなりませんので、銘柄大学に行きたいという意識は、より強くなることでしょう。


高校受験においてもその傾向は強まっています。

首都圏の場合、ある程度の都立高校、公立高校に行けるのに、もっとランクが上の私立に行きたいという受験生がふえているようです。

ですから、偏差値６５以上の私立高校に関しては、むかしに比べて競争は激化していると言えるでしょう。

名まえを出せば、早稲田系統や慶応系統の付属です。

さらに、中大、成城、学習院、青山学院などの大学付属校が軒並み２０年、３０年まえに比べて難しくなっています。

これらを考えると、一部で激化しているということは確かです。

マスコミは、こうした点だけに注目しがちですが、このことだけで、高校受験は３０年まえに比べてたいへんなのだというように解釈されては困ります。

教育関係の方でも、年年受験競争は激化しているという説をとっている人がけっこういらっしゃるようですが、一般のお父さんお母さん方も、自分たち団塊の世代が受験したときのたいへんさを忘れてしまっているのです。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 11 Nov 2009 18:35:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>なぜ落ちこぼれるのか？増えている自学自習できない子どもたち</title>
         <description><![CDATA[落ちこぼれる子どもたちがふえてきた背景に、根本的な問題として、<span class="b red">自学自習できる子がひじょうに少なくなってきた</span>ことが考えられます。

その理由について、ここでは家庭と学校に分けてすこし考えてみることにします。


<h3>地域や家庭の教育力の低下</h3>


自学自習できる子が減少してきている理由として、家庭や地域での教育力の低下をあげることができます。

核家族がふえてきた現在では、どうしても親が<span class="b red">過保護</span>か、または<span class="b red">無関心</span>かの両極端になってしまう傾向があるのです。

塾でも過保護の子どもがふえてきています。

過保護にしつけられた子どもたちは自学自習がまずできません。

そして学力も低い傾向があります。

これは完全に家庭の教育力の低下の一つです。


また、親自身が孤独になってきていることも、地域や家庭の教育力低下の一つの遠因になっています。

一つの組織である共同体（地域社会）の中で、いわゆるアイデンティティーが欠如している、つまり自分の存在を確認できるところがないわけです。

すると、子育ても孤立化し、子育てを他人の子どもとの競争ととらえるようになってしまうというのは、まえに述べたとおりです。

加えて、子どもをどのように育てたらよいのかわからないという親もふえています。

そこから、過保護になるか放任主義になるかのどちらかに分かれるのです。


塾やスイミング、剣道、そろばんなど、さまざまなおけいこごとがありますが、そういうところに通わせておけばいい、という親もけっこういます。

これは、見方によれば教育熱心にもとれますが、<span class="b red">放任主義</span>と同じだといってよいと思います。

そういうお子さんは、目が死んでいます。

月並みな言葉ですが、親の愛情が欠けているのです。

自分の子どもでありながら、あまり一生懸命育てたくないという親もふえています。

しかし、むかしに比べればお金はあるので、スイミングや体操などのクラブに入れて、本来自分が教育しなければいけないことまで放棄してしまう、または逆にずっとつきっきりになってしまうというようになります。

<span class="b">つまり、過保護も放任主義も根っこは同じなのです。</span>

これは、産業社会が発達すればするほど、人間がそういう傾向になるというのは、避けられないことなのかもしれません。


人間が社会の中にはいる、組織の中にはいってその一員になるということは、連帯感が芽生えるきっかけではありますが、同時に孤独感に陥るきっかけとなる可能性もあります。
産業が発達して分業化が進めば進むほど、人間どうしのつながりも細分化されていくのだとも言えます。

ですから、これからの子育ては、こうしたことを前提にして行なう必要があります。


たとえば、よく<span class="b">「親の背中を見て、子どもは育つ」</span>と言われますが、これはもう、ひとむかしまえの話だと思います。

そのころの親というのは、家で働いている人が多かったので、両親の働いている姿を見て子どもは育っていったわけです。

ところがいまは、お父さんは会社に行って、家でその働く姿を見る機会はありません。

ですから作文を書かせると、

<span class="b green">「お父さんは土曜日、日曜日は家にいるけれども、ごろごろしてテレビを見ている。</span>

<span class="b green">ほんとうはお父さんに遊んでもらいたいんだ」</span>

などと書く子がいるわけです。

また、

<span class="b green">「お父さんはいつも１１時頃に帰ってくる。</span>

<span class="b green">だから夕飯をいっしょに食べられないんだ。</span>

<span class="b green">朝はぼくがご飯を食べるときには、お父さんはもういない」</span>

そういう家庭も多いようです。

つまり、<span class="underline">親の背中を見て、親の働く姿を見て育つ子はひじょうに少なくなってきているのが現実です。</span>


人間が孤立化している時代だからこそ、これからの子育ては、このことをより意識した教育をしていかなければなりません。

地域の人たちが連帯意識をもって地域で子育てをする、子育ては隣の子との競争ではないのだ、という方向に社会全体をもっていかなければ、子どもたちが落ちこぼれていくという問題の解決は難しいと思います。

多くの方の意見のように、教科書が難しくなってきたから、落ちこぼれなどの教育問題が起きたと論を進めてしまうと、このような本質的なものを見逃してしまう可能性がひじょうに強いので気をつけなくてはなりません。


<h3>過度の期待をもたれる学校</h3>


子どもたちが落ちこぼれていく理由の一つとして、よく学校の教育力の低下をあげる方がいます。

しかし、私自身は学校の教育力については、あまり変わっていないと考えています。

その理由として、三つあげることができます。

第一に、一クラス当たりの人数が減ってきていることがあげられます。

むかしは５０人いたのが、いまは４０人を切っているのです。

むかしより先生の目が届くことになりますから、教育環境はよくなっていると言えます。

また第二に、先生一人当たりの生徒数も、小学校・中学校とも３０年まえに比べて少なくなっています。

また、環境や教育設備もよくなっています。


そして第三に、学校の先生の質に関しては、マニュアル化されている若い人が多いといわれていますが、全体から見るとがんばっている先生もいらっしゃいますので、むかしと大きな変化はないと思います。

それなのになぜ学校教育の質が落ちてきたように思えるかというと、期待が大きすぎるのではないでしょうか。

家庭や地域の教育力が低下していれば、子どものしつけや非行の問題に関しても、すべて学校で対処してもらえないかという気持ちが強くなります。

しかし、いまの学校制度では、すべてに対処するのは<span class="b red">無理</span>なのです。

というのは、学校の制度というのは、第二次大戦が終了して三年後ぐらいに日本の教育制度が変わったあと、４０年近く基本的に変わっていないからです。

ですから、しつけの面や地域の教育力低下、家庭の教育力を補填するような機能になっていないのです。

そのような、教育制度自体が世の中の動きからちょっとずれているという意味でもあります。

高校の教科を選択制にするとか、総合学科をつくるとか、いろいろな試みがありますが、いまちょうどゆれている時期だと言えるでしょう。

ゆれているというのは、地域の教育力を補填することができない、補填するには学校以外で開拓しなければならないときだということです。

また、繰り返し述べてきたように、教育の土台である家族の形が変わってきているのに、上にのっている学校の教育制度が変わっていないので、どうしてもずれが生じてしまい、学校はだめだという批判になってくるのだと思います。

いろいろ調べてみても、３０年まえと比べて学校自体が悪くなっているという部分はほとんどありません。

<span class="b f11em">あまりにも学校だけに期待しすぎているのです。</span>

勉強は教えなくてはならない、子どもたちにわかるような言葉で、しつけも含めて教えなくてはならない、だから、たいへんなことなのです。


進学塾では、たとえば平行四辺形の面積の出し方などは、底辺×高さの公式さえ教えればいいわけです。

ところが学校の先生は、なぜ底辺×高さになるのか、それを長方形の形とかいろいろな形にして教えます。

　円の面積の出し方にしても、３０分、１時間かけて公式を教えるわけです。

どうしてそうなるのかということもやらなければなりません。


また、学校の先生は、しつけまですることを期待されています。

しかし、このことは、中学校の管理教育につながってしまいます。（管理が厳しい学校ほど非行に走り、自由な服装で、自由な規則のところのほうが非行が少ないというデータがあるくらいですから、私は、管理教育はやるべきではないと考えています。）

しかし、どうして学校がやらざるをえないのかというと、地域や家庭がそれを望んでいる部分があるからなのです。

思春期になっていろいろな問題が起きたら、家では対処することができなくて、

<span class="b purple">「先生、なんとかしてください。非行の問題なんて、うちでは対処できません」</span>

<span class="b purple">「登校拒否なんて家では……」</span>

<span class="b purple">「落ちこぼれになったら……」</span>

と、どんどん学校に要求することが多くなるわけです。

そう考えると、学校の先生はほんとうにいろいろな面でストレスがたまっているのではないでしょうか。

ヨーロッパの小中学校の先生のように、勉強を教えるだけが仕事ではないのですから。

がんばっている現場の先生を見ていると、けっして質が落ちているということはないと思います。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 11 Nov 2009 04:36:06 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>世の中の出来事に関心をもつ子どもは、優しく貰い子に育つ</title>
         <description><![CDATA[「最近気になっていること」などという題名で作文を書かせると、ほとんどの子どもは自分の身の回りのことを題材にしますが、なかに何人か、社会的な出来事を題材にする「どもがいます。

たとえば、

<span class="b green">「最近、ゴミ問題が大きく取り上げられています。</span>

<span class="b green">このままゴミがふえていったらどうなってしまうんだろう。</span>

<span class="b green">私たちも何かしなければいけないと思います」</span>

とか、

<span class="b green">「日本では、平気で食べ物を残す人がたくさんいるのに、アフリカでは餓死する子どもたちがいる。</span>

<span class="b green">日本から食べ物を送ることはできないのでしょうか」</span>

といったぐあいです。


こういう子どもの作文は、文章もしっかりしていますし、考え方の筋道もとおっていて説得力があります。

国語力が身についていますから、ほかの科目についても優秀で、たいていクラスでも上位を占めています。

ニュースや新聞などの報道を理解しているのですから、それは当然とも言えるでしょう。

また、人の気持ちを思いやれる、優しい子どもたちだという点でも共通しています。

社会に関心を向ける中で、人間はたがいに助け合って生活しているということを、しぜんに感じているのでしょうか。

このように、世の中の出来事に関心のある子どもを育てるには、まず親自身が、そうしたことに関心をもつことが必要です。

子どもかニュースなどを見ていて、<span class="b green">「これ、どういうこと？」</span>などと聞くことがありますが、<span class="b purple">「お母さんにもわからないわ」</span>ですましてしまうと、子どもは<span class="b green">「こういうことは知らなくてもいいんだ」</span>と考えて、しだいに興味をもたなくなってしまいます。

たとえ知らなくても、<span class="b purple">「わからないわ。お母さんも勉強しなくちゃね」</span>とか、<span class="b purple">「あとでお父さんに聞いてみましょう」</span>というように言っておきます。

実際に、父親と協力したり新聞などで調べたりして、あとで説明してあげることができればベストです。


また食卓でも、積極的に社会的な話題をもち出して、子どもを含めて意見を述べ合うというような体験も、子どもにはいい影響を与えます。

べつに、問題を正確に理解して言う必要はありません。

知っている範囲の知識をもとに、子どもに説明してあげられて、自分なりの意見を述べることができれば、子どもに関心をもたせるには十分です。


<span class="b blue">子どもが社会の授業で習ってきたことを話題にする、</span>というのもいい方法です。

自分の習っていることが、大人たちにも関心のあるたいせつな問題だということがわかれば、子どものやる気も変わってくるはずです。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 10 Nov 2009 21:06:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>高校受験をめぐる現状</title>
         <description><![CDATA[いまの中学生は、３０年まえに比べて勉強する量は少なくなりました。

また、受け皿もたくさんあります。

ですから、序列化された方法で学校を選ぶのではなくて、地理的なことや学校の設備や校風など、内容で選んでほしいと思います。

しかも、むかしよりもずっと選択範囲も広くなっているので、むやみに競争意識をもつ必要もありません。

受験競争のため<span class="b green">「たいへんだ」</span>とあせって受験勉強に取り組まないでもらいたいのです。

自分なりにきちんと教科書を中心に基礎学力をつけておけば、けっして心配することはありません。


また、<span class="b green">「進学するには私立でなくては……」</span>と言われますが、東京都内にかぎっても、進学校の数では、まだ都立のほうがかえって多いくらいです。

私立の場合は一部のかぎられたところが進学校であるにすぎません。

その、ほんの一部の進学校の受験競争だけが、ひじょうに厳しくなっているのです。

すべての高校の受験競争が激しくなっているわけではありませんから誤解しないでください。


ただ、私立の中堅校以上の、とくに大学付属高校では明らかに難しくなりました。

教科書だけの勉強で受験するのは難しいので、教科書プラスアルファの学習が必要です。
前述したように、３０年まえの受験は、教科書だけの勉強でたいていのところに合格できました。

一部の国立系統はたしかに難しかったのですが、それでも、教科書プラス問題集を一冊やれば、自学自習でトップクラスの都立校やほとんどの私立に合格できたのです。

ところが、いまは教科書がやさしくなり、入試問題が一部の学校でひじょうに難しくなって、私立の中堅校でも教科書だけでは太刀打ちできなくなっています。

そういう意味で<span class="b">進学塾がふえてきた</span>のです。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 10 Nov 2009 05:29:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもは遊びや家族とのふれあいの中でいろいろなことを学んでいる</title>
         <description><![CDATA[遊びの中にも子どもを成長させる要素はたくさんあります。

伝統的な遊びでいえば、こまやおはじきなどは、子どもの集中力を高めるのに役立ちます。

いろいろと難しい「ワザ」などもありますが、子どもは、遊びだからこそ誰に言われなくても熱心に取り組み、いつの間にかクリアしてしまいます。

そのときの集中力は、大人にもなかなか真似できません。

将棋やダイヤモンドゲームなどの知的ゲームが、子どもの想像力を伸ばすことに加え、落ち着きや考える習慣も身につけてくれることはよく知られています。

トランプの好きな子どもが数字に強くなるのは当然ですし、途中で点数などを計算しなければならないゲームもたくさんありますから、算数の学力にも影響します。


また、いろいろな<span class="b">「ごっこ」遊び</span>は、子どもの想像力を養うとともに、大人の世界のさまざまなルールを体験させてくれます。

大勢の友だちとの遊びは、さらにいろいろなことを子どもに教えてくれますが、それについてはまえにご紹介したとおりです。


<span class="b">家族とのふれ合い</span>も、子どものたいせつな学習の場です。

家庭は、社会の最小単位といわれるように、社会生活のルールのほとんどが、家族どうしの関係にもあてはまります。

そうしたものを、子どもは知らず知らずのうちに学んでいくわけです。

これも広い意味では、しつけということになるのかもしれません。

また、子どもは、家族の一人ひとりをじつによく観察しています。

親のちょっとしたくせが子どもにうつってしまう、ということがよくありますが、そういう意味では親はいつも気を抜けません。

よくも悪くも、親は子どものお手本なのです。


こうした日常生活の中での学習は、学校でのいわゆる「勉強」と区別して考えがちですが、この両者は密接に結びついています。

子どもがどんな遊びをしているか、家族関係や、親子のコミュニケーションはうまくいっているか、こうしたことのすべてが、学力にも深い関わりをもっているのです。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 12:37:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>忘れものをしないようにあ母さんが準備をしてしまうと、子どもの学力は上がらない</title>
         <description><![CDATA[子どもが学校へ出かけるとき、<span class="b purple">「忘れものない？」</span>という言葉は、多くのお母さんの日ぐせになっているようです。

子どもがこの時点でもう一度確かめればいいのですが、急いでいるうえ、もう慣れっこになってしまっているので、あまり気にとめません。

せっかくお母さんが心配しているのに、子どもは忘れものをしてしまいます。

それが、たまのことであれば、しょうがないでしょう。

でも、授業に使うたいせつなものを、いつも忘れるということになると話は違います。

<span class="b purple">「つぎの授業は角度の勉強をするから、かならず分度器を持っていらっしゃい」「つぎの授業は地図帳を持ってくるんですよ」</span>そういった指示が出されたとき、かならずといっていいほど忘れてくる子どもがいます。

本人は、あまり悪びれた様子もありません。

<span class="b green">「また忘れました」</span>などと、当然のような顔でニヤニヤ笑っていたりします。


話を聞いてみると、お母さんが翌日の準備をしているという場合が多いようです。

子どもがきちんと伝えないかぎり、お母さんはつぎの授業で何が必要になるかは知らないわけですから、忘れものをするのは当然です。

ところが子どもは、自分で準備をしたわけではないので、ちっとも責任を感じないのです。

このような子どもは、勉強に対する姿勢がどうしても消極的になります。

時間割表を見ながら自分で準備をすれば、しぜんに授業に対する心の準備をすることができます。

子どもによっては、<span class="b green">「あしたから新しい単元だな。今度はどんなことをやるんだろう」</span>などと、期待感をふくらませることもあるでしょう。

しかし、お母さんが準備をしてしまうと、そういうチャンスが失われてしまうのです。

いつまでたっても受け身のままで、自分から学ぼうとする気持ちがなかなか出てきません。

忘れものをしないようにしつけるということは、結局、責任感を身につけさせるということにはかなりません。

自分のことは、自分でする。

その責任も自分にあるのだと、子どもに早いうちから教えてあげたいものです。

責任感をもつということは、言うまでもなく社会に出てからもたいせつなことですが、このように学力にも関係してくるのです。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 09 Nov 2009 07:27:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>しつけのきちんとできている子どもは勉強も得意になる</title>
         <description><![CDATA[子どものやることには、いっさい口を出さない。

やりたいことは自由にやらせる。

そういう放任主義が、子どもをのびのびと育てる方法だと勘違いしている家庭は少なくありません。

しかしこういう子どもは、大人とのコミュニケーションがうまくいかなかったり、責任感がうすいので友だちとの信頼関係もつくれなかったりと、学校生活もあまりうまくいかないという場合が多いようです。

そればかりでなく、<span class="b">しつけができているかいないかは、学力にも大きな影響を与えるのです。</span>

しつけがきちんとできていない子どもは、<span class="b green">「やらなければいけないこと」「がまんしなければいけないこと」</span>に対応できません。

そうすると、三年生、四年生と学習内容が複雑になるにつれて問題が起こってきます。

たとえば国語なら、文章が長くなってくると、最後まで読みとおすということができなくなります。

本を読み慣れている子どもにはわけもないことですが、ふだん漫画ばかり読んでいるような子どもにとっては、教科書の説明文などを読むのは、たしかにかなり苦痛をともなうことかもしれません。

そのとき、しつけのできていない子どもは、途中で投げ出してしまいがちなのです。

算数なら、繰り上がり、繰り下がりが二度、三度重なるような計算が出てきたあたりで、しつけのできていない子どもはもういやになってしまいます。

「できない」のではなく、めんどうくさいから「やらない」のです。

そして、<span class="b">「めんどうくさい」→「やらない」1「わからなくなる」→「もっと、めんどうになる」</span>という<span class="b red">悪循環</span>がはじまってしまいます。

こういう子どもは、塾に行かせてもあまり効果がありません。

たとえ学力が低くても、なんとかわかろうと努力してくれる子どもは、少人数でじっくり教えればかならず成果が上がります。


しかし、やる気のない子どもはどうしようもないのです。

しつけができている子どもは、<span class="b green">「つらくても、やらなければいけないことがある」</span>ということを知っています。

国語の長文も、つまらないと思いながらも読みとおしますし、めんどうな計算も苦労しながら練習します。

学校の勉強というのは、そのようにして努力すれば、かならず成果が上がるようにできているのです。

こういう子どもは、<span class="b blue">「わかる」喜び、「できる」喜び</span>を体験することができ、学力も上がっていきます。


「しつけ」と聞いただけで、<span class="b green">「なんだ、古臭い」</span>というイメージをもってしまうお母さんもいるかもしれません。

でも、古臭いのはしつけの方法だけで、最低限教えなければならないことは、「むかし」も「いま」もあまり変わっていないのです。


<h3>箸を正しく使える子は、勉強もよくできる</h3>


最近は大人でも箸を正しく使えない人がふえてきました。

大学生が集まっていたりすると、変な持ち方をしている学生が一人二人ではないので、びっくりします。

まして子どもとなると、じつにバラエティーに富んだ箸の使い方をします。

食べ物がちゃんとつかめるんだから、持ち方くらいどうだってかまわないじゃないか、というかもしれませんが、それがそうでもないのです。


子どもたちをずっと観察していると、どうも箸を正しく使える子どもは、使えない子どもに比べて学力も高いという傾向があるのです。

理由はいくつか考えられます。

一つめは、<span class="b">大脳生理学的な理由</span>です。

指先をよく使う人はボケないなどといいますが、手の運動と脳の働きのあいだには密接な関係があるようです。

ですから、<span class="underline">手先の器用な子どもは頭の働きもいい</span>ということは考えられます。

長い目で見れば、指先を使わせる習慣をつけたほうが脳のためにいいということは言えるかもしれません。


二つめは、<span class="b">箸を使う練習の過程が、子どもに忍耐力を植えつけている</span>ということです。

箸の練習は、しつけの中でも、子どもにもっとも大きな努力をしいるものの一つでしょう。

何しろ箸の使い方は、文字どおり食べるためにどうしても必要な技術ですから、子どもはとりあえず自分なりの方法を編み出してしまいます。

そこから先は、ほとんど親子のがまん比べのようになってきます。

子どもは、正しい持ち方がうまくいかないうちはどうしてもイライラしますから、つい自分流の持ち方に戻ります。

それをふたたび、親が正しい持ち方に戻す。

この繰り返しで、親子ともども苦労します。


しかし、それを通り抜けて、ついに正しい持ち方をマスターしたときには、子どもは大きな<span class="b blue">達成感</span>を感じるはずです。

<span class="b">「がまんして、努力して、それが報われる」</span>この体験が、子どもにとっては重要なのです。


いっぽう、親が途中であきらめてしまった子ども、最初から努力させられなかった子どもは、この体験をすることができません。

この体験があるかないかが、すこし複雑な学習内容に出合ったときに、努力しても身につけようとするかしないかの差になって表れるのです。

これが、学力を大きく左右することは言うまでもありません。


三つめは、これは箸にかぎらないのですが、<span class="b">指先を使うこまかい作業は子どもの集中力を養う</span>ということです。

箸で豆をつまむ。

折り紙をきれいに折る。

ナイフでエンピツを削る。

こうした作業は、かなりの集中力を必要とします。

こうしたこまかい作業ができる子どもは、計算ミスなども少なく、学力も高い場合が多いようです。]]></description>
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         <pubDate>Sun, 08 Nov 2009 23:55:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「わかる」子どもは、「できる」ことの大切さもわかっている</title>
         <description><![CDATA[「わかる」ことのたいせつさばかり強調してきました。

このあたりで<span class="b green">「じゃぁ、わかってさえいれば、できなくてもいいんですか？」</span>という質問がきそうです。

もちろん、そんなことはありません。

どんなに問題の解き方がわかっていても、計算違いで答えがまちがっていたら、やはりテストでは×がつきます。

答えはわかっていたのに、漢字をまちがえた。

これもやはり×です。

とくに、解答欄に答えだけを書く形式のテストの場合、考え方がわからなかった場合も、考え方はわかっていたのにうっかりたし算の繰り上がりをまちがえただけの場合も、まったく同じ減点をされることになります。

「わかっていること」がちゃんと評価される、システムになっていればいいのですが、現在の学校教育は、残念ながらそうではありません。

答えが正しいか正しくないかははっきりわかりますが、考え方がわかっているかいないか、わかっていないとしたら、どこまでわかっていてどこからわかっていないのかを、答案用紙から正確に判断することはひじょうに難しく、ましてそれを、点数という形で表すことは至難です。

また、ただでさえ忙しい先生は、テストの採点にそんなに時間をかけることはできません。

その結果、答えだけを評価するという形のテストがふえることになります。

こうなると、「わかってはいるけれども、計算や漢字が苦手な子ども」たちは、挫折を感じることになります。

「わかった」という喜びも、低いテストの点数を見てがっかりしてしまうとしたら、こんなにもったいないことはありません。

どんな子どもでも、そんな経験を繰り返していたら、やはり、だんだん勉強がいやになっていってしまうのではないでしょうか。


でも心配することはありません。

<span class="b blue">お母さんが、子どもの「わかっていること」をきちんと評価してあげればいいのです。</span>

たとえば、子どもがテストを持ち帰ったときに、

「いちばんたいせつな考え方はちゃんとわかってるんだから、偉いわね。</span>

<span class="b green">でも、計算違いをしただけでこんなに点数を引かれて、とっても残念ね。</span>

<span class="b green">毎日計算の練習をして、まちがえないようになりさえすれば、すぐにいい点数がとれるようになるわよ」</span>

とか、

<span class="b green">「読み取りはちゃんとできてるんだから、国語の力はあるのね。あとは、漢字さえきちんと練習すれば、点数もあがるわね」</span>

というように言ってあげます。


こうした言葉で、子どもは失いかけていた自信を回復します。

そして、しぜんに計算や漢字を練習しようという気持ちになります。

「わかっているけどできない」ことの悔しさをいちばん痛感しているのは、いうまでもなく子ども本人です。

わかったときの喜びも、記憶に残っています。

ですから、あとは練習さえすれば「できる」ようになる、ということがわかれば、人一倍努力するものです。

努力した結果、テストの点数が上がれば、もう大丈夫です。

その子どもは、「わかる」ことと「できる」ことがそろえば喜びが二倍になるということを、自らの体験で知ることができたのです。

その喜びの大きさは、「できる」だけの子どもには絶対に経験することのできないものです。]]></description>
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         <pubDate>Sun, 08 Nov 2009 04:12:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>テストの点数にこだわると、子どもは勉強が嫌いになる</title>
         <description><![CDATA[子どもがテストを持って帰ってきたとき、どんな言葉をかけてあげるでしょう。

このとき、あまり点数にこだわると、子どもにいい影響を与えません。

たとえば、<span class="b purple">「どうしたの、こないだより３０点も下がったじゃないの」</span>というように言ったとしましょう。

ほんとうは、前回のテストと今回のテストとでは、内容が全然違うわけですから、比べても意味はないのです。

それを、「点数」という観点だけで比べてしまうことで、子どもは知らず知らずのうちに、<span class="b green">「たいせつなのは点数なんだな」</span>という意識をもってしまいます。

こうした点数にこだわった言葉というのは、つい出てしまいがちです。

<span class="b purple">「つぎは８０点を目標にしようね」</span>とか、<span class="b purple">「国語の点数をすこし算数に回せたらいいのにね」</span>と言っている方も多いのではないでしょうか。

しかし、よく考えてみると、勉強本来の目的からいえば、テストの点数などはおまけみたいなものでしかありません。

運動会での順位や、習いごとの成果などにこだわるお母さんもいます。

とくに、習いごとの場合は、特別に力がはいるようです。

ピアノの発表会などでは、プログラムの順番に目の色を変え、<span class="b purple">「どうしてうちの子が最後じゃないんですか」</span>などと先生に文句を言って、かえって子どもにたしなめられる、などという場面も目にします。


親が子どものテストの点数や成果にこだわるのは、愛情の結果でもありますから、そのこと自体を責めることはできません。

自分の子どもがかわいいからこそ、ついよその子どもと比較してしまいますし、点数や順位などという目に見える形で、自分の子どもの能力を確かめたくなるのです。

しかし、それを子どもの前で口にしてしまうと、子どもも結果にばかりこだわるようになります。

その結果、勉強が嫌いになってしまいます。


子どもを、結果より内容、過程をたいせつにするように育てるためには、やはり日常の会話に注意する必要があります。

子どもがテストを持って帰ってきたら、どんな点数でもまずそれを認めてあげます。

そのとき、「６０点とったこと」よりも「三間解けたこと」に注意を向けさせるようにしましょう。


運動会でも、順位が何位でもがんばったことをほめてあげて、ほかの子どもの順位などはなるべく話題にしないことです。

ピアノを一生懸命練習していたら、そのことをまず認めてあげて、その子の演奏が自分をどんなに楽しい気持ちにさせるかを伝えてあげます。

<span class="b">結果より内容ということをいつも頭に入れて、子どもに接してください。</span>]]></description>
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         <pubDate>Sat, 07 Nov 2009 18:20:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの考える力をもっとも伸ばしてあげられるのは親</title>
         <description><![CDATA[子どもにとっては、「できる」ことよりも「わかる」ことのほうがたいせつだと力説してきましたが、学校の授業では、残念ながら「できること」のほうが重視される傾向は強いようです。

もっともこれは、先生にばかり責任を負わせることはできません。

いまの日本の受験制度では「できる」ことをよしとする風潮は避けられないのです。

それに、たとえ先生が「わからせる」ことを重視する意識をもっていたとしても、３０人、４０人の生徒を前にして、一人ひとりの子どもの理解度を紳かくチェックすることができるでしょうか。

まして、それぞれの子どものレベルに応じて、きちんとわかるまで指導することができるでしょうか。

指導している先生もいますが、残念ながら少数派のようです。


それでは、塾に行かせればいいのでしょうか。

とくに低学年のうちは、これも考えものです。

ベテランの先生がごく少人数を相手に教えてくれるような塾が見つかればいいのですが、アルバイトの講師が、５名、１０名の子どもを相手に教えているような塾では、あまり効果は期待できません。

むしろ小学校の低学年のうちは、家庭学習で十分だと私は思います。

ですから、<span class="underline">子どもが「わかる」体験ができるまで、じっくりと考えさせてあげられるのは、やはり親、とくに子どもといつも接することができるお母さんしかいない、</span>ということになります。

こう言うと、<span class="b purple">「しろうとの私が教えても大丈夫だろうか、教え方をまちがえたらどうしよう」</span>と不安に思うお母さんも多いことでしょう。

でも、心配することはありません。

なによりお母さんには、学校や塾の先生にはない、大きな強みがあるのです。

<ul class="topics">

<li>（１）子どもの性格やくせ、習慣などを、誰よりもよく知っているということ。</li>

<li>（２）時間を気にせず、子どもがわかるまで責任をもってつき合えるということ。</li>

<li>（３）最初から子供とのあいだに強い信頼関係ができあがっているということ。</li>

</ul>

これらの点で、学校の先生では逆立ちしてもできないぐらい、子どもの学力を伸ばすためには有利な面をもっているのがお母さんなのです。

三番目の信頼関係はとくに需要なところにあります。

ですからお母さんが自分なりに工夫して一生懸命に教えて上げれば、子どもにとってはかならずプラスになります。

教え方については、自分が習ったときの記憶に従うのではなく、子どもの教科書をよく見て、それにそった教え方をするということさえ守れば、まちがえるということはありません。

家で教えるときのポイントは、参考書や問題集だけに頼らず、実際のものを使って考えさせるということです。

学校などでは絵や図を使うところですが、家なら本物のくだものや硬貨、トランプのカードなどを使って、実際に手を動かして体験的に理解させることができます。

買い物にいっしょに出かけたり、公園に遊びに行ったりしながら、勉強というより遊びのような感覚で、楽しく取り組めればいいのです。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 07 Nov 2009 10:03:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもは叱り方一つで勉強が苦手になる</title>
         <description><![CDATA[こんな話があります。

以前アメリカで、黒人の小学生と白人の小学生の学力を比べたところ、明らかに黒人のほうが劣っていました。

このことは、<span class="b red">「だから黒人は劣った人種だ」</span>と、人種差別主義者のかっこうの論拠になっていたのですが、ある学者がこれに疑問をもちました。

いろいろ調べてみると、黒人の親と白人の親では、<span class="b">子どもの叱り方が違う</span>ということがわかりました。

黒人の親は、ただ<span class="b purple">「いけません」</span>と怒鳴るだけだったり、すぐ手をあげてしまったりします。

それに対して白人の親は、きちんと<span class="b blue">理由</span>を説明して<span class="b purple">「だからそういうことをしてはいけないのよ」</span>というように叱っていたのです。


そこでその学者は、黒人の親たちに、叱り方を変えるように指導しました。

すると、<span class="b">黒人の子どもの学力は、みるみる白人に追いついてしまった</span>というのです。


この話は、叱り方が子どもの学力にいかに大きな影響を与えるかを、端的に示してくれています。

みなさんの家庭では、子どもをどのように叱っているでしょうか。

口より先に手が出てしまったり、ただ頭ごなしに<span class="b purple">「そんなことをしてはいけません」</span>とだけ言って理由を説明しない叱り方。

これはいまのアメリカの例でもわかるとおり、望ましくありません。

論理的な考え方ができるようになりませんし、自分で善悪の判断をする力も身につかないからです。

いつもこういう叱り方をされている子どもは、<span class="b red">どこか人の顔色をうかがうようなおどおどしたところがあり、勉強に対してもあまり積極的になれない</span>ようです。


ほとんど叱ることがなく、子どもにやりたいことをやらせている放任主義も感心しません。

<span class="underline b">子どもは、自分にとってよいことか悪いことかの判断はできますが、他人にとって、あるいは社会的によいことか悪いことかの判断はできません。</span>

当然それは、経験をつんだ大人が責任をもって教えてやらなければならないのです。

それをやめてしまったら、子どもは協調性のない、社会に適応できない子どもに育ちます。

また、大人とのコミュニケーションがへたで、学ぶという姿勢にも欠けるので、学力的にもあまり伸びません。

これらはどちらかというと極端な例でしょうが、ちゃんと理由を説明して叱っているようで、じつは子どもに悪影響を与えているという場合もあります。


レストランなどで子どもが騒いでいるとき、お母さんが<span class="b purple">「お店の人に叱られるからやめなさい」</span>というように叱っているのを耳にします。

これを聞いた子どもは、どう考えるでしょうか。

自分たちが悪いという意識はなく、反対に<span class="b green">「怒りっぽい店員のせいでぼくは遊べない」</span>などと逆恨みするかもしれません。

<span class="b green">「お母さんに叱られた」</span>という意識もうすいはずです。

これでは、何のしつけにもなりません。

ここは、<span class="b purple">「ほかのお客さんの迷惑になるし、お母さんも困るからやめなさい」</span>というように叱るべきです。

人に迷惑をかけたり、人を困らせたりすることは、自分が迷惑したり困ったりすることを考えれば、明らかに悪いことだとわかります。

ですから、さきほどと違い、子どもは<span class="b green">「自分は悪いことをしたんだ。だから叱られたんだ」</span>ということをはっきり意識します。


このように、子どもを叱る場合には、<span class="underline">なぜそれが悪いことなのか、はっきりわからせるような言葉を選んで叱る</span>ことがたいせつなのです。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 06 Nov 2009 12:42:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>豊かな生活体験が子どもの本物の学力を伸ばす</title>
         <description><![CDATA[たとえば、いつも虫をつかまえて遊んでいる子どもと、虫というとほとんど写真でしか見たことがない子どもと、理科で昆虫の勉強をしたとき、どちらがよく理解できると思いますか。

<span class="b green">「わかりきったことを聞くな」</span>と文句を言われそうですね。

たしかに答えはわかりきっています。

日常生活の中で体験している子どものほうが、よく理解できるに決まっています。

でも、そのことを意識しているお母さんは、どれだけいらっしゃるでしょうか。

<span class="b purple">「そんなことを言っても、うちの近くには林もないし、野原もありません」</span>と言われるかもしれません。

しかし、生活体験というのは、自然にふれる体験だけのことではありません。

反対に、都会の子どもには都会の子どもにしか体験できないことがあり、それも立派な生活体験です。

たいせつなことは、子どもの日々の体験を、子どもの学力にどう結びつけるかなのです。

これは、お母さんの意識のしかた一つで大きく変わってきます。

たとえば、ケーキを家族で食べるときに、子どもに切り分けさせてみます。

<span class="b purple">「四人で食べるから、四等分してね。どう切ればいいかな？」</span>

<span class="b purple">「今日はお客さまが来てるから六等分ね。ちょっと難しいけど、どうしたらいいかな？」</span>

そうして、<span class="b purple">「はい、四分の一ずつ」「今日は六分の一ずつね」</span>と言いながら取り分けます。


こういう体験をしている子どもは、分数の理解力もやはり違います。

また、テレビを見ていて地名が出てきたときなど、家族で地図を広げて確かめてみるのもいいでしょう。

<span class="b purple">「日本地図でいうと、このへんだね。ここを詳しくした地図でいうと、ほら、あった」。</span>

このとき、<span class="b purple">「このへんは雪が多いのよ」「このへんはカニがおいしいのよ」</span>などと、知っている範囲で、その地方の特色などをちょっと説明してあげます。

そうすると、地図のしくみもしぜんに理解できていくでしょうし、テレビの見方も変わってきます。

<span class="b green">「ここはどういうところなんだろう」</span>と、いままでより深い興味をもって見るようになるのです。

そして、そういう習慣がついていると、五年生になって地理の勉強をはじめたとき、興味も自信ももって取り組めるようになります。

自然にふれる体験にしても、都会にはまったく自然がないわけではありません。

校庭のすみ、ちょっとした空き地、家の庭先など、植物が生えている場所はじつはけっこうあります。

そして、昆虫だってかならずいるはずです。

そんなところを通ったときなど、<span class="b purple">「この花、雑草だけどきれいね。なんて花だか、うちで図鑑で調べてみようか」</span>と言って摘んで帰る、そんなことを何度か繰り返しているうちに、子どもは自分でも、道端の草花に目を向けるようになっていくでしょう。

そうして子どもの意識が生き物に向くようになっていれば、遠足や旅行に行ったときの体験がまったく違ってきます。

それまで見たこともなかった植物や昆虫を見て、胸をときめかせる体験をするかもしれません。

体験をとおして得た知識や考え方は、かならず「本物の学力」に結びつきます。

お母さんの意識一つで、問題集を何冊も与えるよりも貴重な学習を、子どもにさせられるということを知っておいてください。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 06 Nov 2009 00:08:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親子でできる家庭学習法</title>
         <description><![CDATA[

<h3>ロールプレイングを家庭学習に取り入れてみる</h3>


電話相談や父母懇談会で、<span class="b purple">「どうやって勉強させたらよいか」</span>という質問をよく受けるのですが、

<span class="b blue">「ほめることもたいせつだし、お母さんがお子さんに勉強を教えることも必要だけれども、それよりも、ときどきお母さんが聞き役になってほしい。</span>

<span class="b blue">お母さんが生徒になって、子どもが先生になるときをつくってほしい」</span>と答えています。


たとえば、二年生の算数を見ても<span class="b purple">「お母さん、これわからないなあ。○○ちゃん、教えて」</span>と言う余裕をもってほしいのです。

子どもは<span class="b green">「お母さん、こんな問題もわからないの。これはね……、わかった？」</span>と言いながら教えてくれます。

子どもはお母さんに教えることによって、ふだんと逆の立場に立つことができるわけです。


低学年だとまだ難しいのですが、四年生くらいになると、塾でも子どもを相手にこれと同じことをやっています。

いま話題になっていることなど、<span class="b purple">「ぼくは知らないから、教えてくれる？」</span>と言うと、子どもは<span class="b green">「先生、そんなことも知らないの？」</span>と言いながら、得意になって一生懸命しゃべります。

これを、勉強にも活用できないかと考えています。

ふつう家で親が子どもに教える場合、親のほうが一方的に教えるだけという図式が多いと思います。

すこし立場を変えて<span class="b purple">「お母さんもわからないなあ。今度いっしょに調べてみようか」</span>と持ちかけたらどうでしょうか。

そうすれば、<span class="b green">「またお母さんがうるさいこと言ってる」</span>という取られ方をしなくなるのではないか、と家での接し方の例としてアドバイスをしています。


いまのお話は専門用語でロールプレイング（role playing／体験的学習法、役割演技法・以下RPと記す）と言いますが、不適応を起こした子どもの治療法としてよく行なわれています。

最近私のところに相談に来たお子さんは、小学校高学年の子で、学校に行っていませんでした。

学校に行っても友だちとどうつき合っていいかわからない、友だちに何か言われたときにどう答えればいいかわからないというのです。

そういった場面をRPで実際に演技させます。

相手や自分のふるまいをそのまま演じたり、立場を逆にして何度か練習すると、<span class="underline">相手の気持ちがわかるようになり、自分でどう答えればいいかがわかってきます。</span>


私が治療した中には、気分が落ち込んでうつ状態になり、自分はだめな人間だと思い込んでいるビジネスマンがいました。

趣味や得意なものを聞き出したところ、むかし、水泳をやっていて、ある程度自信があるということがわかりました。

そこで、私が水泳教室の生徒になって、その人から水泳を教えてもらうという設定で演技してみることにしました。

つまり、私が<span class="b green">「こわくてできない」「私はだめだ」</span>などと、その人のふるまいを演じてみせるわけです。

すると、<span class="b purple">「そこのところはこうすればいい」「そんなふうに物事を考えるから、やる気がなくなるんだ」</span>と、そのビジネスマンが私に言ってきます。

その言葉は、じつは私がその人に伝えたかったことなんですね。

<span class="b blue">それを自分で見つけ出すことによって、ほんとうにやる気も出てきますし、気分も晴れるわけなのです。</span>


<h3>ロールプレイングなら具体的な手がからを得られる</h3>


役割を演じることは、学習場面でも同じことが言えます。

具体的にこうすればよいという手がかりを整理することができるのです。

<span class="b">「子どもがお母さんに勉強を教える」</span>ことによって、具体的な学習の手がかりをもつことができるようになります。

これがRPの一つのキーポイントだと言えるでしょう。


<h3>ロールプレイングでリハーサルをすることができる</h3>


もう一つのキーポイントは、役割を演じることによって、心理学で言う「リハーサル」をすることができることです。

具体的にこうすればいいとわかっていても、実際にできない子は数多くいます。

こういった子どもに、「リハーサル」はひじょうに重要です。

ふつう、算数の問題を解くときは、いきなり式を答案用紙に書くのではなく、いったん頭の中で問題や答えを整理してから書いています。

それは、頭の中で一回リハーサルしているのと同じことになります。

このことは、考えをまとめ上げるプロセスとして、たいへん重要です。

<span class="b">つまり、このリハーサルのできる子が「わかっている子」とも言えるわけで、逆に言えば、わかるためにはリハーサルが必要だ</span>ということになります。


人に何かを教えることは、リハーサルすることにつながります。

<span class="b green">「お母さん、こうすればいいよ」</span>と教えながら、子どもは頭の中で教える内容をリハーサル、つまり自分の頭の中の考えを整理し、言語化しているわけです。

このことが、学習を促進することは言うまでもありません。

ですから、<span class="b green">「わかっているけど、うまく表現することができない」</span>といった子どもたちには、RPはひじょうに有効な方法だと言えるでしょう。


<h3>ロールプレイングを上手に利用した学習法とは？</h3>


生活体験などもまさにRPです。

算数の例でいうと、五年生になると割合の問題で「１００円の１０パーセント引きはいくらか」というのを勉強します。

そんなとき新聞のチラシを見ながら<span class="b purple">「一万円の３０パーセント引きって、いくらになるかしら」</span>とお母さんが子どもに尋ねるというのも一つの手ではないでしょうか。

子どもがお母さんに教えることで、リハーサルをすることになります。


そのあとでたいせつなのは「一万円の３０パーセント引きはいくらですか」という問題として、もう一度ノートにやらせることです。

つまり、実際の問題として理解することが必要なのです。

そうすると、RPはリハーサルの効果をもたらして、その後の学習に役立つことになります。]]></description>
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         <pubDate>Thu, 05 Nov 2009 14:11:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>遊ばない子、遊び方がへたな子は、オモチャ以外のもので遊ぶ工夫を親子でしてみる</title>
         <description><![CDATA[遊びの中には、子どもの成長にプラスになるさまざまな要素が含まれています。

なかには学力に大きな影響を与えるものも少なくありません。

ですから、遊び方がへたを子どもは、学力も高くないのがふつうです。

本来、遊びの嫌いな子どもはいません。

遊び方、遊ぶことの楽しさがわかれば、子どもはしぜんに遊ぶようになるはずです。

そして、楽しみながらいろいろなことを学ぶはずです。

机に向かって勉強させることもたいせつですが、遊ばない子どもの場合は、まず工夫して遊ぶことを教えてあげることが、学力をあげる早道だといえるでしょう。

このとき、ただオモチャやゲームを買い与えるのではなく、できればそうした既製の道具を使わずに遊ぶ工夫を、親子でいっしょにしてみるとより効果的です。

たとえば、コップやビンに水を入れて叩いたりすると、その水の量によって音の高さが変わるということはごぞんじだと思います。

それを実際にやってみて、好きなメロディーを叩いて遊ぶのです。

もっと高い音やもっと低い音がほしいということになれば、水の量を調節したり、べつの形のコップを探したりと、いろいろ工夫をはじめるでしょう。

もし、音に興味を示すようなら、ゴムをはじいて、引っ張る力によって音の高さが変わるような楽器を工夫してみてもいいでしょう。


こうした経験は、将来、理科で音について勉強するとき、かならず役に立ちます。

目と耳と手で実際に体験しているわけですから、教科書や参考書の記述を読むだけでは得られない、深い理解が得られるのです。

また、水の量やゴムの張力を微妙に調節するなどの作業をとおして、集中力や忍耐力も身につきます。


何かを部屋の中に隠して、おたがいに探しあうというような、単純な遊びでもかまいません。

そのものの一部はかならず見えていなければならない、というようなルールを決めておいて、どちらが先に相手の隠したものを見つけるか競争するのです。

何度か繰り返すうちに、子どもはなんとかお母さんの盲点をつこうと、いろいろ隠し場所を工夫します。

そのことが、子どもの想像力などを養うことにつながるのです。

硬貨を使った遊び、ヒモを使った遊び、紙とエンピツを使った遊びなど、身近な道具を使った遊びはいろいろ工夫できます。

もちろん、お母さんが考えた遊びをやらせるだけでなく、<span class="b purple">「今度はあなたがルールを決めて」「つぎはあなたが考える番よ」</span>といったぐあいに、子どもに考えさせてください。

遊びが楽しいのはおたがいに、ある「きまり（ルール）」があるからだとか、ルールが複雑だと、簡単な遊びも頭を使う必要があることなど、子どもは遊びながらしぜんに応用力をつけていきます。

知能が発達してくると、複雑なルールの遊びが好きになってくるものです。

そして、お母さんが子どもといっしょに遊びながら、思う存分楽しむことが何よりもたいせつです。

お母さんが「遊びにつき合ってあげている」という態度ですと、子どもは敏感ですから、すぐにやる気をなくしてしまうのです。]]></description>
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         <pubDate>Thu, 05 Nov 2009 10:54:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「なぜ」「どうして」にいっしょになって考えてあげることが子どもを賢くする</title>
         <description><![CDATA[幼稚園にも上がらないころから、子どもは<span class="b green">「なぜ？」「どうして？」</span>と、質問しながら親につきまとうようになります。

家事に忙しいときには、わずらわしいばかりですが、このときの対応が子どもの将来を左右します。

<span class="b purple">「忙しいんだからあっちへ行ってなさい」「手が離せないからあとにしてね」</span>と拒絶し続けると、子どもは、自分の疑問が母親に迷惑をかけている、と感じますから、しだいに好奇心にフタをするようになってしまいます。

<span class="b purple">「でも、まちがったことを教えてしまうよりは……、」</span>と思うかもしれません。

なにも、その場で正しいことを教えてあげる必要はないのです。

「教える」よりも、<span class="b blue">「いっしょに考えてあげる」</span>という姿勢がたいせつなのです。


まず、自分のわかる範囲で誠実に答えてあげることです。

子どもにわかりやすいような、おおざっぱな理屈でも構いません。

子どもが自分なりに納得することさえできれば、好奇心はさらに活発になります。

うそを教えるのがいやならば、<span class="b purple">「お母さんはこう思うわ。あとで確かめてみましょうね」</span>というようにつけ加えておけば十分です。

<span class="b purple">「あとで調べましょう」「あとで確かめましょう」</span>と言った問題については、ぜひ実際に調べて、なるべく早くフォローしてあげたいものです。

もしかすると子どもは、質問したことすら忘れているかもしれません。

でも、お母さんまでが忘れてしまうと、<span class="b green">「あとで〜する」</span>というのは、何もしないという意味だと子どもは解釈するかもしれません。

ですから、子どもがたとえ質問したことを忘れていたとしても、<span class="b purple">「さっき（このあいだ）○○ちゃん、こんなこと聞いたでしょ。あのときお母さんよくわからなかったけど、いっしょに調べてみようね」</span>と言ってあげれば、子どもは、自分も忘れているようなことまで、親は覚えていてくれたと感じるはずです。

そして、<span class="b">親が自分をたいせつにしてくれているということを実感するのです。</span>

それに、約束を守った親に対する信頼も深まります。


また、いっしょに図鑑や事典を開いて調べることで、子どもは<span class="b green">「わからないことでも調べればわかる」</span>ということを、体験として知ります。

図鑑や事典の使い道もわかります。

将来自分で使えるようになったときは、一人で調べられるようになるでしょう。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 04 Nov 2009 23:57:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもが教師役、親が生徒役になって、学校で習ってきたことを話させてみる</title>
         <description><![CDATA[子どもに学校であったことを話させることは、親子のコミュニケーションをはかり、どもに話をまとめて人に伝える練習をさせ、学校での子どもの様子を把握するという、一石三鳥くらいの効果があります。

ただでさえ、小学校高学年から中学校へと進むと、子どもは学校での出来事を話したがらなくなります。

反抗期でもあり、しかたがないことなのですが、この年代には、いじめなどの問題も深刻になりますから、親子のコミュニケーション不足がとんでもない事態につながりかねません。

<span class="b">低学年のうちに話をする習慣がついているかいないかによって、この時期のコミュニケーションにもかなり差が出てくるようです。</span>

子どもに学校の出来事を話させるとき、ついでに<span class="b purple">「授業ではどんなこと習ったの？」</span>と、子どもに学習内容についても話させてみてください。

子どもは、教室でのことを一生懸命思い出そうとするでしょうが、そのこと自体が、子どもにとってはとてもよい復習になります。

復習というのは、できるだけ習った直後にやったほうが効果があるのです。

とくに低学年のうちは、こうして話をしただけでも、日常の復習としては十分なほどです。

また、忘れかけていた宿題も思い出すかもしれません。

このとき、子どもが<span class="b green">「こんなことを習ったけど、よくわからなかった」</span>というようなことを話したら、しめたものです。

<span class="b purple">「じゃあ、お母さんといっしょに、もう一度考えてみようか」</span>と言って、ぜひ早いうちにお母さんが見てあげてください。

子どものつまずきのもとを、事前に取り除くことができます。


ある程度できる子どもなら、<span class="b blue">ときには、子どもが教師役に、お母さんが生徒役になる</span>というのも効果があります。


<span class="b purple">「へえ、そんなに難しいこと習ったの。</span>

<span class="b purple">お母さん、ずいぶんまえに習って、忘れちゃったから、教えてくれる？」。</span>


こんなふうに言ってあげると、子どもは<span class="b green">「なんだ、お母さんもそんなことわからないの」</span>などと、まんざらでもない顔で教えてくれるものです。

お母さんも子どもに勉強を教えてみるとおわかりになると思いますが、<span class="b">よく知っているというだけでは、他人にはなかなかうまく教えられないものです。</span>

自分の知識を整理し直して、相手に対してあの手この手の工夫をしないと、わからせるというのは難しいものです。

でも、教えたあとには、そのことについての自分の理解がいちだんと深まっていることに気がつくはずです。

子どもも、学校で習ってきたことをお母さんに教えることで、そのことについての理解をぐんと深めることができるのです。

場合によっては、子どもが自分自身の理解が不足していたところに気づくかもしれません。

このときに、<span class="b purple">「そこはね」</span>と、お母さんが教えてしまったらぶちこわしです。

<span class="b green">「なんだ、お母さん知っているんじゃない。インチキだよ」</span>と言って、二度とお母さんに教えてくれなくなるかもしれません。

まず子ども自身に考えさせて、どうしてもわからなかったら、<span class="b purple">「じゃあ、明日学校の先生に確かめて、また教えてね」</span>というふうに言ってあげればいいでしょう。

こうすることで子どもは、<span class="b blue">責任感と勉強に対する積極的な姿勢を、自然に身につけることになるのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 04 Nov 2009 01:20:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもに勉強を動機づけるにはどうしたらいいか</title>
         <description><![CDATA[

<h3>勉強する意欲の乏しい「受け身的な子ども」が多いのぼなぜか？</h3>


どのようにすれば、子どもが家庭学習をやる気になるかを、考えてみたいと思います。

テストで１００点をとってきたとき<span class="b purple">「よくできたね」</span>とはめるだけでは、勉強はそこで終わってしまうのではないでしょうか。

<span class="b">よい点をとるために勉強するのだと、勉強の目的がすりかえられてしまうからです。</span>

テストのために勉強するのではなく、「わかる」とおもしろいから勉強する、というようにもっていくのがたいせつだと考えています。

それでは、勉強のおもしろさをわからせ、家庭学習を上手にさせるにはどうしたらいいかというと、動機づけや、やる気をどう起こさせるかという問題になると思います。

勉強の動機づけとして、算数のテストで１００点をとってきたから今月のお小遣いを１００円アップするとか、成績が上がったら自転車を買ってあげるなどといった、ものを与えるということが一つとしてあげられます。

たしかにそれも一つの動機づけですが、それを続けていくと、三年生になったらこれをあげる、四年生になったらあれを、中学受験で合格したらラジカセ、高校受験ではバイク、大学受験では車、では大学卒業したら何もあげるものがない、と同時に勉強もしなくなってしまうというようになると思います。

ものを与えだすと<span class="b red">一種の中毒</span>のようになって、与え続けないと勉強しなくなり、家庭学習においても、何かをもらわなくては勉強しないというようになってしまう気がするのです。

実際に塾の子どもたちに作文を書かせますと、ものを与えて勉強させる親が多いのがわかります。

しかし、そういう子を見ていて共通しているのは、勉強がおもしろいとか、楽しいという雰囲気がないことです。

<span class="b green">「これは受験のためにやるんだ」</span>という感じで、ひじょうにさめたところがあります。

積極的に勉強に向かうのではなく、合格するためにやる、親や学校の先生に言われたから、しかたなくやるといった受け身的な子どもが多いのです。

私はそうした経験から、<span class="b">「もの」で勉強させるのには限界があるのではないかと感じています。</span>

そして、勉強の動機づけとしていちばんだいじなのは、<span class="b green">「ああ、こういうことなのか。わかった」</span>という喜びや楽しさだと思っています。


<h3>勉強の動機づけは子どもの発達階段によって違う</h3>


まず前提として、<span class="b blue">子どもの発達段階（子どもの学年）を考慮する</span>必要があるということです。

すべての年齢、学年の子どもに同じ話を当てはめるわけにはいきません。

私は仕事柄、不適応を起こした子どもたちとよく話します。

その子たちを見ていると、学年によって不適応を起こしたきっかけがまったく違うことがわかります。

ですから、学年差（発達差）は重要なポイントだと言えるでしょう。

やる気の問題にしても、それを考慮する必要があります。


まず、小学校だと低学年と高学年で対応が違います。

中学校では初期（中一の二学期、中間試験まで）とそれ以降とに大きく分けて、学校の学習内容も家庭学習のねらいも違ってきます。

小学校一、二年生では、学習するうえで教材の中身にはあまり重きをおかなくてもよいのかもしれません。

むしろ<span class="b blue">学習する態度、姿勢、あるいは条件づくりの段階</span>だと言えます。

小学三、四年生になると教科書は急に難しくなり、高学年になるとまた難しくなりますが、その段階になって、中身の理解、学習材料の理解へとはいっていきます。

さらに中学校では、カリキュラムががらっと変わります。

算数が数学に、社会や理科が分割されて、英語が新しくはいり、指導の仕方もクラス担任制から教科担任制に変わります。

これらは子どもにとっては劇的な変化なのです。

また小学校のテストは、基本的に到達度評価の観点に立っていますが、中学校ではストレートに数字で評価されるようになります。

つまり、中学の前半は、子どもにとって新しい学習スタイル獲得の時期だと言えます。

中学の後半になってようやく、中学で学ぶべき学習内容に取り組む時期になります。

また、中三の一学期には進路指導（進学指導）も具体的になり、進路を見極めて学習するということが加わります。


このように、学年によって学習目標が質的に異なります。

それを踏まえたうえで、ものでやる気を起こさせるか、わかることでそれを引き出すかという問題を考える必要があるでしょう。


<h3>小学校低学年までは生活習慣を身につける段階</h3>


小学校低学年までは、<span class="b blue">学校や家庭での生活習慣、学習習慣を身につける時期</span>です。

お母さん方の中には、子どもが低学年のうちから猛勉強させようとする人もいますが、その時期は勉強でなくてもいいですから、机に向かう習慣がつけばいいのです。

低学年のうちに、何かするときには机に向かうという習慣づけができていれば、つぎには算数の教科書を机の上で開くようになります。

いきなり、机の前で教科書を開かせてじっとしていろと言っても、子どもには苦痛でしかありません。

ドリルや参考書でなくても、図鑑や学習漫画でもいいわけですね。

学校から帰ってすぐにファミコンをすることに比べたら、毎日３０分でも図鑑や学習漫画を見れば、あとでわかる喜びをつかむきっかけを獲得する確率は高いといえます。

たとえば、小学校高学年の国語の授業で、おとなから見れば常識と言えることがらを知らないお子さんがけっこういます。

ドリルや問題集をいくらやっても、物語の背景を思い浮かべることはなかなか難しいものです。


ある教科書に、『ごんぎつね』という物語が出てきます。

江戸時代のお話で、かなり牧歌的なところがあるお話です。

その中で、主人公がウナギを獲ってびくに入れるのですが、「びく」を知らない子がかなりいるのです。

ところが、豆博士というか、きまりきった勉強はしないけれど、いろいろなことをよく知ってる子がいて、そういう子に絵を猫かせると、さらさらと描くことができます。

また、話の中に「小川が流れています」という文章があると、いまの子は両岸がコンクリートで固めてある川を思い浮かべてしまいます。

いっぽう、ハイキングなどで実際に見たことのある子は、まわりが土と岩のほんとうの小川を思い浮かべて、ああいうところでウナギを獲るんだなとわかるのです。


ですから、<span class="b">小学校高学年の勉強をほんとうにわかるようになるためには、そのまえに、とくに低学年のうちにやらなくてはいけないこと、体験させておきたいことがいっぱいあるのだと思います。</span>]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/study-method/0911032314.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 03 Nov 2009 23:14:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「見かけの学力」だけでは勉強好きな子は育たない</title>
         <description><![CDATA[「子どもの学力を伸ばしたい」と考えて、このサイトを読んでいらっしゃるお母さんに、あらためて<span class="b purple">「学力って何でしょう？」</span>などと聞いたら、おそらく変な顔をされるでしょう。

<span class="b green">「問題を解く力に決まってるじゃない」</span>とか、<span class="b green">「テストの点数、通信簿の数字」</span>といった答えが返ってくるに違いありません。

もちろん、それはまちがいではありません。

学力は、問題を解く力やテストの点数として表れます。

でも、開票解ければ、テストの点数がよければ、「学力がある」といってよいかというと、そう簡単にはいかないようです。


学力には、<span class="b blue">「本物の学力」</span>と<span class="b blue">「見かけの学力」</span>がある、というのが私の考えなのです。

算数の問題を例にとってみましょう。

たとえば、「かぶと虫が３匹います。足の数は全部で何本でしょう」という問題があったとします。

かぶと虫には、１匹あたり六本ずつ足があり、それが３匹いるわけですから、「６×３＝１８」という式をたてて「１８本」というのが答えになります。

ここでの問題のポイントは、「１つあたりの数×個数＝全体の数」というかけ算の基本的な考え方が理解できているかどうかにあります。

この問題を説明したあとで、つぎに「８人乗りのボートが４そうあります。全部で何人乗れますか」という問題をやらせてみます。

<span class="b green">「１そうあたり８人乗れるボートが４そうあるから、８×４＝３２で、３２人」</span>というように考えられる子どもは、さきほどの問題の意味を完全に理解していますから、心配ありません。

こうした理解を積み重ねていけば、かならず「本物の学力」が身についていく、と考えていいでしょう。


けれども、なかには、

<span class="b green">「いまはかけ算の問題をやっている。</span>

<span class="b green">さっきは６×３だった。</span>

<span class="b green">だから今度はきっと８×４だろう」</span>と考えて「８×４＝３２」という「正解」を出す子どもも、何人かいるのです。

こういう子どもは、いわゆる「要領のいい子」ということになるわけですが、私はこれを「見かけの学力」と呼んでいるのです。

問題を解く力があるかないか、ということだけを見ているかぎり、この「本物の学力」と「見かけの学力」は区別できません。

「だったら、どっちでもいいじゃないの」と思われるかもしれませんが、<span class="underline b red">違いは小学校高学年から中学、高校と進むにつれてしだいに表れてきます。</span>

「見かけの学力」しかもっていない子どもは、<span class="b red">応用問題ができない</span>のです。


たとえば中学校で、方程式を解くことはできても、文章題から自分で方程式をたてることができないようなことになります。

学校のテストでは、ほんとうの意味での応用問題というのはあまり出題されません。

せいぜい、教科書の問題の数字を変えただけといったものが多いので、それでもなんとかついていけるでしょう。

また、公立高校の入試なども、基本的な問題が多いですから、高校までははいれるかもしれません。

でも、そのころには確実に<span class="b red">数学嫌い、数学アレルギー</span>のような子供になってしまっています。

高校ではまず、落ちこぼれるでしょう。


<span class="b green">「小学校のころは勉強も好きで、成績もよかったんですけど、中学にはいったらとたんにやらなくなって…、」</span>と嘆くお母さんに、よく出会います。

そこで、小学校のころどんな勉強をしていたのかを聞いてみると、計算ドリルや漢字練習などを毎日きちんきちんとやっていても、文章題はあまりやらなかったり、計算だけをどんどん先に進んで練習させるような塾に喜んで通っていたり、というような場合が多いのです。

こういう子どもは、「見かけの学力」はちゃんと身につけています。

ですから、学校の成績は悪くありませんし、開票解けたりいい点数をとれたり、それでほめられたりといぅのはうれしいことですから、そのためには喜んで勉強もします。

でも、本当に勉強が好きなわけではありません。

したがって、解けない応用問題がふえてくると、とたんに勉強がいやになってしまうのです。

<span class="b red">「見かけの学力」だけをもっている子どもは、けっして、本当の意味での「勉強好き」にはならないのです。</span>]]></description>
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         <pubDate>Tue, 03 Nov 2009 07:01:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>問題をたくさんやらせるよりじっくり考えさせるほうがいい</title>
         <description><![CDATA[子どもが２０分勉強して、そのあいだに１０問の問題を解いたとします。

そうしたら、おそらくお母さんは、<span class="b purple">「よくやったわね、がんばったわね」</span>とはめてあげるでしょう。

でももし、同じ２０分のあいだに一問しか解けなかった、あるいは一問を考え続けて、結局まだ解けていなかった、としたらお母さんはどうするでしょう。

<span class="b purple">「ほんとうに考えていたの？　ほかのことを考えていたんじゃないの？」</span>などと言ってしまうのではないでしょうか。

そうすると、子どもも、<span class="b green">「時間のかかる難しい問題を考えるより、やさしい問題をたくさんやったほうがお母さんにほめられる」</span>と思ってしまいます。

そして、ちょっと苦労しそうな問題にぶつかると、とりあえず飛ばしておいて、数だけこなすというようになります。

これは、「考える」という過程よりも、「何問解いた」という目に見える効果をだいじにする発想につながります。


矢指問題だけで数をこなすというのは、言ってみれば、野球の練習をするのに、ランニングや素振りなどの基礎的な練習ばかりして、ボールを打つ練習はなかなか当たらないからやらない、というのと同じです。

これでは、野球をしても、いつまでたってもヒットが打てるようにはなりません。


たとえ結果的には解けなかったとしても、一つの問題をじっくり考えるということは、それだけで、よい思考のトレーニングになります。

考える力は、考えることを繰り返すことによってしかつきません。

ですから、子どもが２０分も考えたということは、とても素晴らしいことなのです。

<span class="b blue">できる問題を１０問解くより、できない問題を考えてみるほうが、子供の学力を伸ばすためにはずっと効果的です。</span>


子どもがよく考えた問題については、まずその「考えた」ということ自体をほめてあげてください。

<span class="b purple">「そんなに考えてたの。えらいわね」</span>

<span class="b purple">「じっくり考えられるということは、お兄（姉）さんになった証拠ね」</span>

というぐあいにほめられると、<span class="b blue">子どもには「考える」ことのたいせつさがわかってきます。</span>

そして、その間題を<span class="dotted">かならず最後まで自力で解かせてあげてください。</span>

考えても解けない、ということで、子どもの中にも欲求不満がたまっています。

それは、わかった、解けたという体験でしか解消できません。

ですから、<span class="b purple">「あとは答えを見て、やり方を確かめておきなさいね」</span>というのはダメなのです。

子どもが、<span class="b green">「考えるのはムダだ、答えを見たり、人に聞いたりしたほうが早い」</span>というように考えてしまうからです。

もちろん、ヒントを与えたり、誘導してあげたりするのはかまいません。

ただ、教えすぎないことです。

<span class="b purple">「これこれこうだから、式はこうで、答えはこうなるわね」</span>と、お母さんが説明してしまっては意味がありません。

これは、親が子どもに教えるときには、いつでも気をつけなければならないことです。

子どもがつまずいている問題は、大人から見れば簡単な問題ばかりですから、ついイライラして全部説明してしまいたくなりますが、そこはお母さんのほうもぐっとがまんすることがたいせつなのです。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 02 Nov 2009 13:36:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもに言葉をかけるときは「受け手の論理」を考える</title>
         <description><![CDATA[子供のやる気を起こすには、親の態度が非常に大切ですが忘れてはいけないものが、<span class="b">「受け手の論理」</span>ということです。

つまり褒めたり叱ったり相手に何か言葉をかけるとき、それがほんとうに機能するか否かは、受け手がそれをどう受け止めたかで決まるということです。


たとえば教師が、何かの罰として、生徒にグラウンドを走らせたとします。

先生としてはその罰で生徒に反省を促したつもりでも、当の生徒は、<span class="b green">「授業をしないですんだ」</span>というように、報酬として受け止めてしまう場合があります。

同じように、ほめるにしても、受け手の子どもにどのように機能しているかということをチェックすることがだいじです。

学習の話でいえば、勉強の楽しさに気づきはじめた子どもには、ステップ・バイ・ステップで、徐々に難しい課題を与えます。

その子の状態を把握せずに、いつまでもやさしい問題ばかりを与えていれば、子どもはわかる喜びもなくなっていきます。

逆に、やる気はあってもその問題でつまずくようならば、やさしい問題に戻って基礎をやり直せば、満足感をもってつぎのステップに進むことができます。


このように、つねに「受け手の論理」を意識しなくてはいけません。


<h3>子ども自身に目標を立てさせること</h3>


それからもう一つ、やる気を起こさせるうえで問題なのは、大人が自分の目標を子どもに直接与えてしまう例が多いことです。

この学年ならこれぐらいできなくてはいけないと、親が勝手に決めて与えるのです。

基本になるのは、現在の子どもの状態を正確に把握することで、つぎに、何をすればいいかという具体的で身近な目標を設定することです。

最終的には、どこそこの学校にはいるという大きな目標があったとしても、日々の学習を支えているのは、より具体的で身近な目標です。

それは<span class="b blue">「いまの子どもの状態プラスアルファ」</span>ということになります。

ただ、まわりに影響されて、<span class="b purple">「あの子ができるのだから、うちの子もこれくらいはできるはず」</span>というようになりがちなので、気をつけなければなりません。

<span class="b">具体的な学習目標というのは、子ども自身に立てさせたほうがいいでしょう。</span>

<span class="b">ただ、いままで満足した経験のない子は、つぎのステップの目標を立てられないのです。</span>


そういうときは、<span class="b blue">親のアドバイス</span>が必要です。

つまり、なるべく子ども本人が計画を立てて、自分自身の目標をもったほうがいいということですね。

ただ、それができない場合は、親の適切なアドバイスが必要になるけれども、その際、親の考、妄押しつけないようにしなければいけないわけですね。


<h3>はじめは身近な目標を立てさせる</h3>


たとえば、子どもの立てた目標が十分できる内容なら、もう１ランク上げるように言います。

反対に、いきなり大きな目標を立てる子もいます。

これはおうおうにして親の影響を受けている場合が多いのですが、失敗する可能性が高いですから、下げるようにアドバイスすることが必要です。

そのときには、ただ下げるように言うのではなく、<span class="b">「これをするにはどうすればよいのか」という具体的な方法</span>を教えることがだいじです。


大学生ぐらいになっても、自分の目標をもてない人が、けっこういます。

ある２２、３歳の青年ですが、将来何になりたいかという質問に、<span class="b green">「僕は有名人になりたい」</span>と答えるのです。

<span class="b purple">「有名になってどうするのか」</span>と尋ねても、それ以上具体的な考えはもっていません。

<span class="b green">「なぜ有名になることがいけないのか」</span>と逆に怪訝そうな顔をするのです。

おそらくそれまでに、<span class="dotted">すこしずつ目標を立てて達成するという経験をしてこなかった</span>のでしょう。


大きな目標をもつことはたいせつだと思います。

ただそれ以上にたいせつなのは、<span class="b blue">その大きな目標に到達するために、どのような身近な目標を立てるかということです。</span>

そういうことのできる人は、社会に出ても仕事のできる人ですよね。

すこしずつ小さな目標を達成しながら、大きな目標に向かってどんどんつき進んで行けます。

<span class="b red">身近な目標をもたず、大きな目標に振り回されている人は、失敗体験がひじょうに多い</span>のが特徴です。

逆に、身近な目標を立てられる人というのは、日々の活動の中で満足を感じる度合いが高く、同時に、<span class="b blue">内からのやる気を育てている人</span>でもあります。

大きな目標だけにこだわる人にとっては、日々の生活そのものが失敗感でいっぱいなんですね。

これはつまらないことです。

当然やる気もなくなります。


精神的にも不安定になってきます。

そうした失敗体験を多くもっていると、できることまでできなくなってきます。

やるまえから、できないのではないかと思えて不安になってきます。

そして、結局やろうとしなくなってしまうのです。


<h3>子どもを見るときは、親もプラス志向の発想をする</h3>


やる気を育てるには、親の態度がたいせつだという話をしましたが、親が「ゼロからの出発」ではなく、「マイナスからの出発」というように発想を変えてみてほしいと思います。

できなくて当たり前というように、親が視点を変えて見れば、子どもがいろいろなやる気を秘めていることに気がつくはずです。

<span class="b green">「根気がなくて、１０分と机に向かって勉強したことがない」</span>という子でも、好きなプラモデルを作らせたら、一時間でも夢中になっています。

ということは、一時間ものごとに集中できる力をもっていることになるのです。


そのことは、実際に勉強を教えていてもよく感じることです。

教師のもっていき方しだいで、ふだんよく遊んでいる子は、一時間でも二時間でも集中できます。

同じことをしても、できない子もいます。

そうした子は休み時間でも遊べない子です。

一人でじっとしています。

授業に集中できる子は、休み時間には、友だちといろいろ工夫して思い切り遊んでいます。

そのうちに、何かのきっかけで自分で勉強しだすようになる子が多いようです。


ですから、一時間集中して遊んでいる子が１０分しか勉強していなかったとしても、叱らずに<span class="b purple">「がんばっているね」</span>と声をかけてあげてほしいと思います。

<span class="underline">否定的な見方でなく、プラス志向で</span>ということです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 02 Nov 2009 05:44:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>お母さんの褒め言葉は、子どものやる気を引き出す</title>
         <description><![CDATA[お客さまが来て、いすに座ったとき、子どもがふと気がついて、用意してあったおしぼりを持ってきたとします。

お母さんは<span class="b purple">「よく、気がついたわね」</span>とほめてくれ、お客さまからも<span class="b purple">「えらいね、ありがとう」</span>とお礼を言われます。

そうすると、つぎからはお客さまが来るたびに、おしぼりやお茶などを出すようになるはずです。

こんなことは、子どもにはよくあります。

<span class="b">子どもにとって、大人、とくにお母さんからほめられるということは、絶対の価値をもっています。</span>

ですから、一度ほめられたことは何度でもやろうとしますし、途中ではめられたことは最後までやりぬこうとします。


勉強についてもそうです。

<span class="b purple">「よくできたわね」「がんばったわね」</span>と、いつもほめられている子どもは、やる気も出ますし、勉強が好きになります。

反対に、<span class="b purple">「どうしてこんな問題ができないの？」「なんでそんなに時間がかかるの？」</span>などと、いつも叱られている子どもは、勉強が苦痛になり、しだいに嫌いになっていきます。

子どもが悪いことをしたときは、きちんと叱ることが必要ですが、<span class="b box-yellow">勉強については叱ることは禁物です。</span>

問題が解けなかった、答えをまちがえたことについて、子どもは何も悪いことをしたわけではないのですから。


テストについても、<span class="b red">「全部できるのが当たり前、できなかった問題はマイナス」</span>という発想を、<span class="b blue">「現在の点数がその子どもの実力、できなかった問題ができるようになればプラス」</span>という発想に変えてください。

どんな点数をとってきたとしても、その子どもは、できる範囲で精いっぱいがんばったのです。

まず、そのことを認め、ほめてあげます。

子どもも、点数が悪いときは内心いやな思いをしています。

それをお母さんのほめ言葉が解消して、次回はがんばろうという気持ちになります。

問題が解けたら解けたことを、考えたけれども解けなかったら考えたことを、計算ができたらできたことを、とにかく、<span class="underline b">子どもがやったことをつねに認めてあげ、ほめてあげればいいのです。</span>

これは、甘やかすということとはまったく違います。

大人の基準からすれば、まだまだ足りないように見えるかもしれませんが、子どもなりにがんばっているのですから、ほめられて当然なのです。


お母さんが勉強について常にプラス思考をもち、その意識で子どもに接していれば、子どももしぜんにプラス思考を身につけます。

それが<span class="b blue">自信とやる気</span>につながります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 01 Nov 2009 21:23:55 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あいさつができない子は、消極的で学力も伸びにくい</title>
         <description><![CDATA[塾にくる生徒の中には、大きな声で<span class="b green">「こんにちは！」</span>と言いながらはいってくる子どももいます。

また、こちらが<span class="b purple">「こんにちは」</span>と言ってはじめて<span class="b green">「こんにちは」</span>と返事を返してくる子どももいます。

なかには、<span class="b purple">「こんにちは」</span>と言っているのに黙ってわきをすりぬけていく子どももいます。


<span class="b">「知っている人に会ったらあいさつをする」</span>これは、しつけの中でももっとも基本的なものの一つです。

身につけるのに、それほど苦労するとも思えません。

幼いころは、人見知りをするという一時期もありますが、小学生にもなったら、それは理由になりません。

あいさつができないと、「いちばん簡単なしつけもできていない子」ということになりますから、塾では、あいさつだけはできるまでやり直させるようにしているそうです。


あいさつというのは、人と人とのコミュニケーションの出発点です。

あいさつをかわすことによって、おたがいに<span class="b green">「私はあなたとコミュニケーションをとる用意がありますよ」</span>という態度を表明しあっているのです。

よく、仲たがいをしている友人どうしなどが、道で会っても横を向いてすれ違うというような光景がありますが、これは<span class="b green">「いまは、君とはコミュニケーションをとらないぞ」</span>という意思表示になるわけです。

子どものころから、あいさつをきちんとする習慣をつけることによって、誰とでもコミュニケーションできる姿勢がしぜんに身につくのです。

あいさつができない子どもは、ほかの場面でもその影響が出てきます。

たとえば授業中に手をあげるかあげないかもそうです。

手をあげるということは、先生とコミュニケーションをとるという積極的な態度です。

答えが「わかっていて」も手をあげなければ、先生には<span class="b purple">「わかっていない」</span>としか伝わらないわけです。

学力をつけるためにはマイナスとなります。


もちろん、あいさつさえできれば学力が上がるなどと言うつもりはありません。

とても明るくて、あいさつも大声でするけれども、学力はいま一つという子どもも、いくらでもいます。

しかし、こういう子どもでも、あいさつができない子どもよりは、学力が伸びる可能性は高いと言えるのです。

　あいさつは、学力を上げるために教えるものではありません。

ただ、あいさつのできないことが、学力の面ですらマイナスになる可能性があるのです。
将来、社会生活を送るうえで、そのマイナスははかりしれません。

「たかがあいさつ」と考えているお母さんは、ぜひ考え直してください。]]></description>
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         <pubDate>Sun, 01 Nov 2009 02:23:25 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>外からと内からの二つの動機づけ</title>
         <description><![CDATA[心理学では、やる気などの動機づけには二種類あると考えられています。

一つは外からの動機づけ、もう一つは内からの動機づけです。

前者の典型的な例が「ものによる報酬」です。

それ以外にも、お母さんの<span class="b purple">「よくやったね」「がんばったね」</span>というような言葉や、親子が視線を合わせてうなずいたりする、というのも含まれます。

報酬というと、ごほうびだけを連想しますが、われわれが何かしたときに本人にとってプラスだと思われる結果を伴ったら、それは全部報酬と呼んでいいのです。

人間の一生は、ものの報酬と切り離せません。

大人の場合、毎月の給料も外からのやる気を起こさせる報酬ですし、一般的に本人にとってプラスだと思われる結果を伴うと、すべてそれは報酬だと考えます。

つまり、われわれの生活は報酬でコントロールされていると言ってもいいのです。


もう一つの内からの動機づけとしては、自分で目標を設定して到達したときや、わからなかったものがわかった、あるいは自分の興味、関心、好奇心を満足させたときなどの喜びがあげられます。

これは他人から与えられるものではありません。

たとえば、一時期はやった「ルービックキューブ」というパズルがあります。

あれなどは、できたからといって誰かにほめられるわけでもなく、まさに解ける喜び、すなわち内からの動機だと言えるのです。


<h3>外からの動機づけから内からの動機づけへ</h3>


一般に学習をうまく進めるには、当初は外からの動機づけが有効で、それをいかに内からの動機づけに移行させるかということがたいせつです。

さきほど例としてあげた、大学に行っても子どもにものを与え続けて一種の中毒現象になるといったケースは、<span class="b red">外から内への移行に失敗したケース</span>だと言えます。


年齢が低いほど外からの動機づけが必要で、高学年になるにつれて内からの動機づけがふえてきます。

と同時に、その発達段階の中で外から内へという方向もあります。

つまり全般的な発達から見ると、外からの動機づけから内からの動機づけへと大きな変化があり、さらにそれぞれの段階で外から内へという、二次元で構成されているわけです。

そこで、たとえば学習習慣を身につけさせる場合、低学年の子どもには、<span class="b blue">お母さんの言葉による励まし</span>がたいせつです。

ものをあげる必要はありません。

そして、その言葉の内容もすこしずつ工夫して変えていきます。

最初のうちは<span class="b purple">「がんばったね」</span>でもいいのですが、<span class="b purple">「図鑑を読んでると楽しいでしょう」</span>といったように対象そのものに興味をもたせるようなアドバイスに変えていくといいのです。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 31 Oct 2009 23:44:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの勉強意欲をなくすだけの、２つの間違った教育</title>
         <description><![CDATA[勉強には「競争心」も必要だという言葉を、よく耳にします。

たしかに、はっきりとゴールの決まった結果の重視されるものの場合、競争相手がいるかいないかは、能率や成果を大きく左右します。

陸上競技などでも、大差のついた競争よりも、ゴール間際までせりあった競争のほうがいいタイムが出るということは、よく知られています。

ですから、たとえば受験勉強などにかぎっていえばライバルの存在や点数を競う環境が、よい結果につながるということもあるでしょう。


しかし、小学校、とくに低学年の勉強についていえば、これはあてはまりません。

この時期の勉強の目的は、将来人間として生活していくために必要なさまざまな考え方の基礎を身につけること、そして中学、高校、大学と続く学校生活の中で、自ら学習する姿勢を養うことです。

ここで大切なのは、<span class="b blue">結果よりも過程</span>です。

<span class="b box-yellow">好奇心から出てくる本当のの意欲やる気をうまく引き出してあげることが、もっとも重要なのです。</span>


<span class="b red">こうした場合、競争心はむしろマイナスに働きます。</span>

他人と比べるとき、どうしても点数や成績などの「結果」で比べることになりますから、子どもは結果ばかりを気にするようになってしまうのです。

「知りたい」「理解したい」というほんとうの意欲は忘れられ、「点数を上げたい」という欲求だけになります。

こうなると、「できる」子どもにはなるかもしれませんが、「わかる」子どもには育ちにくくなるのです。

そして、点数が思うように上がらないと、一気に勉強が嫌いになってしまいます。


たしかに、お母さんどうしの競争心もありますから、よその子の点数が気になるのはいたしかたありません。

子どもがテストを持って帰ってくると、つい、<span class="b purple">「○○ちゃんは何点だったの？」</span>とか、<span class="b purple">「△△君はこないだ100点だったらしいわよ」</span>などと言ってしまいがちです。

また、兄・姉ができる子だった場合など、<span class="b purple">「お兄ちゃんはこんなところすぐできたわよ」「お姉ちゃんはこんな点数とったことなかったわ」</span>といった言葉も出てしまうことがあります。

でも、こうした言葉は、じつは子どものほんとうのやる気をそいでしまう可能性がひじょうに高いのです。


同じような理由で、<span class="b purple">「100点をとったらファミコンのソフトを買ってあげる」とか、「80点以上だったらお小遣いをアップしてあげる」</span>といった、ごほうびでつるという方法も感心できません。

なんとかやる気を出させたいという親心はよくわかりますが、かえって逆効果になる場合も少なくありません。

こんな例もあります。

小学校の高学年になったころから、成績によってお小遣いを決めていたお子さんの話です。

それが功を奏して（と親は思っていたのですが）、小学校ではまずまずの成績をとり、中学一年までは順調にいきました。

ところが、二年生になったとたん、一学期の中間テストから、ガクンと成績が落ちたのです。

驚いた親は、あわてて塾に相談に行きました。

そこで実力テストをやらせてみると、一年生の内容もけっして理解しているとはいいがたく、成績がよかったのが不思議なほどでした。

そして、期末テストのときに理由がわかりました。

先生に呼び出された親は、子どもがカンニングの常習犯だったということを聞かされたのです。

お小遣いのアップにつられたその子は、「点数」を得るため、カンニングをしていたのです。

ところが、中学二年のとき、席順が前になったことからカンニングがうまくいかず、成績が落ちてしまったわけです。

あわてて無理にカンニングに頼ろうとしたところで、とぅとうバレてしまったというのが真相でした。


子どもの心理を考えると、これはけっして特殊な例だとは思えません。

<span class="b">ごほうびを与えるにしろ、罰を与えるにしろ、子どもの目を結果だけに向けさせてしまうような方法は、長い目で見た場合うまくいかないことが多いようです。</span>


<h3>子どもが興味をもったことは、ただ黙ってやらせてあげればよい</h3>


<span class="b purple">「うちの子は鉄道にだけは夢中で、部屋の中も模型やら雑誌やらでいっぱいなんですよ。</span>

<span class="b purple">もうちょっと学校の勉強にも力を入れてくれればいいのに」。</span>

こんなお母さんの声もよく聞きます。

鉄道であったり昆虫であったり、あるいは野球であったりサッカーであったり、何か一つのことに熱中してしまうというのは、どちらかというと男の子に多い傾向のようです。

お母さんにしてみれば、鉄道にいくら詳しくても将来べつに役に立つわけじゃないし、あるいは、スポーツに熱中したところでそうそうプロになれるわけでもありませんから、その分勉強がおろそかになったら困る、と心配になるのも、もっともです。

ですから、つい<span class="b purple">「いいかげんにしなさい」</span>と叱りたくなるのも無理はないのです。

でも、ちょっと見方を変えてみましょう。


子どもが何かに熱中するということは、<span class="b blue">好奇心の純粋な表れ</span>であり、何かをしたいというエネルギーに満ちていると考えることができます。

好奇心というのは、一つの疑問が解決されるとそれがすぐつぎの疑問につながり、どんどん広がっていくという性質をもっています。

ですから、一つのことに熱中していた場合、それがしぜんにほかの分野のことにも広がっていくものなのです。


たとえば鉄道に興味をもっている子どもは、路線について調べているうちに、しぜんに日本の地理に興味が広がっていくかもしれません。

あるいは、列車そのものへの興味が、電気関係や工学関係への興味につながっていくかもしれません。

そして、このように一つの分野について知識を追い求めていけば、自然に難しい事柄にも挑戦するようになります。

専門的なことなら、まわりに教えてくれる人もいないでしょうから、あれこれ本を見比べたりしながら、自分でなんとか理解しようとするでしょぅ。

興味のあることなので、それはちっとも苦になりません。

そして、ついにわかったときの喜びは、何ものにもかえがたいものがあるに違いありません。


<span class="b">こういう取り組み方は、じつは、勉強に対するもっとも望ましい態度にほかならないのです。</span>

<span class="b">つまり、何かに熱中できる子どもは、ほんとうの意味で勉強好きな子どもになる可能性が、ひじょうに高いのです。</span>


スポーツに熱中する場合も、すこしでも上手になるために自分なりに工夫して練習したり、コーチやうまい人の話を真剣に開いて自分なりに消化したりという体験の中で、かならず貴重なものを得られるでしょう。

そして、何に熱中するにせよ、かならず得られるのが<span class="b blue">「集中する」</span>という体験です。

子どもに集中力をつけさせることの難しさは、教育にたずさわったことのある人間なら、誰でも痛感していることです。

けれども、何かに熱中した体験をもっている子どもとそうでない子どもでは、明らかに違いがあるのです。

自分が集中できるということを知っている子どもは、<span class="b">「切り替え」</span>の要領さえ覚えれば、どんな勉強であってもすぐ集中できるようになります。

ですから、子どもが何かに興味をもって、やりたいと言い出したら、ぜひ<span class="dotted">黙ってやらせてあげてください。</span>

そして、子どもがそのことについての話をしたがったら、<span class="dotted">興味をもって聞いてあげてください。</span>


こういう話をすると、かならずといっていいほど、<span class="b purple">「ファミコンでもいいんですか？」</span>という質問を受けます。

これは難しい質問です。

集中力という点では、ファミコンもほかのものと変わりませんから、まるっきりマイナスだとは言えないでしょう。

ですから、もしお子さんが熱中しているのなら、<span class="b purple">「ファミコンはよくない」</span>という理由で無理やりやめさせるのは考えものです。

ただ、ファミコンの場合には、二つ問題があります。

一つは、目をはじめ、健康的にはあまり望ましくないということです。

もう一つは、機械を相手にした遊びですから、<span class="b red">コミュニケーションをもてない</span>ことをあげることができます。

受け身的な遊びでもあり、指示待ち人間になる可能性がおおいにありえるのです。

月並みな結論になりますが、ファミコンの場合はやはり、ほどほどにとどめさせるのがいいように思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 31 Oct 2009 04:35:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>いい親子関係をつくるための外から内への動機づけ</title>
         <description><![CDATA[中学二、三年で親子関係がうまくいってない子どもの作文を読むと、よく<span class="b purple">「親は、顔を見れば勉強しろ、勉強しろと言うだけで、うるさい」</span>と書いています。

そこで思うのは<span class="b purple">「勉強しろ」</span>と言うだけでは、いい親子関係はつくれないのではないかということです。


<h3>子どもへの言葉のかけ方に気をつける</h3>


よく外からの動機づけとしての「もの」が、この場合は言葉になりますが、悪者扱いされるのは、その与え方に問題があるからだと思います。

ある学習を身につけさせるには、最初は連続して外からの注目が必要です。

そして、しだいにその頻度を少なくしていくのです。


たとえば一つの行動に対して、最初は<span class="b purple">「よくやったね」</span>と連続してほめます。

それを１０回繰り返して子どもが自分からすすんでやるようになったら、ほめることを三回に一度、五回に一度、十回に一度、<span class="dotted">やがて与えないというように、フェードアウト（fade-out）していく</span>ことがたいせつです。

こうした知識を親が知っておくといいと思います。

<span class="b">つまり、子どもが何か新しいことをしているときは、連続して注目するのです。</span>

<span class="b">そして自分からするようになったら、注目回数を少なくしていくわけです。</span>

注目することをずっと続けると<span class="b red">中毒現象</span>が起きるので、やめるタイミングが重要です。

外からの動機づけから内からの動機づけへと変えていく時点で、

「よくやったね」から<span class="b purple">「わかるとおもしろいね」「また新しいことができたの。楽しいね」</span>というようにほめ方も変えていくと、子どもは徐々に<span class="b box-yellow">「わかることはおもしろいんだ」</span>という経験をしていくことになります。

そうした周りの注目の変化によって、自分からわかることの楽しさに気づいていきます。
そうすると、自分の興味や関心にしたがって、自発的にわからないことを調べようとする姿勢が出てきます。

発達段階でいうと、小学校の低学年から高学年になるころで、とてもたいせつな時期だと言えるでしょう。

その時期の親子の接し方、家庭学習の仕方は低学年と高学年では違ってくるということですね。


さきほど点数にこだわってほめる親の話が出ましたが、これは、子どもの中の「外から内へ」という動機づけの変化を考えると、ひじょうにへたなほめ方だといえます。

それよりも、わかろうとする姿勢や新しいことにチャレンジすること、自分で興味や関心をもって何かを調べようとしたことをほめるべきです。


私は父母に対して、<span class="underline">テストの点数だけを問題にせず、かならず中身を見て、ほめたり励ましたりしてほしい</span>と話しています。

たとえば難しい問題ができたら、<span class="b purple">「よくできたね。お母さん、これ難しいと思うよ」</span>とひとこと言うのがだいじなのです。

言われた子どもは<span class="b green">「そうか。ぼく、才能あるのかな」</span>と、自信がつきます。

そういうほめ方をしてほしいと思います。

１００点をとってきたら、内容も見ないで<span class="b purple">「あら、よかったじゃない」</span>で終わらせてしまうお母さんは多いようです。

そして６０点をとってきたら、<span class="b purple">「なによ。６０点なんてとってきて」</span>とつい言ってしまいます。

そこをぐっとがまんして、<span class="b purple">「あら、これは難しい問題なのに式はできてるじゃない。計算でまちがえたのね。今度は気をつけようね」</span>というように、<span class="dotted">いいところを探してほめてほしい</span>のです。


<h3>子どものできたところをきちんと評価してあげる</h3>


小学校四、五年生の子どもがいるお母さん方に、<span class="b">「ある日、子どもが学校から３０点のテストを持って帰ってきました。そのとき何と言いますか？」</span>と聞きますと、<span class="b purple">「なんでまちがえたの」「このあいだ習ったばかりでしょう」</span>といった答えが８割でした。

つぎに<span class="b">「隣の家の同年齢の子が遊びに来て、同じように３０点の答案を見せたら、何と声をかけるか」</span>と質問すると、<span class="b purple">「よかったね」</span>とほめはしないが、<span class="b purple">「ああそう、がんばったわね」</span>と答えるというのです。

つまり、同じ点数でも、自分の子どものときはできなかった７割に注目し、隣の家の子どものときはできた３割に注目しているのです。

もしその日、テストでまちがったところを直してくる宿題が出ていたら、どちらの子がやる気を出せるでしょうか。

親から子へのかかわりの基本は、<span class="b blue">できたところを正当に評価する</span>ことが出発点だと思います。

言葉かけも含めた外からの動機づけの経験をもたない子に、内からの動機づけが生まれることはありません。

できたところに注目することは、外と内からの動機づけを同時に行なうことになります。

さきほど家庭学習をしない中学生に「勉強をしなさい」という親の話がありましたが、それは、できないところに注目しているからだと言えるでしょう。

つまり、<span class="b purple">「どうして３０点しかとれないの」</span>と言うのと基本的に同じです。

子どもの否定的な面ばかりを見ているのです。

親から見れば、子どもの悪いところばかり目につき、ここを直してほしい、もっとこうしてほしいといったことが、いろいろあるのが当然です。

でも、よくないところを直していこうという発想でいくと、親も子もおたがいにイライラしますし、くたびれてしまいます。


たとえば、ファミコンばかりしてちっとも勉強しない子に、<span class="b purple">「ファミコンをやめて勉強しなさい」</span>と何度も言うよりも、子どもが机に向かったとき、ひとことほめてあげることがだいじです。

そのほうが、お母さんも笑顔でいられます。

そうすれば、しぜんにファミコンをする時間が少なくなるかもしれませんね。

ファミコンをやめて子どもがしぶしぶ机に向かったときは、<span class="b purple">「がんばってるじゃない」</span>と声をかけてあげることがたいせつなのに、<span class="b purple">「ファミコンをやめなさい」</span>と言って、子どもがやめるのは当然だと、お母さんは子どもに声をかけるのを忘れてしまうのです。

<span class="b">否定的な言葉が多いと、やる気が失われる</span>ということです。


<h3>両親の基本的な教育方針を一致させておく</h3>


よくレストランなどで、親子連れを見かけるのですが、子どもはテーブルの上の調味料のぴんなどをさわろうとしますね。

そういうときに、ひとこと母親が言っただけで、すぐやめる子どももいれば、やさしく言っただけではやめずに、かなりきつく叱らないとやめない子どもと２通りあります。

今までのお話で分かると思うのですが、<span class="b">子どもが小さいころの親の接し方やしつけで、ずいぶん変わってくるのではないかということです。</span>

これはあとの学習習慣にもつながってきますよね。

それはテストの点数のところでお話しした親の態度に通じると思います。

<span class="b purple">「これはだめ、あれはだめ」</span>と、ふだん禁止する言葉ばかり言っている親が多いのではないでしょうか。

<span class="b purple f11em">「だめ」</span>と言うだけでは、こうしたらいいという情報がはいっていません。

「だめ」と言ってやめたときに、<span class="b purple">「おりこうだね」</span>と声をかければ、子どもはこれを繰り返せばいいということを学習できるのです。

レストランの親子連れで気がついたことですが、お母さんのひとことでやめる子どものほうは、食事中もとてもいい雰囲気で、親子でよく会話をしているんです。


いっぽう、一回の注意でやめない子どものほうの親子は、食事中も雰囲気がとげとげしく、ほとんどしゃべらないんです。

話すとしても命令する言葉だけというような場合が多いような気がします。

そういったことが、親子関係や家庭学習などすべてにつながりを持っているのではないでしょうか。

場面は違っても、共通しているのは、<span class="b">できないところに注目するか、できるところに注目するか</span>ということではないかと思いますよ。


また、<span class="b f11em">子どもにかかわっている周囲の大人の考え方を一致させておくこと</span>がたいせつです。

たとえば、両親の基本的な方針が一致していれば、役割分担した中でそれぞれの接し方が違っていても、話し合ってたがいに補い合うことで、問題は起きません。

そうした基本的考えの一致なしに、ばらばらに接すると、子どもはとまどってしまいます。

中学受験をする場合、子どもの父親と母親の考え方が一致していないと、子どもは勉強しません。

中学受験の場合、教科書のほかにその５倍ぐらいの勉強が必要だと言われていますが、そうした勉強についてこられる子の家庭では、例外なく両親の考え方が一致しています。

逆に、受験を目指しているにもかかわらずなかなか勉強しない子の場合、父母懇談会で話してみると、両親の考え方が一致してないことが多いようです。

お母さんは受験させたいのに父親が反対だとか、本人にぜんぜんその気がないなど、両親どうしや親子の考えの不一致がよく見られます。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 30 Oct 2009 18:24:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「できる子」よりも「わかる子」を育てることが大切</title>
         <description><![CDATA[「本物の学力」と「見かけの学力」の違いは、<span class="b">「わかる」と「できる」の違い、</span>と言い換えることができます。

以前の記事で、算数だけを例にとって説明しましたが、この「わかる」と「できる」の違いは、ほかのどの教科にも表れます。


「暗記科目」の代表と考えられている社会を例にとってみましょう。

たとえば、五年生では日本各地の自然や産業について学びますが、そこで「北陸地方は日本の穀倉地帯（米どころ）」と教わります。

このとき、「北陸地方では米がたくさんとれる」という事実だけを覚えれば、テストで点数をとることはできます。

ここで満足してしまう子どもも、少なくありません。

でも、これは<span class="dotted">「できる」だけ</span>です。

いっぽう、<span class="b green f11em">「なぜ北陸地方では稲作が盛んなんだろう？」</span>というところにまで興味をもち、考、至る子どももいます。

すると、「北陸地方は雪が多く、田畑を耕作に使える期間が短い」「稲は種をまいてから収穫までの期間が短い」という事実を結びつけて、<span class="b green f11em">「なるほど、だから米なのか」</span>と納得することができます。

これでこの子どもは、「北陸地方は日本の穀倉地帯である」ということが「わかった」ことになるわけです。

社会科は、けっして「暗記科目」などではありません。

歴史の勉強になれば、この「なぜ」という考え方がいよいよたいせつになります。

というより、歴史というのはこの「なぜ」「どうして」を追いかける勉強だといえるからです。

ですから、<span class="b">年代や事件の内容だけを暗記している「できる子」と、歴史の流れを理解している「わかる子」の違いは大きいのです。</span>


理科は、本来科学的な考え方を養う科目です。

小学校では、できるだけ実験や観察を通して自然現象にふれ、そのうしろにある自然のしくみ、法則のようなものを理解させるようなカリキュラムが組まれています。

扱われる事実や現象はひじょうに少なくなっていますので、ただ覚えてしまおうと思えばたいした苦労はいりません。

ところが、中学校になると内容の密度は急に濃くなります。

その落差は、おそらく四教科のうちでいちばん大きいでしょう。

ですから、小学校のうちに実験の意味などをきちんと考え、「わかる」ところまでいっていないと、とたんに挫折してしまうのです。

中学にはいって理科が嫌いになる子どもが多いのは、こうした理由によるものです。


国語の場合は、「できる」だけで点数がとれるということは少ないでしょう。

「国語ができる子」というのは、基本的に「わかる子」です。

ただ、本来の国語力である読解力や表現力をつける勉強は、家庭では難しいので、ついつい漢字の練習や語句の暗記などですましてしまうことになります。

そういうことだけやっていても、国語の学力は伸びません。

「わかる」子どもというのは、<span class="b blue">ものごとをきちんと論理だてて考える力がある子ども</span>のことです。


考える力や習慣が身についているかどうかは、学校の成績に影響するばかりではありません。

<span class="b">じつは、社会に出たときに、その差が大きく出てきます。</span>

言われたことはできるけれども、自分で企画を立てたり、同じやるにしても能率のいい方法を工夫することができず、<span class="b green">「いったい学校で何を勉強してきたんだ」</span>と言いたくなるような新社会人がふえているそうです。

これなどは、学生時代を<span class="b red">「見かけの学力」だけでなんとか切り抜けてきてしまったために、自分で考える力が身についていなかった、</span>ということなのではないでしょうか。

「できる子」よりも「わかる子」を育てることがたいせつだ、と私が考える理由は、そこにあります。

学校の成績はともかく、社会に出てから、意義のある仕事をし、自分で納得のいく充実した人生を送らせてあげるためにも、子どもに、自分の頭で考えて「わかる」体験を積み重ねさせてあげる必要があるのです。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 30 Oct 2009 11:57:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>生活体験が豊かな子は、学力も確実に伸びていく</title>
         <description><![CDATA[<span class="b f11em">「よく学び、よく遊べ」</span>とは、むかしからよく言われることですが、子どもの学力をすくすくと伸ばしてあげるためには、小学生のうちは、むしろ<span class="b blue">思いっきり遊ばせてあげたほうがいいぐらいなのです。</span>

子どもは「遊び」をとおして<span class="b">「考える力」</span>や<span class="b">「創造力」</span>を身につけます。

さまざまな疑問を感じて、それを<span class="b green">「なぜ？」「どうして？」</span>と尋ねてきます。

これらのすべてが、いわゆる<span class="b box-yellow">「生活体験」</span>というものです。


生活体験が豊かな子は、まちがいなく学力も伸びていきます。

そして、この生活体験だけは、学校や塾では教えられません。

ですから、遊ぶ時間を削ってまで、計算ドリルや書きとりドリルばかりをやらせていたのでは逆効果になりかねないのです。

問題の解き方やテクニックだけを覚えていて、テストでいい点をとる「できる」子の学力を、私は「見かけの学力」と呼んでいます。

この「見かけの学力」は、ただ「できる」だけ、「質問の答えを出せる」だけで、子どもの考える力を伸ばしてはくれません。

ですから、いまは「できて」も、来年はどうなのか、三年後、五年後はどうなのかといえば、けっして安心していられません。

<span class="b green">「小学校のときはできたのに……」</span>と、途中で息切れするケースがじつに多いのです。

いまの社会では、指示されたことをこなすだけの人間より、新しいことを考える人材が求められていますが、<span class="underline b red">こうした子は将来、社会に出てからも、指示を与えられないと何もできない、「創造力」「発想力」のない社会人になってしまうことさえ考えられます。</span>

これらはすべて、はじめに述べた「生活体験」が豊かな子と、そうでない子の違いによるものです。

<span class="b blue">生活体験の豊富な子は、勉強が好きで、考える力もありますから、落ちこぼれることもありませんし、学力もどんどん伸びていくものなのです。</span>


といっても、ただたんに子どもを好きなように遊ばせておくだけの<span class="b red">放任</span>がいいと言っているわけではありません。

私がここでいう「生活体験」のなかには、家の手伝いをしたり、あいさつやマナーを守るなどの<span class="b">しつけ</span>も含まれています。

たとえば、あいさつがきちんとできること、電車やレストランなど、おとなしくしている必要のある場所で騒がないこと、正しい箸の使い方ができることなど、こうしたいわゆる「しつけ」は、本物の学力向上のためには忘れてはならないだいじをことだということです。

机の前に何時間も座らせて、何冊もドリルをやらせるぐらいなら、こうした「しつけ」や遊びに時間を使ったほうがずっと有意義です。

そこで、子ども自身がもっと「考える力」をつけられるような家庭学習のヒントをこのサイトのなかでいくつかお話し、これからも子供の学力を伸ばす為の、生きる力をつける為のたくましい子に育てる為の、参考になる記事を書いていこうと思います。

一人でも多くの子供達が、より充実した少年・青年時代を送り、立派な大人へと育っていく、その一助になることが当サイトの目的です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 28 Oct 2009 21:23:57 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>赤ちゃんの顔の向き</title>
         <description><![CDATA[生まれてまもない赤ちゃんは、たいていどちらか片方を向いています。

そのほとんどは病的ではない<span class="b">強直性頸反射</span>のためですから心配はいりません。

まれに斜頚のこともありますが、そのときはかたいしこりにふれるはずです。

そのしこりも、ほとんど半年くらいでなくなってしまうので、放っておいてかまいません。

気にして、マッサージなどはやらないことです。せいぜい、からだをよく運動させてやることでしょう。


万一しこりが大きくて一〜二歳になってもなくならず、顔や頭の形までゆがんできた場合にだけは手術が必要になります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 24 Jul 2009 17:17:09 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>股関節脱臼</title>
         <description>「脱臼」といっても、ほんとうに関節がはずれているケースはめったにありません。

ほとんどは、はずれかけているか、ただ関節の成長がおそいだけのものです。

生まれて三ヶ月までは新生児用のおむつをあてて、脚が自由に動くようにしておくとかなり防げるといわれます。

診断の方法は、大腿を手に持って両側に開かせたときに手に感ずる音で調べるのがいちばんです（クリック法）。

ただ、脱臼には関係なく、赤ちゃんによっては力を入れるために股の開きがかたいことがあります。

まして緊張するとよけいにかたくなるので、よほどゆっくり調べないと誤診のもとになります。

レントゲン検査はなるべくやらないほうがよいでしょう。

やるとしても三ヶ月をすぎてから、性腺を防護するプロテクターをあてて、三〜四ヶ月に一回くらいまでにしてもらうようにしてください。


治療としては、生後一〜三ヶ月はおむつのあてかたに気をつけることです。

その後は、布製あぶみ式つつバンドを一ヶ月か四、五ヶ月使用すればほとんどなおります。

長く使うのは、お座りや立つちなどの動きを妨げるのでいいことではありません。

しかし、どうしても脱臼がなおらない場合は、入院して牽引をかけるのもやむをえません。

手術が必要なケースはめったにありません。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 22 Jul 2009 11:27:36 +0900</pubDate>
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         <title>気になる頭のこぶ、形、大きさについて</title>
         <description><![CDATA[生まれてまもない赤ちゃんの頭にある押さえるとぷよぷよするこぶは、<span class="b red">頭血腫</span>といいます。

これは、生まれるとき頭蓋骨の骨膜の下に出血したもので、二〜三ヶ月のうちにかならずなくなります。


頭の形はほとんどの子がいびつです。

それは頭蓋の成長のしかたが大なり少なり左右均等ではないからです。

ですから、寝かせかたにはほとんど関係ありませんし、かっこうよくしようと枕をあてるのは、効果がないばかりでなく、頭が固定されて運動が制限されるのでよくありません。
心配しなくとも、座ったり歩くようになれば、しだいにいい形になってきます。

頭が大きく見えたり、小さく見えたりする場合も、からだとの割合でそう感じることもありますし、親をはじめ先祖に似ることも多いのです。


ただ、「おどりこ」（頭のてっぺんにあるやわらかいところ）があまりにも大きく、しかもきんきんに盛り上がって脈打っているとか、頭囲のふえかたが多すぎる場合には、<span class="b red">水頭症</span>ではないかと疑い、ＣＴ（コンピュータ断層撮影）もらう必要があります。


もし水頭症のときは、チューブを脳室に入れ、心臓か腹腔に脳脊髄液を流す手術をします。

そのさい、発見が早く、ほかに奇形をともなっていなければ、知能はおかされずにすむことが多いでしょう。

ただ、程度がひどくてすでに知能のおくれが目立っている場合には、手術の効果はあまり期待できません。

二分脊椎（脊椎被裂）をともなって、脊髄がはみでている場合には、下半身の麻痺を覚悟しなければなりません。


一方、頭が極端に小さく、頭国が平均より五センチ以上も少ない場合には、<span class="b red">小頭症</span>の疑いがあります。

これには治療法がなく、知恵がおくれ、<span class="b red">運動障害</span>や<span class="b red">けいれん</span>をともなうこともあります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 21 Jul 2009 14:33:21 +0900</pubDate>
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         <title>歯ぐきにある白い玉みたいなものはなに？</title>
         <description><![CDATA[歯ぐきにある白い玉みたいなものは<span class="b red">真珠腫</span>といわれます。

異常ではなく、いつの間にか消えます。

ほっぺの内側に白いかすのようなものがついているのは<span class="b red">鷲口瘡</span>といわれます。

カンジダという糸状菌によるもので、幼い赤ちゃんには大なり小なりよく見られるものです。

おっぱいが飲めるかぎり放っておき、けっしてふきとろうとはしないでください。

もしおっぱいが飲みにくそうになったら、ピオクタニン（紫チンキ）を塗ればすぐになおるでしょう。

また、歯のはえかたは、個人差が大きいものです。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 20 Jul 2009 08:27:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の事故を防ぐには</title>
         <description><![CDATA[幼い子をもつ親は、やれ机のかどに頭をぶつけないだろうか、やれへんなものを飲み込まないだろうかと、いつも気が気ではありません。

でも、幸いに大事にいたることはまれ。

ほとんどの子は転んだりぶつけたりをくり返しながら、すくすくと育っていきます。

ですから、多少のけがは目をつむってもかまわないと思います。


<span class="b red">「あぶない、あぶない」</span>と手を貸したり行動を制限ばかりしていると、ひとときといえども子どものそばから離れられませんし、

だいいち、子どもがしっかりと育つはずがありません。

自分で危険を察知し、反射的に回避する能力は、なん度か痛い目をしたりけがを経験しながら、からだが覚えてゆくものだからです。

かといって、まったく野放しにするわけにはゆかないのはもちろんのこと。


重い病気が減ってきた今では、一瞬のうちに命を奪いかねない事故は親によって最大の恐怖であることも確かです。

ですから、親は、<span class="b green">「少々のけがはしかたないが、重大な事態はぜったい避けなければならない」</span>というはざまで、苦心するほかないのでしょう。


<span class="b red f11em">ところが、重大な事故は、緊張感を欠き、安逸に流れたときに多く起きているようにみえます。</span>

「はいはい」から歩けるようになった赤ちゃんに慣れ、要領めいたものをつかむと、

わが子が薬を口にし、高所から落ちるという可能性を、いつの間にか意識から遠ざけてしまいがちです。

いたずら盛りの赤ちゃんを<span class="b green">「あ、やっているな」</span>とほほえましく思いながら、それとなく注意を向けていれば大丈夫ですが、

親がなにかにかまけてこの存在を忘れると、ものをのどにつまらせたり、激しく転倒するといったことがおこってしまいます。


<span class="b f11em">そこで、まずは、身のまわりから恐ろしい事故を招く状況をなくすことが、親としての最低限の義務になります。</span>


熱湯は手の届かぬところに、ベランダには踏み台になるものを置けません。

わが子の性格と成長の過程から、あらかじめ起こしそうな事故を予測し、対策を講じておくことも、親に求められる責任でしょう。


また、三歳くらいまでは高いところから落ちるのと水におぼれるのが怖い。

ベランダには台になるものを置かない、ふろ場は水を張ったままにしないなどの注意は絶対必要です。


四歳前後からは交通事故が大敵。

この年ごろならかなり話も通じるので、まじめにルールを守らせるようにしたい。

同時に、おとなの責任として社会的に安全策をすすめる努力をすべきでしょう。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 18 Jul 2009 17:37:15 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>予防接種の考えかた</title>
         <description><![CDATA[親としての責任を果たす


子どもがいると、役所をはじめ、保育園や学校などから予防接種の通知がくることでしょう。

親としては、予防接種で防げる病気は防ぎたいが、かといって、


<span class="b green">すべての予防接種が必要なのかどうか、

ほんとうにきくのか、

副作用はないのかなど、</span>


いろいろな疑問や心配をもつにちがいありません。


こうした悩みはけっしておろそかにしないことです。

予防接種を受けるのはほかならぬわが子。

親としては、すべての予防接種についてよく考え、すこしでもわからないことや不安があれば、医者なり保健士なりに徹底的にたずね、納得いかないものは受けさせない、という断固とした態度をとることです。

それを、

<span class="b green">「国がすることだから、まちがいないだろう」</span>

とか

<span class="b green">「医者がすすめるのだから、大丈夫だろう」</span>

などと考えて、すべてを「おまかせ」にするのは、とても危険なことです。


なにしろ予防接種というのは、病原菌を人為的に弱め、体内に入れて免疫をつくらせるというのが原理、もともと不自然で、害がまったくないとはいいきれません。

それでも、元の病気がひどく怖いものなら、あえて受ける必要があるでしょうが、大したことのない病気なら、むしろ本物にかけて自然の確実な免疫をつけたいと思うのは、必ずしも素人考えとして笑われてよいわけはないでしょう。

そういった目で、いま行われている予防接種を検討しなおしてみる必要がありそうです。

<span class="b">専門家の説明がどうしてもわからないばあいは、なお納得できるまで問いただす勇気をもつこと。</span>

自分でも多くの本にあたって調べ、親どうしで情報を交換することも大切です。


また、予防接種について、受ける立場から研究を進めている民間のグループも多くなっているので、そこに入れてもらうのもよい方法です。

そうしたひとたちといっしょに、厚生省や自治省がちゃんとした予防接種行政をするように働きかける運動をすることが、わが子に対するなによりの責任の果たしかただと思います。


<h3>予防接種を受けるときの注意点</h3>


実際に予防接種を受けるときには、<span class="b red">けっして無理をしない</span>ことが大切です。

通知がきたからとか、いま逃すと面倒だとか、親の都合できょうやってもらうのがいいといった考えで、子どもの調子がよくないのに受けさせるのは、ひじょうに危険です。

なによりも元気できげんもよいときに。

体温については、何度から熱とはきめられないので、迷ったら、やはり元気ときげんのぐあいで判断してください。

ちょっとした鼻水やせきの場合も、その状態が何日もつづいていて悪化するようすはなく、元気ときげんが普通ならまあ大丈夫。

しかし、鼻水やせきが昨日きょうにはじまったというのなら、元気がよくても見合わせたほうが無難と思います。

また、熱がでたり、ぐったりするほどの病気にかかったあとは、一週間くらいは見合わせるのが常識です。

下痢は、軽くて元気がよくても、<span class="b">ポリオ（小児麻痺）生ワクチン</span>だけは避けなければなりません。

下痢がなおってからも三日以上は延ばしたほうがよいでしょう。

そのほかのワクチンなら、元気さえよければ、ちょっとした軟便くらいは大丈夫かと思います。

どのワクチンについても、おたふくかぜ、水ぼうそうなどの伝染病にかかったあとは完全になおってから、とくにはしかは免疫の力をしばらく低下させるので、なおって一ヶ月以上たってから接種を受けるのが安全です。


病院や接種会場では、まず、子どもの状態やワクチンについての不安とか疑問があれば、遠慮せずに聞くこと。

「予診」というまえもっての診察で「接種は不可」とはねられたけれど、その理由が納得できないときには、勇気をもって食い下がってよいと思います。


<h3>ワクチンの種類とその知識</h3>


<span class="b green f12em">ツベルクリン反応とＢＣＧ（結核の予防ワクチン）</span>


法律では、ツベルクリンは生まれてから四歳までのあいだに一回して、結果が陰性ならＢＣＧをすることがすすめられています。

しかし、ＢＣＧは、肺結核に対する効果が世界的に疑問をもたれ始めているうえ、接種したあとのツベルクリン反応の陽転を結核と誤診される恐れがありますから、一律にはやらないほうがいいでしょう。

ツベルクリンをこまめにし、自然陽転したら結核の予防薬を飲ませるという方法をお勧めします。

ただ、乳幼児が感染すると結核性髄膜炎になるおそれがあり、それにはＢＣＧが効くので、

接種する範囲に結核の病人が出た場合はすぐに、

また保育園に行く子は入園前に、

大人と接する機会の多い子も早く、ツベルクリン反応が陰性なのを確かめたうえでＢＣＧを接種しておくべきです。


ＢＣＧ接種の方法は上腕に二カ所スタンプを押すようになされます。

副作用は接種して一〜二ヶ月たったころ局所にいくつかの針跡が赤く現われることが多いですが、半年以内に消えます。


まれにはわきの下のリンパ節がはれることもあります。

きわめてまれには骨炎をおこしたり、生まれつきの免疫不全症があると<span class="b red">敗血症</span>などをおこすことがないではありません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 11 Jul 2009 22:12:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ミルクの悩み・疑問</title>
         <description><![CDATA[

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みＱ＆Ａ" />
</span>哺乳瓶を嫌ってなかなかミルクを飲んでくれません。

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office11.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みの回答" />
</span>きらったらやめて、<span class="underline">うんとおなかをすかせてから瓶をあてがう</span>のがコツです。

それでも受けつけなかったら、また泣かせてでも時間をあけること。

からだを動かして遊んでやったりして、おなかをすかせることも大切です。

乳首がきらいなばあいもあるので、いろいろな種類を試してみてください。

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みＱ＆Ａ" />
</span>あまりミルクを飲んでくれないのですが・・

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office11.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みの回答" />
</span>赤ちゃんにも小食のタイプがあり、あせって飲ませようとしても、おそらく無駄。

飲む量が少なくても、きげんがよく、

一日平均、三カ月まで二〇グラム以上、六カ月まで一五グラム以上、九カ月まで一〇グラム以上、

その後は五グラム以上体重が増えていれば、最低限の発育はしているので心配する必要はありません。

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みＱ＆Ａ" />
</span>
ミルクを飲むのに時間がかかるのですが・・

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office11.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みの回答" />
</span>

遊び飲みをしているか、ミルクの出かたがわるくて困っているかも知れません。


遊んでいるようなら、適度に相手をしながら二十分ほどで離してください。

あえぐように吸いつづけているときには、まず晴乳瓶のキャップをゆるめてみてください。

それでも同じなら、乳首の穴を大きくするか、クロスカットにかえてみてください。

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みＱ＆Ａ" />
</span>急にミルクを飲まなくなりました

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office11.gif" wigth="100" height="100" alt="ミルクの悩みの回答" />
</span>

まず、<span class="b f11em">きげん</span>と<span class="b f11em">元気</span>を見てください。

それらがわるければ病気を疑わなければなりません。

しかし、きげんも元気もよければ、あわてることはありません。

いままでよくふとってきた子なら、ここでひと休みしているのです。

自分で成長をコントロールする脳の働きが成熟した証拠で、喜ぶべきことです。


赤ちゃんが少々乳を吐いても、きげんと元気がよければ心配する必要はありません。

母乳でもミルクでも、乳の出が良すぎるか、吸引力が強くて一気に飲みほしてしまうばあいには、空気もたくさん飲んでいたりして、吐くことが多いようです。

吐きかたもさまざまで、だらだらと出す子もいれば、噴水みたいに吐く子もいます。

飲みっぷりがどうであっても、授乳後にはゲップをさせること。

どうやっても吐く子がいますが、三カ月をすぎるとおさまるものです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育てＱ＆Ａ</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Jul 2009 20:00:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>健康診断の受け方</title>
         <description><![CDATA[健康診断を受けようとする親は、わが子の発育がたしかめられるうれしさと、もしかしてわるいところがみつかりはしないかという不安の入り交じった、多少とも緊張した顔つきをしています。

まして、具体的に心配なことのある親は、それが医者から駄目押しされるのではないか、想像よりわるい事態といわれはしないかと、恐れおののいているようです。


<span class="b">こうした親の気持ちに、健康診断はどれほど応えられているのでしょうか。</span>

よかったという声も聞くけれど、<span class="b red">「異常」</span>とか<span class="b red">「異常の疑い」</span>のレッテルをはられて、余計な心配をさせられたという怒りの声もよく聞くのです。

それはきっと、いまの健康診断が、親からの相談に来るというよりも、医者などの専門の立場から子どもを評価することに重点が置かれているためではないかと思います。

しかも、その評価のしかたがほとんど統一されていて、いわば○×式に優劣を決めてしまうようになっていることが多いのです。


だから、たいていの健康診断がまるで流れ作業、どの親も同じ質問を受け、どの子も同じ診察を受けるといったふう。

およそ親がこまごまとした話など持ちかけられるような雰囲気ではないわけです。


こうした点は、だんぜん改めてもらっていいことです。

せっかく赤ちゃんのためにするのですから、まず、その子と親の意に沿うように。

そして、お上による決まった形の「調べ」でなく、ひとりひとりの心配にこたえる、地についた「相談」であるように。


<span class="b">そのためには、聞きたいことがあったら、たとえ雰囲気が堅くても、遠慮なくたずねる勇気が必要です。</span>

そうでないと、赤ちゃんは品質検査を受ける物品みたいになってしまいますし、だいいち、医者のチェック項目にない問題を落としてしまう危険があります。

万一、「異常」といわれたときは、たいへんなショックでしょうけれど、ここではぜひ落ちついてください。

いまは「異常」のレッテルを張りすぎるきらいがありますから、納得できなければ、十分に説明を求めたほうがよさそうです。

「精密検査」が必要だとしても、それをどこで受けるかは親の自由であって当然。


とにかく、一切を健康診断に取りしきってもらうのでなく、親も生活感覚からの判断力を鍛えて、楽しく赤ちゃんを育ててほしいと思うのです。


<h3>子供の健康診断の結果をどう判断するか</h3>


<span class="b green f12em">いわれたことがよくわからない</span>


いわれたことがよくわからないとか、聞きもらしたことがあったら、そのままにしないでたずねるように。

その場で機会を逸したら、あとで電話するなり出かけていって、確かめること。

ときには医者や保健婦のちょっとしたことばのはしに猛烈な不安をもたされたり、心ないいいかたにショックを受けることがあるかもしれませんが、そんなときでもめげずに詳しい説明を求め、真意を問うべきだと思います。


<span class="b green f12em">発育がわるい</span>


なにか「異常」を指摘されても、できるだけ冷静に。

それはかならずしも決定的ではないし、もともと健康診断はスクーリング（網にかける）の性格をもっているからです。

発育がわるいとか、ふとりすぎといわれても、ただ「標準」と比較してだけのことなら、にわかに心配する必要はありません。

<span class="b">発育のようすは、親をはじめ日常その子をみているひとたちの感じのほうが、意外によくあたっているものです。</span>

もちろんそこには主観が入りますから、確かめたければ、<a href="http://www.y-ads.jp/health-and-sickness/0810101111.html" target="_blank">カウプ指数</a>など総合的な発育の評価法を試みてください。


<span class="b green f12em">育児のしかたがまちがっている</span>


母乳の与えかた、ミルクの量、離乳のすすめかた、幼児の食事などについてまちがっているとしかられても、それでなんとか育っているのなら、まあいいとしていて大丈夫だと思います。


<span class="b green f12em">からだの異常</span>


からだの異常についても、親の感じでたいしたことはないと判断されれば、あわてずに、しばらくようすをみるようにするほうがよさそうです。

発育のさかんな子どもは、そのうちに自然になおってしまうことが多いからです。

しかし、どうしても心配とか、重い異常を指摘されたときは、さらに詳しい検査を受けて確かめてください。


<span class="b green f12em">発達がおくれている</span>


発達がおくれているという疑いをもたれると、ショックは大きいでしょうが、これほど、あとになって、なんともなかったとわかることの多いものはありません。

実は、専門的な発達の診断法は考えられているほど確実ではないし、大勢の子どもを短時間に流れ作業式に調べたのではなおさらよくわかりにくいのです。

そもそも発達というのは、子どもによってさまざまな姿をとるし、環境によってもすごく変わるもの。

簡単に表面からだけではとらえられないものでもあります。

ですから、むしろ家庭や地域で日常の子どもと接している自分たちのほうが発達のぐあいはよくつかめると考えていてよいと思います。

もちろん、素人には気づかないこともあるでしょうが、それほどならたいした異常ではないはずです。

<span class="b">また、たとえ大きな発達のおくれがあるとしても、それをただちにマイナスとばかりはきめつけられません。</span>


いま流行の「発達」という概念には、

年齢にともなって一定のことができるようになるのを「正常」とする意味が強く含まれているようですが、

<span class="b red f11em">これはあまりにも人間を浅くとらえる考えです。</span>

まず、人間を能力で評価しようとするところが、ひじょうに一面的です。

能力がすぐれていても人間的にどうかと思うひとがいるし、劣っていてもすばらしいひとはいくらでもいます。


<span class="b red">しかも、その能力というのが、いまの時代、いまの社会の多数者のできることに基準がおかれている点が気になります。

そういう基準で評価されれば、別のできかたをする少数者は<span class="f11em">「異常」</span>とされるほかなくなります。</span>


そこからは、少数者の特性を生かす道はひらかれず、ひたすら多数者に近づく努力のみ要求されることになるでしょう。

これでは世の中の奥行きが深くなりそうにありません。


<span class="b">それに、なにかが「できるようになる」ことは、おうおうにして、別になにかが「できなくなる」ということをともないがちです。</span>

たとえば、歩くのが上手になるにつれて、はいはいは下手になります。

<span class="underline">はいながら見えていたものも見えにくくなるでしょう。</span>

ことばが巧みになったために、空虚な発言ばかりふえて、真実みのある沈黙や仕草は消えてしまうかもしれません。

数や文字を覚えただけに、事物そのものとのていねいなつき合いをおろそかにしてしまうひともよくいます。

<span class="b f11em">そういうわけで、発達のおくれを、イコール障害と思わないでください。</span>


障害というのは、本人と社会のありようの関係でもたらされるものですから、そうした観点で対応するようにしてほしいと思います。


<span class="b green f12em">「要観察」「要精密検査」</span>


健康診断の結果、「要観察」とか「要精密検査」とかいわれたときにも、

それがからだについてであろうと発達についてであろうと、以上のことを考えて、どうするかを判断してください。

かならずいわれたとおりにしなければならないことはないし、すくなくとも、どこで診てもらうかは親の自由です。

観察や検査が納得できないときには、別のところで診てもらうのはよいことですが、あまり性急に結論をえようと「はしご」を重ねるのはどうかと思います。

からだの異常については急ぐばあいもありますが、それならかえって早くどこかで治療を受けるべきだし、発達に関することなら、むしろゆっくりと経過を見るほうがよいからです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 05 Jul 2009 03:11:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>よく病気をする子こそ大胆に育てよう</title>
         <description><![CDATA[しょっちゅう病気をするといっても、わりに軽く、まあなんとか育っていれば、気にしなくていいと思います。


病気によって、かかる年ごろというのもあって、

一、二歳までは鼻かぜ、「ぜろぜろ」する<span class="b">かぜ、下痢、中耳炎</span>など、

二、三歳をすぎると<span class="b">扇桃炎、気管支炎</span>のほか、<span class="b">水ぼうそう、おたふくかぜ、風疹</span>といった「伝染病」も盛りになります。


こうして年齢に見合った病気を経過することは、かえってその後の健康にとっていい結果をもたらすもの。

それによって免疫ができるし、幼いなりに「やまい」とのつき合いも覚えられる。

<span class="b blue">つまり、子どもは病気をしながら育つという面をもつからです。</span>


よく病気をする子が、かならずしも弱いとはかぎりません。

赤ちゃんを卒業したてのころは、上のきょうだいから病気をもらうことは避けられませんし、保育園や幼稚園に入ると、しばらくのあいだ、たてつづけに病気に見舞われることも多いでしょう。

いずれも、うつされる機会がふえたのがいちばんの原因で、それだけで「弱い」と思うのは早計です。


また、医者通いばかりしていると、なおさら弱くしてしまう恐れがあります。

自分で病気とたたかう力を削ぎますし、薬の害も軽視できません。

<span class="underline">精神的にも医薬に頼るくせができるうえ、よけいな病気までもらう可能性が大きいからです。</span>


そんなことをするよりも、もっと積極的、大胆に育てるほうがいいと思います。

なんともないときはもちろん、多少病気ぎみでも、元気さえあれば、外に出して好きな遊びをさせてもいいですし、おふろにいれてもいいのでは。

そのほうが心身ともに勢いがついて丈夫になることが多いみたい。

たとえ熱がでたりぐずっても、一日、二日とがんばらせると、自然になおったり、病気になる回数もへる傾向があるようです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 03 May 2009 12:05:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>体罰でのしつけについて</title>
         <description><![CDATA[体罰でしつけをしようとするのは<span class="b red">もっとも怠惰なおとなの考えること</span>です。

人間としての影響力でなく、安直な暴力で従わせようとするわけですから、自信のなさをも露呈しているともいえます。

それでは親としても成長することはできないでしょう。


しかも体罰は動物の調教と同じで、<span class="b red">子どもから自主性を奪いがちです。</span>

中には暴力に抗して強く育つ子もいるかもしれませんが、それは危険なかけ、大半は権威に従順で卑屈な人間に育つと思わなければなりません。


ただ、ほんとうに許しがたく、怒り心頭に発して思わず手がでてしまったというのはしかたがないし、子どもも身にしみるかもしれません。

でもそんなことはめったにあってはならないことです。]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/discipline/0903201457.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 20 Mar 2009 14:57:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>障害のある子の子育て</title>
         <description><![CDATA[障害のある子を育てるのは、その程度によってたいへんにはちがいありませんが、

将来の見通しについてはあまり悲観的に考えないで、親がその子とともに積極的に開拓してゆくようにかまえてほしいと思います。


考えすぎると、普通の子を育てるときにもあるたいへんさまでも、障害のせいにしてつらさを増してしまいがちです。

特別の子だからと世話に力を入れすぎるのも、無用のくたびれを招くもとです。


そもそも、異常はその子のすべてではないし、それが生きるうえにどれほど障害になろうとも、一個の人間としての生涯はすでに始まっているのです。

しかも、その人間は、ほかならぬ自分たちがこの世にもたらしたひと。

これは、なにごともなかった子とまったく同じことでしょう。

とすれば、とにかく子育ては着手されなければなりません。

むしろ、あるがままのわが子を、そういう子としてたんたんと育てていれば、障害があることについても、しだいに度胸がすわってもきそうです。

そうなれば、障害児を育てるのは、世間で考えるほどたいへんではないといえるようになってくるかもしれません。

<span class="b f11em">そのとき親は、人間として大きく成長していることでしょう。</span>


そこまでなるのには時間がかかるでしょうが、じっさいにたくさんの先輩がいるのですから、いろいろなことを学んでほしいと思います。

もし近くにそういう人がいなければ、下記の団体にたずねれば、相談に乗ってくれますし、適当な人も紹介してくれるはずです。

<a href="http://www.zenkokuren.com/" target="_blank">障害児を普通学校へ・全国連絡会</a>


<h3>社会に育ててもらう</h3>


どうして自分たちだけがと嘆いたところでどうにかなるものでもありません。

そうした子どもだからこそ、むしろ世間に突きだして、いっしょに育ててもらうようにすべきです。

<span class="b">それにしても、障害児を育てるにあたっては、多くのひとの直接の協力が必要です。

とりわけ夫婦が力を合わせることは不可欠。</span>


母親だけが背負ったのでは、身も心ももちにくいでしょう。

夫婦だけではやりきれないことは、親戚はもちろん、友人、知人、近所のひとたちに、遠慮なく助けを求めるのがよいと思います。

だれだってピンチにはひとの助けが必要なのだし、とくに障害のある子は多くのひとたちに知られ、その中で育つことによって世間で生きられるようになるからです。


きょうだいがいる場合には、できるだけ手伝ってもらうべきですが、けんかやわがままは、普通のきょうだいのようにやらせておくべきでしょう。

障害のある子の犠牲にしたのでは、両者とも明るく育ちそうにありません。

このほか、たいへんさをしのぐためには、家事をうんと簡素化することも必要なのではないでしょうか。

すべてをきちんとやろうとしてダウンしてしまったのでは、もとも子もなくなります。

家事は少々の手抜きをしたところでなんとかなるし、すぐその生活様式に慣れてもくるはず。

いまは、こまかいことにこだわらないおおらかさが求められているのです。


<h3>普通に育てる</h3>


障害児を育てるにあたっては、障害にばかり気をつかうのでなく、その子を全体として育ててゆくことが大切です。

障害はその子のすべてではないし、その子は障害をかかえながらも人間として成長しなければならないのです。


障害を不欄に思って、大切に育てすぎれば、世の中で生きてゆく力がつきません。

少々のからだの不自由があっても、できるだけ自分のことや家事はやらせ、友だちとも遊ばせたほうが積極的になります。

知恵おくれだって、家に閉じこめないでいれば、いろいろなことを覚え、ひととのつき合いかたも上手になるはず。

視覚障害も、いつも手を引くばかりしないで、ひとりで壁などを伝って歩かせたり、広い所では走らせたりすれば、大胆に外にでてゆけるようになるでしょう。


聴覚障害も、大勢の友だちと遊ばせていれば、ひとりでにさまざまのことばを聞き分けるようになってくるものです。

寝たきりの子にしたところで、窓を開け、乳母車や車椅子で外にだし、太陽や風にあて、多くのおとなや子どもと接しさせれば、表情もからだの動きも生き生きとしてきます。


こうしたことは、考えてみればあたりまえの話で、

<span class="b blue">動きや感覚にしろ、知恵にしろ、ことばにしろ、まわりの自然や社会と接することによって育てられてくるのです。</span>

この事情は普通の子とまったく変わりありません。

ただ、普通の子を含めて、子どもによって、育ちかたのちがいと早いおそいがあるだけです。

<span class="b">とすれば、障害児の育てかたも、普通と同じを原則にしなければなりません。</span>


<span class="b red">特別扱いして、訓練にばかり時間を費やしていたら、かんじんの自然や社会と接する機会を減らし、人間としての成長を妨げてしまうでしょう。</span>

ですから、しつけにしても、障害児だからといって手心を加えないように。

なんでもしたいようにさせるのはまちがいです。

叱るべきときは、たとえけいれんのある子でも、断固として叱らなければなりません。

そのかわり、子どもが困難を克服してなにかをなしとげたときには、いっしょに喜んでやってください。

そして失敗したときには、アーアといっしょに悲しんでやるのです。


<span class="b">世間との関係では、とにかくかくさない、恥ずかしがらないのがかんじんです。</span>

堂々と外にだし、チャンスを見て障害のようすを話してしまったほうが、ぐっと気が楽になるはず。

また、そうしてこそ、成長にとって大切な自然や社会との接触も豊富にできるのです。


子どもが大きくなって、奇形やからだの不自由さなどについて気にしだしたら、そんなことは人間の価値をきめるものではない、

いろいろなひとがいるのだから、かくさず恥ずかしがらず振る舞うように話してやってください。

<span class="b f11em">だいいち、親が不憫に思うほど子ども自身は深刻ではないのではないでしょうか。

なのに、親があまり悲憤なようすを見せると、かえってしょげてよくないと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 18 Mar 2009 03:17:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>園をいやがる子</title>
         <description><![CDATA[

<h3>まず子どものいいぶんを聞いてやる</h3>


はじめはよろこんで保育園や幼稚園に通っていた子どもが、あるときから急にいやがりだすことがあります。

親としては心配やら、いらだたしいやらで、思わず<span class="b">「首になわをつけてでも連れてゆく」</span>という気持ちになったりしますが、

そういう場合は、さり気なく子どものいいぶんを聞いてやり、まず園の先生とじっくり相談することです。

<span class="b red">というのは、「登園拒否」をするのは園になにか原因があると考えられるからです。</span>


とすれば、園の側に子どもにとって重荷になるものをなくしてもらうことが先決。

クラスの友だちや先生との相性もあるでしょうし、疲れとか慣れが関係して行きたくないときもあるでしょう。

保育のしかた、食事やひるねのとりかたがいやだということにでもなれば、事態は深刻。
だんぜん「拒否」したくなる気持ちはよくわかります。

園にしてみれば、課業とか保育のしかたに問題があるとは考えたくはないのでしょう。

家庭での育てかたや子どものほうに問題があるようにいわれることもないとはいえません。


そんなときはもちろん反省もしてみなければなりませんが、どう考えても園のほうに問題があるようなら、遠慮をしないで希望をいうべきです。

そして、子どものいいぶんを聞いても、園と相談をしても、どうしても原因がわからないときは、<span class="b blue">しばらく待ってみることです。</span>

すると、たいていの子どもがふっと園に行くといいだすもの。

なんとなくということもあるし、家にいるより園に行ったほうがましと判断したようにみえることもあります。

いずれにしても、自分できめたことですから、もうあまりぐじぐじすることはなくなるでしょう。


それでもなお行きたがらないとすれば、よほどの理由があると考えなければなりません。
まして、その理由がよくわかり、親が懸命に園と話し合ってもどうにもならないとなれば、最終的にはよその園にかわるか、やめるのもやむをえないかと思います。

園はそんなに無理をしていかなければならないところではありません。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 17 Mar 2009 21:28:55 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>幼稚園に通う</title>
         <description><![CDATA[

<h3>遊びの場として考えよう</h3>


幼稚園に対してはあまり大きくかまえないほうがいいようです。

しつけをしてもらおうとか、なにかを学ばせようとかすると、それが子どもに伝わってコチンコチンにさせてしまいがちです。

<span class="b">それよりもむしろ、幼稚園は遊びの場として考えるのがよいのではないでしょうか。</span>


この年齢の子どもにとって、大勢の子どもといっしょにいることは、それだけですごく心おどることなのでしょう。

たとえひとり遊んでいても、ほかの子の存在がたえず気になるし、ちょっとでもチャンスがあればすぐに集まって遊びを広げ、関心がそれたりけんかで別れてもまた離合集散を繰り返します。

みんなでなにかをすることは、調子に乗った子にとっては、おもしろさも成果も倍増するにちがいありません。


一方、それをはずれた子はいい知れぬ疎外や孤高の感情をかみしめることになるでしょう。

いずれにしても、親からはえられなかった緊張した場面です。

そうしたなかで、子どもは自分を含めた人間、もろもろの事物への認識とかかわりを深めてゆくのでしょう。


幼稚園に行きだしたからといって、すべてを園中心にすることはありません。

子どもの育ちは、むしろ、家での暮らしや近隣でのつきあいや遊びで受ける影響のほうが大きいのです。

ですから、たとえ園の方針とちがうことがあっても、親は自分の信じる教育をつらぬくべきだし、その家庭なりの生活は守られてよいと思います。


園を学校の予備校にするのではなく、そうした生活を広める媒介として大切にしてほしいと思います。

園が終わってからの近所での自由な遊び、とくに友だちとの遊びは子どもが求めますし、いかにも楽しそう。

夏など長い休みもあることですから、仲良く遊べる友だちができるように親も協力してやってください。


<span class="b f11em">そのためには、親どうしのつき合いがとっても大切。</span>

親は親で気心の知れる友をつくり、子どもが仲良くなったら親もざっくばらんにつき合うようにしたいものです。

送り迎えにしても、初めのうちは親がついていくのもしかたありませんが、慣れてきたら、子どもだけで通わせるとか、親が交代で面倒をみるようにしたらどうでしょう。


<h3>幼稚園の選び方</h3>


とにかく近いのがいちばん。

遠いと、通うのがたいへんなこともありますが、それよりも、せっかく園でできた友だちと家に帰ってから遊ぶことができないのが難点です。


つぎに、ぎょうぎとかカリキュラムが厳しいところは敬遠したほうがよさそう。

<span class="b blue">じっさいに親子で見に行って、園児たちが、いきいきと、好きなことをして遊んでいるところがいいと思います。

それでいて乱れた感じがなければ最高でしょう。</span>


それから、<span class="b f11em">当の子どもとその園との相性</span>もあるでしょう。

保育のしかた、先生、子どもたち、これら全体のかもしだす雰囲気が、うちの子にぴったりとか、まあまあとか、どうも合いそうにないといった感じは意外に大切です。

親にしても、園や親たちとの相性がよくなければ、なにかとやりにくいことが多くなるのではないでしょうか。


こうした懸念を確かめるためには、とにかく親子して候補にあがった園を見に行くのがいちばん。

そのさいは、一度だけでなく二〜三度みてまわれば、さらによくわかるでしょう。


<h3>自主保育について</h3>


子どもを幼稚園などにやるのではなく、親たちが呼びかけあってグループをつくり保育をする<span class="b blue">「自主保育」</span>というやり方があります。

保育を専門家に預けるのではなく、自分たちの手でしようとするところに意義があります。

現にあちこちでそうしたグループが生まれ、それなりの成果をあげています。


ただ、じっさいにつくっていく過程では、施設の問題や専門家をどうするか、費用の面などさまざまな難問があることは事実です。

でも、そうした難問をひとつずつクリアしていけば、幼稚園などでは得がたいすぐれた保育を生み出す可能性を秘めています。


グループをつくるにあたっては、身近の知り合いから少しずつふやしていくのがよいでしょう。

<span class="b">１０人以内か、せめて２０人までにとどめたほうがよさそう。</span>

いきなり不特定多数のひとを集めると、とりきめごとばかり多くなって、自主保育の聞達さが失われてしまうかもしれません。

また、自分では努力しないで、既成のグループに入れてもらって要領よく恩恵にあずかろうとするのは、自主保育のよさをこわすことになってしまいます。


グループの運営も、できるだけ形式的にしないで、親しい友だちか近所どうしみたいな関係にしたほうがよいと思います。

子どもを「保育する」といった感じが抜けて、家族ぐるみつき合うようにでもなれば最高でしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 13 Mar 2009 12:14:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>保育園に預ける</title>
         <description><![CDATA[常勤にしろ、パートにしろ、あるいはフリーにしろ、両親がともにまとまった時間を外で働くばあいは、子どもをどこかに預けなければなりません。

それが保育園なら、それまでの親と子の関係は新たな段階に入ってくることになります。
仕事に向かわなければならないおとなと、園で過ごすことになる子どもは、もはや「親子」という縦のつながりをこえて、ひとつの共同生活者になっているはず。

<span class="b green">「かわいそう」</span>ではなく、<span class="b green">「お互いにしっかりやろうよ」</span>といった感じで対すれば、相手だってけっこう頼もしく応じるはずです。

親子の関係がそういうものになっていれば、預けることによって愛情に飢えるといったこともないのでは。

もし子どもの心に危機をもたらすことがあるとすれば、それは親の都合だけで子どもを預け、その人格への配慮が抜け落ちているからにちがいありません。


園とのかかわりにおいても、同様の事情が大いに考えられなければなりません。

親は預けるだけ、園は預かるだけでは、子どもはまるで品物のよう。

子どもは、その冷たいはざまで心を痛めてしまいそうです。

前夜の病気を伏せて登園させたり、保育中のけがを内証にして帰したりしたために起きた事故は、それが防ぎうるものだけにやりきれません。

この点で、たがいがなんでもいえる関係になることが不可欠だと思います。

とりわけ病気のときなどは、もし「休ませる基準」に不服や意見があれば申し出て、保母さんとともに検討し直していいこと。

がんばって意見をいう勇気をもってほしいと思います。


親同士が、新米も先輩もいっしょになってグループをつくれば、心強いし、なにかのときの助けにもなるかと思います。

どうしても休まなければならない病気や、保母さんたちのストのときなど、夫婦だけでなく仲間とのあいだでやりくりできれば、犠牲は少なくできるのでは。

育児の理念とか、食事や衣服など、こまかい世話のしかたで食い違いがあっても、それ自体はまあ大したことにならないでしょうが、

その間に、批判やそれを聞く耳を欠いた場合には、ひとりよがりが高じて、子どもをつらい目に追い込まないともかぎりません。

要領のよい、あるいはお金だけの<span class="b green">「お願いします」</span>では、自分の労働への問いかけはないし、わが子への責任を果たしえないことになるでしょう。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 13 Mar 2009 03:36:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供が盗みや嘘をついた時、親としてまずすべきことは？</title>
         <description><![CDATA[うそと盗みほど、親にとってショッキングなできごとはないかもしれません。

躍起になって「やっていいこと」と「わるいこと」のけじめを教えようとするでしょう。

ところが、肝心の<span class="b f11em">「善悪の区別」</span>というのが、意外とややこしく、かなりあいまいなことに気づくはずです。

うそひとつとっても、絶対についてはいけないものだとはきめつけられそうもありません。

ほんとうのことを話すと、無用に人を傷つけることもあるし、友だちをかばうためにつかねばならぬうそもあるはずです。


幼い子がなにか失敗をしてとがめられたとき、その理由をきちんと説明することはむつかしい。

自分はいくらわるくないと思っていても、親を説得できるほどきちんと話すことは無理です。

思わず、<span class="b green">「ネコがやった」</span>とその場逃れをしたくもなるでしょう。


また、どうしても親が認めてくれない秘密をもったときも、それをとりあげられないためには、欺き隠すほかないでしょう。

このばあいのうそは、幼い心の中に、親のいいなりにならない自分だけのものが芽生えた成長のあかしといえます。

いずれにしても、道徳的に偽りだけを責めたところで、子どもの気持ちにとどきようはありません。


こうしたときには、だました相手だけでなく、うそをいった自分に対しても痛みを感じているはずですから、

<span class="b f11em">むしろそのまま受け取っておいたほうがいいと思います。</span>


<h3>子どものいいぶんを聞いてみよう</h3>


<span class="b blue">ことの真実を確かめるばあいは、子どものいいぶんを十分きいてやる姿勢が必要。</span>

しつこく追いつめるだけでは、うそを重ねさせ、その痛みすらまひさせてしまうかもしれません。


盗みは、それ自体より、それをすることによって、子どもが世の中をどう考え、どのように生きかたを選んでゆくかが大切な問題になってきます。

親の完全な保護のもとにあった幼児が、自分の意志と才覚で危険を冒すようになったとすれば、それはたいへんな成長といえます。

それどころか、物品には所有があること、お金との取引があることを知り、なおそれを犯すのですから、この社会への挑戦でさえあるでしょう。


そうした行為に、<span class="b red">裁き</span>とか<span class="b red">懲罰</span>はなじみません。

<span class="b green">「なんてことを」</span>ときめつけるよりも、まずほほえましく子どものいいぶんをきくべきだと思います。

そのうえでやはり相手にすまないとなれば、親子して謝りにいくべきでしょう。

でも「わるい子」扱いしたり、余罪を追及するのは心ないこと。

<span class="b blue">子は信じられることで、悪事さえ成長のばねにするはずです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 10 Mar 2009 04:54:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供がけんかしていたら、あなたはまずどうしますか？</title>
         <description><![CDATA[幼い子のけんかを見ていると、自分がいまやっていることややりたいこと、それに必要なひとやものをなんとか確保しようと、必死で自分を守っているようです。

ですから、ほかの子から遊びを妨害されたり、おもちゃを取り上げられたりすれば、猛烈に怒りますし、

ほかの子が<span class="b green">「いいこと」</span>をしているのを知れば、すぐに割り込んでいって押しのけようともします。


<span class="b blue">どうやら、幼い子にとってけんかは、子ども仲間のあいだでやってゆくのに欠かせないもののようなのです。</span>


それを<span class="b green">「乱暴はいけません」</span>とか<span class="b green">「けんかはやめなさい」</span>などとしつけにかかっても、はたしてどれほど子どもの心を納得させられるでしょうか。


<h3>子供のけんかはすぐには止めない</h3>


それよりも、まずは好きなだけやらせておいたらどうでしょうか。

子どものけんかは子どもどうしにまかせておけば、おのずとかたはつくもの。

精一杯やったことで、かなりの満足感もあるようです。

まして勝ったほうは、相手を征服した快感を覚えるのですが、それでいて友を失い、自らを非難する苦しみも味わわざるをえません。

負けたほうは、みじめさをかみしめつつ、相手を軽蔑するか、またの挑戦にかけてでも、なんとか意地を残すほかないでしょう。

こうして、子どもたちはそれなりにこの世に生きる厳しさ、むつかしさを体得していくのだと思います。


<span class="b f11em">ただ、おとながどこまで子どもどうしにまかせられるかは実際問題としてむつかしいところです。</span>

きょうだいげんかなら、耐えがたいほどになったら、ころあいをみて、ということでしょうか。

よその子とのけんかのばあいは、親どうしの気づかいもあってさらに複雑になるでしょう。

でも、飛んでいってやめさせたり、わが子だけを叱ってあやまらせたりするのは、けっしていいやりかたではありません。

やはり、なるべくけんかはやらせ、とめるときも子どもがえこひいきを感じない工夫をすることが大切です。


いずれにせよ、そんな表向きのしつけより、子どもの内面をくんでやりたい。

なにか鬱屈があれば、荒れるのは当然です。

十分に認められ愛されていれば、他人に寛容になるでしょう。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 07 Mar 2009 19:04:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供のわがままをどう対処しますか？</title>
         <description><![CDATA[自分でしたいことやできることがふえ、親の命ずるがままから脱却しようとする幼ない子は、まずだれをも支配下に置こうとしはじめます。

親にはあれやこれやと気まぐれに要求し、親から求められたことは「あまのじゃく」になって逆らいます。

ほかの子どもに対しては、主導権の争いから、おもちゃを取り上げるといった行為に出ます。

それが拒否されれば、ひっくり返って泣き叫んだり、かたくなに固執しつづけたりもするでしょう。


この種のわがままには、ただの<span class="b">「しつけ」</span>で対してもあまり効果はないでしょう。

説教や命令では、子どもの気持ちとすれちがうばかり。

かえって、わるい子ときめつけることによって、意地を張らせかねません。


<h3>「自由に」が原則</h3>


それよりも、なるべくやりたいようにやらせたほうがよさそうです。

少々因っても黙って見すごすか、せめて「しょうがないねえ」くらいにとどめておく。

そうすれば、子どもは自分で決めた行為を通せたのがうれしく、

<span class="b">しかし同時に、結果については責任を取らなければならぬ苦しさをも味わうことになるでしょう。</span>


これとはちがい、なにかエネルギーの鬱積があって吐き出されず、その代償がわがままに現れているばあいがあります。

精いっぱい遊べないとか、おとなに囲まれて息がつまりそうな子は、当たり散らしたり、際限なく要求を出して、それでもなお満たされません。

わりと年長の子に多いようですが、そういうようすがみえたら、とにかく発散させてやることが必要かと思います。


<span class="b blue f11em">どんなばあいにも、子どもには自由を。</span>自由はわがままを乗り越えるものです。

解放された感情が、我慢を強めてくれるからでしょうか。

そのうえでなら、自制を強いることがあっても、相当に耐えられそうです。

子どものいうことをどうしても認められないときは、こちらの本音をそのままぶつけるのがよいと思います。

<span class="b green">「いやよ」</span>とか<span class="b green">「きらい」</span>といった感情、

あるいは<span class="b green">「困る」「こうしてほしい」</span>といった都合で迫るのは、説教や命令よりもずっと子どもの心にはしみやすいはず。

たとえその場はいうことをきかなくても、ひとの気持ちを踏みにじったという悔悟は、その後の子どもの行動を律する糧となるでしょう。

人間関係の道徳は、こうして相手を思いやることから、はじめて身についてくるものなのです。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 04 Mar 2009 19:26:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>落ちつきのない子供にどう対処しますか？</title>
         <description><![CDATA[幼い子は落ちつきがあるほうが不思議。

なかにはおっとりした子もいるでしょうが、たいていの子は一瞬たりともじっとしていません。

エネルギッシュな子だと、親が悲鳴をあげたくなるほど動きまわるものです。

それを無理に落ちつかせようとやかましくいえばいうほど、ますます落ちつかなくなるのではないでしょうか。

現に、おとなが多い家庭でかまわれてばかりいる子が、ひじょうに落ちつかないということがままあります。


<h3>やがて落ちつくときがきます</h3>


<span class="b f11em">ですから、なるべくしたいことをさせておくのがいちばん。</span>

少々移り気にすぎるようでも、それはおそらく十分に気にいった遊びがみつかっていないためでしょう。

そのままにしておけば、いつの間にかなにかに熱中して、静かになっているときがあるものです。

もし家にいることが多すぎるようなら、外にだす工夫も必要です。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　とにかく、そうこうしているうちに、相当の暴れん坊でも急にひとがかわったように落ちつくときがやってくるものです。

親としてはそれまでの辛抱です。

たとえ、保育園や幼稚園、保健所や病院などで、おかしいといわれたり、親の目からみてもふつうではないと感じても、<span class="b red f11em">けっしてあせらないように。</span>

それでもやはり、できるだけやりたいことをやらせ、友だちとも遊ばせ、保育園や幼稚園にも通わせるのがいちばんいいのです。

やたらに<span class="b">「多動」</span>とか<span class="b">「自閉」</span>とかの病名をつけて専門家の「治療」を受けさせるのはいいこととは思えません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 03 Mar 2009 12:19:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>行儀の良い子供に育てるには</title>
         <description><![CDATA[ぎょうぎというと、世間一般に通じる作法と思いがちですが、時代や文化によってかなり変化するものですし、ＴＰＯ（時・場所・場合）によってもずいぶんとちがうようです。

ですから、あまり型にはまったぎょうぎを教え込むのはどんなものでしょうか。


あいさつひとつをとっても、<span class="b green">「おはようございます」</span>の一点ばりでは、相手によっては滑稽だったり、みずくさかったりするでしょう。

そんな切口上で深々と頭をさげられるより、にっこり<span class="b green">「おはよう」</span>のひとことのほうが気持ちがよいばあいがよくあります。

もしかすると、いきなりいたずらをしかけてきたり、遠くからアカンベエをしてみせたりといった仕草に、ずっと強列なメッセージをおぼえるひともいるかもしれません。


他人の前でのぎょうぎにしても、いいつけられたとおりにこちこちになっているのはなんとも不自然、

きらいなひとやいんちきくさい相手を攻撃したり避けたりの行為も、あながち不作法とはいいきれません。


<span class="b">世にそういう道義はあっていいことです。</span>

そもそも幼い子にじっと静かにしていることを要求するのが無理。

心は好奇心でいっぱい、やがてもぞもぞ、からだをくねらせはじめるのです。

それを叱られるのをみるのは、相手だってけっして愉快には感じないのでは。

<span class="b blue">そんな実りのない、子どもにとって耐えがたいしつけに躍起になるより、

相手が不快にならない程度に自由に行動させたほうが、よほどその場にふさわしいぎょうぎになると思います。</span>

おとなをそっちのけで楽しく遊んでいるのは、叱られながらおとなしくしているよりも、みていて気持ちのよいもの。

親にわがままをいいにきても、親の話がたいせつなら待たせておき、切りのいいところで対応してやれば、相手もさほど不快に思うことはないでしょう。


ただ、自分の勝手ばかりで傍若無人、ひとに失敬な行動にはびしっとしつけなければならないのはもちろんのこと。

気おくれや恥ずかしさから相手を無視するような態度をとる子には、あいさつをする勇気を持たさねばならないでしょう。


<h3>内実こそが大事</h3>


「ぎょうぎ」は表現ではありますが、<span class="b">内実</span>こそが大切です。

形式については、相手との関係、<span class="underline">その時と場所に応じて変わるのが自然。</span>

いつも<span class="b green">「おはようございます」</span>では興ざめしてしまいます。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 28 Feb 2009 14:54:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供のこわがりの対処法</title>
         <description><![CDATA[

<h3>親が守ってくれているという信頼を与える</h3>


お誕生すぎから一歳前後の子は<span class="b red">ひどくこわがりです。</span>

いろいろと周囲のことが見えてきたけれど、それらの正体がよくつかめない、

なにがおきているのか、自分に対してなにをしてくるかがよくわからないという状態でしょうから、やたらこわがるのも無理ありません。

なかでも巨大なエネルギーを感じさせるものは、たまらなくおそろしいようです。

近づくヘリコプターの爆音、吠える犬などは身を震わせてこわがります。

まして以前にひどい目にあった記憶があれば、なんとかそれから逃げようと、あがき泣き叫ぶでしょう。

注射をされた病院などは近くにきただけで大騒ぎ。

おふろで落とされかけた子は、おふろというとしがみついて衣服を脱がさせようとしません。


<h3>子供のこわがりに対しての処方箋</h3>


<span class="b f11em blue">とにかく、こわがりだした子は、しっかり抱いて、気を静めてやることが大事です。</span>

親が守ってくれているという信頼がなにより心強く、恐怖に立ち向かう力をつけてくれるはずですから。


そのサポートのもとに徐々にこわいものの正体をわからせてやったらどうでしょう。

ヘリコプターの爆音には、窓をしめて、やや遠ざかってから抱いて外にでて眺めてみる。

吠える犬には、いったん逃げてから、きつく子どもを抱いて少しずつ近よってみるといった練習をするのです。

でも、極端にこわがることは、しばらく避けておくのもやむをえないかもしれません。

髪を洗うのをいやがる子なら、おふろはからだを洗うだけにし、汚れががまんできる限界まで待ってやったらどうでしょう？

あえて慣らそうと毎日強行するより、そうした配慮をしてくれているという安心が、洗髪への恐怖をいくぶんでもやわらげるのではないでしょうか。


また、親からみても、こわがるのはあたりまえ、

あまりひどすぎる仕打ちをする病院などは、親の責任でつれてゆかない、別のところにかえるといった勇気をもたなければ、子どもにはもうしわけないと思います。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 25 Feb 2009 16:27:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供が乱暴な行為をとる場合</title>
         <description><![CDATA[幼い子をかんだり、たたいたり、髪をひっぱたり、突き倒したりするのをみていると、まるで強迫観念にかられているかのよう。

相手がそこにいるのが耐えがたい、気になる、それでちょっかいをだしてみるといったふうにみえるのです。


<h3>相手との関係を確かめる行為</h3>


これは、子どもの我がでてくるにしたがい、自分と似たような相手の存在をなんとか自分と関係づけようとする苦心の努力なのだと思います。

だから、そうしながら遊びが成立したり、けんか相手となかよくなったりするのでしょう。

<span class="b f11em">そうであれば、こうした行為はなるべくするままにまかせておいたほうがよいでしょう。</span>

中途半端にとめられると、相手との関係がきまらないかぎり何度でもくり返しそう。

とめられたことに対する意地もでてきそうです。

もちろん、危険だったり、あまりにしつこいときはとめるべきですが、

そのときはさっとわが子を抱き、相手にはちょっと<span class="b green">「ごめんね」</span>というくらいにして、その場を離れるのがよいと思います。

相手の親がいないときは両方を抱いてやるのがいいでしょう。

<span class="b red">いずれにしても、けっしてわが子だけを叱らないことです。</span>

<span class="b green">「あなたの気持ちはよくわかっているわよ」</span>といった感じで受けとめるようにしてやりましょう。


むしろ問題は親どうしの関係です。

それが疎遠だとこうした対応はなかなかできないものだからです。

<span class="b f11em">いちばんいいのは、あらかじめ相談して、危険がないかぎり放っておこうと申し合わせておくこと。</span>

それが無理でも、なんとか気心を通じさせる努力だけはしたいものです。

家族におとなが多く、ちやほやと甘やかされたり、やかましく叱ったりしすぎると、子どもは自分を安定させることができず、よその子がくるとかみついたり、たたいたりすることもあります。

また、おとなからかまわれることが少なく、愛情に飢えていると、よその子に攻撃的になるともいわれます。

もし思い当たるふしがあれば、みんなでなんとかする必要があります。

親に対してかみついたり、たたいたりするのは、多くは愛着のなせるわざ、甘えているか、親をわがものにしたい気持ちの現れでしょう。

でも、あまりしつこいときは、親のかまいかたがわるいのかもしれません。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 24 Feb 2009 00:04:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供がかんしゃくを起こした時の対処法</title>
         <description><![CDATA[

<h3>あえて放っておきましょう</h3>


子どもが急に大声をあげて泣きだし、ひつくりかえって手足をハタハタさせて怒っているときには、ちょっと手のつけようがありません。

いくら親があやまったり、なだめたり、抱いたり、あるいは叱りつけたとしても、かえって火に油を注ぐだけ。

<span class="b f11em">それは、かんしゃくが子どもの内面からきていることを示しています。</span>

表面は、ほしいものがもらえなかったとか、いたずらを禁止されたといった原因があったとしても、実はそれはたんなる引き金で、内心はなにかにつけていらだっていたのです。

自分のしたいことがはっきりせずもやもやしていたり、ものごとがうまくできない自分にあせりを感じていたり、親のいうことをきこうかきくまいか迷っていたり。

それでかんしゃくをおこすと、今度はかんしゃくをおさえられない自分にいらだってしまうのです。


ですから、表面のきっかけになったことだけを解決しようとしても子どもの心の奥にはとどきません。

<span class="b f11em">こうした内面のかっとうは、結局は本人が自分で解決してゆくしかないのです。</span>

親としてかんしゃくは耐えがたいことかもしれませんが、<span class="b blue">あえて放っておくことです。</span>

といっても、泣く子をひとりにしてどこかにいってしまうのは考えもの。

親にできるただひとつのこと、それはそばにいて無言のサポートをしてやることです。

そうしてやれば、たいていの子どもはくたびれて、やがて寝入ってしまうか、いつの間にか遊びに夢中になったりするでしょう。


そんな体験を何度かくり返すうち、子どもの内面は成長し、やがてかんしゃくをおこすことも減ってくるはずです。

かんしゃくをよくおこす子どもを、はれものにさわるように大事にするのはどうかと思います。

必要なしつけや生活の事情は遠慮なく子どもにぶつけたほうがいいでしょう。

そういうことが少ないと、子どもはかっとうに悩み、内面をきたえていくチャンスに恵まれないことになってしまいます。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 21 Feb 2009 15:05:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供がだだをこねる意味</title>
         <description><![CDATA[人間としての共感をもって　子どもがだだをこねるのは、自分の求めるものが、なにかに妨げられて、その鬱屈した気分がうまく収拾できないときです。

ですから、こうした状態になった子は、なによりその気分をわかってやることが大切。

たとえよくわからなくても、親がわかろうとしていることが子どもに感じられればいいのです。


だだをこねるのを、<span class="b green">「やめなさい」</span>と高飛車に押さえつけようとするのは<span class="b red">禁物</span>です。

そうでなくとも鬱屈した気分がよけいに火をつけられて、逆効果になりかねません。

こちらもいらいらしているのなら、むしろ無視しておいたほうがましでしょう。


親としては、子どもが求めて果たされないものがなにかを、どうにかしてわかろうと努力してやりたいものです。

ひじょうにエネルギーはもっているのに気が弱い子のばあい、ちょっとした遠慮でそれを発散できず、ぐずつくということがあります。

そのようであれば、なるべく押さえつけない対応をしたほうが伸びるでしょう。


自分でやりたい遊びが上手にできず、そのためのもどかしさが原因になっていることもあるようです。

そんなときは、すこし手伝ってやるだけで解決することもあります。


もしかすると、いまだだをこねている原因とは別のところに、心底から満たされないものがひそんでいるというばあいもあるかもしれません。

それはもう、人間としての共感で洞察するしかありません。

もし、親にからだで突っかかってくることがあったら、しっかりと抱きしめてやるにかぎります。

それこそ最高のなぐさめになるはずです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 20 Feb 2009 11:21:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の反抗にどう対処しますか？</title>
         <description><![CDATA[

<h3>子どもの意思にまかせてみる</h3>


反抗は、ひととひととの関係に、それをもたらす動機があって起きてくるもの。

子どもだけで「反抗期」などという時期を迎えるわけではないでしょう。

とすれば、それは子どもとおとなのあいだに矛盾が高まってきたときに生じることになります。

ただ、幼い子はまだ判断のしかたが単純で、自己主張もかたくなにすぎるのがふつう。

だから、「反抗」にはそうした事情を配慮して対応してやらなければなりません。


<span class="b blue">まずは、なにをするか、どのようにするか、やめるかやめないか、いつやめるかといった行為の選択をできるだけ自分の意志できめさせるようにしてみたらどうでしょう？</span>

服を着たがらない子に二種類の服を見せて

<span class="b green">「どっちにする？」</span>

とたずねると、

<span class="b green">「こっち」</span>

といってさっさと着ることがあります。

なかなか寝ようとしない子には、

<span class="b green">「ねなさい」</span>

よりも

<span class="b green">「もうねようか」</span>

と誘うほうが抵抗が少なそうです。


<span class="b f11em">こうした問いかけや誘いは、親を権威者にするのでなく対等の関係におくので、子どもは自我を傷つけられない。

それでいて決定した行為には自分で責任をとらなければならないことを悟らされるはずです。</span>


行為を自分で選ばせるからには、まかせると同時に、幼い子なりのタイミングをみはからってやることが大切です。

問いかけや誘いに対してすぐには応じなかったとしても、急がないでまってやる。

そして、こちらの要求でなく、子どもが思うとおりにできたときには、うんとほめてやるのです。

親の要求と子どもの意志が真っ向から対立したときは、親が譲歩できるほどのことなら、子の性格やその場の状況によっては、負けてやったほうがいいと思います。

子どもはがんばれば主張を通せるという自信をつけるし、その結果に自分で責任を負う経験をすることになります。


でも、どうしても譲れないばあいは、親の実力で従わせるのもわるいことではないと思います。

そういう切羽つまったときには、断固とした態度をとりつづけるにかぎります。

子どもはたいてい激しく抵抗して親の反応をうかがおうとしますが、少しでも動揺の色を見せてはなりません。

一度従わせようとしたら妥協せずにとおしたほうが、子どもは親を理解してくれるのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 17 Feb 2009 02:57:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供のいたずらも成長の為に必要なこと</title>
         <description><![CDATA[幼い子のいたずらは最初から悪意をいだいてやるわけではありません。

おとなと同じことをしたいという欲求がいたずらといわれる行動にかりたてるのです。

父親のメガネを頭に乗せたり、母親のマニキュアをこぼしたりするのは、自分たちを好いてくれている証拠。

なによりほほえましいこととして受けとめてやりたいものです。


子どもはどうも入れ物にこだわることが多いみたい。

引き出しを開けたがるし、箱があればじっとのぞきこみます。

そして、中のものを次から次へと取り出しにかかります。

バッグなど逆さにしてばらまいてしまうでしょう。

コップや皿のようなものだと、それに入っている水やスープなどを別のコップや皿に移しかえ、またもとにもどすという仕草をくり返すことがよくあるのではないでしょうか。

こうした行為は「もの」に内部と外部があることが不思議で、

しかも、ひとつの「もの」の内部にある別の「もの」が外部にも出せるし、またその道もできるということがおもしろくてたまらないのでしょう。

この感覚がすすめば、任意に空想で、大きなものを小さなものの中に入れたり、小さなものでも外にだして大きなものにするといった遊びを展開することが可能になるはずです。

たとえば、お話で象さんを自動車の運転手にしたてたり、遊んでいる途中でポケットから小さな怪獣をとりだして大暴れさせることもできるのです。

<span class="b blue">これはすごく楽しいことで、おとなも子どもをまねて、いま一度こういったイマジネーションをとりもどすチャンスにしたらどうでしょう？</span>

そもそも、いたずらはおとなにとっては困るものですが、子どもにとっては楽しくて面白いこと。

<span class="b f11em">価値観からしてちがうのです。

おとなの価値観だけで禁止したり叱ったりしても、通じにくいと思わなければなりません。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 14 Feb 2009 12:06:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>何故指しゃぶりをするのか？</title>
         <description><![CDATA[

<h3>指しゃぶりをする意味</h3>


三ヶ月ごろから始まる「指しゃぶり」は、十分に親をおびやかす<span class="b red">魔性</span>を持っています。

指を吸う赤ちゃんは、親を拒絶するだけでなく、なにかの不満を屈折させている感じすら与えるかもしれません。

だからこそ、あのかわいげな仕草にかかわらず、たいていの親があわてて指を払いのけ、抱きあげたり、乳をふくませようとかかるのでしょう。


でも、赤ちゃんだって、いつものんきに過ごしているわけではありません。

いろいろな緊張や不安があるにちがいないのです。

おなかがすいたけれど乳を恵まれるかどうか、眠いのに寝つかれないといったいらだちや、さびしかったりやるせない気分にとらわれることもあるでしょう。

こんなときは、なんとかして心を静めたい。

<span class="b f11em">それを、赤ちゃんは自分なりのやりかたで試みているのです。</span>


もともと赤ちゃんは口で吸う欲求が強いため、乳を飲むだけでは足りないのかもしれません。

そのうえ、指をしゃぶることは、自身を確かめることになりますし、色情の満足に似た遊びにもなっているのではないでしょうか。

このようなことを考えると、「指しゃぶり」は、単なる「しつけ」の問題として片づけるわけにはゆかなくなります。

それは、人間の根源に触れるなにものかをはらんでいるのですから。


まして指しゃぶりを異常とか、わるいこととして排斥したら、人間はとてもやってゆけないのでは。

指しゃぶりを必死になってやめさせる必要がどこにあるのでしょうか。

せめて、赤ちゃんなら、この世への好意を抱けるよう親密に接し、珍しく楽しい体験を少しずつ広げてやりたいもの。

また、幼い子で日がな一日指をしゃぶってしょんぼりしているようなら、心を躍らせるような遊びに誘い、しりごみしたりこわがっているときには温かい支えを与えてやるくらいの心づかいをしてやればいいでしょう。


歯並びがわるくなるというのにしても、四、五歳までにやめればなくなるといわれています。

寝てからも指をくわえているときは、深く眠ってからそっと離してやったらどうでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 12 Feb 2009 17:53:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>おむつをとる時、トイレトレーニングの進め方</title>
         <description><![CDATA[余裕とユーモアをもって　おむつがとれるのはほかならぬわが子の成長のあかしみたいなものですから、親ならだれだってできるだけ早くとりたいと思うのが人情です。

時期としては一歳半から二歳半のころがいちばんいいチャンスではないでしょうか。

このころには、排泄をコントロールする神経や筋肉が成熟するし、トイレを理解し親に便意を告げる知的能力も発達してくるからです。


ところが問題は、赤ちゃんにしてみれば<span class="b green">「しつけられる」</span>ということに対して、それに応えたいという気持ちと、

なんとなくしゃくで反発したい感情が複雑に交錯しているらしいのです。


だから、どのようにおむつがとれるかというのは、しつけようとする親の意志と、しつけられる子どもの意志の相互の関係でかなりちがってくるのではないでしょうか。


<span class="b f11em">とすれば、「トレーニング」などといったドライで一方的な調教みたいにしないで、親と子の心がふれあうようなやりかたでするようにしたい。</span>

少々でたらめがあっても、便意を告げることへの抵抗とトイレへの嫌悪感を固定しさえしなければ大丈夫。

そのためにはいやがるとき、しくじったときに、しつこくこだわらないようにするのが大切です。

だれでもおむつは早くとりたいですから、大いに奮闘したってかまいませんが、そこになにがしかの<span class="b blue">余裕</span>と<span class="b blue">ユーモア</span>がほしいのです。


排泄のしかたは文化の様式ですから、それになじむよう、親やきょうだいのトイレを見せたり、食事の前後や昼寝からさめたときなど生活の区切りにトイレに連れていったり、

便器にかけたら<span class="b green">「シーシー」</span>とか<span class="b green">「ウン、ウン」</span>とか声をかけるのはいいことでしょう。


ともあれ、おむつをとるのは悲喜こもごも。

はじめからかんたんにとれてしまう子もいますが、なかなかという子のほうが多いようです。

懸命にやってもだめで、あきらめたとたんにできたというひともいれば、

成功して大喜びしていたら思いがけず部屋でジャーとやられたひとも（笑）

それをまた夫婦して、たがいの育てかたや遺伝のせいにしたり、たいがいは、まあそんな他愛のない騒々しさの中で、どうにかなってしまうものなのですが。


<h3>おねしょ（夜尿）</h3>


三歳までは、ほとんどの子が夜中におしっこをもらします。

だから、夜だけはおむつをあてているのが普通です。

また、四、五歳でも、五人にひとりくらいは夜中にもらす子がいます。

毎日という子もいますし、ときどきという子もいます。

どっちにしても、そういう子がどこか病気だというわけではありませんし、知能に問題があるわけでもありません。

ちょうど歩きだすのに早いおそいがあるのと同じだと考えておけばいいのです。

親としては、内心のいらだちもあるでしょうが、それは心の中におさめるか、ちょっぴり小言にもらすくらいにして、ふとんの始末だけをさっさとしてやったらどうでしょう。


<span class="b green">「おちんちんがくさる」</span>とか<span class="b green">「学校に行けない」</span>と脅したり、

ほかの子とくらべて<span class="b green">「バカだ」「ダメね」</span>などと子どもをおとしめるのは、もしかして一生にわたる劣等感を残しそうです。

早く<span class="b green">「なおそう」</span>と医者通いをしたり、叱ったりすると、緊張して、よけいにもらすようになりかねません。

夕食後にいっさい飲みものを与えないのも心ないことだし、水分の需要の多い子どものからだにとってよいことではありません。

せめて、夕食後は大量に飲むのだけ制限して、寝る前にトイレに行く習慣だけはつけたらどうでしょう。


<span class="b red">夜中に起こすのは、かえっておねしょをつくるようなもの。</span>

眠りが妨げられて、神経やホルモンなど排尿をコントロールする仕組みが乱れるうえ、その時間になると無意識的にでもおしっこをするくせがついてしまうといわれています。


夜中にもらしても目覚めないのなら、そのまま朝まで眠らせておくのがいいでしょう。

しかし、おしりがかぶれてきたら、もらしたころにそっと寝巻とシーツをとりかえてやってください。

ふとんが維持できなければ、<span class="b">「おねしょパッド」</span>を買ってきて敷くか、本人がいやがらないかぎりおむつをあてておいてもかまいません。


ただ、いままでもらさなかった子が急におねしょをするようになったときは、なにか精神的な原因があるかもしれません。

思いあたるふしがあれば、それらの手当をしてやることが先決です。
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 10 Feb 2009 08:34:57 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供がしゃべり始める時期</title>
         <description><![CDATA[十ヶ月もすぎるころから、たいていの子が自分の名前を呼ばれると振り向くようになります。

<span class="b green">「いけません」</span>といわれれば、一瞬でもやめようとするでしょう。

<span class="b green">「ちょうだい」</span>といわれれば手にもっているものを渡そうとするかもしれません。

また、自分のほうから<span class="b green">「マンマ」</span>といって食事の催促をしたり、<span class="b green">「イヤイヤ」</span>といって逃げ出したりする子もでてきます。


こうして赤ちゃんはことばをマスターしていくわけですが、赤ちゃんがことばを理解するようすをみていると、意味を知ってというより、<span class="b blue">経験上感じを覚える</span>といったふうなのです。


赤ちゃんの了解することばも、おとなと同じというわけではなさそう。

<span class="b">「ワンワン」</span>ということばでも、ネコやトリまで意味していることはめずらしくありません。

こうしたずれは、なにも性急に改めさせようとする必要はありません。

別にあせらなくても、いっしょに暮らしている以上、いつの間にかちぢまってゆくはず。

赤ちゃんがネコを見て<span class="b green">「ワンワン」</span>といえば、たいていのおとなは<span class="b green">「ニャンニャンね」</span>とさりげなく訂正のことばを発するでしょう。

それを赤ちゃんはまねして<span class="b green">「ニャンニャン」</span>といってみる。

このときは、おとなだって赤ちゃんことばを使っていて、双方から歩み寄っているわけです。

このような歩み寄りが成立する背景には、赤ちゃんとおとなとのあいだに心情面での結びつきがしっかりあるにちがいありません。


<span class="b blue f12em">ようするに、ことばが通じ合い、さらにお話しに発展するのには、生活をともにし、心が結び合っていることが大切なのです。</span>


このようにみてくると、しゃべりはじめるのが早いかおそいかはひとつも問題になりません。

しゃべりはじめは子どもによって大きな開きがあって、ふつうはお誕生でひとつかふたつのことば、

早い子だと十ヶ月で、おそい子は二歳近くになっても<span class="b green">「ア、ア」</span>くらいしかしゃべらない子もいます。


でも、こちらのいうことがわかっていれば、心は通いあっているし、言語の概念も頭の中でできているのです。

そういう子はきっと、たくさんのことばを、それも豊かな文章として頭の中に蓄えつづけているのです。

だから、やっとしゃべりはじめたと思ったら、せきを切ったように話し出すことがあるのでしょう。]]></description>
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         <pubDate>Sun, 08 Feb 2009 05:22:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤ちゃんのひとり立ち</title>
         <description><![CDATA[

<h3>早い子とおそい子では半年の差</h3>


お誕生前後になると、ちょっとした拍子に、一瞬ではあるけれど、ひとり立ちすることがあります。

それを発見したときの感慨はいかばかりのものでしょうか。

思わず拍手かっさいをしてしまうかもしれません。


でも、あまり大声ではやしたてると、赤ちゃんが泣いてしまうかも。

まあそれはご愛敬ですが、二度目からは感激をなるべくひかえめにして、静かに励ましてやりたいもの。

ばあいによっては手を貸すなり、支えをそっとはずしてやるなりしてもいいかもしれません。

ひとり立ちは、最初のころは一〜二秒、どすんとしりもちをついては、また立ち上がろうとする動作を楽しんでいるようです。

やがてふらついていた腰がかたまって長く立てるようになると、今度はやたらと立ちたがりだすのではないでしょうか。

そしてひとり立ちがしっかりした赤ちゃんは、片手さえもってやれば、ひょこひょこと歩けるようになっていることでしょう。


<span class="b">ひとり立ちをするようになる時期は赤ちゃんによってずいぶんちがいます。</span>

早い子とおそい子ではゆうに<span class="b blue f11em">半年近くの開き</span>があります。

ですから、そのくらいのおくれは気にすることはありません。

せめて、つたい歩きがお誕生ちょっとすぎ、ひとり立ちが一歳二ヶ月くらいまでにできれば、どうということはありません。


それにともなって、ひとり歩きができるようになる時期も、赤ちゃんによって開きがでてきます。

たいていの子は一歳二〜三ヶ月ごろに歩きだしますが、早い子だと十〜十二ヶ月、うんと早いと七〜八ヶ月でひとり歩きする子もいないではありません。

逆におそい子だと一歳半近く、一歳七、八ヶ月になってやっとという子もいます。


ひとり歩きの早いおそいには、どうやらその子の性格も大きく働いているように思えます。

大胆な、わるくいえば向こう見ずの子は早く歩いてしまうし、憤重な、わるくいえば憶病な子は歩くのがおくれるふしがあるみたい。

どちらがいいかはいちがいにはいえないし、親としては、わが子の性格を理解してやることが務めでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 06 Feb 2009 10:54:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>医者にかかるタイミング</title>
         <description><![CDATA[ほんとうに医者にかかる必要があるほどの病状なら、赤ちゃんはそのことを<span class="b red">全身で訴えるでしょう。</span>

眠れぬくらいぐずるとか、生気がなくなるとか、顔つきや仕草も苦しそうな、どこかふつうでないようすをみせるはず。

<span class="b red">そんなときに高をくくったり、親の都合で医者にみせるのを延ばしたりするのはひじょうに危険です。</span>


医者にかかるとき、つい忘れてしまうのが赤ちゃんの<span class="b">意向。</span>

どうせなにもわからないからと思うのでしょうが、赤ちゃんはさほどつらくなく、いつもに近い調子なのに、親のほうが心配で放っておけず、医者にかけてしまうということがよくあります。

熱が出たとか、せきをするといったときに、そのことだけで病状を判断し、熱が「高い」とか、せきが「ひどい」とでも感じられれば、矢も楯もたまらなくなるわけ。

まして、知り合いの子が「肺炎」になったなどという話を聞いていればなおさらのこと。

こうして医者のところに連れて行かれる赤ちゃんは、自分の必要からではなく、

実は、親の心配を担い、それを解消するために身をつくすことになりかねないのです。


それでも、医者が赤ちゃんの気分と病気の性質をよく考えて、そうした配慮をしてくれればよいのですが、親の心配のほうに加担して、念のためといって、不要な薬までくれることがあります。

もし、そのときの熱やせきが、突発性発疹とか普通のかぜであったら、抗生物質は効きません。

効かない薬を与えるのは、からだに害を加えるだけです。


どんな場合でも、医者にかかったら、不審なことは遠慮なくたずねるべきです。

このごろは検査のしすぎと、そこからくる病名のつけすぎ、生活規制のゆきすぎが問題になっているので、わが子の身になって生活者の実感はどしどし出して、たがいに修正すべきはするようにしてください。

とにかく、<span class="b f11em">病気を見立て治療するのは医者だけでなく、親にも責任が大きいことを肝に銘じてほしいのです。</span>

医者にかかったとしても、予想に反しどんどん悪化するときには、時機を失わぬよう、他の医者に変わる決断までしてかまわないと思います。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 03 Feb 2009 01:29:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤ちゃんづれの旅行</title>
         <description><![CDATA[

<h3>目的によって臨機応変に</h3>


旅行のときに赤ちゃんをどうするかは、まず、その旅の目的やら性格によって違ってきます。

赤ちゃんだってひとりの人格と社会的な関係をもっていますから、それとのかかわりで旅行の是非はきめられなければなりません。

実家の祖父母が孫の顔をみたいと望んでいて、こちらもそれに応じる気持ちが強いときには、赤ちゃんはその旅行にしっとりと溶け込めるし、主役として当然欠かすわけにもいきません。

しかし、気がすすまないのに義理で連れていくとすれば、赤ちゃんを両親と祖父母のあいだで不安定にしてしまう恐れがあります。

そのようなときは、できるだけ双方で意向を交わし合って、いくにしろやめるにしろ、心を整えてからにしたほうがよさそうです。


出産につづく育児疲れで、実家に帰って休養したくなったら、赤ちゃんも連れていくことになるでしょう。

勤めのある夫にはまかせられないし、赤ちゃんがそばにいなければ寂しいにちがいないからです。

幸いに父親もまとまった休暇がとれるようなら、一家ででかけると、みんなが寂しくありません。


レジャーで、海や山、スポーツや観光に出かけたくなったときには、赤ちゃんのことをよく考えて、夫婦でじゅうぶん検討してください。

このばあいはまったくの親本位で、赤ちゃんはつき合わされるだけですから、赤ちゃんの体調を考えてがまんするか、無理のない程度にとどめるかしなければなりません。


<span class="b f11em">どんなばあいでも、赤ちゃん連れの旅行では、夫婦の協力が不可欠です。</span>

母親だけが抱きづめ、世話のしづめでは、母子ともにくたびれてしまいます。

運転、荷物運びなど、それぞれの力と体調に応じて、適当な<span class="b">「分業」</span>も必要です。

旅先での環境や交際が赤ちゃんに煩わしいようなら、夫婦して守ってやる勇気を持たなければなりません。


ペースは、赤ちゃんに合わせてゆっくりと。

授乳やおむつの交換、睡眠など、いつもの習慣はくずさないのが、旅行を楽にするコツです。

もし赤ちゃんがぐずりだしたり、病気にでもなったら、予定を変更する度量ももっていなければなりません。

乗り物は、目的地までの所要時間、速度の加わり方、揺れ、混雑など、いずれも少ないほど楽です。

親子とも、生理的にも心理的にも、二、三時間以上の拘束は苦しいのではないでしょうか。

それをこえるときには、途中での休息を考えてください。


<h3>乗り物で注意すること</h3>


<span class="b f12em">電車</span>


うんとすいている電車を選べば、となりの空いている席に赤ちゃんを寝かせられて、親子とも楽です。

ただし、急停車にそなえて転げ落ちないようにしておくように。

込むおそれのあるときは、指定席をかならずとっておくこと。

禁煙車、禁煙席があればそこに乗るのはもちろんです。


冷暖房がききすぎているときは車掌に申し出てもいいし、込んでいて授乳やおむつの交換がしにくいときには、車掌室を使わせてもらってもいいと思います。

ミルクをつくるお湯は、ビュッフェか食堂車がついた電車ならそこでもらえるはず。

つくったミルクをさますのは洗面所でできるでしょう。


泣きだして座席でどうやっても泣きやまないときは、立ってゆするか、通路を歩くか、デッキにでてみるはかないでしょう。

他人の手前せつないですが、早く泣きやませようとあせるのは禁物です。


<span class="b f12em">自動車</span>


いちばんこわいのは事故ですから、細心の注意が必要です。次に心配なのが疲れ。

授乳とおむつの交換を目安に車をとめ、一日の行程は六〜八時間までに。

冷暖房をかけるときはおとなだけのときよりもゆるめにしてください。


車内の空気がわるくなりやすいので、パーキングのたびにしばらくドアを開けるなど、換気には気をつかってください。

車はとてもくたびれるので、目的地についたらゆっくり寝かすように。


<span class="b f12em">飛行機</span>


生後二週間をすぎれば乗せられますし、三歳までは無料です。

座席は禁煙席でスチュワーデスが近くにいるところを選ぶこと。

赤ちゃん用ベッドや授乳室がある便なら申し分ありません。

不自由を感じたらスチュワーデスにたのめば便宜をはかってくれるでしょう。


離陸のときは、縦に抱いて乳をふくませておくと耳が痛いのを防げるといわれます。

飛行中はつねにしっかり抱いて、ベルトを締めておくこと。

親だけトイレにいくときは隣のひとかスチュワーデスに預け、絶対にひとりで寝かせておかないこと。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 02 Feb 2009 10:56:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤ちゃん連れの外出</title>
         <description><![CDATA[

<h3>ひとにふれ、自然になじませる</h3>


天気がよい日には、だれだって家にはいたくないもの。

ひとりでは動くことのできない赤ちゃんだってその気持ちは同じです。


赤ちゃんも一ヶ月をすぎれば、外にだすことができるようになります。

ぽかぽか陽気に誘い出されるように外にでて、明るい光や花のにおい、木々の緑のなかに身をおけば、わざわざ「外気浴」だの「日光浴」だのと、自然を物理的な要素に分けて赤ちゃんの体への刺激にするといった意識は、どこかにとんでいってしまうでしょう。

「外気」は空であり、風であり、香りであり、「日光」は輝きであり、ぬくもりであり、色彩。

これらは、ただの皮膚や内臓への生理的な効果をはるかにしのいでいます。

赤ちゃんとの外出はこのような自然とのなじみをつくってくれるだけでなく、ひとびとにふれ、世のありさまを見聞きする機会ともなるでしょう。

見ず知らずのひとが不意にのぞきこんだり、あやしてくれたりします。

ときには抱っこしてくれるかもしれません。

その感じは、親とはずいぶんちがうのではないでしょうか。

<span class="b">赤ちゃんは、そうした喧騒のなかで、しだいにこの世となじんでいくのです。</span>

外に出たときは、移動ばかりでなく、できるだけのんびりと座っているひとときをもちたいもの。

寒い季節でも風の強くない日だまりを、暑い季節でも木陰のすずしい風の通る場所を選べば、親子ともゆっくりできるのではないでしょうか。

外にいる時間は、のんびりと<span class="b green">「そろそろ帰ろうか」</span>といった気分できめてよいのでは。


<h3>用事での外出</h3>


用事で出かけなければならないときに、家にもう一人以上のおとながいなければ、赤ちゃんをどうするかが問題になります。


ごく短い時間、ゴミを捨てにいくとか、近くの店で小物を買ってくるといったことなら、赤ちゃんをひとりでおいていっても大丈夫でしょう。

眠っていたり、おとなしく遊んでいたりするのを兄はからい、ベッドの柵やふとんの具合などの安全を確かめて、急いで用をすませてください。

ただ、生まれて間もない子をうつぶせのままにしておくのは危険です。

ちょっとのあいだでも、鼻と口がふさがれば、窒息してしまう危険性があるからです。

乳をのませたあとすぐ寝かせて出かけるのも、吐いたときに気管をつまらせる恐れがあります。


三十分以上のまとまった時間がかかる用事のばあいは、赤ちゃんだけおいていくわけにはいきません。

だれかに預けるか、自分が連れていくか、用事の性質と、親子の体調と気分、天候などによって判断してください。


<span class="b f12em">だれかに預けるばあい</span>


預ける必要を感じたときは、遠慮せずに思い切って先方に頼むこと。

このばあいは、相手に対して平素から礼をつくしていることが条件になるでしょう。

頼む相手としては、近いことと、赤ちゃんを知っていて、親ともなじんでいてくれる人が最高でしょう。

そうした人とは、預けたことがきっかけになって、たがいに助け合える間柄になれそうです。


預けて出かける場合には、ついでに何件かの用事をまとめてすませてしまうようにしたらよいと思います。

郵便局、銀行、買い物など、要領よくすれば、けっこう回れるもの。

ただ半日以上かかる用事、冠婚葬祭とか、自分の病院行き、同窓会などのときには、すこしぐらい遠くても、親戚か、懇意な友人に預けたほうが気が楽かもしれません。


<span class="b f12em">いっしょに連れて出るばあい</span>


気楽な用事で、道中は安全、天気も上々といった日には、のんびりと親子で出かけるのもわるくないでしょう。

少々気の張る用事でも、赤ちゃんに無理をかけないですむのなら、いっしょにつれていったほうがいいかもしれません。

ただし、赤ちゃんを連れていく場合には、とにかく早く用を切りあげて帰ること。

せいぜい二時間以内でしょうか。

病院とか人ごみなど、病気をうつされやすいところは避けてください。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 30 Jan 2009 19:18:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親に甘える</title>
         <description><![CDATA[<h3>甘えは不安の裏返し</h3>


幼い子は、親に対して、大なり小なり甘えん坊です。

親は、幼い子から見れば、大きくて力があって、頼りがいのある存在、自分の生きることのほとんどすべてを世話にならなければならないひとです。

やさしく抱かれ、愛撫されれば安心できるし、困難に陥ったとき、ちょっと助けてくれるだけでどれだけ救われることか。

だから親としては、これには相当に応じてやるべきでしょう。


ただ甘えたいだけでべたべたするときでも、こちらに受け入れる余裕のあるかぎり、甘えさせるのもわるくありません。

<span class="b">親に十分甘えられた経験は、子ども時代を安定させるだけでなく、おとなになってからの心のおおらかさのもとになるような気がします。</span>

もし、冷たく突き放されたら、孤独で、満たされぬ甘えを一生にわたって持ちつづけることになるかもしれません。


子どもには、つねに<span class="b red">親がいなくなる不安</span>がつきまとっているのではないでしょうか。

しらぬ間にどこかへ行ってしまったとか、自分のことを忘れたかのようにぼうぜんとしているとか、何かに夢中になっているのを見ると、子どもはいてもたってもいられなくなるようです。


<span class="b f11em">これも、やはり、保障してやらなければ。

いつでもそばにいてくれる。

いなくなってもすぐもどってくる。

それがかなわぬときでも代わりのひとがいるという信頼がないと、身がもちそうにありません。</span>


甘えには、身をゆだねることによって、相手から自分の求める行為を引き出すという意図が働いているばあいもあります。

それが察知されたときには、要求そのものに正面から立ち向かってやりたい。

そして、きける要求はきく、のめない要求はきっぱりと断るのがよいでしょう。

そうすれば、結果としてどうなっても、卑屈な態度は取らなくてすむようになるでしょう。

態度だけ責めて要求ははぐらかしたり、逆にかわいさから無条件に受けいれてしまっては、この種の甘えをなくすことはできそうにありません。


しかし、あまり度をすぎて甘えさせるのは考えもの。

いくらかわいいからといって、いつまでもべたべたさせておくのは、子どもからもっと充実した行動をする意欲を奪ってしまいそうです。

いっしょになにかを始めるとか、親から離れたくなるほど魅力的な遊びに気づかせてやる工夫が必要です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 29 Jan 2009 13:24:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供とお風呂に入る</title>
         <description><![CDATA[赤ちゃんをおふろに入れるのはとてもたいへん。

でも、裸のわが子を抱いてお湯につけ、心をこめて洗ってやるのは、なんともいえない気分にちがいありません。

赤ちゃんの小さいうちは、ベビーバスがよく用いられますが、

あれはどうも<span class="b">「洗う」</span>という感じのほうが勝っているのではないでしょうか。

もちろん、それでも十分に「おふろに入れた」という満足感があり、そのやりかたが楽ならば、べつに悪くはないのですが。

でも、どちらかといえば、生まれて間もない子でも、普通のおふろに親が抱いていっしょに入るほうが楽だし安全、

なによりも親子が肉体を密着させることができるので、これほど情のこもる入れかたはないのではないかと思うのです。

ただ、いっしょに入ったとき、自分も同時に洗ってしまおうとすると、ひどくあわただしいし、のぼせがち、とてもゆったりはできそうもありません。

とくにひとりだけのときは、脱衣場に置いた赤ちゃんのことが気がかりでならないでしょう。

これはベビーバスにしても同じで、ひとりだと不自由。

とにかく赤ちゃんのおふろはふたりがかりで入れるにこしたことはなさそうです。

とすると、いちばんは夫婦が揃うときに入れるのがよい。

そのために少々おそい時間になってもかまいません。


赤ちゃんのからだにとっても、入浴は清潔のためだけではない<span class="b blue f11em">大きな意味</span>があります。

血液循環がよくなる、身体機能をよくするといった効能は、まだ自分ではほとんど動けない赤ちゃんには、かっこうのエネルギーの発散になります。

ただ、<span class="b red">おふろの温度</span>には注意を払ってやりたいものです。


いちばんいいのは、まずおとなが入ってすこしぬるく感ずる湯加減にそうっとつけて、しばらく赤ちゃんのようすをみることです。

気持ちよさそうな顔で、息も落ちつき、手足は動かしても全体に不安がなくほぐれた感じがあれば、その温度が最適なのでしょう。

もし安定よく抱いていても落ちつかないようなら、静かにかきまぜながら、温度を上げてみてください。

そのときには温度計は必要ありません。

やむをえない事情でひとりのときはもちろん、ふたりのときでも落ち着いて、とくにころんだり、やけどさせないように。

湯上がりはゆっくりと、すこしさめてから衣類を着せること、このくらいで「湯ざめ」はしません。


<h3>銭湯</h3>


内ぶろがなければ、生後一カ月をすぎたら銭湯につれていってかまいません。

ただし、あまり込まない時間で、手伝ってくれるひとがいるときを選ぶのがよいでしょう。

赤ちゃんをだれかに預けるか、落ちる心配のない安全な場所に寝かせて、

自分だけ先に入浴をすませ、それから赤ちゃんを裸にしてしっかり抱き、すべらないように気をつけてお湯をつからせてやるのです。

それでも熱そうなら水を入れている蛇口のあたりにしたらどうでしょう。

洗うときはどっかりと座って、腕から落とさないように。


<h3>お風呂を嫌う子</h3>


裸にするだけで泣きだす子は、お湯につけようものなら震えて激しい泣き声をたてるでしょう。

そんな子は、うんときつめに抱いて、要所（頭、顔、耳の後ろ、首、わきの下、おへそ、陰部、肛門などくびれたところ）だけでも洗い、お湯につけるのもさっとすませたらどうでしょう。

あまりたいへんなら、毎日きちんと入浴させることもありません。

夏は洗うだけにして、お湯につけるのはやめてもよいし、冬なら二、三日に一度で間に合うと思います。


<h3>内風呂にひとりで入れる</h3>


次のような手順でやれば楽でしょう。


（１）冬には、脱衣場と浴室を寒くない程度に暖めておく（感じでよい）。


（２）赤ちゃんを、衣類を着せたまま、危なくないように脱衣場に寝かせて、おとなが先に入浴をすませてしまい（揚ぶねにつかってよい）、その後、湯かげんを少しぬるめにしておく（温度計は不要）。


（３）おとなが軽くからだをぬぐってから、赤ちゃんを裸にしてしっかり抱き、浴室の床にどっしり座って、ひざの上で「かけ湯」をしながら、石けんで全身を洗う。


（４）洗い終わったら、お湯に手を入れて赤ちゃんの好みの温度に調整し、赤ちゃんを抱きしめなおして湯ぶねに入り、ゆっくりとつかっていく。


（５）お湯につけたとき、赤ちゃんが気持ちよさそうにしていれば、のんびりあやしながら楽しむ。

お湯が熟そうなら少しずつ水をさし、ぬるそうなら温度をあげるセットをして静かにかきまぜる。

ノブから熱い湯を入れるのは<span class="b red">危険。</span>

「さし湯」は、面倒でも赤ちゃんを引き上げてからにする。


（６）お湯から上がったら、赤ちゃんを脱衣場に敷いたバスタオルに寝かせ、もう一枚のバスタオルをかけておいて、おとなが先に着てから（そのくらいのあいだは「湯ざめ」しないのでゆっくりでよい）、赤ちゃんに着させる（脱衣場でなく部屋につれていってからでもよい）。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 27 Jan 2009 08:43:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の離乳時期について</title>
         <description><![CDATA[赤ちゃんが三、四ヶ月になると、そろそろ<span class="b">「離乳」</span>のことが気になってくるでしょう。

この時期には離乳の準備をはじめ、五ヶ月ごろには本格的な離乳に入らなければならないと、たいていのひとが本を読んだり、医者や保健婦に聞いたりして、にわか勉強を始めるようです。

なんだかたいへんなことのようですが、離乳というのは、つまり、おっぱい以外のものを食べさせること。

赤ちゃんは自然に人間の食べるものを食べだすようになっていますから、そんなにむつかしく考える必要はありません。

自然体、あくまで気楽に、暮らし向きにあった方法でやるにかぎります。

<span class="b f11em">そためには、まず「離乳」ということばにとらわれないのがいい。</span>

赤ちゃんにただおっぱい以外の食べ物を与え始めるのを、そんな固いことばで考えるから、必要以上にむつかしくなってしまうのです。


栄養とか、「そしゃく」や「えんげ」の機能といった生理上の問題はありますが、それらにしたところで、常識で十分判断できること。

かえってむつかしく考えるとうまくゆかないくらい。

だから、「離乳」をほとんど意識しない二番目から後の子のほうが、なんとなくスムーズに進んでしまうのでしょう。

<span class="b f11em">とすると、とにかく赤ちゃんのようすによるのがいちばん。</span>

赤ちゃんがおとなの食べるのをじっと見つめ、口をもぐもぐさせたり、身を乗り出して手をばたばたさせでもすれば、それをきっかけにして与え始めてみるのです。

<span class="b blue">このような親と赤ちゃんの気持ちが触れあった瞬間がまさに食べさせ始めるときなのだと思います。</span>

そして、食べるようなら大胆に進め、嫌うようならゆっくりするというふうにしたらどうでしょう。

赤ちゃんによって食べかたはちがうのだし、少々の失敗やつまずきはだれでもあるもの。
それを反省し修正しながらやってゆくのが本当のところなのです。

親の気持ちだって、もっと素直に出させてもらってもいいのかも。

「標準」とちがうからといって食べさせたいものをすべて我慢するのは、いかにもつらい。

口移しに食べさせるのだって、衛生面からだけで遠慮するのは水くさい感じがします。

食品にしても、あまりに計算ずくなのはどんなものか。

工業的大量生産のベビーフードなんかよりも、食卓にある料理で赤ちゃんが欲しがるものを適当にアレンジして与えるほうが、ずっと心が通うし、

よく食べてもくれると思うのですがどうでしょう。


<h3>離乳食で注意すること</h3>


離乳は気楽にやるとしても、赤ちゃんに食べさせるものは安全でなければなりません。

いまいちばん気をつけなければならないのは、材料そのものと添加物に含まれるかもしれない有害な人工物質です。

したがって、離乳を親といっしょに進めるばあいは、この点から家族の食生活を注意しなければなりません。

「材料」は少々手間がかかって高くついても、ほんものの自然食品を手に入れたい。

それができないばあいは、もったいないけれど、


<span class="b">果物なら皮をむき軸に近い部分は捨てる、

野菜は念入りに洗って皮のむけるものはむき、葉の付け根に近い部分は用いない、

魚介類は内臓を捨てる、</span>


といった手の入れかたをしたほうがよいでしょう。


「添加物」については、まず表示をよく読むこと。

一般に、使用材料が多種で加工度が高い製品は避けたほうが安全。

中でも<span class="b red">インスタント食品</span>はもっとも危険が大きそう。

計り売りのおそうざいなど添加物の表示がないものは、色や光沢、食べてみての感じで選ぶか、信用できる店で買うほかありません。


<h3>離乳食の調理法</h3>


<span class="b f11em">まずは形式にとらわれないこと。</span>


離乳の初期（五〜六カ月）にはどろどろ、べたべたしたもの、

中期（七〜八カ月）には舌でつぶせるもの、

後期（九〜十一カ月）には歯ぐきでくだけるもの、


といった指導を受けることが多いでしょうが、これを守らなければならないわけではありません。

赤ちゃんによって好まれる調理はさまざま。

いろいろと試してみることです。


次にあまりビューティフルにつくろうとしないこと。

赤ちゃんをかかえた生活はた離乳食の食べさせ方ベビーフードについてだでさえ忙しいのですから、自分たちが食べるものを適当にアレンジして与えるほうが、ずっと手間がかからず経済的です。


<h3>離乳食の食べさせ方</h3>


なにはともあれ、おとなといっしょに食べさせるのがいちばん。

赤ちゃんはおとなの食べるのを見て食欲をそそられるし、食べかたも真似しやすいでしょう。

おとなだって、赤ちゃんといっしょに食べるほうが楽しいし、おいしいにきまっています。

<span class="b">ただ、現実には、赤ちゃんの目覚め、おなかのすきぐあいと親の都合とで食事の時間がきめられることになるはずです。</span>

ときには、おとなの食事時間をずらす工夫も必要になってきます。

赤ちゃんといっしょに食べるということは、そうしたつき合いが要求されるということは忘れないようにしてください。


<h3>ベビーフードについて</h3>


ベビーフードはつくる手間が省けて便利ですが、赤ちゃんの食べものとしてはすすめたくありません。

というのは、なにより栄養価とか赤ちゃんの生理機能とかが平均的に計算されている点が不自然だからです。

ようするに、<span class="underline">ひとりひとりの赤ちゃんのためにつくられているのではない</span>ということは忘れないでほしいと思います。

使うとすれば、自分でつくるのがむつかしいレバーペーストを与えたいときと、親が病気などで一時的にベビーフードでがまんしてもらうばあいなどでしょうか。

せいぜいそのくらいの出番、とうてい赤ちゃんの食事の主役にはなりえないものです。


<h3>離乳の悩み</h3>


食べものを受けつけない　食べさせはじめによくあることです。

これは親の食べさせたいという思いが、赤ちゃんの食べる気にマッチしていないだけのこと。

はやる気持ちはおさえて、しばらく離乳を見合わせるにかぎります。

この時期は食べる量は知れているので、半月やひと月おくれてもどうということはありません。

<span class="b f11em">そのかわり、親が食べるのを見せるようにしてください。</span>

やがて、じっと見つめたり、口をバクバクさせたりするようになるはずですから、

<span class="b blue">そうなったら親の食べているものをちょっぴり口に入れてみるのです。</span>

また、食べることは食べるがほんのわずかというときも、あせりは禁物。

こういう子はまだ母乳かミルクのほうがよくて、食べものにはなじまないのでしょう。

わずかでも食べさせ続けていれば、いつかはたくさん食べ出すものです。


<h3>急に食べなくなった</h3>


食べさせはじめて一〜二カ月のころに、急に食べなくなることがよくあります。

食べさせようとすると手で妨害したり、口から吹きだしたりしだしたのなら、食べることに慣れて遊びが入ってきたのかもしれません。

<span class="b f11em">そのときは食べさせることに懸命になるよりも、食事を楽しい遊びにしてやることのほうが大切。

そのうちまた食べだすときがくるはずです。</span>

赤ちゃんのようすがどうも変、元気がないというときは、もちろん病気を疑わなければなりません。


<h3>離乳食とアレルギー</h3>


しっしんができたり、胸をぜろぜろいわせたりしていると、医者から「アトピー」だとか「アレルギー体質」と診断され、卵や牛乳は避けるようにいわれることが多いのではないでしょうか。

そういう場合には、まず落ちついて事実をよく確かめてみる必要があります。

いままで何ヶ月もミルクを飲ませてきて、なんの異常も現れていなければ、まず牛乳アレルギーではないでしょう。

少なくともひどくはないはずなので、食べ物にはいっさい牛乳を使わないなどという極端な制限はしなくてよいと思います。


母親が牛乳や卵を食べていて、母乳を飲ませているのなら、アレルギーの可能性はないではありませんが、その場合は試してみればよいでしょう。

少しずつ牛乳や卵を与えてみて、しっしんやぜろぜろが悪化することがまったくなければ、まず関係はなさそうです。

量をふやしても変わらなければ、アレルギーではなかったということです。


<span class="b red">でも、与えたとたんに明らかに悪化したり、これまでになかった異常がでたばあいは、アレルギーの可能性が大です。</span>

与えるのを中止して、ひと月ほどしてからごく少量を再び試してください。

それで悪化しなければ、少しずつ増量する。

だめだったら、またひと月後とくり返すのです。

食物のアレルギーは消化力がつき免疫機能が成熟するにつれておきなくなるものですから、あきらめずにくり返してみることです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 24 Jan 2009 17:27:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤ちゃんと遊ぶ</title>
         <description><![CDATA[ときとともに赤ちゃんは家族の一員といった感じの存在になってくるでしょう。

顔つきは気心の知れるようすに変わってくるし、からだも丸みを帯びてひとを誘う魅力を持ってきます。

そのころになると、育児に追われていた親にも少し余裕が出てきて、子どもとつき合おうかという気分になるもの。

こうして、あの親バカといわれる<span class="b">「かわいがり」</span>が始まります。

かわいさのあまり、大切に大切にという親の気持ちはわかりますが、

いまの育児にいちばん欠けているのは<span class="b f11em">「動かす」</span>ということではないでしょうか。

赤ちゃんも人間、動物の一種なのですから、動かずに寝かされてばかりいるのは、どんなにつらいかしれません。

それに赤ちゃんはそんなに弱い壊れものではありません。


<span class="b blue f11em">うんと大胆に、もっと多くの時間、体を動かしてやってください。</span>

暮らしの中に、折にふれて、動かしてやるチャンスはいくらでもあるはずです。

「赤ちゃん体操」を覚えるのも悪くありませんが、義務みたいになるとかえって苦になりますし、形式ばかりにとらわれるのは赤ちゃんにも迷惑です。

とにかく親と子おたがいが楽しむことがいちばんなのですから、「体操」なんかより自由な遊びのほうがずっといいのではないでしょうか。


ひざに乗せて<span class="b green">「ギッタンバッタン」</span>したり、

頭の上で<span class="b green">「たかいたかい」</span>したりするのは、それなりの運動量になりますし、

慣れて<span class="b green">「キャッキャッ」</span>と喜べば、かわいさもひとしおでしょう。


遊ぶのは、自然に、そのときどきの気分に応じてでいいと思います。

たとえ赤ちゃんが眠っていたり、かまわれるのが迷惑そうでも、かわいがりたくなったら、少しぐらいちょっかいを出したっていいではないですか。

もちろん、ひどく迷惑そうなときには遠慮するし、逆に赤ちゃんのほうから親を求めてくるときには、できるだけ応じてやる度量がなければならないでしょうが。


とにかく、赤ちゃんとはできるだけ遊んでほしい。

「あやしている」つもりが、じつは「あやされている」ような関係。

それが親と子のいつわらない姿なのかもしれません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 23 Jan 2009 13:37:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤ちゃんの夜泣きの原因と対策方法</title>
         <description><![CDATA[

<h3>昼間の過ごし方を改めてみよう</h3>


夜中に突然赤ちゃんに泣き出されるのは、なんとも切ないものです。

夜ごとに何度も泣かれると、わが子ながら面倒くさく、ときには憎らしくさえ感じることもあるでしょう。

でも、なんとか頑張って面倒をみてやれるのは、やはりそれが親であるゆえんですよね。

三、四カ月未満の赤ちゃんが夜に泣くのは、<span class="b">切実な生理的要求</span>にもとづいています。

おなかがへった、のどが乾いた、暑い、寒い、着物やふとんの具合が悪い、あるいは、どこかが痛いとかかゆいといった気の毒な状態さえもあります。

敏感な子では、おしっこがでたり、頭や手足が無意識に動いたりしたときなどに、ビクッとして、泣きだすこともあるようです。


これらに対しては、親は眠いからといって放っておくわけにはいきません。

「夜泣きは泣かせておけばなおる」という通説ほど赤ちゃんに酷なことはありません。

それよりも、原因を考えて面倒をみてやるほうが、親子とも楽になるでしょう。


<h3>子供の夜泣きの原因は？</h3>


四、五カ月からのちの夜泣きには、<span class="b blue">赤ちゃんのこころ</span>が深く関係してきます。

親があまり赤ちゃんにばかりかまけていると、赤ちゃんは図に乗ってくるかもしれません。


<span class="b f11em">ぐずぐずと甘え泣きばかりするようなら、すこし放っておいてみることです。</span>

お誕生が近くなってくると、夜中に遊びたくなる子もいます。

これも、なるべくかまわないで、ひとりで遊ぶくせをつけるようにしむけるのがよいでしょう。


しかし、あまり突き放してばかりいると、赤ちゃんのこころは傷つきます。

別室にカギをして知らぬ顔より、身近に寝かすとか、せめて、眠りがけにはそばにいてやりたいもの。


大切なのは、できるだけ、昼間から遊びの相手をしてやり、日光や外気や、世の中の文化にもよくふれて、たがいにこころを満たし、適度に緊張した生活のリズムをつくっていくことだと思います。

とりわけ、自分では十分に体を動かせない赤ちゃんを、おとなが手伝って運動させてやること。

<span class="b green">「たかいたかい」</span>とか、我流でけっこうですから、思いきって振り回してやってください。

ここで育児の参加を渋りがちなお父さんの出番ではないでしょうか？

男性はだいたい照れ屋なのでお母さんから声を掛けてあげてみてください。


毎夜の夜泣きをひとりで背負い込むと、たいていのひとが疲れ果ててしまうでしょう。

そんな悲惨なことにならないためには、どうしても夫婦の協力が欠かせません。

明日の仕事に支障があるからといって知らんぶりをするなど許されようはずがありません。


<h3>夜泣きの対策</h3>


夜によく眠れるようになりそうな工夫を考えられるだけやってみてください。


<span class="b">日中に外に出る時間を多くする、

暇をみてはうんとからだを動かしてやる、

夜寝かせつける時間をおそくする、

夕方に昼寝する習慣のある子は早めに起こす、

昼と夜とをとりちがえたみたいな子は日中に長く眠らせないなど。</span>


次に、夜の熟睡を妨げそうな原因をチェックします。


<span class="b">部屋とふとんの中の温度（暑さ、寒さ）、

おむつと着物（窮屈さ、しわ、着せすぎ）、

ベッド（よく動く子だと狭くて苦しい）、

姿勢（うつぶせ寝がよい子もいる）、

かゆみ（湿疹、あせも）、痛み（おむつかぶれ）など。</span>


これらのことをひととおりやってみても夜泣きがおさまらなければ、そういう子として覚悟をきめて対応するしかありません。


寝かせる場所は、できるだけ親のそばに。<span class="b blue">いちばんいいのは同じ寝床に添い寝することです。</span>

これだと、ぐずりはじめたときに、機を失うことなくなだめることができます。

なかには、抱いて歩きまわったり、戸外に出ないと泣きやまない子もいます。

そのときも早く寝かせようとあせらないことです。


ようやく眠った子をベッドにもどすときも、あせりは禁物。

すやすやと寝息をたてていても、すぐには降ろさず、からだがほぐれてずっしりと重い感じになってから、抱いたままベッドに寝こむようにします。

そして赤ちゃんが落ちついてからそっと腕を抜くようにすれば、再び泣き出されることは少ないでしょう。


<h3>抱きぐせについて</h3>


赤ちゃんが定まらぬ目で親を追い、クスンクスンと鼻をならし、手足を踊らせて抱っこを要求したときには、できるだけこたえてやるべきです。

すぐには応じられない場合には、<span class="b green">「ちょっと待ってね」</span>と声をかけ、間があきすぎてしまったら

<span class="b green">「ごめん、ごめん」</span>と念入りに抱きしめてやったらどうでしょう。


しょっちゅう抱いているとくせになるからとか、甘やかして自立心の成長を妨げたくないといった理由で抱かずにいるのはどんなものか。

親を求めているときに抱いてもらわなければ寂しいでしょうし、デリケートな子やエネルギーの強い子は、不安で落ちつきを保ちにくいでしょう。

赤ちゃんには自然な情のままにかまってやり、ひとへの信頼をもってもらうことが大切です。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 20 Jan 2009 13:10:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の寝かしつけ方と気をつける点</title>
         <description><![CDATA[赤ちゃんの安らかな眠りは、あわただしい育児のなかのひとときのやすらぎ。

たまった家事や用事を片づけたり、夫婦の語らいをするチャンスも、このときを逃すとなかなかみつかりそうもありません。


<span class="b f11em">でも、だからといって、親の都合で一方的に眠らせようとするのはどうかと思います。</span>

赤ちゃんには、その子なりの生活のリズムがありますし、成長につれて変わってもきます。

眠くもないのにベッドに入れられ、抗議の声をあげても無視されたら、怒ってしまうでしょう。


そもそも親と子は共同生活者、子どもだけを別に、早く寝かせようとするには無理があるのです。

たとえ、そのときはあきらめて眠ったとしても、行きあたりばったりな寝かしつけは、

<span class="b red">生活のリズムを乱して、乳の飲み方を悪くしたり、ぐずりをもたらす可能性があります。</span>


では、赤ちゃんに眠ってほしいと思ったらどうすればいいでしょうか。


<span class="b blue">それは心底から「頼んで」みることです。</span>

まだわからないからと、さっさと床に入れてしまうのでなく、「用事があるからね、寝ていてね」とほおずりでもして、しばらく傍らにいてから離れるのです。

それでもぐずられたら、あきらめるか、どうしても手をかけられないときには、そのまま放っておくのもやむをえません。

でも心底頼んでおけば、情緒は安定するのではないでしょうか。


眠る時間も、本に書いてあるような、なんヶ月の子はなん時間眠らなければならないといった「標準」にこだわる必要はありません。

あれはあくまで目安、平均の話にすぎません。

赤ちゃんによって、また家庭の生活様式によってちがうのがふつうですから、ようするに、赤ちゃんの好きにまかせておけばよいのです。

<span class="b blue">すくなくても目覚めた時にきげんがよければ、眠りは足りていると思っていいでしょう。</span>


ぐずぐずと眠そうなのに寝つかれないようすがあれば、なにより安心させてやること。

そのためには<span class="b blue">とにかく抱いてやる</span>ことです。

そして、うんとスローなテンポでゆすってやったらどうでしょう。

そうすれば自然にそれにあわせて語りかけたり、歌ってやることになるはずです。

静かになってもすぐに降ろすのではなく、しばらく抱きつづけてからそっとベッドに降ろすこと。


赤ちゃんを寝かしつけるときに大切なのは、それを<span class="b red">形式化しない</span>ことです。

いくら忙しくても、寝かしつけるときはやさしさをこめてやるべきです。


<h3>うつぶせ寝</h3>


赤ちゃんの寝かせかたや抱きかたは、たぶんに民族の風習です。

アメリカ人はうつぶせ寝をさせることが多いようですが、無理にまねをする必要はありません。

よくいわれるようなうつぶせにすれば頭の形が良くなるという根拠もなさそうです。

赤ちゃんによっては、あおむけだと寝つきにくく、うつぶせにしたほうが安定する子がいるかもしれません。

そのばあいはやむをえませんが、うつぶせ寝だと<span class="b red">窒息</span>や<span class="b red">突然死</span>の危険があるので、敷きふとんはかたく、必ず誰かがそばにいるようにしてください。


<h3>添い寝</h3>


赤ちゃんを親のふとんの中に入れるか、ふとんを並べて寝かせる添い寝は、日本人の感情と生活様式に根ざした昔からの風習。

そばに寝かしておけば赤ちゃんを見つめ愛撫することができるし、眠っているあいだに赤ちゃんになにかあっても気づきやすい。

また、赤ちゃんがぐずりだしたとき、タイミングよくかまってやれるのもいいところです。

これは現代に生かしておいてよい伝統ではないでしょうか。

ただ、乳房をふくませながら眠ってしまうと窒息させる危険があるので、疲れているときは避けること。

添い寝させると眠れないとか、ベッドでスペースがないときでも、せめて同室には寝かせてほしい。


<h3>寝室のレイアウト</h3>


赤ちゃんができると、空間、とくに寝室をどうするかが問題になってきます。

生まれたてのころは、大切に専用のベッドに寝かせておくのが普通でしょうが、それにしてもそのベッドをどこに置くかは、なかなかの問題。

オール母乳なら母親のそばにかぎるにしても、二人の床に添えるか、母子だけ別に寝るかについては、夫と妻子とのスタンスの取り方もかなりかかわってくるのではないでしょうか。

ミルクばかりの場合には、どちらが授乳するかによって位置がきまってくるはず。


添い寝のばあいだと、夫婦のベッドのどこに寝かせるかが問題。

どちらかの端に置くのは赤ちゃんを落とす危険があります。

そうかといって、夫婦の間にはさむのも、よほどひろいベッドでないかぎり、窮屈で二人ともゆったり眠れなくなるかも。

この点、日本式のふとんか洋式のマットだけにすれば楽ですが、どうしてもベッドがよいのなら、父親だけ降りるか、母子が別の床をつくるか、子どもだけ離して寝かせるか、いろんなバリエーションを工夫するほかないでしょう。


<h3>赤ちゃんを長時間ひとりにしない</h3>


ごくごくまれなことですが、なんにも異常のなかった赤ちゃんが、ふと見たら死んでいたということがあります。

原因はわかっていませんが、<span class="underline">赤ちゃんを長いあいだひとりにしておいたときによくおきています。</span>


<span class="b f11em">ですから、赤ちゃんを長時間ひとりにしておくことは絶対してはなりません。

夜はおとなのそばか、せめて同じ部屋で寝かせるようにしましょう。</span>


「突然死」といってもあっという間に死んでしまうのではなく、

<span class="b">たいていうなったり、吐いたり、ひきつけたり</span>といった苦しむ時間があるので、そばにいればその気配を察することができます。

赤ちゃんが眠っているあいだは、ときどきようすをうかがい、ふとんが顔にかぶさっていないかに気をつけ、うつぶせ寝のばあいは敷きふとんをかたくしましょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 18 Jan 2009 06:41:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ミルクで育てる</title>
         <description><![CDATA[どうしても乳房がよく張ってこず、赤ちゃんが始終泣きづめるようになったら、ミルクに切り替えるのもやむを得ません。

そのさい、母乳でないと病気への抵抗力が弱くなるとか、アレルギー体質になるとか、栄養と発育に偏りがおきやすいといった意見が気になるでしょう。

確かに栄養と免疫の点で母乳が優れているのは事実ですが、それも初乳、せいぜい一カ月くらいまでに強調されることです。


<span class="b f11em">大切なのは、母乳かミルクかよりも、母と子の双方に無理ながんばりを強いないこと。</span>

赤ちゃんを育てるのは日々の暮らしですから、母親が自分で選択を迫られていったん決断したら、あとはあっけらかんとミルクを与え始めるにかぎります。

子どもにわるいとか、だめな母親などと思いわずらうことなどまったくありません。

<span class="b blue">なんといっても、ミルクで育てる最大のメリットは父親にもやれるという点でしょう。</span>

子育てにこれを生かさない手はありません。

哺乳瓶で授乳するときでも、赤ちゃんの息づかいは十分肌で感じることができますから、父親にもミルクをやってもらって、日頃一歩ひいている感のある男親を育児へと誘ってみたらどうでしょう。


ミルクを使うときには、どうしても数字にとらわれてしまいがちです。

ミルクの缶には一回の量と一日の回数の目安が書いてありますし、母乳とちがってミルクの場合は飲んだ量がはっきりわかるからです。


ここがむつかしいところだけれど、まずまず母乳と同じように好きなだけ飲ませていて大丈夫なのではないでしょうか。

飲みの悪い子だと心配になりますが、顔色も元気も良くて最低限の発育さえ確保していれば、あせらずにようすをみることです。

逆に、あんまり飲みすぎとか太りすぎと思われたらセーブしたくなるでしょうが、少々飲みすぎてもまあ大丈夫。

二、三カ月たつうちに大半が落ち着きます。

せめて一日一リットル、一回200ccをこえなければよいでしょう。

飲むのが少なくても、きげんがよく、体重が最低線を維持していれば気にしないことです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 16 Jan 2009 01:48:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの病気とどう付き合えばよいか？どう判断すればよいのか</title>
         <description><![CDATA[<h3>元気と機嫌をみる</h3>


育児はたいへん手間のかかるものですが、それでも病気することさえなければ、どれほど楽になることか。

熱をだしたり下痢をしたりするたびに、親は動転してすぐにでも医者につれていこうとします。

でもいまは、急な病気で一晩で死んでしまうとか、二、三日ようすを見たために手おくれになるようなことは、まずないと考えていいでしょう。

子どもが急に病気になったとしても、あまりあせらず、じっくりと病状をみてほしいのです。


そのためには、年齢のいかんにかかわらず、子どものようすをよく見てください。


<span class="b f11em">まず、元気があるかどうか。</span>

赤ん坊ならおっぱいを飲まないとか、幼児ならグターッとしているとか、

そんな<span class="b red">「これは」</span>といったようすがなければ、まずたいしたことはありません。

また、多少元気がなくても、話しかけたりあやせば笑い、きげんがいい、というのであれば心配はいりません。


<span class="b f11em">次には、きげんのぐあい。</span>

やけにグズったり、メソメソしたり、やたら怒りっぽいとか、赤ん坊ならいつまでたっても泣きやまない　−　そういうときは、医者に診せたほうがいいでしょう。

でも、本当に急を要する事態のときは、真っ青になってもうろうとしたり、意識がないとか、引きつけているとか、とにかく尋常でないようすが現れますから、たとえシロウトでも、はっきりわかるものです。

子どもは全身で反応しますから、そういう極端な状態でなければ、多少熱や咳がひどくても、元気やきげんがよい、またはまあまあなら、

半日や一日ぐらい、医者に行かずにようすをみても大丈夫でしょう。


<span class="b f11em">第三に、経過をみること。</span>

半日から一日見ていれば、急を要する病気なら、みるみる元気がなくなったり、きげんがわるくなって、これはという状態が出てくるからです。


<span class="b f11em">ほかに、その子の病気の癖を考えることも大切。</span>

ちょっとしたことで高熱を出したり、ひきつけを起こす子は、少し早めに手当を加えたほうがいいでしょう。

逆に、医者が大丈夫だといっても、親から見てこれはという感じのときは、思いきって医者を変える勇気と決断が必要です。

自分の感覚とか判断を大事にしなければなりません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 14 Jan 2009 07:16:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>おっぱいの上げ方</title>
         <description><![CDATA[

<h3>あせらず、自然体で</h3>


クスンクスンとぐずりはじめた赤ちゃんに、張りつめた乳房をあてがうと、むしゃぶりついて飲みはしてしまう。

そのときほど母親になったよろこびを実感することはないのではないでしょうか。

おっぱいをふくませるというのは、ただ育てるための栄養を与えるという行為ではありません。

母親と赤ちゃんの人間的な交渉として、たがいを探り合うという面が多分にあるものです。

ですから、うまく授乳できるだろうか、という不安はだれもがもたざるをえないでしょう。

理想どおりに飲ませようと気負えば気負うほど、かえってぎこちなくなってしまうよう。

型どおりの授乳法にとらわれず、自分にとって楽なやりかたを工夫してゆくようにしたいものです。

飲む間隔にしても、飲む量にしても、赤ちゃんによってじっにさまざまですから、だれもが同じようにはいきません。

だから、よその子とくらべて同じように飲まなくても気にすることはありません。

おっぱいがよく出ないばあいは不安になるでしょうが、産後一カ月くらいは調子に乗らないのがむしろ普通。

赤ちゃんが泣いたときに根気よくふくませていれば、たいていは、しだいによく出るようになるはずです。

逆に、乳房はよく張るけれど赤ちゃんがほとんど飲んでくれない、ようやく吸いついても、すぐ寝入ってしまう、といったときにも、じっと待つことが求められます。

時間がきたからといって無理におこして、乳首をふくませようとしても、<span class="b red">だめ、</span>かえっていらだちが増すばかりでしょう。

そんなときは、じっと赤ちゃんの寝顔に語りかけ、そっと抱くだけにしてください。

こだわりがすっと薄らいでゆくことでしょう。


授乳にあたっては、楽な姿勢でやるのがいちばん。

いつもきちんとしようと努めるより、疲れていれば寝ころび、興が向けばテレビや本を見ながらのほうがずっと気持ちよく飲ませられるにちがいありません。

そうしながらでも、赤ちゃんが飲みやすいように、そして苦しくならないように気をつけていれば、それでいいはずです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 13 Jan 2009 22:40:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>母（父）子家庭 子育てについて</title>
         <description><![CDATA[現代では、シングル・マザーとかシングル・パパとかが珍しくはなくなりましたが、

こと子どもをめぐる「家庭のあり方」となると、まだ、両親そろったケース、それも両親が仲むつまじく暮らしているケースだけが取り上げられる傾向にあるようです。

いうまでもなく、父母であることと、夫婦であることは、つねに両立するとはかぎりません。

いくらいっしょにいても、不仲で修復の望みさえないばあいには、子どもは同時に両親に甘えることはできません。

また、子どものためだけに無理に仲むつまじく装っていくのも、果たしてどんなものか。
たがいに消耗が耐えがたいほどなら、むしろ別れたほうが新しい展望が開けるのではないでしょうか。

そのさいには、世間体や経済上の制約がのしかかってくるでしょうが、それは一生にかかわる問題として勇気をもって決断されてよいことです。


しかし、子をもうけた男女が別れるのはすごく大変なこと。

どうしても情が残るでしょうし、子どもへの愛着もあって、とてもかんたんに清算できそうにありません。

まして、子どもにとって父母は、自分をこの世にもたらした人。

成長につれて、自分はだれの子か確かめたくなり、実の親を知らなければ調べてみたくもなるものです。

<span class="b f11em">この宿命を、親は重く受け止めておかねばならぬでしょう。</span>


別れた相手のことを子どもがたずねてきたら、その場にふさわしいかたちで、はっきりと教えてやるべきだと思います。

また、別れた相手と会わせるかどうかは、子どもと自分と相手の三者がその必要を感じたら、会わせるのがよいと思います。

そのさい、ある程度のとりきめはかわしておくべきですが。


<h3>人情の中で育てる</h3>


さまざまな事情から母（父）子家庭になったばあいも、世間の目などひとつも気にすることはありません。

自分でそういう生き方を選んだか、そういう運命になったので、いまはひたすらその道を歩むほかはないのです。


<span class="b f11em">むしろ、夫がいない分だけ、わずらわされずにしっかりと育児ができたり、

妻がいないために普通の男より生活力がついて、子どもから愛着と尊敬を受けられるくらいに思って、おおらかにやってほしい。</span>


子どもがかわいそうだとか、不欄などと考える必要はありません。

家族にもいろいろなタイプと内実があって、母（父）子家庭もそのひとつ、子どもはそうした暮らしをともにする仲間になってもらったらよいのです。

母（父）子だけだと、なにかとピンチに弱いこともありますから、公的援助はもちろん、友だちや近所のひとたちの力を借り、つき合いを広くもって、その人情の中で親子が生きるようにしたらいいでしょう。

ただ、まわりからの援助は気持ちよく受けるとしても、それに甘えないようにはしたいものです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 11 Jan 2009 19:20:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「次の子」が出来た時の不安</title>
         <description><![CDATA[

<h3>一人目とはまたちがった感慨</h3>


二人目の子をいつつくるかはそれぞれの夫婦の人生設計によりますが、一人目を宿したときとは異なった感慨を覚えるのではないでしょうか。

一人でも手に余るほど忙しいのに、二人の面倒をみるなんて想像するだけで目がまわりそう。

そのうえ、お金の問題から住宅事情、仕事との兼ね合いまで、現実はなかなか厳しそうです。


共働きの家庭では、ようやく仕事にもどれるようになったのに、すくなくとも女性は、再び仕事を休まねばならないのです。


<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="子育ての不安" />
</span><span class="b green">一人目との関係も大いに気になるはず。

はたして次の子も同じようにかわいがれるだろうか。

上になる子に手が十分かけられなくなるけれど、大丈夫かしら、なんだかかわいそう。</span><br /><br />


そんな心配を、どの親も大なり小なり持つようです。

ひとりっ子より兄弟がいるほうが幸せだろうか、間隔は何年くらい離れるのが理想的かといった迷いも生じてきます。


こうしたさまざまなことは、現在避妊をしている夫婦にも、常に突きつけ続けられている難問であるでしょう。

産後四十日もすれば、生理はなくとも、妊娠の可能性はあるのですから。

「次の子」への対応は、まずは夫婦と第一子とで共有したい。

産むのならば、それぞれの人生設計をあらためて了解し合い、三人で誕生を待つようにするのがよいと思います。


母親が妊娠すると、幼い子でも敏感に察知するし、親もかまえがちになるので、早く話してやり、大きくなったおなかを大切にする約束などをして、たがいにいらだたない工夫をしてほしい。

父親ができるだけかまってやるようにすれば、母親を奪われる不安を静めることができるでしょう。


たとえば、定期の健康診断にいっしょに連れて行くと、産院になじめてよさそう。

いざ出産のときは、父親または祖父母ら、なじんだひととともに母親の傍らに寄れれば、ずいぶんと安心するかと思います。

「次の子」はできてしまえば十分にかわいいし、男でも女でも変わらぬもの、「上の子」も程なく落ち着くことでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 08 Jan 2009 17:00:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子持ちのつき合いを積極的に</title>
         <description><![CDATA[子持ちになると、なにかファミリーのようなまとまりができて、他人には以前とはちがった雰囲気を感じさせるのかもしれません。

まだ子どものいない友だちはちょっと入り込みにくい感じだし、すでに子どもがある友だちも、事情がわかるだけにへんに遠慮したり、

子どもを介したつき合いにかたよりがちになるのではないでしょうか。


でも、子どもができたためにこれまでのつき合いがうすまるとすれば、やはり寂しいことです。

親子三人での暮らしがいくら楽しいといっても、社会からしだいに閉ざされていったのでは、やがて物足りなさを感じることは目に見えています。

とくに毎日ひとりきりで家に閉じこもって育児をするお母さんの場合は、世間から取り残されてしまったような気持ちになってしまうかもしれません。

こんな状態は、おそらく赤ちゃんにとっても好ましくないだろうと思います。


<span class="b f11em">赤ちゃんは母親と父親だけで育てられるものではありません。

親以外の人とも接し、ときには親から離れて世の情けを知ることも大切なのです。</span>


そうしてこそ、<span class="b f11em">「社会性」</span>といわれるものが身につくし、独立心も鍛えられるはずだからです。


つき合いが狭いと、じっさいの生活でもいろいろと困ることがおこります。

なにかのときに赤ちゃんの世話を頼めるひとがいなかったり、相談にのってくれる相手がみつからなかったりすれば、途方に暮れてしまうでしょう。

だとすれば、なるたけ積極的につき合いを広げるように心がけるのがよさそうです。

近所に住む同じような年ごろの子をもつひとに声をかけて親しくするのもいいでしょう。
昔の友人に久しぶりに声をかけるのもわるくないのでは？


また、子どもを預けて趣味のサークルなどに顔を出すのも友だちづくりにはいいかもしれません。

いずれにせよ、ある時期からは赤ちゃんを通りこした自分たちどうしの友人関係をつくるように努めだしたほうが、かかわりかたが狭くならないでいいと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 02:17:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>夫婦関係が問われる時</title>
         <description><![CDATA[赤ちゃんが生まれてからしばらくは、ばたばたとした子育ての日常に追われ、夫と妻は「親」を自覚することに精一杯、愛情の軸も赤ちゃんに強く焦点を結んでいます。

しかし、やがて子持ちの暮らしにも慣れ、赤ちゃんもしっかりしてくると、おたがい、自分の人生に対する意志が再びめばえてくるはずです。

ただ、その意志は二人だけのときとは異なったものにならざるをえません。

<span class="b f11em">なぜなら、赤ちゃんを中にはさんで、それぞれがどう向き合うかという点で、異なる性向があらわれてくるからです。</span>

そこには、男と女の生来の差もあるでしょうし、それぞれの気質と育ちも大いに関係するでしょう。

「男は外で働き、女は家を守るもの」という通念に知らず知らずひきずられているかもしれません。


ここで、夫と妻が家族のありかたをきちんと話し合っておくことが、二人だけでなく、赤ちやんの将来のためにも大切なのではないかと思います。

絶え間ない日々の育児の中で感じるおたがいの不満は、たとえいまは些細なことでも、意外と大きな問題の芽をはらんでいるものです。


妻の<span class="b green">「勝手すぎる」「自分ばかり損をしている」</span>という不満も、夫の「なっていない」「かまってくれない」という思いも、どちらもいいかげんにはすませておけません。

これらは赤ちゃんをはさんで、二人の愛情の軸がずれはじめた兆しなのかもしれません。

その元凶がもし社会通念にもあるとすれば、それに対してもとことん議論しておく必要がありそうです。

育てかたについての意見のちがいはあるのに、一方だけに強制したり、まかせてしまったりするのでは、他方のいいところが生かせなくなるでしょう。


<span class="b blue f11em">育児は夫婦で分かち持つのが原則。</span>

かならずしも形の上での平等でなくとも、両方が心と生活の中に子どもをきちんと組み込んでいればよいのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 04 Jan 2009 06:58:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てに関して、祖父母とどう付き合うか</title>
         <description><![CDATA[子どもが生まれると、その世話をめぐっておじいちゃん、おばあちゃんと若夫婦との間できわどい人間模様が展開されることでしょう。

じっさい、若夫婦と祖父母が子育てで対立するケースは少なくないようです。


おじいちゃん、おばあちゃんにしてみれば、孫がかわいくてしかたがない。

しかも、わが子の性格が子育てに反映し、孫にもその欠点や美点が受け継がれていくのを客観的に見ていると、若夫婦の育て方に対して思い入れも深くなるし、口出しもしたくなるというものです。

反面、義理の息子や娘に対する遠慮も当然あります。

そこに<span class="b red">ジレンマ</span>が生じるわけです。


反対に若夫婦の側からすれば、祖父母が孫を甘やかしたり、いちいち干渉するのをうとましく感じることもあるでしょう。


だから、若夫婦は祖父母に対して、思い切ってフランクにつきあうほうがいいと思います。

自分たちが育児にはりきっていて、自信もあるのなら、「思うようにやらせて」と宣言してしまったほうが、すっきりします。


ただ、その場合でも、祖父母の孫への愛着を粗末にしないように。

逆に、祖父母から育児の経験を聞きたいというのであれば、率直に頼んでみることです。

あまりかまえないで、先輩後輩くらいの感じでつきあったらどうでしょう。

もし、育児の方法をめぐってトラブルがおきたときは、それが子どもにどれほどの差をもたらすかをまず考えてみてください。

「靴下をはかせるか、はかせないか」とか「服をもう一枚着せるか、着せないか」などは、どちらかが妥協すればすむことです。

にもかかわらず、どちらもあとに引けないというなら、これはもう衣服の問題ではありません。

なにかほかの感情がうずまいているにちがいないのです。


それぞれの暮らしをかき乱すようなことになっては困りますが、生き方の根本の部分でたがいに節度を守るようにして、おじいちゃん、おばあちゃんには、若夫婦もおおいに甘えてもいいのではないでしょうか。

それぞれの思いが重なり合う中で、子どもは成長していくのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 01 Jan 2009 10:59:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親父のスタンス</title>
         <description><![CDATA[子育てでは、父親というのはどうも割が悪い、自分だけ取り残されたような感じがすることが多いと感じているでしょう。

それはそのはずで、そもそも子を宿すのは女性、男ははたから見聞きするほかありません。

生まれるときも、たいていは産院の廊下、タイミングが悪いとあとからあたふたと駆けつける始末です。


生まれてからにしても、ハンディは決定的。

なにより男にはふくよかなおっぱいがありません。

いくら女に負けない育児をしたいと思っても、乳房をふくませている姿を見せつけられてはお手上げ。

母子の間には割り込めないみたいな気分になるのも無理はありません。

まして、男が<span class="b green">「おれは稼ぐ、育児はおまえにまかせる」</span>というスタンスをとった場合には、ますます母子から浮き上がらざるをえないでしょう。

気まぐれに子どもの相手になることはできても、ひとたび世話が必要となれば、たとえちょっとしたことでも、母と子のむつみ合いからはずされてしまうにちがいないのです。

それでよいのだ、男は寂しくても家族を養い、妻を精神的にリードするのが務めなのだという考えがあるかもしれません。


世間には、父親は大局的なところで子に感化を与えるべきだという意見が強いようです。
しかし、それでは子どもとのこまごまとした、しかし懐深いところでの接触は少なくなるにちがいありません。

そして、父と子との人格的な交渉も上滑りになってしまいそうです。

たとえ男性が社会的に広い視野を持っているとしても、生活のすみずみで発揮されなければ、子どもにはとどきにくい。

妻を介してといっても、<span class="b red">子の世話の機微を知らなければ、説得力に欠ける</span>と覚悟しなければなりません。

それに、このようにしていたら、せっかく子どもを持った楽しみも満喫できないのではないでしょうか。


男だって、わが子のかゆいところまで手を差し伸べてやりたい気持ちはあるのに、そこをパスしてしまうのですから、親冥利を十分に味わえそうにありません。


父親も断然子どもに肉薄するスタンスをとるべきだと思います。

少々の照れや面倒くささは乗り越えて母親と同じ世話をすれば、きっと確かな手応えをえられるでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 29 Dec 2008 11:15:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てに疲れたと感じたら</title>
         <description><![CDATA[<h3>育児の分担は半々に</h3>


赤ちゃんや幼い子をもつお母さんがいらいらやからだの不調をうったえるケースでは、

ちょっと家事の手をやすめ、子どもから離れればよくなると思うのに、なかなかそれができないというひとがたくさんいます。

夜は帰りがおそい夫につき合い、朝は明け方から目をさます子どもの面倒でくたくたになっているお母さんの悲鳴もよく聞きます。


こうした状態は、お母さん自身はもちろん、子どもにとってもよいことではありません。
私さえ我慢してがんばれば、といった気持ちで乗りきろうとするのには、どうも無理があるような気がします。


もともと子どもを育てるのはたいへんですし、少々のピンチや苦労は親をきたえてくれるでしょうが、

お母さんだけがそれを全部背負って「犠牲」になっているというのでは、どこかにその不満のはけぐちが出てくるにちがいないと思うのです。


<span class="b f11em">やはり、育児には男性の協力が必要です。</span>

それも、手伝いという程度ではなく、いっしょに育てるという気がまえでなければだめでしょう。

もちろん、仕事の事情は考慮されなければなりませんが…。


ぼくの知り合いの夫婦でも、

夜中に子どもに泣かれたときには交代で起きる、

奥さんが病気になったら夫が家と子どもの面倒をひきうける、

といったひとたちが増えてきました。


また、ピンチのときに手伝ってもらえる近所のひととか友だちをもっていることは、とても心づよいことです。

世間とのつき合いが疎遠になりがちな若いカップルは、そうしたつきあいを大切にし、自分たちにあったやりかたでつくっていったらどうでしょう。

<span class="b blue f11em">それは、同時に、子どもの世界をひろげることにもつながるはずです。</span>


<h3>ときには気晴らしも必要</h3>


どんなに子育てに自信のある人でも、ときには<span class="b green">「もういや」「できない」</span>といった気分に襲われ、「ダメな親」と自分を責めさいなむことがあるでしょう。


このような状態では、だれだっていらいらしたり、落ち込んだり、なにをするのもおっくうになったりしても不思議はないと思います。

よく、わけがわからず涙がこぼれることがあるといいますが、それもこうした辛さのなせるわざなのでしょう。

なのに、少しでも鬱うつとしていると、すぐに<span class="b red">「育児ノイローゼ」</span>とか<span class="b red">「マタニティ・ブルー」</span>といったレッテルがはられるのは心ないこと。

母親自身まで自嘲的にそのようにいわざるをえなくなるのは、いかにも残酷なことだと思います。

でも、それはだれにも大なり小なりあること。

あまり自分を責めすぎないようにするにかぎります。

むしろ、ダメと感じる親のほうが、それだけ育児に対する熱意が高い証拠なのですから、誇りをもっていいくらいなのです。


でも、たぶん落ち込んでいるときというのは、そうたやすく気分が晴れないのも事実。

そんなときはまず、どんなふうにダメなのか、感じているとおりをしゃべってしまうのがいちばんのようです。

ただし、相手はなるべくだまってこちらのいうことを聞いてくれるひとを選ぶこと。

忠告や激励するばかりのタイプは避けたほうが無難です。


また、わが子への<span class="b red">否定的感情</span>は、なにより吐き出してしまうにかぎります。

暗い顔を隠そうとせず、できないことは無理にやろうとしない。

愚痴をこぼしたって、当たり散らしたって、かまわないと思います。

それから、なにもかも忘れて眠るチャンスをひねり出すことや、気晴らしをすることも効果があります。

一日か半日でもいい、夫や実家や友人に子どもを預けて、ぐっすり眠るとか、美容院や映画にでかけたりすると、気がずいぶんと晴れるのではないでしょうか。


早い話が、母親ひとりで全責任を負わず、疲れたら夫をはじめ、祖父母、知人などに子どもを預けて休むことができれば、ずいぶんと楽になるはずです。


母親自身もまわりに気をつかわず、マイペースでやるのがよさそう。

親も子もひとりひとりちがうのですから、よその育児と比較するのはつまりません。

およそ子どもは、相当にでたらめをやっても、なんとか育つものなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 28 Dec 2008 13:56:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の「反抗期」がなければ、それでいいのか</title>
         <description><![CDATA[<span class="b">反抗期は心身の成長の証</span>という意見もあります。

はたしてそうでしょうか。

様々な視点で考えてみましょう。


<h3>子供の反抗期で悩んでいる親へ処方箋</h3>



私は<span class="b green">「本当に反抗期って、なくなってもいいものなの？」</span>とどうしても思ってしまうのです。

「仲よし親子、それでいいのだ」と思いながらも、どうしても私の頭をそんな疑問がよぎってしまいます。

それは、学生たちの姿が精神科やカウンセリングで出会った（いい子）と重なってしまうからです。

最近、診察室に来る子どものなかにも、「反抗期がなかった」「ずっといい子だった」という子が増えた、という話をよく聞きます。


でも、ちょっと考えてください。

彼らは、

<span class="italic">「いまは、家から外に出られない、ダイエットをやめられない、自分の身体を傷つけてしまう」</span>

といった深刻な問題を抱えているからこそ、クリニックまでやってくるわけです。

ずっと（いい子）で親とも仲よしだった子どもが、どうしてそんな泥沼にはまってしまったのでしょう。


ここで、ひとつの例として　「トモコ（仮名）」という子のケースを紹介しながら、この間題を考えてみましょう。


その子、トモコは、地元の中学校に通う3年生でした。

親が言うには、トモコは小さなころから親を困らせたことが一度もなく、自分から進んで宿題もするし家の手伝いもする、だれからもはめられる（いい子）だったとのことです。

「こうしなさい」と親が言うと、「はーい」とすぐに返事をし、「イヤだよ」と反発することはほとんどなかったといいます。

小学校、中学と成績もずっとよく、学校では先生がクラスで、「トモコさんを見習いなさい」といつも言っていたそうです。

周囲の期待通り、トップクラスの成績で中3になったトモコは、クラス替えでいままで出会ったことのなかった同級生グループに出会います。

彼女たちは見た目もとてもおとなっぼく、<span class="b blue">「私はこう思う」「私はこうしたい」と自分の意見をはっきり言うグループ</span>でした。

たとえ相手が先生でも、自分と意見が違っているときは、「それは間違ってると思います」などと言い返します。

もうボーイフレンドがいるという子もいるようでした。

<span class="italic">「昨日、親とケンカしてさ、チョームカついたから彼氏の家にプチ家出してやった」</span>

といった声も聞こえてきます。


親や先生の言うことはなんでもきいてきたトモコにとっては、考えられないことでした。

最初、トモコは、

<span class="italic">「あの人たちって（悪い子）（ダメな子）なんじゃないだろうか、いまに落ちこぼれになるんじゃないか」</span>

と思いました。


しかし、1学期の中間テストでその予想は見事にはずれたことがわかりました。

<span class="b blue">クラスの成績上位者のほとんどは、彼女たちで、「はっきりしたことを言うグループの子」で占められていたのです。</span>


<span class="italic">「あんなに好き勝手して先生にも逆らって遊んでばかりいる（悪い子）なのに、こんなにがんばっている私より成績がいいなんて…」</span>

とトモコはショックを受けました。

1学期が終わり、夏休みがはじまりました。

　ずっと、

<span class="italic">「あの子たちに勝つにはどうしたらいいんだろう」</span>

と考えていたトモコは、

<span class="italic">「夏休みのうちにかっつこいいスタイルになれば、2学期にみんなをびっくりさせられるかも」</span>

とダイエットをはじめることにしました。

最初は親に気づかれないように、おかずやごほんを少し残す方法からはじめましたが、体重が少し減りはじめると、<span class="b green">「もっとやせたい！」</span>と強く思うようになりました。


ある日の夕食のテーブルで、トモコはついに言ったのです。


<span class="italic">「ママ、今日から私、ゴバン食べないからね。

おかずも野菜だけにして」</span>

びっくりした母親は、

<span class="italic">「なに言ってるの？野菜だけじゃ栄養もエネルギーも足りなくて、勉強にも集中できなくなっちゃうじゃない。

だいたいあなた、最近、食欲もないし顔色も悪いわ。

どこか身体の調子がおかしくなってるんじゃない？

明日、ママといっしょに内科の先生のところに行きましょう」</span>

と早口で言いました。

それを聞いているうちに、トモコの頭の中で何かがプツンと音をたててはじけ、頭がまっ白になりました。

それから、トモコは、

<span class="b red">「うるさい、うるさあーい！　何よ、お母さんなんて自分の勝手ぽっかり押しっけて！　
私、これまでずっとガマンして言うこときいてきたけど、もうイヤ！　

絶対にお母さんの言うことなんて、きかないからね！」</span>

と言いました。

トモコは、自分でも驚くほどの大声で、そんなことを叫んでしまっていたのです。

そして、叫びながら、


<span class="italic">「そうか、私っていままでガマンしてきたんだ…。

親の言うことが　”イヤだな””違うな”と思っても、そう口に出さなかっただけだったんだ…」</span>


とはじめて気づきました。

それからトモコは、母親の作った食事にはいっさい手をつけず、わずかなお菓子や水だけを口にして、あとは一日中、自分の部屋に引きこもるようになりました。

母親や父親が部屋に入ろうとすると、<span class="b red f11em">「出ていけ！」</span>と大声をあげます。

親に無理やり連れられてクリニックに来たときは、頬はこけ、太ももや腕が棒のように細くなっており、「拒食症」の状態にあることは間違いないようでした。

母親は、私の前で、


<span class="italic">「先生、トモコはずっと自慢の（いい子）だったんです。

それがあんな怒鳴り声をあげるなんて、信じられません。

お願いです、トモコを昔の（いい子）に戻してください」</span>

と涙をこぼしました。


<span class="b">問題は、トモコが（いい子）じゃなくなってしまったことにあるのでしょうか？

トモコが怒鳴るのをやめ、部屋から出てきてまた元通りに食事をしたり勉強をしたりするようになれば、それですべては解決なのでしょうか。</span>


ここでちょっと注目したいのは、トモコが（いい子）じゃない同級生の行動を見ているうちに、こう気づいたことです。


<span class="b f11em">「私は、これまでずっとがまんしてたのに！」</span>

そう、トモコはただ素直でものわかりのよい（いい子）だったわけではなくて、

どこかで<span class="underline">無理</span>をしながら、親の言うことをなんでもきき、自分から進んで家の手伝いや勉強をする（いい子）だったにすぎないのです。

クラスのあの（いい子）じゃない子たちは、実は本当の（悪い子）ではなくて、（がまんしない子）（自分らしく生きている子）だったのだ…。


そう気づいたときにトモコの心の中で、これまでずっと

「いい子にしなきゃ」と無理をしていい子をしてきた緊張の糸がプツンと切れ、親に対してものすごい反発心や怒りが一気にわいてきたのでしょう。

ですから、無理をしてトモコをいい子にしようとすれば、トモコがまた「がまんする子」「自分を押し殺す子」に戻ることではありません。

それよりもこれからしなければならないことは、トモコがもう緊張して無理をすることなく、たとえ相手が親や先生だとしても、<span class="b blue">言いたいことは言う、したいことはする、と自然に自分らしく振る舞えるようにすることです。</span>

それを、トモコ自身にも、それ以上に親たちにもわかってもらわなけれげならないのです。




<ul class="topics">

<li><a href="http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2007/0912/147034.htm?o=0&p=0" target="_blank">子供を引き取りたい : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE（読売新聞）</a></li>

<li><a href="http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51396382.html" target="_blank">テキストリンク</a></li>

<li><a href="http://www.y-ads.jp/education-at-adolescence/0812281145.html" target="_blank">子供の「反抗期」がなければ、それでいいのか | 思春期の子育て・教育</a></li>

<li><a href="http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51377975.html" target="_blank">おまえら子供殺す母親の気持ちって少しでもわかる？:アルファルファモザイク</a></li>

<li><a href="http://www.might-project.com/education/point/01_01.php" target="_blank">才能開花プロジェクト　まいと｜子供の反抗する原因と対処方法</a></li>

<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070610#p1" target="_blank">また君か。＠d.hatena：最近知り合いの子供に吹き込んだ嘘っぱち</a></li>

<li><a href="http://anond.hatelabo.jp/20090114035316" target="_blank">子供が携帯を欲しいと言い出したら</a></li>

<li><a href="http://www.ohmynews.co.jp/news/20070814/14073" target="_blank">２人の子供が家出し、捜査願いを出した夜 - OhmyNews:オーマイニュース “市民みんなが記者だ”</a></li>

<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20080823/1219439610" target="_blank">「本当に全部ボクが悪い」と自責する子供を健気だと妄想するだけに止まり、条件反射で母親を叩くから虐待の連鎖は止まらない。 - こんぶダイアリー 武藤三法流華睡葬で往きたい人のブ��</a></li>

</ul>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 28 Dec 2008 11:45:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>わが子と自分の両方を大切にする気持ち</title>
         <description><![CDATA[子どもには「つきあいきれない」ところが、たくさんあります。

気が強くて活動的な子どもをもったお母さんなどは、それを身にしみて感じていることでしょう。

片時もじっとしていず、家中をはいずりまわり、ひっくり返して、それをとめれば火のついたような泣声をたてる。

買いものに連れて出れば出たで、親の手をふりきって、どんどん行ってしまう。

お母さんは一目子どものあとを追い、始末をつけるのに精いっぱいです。


かといって、おとなしい子なら楽かというと、そんなことはありません。

お母さんにくっつきっぱなしで、ろくに用事をさせてくれないなどということがおきるでしょう。

ちょっと台所に立っても足元にまとわりつき、そばのいすに座らせるのもだめ、洗たくものを干しに出ようものなら、大泣きに泣く。

これではトイレにもゆっくり入っていられません。


こうした悩みは、子どもをもった以上、避けられません。

幼い子どもをかかえた暮らしというものは、子どもの面倒をどれだけみるか、みきれるかという問いかけに、いちいち答えをだしていかねばならぬ毎日であるでしょう。


相手は生身の人間だし、年が二十以上もちがうのですから、いっしょに暮らすのはたいへんむつかしい。

もちろん、育児の知識や技術で少しはカバーできるでしょうが、とことんまで合わせるというわけにはゆきません。

それでも、親は子どもとなんとかやってゆくほかないのです。


それを世間では　「責任」とか「教育」の問題にしがちですが、

<span class="b f11em">親はもっとなまなましいところで、子供とやってゆくようにしたらどうでしょう？</span>


かわいくてたまらなければ存分に面倒をみてやるし、どうにもつきあいきれなくなったら、多少の勝手はさせてもらうのです。

そのときでも、もちろん子どもの状態をちゃんとつかんで、危険や精神不安の限界ではかまってやるだけの余裕をもたなければなりません。

そのためには、母親がいつも育児の犠牲になっているのでなく、自分の時間と生活をもつということが必要です。

子どもをもった不自由は、このような、自分をも大切にしようとする母親の「子がかわいい」という気持ちによってのみ、乗り切られてゆくのだと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 24 Dec 2008 20:38:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てで一番参考になるもの</title>
         <description><![CDATA[小児科がよく受ける子育ての相談の一つに、

<span class="b green">「いつから離乳食を始めたらよいでしょうか」</span>

とか

<span class="b green">「しつけはいつから始めればよいでしょうか」</span>

といった、長い目でみた子育ての計画をたずねられることが最近多くなっているそうだという。


たしかに、育児にはそうした見通しをもってかかることが必要です。

それに、人間が人間を育てるのですから、理想やスケールの大きなもくろみがあってもよいでしょう。


子育てについて、医者にたずねたり、本を読んだりするのもいいでしょうが、

<span class="b f11em">同じような子をもって悩んでいるお母さんどうしで意見や体験を交換すれば、もっといろいろなことが学べるはず。</span>

そのほうが、より安心できるし、おたがいが育児についての考えを深めることができるようにみえます。


もちろん、離乳食をいつから、どのようにすすめるかなどは、いちおうの医学的な知識がいります。

ですが、実際にやるとなると、子どもや家庭の事情によって一律にはいかないのがあたりまえ。

サラリーマン家庭の主婦と共働きや自営業では同じようにいきませんし、よく食べる子と下痢しやすい子とではとうぜんやりかたがちがいます。

いたずらをどうするかといったことについても、生活は大いに関係します。

家具の少ない持家と調度の多いアパートでは、いたずらへの許容量にも差がでるにちがいありません。

きょうだいや年寄りがいるかいないかでも、お母さんのやりかたはずいぶんちがってくるようです。


子どもにはいろいろな<span class="b f11em">「たち」</span>があり、同じ「しつけ」をしても、ひとりひとり反応がとても異なります。

おとなしくて気の弱い子はちょっと叱っただけでべそをかくでしょうし、活動的で気が強い子は少々どなられても平然としています。


そんなとき、ほんとうに参考になるのは、医者や本からえた知識ではなく、<span class="b blue">いろいろな事情をもったほかのお母さんの体験</span>ではないでしょうか。

育児の計画には、こうしたちがいをもっと取り入れてみたらどうでしょう。

たとえ医者に言われたり、本に書いてあっても、無理なことは

<span class="b green">「そんなのできないわ」</span>でいいのです。

あれこれと思いまどわずに自分のやり方をもつことが、育児を楽しくやる秘訣。

自信をもってマイプラン、マイペースでやってください。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 24 Dec 2008 09:45:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「子どもを育てる」ってどういうこと？</title>
         <description><![CDATA[産院から赤ちゃんを連れてわが家に帰ってきたとき、ほかでもない「わが子」を迎えたという感慨がひしひしと胸に迫ってくるでしょう。

いかにも頼りなげな存在であっても、二人の間にいま一人の「ひと」が「いる」のです。

そのときから、親子三人での新しい暮らしがはじまります。

それは、やれおっぱいだ、おむつだ、おふろだと、おとなとはまったくちがう生活のリズムで日常をかき乱してきます。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　親たちはいやおうなしにその生の営みに巻き込まれていくことになります。

甲高い泣き声をたてていれば真夜中でもおっぱいをふくませなければなりませんし、寝自首たてずに静かにしていれば、寝ているとはわかっていてもそっとのぞかずにはいられないのが親の情です。

おっぱいをやるにしても、育児書のグラビアをかざるようなファンタスティックなものではありません。


<span class="b">親としてこういうわずらわしさになじんでいくためには、いさざよく生活のスタイルを一変させてしまうのがよいかと思います。</span>

二人だけのときのようにスマートにはいかないかもしれませんが、「ごぶつき」の暮らしを新たにつくり出してゆくのもまたおつなもの。

それをきらって、身軽なときのままを守ろうとするほうがかえってみじめさを増しそうです。


赤ちゃんができると、夫は妻をとられたような寂しさや嫉妬を感じたり、妻は、育児に無関心な夫にいらだちや不満をおぼえたりすることがあります。

<span class="b">どうやら、親と赤ちゃんとの新たな関係は、これまでの夫婦の関係を問い直すことにもなりそう。</span>

ここでは、二人の関係を新しく組み換える必要がありそうです。

女のひとは子育て以外の自分があることを忘れないで、男のひとだってわが子はかわいいのだから子育てはするというふうにしたほうが、二人の間はずっと成熟していくのではないでしょうか。

とはいえ、ときにはつらいな、やすみたいなと思うこともあるはず。

<span class="b blue">そんなときは、気張らず、適当にするくらいののんきさをもったほうがよさそうです。</span>

すやすやと眠るわが子をながめながら、二人でお酒を楽しむ、そんなひとときも大切にしたいものです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 20 Dec 2008 10:48:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>思春期はストレスが増加する時期</title>
         <description><![CDATA[保護されている間は自分の家のことだけで良かった子どもの関心が仲間を通して社会へ広がっていきます。

お父さんが最高と思っていた子どもは、だんだん社会的な評価というものがあり、そのなかではうちのお父さんはそれほどでもないと気づいたり、

逆に自分の家の社会的ステータスは高いんだということに気づいたりします。


児童期はどんな会社でもお父さんが社長であれば、それは世界一の社長です。

しかし思春期に入ってきた子どもは小さな家族だけでやっている会社の社長と大企業の社長では社会的評価が全く違うということに気づきます。


<span class="b green">「何だ、社長と言ったっていろいろあるのか。お父さんはちっぽけな社長なんだ」</span>

とか

<span class="b green">「えー、家のお父さん大きな会社の社長なの。お父さんを乗り越えるのは大変だ。僕には無理だよ」</span>

とか事実を知って子どもは様々な反応を示します。


同じように自分に対しても社会的評価というものがあるということに気づいていきます。
学校の成績順位が<span class="b red">子ども達のストレス</span>になってきます。

勉強よりもスポーツや趣味に秀でている子どもは、一番社会的評価が高いものが成績だと知ったときに、強いストレスを感じます。

結局ストレスは子どもの自己評価を下げていってしまいます。

要するに世のなかには自分で思っていたのとは別な評価の仕方があるのだなということを知るようになります。

そのときに自分はそれなりに評価されてしかるべきと考えることのできる子どもはいいのですが、

<span class="b">そうでない子どもは反対に世間の価値観に合わせようとしてストレスを強く感じてしまいます。</span>


世間の価値観と言っても一様ではなく、子どもに大人の社会にもいろいろな考え方があるのだということを教えることが大切になります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 19 Dec 2008 19:48:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>最近は九歳頃から第二次性徴が始まる</title>
         <description><![CDATA[九歳がなぜ一つの発達のターニングポイントと言われるようになったのかを最初に考えてみましょう。

いままでは九歳という年齢は安定した児童期の典型的な年齢と考えられていたのです。


しかし最近の子ども達にとっては必ずしもこの説があたらなくなってきました。

全体に身体成熟が早く、<span class="b">第二次性徴</span>と言われる現象が九歳くらいから始まり出す子ども達が増えているのです。

女の子で言えば、早い子では生理が始まり、いやでも自分が女性であるという性的同一性を求められます。

身体つきも女性らしくふくよかになってきます。

女の子よりいくらか発育は遅れますが、男の子は夢精やマスターベーションの経験がそろそろ始まり出します。

これらは子ども達にとっては強い混乱と不安を引き起こします。


第二次性徴から由来する性の問題はストレートに親にも相談しつらいことです。

一方身体の変化から無性に興奮しやすくなります。

何かとスリルを求めて騒々しくなります。


本来このような思春期の始まりは中学生くらいからだったのですが、最近は成熟が早まり、小学校中高学年からこの思春期の現象を示す子どもが結構増えてきているのです。


危険なのはこのような現象に気がつかずに、それまでと同じく子ども扱いをしていると思春期特有の反抗をもろに受けて親子の関係を複雑にしてしまうのです。

我が子が思春期特有の行動を取るようになったら、年齢に関わらず子ども扱いをやめ一人前の付き合いをする必要があるのです。

児童期から思春期への変化を少し見ていきましょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 22:17:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>望まれる父親と子の関係とは</title>
         <description><![CDATA[最近の父親が、子どもの教育やしつけに及ぼす影響は、ほとんどないに等しいと言えましょう。

それは子どもを権力的な関係のなかで支配していた、かつての「父権」の失墜の反動とも言えるかも知れません。


父親は子どもに対して無力、ないしは、無関心になっています。

しかし権力的であれ無力な父であれ、どちらにしろ父〜子の関係は、支配〜服従という縦の構造であることに変わりはありません。


<span class="b">必要なことは親子の関係を支配〜服従の関係でなく、対等〜協力の関係に変えることであると思います。</span>

そのためのリーダーシップを取ることが、現代の父親に求められていることではないでしょうか。

夫婦や親子のお互いの役割や資質の違いを認め、その上での協力関係を作っていくこと。
このことを父親自らの行動を通して教えることは、子どもを真の意味での民主的な人間に育てることでもあるのです。

そして未来を生きる子ども達にとって、民主的に生きること、

つまり周りの人と対等の立場で協力し合って生きることができるということが、人間として最も大切な能力になると私は考えています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Dec 2008 02:47:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>父親も家庭に参加すべきである</title>
         <description><![CDATA[父親は家庭をいつでも手に入る憩いの場として考えがちな傾向があります。

しかし憩いの場は決して無条件で与えられるものではありません。


<span class="b">父親も憩いの場を作るために、家庭に参加する必要があるのです。</span>

権威を傘に、子ども達を自分の思うままに支配することでなく、また、自分は関係ないと無関心さをさらけ出すことでもなく、

家族のメンバーとしての居場所を確認し、皆が憩えるような協力の場を、父親のリーダーシップで作っていかなければならないのです。

権威主義的な父親は命令を平気でします。

リーダーシップの父親は何かを家族のために提案します。

お互いを尊敬している人間関係では、命令するということはまずありません。

<span class="b blue">提案、話し合いが子どもとの良い関係を作る、一番いい方法なのです。</span>

当然のことながら提案は、場合によっては子ども達に受け入れられないかも知れません。
提案とは相手に断る自由を認めることでもあるからです。

父親の提案が断られたからといって、父親の権威が否定されたわけでもないのです。

受け入れられるように提案を修正するか、次回の機会を待つかを決めればよいのです。


同様に、子どもの提案に父親が<span class="b green">「ノー」</span>と言うこともあるのです。

ただし子どもを納得させる、論理的な「ノー」という理由が必要なだけなのです。

そうであれば子どもも「ノー」と言われたことで、<span class="underline">自分が否定されたのではないことを学びます。</span>


丁寧な子どもとの話し合いが必要になります。お互いが信頼できる父〜子関係でなければならないのです。


<span class="b">注意してほしいのは、信頼とは親の期待通りに子どもがなってくれることではないのです。

子どものありようを、そのまま受け入れることから、子どもへの信頼は始まるのです。</span>

そして普段から子どもとよく付き合い、自分のことをお父さんはよく知ってくれているという気持ちを子どもが持つことが大切なのです。


また子どものことをよく知るためには、父親自身のことも、子どもに知らせなければならないと思います。

かつての父親のように、働く姿を子どもに見せることは難しい時代です。

しかし、仕事について、父の考えについて、子どもと話すことは可能です。

お互いに知り合うことが相互尊敬の基本になるのです。


父親は勇気を出して自分の生き方を子どもに正直に伝えてほしいのです。

うまくいったことも、そうでなかったことも包み隠さず話してほしいのです。

ただし子どもとべたべたし合うことは、尊敬し合うこととは違います。

べたべたした関係は、自立した人間の協力関係でなく、お互いに依存を必要としている、自立することの不安を抱えた関係であることが多いのです。


<h3>子どもは両親の仲から人間関係を学ぶ</h3>


父親が子どもに影響を与えるためには、父〜子の関係だけでなく、父〜母の関係、すなわち<span class="b">夫婦の関係</span>も大切です。

夫婦の結婚生活がうまくいっていないことは、子どもにとっても大きなピンチになります。

夫婦がもめているときは、子どもは手の込んだやり方で親と付き合うようになるものです。

<span class="b">子どもは親のどちらの立場も支持できないものです。</span>

無意識的に問題を起こすことによって、自分に親の関心を引きつけ、夫婦の危機をひとまず延期させる子どももいます。

夫婦がもめているときに、父親は子どもに良い影響を与えることができません。


Ｗさん一七歳。

父五一歳、母四七歳、妹一四歳の四人家族の例です。

Ｗさんは高校に入る頃から何度も何度も手を洗わないと気がすまない洗浄強迫という行為がありました。

彼女が高校に入る頃に、父の女性問題で夫婦の間が険悪になっていたのです。

Ｗさんは、夜、両親の寝室の前を通ったときに、父から離婚という言葉が出ているのを聞いてしまいました。

ひどいショックを受けましたが、それを母親にも言うことができず、一人で悶々と悩んでいました。

そんなとき気がつくと何回も手を洗っている自分がいたのです。

初めは気にしなかった親達も一時間ほど手を洗っている娘を見て心配し出しました。

いくらかの経過があった後に、医者にかかることになりました。

この頃には父も協力的で母と一緒に病院について行ったりしてくれました。

カウンセリングを受けて比較的症状は軽減しました。

すると再び夫婦の仲が険悪になったのです。

Ｗさんの症状もまた悪くなりました。

このような経過が何度か続いたあとで、カウンセラーは<span class="b">家族療法</span>と呼ばれる新しい方法に切り替えました。

家族の協力を作り上げるように面接を工夫したのです。

夫婦の和解が成立した頃から、Ｗさんの洗浄強迫はなくなりました。


<span class="b">子どもは親から最初の人との関係のあり方を学ぶのです。</span>

両親が協力的であれば、<span class="b blue">人と人との関係が協力的</span>であることを学ぶことができます。

反対に両親の関係が対立的、敵対的であれば、<span class="b red">人との関係を対立的、敵対的</span>と考えてしまうでしょう。

夫婦が協力的であることが、子どもを協力的な人間にするもっとも大切なことなのです。-----
EXTENDED BODY:]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 16 Dec 2008 08:21:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>いま求められている父親像とは</title>
         <description><![CDATA[私達は父親という言葉からどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。

年配の大人達は<span class="b">「厳しい」「頑固」「近寄りがたい」「乗り越える壁」「規範」</span>など、

表現は様々ですが、力を持った権威的な存在として、父親を受け入れるにしろ否定するにしろ、思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、最近の子ども達の父親のイメージは違うようです。


子どもと話しているとき、父親のイメージを聞く機会があります。

返ってくる答えは、<span class="b green">「興味ない」「どうでもいい」「よくわかんない」</span>など、

「父親が自分にあまり影響力のない、無関心などうでもよいものである」というイメージです。


Ｍ君、中学二年生。

父親は四六歳のサラリーマンです。母親は四六歳の専業主婦。

私立高校二年のお兄さんと、小学六年の弟の五人家族です。

Ｍ君は学校で何人かの仲間と一人の子どもをむかつくということでいじめました。

学校で強い指導を受け、自分からも希望してカウンセリングを受けました。

<span class="b green">「親父？　よくわかんないや。ほとんど顔を合わせたことないし。

俺に直接は何も言わないよ。

おふくろにごちゃごちゃ言っているみたいだけれど。

親父は仕事のことしか考えてないのではないか。

俺達としたって、まあ、給料さえ持ってきてくれたらいいし」。</span>

カウンセリングをやっている友人から聞くと、Ｍ君は、父親なんかどうでもいいという素振りで話していたそうです。

Ｍ君にとっての父親は、かっての子ども達が感じていた、恐い、「厳父」のようなものから程遠いものになっていました。


もちろん父親にも言い分はあるでしょう。

<span class="b green">「厳しいリストラのなかで、会社で一生懸命がんばっている。家にいるときぐらいのんびりと憩いたい。子育てや家のことまでやらなければならないなんて」</span>と。

結局父親は家庭のなかでの尊敬を失い、また自らも影響力を維持することをやめ「厳父」から「ただの人」になっているのが現状ではないでしょうか。


しかし、正確には「ただの人」でなく、現代の父親は<span class="b red">「ただの人以下」</span>になっていないでしょうか。


「ただの人以下」の父親は、子どもの人格形成にどのような影響を与えるのでしよう。

父親が教育や子育てに参加しないことは、権威的な、ないしは権力的な親がかつて問題であったのと同じくらいに、<span class="b red">子どもにマイナスの影響</span>を与えているのではないでしょうか。


<span class="b">結論を先取りすれば、現代の父親の課題は家庭のなかに、かつてのような権力的な父親の権威を取り戻すことではないと思います。</span>

かと言って子どもを甘やかし、影響力をほとんど持たない無関心な父撃あってもならないと思います。

第三の父親の姿、本当の意味での「ただの人」の父親とは何か、考えてみましょう。


<h3>権威ある父親像の失墜</h3>


父親には力があるもの、権威があるもの、支配するものというイメージがつきまとってきました。

またこれはかつての男性につけられていたイメージでもあったのです。

このようなイメージは農業や家内工業を中心とした共同体社会のなかで作られてきたものでもあったのです。


ドイツの精神分析学者であるミッチャーリッヒは、著書『父なき社会』のなかで、

<span class="underline">子どもは父の働く姿を直接見ることから、自己形成や生きる知恵を学びとった</span>と論じています。

このような父親像は、家父長制度が維持できた、わが国で言えば戦前までの社会で、その善悪は別にしてもそのなかで初めて可能であったものです。


戦後の工業化、都市化の急激な波は、この父親像を明らかに衰退させました。

私達の親の世代は、第二次世界大戦の敗北で、権力的な「父権」を放棄せざるをえなかったのです。

「父権」は戦後の民主的な価値観を受け入れるなかで、その権威を失っていったのです。

サラリーマン化した都市では、父親が働く姿を子どもに見せる機会はほとんどなくなりました。

家での父親はリーダーシップさえ放棄した、無力な姿をさらすことになったのです。

子どもにとって、父親のそのような姿から、威厳や規範を学ぶことは難しいのです。

かつての子ども達には乗り越えるべき壁としての父親が存在していました。

子ども達はこのような父親を意識的にも無意識的にも<span class="b">「規範」</span>として一つの基準にしてきていたのです。

しかし現代の父親は、かつての権力的に子どもを支配する父親ではなくなりました。

<span class="b">子どもにとっては乗り越えるべき父親が不在になったのです。</span>


戦前の強い「父権」主義から、その反動としてか、戦後の父親は、家庭の問題に父親みずからがリーダーシップを取ることが少なくなりました。

かつての「厳父」は、最近では「給料運搬人」とか「粗大ごみ」と揶揄されている始末です。


不登校児Ｓ君のことです。

中学一年のＳ君は四四歳になる父と三八歳の母の三人暮らしでした。

Ｓ君は二学期の初めから不登校を始めました。

母は強く登校を勧めましたが、Ｓ君は登校しなかったのです。

父は会社の仕事で一か月ほど外国に出張していました。

九月の終わりに父が帰ってきたときには、Ｓ君は完全な不登校になっていました。


母は父にＳ君の様子を話しました。

父は自分が学校に行くように言うから呼んできなさいと言いました。

学校に行かないことで、Ｓ君を強く叱りました。

明日から学校に行くという約束を、父はＳ君に強要しました。

Ｓ君はしぶしぶ承知しました。

父は母にＳ君が学校に行くと約束したことを伝え、しっかり子育てをしてくれなければ困ると不満を言いました。

次の日、父は朝早く会社に出勤しました。

しかしＳ君は父との約束に反して、登校時間になっても起きてきませんでした。

結局、その日も彼は学校へ行かなかったのです。

遅く帰ってきた父に、母はＳ君が登校しなかったことを伝えました。

これからどうしたらいいか相談しようとしました。

<span class="b">父は急に不機嫌になりました。</span>

教育は母に任せてあるのだから、母がどうにかしてほしいと父は言いました。

家に帰ってきてまで家族のことで心配かけないでほしいと不満を言ったのです。


この父親は、どこにでもいるありふれた父親です。特別に家族に無関心というわけでもないのです。

子どもと接触することも少なく、また関心の大部分が仕事にあったのは事実ですが。

ある日、父親は急に子どもの問題に直面させられ<span class="b red">狼狽</span>したのでした。

自分が無力であるということを、父親は改めて知らされました。

自分の無力さへのいらだちが、怒りとなって母親に向けられたのだと思われます。

怒りを向けられた母親は、家庭の重大時に協力してくれない父親に失望しあきらめていかざるを得ませんでした。


<h3>父親の無力化が子どもどのような影響を及ぼすのか</h3>


父親の無力化は、いろいろな影響を子どもに及ぼします。

特に子どもの成長への影響は無視できません。

また家族各々の関係の持ち方をも変えることになります。

夫婦の関係の希薄さに逆比例して、母と子の関係が密着していきます。

精神分析によれば、<span class="b">子どもの倫理観の形成には、父親の権威像が必要である</span>と言われています。

いわゆるエディプス・コンプレックス説です。


フロイトは幼い男児が母親に性的関心を向けるが、父親による去勢を恐れ、心理的な葛藤状態になることを、「エディプス・コンプレックス」と呼びました。

子どもは父親を自分と同一視することによって、この葛藤を解決していくのだと考えました。

この父親像を自分のなかに取り入れることにより、倫理や道徳の規範となる超自我（良心の働きをするもの）を形成していくのです。

去勢という強い圧力を子どもに与えることのできる父親が、子どもの心に倫理的、社会的規範を与えると主張しました。


しかしこの説に批判的な考えもあります。

エディプス・コンプレックス現象は、別に性的な特別の欲求によって起きてくるのではなく、<span class="b">甘やかされた子ども一般に見られる現象だ</span>という主張があります。

これはフロイトと同世代のウィーンの精神医学者アルフレッド・アドラーによって唱えられたものです。

アドラーはエディプス・コンプレックスを、甘やかされた子どもが、自分の欲求を何の制限も受けずに得ようとする、対人行動の一つであると考えました。


母親に甘やかされた子どもは、自分の欲求の全てを、母親から満足させてもらうことを期待するようになるのです。

性的に目覚めたときも、母親によって全ての欲求の満足を得ていた子どもは、自分の欲求を制限することができないのです。

発達史のなかで甘やかされた子どもは、自分の欲求を他者との関係のなかで制限することを学んでいないのです。


アドラーによれば社会的規範というものは、フロイトの言う去勢不安のようなものから生まれるのではなく、<span class="b">親との対人関係を適して学んでいくものだ</span>と考えました。

父親が恐ろしいもの、権威あるものとして振る舞うことではないのです。


<span class="b">お互いを尊敬し、家族と喜びを分かち合い、失敗を恐れない勇気を育て、周りの人と協力することの大切さを、

父親は子どもとの関係のなかで、身をもって実践し、教えなければならないと考えたのです。</span>


このような体験を通して、子どもは社会化されていくのです。

それはまた他者と恐怖ではなく、喜びを通して協力していくことを学ぶことでもあるのです。


父親が子どもの育児や教育に参加してくれないと失望した母親は、父親への期待を捨て、自分一人で子どもを守ろうとします。

さらに核家族化や、少子化によって、母親は子どもの教育のために自由に時間を使えるようになりました。

このような母〜子の関係のなかで、現代の母親は、必然的に子どもを甘やかし、結果的に過保護の育児になっていくのです。


母親は心理学や育児書の情報をふんだんに学び、子どもが発達途上で自らの力で乗り越えなければならない課題を、先回りして、手を回し、子どもが失敗するのを防ごうと一生懸命になります。

<span class="b red">失敗してもそこから子どもが何かを学び、立ち直るということを信じることができないのです。</span>


<span class="b green">「この子のために」</span>という論理で、母親は子どもに干渉することを正当化します。

このことがどのくらい子どもを甘やかすことになるかを考えないのです。

母親の心理には、子育てに失敗したら大変だという不安が、色濃くあるのです。

この不安が、母親の自分こそ守ってあげなければという気持ちを、肥大化させています。

こうしてアドラーの言う甘やかされた子どもが、社会化の不十分な��わがまま″な子どもが、圧倒的に多くなっているのです。


中学三年のＰ子の例です。

四〇歳のサラリーマンの父と三九歳の専業主婦の母、中学一年の弟の四人家族でした。

Ｐ子は中学二年の頃からいわゆるつっぱりグループと付き合いがあって、家に帰ってくるのが遅いときがよくありました。

弟と仲が悪く、つかみ合いのけんかをよくしました。


あるとき、私は夫婦二人で二、三泊の旅行に行くことを提案しました。

父は賛成しましたが、母は頑として賛成しません。

理由は母がいなければ、子ども達だけでは何もできないし、子どものけんかは収まりがつかなくなるだろうということでした。

また姉はこれ幸いと外泊してくるかも知れないし、とても子どもだけ残して親が旅行に行くなんてとんでもないという考えでした。

母は自分がいるから、かろうじて家族が持っているので、いなければ皆てんでに勝手なことをすると考えていました。

説得に難航しましたが、私は、とにかく一泊だけしてみるよう勧めました。

結局両親は一泊旅行に出かけました。


お母さんの心配をよそに、子ども達は一度もけんかしませんでした。

むしろ協力的で仕事も分担し、親がいるとき以上に仲が良かったのです。


もちろんＰ子は、外泊や遊びに行くこともありませんでした。

母にとっては大きなショックだったようです。


<span class="b">子ども達を信頼することを、母親が学んでいくにつれてＰ子の問題行動も減っていきました。</span>

この例のように親の信頼は子どもを大きく成長させるのです。


<h3>子どものありのままのを受け入れることで、父親は信頼される</h3>


子ども達に父親が一番教えなければならないことは、

人は皆お互いが平等であり、尊敬し合って、協力していくのだという民主的な具体的な生き方ではないでしょうか。

教えなければならないことは、人は皆、性別とか、国籍とか、年齢とかに関係なく、対等であり、相互に尊敬し合うなかで、協力的な関係を築いて生きていくことが必要だということです。


「厳父」のような理想的な父親像を作り、そうあらねばならないとがんばることではないのです。

いまの父親に必要なのは、子どもの現実の姿を認め、良い関係を作り、そこから父親の影響力を取り戻していくことではないでしょうか。

父親の強さというものは、完全な父親の姿を、子どもに見せることではないと思います。
不完全であること、父親といえども失敗することがあるということを、ありのままの姿として子どもに示す必要があるのです。

<span class="b blue">不完全であることを認める勇気こそ、最大の勇気である</span>ということを、子どもに教えなければならないのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 15 Dec 2008 23:40:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学生の子供に対する接し方</title>
         <description><![CDATA[<ul class="topics">

子育てから、一人の大人としての付き合いへ、

親は気持ちを切りかえよう。

</ul>

中学生になると子ども達は急激に変化してきます。

小学校の後半からは身長も伸び出し、第二次性徴である声変わり（男子）や身体の丸み（女子）も見られてきます。


決定的なのは男子には夢精が女子には生理が始まることです。

児童期は性というものをほとんど意識しなかった子ども達が自分が性的存在であるということ、言い換えれば自分の性的衝動をどう抑えるかという課題に直画します。

これは、心理的現象というより生理的な一つの成熟現象ですが、このことが子ども達に心理的な変化を引き起こします。


<h3>中学生の特徴</h3>


<span class="b f12em">（１）刺激を求める</span>


中学生になる頃から、何かに夢中になることがあります。

多くはクラブ活動であったり、ロックやジャズに夢中になったり、ときにはゲームセンターに入り浸りになることもあるかも知れません。

このような活動の背景には性的衝動の突き上げがあります。

猛々しくどこかイライラし出します。

ささいなことですぐに興奮することもあります。

また、暴力的になることもあります。

大人への批判も厳しいものになり、否定的になります。

極端な行動に走ることもあります。


親はこのような子どもを見て戸惑います。

今度はどんな行動をするのか心配してすごしたり、子どもの行動にショックを受けて、驚くばかりでなく傷つけられたと感じて怒ったりすることも珍しくありません。

多くの場合こうして親と子どもは対立的な関係になり、

子どもを小学生時代のように力で抑え込もうとしてみたり、それが不可能とわかると全くあきらめて何もしなくなるようになっていきがちです。


<span class="b f12em">（２）仲間から受け入れられようとする</span>


性的な新たな変化は親への秘密を作るようになります。

何でも親に話していた素直な子どもでも自分の性については、特に反対の性の親には話せなくなります。

よく中学生の親から

<span class="b green">「最近うちの子どもは私に何も話してくれない」</span>

と嘆きの話を聞くことがあります。

子どもが親にあまり自分のことを話してくれないのは淋しいことかも知れません。

しかしこの秘密を作るということは親離れの、言い換えれば<span class="b blue">自立の最初の現れ</span>なのです。

中学生になって何でも親に話しているとすれば、それは少し自立への準備が遅れているのかも知れません。

秘密を作るようになった子どもは、性についての不安を友達のなかで解消しようとします。

<span class="b">中学生は友達の構造が大きく変わります。</span>

小学生時代の遊びを中心とした遊び友達から少人数のいわゆる親友に変化していきます。
この親友は少人数でいつも一緒に行動するような仲間です。

仲間内だけで通用するような言葉を作ったり、共通の持ち物を持ったり、秘密を共有したりして、仲間の団結を強調します。


また、親を含めた他の人達が自分達に干渉することをひどく嫌います。

自分の所属している仲間が批判されると、自分が批判された以上に怒ります。

特に、親が仲間を批判したりすると、親を猛烈に憎みます。

子どもは仲間に受け入れられようと必死です。

仲間の価値観の方が親のそれより優先します。

<span class="b">この時期の子どもの最大の目標は広く仲間に受け入れられるということなのです。

むしろ仲間を批判しないで見守っていれば、少なくとも親と子の関係は悪くなりません。</span>


しかし親は多くの場合自分の子どもが選ぶ仲間が気に入りません。

なぜなら親が与えた友達ではないからです。

そこで子どもの仲間に不安になったり、気をもむようになります。

仲間を批判したり仲間から抜けるように強要すれば子どもは激しく反抗します。

友人との付き合いをやめるということはまずありません。

強引にやめさせたとしても子どもは無気力を装って親に抵抗してきます。


<span class="b f12em">（３）自己の確立</span>


中学生になると物の見方が拡大していきます。

将来の自分のことについてもある程度現実的に考えられるようになります。


自分が勉強でどのくらいの順位にいるのか、

どういう学校を出れば有利な職につけるのか、

親の職業は社会的にはどのレベルのものなのか、

将来なりたいものになるためにはいま何が必要か


等です。

<span class="b">特に他人の評価が気になり出します。</span>

周りの人が自分をどう見ているかということです。

自分で自分を価値付けることのできない子どもは、自分の価値を他人にゆだねます。

親や学校の先生、または友達です。

多くの場合周りの大人は無条件で子どもの価値を認めるということをしません。

常に条件を付けて子どもを承認します。

<span class="b green">「有名高校へ入れそうな点数を取ったらお前を認めてやる」</span>

とか

<span class="b green">「お母さんの言うことを聞いていればいいの。お前はまだ子どもなんだから」</span>

等の言葉は子どもの自分への価値を低くしてしまいます。

<span class="b green">「親にまだ全然信用されていないのか」

「俺はダメな人間だ」

「俺なんか嫌いだ」</span>というように考え出します。

こうなると子ども達は必要以上に自分を高いものだと見せようとして、親や同年齢の子どもをけなしたり、批判したりしてきます。

また必要以上に自分の才能をひけらかそうとしたりします。

他人を見下したりすることもあります。


反対に

<span class="b green">「どうせ大人が自分を認めず価値のない人間だと考えているのなら、そのような人間になってやれ」</span>

と自分で決心してしまう子ども達もいます。

中学生で問題を起こす子どもの大多数がこの<span class="b">否定的自己同一視</span>と言われる選択をしています。


<h3>親の役割と対処の仕方</h3>


さて、このような中学生時代に親はどのように付き合ったらいいのでしょうか。

子ども達は小学生のときと違ってほとんど親を尊敬しなくなります。

親の言うままに自分の行動をするより、仮に失敗するかもわからなくても自分で決めて行動をするようになります。

多くの場合親の感情を揺すぶるような行動をします。

特に親を怒らせることが多くなります。

<span class="b">いわゆる主導権争いを挑んでくるのです。</span>

対立が激化し、争いが繰り返されやすくなります。

しかし、子どもと親が対立したときどんなやり方をやっても、対立のなかでは最終的には子どもが勝ちます。

<span class="b">まず親は争うことを避ける必要があります。</span>

いくつかの場面を検討します。


<span class="b green">「あきらめるんじゃない。もっとがんばるんだ。

お母さんだって失敗はあったけどくじけなかったわ。私だってそうしたんだからあなたならできるわよ」</span>

失敗した子どもに自分の成功談を言うことは相当のストレスを与えます。

子どもは

<span class="b green">「お母さんにできたのに自分はできない。自分は最低だ」</span>

と考えがちです。

<span class="b green">「成績が良くなくて残念に思っているかも知れないけれど、一生懸命にがんばっていたのはお母さんよくわかっていたわよ」</span>

<span class="underline">がんばったという事実が大切なんだ</span>ということを子どもに気づかせます。

がんばった事実を子どもが受け入れられれば、自分ががんばれる人間だという自信を持てるようになります。


子どもの良いところを見つけるには結構努力がいるものです。

特に失敗したときの言葉かけは気をつけないと子どもの心を傷つけます。


試験勉強をサボった結果、ひどい結果が返ってきました。子どもは反省し、期末テストはがんばると言っています。

子どもが自分の過ちを認めて直そうとしている状況だと仮定しましょう。

<span class="b green">「お前はいつも気がつくのが遅いんだから。今度からはもっと早くから始めるんだよ。同じ失敗は二度としないこと」</span>

これは子供を傷つける言い方です。子供はストレスがたまり、開き直って、

<span class="b green">「もっとダメな子になってやろうか」などと考えたりします。

そうではなくて、こういってみましょう。

<span class="b green">「何がいけなかったか気がついたね。自分ではどうしたらよいかわかるようになってうれしいよ」</span>


このように、同じ場面でも、親の対応によって子どもに与える影響に正反対のものになります。

成功する対応の仕方をしっかり身につけて、子どものやる気を引き出してほしいものです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 14 Dec 2008 06:49:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>思春期の子供に対する親の接し方</title>
         <description><![CDATA[この難しい年頃の子どもとどう付き合ったらいいでしょうか。

嵐のようなこの時代を、それほど大きな怪我をせずに無事に通過してほしいとどんな親でも願っています。

しかし現実には思春期のときこそ、親との関係で傷つき問題を悪化させているケースを多く見かけます。

親はどのようにこの子ども達と付き合っていったらいいのでしょうか。


<h3>子育てが終わったということを知ろう</h3>


子育てすなわち親が子どもの性格形成に影響を与えることのできる年齢は小学校時代までです。

年齢で言えば十二歳まででしょう。

もちろん個人差がありますが子どもが九、十歳くらいになったらそろそろ子育ては終わりだと考えて良いのではないでしょうか。

さて子育てが終われば子どもに対して親は何もしないで良いのでしょうか。

いえ、違います。

子ども達の基本的な性格を変えることは難しいでしょうけれども、

<span class="b">そのできあがった性格を上手に使い、人間関係を作り上げていくやり方を教えていく必要があるのです。

すなわち子ども達は対人関係のスキル（方法）を学ぶのです。</span>


この方法は仲間のなかでも学ぶでしょうが、やはり社会を代表している親が教える必要があると思います。

具体的には良い関係を親と作れることが社会のなかでの人間関係をよくする原点になるのです。


問題はこの<span class="b blue">教える</span>ということです。

一般的には子どもの悪いことを指摘したり、怒ったりして大人の言うことを聞かせようとします。

しかしこれでは子どもは自発的に自分から大人の社会のルールを守るようにはなりません。

強制や不安、脅しで一時的に子どもを大人に従わせても、それは子どもを納得させたことではありません。

長期的には子どもに力がついたときに、子どもは大人の言うことを聞かなくなります。

かえって密かなる反抗を心のなかに育てる結果になります。


<span class="b">親はまず一歩譲って子どもの意見を受け入れてみることです。</span>

子どもは親の了解で行動している限りそれほど過激な問題行動を取ることはありません。
むしろ子どもの行動を親が認めず拒否していると、子どもは反動で歯止めがなく問題行動に走っていってしまいます。


真美（仮名）さんは高校一年生です。

私立の女子校に通っていたのですが、通学途中に知り合った高校三年生と付き合い出しました。

バイクの好きな子でよく乗せてもらっていました。

だんだん帰りが遅くなってきました。

服装も派手になってきました。

ある日髪を染めたいと言い出したのです。

ついにお父さんが怒り出しました。

<span class="b green">「今のおまえは不良だ。勝手なことばかりして」</span>

と言って殴ったのです。

彼女は<span class="b green">「クラスの子でも髪を染めている子が何人もいる」</span>と主張したけれども、お父さんは怒るのみです。

そしてたたいたのです。

しばらくして彼女は黙って髪を染めてきました。

それだけでなく外泊もするようになりました。

<span class="b green">「不良というのなら本当の不良になってやる」</span>というのが彼女の気持ちでした。

一年の終わりにはたばこを吸ったということで学校を退学させられました。

自分でもオートバイの免許を取り、暴走族に入っていってしまいました。


<h3>子どもは自分自身が嫌いだということを知る</h3>


最近の子どもはどうも自分をあまり肯定的に見ていないようです。

私が
<span class="b green">「自分は好きか」</span>という自己肯定感を聞く質問をすると、多くの子どもは自分が嫌いだと答えます。

これは大人から見れば不思議な現象です。

いまの子どもは物にも愛情にも恵まれています。

ほしい物はほとんど買ってもらってふんだんに手をかけてもらっています。

それにも関わらず自己肯定感はあまり育っていないのです。

なぜでしょうか。


私の意見では、子どもから自己肯定感や自信を奪う強力なばい菌が、いまの子ども達の世界を大きくゆがめているのです。

<span class="b">子どもは親の期待に押しつぶされているところがあります。</span>


あるお母さんがカウンセリングに相談にいったときの話です。

<span class="b green">「家の子どもがもう少し……であったら」</span>

とか

<span class="b green">「成績があと何点上がってくれたら」</span>

というように子どもへの期待を<span class="b">「……たら」</span>という形で説明していました。


まさにこの<span class="b">「……たら」</span>が、子どもの自信をくじいているもっとも大きな要因だと考えています。

親は当然ながら子どもにこうあってほしいと期待を持ちます。

そしてそのような期待を実現させるために子どもの実際の姿を変えようとします。

言葉を換えればそれは

<span class="b">「子どもへの親の期待−子どもの現実の姿」</span>

という引き算で子どもを育てようとします。

子どもの悪いところを注意してあげることが子どもをよくするのだという考えが当然のようにあります。


この親の理想から出ている言葉の典型的なものが二つあります。


<span class="b f11em">「早くしなさい」</span>

これは親子のなかで交わされる言葉かけのもっとも多いものです。

<span class="b green">「遅刻するから早くしなさい」、

「早くお風呂に入らないとぬるくなるよ」、

「ご飯早く食べて。お母さんだって次にしなければならないことがあるんだから」</span>

など、早くという言葉はよく使われます。

このように言われると子どもは初めは早くしなければと思うようです。

しかし繰り返し繰り返し早くしなさいと言われ続けると子どもは

「お母さんがこんなに言っても早くできない僕はダメな人間だ。仕方ない。のろまで生きていくしかしょうがない」</span>

と<span class="b red">否定的な自己評価</span>を持つようになります。


これを<span class="b">否定的自己同一性</span>と呼んでいますが、

<span class="b red">このように自分からマイナスで良いのだと決心してしまうと子どもはどんどん無気力になっていってしまいます。</span>


しかし子どもにいろいろなことをてきぱきと早くやらせることは必要です。

そのためには親はどのような対応をしたらいいのでしょう。

いろいろな方法があると思います。

これから述べる方法はそのなかの一つです。


<span class="b green">「早くやりなさい」</span>

ではなく

<span class="b green">「早くやれたね」</span>

と言ってほしいとお願いしています。

些細な違いに見えるかも知れません。

しかしこれはそうではありません。

なぜなら「早くやれたね」という一言葉かけは、<span class="underline">すでに子どもが早くやれたことを親が見つけてそれを言ってあげること</span>です。

子どもにとってみれば

<span class="b green">「ああそうか。僕も早くやることができたんだな」</span>

と自分ができたことへ目を向けるようになります。

これは子どもにとっては大きな自信になります。

一度でも早くやれたということは決して能力として早くやれないわけではないということに子どもは気がつきます。

自分に自信を持つ、すなわち自分を肯定することができるようになります。


<span class="b f11em">「ダメです。いけません」</span>

これも親が子どもに使う言葉かけとしては多いものです。

繰り返し、<span class="b green">「ダメです」</span>と怒られたり注意されたりしていると、子どもは意欲を失い、他人の指示がなければ行動しない人間になっていく可能性が高くなります。

<span class="b">人の指示で行動するということは、仮に間違った行動でも、それは指示した人に責任があることで自分にはないといういいわけをいつも持っているということでもあるのです。</span>


また、あまりダメだと言われ続けると何をやっていいかわからなくなり消極的になってしまいます。

一般に子どもへの声かけで<span class="b green">「……してはいけない」</span>のような、<span class="b red">禁止を伴うメッセージ</span>は子どもをダメにすることが多いと考えられます。

これは子どもの積極性を結果として奪ってしまうからです。


禁止ではなく、<span class="b green">「……したら」</span>という肯定的な言い方を子どもにするべきではないかと提案しています。

子どもの問題の行動を禁止するにもただ<span class="b green">「いけません」</span>と言うだけではなく<span class="b green">「そうじゃなくてこうしたら」</span>と新たな提案をしなければいけないと考えます。

子どもは、やり方は一つではなくいろいろなものがあるということを、大人の提案を通して学ぶことができるのです。
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 13 Dec 2008 04:46:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>仲間が何よりも大切な時期</title>
         <description><![CDATA[<span class="b">この年齢の子どもにとって一番心配になるのは、親の自分への評価よりも、仲間のなかで自分がどう思われているかの評価です。</span>

親への秘密ができた（主に最初は第二次性徴をめぐって）子ども達は、自分の不安を解消するために同年齢の仲間が必要になってくるのです。

この年代の子どもを考えるときに友達がいるかどうかは大きな判断材料になります。

この友達も児童期の友達とは違う存在なのです。

いわゆる親友というものが必要になってくるのです。

児童期の友達は遊びのテーマを中心にできてくるいわゆる遊び友達です。

この友達の構造は遊びが終わればなくなってしまうようなものです。

比較的誰でもその遊びに参加できます。

開放型の集団です。

友達よりも遊びそのものが目的になります。

ところが思春期に入ってくると、この友達関係ががらっと変わってくるのです。

<span class="b">遊びよりも友達と常に一緒にいることが目的となります。</span>

特に目的がなくても一緒にいるだけで満足しているのです。


仲間の価値観が自分の価値観になります。

いままで親の価値観が自分の価値観だったのですが、親友ができることによりこの価値観が親から仲間のものに変わっていきます。

この変化は当然親からの分離を早めさせます。

親が子どもの仲間を批判したり、けなしたりすると、子ども達は自分がひどく傷つけられたと考えます。

仲間をかばい親を批判します。

また、仲間の様子を親に隠すようになります。

どうせわかってくれないと考え出します。

学校から帰ってくると友達と遊んだことを夢中で親に報告していた子どもが、ある日を境にほとんど話さなくなります。

<span class="b green">「あんなに何でも話してくれたのに」</span>と嘆く親がいます。

しかしこれは<span class="b blue">子どもの一つの成長</span>でもあるのです。

ですから親は子どもの成長を認め、<span class="b blue">喜んで見守る対応</span>を心がけてほしいと思います。

それがまたこの時期の子どもを勇気づけるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 12 Dec 2008 05:01:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの良いところを見つけて、気づかせてあげる</title>
         <description><![CDATA[賢い子育てのできるお母さんは、子どものいいところを見つけることが上手なお母さんでもあります。

子どもは、少しくらい問題のところがあってもいいのです。

百パーセントいい子なんていません。

いいところも悪いところも併せ持っているのが子どもです。

<span class="b">成功する子育ては、いいところをできるだけ見つけて、そのことを子どもに気づかせることでもあるのです。</span>


「自分にもいいところがある」と思える子どもは、自分に自信を持つことができます。

でも、子どものいいところって何でしょう。

やさしいところでしょうか。

思いやりがあるということでしょうか。

正直だということでしょうか。

もちろんこれらもいいことには違いありません。


しかし成功する子育てで言ういいところとは少し違います。

いいところには二つの面があります。


一つは<span class="b blue">いい行い</span>です。

子どもを伸ばすためには、「行い」を通してされる必要があります。

なぜなら「行い」は具体的なことです。

そして実際に「行う」ことができたことを評価しなければいけません。

以前書きましたように、

<span class="b green">「お手伝いしてくれて、おまえはいい子だね」</span>

ではなく、

<span class="b green">「お皿を片付けてくれて、お母さん助かったよ。ありがとう」</span>

と言った方が子どもの成長には役立つのです。

手伝うという行いができたということが、子どもにやれるという自信をつけるのです。


もう一つは<span class="b blue">「行い」が誰のためのものか</span>ということです。

私達は、「ほかの人にも役立つ行い」を望ましいと考えています。


たとえば成績を上げるために、一生懸命勉強している子どもよりも、妹や弟の勉強を手伝ってあげる行為の方を評価したいのです。

もちろん成績を上げるためにがんばる勉強を否定しているわけではないのですが。

このように子どもの行いのいいところを見つけるのは、結構難しいのです。


人間はもともと欠点や悪いところを見つけるのは上手なのです。

しかし、いいところを見つけるのはそれほど得意ではないのです。

いいところというのは立派な行為を言うのではないのです。

八時三十分まで、遅刻ぎりぎりに寝ていた子どもが、八時二十分に起きてくるようになっただけでもいいことなのです。

七時半に起きて、ゆっくり慌てずに学校へ行くようにならなくてもいいのです。

<span class="b">前の日よりもほんの少しでも進歩していれば、それがいいことなのです。</span>

親の理想通りに行動することだけが、いいことではないのです。

小さないいところの進歩を、親に認められて、少しずつ理想の子どもに近づいていくのです。

子どものいいところを見つけることのできるお母さんは、自分のいいところも見つけることのできるお母さんです。

逆に言えば、親である自分のいいところを、上手に見つけることのできる親は、子どものいいところを見つけることもできるのです。

<span class="b green">「自分はダメな人間だ。

だから子どもにこそ、いい人間になってもらわなければ」</span>

という考えは、不幸なことです。

<span class="b green">「自分にはダメなところもあるけど、いいところもある。

子どもにも自分のいいところを伝えたい」</span>

との思いで育てられた子どもは、お母さん同様、自分の悪いところも受け入れ、それにも関わらず、自分のいいところもちゃんと受け入れることができる子どもになっていくのです。

子どもの喜ぶおいしいご飯を作ってあげるだけだって、子どもへのいい「行い」ではないですか。

親の「行い」の大多数は、<span class="b blue">あたり前の行い</span>かも知れません。

そんなこと誰でもやっていると言われるかも知れません。


<span class="b">あたり前なことこそ、子どもにとって必要な「行い」であり、それが「いい行い」なのです。</span>

あたり前のことのできる自分を、もっと肯定する必要があるのです。

あたり前のことをやめたらどんなに子どもが困るかを考えてください。

どれだけ皆さんが子どもに必要な「いい行い」をしているか、わかるのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 11 Dec 2008 10:39:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てに関して自分を責めない</title>
         <description><![CDATA[<span class="b green">「こういう子どもにしてしまったのは私の子育ての失敗です。どんなことをしてもこの子を直してやります」</span>と考えている親は結構います。


あるお母さんの話です。

子どもが中学二年生のときに、不登校を始めました。

それからすぐに<span class="b green">「こんな自分にしたのは親のせいだ」</span>と、お母さんに些細なことで乱暴をするようになりました。


確かに、子どもが小さいときに、共稼ぎをしていた関係で、子どもに無理をさせていたのも事実でした。

少しぐらい熱があっても、お母さんが休みを取れないために、我慢させて保育園に行かせたり、自分の急の仕事で退社が遅れて、お迎えに行くと保育園で一人で泣いていたこともありました。

子どもに言われて、自分は悪いお母さんだったと思うようになりました。

そのせいか、お母さんは

<span class="b green">「子どもがこうなったのは自分のせいで、どんなことがあっても子どもの要求を受け入れなければいけない」</span>

と思うようになりました。

子どもに暴力を振るわれ、胸の骨にヒビが入るくらいのパンチを受けても、

<span class="b green">「自分がいけなかったからだ」</span>と耐え忍ぶ生活を続けました。

お父さんが介入しようとしても<span class="b green">「私がどうにかするからそっとしておいて」</span>と言うだけです。

お母さんは仕事をやめて、子どもと一緒にいる時間が増えました。

子どもの暴力行為はますますひどくなりました。

真夜中に

<span class="b green">「自分が寝られないのに、何で勝手に寝ている」</span>

と一晩中起こされたり、

<span class="b green">「こんなまずい飯、俺に食べさせる気か」</span>

とお茶碗を投げつけたりもされました。

それでもお母さんはひたすら自分の責任だからと子どもの言いなりになっていました。

子どもは、

<span class="b green">「親父はうるさい。あんな親父と別れろ。一緒にいるだけでも息が詰まる」</span>

と言い出しました。

お母さんは

<span class="b green">「子どもを助けるために、偽装離婚をしてほしい」</span>

とお父さんに言い出しました。


どんな親でも子育てのなかには、一度か二度は、必ず失敗の経験はあるはずです。

しかし、だからと言って、それらの失敗がそのまま子どもの成長を決めるなどということはありません。

<span class="b">失敗の影響よりも、その失敗したことで自分を責めて、「子どもにすまない」とか「悪かった」などという気持ちを強く持ちすぎることの方がよくないのです。</span>

どんな親でも、失敗のない子育てなどできません。様々な状況のなかで失敗するのです。

親が子どもに悪意を持って、悪い子どもに育てようと願っているということなどありません。

良い子に育ってほしいと願いながらも、結果として失敗した子育てをしてしまうのです。

成功する子育てを願うなら、まず親は過去の子育ての失敗を償うというような考えはやめなければいけません。

自分のせいで子どもがこうなったという考えをやめる必要があります。

<span class="b">最終的には自分の人生は子ども自身が選んでいるのだということを、このような考え方はどこかで否定してしまうことになるからです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 10 Dec 2008 21:59:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てのためにも夫婦の関係は大切</title>
         <description><![CDATA[家族のなかには、<span class="b">親子の関係</span>と、<span class="b">夫婦の関係</span>の二つがあります。

日本の家族の多くは、子どもが生まれると子どもを中心とした親子の関係が、家族の中心になっていきます。

お母さんは子育てにかかりきりになります。

また、ご主人も子育てをお母さんに任せて、会社の仕事中心になっていきます。


日本の社会の仕組みに、そのような部分があるというのも事実ですが、

<span class="b">これからの社会では、やはり父親もお父さんとして子育てに参加していくことが必要だと思います。</span>

もちろんお母さんと同じように子育てしろというのではありません。

子どもは両親を通して異性との付き合い方を学んでいます。

おのおのの異性を代表する両親が、お互いに信頼し合い尊敬し合って協力し合う家庭であれば、子ども達は異性を当然尊敬し、協力していくことを学びます。


しかしこのような家族はまれです。

夫婦げんかを一度や二度は、ほとんどの家庭で行っているのではないでしょうか。

仲良くするときは仲良くし、けんかするときはけんかしていいのです。


一番いけないのは見かけを取り繕い、仲の良いふりをしているけれども、心のなかは冷え切っている夫婦です。

子どもは夫婦のけんかにも傷つきますが、一番傷つくのは<span class="b red">雰囲気</span>にです。

夫婦が心のどこかでお互いの信頼を失っていることがあれば、それは家庭の雰囲気に現れてきます。

よく子どもが大人になるまで、子どものためを思って離婚を踏みとどまっているという話をするお母さんがいます。

もちろん離婚を勧めるわけではありません。

しかし離婚しない理由を、子どものためにとするのはよく考えてみる必要があります。

自分のためにお母さんが犠牲になったということを知って喜ぶ子どもはいません。

もし離婚をしないなら、それはお母さん自身の責任で離婚をしないのだと考えなければいけません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 09 Dec 2008 21:43:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもを自分の思う通りにしようとしていませんか？</title>
         <description><![CDATA[私の友人にカウンセリングをやっている方がいます。

友人に聞くと、夫婦カウンセリングを行う場合、大多数の夫婦は話し合いのなかでお互いを責めるそうです。


<span class="b green">「あなたが約束を守らないから私だって……」</span>とか<span class="b green">「お前がそういう態度を取るから俺だって……」</span>などなど、


<span class="b f11em">あなたの親子関係でも同じようなことが起こっていないでしょうか？</span>


<span class="b green">「子どもがもう少し勉強をしてくれたら私だって文句は言わないのに」</span>

とか、

<span class="b green">「あの子の口のきき方が変われば、自分も素直に子どもの話を聞けるのに」</span>などと平気で言います。

また

<span class="b green">「どうしたらあの子を私の言うことを聞く子にできるでしょうか」</span>

という相談もあります。


友人が言うには、「相談にこられるお母さんの多くが、子どもを自分の思う通りにするための方法を教えてほしいと願っている」、ということでした。

<span class="b red">しかしこれは無理です。</span>

子どもが変わりたいと思って相談にくるのならば、子どもを変える方法はいくらでもあります。

しかし子どもが願っていない方向に変えることは不可能なのです。

私達ができるのは、子どもが自分で変わろうという気持ちにどうしたらなれるかを考えていくことです。

<span class="b green">「どうしたら子どもを変えられるでしょうか」</span>という質問に、友人は次のように答えたそうです。


<span class="b green">「子どもさんを変えることは無理ですが、子どもさんを見てお母さんがイライラしなくなるようなお手伝いはできますよ」</span>と。


実際、お母さんの子どもへの対応が変わると、子どもの様子も変わってきます。

<span class="b green">「はやく起きなさい」</span>とけんか腰で言っていたお母さんが、やさしく<span class="b green">「明日の朝は起こそうか、それともあなたにまかそうか」</span>と言うだけで、子どもの様子は変わってきます。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 08 Dec 2008 00:00:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>人格評価をやめて行動評価を</title>
         <description><![CDATA[私達は子どもを評価するときに何の気なしに、<span class="b">人格評価</span>を行っています。

<span class="b green">「君は偉いね」</span>とか、<span class="b green">「やさしい子だね」</span>という言い方は、相手の人格や人柄をほめている言い方です。


この言い方は気をつけないと、子どもを<span class="b red">うぬぼれの強い子ども</span>にしてしまう可能性があります。


小学校五年生の君江（仮名）さんが廊下に落ちていたごみを拾ってごみ箱に捨てました。

それを見ていた担任の先生は、君江さんを

<span class="b green">「廊下に落ちているごみを拾って捨ててくれて、君はいい子だね」</span>

とほめました。

それまであまりほめられることのなかった君江さんにとって、先生にほめられたのはとてもうれしいことでした。

それから君江さんは学校中のごみを拾って歩くようになりました。

そしてごみを捨てると、先生のところにやってきて、<span class="b green">「私ごみ捨てたよ」</span>と報告にくるのです。

その報告も、暗に「いい子だよ」とほめてもらいたいそぶりを感じさせるものでした。

先生も君江さんの要求に応えて<span class="b green">「君はいい子だよ」</span>とほめていました。

ところが学校のどこにもごみが落ちていなくなると、君江さんは自分で鼻紙を捨てて、それを拾い出したのです。

<span class="b">自分がいい子だと言われることが、彼女の行動の目標になっていったのです。</span>


このように、人格評価は自分をうぬぼれさせたり、自分の価値を他人に決めてもらおうとする子どもになっていくこともあるのです。

<span class="b">私達が育てなければならないのは、人格をほめられることに喜びを感じる子どもではなく、行動を評価されることを喜ぶ子どもです。</span>

人格はどんな子どもでもそれだけで尊敬されるものです。

<span class="b red">どちらの子どもの人格が優れているかを、比較することは間違っています。</span>

人格とは人の命でもあるのです。

人の命に比較はありません。


それでは私達はどういうふうに子どもを評価したらいいのでしょうか。


<span class="b blue">行動を評価するようにしましょう。</span>

行動には育ててほしい行動と、やめてもらいたい行動があります。

私達は、子どもの望ましい行動をしっかりと評価してほしいと考えています。


たとえばこうです。

<span class="italic">「義彦、妹におもちゃ貸してあげておまえは良い子だね」</span>

というほめ方は人格の評価です。

<span class="b green">「義彦、妹におもちゃ貸してくれてありがとう。お母さんもうれしいな」。</span>

こういう言い方が行動を評価することになります。


行動を評価された子どもは<span class="b green">「そうか、私でもいいことができるんだ」</span>と、

<span class="b green">「自分にも望ましい行動が取れるし、そういう行動を取れば、お母さんも自分を認めてくれるのだ」</span>

という風に、自分に自信を持っていくのです。


子どもの強さとは、頭でいろいろなことを考えるのではなく、具体的な場面で、実際の行動を取れるかどうかで決まってくるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 07 Dec 2008 20:30:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>かわいがるよりも子どもの行いを認めよう</title>
         <description><![CDATA[<span class="b green">「子育てには愛情が何より大切です」</span>と言う人がたくさんいます。

もちろん子どもの成長に親の愛情は大切です。


しかし愛情とは何でしょうか。

かわいがりすぎて子どもがよく見えなくなっている親もいます。

子どもが迷惑がっているのに、親だけが「愛情が大切だ」と、子どもに愛情の押し売りをしている人もいます。


<span class="b">子どもは生まれたときから自立へのスタートが始まっているのです。</span>


上手に自立させることも、親の大切な愛情です。

甘やかすことと、愛情をかけることは違います。


子ども達が求めているのは、やさしくされることではなく、<span class="b blue">認められること</span>なのです。

一人前にいろいろできるということを認めてもらいたいのが、子どもの願いなのです。

この承認の欲求は、子どもにとっては愛情の欲求よりも強いものがあります。

場合によっては、「自分は能力がある」と過剰に誇示したりします。

この自己顕示欲の強さは、子どもがまだ真の自分に自信が持てないことを現しています。
それなのに自分が親に保護してもらうことを、受け入れがたいと感じているのです。


失敗するのではないかとか、笑われるのではないかといったような自意識は、もっと年齢を経てから出てくるものなのです。

しかし最近の子どもは認められることが少ないせいか、あるいは自分がいろいろなことを体験しているという実感を持っていないゆえか、この失敗を恐れる子どもが多くなっていると感じられます。

このような子どもにしないためにも、親はもっと子どもの行動を認めてあげてほしいものです。


まだ四歳の小さな子どもがお母さんと通りを歩いていました。

途中で子どもが、石につまずいて倒れました。

ひざを強く打ったせいか、大きな声で泣き出しました。

一瞬、お母さんは、子どものそばに駆け寄りました。

お母さんは<span class="b green">「怪我しなかったかな？」</span>とやさしく声をかけて、子どもの傍にじっと立っていました。

すぐに子どもは自分で立ち上がりました。

お母さんは

<span class="b green">「自分でがんばって立ち上がれたね。ちょっとひざを見せて」</span>

とここで初めて子どもを抱いてひざを調べました。

<span class="b green">「かすり傷だね。一人で歩けると思うけど、どう？」</span>

とやさしく言いました。

子どもも

<span class="b green">「痛かったけど大丈夫。僕強いの。一人で歩ける」</span>

と泣きやんで、また歩き出しました。

普通は転んだりすると親は

<span class="b green">「何よそ見して歩いているの。ちゃんと歩かないから転ぶのよ」</span>

とか、すぐに抱き起こし

<span class="b green">「だいじょうぶ？　痛かったでしょう。お母さんおんぶしてあげるからね」</span>

と言って、すぐに救いの手をさしのべたくなります。

子どもが転んで泣いているのを見守ることは、一見愛情のないお母さんに見えるかも知れません。


<span class="b">しかし子ども達は弱い自分を守ってもらいたいと思っているだけではないのです。</span>

自分の行いを認めてもらうということも、子どもにとってはとてもうれしいことなのです。

すぐに抱きかかえることの方が、親にとっても楽なのです。

じっと子どもが自分の力で起き上がるのを待っていることは、とても勇気がいるのです。
子どもが自分で乗り越えることができるということをしっかりと信頼していないとできないのです。

愛情は当然必要ですが、子育てのなかで成功するためには、子どもの行いを認めることがより大切になります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 06 Dec 2008 14:02:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもに失敗から学ばせることを教える</title>
         <description><![CDATA[いまの子どもは全体に甘やかされていると思います。

<span class="b">しかしこれは子どもを叱ったり、厳しくしつけていないということではないのです。</span>

いまの子どもが豊かな物のなかで溺れているということも事実でしょう。

食べ物に感謝したり、物を大切にしない現象があちこちに見られます。


ある小学校の先生が言っていました。

ゲームボーイやファミコンのカセットを平気で忘れていく。

学校で忘れ物を保管していたが、ぜんぜん取りにこない。

何日かして先生が

<span class="b green">「この忘れ物は君のではないか」</span>

と聞いても、子どもは

<span class="b green">「新しいの買ったから、それ捨てていいよ」</span>

と言う。


先生は子どものそういう行動を嘆いていましたが、しかし物を大切にしなくなったのは子どもだけでなく、日本人全体に言えることでもあります。

私の住む団地でも大型のごみを出す日には、まだ使えるテレビやテーブルがどんどん捨てられています。

ちょっと手を加えればまだ十分使える自転車が何台も駅前に放置されています。


しかしこのような現象からいまの子どもが甘やかされていると言っているのではないのです。

いまの子どもが甘やかされていると言うのは、

<span class="b red">失敗から学ぶという体験を、ほとんどしていないからです。</span>

親の側に「子どもに失敗させてはいけない」という強い不安があるのです。

親が先回りして失敗をしないようにしてしまうのです。


いま塾に行かせなければ将来落ちこぼれてしまうのではないかと心配し、子どもがいやがっていても無理にでも行かせるのが親の務めだと考える。

子どものためにと考えて、失敗から子どもを守ろうとする。

このことが子どもへの愛情だと考えているのです。


これは少し違うのではないでしょうか。子どもを本当に信じているのでしょうか。

一度は失敗をするかも知れません。

しかしいまの親は子どもが失敗から何かを学び、必ず立ち直るということを信じる勇気を持てないのです。

子どもをいつまでも自分の監視下で保護しつづけることが親にはできないのですから、子どもが自分で失敗から立ち直るように育てておくことが大切なのです。

体験を通して子どもは、社会で生きていくことのできる力を育てているのです。

<span class="b">失敗を恐れず、子どもに失敗から学ばせることが大切なのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 05 Dec 2008 08:46:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>世のなかには罰ではなくルールがあることを教えよう</title>
         <description><![CDATA[寛（仮名）君は小学五年生です。

五時に帰ってくると約束した寛君は、友達と遊ぶのが面白く、つい五時に帰るのを忘れ七時に帰ってきました。

お母さんはすっかりおかんむりです。

<span class="b green">「あんた、いま何時だと思っているの。七時よ。

五時に帰ってくるって言って遊びに行ったのでしょ。二時間も遅いじゃないの。

何やってたの。約束守らないで。本当にお前はうそつきなんだから。

約束を守らないのなら、明日から遊びに行ってはいけません」</span>

と怒っています。

<span class="b green">「僕だって五時に帰ろうと思っていたよ。だけど友達誰も帰らないよ。

僕が帰ってきたら、メンバー足りなくなってゲームができなくなるよ」</span>

と言い返します。

お母さんは

<span class="b green">「つべこべ言わずに早くご飯を食べて、宿題をしてしまいなさい」</span>

と強い調子で言います。

寛君は納得できない様子でぶすっと食事を始めました。


このお母さんの対応では子どもの年齢が小さいときにはいいのですが、寛君が大きくなると心配です。

お母さんはもっと寛君の言い分を聞いてあげる必要があります。

この会話では、寛君はお母さんが一方的に「明日遊びに行くことを禁止した」ととります。

子どもはどんなときでも命令されるのはいやがります。


<span class="b">子どもをしつけるコツの一つに叱るのではなくルールを使う方法があります。</span>


同じく寛君とお母さんの会話です。

約束を守らず七時に帰ってきた次の日です。

寛君<span class="b green">「お母さん友達と遊んでくるよ」、</span>

お母さん<span class="b green">「遊んでくるのはいいけど、何時に帰ってくるの」、</span>

寛君<span class="b green">「五時には帰ってくるよ」、</span>

お母さん<span class="b green">「わかったわ。もし五時に帰れなかったらどうする」、</span>

寛君<span class="b green">「電話で連絡するよ」、</span>

お母さん<span class="b green">「わかった。遅れるときは電話してね」。</span>


このように約束を守れなかったときはどうするかを決めておくと、寛君も遅れるときに電話をかけてくるようになるでしょう。

約束（ルール）を決めるときに、その約束が守れなかったときに、どうするかを決めておくことが大事です。（メタルール）

子ども達に守らせなければいけないのは、この<span class="b">メタルール</span>なのです。

「他人のお金を盗んではいけない」というのは、ルールです。

「人のお金を盗めば裁判によって服役する」というのが、メタルールです。

ルールを破ったときにはこのメタルールによって処罰されるのです。
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 04 Dec 2008 02:44:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>感情的になると、親子関係は悪化してしまう</title>
         <description><![CDATA[子育てのなかで、親もつい子どもの行動に感情的になってしまうことがあります。

というよりほとんどが感情的なしつけかも知れません。



この感情的なしつけは多くの場合、怒りの感情です。

<span class="b">具体的には叱るというやり方です。</span>

子どものために叱るという親の意識的な気持ちはその通りだろうと思いますが、

無意識的には自分の言う通りにならない子どもに怒りの感情を向けていることがよくあります。

怒りの感情には怒ることによって、相手を支配したいという気持ちがあります。


感情は対人関係のなかで相手を操作するために使われます。

<span class="b">すなわち感情は目的を持っています。</span>


私達を苦しめる感情には大きく分けると<span class="b red">不安、憂鬱、怒り</span>の三大感情があります。

怒りについてはすでに述べました。

<span class="b">不安の感情は、未来と関係がある感情です。</span>

不安は過去の出来事や、現在の出来事には関係ありません。

未来を想像して、その不透明なことに不安を感じるのです。

子育てのなかでも不安はよく起こってきます。

<span class="b green">「このままでは受験に失敗してしまうのでは、いや間違いなく失敗してしまう。どうしよう。心配だ」</span>

と未来を不安がります。

子育ての失敗の多くは、この不安に駆られた子育てです。

親の不安は結局子どもが何かに失敗して、将来不幸になるのではないかということが中心です。

子どもの失敗を回避するために、先回りをして子どもに失敗をさせないように手助けをしています。

これは子どものためにという名目で行われる、<span class="b red">甘やかし</span>です。


この甘やかされた子どもがたくさんいます。

結局、子どもは自分で未来の人生を選ぶ自由を得ることができなくなります。

親に従っていれば安全だという、依存的な対人関係を学んでしまいます。

不安は心配を生み出し、子ども自らが決めなければならない出来事に、親が手を出すことになってしまいます。


次は憂鬱です。

これもよくある感情です。

<span class="b">憂鬱は過去と関係がある感情です。</span>

過去に自分のなかで未解決の問題が残っていると、現在の感情に憂鬱感を与えます。

過去にこだわりがあるのです。

憂鬱は自分が憂鬱であることによって現在の課題を回避しています。

何もできないことを強調し、それゆえ憂鬱であるという事態を弁解します。

感情的にならないためには、逆説的ですが自分の感情に気づくようにする必要があります。

<span class="b">そのためには感情的だなと思ったらその場から離れることです。</span>

そして三分もすれば感情はだいたい収まります。

<span class="b blue">その後に、自分は何に感情的になっていたのかを考えるのです。</span>


聖子（仮名）さんは中学一年生です。

よくお母さんともめます。

帰りの遅いことでお母さんは怒っています。

もちろん聖子さんも「うるさいママ」に腹を立てています。

そのお母さんが

<span class="b green">「ちょっと待って。お腹が痛くなったので少しトイレに行ってくる」</span>

とその場を離れました。

するといままでカッカしていた気持ちが収まってきて冷静になりました。

トイレから出てきたお母さんも普段の気持ちに戻っています。

聖子さんは

<span class="b green">「お母さんごめんなさい。今度はもう少し早く帰ってくるように努力する」</span>

と素直に謝りました。

お母さんもすっかり落ち着いていました。

<span class="b green">「そうしてね」</span>で話は終わりました。


子どもともめているときは親も子も感情的な場合がほとんどです。

「うれしいな」とか「楽しいな」というような感情は子育てに大いに役立ちます。

しかしここで述べたような否定的感情はまず間違いなく親子の関係を悪くさせるのです。

<span class="b">感情的になったなと思ったならその場を離れ、時間をおいて感情が静まってから話し合いをすればいいのです。</span>

子どもたちは無意識的に大人を感情的に挑発してきます。

親が感情的になっているときは子どもの挑発に乗せられているときなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 03 Dec 2008 19:47:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>自分もちょっぴり役に立つということを教える・自覚させる</title>
         <description><![CDATA[いまの子ども達は日本が豊かになったせいか、少子化のせいか全体に甘えて育っていると思います。

私達は子どもの要求にも、金銭的にはそれほど困ることなく要求を聞き入れることができます。

ほしがるものは結構何でも買い与えることができます。

ほとんどの子どもがファミコンを持っています。

自転車も何台も持っています。

ものが乏しかった時代に育った私から見れば、いまの子どもは本当にうらやましいかぎりです。


昔、友達のなかで、たった一人自転車を持っている子がいました。

自転車に乗りたくて一五分借りるために宿題をかわりにやってあげたことを思い出します。

恵まれたいまの子ども達は、親を含めて周りの人が自分に何かしてくれて当然だという気持ちを持っています。

自分も誰かに役立つことができるなどということをあまり考えません。

というより役立っことができるのだということを教えてもらっていないようです。

他人に役立つことを<span class="b blue">貢献</span>と言います。

子ども達にはこの貢献感が育っていないのです。


貢献感はどうしたら育てることができるのでしょうか。

いまの子ども達は家の手伝いをしなくなりました。

というより、あまり子どもが手伝う家の仕事がないのかも知れません。

それに子どもの手伝いは、かえってスピードは遅いし、中途半端だし邪魔になることさえあります。

お手伝いする時間があるなら、勉強に使ってほしいというのが、親の本音かも知れません。


<span class="b">しかし子どもにはお手伝いをさせてほしいのです。</span>

もちろんお手伝いが目的ではありません。

お手伝いをしてもらい、<span class="b green">「それがお母さんに役立ったよ、ありがとう」</span>ということを子どもに言うためなのです。

<span class="b">貢献は他人からその行為を感謝されることを通して初めて学ぶことができるのです。</span>


いまの子どもが、他者に貢献しないのは、もしかしたら私達大人が、子ども達に「ありがとうよ」ということを言っていないからではないでしょうか。


紀夫（仮名）君は小学六年生です。

お母さんが

<span class="b green">「紀夫、お風呂の掃除をやってくれるとお母さん助かるけどな」</span>

と頼みました。

紀夫君は

<span class="b green">「ダメだよ。今日は友達と遊ぶ約束をしてきたから」</span>

と断ります。

<span class="b green">「わかった。急に言っても無理だよね。じゃいつならお手伝いしてもらえるかな」</span>

とお母さんは聞きました。

<span class="b green">「来週の日曜日に手伝うよ」</span>

と紀夫君は自分で手伝う日を決めました。そして日曜日がきました。

紀夫君は自分から風呂掃除を手伝いました。

お母さんは

<span class="b green">「風呂掃除ありがとう。本当に助かったわ。ご苦労さん」</span>

と言いました。

紀夫君は

<span class="b green">「大したことないよ。この次また言ってよ。手伝えるときは手伝うから」</span>

とにこにこしています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 02 Dec 2008 21:21:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供に「完全」を求めてはいけない</title>
         <description><![CDATA[十人に自分の意見を言ったとしましょう。

すると二人はすぐに賛成してくれるでしょう。

しかし、一人はどんなに説明しても納得してくれないものです。

自分の努力次第で残りの七人の意見は変わってきます。


若干の変化はあるかも知れませんが、この2:7:1の法則は、人生のいろいろの場面に当てはまるように思います。

私達は百パーセントの完全を求めることはできないのです。

<span class="b">百パーセントの完全を求めることそのものが、ストレスになるのです。</span>


子育てでも同じです。

百パーセント完全な子育てというものは無理なのです。

どんな立派な子どもを育てたとしても失敗の体験はどこかに必ずあるものです。

むしろ失敗があったからこそ良い子育てができたとも言えます。


人間を最も不幸にする考え方の一つに<span class="b red">完全主義</span>と言われるものがあります。

人生をすべてか無かに分けて考えないと落ち着かない人達がいます。

こういう人は神経症的性格とも言えます。

子育てのなかでも子どもに教えておかなければいけないことの一つにこの完全主義に陥ってはいけないということがあります。

若干の不完全性を自分のなかに持っていることを認める勇気を育てる必要があるのです。-----
EXTENDED BODY:]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 01 Dec 2008 22:32:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平凡こそ幸せ</title>
         <description><![CDATA[偶然に買った宝くじが当たり、一億円のお金を得ることができると私達はラッキーと感じます。

ほとんど付き合いのないおじさんが亡くなって、おじさんに子どもがいなかったので莫大な遺産が舞い込んできました。

これもラッキーです。

試験にヤマをかけたところ予想がずばり当たり、いい点数が取れました。

これもラッキーです。

幸運が舞い込んだとも言えるでしょう。


しかし努力をしないで、運だけで得られた幸せは、人生を必ずしも豊かにしません。

子ども達も<span class="b green">「あいつラッキーでいいな」</span>という発言をよくします。


しかしちょっと考えてください。

<span class="b">ラッキーというのは自分では選べないのです。</span>

ラッキーを求める子どもは運命を待つようになります。

そして運命はそれほどラッキーを与えてくれません。


こんなことがありました。

町の一画で、小さな豆腐屋さんをやっている一家がありました。

店の前の通りが、区画整理で大きく拡張されることになりました。

移転料を含めて莫大なお金がその一家に入ってきました。

皆、大喜びです。

こつこつと働いて貯めたお金など、些細なものに見えました。

つつましい生活の反動か、派手な生活をするようになりました。

いままで家族が力を合わせていたのに、お金の配分をめぐって争いが起きました。

一年もたたないうちに、億というお金が跡形もなく消えて、かつての豆腐を作った店もなくなり、家族はばらばらに離散せざるを得なくなりました。

これは一時はラッキーでも、結局はアンラッキーであった話です。


一方、ハッピーとは何でしょうか。

<span class="b">幸せかどうかは、周りの出来事の見方によって決まってきます。</span>

朝起きたら頭痛がします。

空模様もどうも怪しい。

小雨が降っています。

気分も冴えません。

仕事をサボりたいなという誘惑にようやくうち勝って、電卓に乗ります。

いつもはあまり座れることのない電車でしたが、二つ目の駅で運よく座ることができました。

電車の窓から外を見ると、どうやら雨はやんだようです。

そのうち少しうとうとしてしまいました。

目がさめると頭の痛いのも、いつのまにか消えています。

会社に着くと上司が呼んでいます、新しいプロジェクトの中心になれと。

以前自分が出していた企画が役員会で通ったのです。

がんばろうという気が湧いてきます。

しばらくすると久しぶりに友人から電話がかかってきました。

いろいろ問題を起こしていた息子さんがどうやら立ち直って高校に入学が決まったという話でした。

夜、ビヤホールで会うことにしました。

昼からは、天気もすっかり晴れてきて、気持ちの良い青空が広がっています。

帰りに友人と飲むビールはとてもうまいものでした。

帰りの電車のなかで、<span class="b green">「今日もいろいろあったけどまあベストを尽くした」</span>と結構満足な気持ちになってきました。

この満足な気持ちこそハッピーな気持ちなのです。


<span class="b">私達は平凡ななかに幸せを見ることがあります。</span>

そして青い烏症候群のように幸せははるかかなたの遠いところにあるのではなく、

<span class="b blue">自分の目の前にある平凡の中に「幸せ」があるのだということを、しっかりと子ども達に教えてほしいのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 30 Nov 2008 19:49:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>周りの人と協力すること・他者へ関心を持つことを教える</title>
         <description><![CDATA[人間は十か月も母胎のなかにいながら、生まれてくるときは、親の保護がなければ生きていくことのできない、不完全な存在として誕生します。

動物のなかでも、最も生きていく力の弱いものとしての誕生です。

その後の歩みでも、特別の能力が備わっているわけでもありません。

走ることはライオンやチーターがはるかに勝っています。

泳ぐことはイルカに負けます。

空は飛べません。

木に登るのは、サルにかないません。

しかし人はそのような不足している部分を、お互いが協力して克服することを通して、文化を生み出してきました。

これは知恵と言ってもいいでしょう。

このような知恵によって、自動車を発明し、ライオンより早く走るようになりました。

船で海の上を自由に往来できるようになりました。

いまではもっともハンディのあった人間が、この地球の運命を担う存在にさえなったのです。

単独では他の動物の能力にかなわないこのようなハンディを通して、生きのびるためには、人間同士が協力して文化を作らなければならないことを知ったのです。

<span class="b">人間は一人では生きていけないのです。</span>

皆が力を合わせて、初めて生きていくことができるのです。

このことはかつての大昔の出来事ではなく、現代でも同様です。

有形無形の多くの人の力で、私達は生きているのです。

最近の子育てでは、このことが忘れられがちのように思います。

<span class="b">日本という国は一九七〇年代から、ものの考え方が変わった、</span>とよく言われます。

人に迷惑をかけない限り何をしてもいいという考えが、日本人の考えの主流をしめだしたのです。


それまでの貧しい日本では、皆が欲望を将来の希望にかえ、当面は我慢してお互いが助け合っていくモラルがあったのです。

私が育った子どもの頃は、スーパーもありませんでした。

味噌や醤油がよくなくなります。

すると母は、隣の家に借りに行きました。

相手の家にも余っているほどのものはありません。

それでも気持ちよく貸してくれました。

もちろん、その道もありました。

<span class="b">お互いが協力しなければやっていけない時代でもあったのです。</span>


長屋がマンションに変わり、経済が向上するに伴い、我慢したり、お互いが助け合わなくてもやっていける時代になったのかも知れません。

<span class="b red">他人への関心より、自分の関心だけで、十分生きていけるのです。</span>


私達の子どもの頃は公園でいたずらしていると、知らないおじさんによく怒られたものです。

しかし最近では他人の子どものいたずらを叱ると、

<span class="b green">「あなたには関係ないでしょう。叱るなら私が叱ります」</span>

なんて逆に、お母さんに抗議さえ受けてしまいます。


<h3>他者へ関心を持つこと</h3>


ある評論家に言わせると<span class="b">現代はナルシシズムの時代</span>だそうです。

自分のことに関心が向き、自分以外のことに関心が向かない人が増えているようです。

子ども達も同様です。

いまの子ども達は、あまり他者に関心を向けないと言われています。

友達同士といっても、その間の関係は限定的なものであり、その限定的なものも、しんどいと感じている子ども達が増えているのです。

現実の人間関係よりも、ファミコンに見られるロールプレイングのなかの世界での人間関係の方を好みます。

理由はいくつかあると思います。

バーチャルな世界では、常に自分が主人公でいられる。

失敗しても、いつでもやり直しがきく。

うまくいかないときには、いつでもやめることができる。

ゲーム中に怪物に殺されても、リセットさえすれば、いつでも自分は生きかえることができる。

いまの子ども達はこのバーチャルな世界で、人と人との関係を体験しているのです。


神戸の悲惨な事件で逮捕された中学三年生の少年は、奇妙な神の名を書き、その神への儀式として、よく自分になついている小学生を殺害しています。

少年は人間の壊れやすさを実験するために殺人を犯したようなことを書いています。

この発想は、ある意味ではオウム真理教の発想とよく似ています。

オウム真理教のなかにも奇妙な科学性（サリン）と宗教（密教系の仏教）のつぎはぎが見られます。

少年の実験と儀式もまた同じ構造です。

また劇画的でもあります。


人間が心のある人間でなく、ものとして実験材料の一部になっているのです。

バーチャルな世界の人間は、人間でありながら人間ではない。

気持ちを分かち合い、協力し合えることが、人間の原点であるはずです。

悪い人間だからこれ以上悪行をつませないという理由で、ポア（殺す）することを正当化するのです。

ポアする側の異常な思いあがりの考え以外の何ものでもないのです。


同様なことは少年にも言えます。

殺人を犯してまで人間が壊れ易いものかどうかを知りたければ、まず自分の身体を使って実験すれば良いのです。

常に自分は神の位置にいて、安全な世界を妄想するのです。

もちろんあの少年を非難するつもりで書いているのではありません。


<span class="b">他者と共に社会のなかで協力して生きているのだという原点を忘れると、ときには人間はとんでもないことをしでかしてしまうのだということを言いたいのです。</span>


このような子どもは小さい頃から親の前でも過剰な適応、すなわち「良い子を演じる」ことが多いのです。

親はよく<span class="b green">「お友達と仲良く遊ばなければいけないよ」</span>とか<span class="b green">「人の気持ちを考えなさい」</span>と子どもに注意をします。

もちろんこのような注意は大切なことです。

しかし、たまには「ノー」と言いたくなることもあるのです。

いつも相手にばかり合わせていてはくたびれてしまいます。

それは私たち大人でも同じことです。

子どもが

<span class="b green">「学校の帰りにちょっと付き合ってと言うの。我慢して付き合ったけど、すごくくたびれた。

あすは付き合いたくないな……」</span>

とお母さんに話してきました。

お母さんはちょっと考えて

<span class="b green">「ごめん、今日はお母さんと夕食作る約束してきたの。

材料を買って帰らなければいけないんだ。

付き合えなくてごめんね、みたいに言ってみることできるかな」</span>

と、上手な断り方を教えました。

子どもも<span class="b green">「そうね。そう言ってみるわ」</span>と少しはほっとした顔つきになってきました。


このようなことは子どもだけではありません。

<span class="b red">私たち大人が競争に勝つことしか考えていないことを証明する事件のいかに多いことでしょう。</span>

それもルールを無視して、勝てば官軍と考えるのです。


子どもたちに共に生きているのだということを教えるためには、まず親がそのことを身をもって子どもに示すことが大切です。


あるお父さんです。

中学二年生の息子が非行グループに入り、夜遊びや帰りが遅くなりだしました。

不良との付き合いはいけないと何度も注意をしました。

しかし息子の行動はやみません。

お父さんは環境を変えようと遠く離れたところに引っ越しをしてしまいました。

そうすれば不良少年とも付き合えなくなると考えたのです。

しかし一週間もしないうちに、息子は家出をして非行グループの家を転々と泊まり歩くようになりました。

かえって親の目が届かなくなり、子どもの行動はエスカレートしていきました。


お父さんの気持ちもわからなくはないですが、思春期の子どもを立ち直らせるには非行少年の親同士が協力していくことが大切です。

我が子だけではなく非行グループ全部を立ち直らせようと考えることが必要なのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 29 Nov 2008 02:23:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>人との関わりがうまくできる子に</title>
         <description><![CDATA[いまの世のなかは、人との関わりが薄くなっています。これは子どもだけでなく、社会
一般についても言えることかもしれません。


こんな話を学校の先生から聞きました。

小学二年生です。休み時間に教室に残っている子が十人くらいいたそうです。何かをするでもなく、ただぼーっとしているだけでした。

先生が

<span class="b green">「天気もいいことだし外でみんなと遊んできたら」</span>

と外遊びを勧めたそうです。

子ども達は

<span class="b green">「遊ぶと気を使わなければならないので一人の方がいい」</span>

と言ったそうです。

子どもが遊びで気疲れしてしまうとはどういうことでしょうか。


また、こんな子どももいました。

中学二年生の女の子です。

五人ほどの仲間といつも一緒に過ごしていました。

仲間の一人が、

<span class="b green">「帰りにカラオケボックスに寄っていかない。一人五百円で時間制限なしよ」</span>

と提案しました。

彼女はあまり寄り道したくなかったしカラオケも好きとは思いませんでした。

一瞬<span class="b green">「私は行かない」</span>と言おうと思ったそうです。

しかし仲間外れになるのではないかと心配がよぎりました。

付き合うことにしました。

口から出た言葉は反対のものでした。

<span class="b green">「行こう、行こう」</span>というものでした。

当然ながらカラオケはあまり楽しくはありませんでした。

でもその気持ちを仲間に悟らせないように普段以上に気を使い仲間に調子を合わせました。

<span class="b green">「この曲好き。歌いたい」</span>

と自分からマイクをとって歌うこともありました。

帰り際に

<span class="b green">「ああースカッとした。ストレス発散。明日もきたいな」</span>

などと言わずもがなのことを言ってしまいました。


家に帰るとひどい自己嫌悪になりイライラしました。

帰りの遅いことを母親にとがめられた彼女は

<span class="b green">「うるさいわね。いちいち私のこと干渉しないでよ。もうお母さんとなんか口をきかない」</span>

と親子の関係も悪くなっていきました。


一見仲良くしているように見えても、いまの子ども達は仲間外れになることを恐れ、無理に相手に調子を合わせているのです。


これも見かけとは反対に、結局は、仲間を信頼できない、いまの子ども達の薄い仲間関係の現れでもあるのです。

<span class="b">相手と関わることによって、自分が傷つくことを恐れているのです。</span>

その結果は、無理に相手に合わせて過剰適応するか、相手との接触をできるだけ避けて、引きこもるかになるだけです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 28 Nov 2008 17:25:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>自分を肯定的に受け入れることができるように育てる</title>
         <description><![CDATA[子どもの心が健康に育っているかどうかを知る一番いい方法は、子どもに<span class="b green">「自分が好きかな？」</span>と聞いてみることです。

<span class="b green">「好きだよ」</span>と言う子どもは、少しぐらい問題があったとしてもそれほど心配する必要はありません。

自分が好きだということは自己肯定感があるとも言えますが、

<span class="b">この自分を肯定的に受け入れることができるようにすることこそ、子育ての目標でもあるのです。</span>


子どもを親や大人の言うことに従順な見かけだけ良い子どもに育てることが、子育てで
はないのです。

大人になったときに、人に依存して生きるのではなく、自分の力で他の人とも協力して、生きていけるようになればいいのです。


子育ての失敗とは、子どもが自分を肯定的に見られなくなることです。

子育てには、しつけの部分も含まれます。

確かに、何でも子どもの言う通りになっているわけにはいきません。


子どもを叱ることも必要かも知れません。

叱ってはいけないと言っているのではありません。

<span class="b">どうやって叱られることを体験させるかが大切です。</span>

上手に失敗を叱れば、この次は失敗しないようにしようと、別の工夫を子どもは考えます。この努力が人間を向上させたのだと思います。


しかし向上心にも二通りのものがあります。

一つはいまの現状を肯定的に見て更に向上しようというものです。これは大切な向上心です。

一方、いまの現状が不満で否定的に見ており、その不満から自分を向上させようとします。

多くの場合、不満をもっと増やすことになります。

自分を肯定的に見るということは、決して現状のままでいいということではないのです。

しかし自分がより向上するためにも、まず現状のありのままの肯定が必要なのです。

<span class="b">子どもがそうなるためには、ありのままの子どもを親は受け入れ、それを子どもに伝えることが必要です。</span>


具体的には子どもが生きていることをもっと喜んでほしいのです。

どんなにいたずらをして困らせる子どもでも、万が一父通事故で亡くなってしまったと考えてください。

生きているだけで子どもは親にすてきなプレゼントをしてくれています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 27 Nov 2008 14:57:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「勇気」を育てておくこと</title>
         <description><![CDATA[子どもは無力なものとして生まれてきます。圧倒的な能力のなさが、劣等感を生みます。何でもできる大人に比べて、何もできない自分に不安や心配がつきまといます。

不安を体験すると、子どもは自分からいろいろなものに挑戦するよりは、大人の力によって守られていたいと感じるようになります。

<span class="b">すなわち子どもは、ほっておけば依存的になります。</span>


一方新しい体験をしたい、大人のように何でもできるようになりたいという願望もあります。

<span class="b red">しかし失敗が怖いのです。</span>

そのために本来子どもの持つ能動性が制限され、消極的になるのです。

子どもに世のなかと関わることをおそれない、積極的な勇気を育てておくことが大切なのです。


それでは勇気とは何でしょうか。

言葉の語源は「気が湧き出す」ということのようです。

すなわち命のエネルギーがあふれ出すことを勇気と言うようです。

生き生きと力強く出来事に挑戦する力が勇気でしょうか。

このように勇気は与えられるわけではなく、<span class="b blue">湧き出す力を引き出す</span>ことが、勇気づけと言われるものです。

子どもが勇気を持つためには、湧き出す力を邪魔するものを、とり除くことが大切なのです。

この邪魔なものが、<span class="b red">脅え</span>や<span class="b red">不安</span>なのです。

不安は自分に自信を持てないときに起きてきます。

失敗して恥をかくのではないかという気持ちは、脅えを生み出します。

このような不安や脅えを与えないような状況を作ることが、勇気ある子どもに育てるために必要なことなのです。


友彦(仮名）君は中学二年生です。

テニスが上手な子どもでした。

地区大会でどんどん勝ち上がり決勝戦まで進みました。

でも、相手は県大会に出ている大変強い選手です。

どう考えでも勝てる相手ではないのです。

学校では先生を始め、友達から日曜日の決勝戦をみんなで応援に行くからぜひがんばって勝ってねと言われています。

友彦君は全く勝てる自信がありません。

決勝戦の前日お母さんのところにやってきました。

<span class="b green">「どう考えたって勝てっこない相手だよ。

それどころか一点も取れないかもしれない。

そうなったら先生やみんなは何と思うかわからない。

笑われるよ。

明日の試合は棄権したいな」</span>

とお母さんに言いました。

息子がひどく落ち込んでいる姿を見てお母さんは言いました。

<span class="b green">「うん、おまえが勝てないと思って悩んでいる気持ちはよくわかるよ。

でも棄権したらもっとみんなががっかりしないかな。

やるだけやってそれで負けても何も恥ずかしいことではないよ。

それよりやらないで逃げ出してしまう方がもっと恥ずかしいよ。

勝とうと思うのではなく自分のベストを尽くしてくれるとお母さんはうれしいな」。</span>

息子が言いました。

<span class="b green">「そうだね。挑戦だね。挑戦を逃げてはいけないね。

がんばって勝たなければダメだと言うかと思っていたけど、そうじゃなかった。

ありがとう」。</span>

友彦君は次の日の決勝戦に参加しました。

結果はやはり大敗でした。

しかし友彦君は胸を張って家に帰ってきました。

<span class="b green">「やるだけやったからさっぱりした」</span>

と元気でした。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 26 Nov 2008 20:47:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親の成長がなくては、子どもの成長もない</title>
         <description><![CDATA[子育ての成功って何でしょうか。

一流の大学へ入学することでしょうか。

一流企業の社員になることでしょうか。

やさしい相手と我が子が結婚することでしょうか。

それとも我が子が自分の老後の面倒を見てくれるということでしょうか。


もちろん、これらは皆成功した子育てかも知れません。

というより失敗した子育てってどんなものでしょうか。


私がお会いしている多くのお母さん方は、子育てに何らかの悩みを持っています。

そしてほとんどのお母さん達は、自分の子育てを失敗だと考えています。


小学校六年生の宏一（仮名）君のお母さんです。

宏一君は少しばかり元気がありすぎる子どもです。

学校でも先生の言うことをあまり聞かず、けんかが絶えません。

ある日女の子をいじめていました。

先生に見つかり強く叱られました。

お母さんが相談にきました。

いままでの経過を聞いていくうちにお母さんは、自分の育て方がいけなかったと涙を流しながら話し出しました。


家庭の事情で父方の祖父母と同居で、母親は働いていました。

そのために子育ては、ほとんどが祖母の仕事でした。

祖母は長男ということもあり、猫かわいがりと言われるほどに沸愛しました。

母も溺愛を心配していましたが、自分が働いているために気兼ねがあり、祖母にやり方を変えてとは言えませんでした。

母親はこのことを悔やみ

<span class="b green">「息子がわがままになったのは、自分が責任を持って子どもを育てなかったからだ」</span>

と言うのです。

世間では子どもが問題を起こすと、親がしっかりした子育てをしていないからと非難することがあります。


しかし子育ての失敗は、親の責任なのでしょうか。

私のいままでの経験では、親に責任のある子育ての失敗など見たことがありません。


もちろん子どもはいろいろの問題を起こします。

しかしどんな親でも、我が子が問題を起こすことを願って、育てているなどということはありません。

上手な子育ての方法を知らなかったために、結果として子どもが問題を引き起こしたのです。

結果的に失敗したからといって、その親を責めることはいかがなものでしょうか。


<h3>子育てによって、親も成長する</h3>


子育ては親が絶対的なものであり、未熟な子どもが親によって育てられ、子どもは親の影響によって変わっていくというものではないのです。

影響は相互にしているのです。

愛情というものも、相互の関係のなかで育っていくものです。


よく子どもにとって愛情は最も大切なものであると言われます。

子どもに愛情を持って接しなさいと。

しかし愛情とは子どもとの相互の関係のなかで、芽生えてくるものではないでしょうか。
子育てとは、子どもと親との関係のなかで育っていくものではないでしょうか。

<span class="b">子どもだけが成長していくのではないのです。</span>

親もまた、子育てを通して子どもから学び、成長しているのです。

すなわち共に成長しているのです。

親の成長がなくては、子どもの成長もありません。

二人が成長できるそんな子育てが大切なのです。

　子育てをすると、親はどんな成長をするのでしょうか。

情緒的にもたくさんの喜びを子どもから与えられます。

子どもの微笑一つで親は幸せを感じます。

この喜びはその人を豊かにします。


子育ての方法、言いかえれば子どもとの付き合い方をいろいろ具体的に学びます。

これは<span class="b">親の知恵</span>と呼ばれるものになります。

そしてこれは親子のなかだけでなく、すべての人との付き合いのなかでも、お母さんに役立つ知恵になります。


和美（仮名）ちゃんのお母さんはあまり人付き合いが好きではありませんでした。

一人で読書したり音楽を聴いたりするのが好きだったのです。

和美ちゃんが小学三年のときに不登校になりました。

お母さんはどうにかしなければと必死になりました。

不登校のお母さん達のグループに参加してみました。

そしてお互いが助け合っていることを体験し、お母さんもそのグループでみんなと力を合わせるようになっていきました。

お母さん自身も社会への関心がどんどん増えていきました。

学校の先生の前でほとんど意見も一言わなかったお母さんが半年後には自分の希望をしっかりと言えるようになりました。

不登校の子どものグループにも子どもを連れていくようになりました。

どんどん子どもも活動的になったのです。


<span class="b green">「子どもが不登校になったのはつらかったけれども、自分にとって役に立つことがたくさんあった。

みんなが力を合わせることが大切だということを身にしみてわかった。

いまでは和美に感謝している」</span>

とお母さんは言っていました。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 25 Nov 2008 13:26:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>四つの能力が子供をたくましくする</title>
         <description><![CDATA[子ども達と話をしているとよく気がつくことがあります。

<span class="b">子ども達に「生きていく力」が欠けているのではないかということです。</span>

これは、問題を起こす子ども達だけではなく、いまの子ども全般に共通するものではないでしょうか。


子ども達が成人する頃、大変難しい時代になっています。

つぶれるはずのない大銀行や大会社が倒産しています。

いままでの経験では予測のつかない社会に突入したのです。

子ども達が大人になる二十年後を予測することは大変困難です。

二十年後の子ども達を、学歴や親の残した財産などで安全に保障してあげることができるのでしょうか？。


私はこのような不透明な時代には、

<span class="b">どんな状況になっても、自分の力で生きていける子ども</span>に、たくましく育てていくことが大切ではないかと考えます。

そのようなたくましい子に育てるには、親はどのように子育てをしたらいいのでしょうか。

私は以下の四つの力を子育てを通して、子ども達につけておく必要があると感じました。

<h3>尊敬する能力</h3>


「尊敬」とは、自分以外の人を自分と同じように大切な人として敬うことです。

このような、人を尊敬できる子どもになるには、いくつかの条件があります。

最初の条件は、自分のことを好きになること（自己肯定感）です。

子どもはまず自分のことを好きになる必要があります。


いまの子どもは案外自分のことが好きではありません。

それは周りの大人が（親を含めて）ありのままの子どもを認めて、受け入れることが少ないことに理由があるようです。

親はつい理想の我が子と現実の我が子を引き算して、子どもの足らないところ（欠点）を指摘しがちになります。

親は子どもに

<span class="b green">「あそこがダメ。ここもなおさなければ。がんばらなければ」</span>

などと理想の我が子の立場から声をかけてしまいます。

そうされると子どもはどんな気持ちになるでしょうか。

<span class="b green">「あそこもなおさなければダメか。結局何やってもダメなんだ、自分は」</span>

と考え、自分に自信を失っていきます。そして自分を嫌いになります。


親はできるだけありのままの子どもを認めてあげてください。

子どもの行うあたり前のことに感謝してください。

不登校の子どもを持つ親から見れば、子どもが朝元気に学校に行くだけで、子どもに感謝したくなります。

試験で少しぐらい悪い点を取ってきても、決して子どもを叱る気にはならないはずです。
風邪を引いて寝込んで、初めて健康のありがたさがわかります。

どうか、元気に精一杯生きている我が子を喜んでください。

そうすれば子どもはこんな自分でも親は喜んでくれるんだと、ありのままの自分に自信を持つことができるのです。


<h3>責任をとる能力</h3>


次に大切なことは、責任をとる力です。

日本人は責任をとるというときに、会社をやめればいいと考えたり、昔は切腹して責任をとるような、問題が起きている状況から身を引けばいいというような、そういう責任のとり方をしてきました。

そしてそういう責任をとる人に寛大でした。


<span class="b red">しかし責任とは本来そういうものではありません。</span>


本来の責任の意味は、自分でできることがあれば、喜んで自分からそれを引き受けようと決心することです。

誰かに責任を転嫁したり、原因をただ追い求めるのではなく、目の前の困難な課題に対して、自分にできることを果たしていくこと。

これが責任をとるということです。

自分に原因があろうとなかろうと、自分が必要とされる出来事が目の前にあるのなら、自分に何ができるかを考え、自分のできることを果たすこと。

それが責任をとるということです。


残念ながらいまの子ども達はあまりこの責任ということを学んでいません。

部屋が散らかっています。

お母さんが子どもに

<span class="b green">「部屋を片付けくれるとうれしいんだけど」</span>

と頼んでいました。すると

<span class="b green">「部屋散らかしたのは僕じゃないもの。僕、関係ないよ」</span>

と子どもが答えます。


よくある一場面です。

皆さんのお子さんは、このように答えることはありませんか。

<span class="b green">「部屋散らかしたのは僕じゃないけど、でも僕手伝って片付けるよ。

だって部屋がきれいだと僕も気持ちがいいもの」</span>

と言ってくれる子どもがいたら、その子はきっと責任ということを教えられている子でしょう。

子どもにもっともっと責任ということをよくわかってほしいものです。

またもっともっと教えなければいけないことでもあると思います。


子どもに責任を教えるには二つの方法があります。

<span class="b">一つは責任を果たさなければ、その結果事実としてどうなるかを体験させるのです。</span>


子ども部屋を散らかしているとしましょう。

<span class="b green">「お母さんは部屋がきれいになっている方が気持ちいいけど、掃除しない？」</span>

と聞いてみるのです。

子どもが<span class="b green">「うん、する」</span>と言ったら一緒に掃除の手助けをしてあげてもいいのです。

反対に、<span class="b green">「僕の部屋だからいいの」</span>と言って、散らかしっぱなしにしておくなら、徹底的に散らかさせておくのです。

途中でお母さんが片付けてあげてはいけません。

それは汚くすればお母さんが片付けてくれるということを覚えてしまうからです。

<span class="b">汚くしていれば自分が不自由するということを身をもって体験させるのです。</span>

一、二か月後にはどうしようもなくなって片付けます。

きれいになったところで<span class="b green">「やっぱりきれいな部屋はいいね」</span>と言ってあげるのです。

このような経験をした子どもはそれなりに片付けるようになります。


責任を教えるもう一つの方法があります。

<span class="b">それは「いけないものはいけない」とはっきり言うことです。</span>

もちろん感情的に怒ることではなく冷静に言うことが必要です。

特に他人に迷惑のかかることについては断固として<span class="b red">「いけない」</span>ということを言わなければいけません。


小学校の一、二年生くらいの子どもが電車のなかを我が物顔にかけずり回っています。

お母さんが数人で話をしています。

子どもの行動に全く無関心です。

老人が電車に乗ってきました。

子どもの一人が老人にぶつかりました。

見かねて私が子どもに注意しました。

初めて気がついたお母さんは子どもに

<span class="b green">「おじちゃんが怒っているから静かにしなければダメよ」</span>

と注意しました。

これでは子どもは責任ということを学びません。

私が怒っているからではないのです。

私が怒ろう怒るまいと電車のなかでは静かに人の迷惑にならないようにするというのがルールなのです。

誰かが怒る怒らないは関係ないのです。

皆が協力して生きていくためには、いけないものはいけないものだということをしっかり教える必要があるのです。


<h3>社会性を身につける能力</h3>


第三に大切なことは、社会性を身につける力です。

よく「皆と仲良く遊ばなければダメよ」と言う親がいます。

社会性ということを考えるとき、皆と仲良く遊べる子が本当に社会性がある子と言えるのでしょうか。

皆と仲良くするということは、大人の私達だってできないことです。

私達大人は皆、社会性がないのでしょうか。

そんなことはありません。

皆と仲良くするということは、結局誰とも仲良くならないということでもあるのです。


八方美人という言葉があります。

皆と仲良くしますが、本当の友達はできません。


<span class="b">社会性がある子とは、仲良くなりたい子に「君と仲良くなりたい」と言えるような子どもです。</span>

自分の言葉で自分の意見を、はっきり表明できる子を、育てなければいけないのです。

日本人は自分の意見を表明せずに、態度や雰囲気で自分の気持ちを伝えようとします。

そしてうまく自分の気持ちを相手がくみ取ってくれないと、相手を気がきかないと言って非難します。

<span class="b red">しかしこれは間違っています。</span>

してほしいことがあれば、それを相手にちゃんと言うことが大切なのです。

子育てのなかでも、子どもが自分の意見をしっかりと言えるように訓練する必要があります。


自分の意見を言うには、方法があります。

それは「私は……思う」という言い方が大切だということです。

この言い方を<span class="b">「私メッセージ」</span>と言います。

この言い方は相手に自分の意見を伝える言い方です。


反対に「あなたは……だ」という言い方があります。

これは<span class="b">「あなたメッセージ」</span>と呼ばれる言い方です。

「あなたメッセージ」は相手を評価、判断した言い方になりやすいのです。

結果として、話し合いは対立、争いになります。

意見を表明するにはあまり望ましい言い方ではありません。


たとえばご主人が帰ってきて、あなたの作った料理を

<span class="b green">「これはうまいな。料理の上手なお前は偉いな」</span>

と言ったとしたら、あまりうれしい気持ちはしませんね。

やはり

<span class="b green">「おいしい料理を作ってくれて、僕はうれしいな」</span>

と言ってくれた方が気持ちよくありませんか？


<span class="b f11em">子ども達に教えなければいけないのは、「私メッセージ」での話し合いです。</span>


これはあくまで自分の意見ですので、それに反対するにしろ、賛成するにしろ、相手の意見もまた意見として開けます。

要するに話し合いが進んでいきます。


<h3>生きていく知恵</h3>


最後に大切なものは生きていく知恵です。

私達は二つの能力を持っています。

一つは<span class="b">知識</span>であり、もう一つは<span class="b">知恵</span>です。

本を読んだり、2＋2＝4といったことは知識です。

いまはこの知識が重要視されています。


<span class="b">しかし、これから必要とされるものは知恵ではないでしょうか。</span>

かつては子育てで悩む若い母親が、おばあちゃんに相談するという光景がよく見られました。

<span class="b green">「三歳になってもまだ言葉が出ないけど大丈夫かしら」

「男の子は昔から口が遅いんだよ。もう少し様子みたら」</span>

と年寄りに言われて、安心して子育てを続けた母親もたくさんいました。


<span class="b">知恵とは体験を通してしか身につきません。

体験のなかでいろいろ工夫することにより、実際に身につけていくのです。</span>


知恵というのは<span class="b blue">工夫</span>です。

知恵がないと知識があってもそれを活かすことができません。

学校では知識は教えてくれますが、あまり知恵は教えてくれません。


知恵は家庭で子ども達に教える必要があります。


二十一世紀を生きる子ども達のためには、特に男の子には家事労働の知恵をぜひ教える必要があると思います。

多分これからの時代は男もかなりの部分家事労働をすると思います。

そのときに知恵がないと悲惨だと思います。


また女の子には、できるならば外で働くこと（バイト）をやらせたほうがいいと思います。

これからの女性は、経済的にも男性から自立していくと思います。

働くことの知恵を身につけておく必要があるのです。


子ども達が大人として社会に参加していくのは二〇二〇年頃でしょう。

そのころの日本は様々な面で大変な厳しい環境が予想されています。

学歴や大企業というだけでは安全とは一言えなくなってきます。


しかしこの四つの力を身につけた子どもは困難な状況になればなるほど力を発揮していきます。


子どもの権利条約というものがあります。

この条約は大人と子どもの関係を大きく変えるものです。

いままでは子どもは、大人に保護され守られる対象として考えられてきました。

しかし今後は子どもは大人と対等な権利を持ったパートナーとして理解する必要があります。

子どもには意見表明権が認められています。

否が応でも大人は子どもと新しい関係を作っていかなければならないのです。

すなわちいままでみたいな上下の関係（縦の関係）はもう望めないのです。

対等な関係（横の関係）を親子のなかで作り上げていくことこそ、最も大切な子育てになっていくのです。


私がいままで述べてきた子育てのやり方も基本的には、子どもと親が横の関係に具体的になっていく方法を述べたものです。

二十一世紀を生きる子ども達は、私達のかけがえのないパートナーだというところで、もう一度、いまの親子の関係を見直してみませんか。

そして子ども達に本当の生きる勇気と知恵を教えておけば、たとえ子ども達が大人として生きる時代がどのような時代であろうと仲間とともに幸せに生きていくことができるのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 24 Nov 2008 07:54:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ピアサポート</title>
         <description><![CDATA[

<h3>互いに支え合い、共感的に接するために</h3>


ピアサポートは、仲間や同輩（ピア）の援助（サポート）のことです。

生活や仕事で一人ばっちと感じると、自分に自信がもてず、孤立感や不安感、切迫感、焦燥感、疲労感を必要以上に感じたりすることがあります。

そのような場合に、気軽に話ができたり、人の経験を聞くことができたり、自分を理解してもらえたりすると、気分が楽になり、自信を取り戻して本来の活動を行えるようになるかもしれません。


子育て中の母親グループや小学生たちなど、社会的に同等の境遇にある人たちが、お互いを支え合ったり、励まし合ったりして共に支え合う関係を<span class="b">ピアサポート</span>といいます。

ピアサポートは、人間関係の中で育まれていくものですが、より力を育てて促進するプログラムを用いて行う援助活動は、ピアサポート活動、あるいはピアサポートプログラムと呼ばれます。

仲間や同輩と日常的な悩みや相談事を気軽に話し合える関係の中で、同じような経験や感情を分かち合い、共感的に相手と接することができることは、メンタルヘルスに大きく影響します。


<span class="b">ふだんから気持ちを分かち合えることで、気持ちにゆとりができ、自分や他者に対して肯定的な態度で接することができるようになり、安定した人づきあいができるといえます。</span>


近年は、移動の増加や核家族化、少子化、地域社会の変化などによって、信頼できる人間関係を築き難く、ピアサポートを受けにくいといわれます。

そこで、思いやりや優しさを育む友だちづくりを目的として、小・中学校でのピアサポート導入が増えています。

育児については、母親学級や子育て支援のグループなど、さまざまな団体や公的施設で育児者が集まる場所が提供され、ピアサポートを受けやすい環境が整えられています。


また、ピアサポートは、教員や相談員など、単独で活動することが多い職業のサポートとしても注目されています。

ピアサポートによって、対人関係能力を意図的、計画的に身につける機会を提供するプログラムが、ピアサポートトレーニングです。

トレーニングを受けてピアサポート活動を実践する人がピアサポーターです。

仲間を思いやる気持ちがあり、援助したいと自ら希望する人がピアサポーターとして参加します。

ピアサポーターは、カウンセリングの技能から基本的な援助の姿勢を学び、構成的エンカウンターやソーシャルスキルトレーニング、ロールプレイなどの体験的なトレーニングから援助技法を学び、リーダーとサポーターでチームを組んで活動します。


ピアサポーターには、建設的な対人関係を築く次のようなスキルが求められます。


第一に、仲間と共に学び、信頼し合って助け合い、協力するスキルです。

ピアサポーターは、相手をよく観察し、注意深く話を聞いて理解し、よいコミュニケーションを築けることが大切です。


第二に、気持ちを適切に表現するスキルです。

気持ちを分かち合うことは、お互いを理解し尊重し合うことに必要なことです。

ピアサポーターは、自分自身の心理状態を理解したうえで相手の気持ちを理解し、適切な気持ちの表現ができるように仲間を援助していきます。


第三に、対立を解決するスキルです。

協調的で信頼できる関係を築けるように、ピアサポーターは揉めごとやケンカに対して創造的にサポートします。

ピアサポート活動のニーズは、年齢や社会的な立場・環境によって異なるので、導入前に適切なプログラムと人的資源を検討することになります。

低年齢の子どもを対象として実践する場合、

子どもは相手の立場を認めたり理解したりする能力が十分に発達していないので、相手を思いやって人間関係をつくることを体験する機会を提供することが目的となります。


ピアサポーターは、カウンセラーと同じように相談内容の秘密を守ることが大切です。

また、多様な相談に対して、適切なサポートを行えるように、経験豊富なカウンセラーや先輩の指導やアドバイスを受けたり、カンファレンスに参加したりすることが大切になります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 24 Nov 2008 00:07:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供たちの勇気づけが大切である</title>
         <description><![CDATA[さて、二十一世紀はどんな時代になるのでしょうか？

二十一世紀を正確に予想し、子どもの安全を確保しようという試みはほとんど成功しないでしょう。

それよりいま私達がしなければならないことは、二十一世紀がどんな世紀になろうとも、子ども達がたくましく生きていける知恵を育てておくことではないでしょうか。


アドラー心理学では環境がどんなものであれ、「自分が好きだ（自己肯定感）」、「他人が信頼できる（基本的信頼感）」、「自分は世のなかに役立っている（貢献感）」の三つの感覚があれば、人生を意味のあるもの、役立つものとして、生きていけると考えています。

アドラー心理学の創始者であるアルフレッド・アドラー博士はこの三つの感覚をまとめて<span class="b">共同体感覚</span>と名づけました。

そしてこの「共同体感覚は、全ての人に生まれつきあるものであるが、それを育てるためにはたえず教育と訓練が必要だ」と考えていました。


アドラー博士は子どもの問題行動はすべてこの共同体感覚が育っていない状態の表れだと考え、彼等の問題の本質は<span class="b green">「勇気をくじかれたり、失ってしまっている」</span>ことにあると考えました。

不登校にしろ、保健室登校にしろ、非行にしろ、これらの行動から、子どもを立ち直らせるには、<span class="b">勇気づけ</span>を子ども達に行うことが大切になってきます。

逆に言えば勇気づけが十分行われている子どもは、共同体感覚が発達しており、勇気を失うことが少ないと言えます。

<span class="b">すなわち問題行動が起こりづらいということです。</span>


いま皆さんのお子さんは元気に生きていることと思います。

だからこそ、もっともっと幸せになる三つの条件、言いかえれば共同体感覚をこの機会に伸ばしてほしいのです。

そして子育てを通して、お母さんの共同体感覚も共に伸ばしてほしいのです。

お母さんが自分が好きで人も信頼でき、社会参加に喜びを見いだしていれば、そのお母さんを見て子どもは共同体感覚を成長させるでしょう。

子育ては決して子どもだけが成長するものではありません。

子育てを通して親子共に成長していくものです。

そこに子育ての大切さがあるのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 23 Nov 2008 23:41:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供が成長するってどういうこと？</title>
         <description><![CDATA[子どもが「成長する」とはどういうことでしょうか。

年齢で考えると、お誕生日がきた、三歳になった、学校にあがるなどといったときには感慨があるでしょう。

また、わが子をながめて、からだが大きくなった、しっかりしてきたなど、その姿に成長を感じることもあります。

<span class="b">ところが、このごく自然なことが、いやにむつかしく、かまえた格好で受けとられる傾向があるように思われるのです。</span>

「なん歳児」というふうなとらえかたがそのひとつ。

保育所や幼稚園、役所の「健康診断」や「保健指導」では、子どもを「三歳児」とか「一歳半児」、「九ヶ月児」「新生児」といったぐあいに分類しています。


でも、こういう成長のとらえかたは教師や保母や医者や保健士のものであって、けっして親のこころになじむものではありません。

<span class="b blue">親にとってわが子の成長は、やっぱり感覚的であり、生活のなかにこそあるのです。</span>

親にとって子どもの成長とは、制度によって区切られるものでなく、なしくずしに連続していて、親と子の相互の情緒的な関係によって認識されるものなのです。


ですから、たとえ、なにかの障害があって、なかなか歩けなかったり、しゃべれなかったりして、レベルを低くみられても、親には親の成長への実感があるのです。

その子をいくつとみるかは、もう生活の年輪のようなもので、からだの大きさや能力のレベルではないはずです。

とすれば、成長を数量的にとらえようとする傾向もあまりいいこととは思われません。

体重や身長で成長を「科学的」に測り、なんキログラム増えたとか、なんセンチメートル伸びたというのを成長のあかしとすることはどうかと思うのです。


健康診断などで体重計をのぞきこむお母さんの目はとても真剣で、そこには<span class="b green">「大きくなってほしい」</span>という悲願がみえかくれしています。

そういう思いが育児に大切なことはたしかですが、体重の増えかたが多いの少ないのといっても、大半は正常の範囲内、個人差にすぎません。


まあ、親の楽しみのひとつとすればいいのでしょうが、数量にひきずられて、それが「科学」だと錯覚したときにはたいへんです。

どうみても元気でそれなりに育っているのに、ただ体重の増えかたが平均より少ないというだけで、食事の強制が行われたり、欲しくもないのに無理に食べさせられる子どもは、どんなに辛いことでしょう。

「成長する」ということを、制度とか科学の手から、<span class="b blue f11em">人間どうしの感じ合いの世界</span>に引きもどしてほしいと思うわけです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 22 Nov 2008 20:44:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>お母さん、子どもを信頼していますか？</title>
         <description><![CDATA[他人を好きになる、信頼するということは専門用語では<span class="b">「基本的な他者への信頼」</span>と言います。

この信頼がいまの子ども達に欠けているのはすでに述べた通りです。

他人を信頼することを学ぶためには、まず他人から信頼されるという経験がどうしても必要になります。

誰からも信頼されたことのない人がどうして他人を信頼することができるでしょうか？　
これが、子どもに信頼を教えるために、お母さんが、最初に子どもを信頼しなければならない理由です。

お母さん達は、<span class="b green">「子どもを信頼している」</span>と言います。

しかし、よく聞いてみると、それは信頼でなく信用と言った方がよいものです。


<span class="b green">「五時までに帰ってきて勉強するのよ。あなたを信頼しているからね」</span>

と子どもに言います。

ところが子どもは遊びに夢中になって五時になっても帰ってきません。

遅く帰ってきた子どもに

<span class="b green">「あなたを信頼して五時まで遊んでいいって言ったのよ。お母さんの信頼を裏切ってもう絶対あなたなんか信頼しないから」</span>

と言います。

これでは子どもは信頼を学ぶことはできません。

このお母さんは、子どもを信用したのです。

子どもはお母さんの信用を裏切ったのです。

お母さんから怒られることで、子どもは信用を裏切ったことをチャラにします。

<span class="b">すなわち約束を破っても怒られればそれでご破算だという考えを学びます。</span>


本来信用というものは担保をとることによって成立します。

裏切られるという前提で、ものを考えているのです。

裏切られたときに、担保を取れば自分は損をしないという考えです。

ですから担保を差し出したことによって、その信用を裏切った行為はご破算になります。
そして担保を払ったんだから文句はあるかということになります。


<h3>だまされることを覚悟の上で子どもを信頼する</h3>


私が示したいのは、この信用ではありません。<span class="b">信頼</span>です。

では信頼とは何でしょうか。

先ほどの担保の比喩で言えば、これは白紙委任の小切手を無条件で相手に渡すことです。
<span class="b">だまされることを覚悟の上で相手を信頼するのです。</span>


親は何度も何度も子どもにだまされる必要があると思います。

先はどの子どもが約束を破り遅く帰ってきたときに、子どもはどうせ怒られればいいと考えて帰ってくるかも知れません。

このとき

<span class="b green">「お帰りなさい。ご飯できてるわよ。すぐに食べる？」</span>

とやさしく迎えたら、子どもはどう考えるでしょうか。

初めは怒られないで儲けたと思うかも知れません。

しかし約束破って悪かったという気持ちもどこかにあるはずです。

お母さんの信頼を裏切って申し訳ないという気持ちが続きます。

お母さんがこのように子どもを信頼し続けると、子どもの方でも気楽に裏切ることができなくなります。

そして相手の信頼にはこたえなければいけないということを学ぶのです。


よく

<span class="b green">「子どもの言いなりになっていたら、とんでもない子になってしまう。厳しくしつけをしなければいけない」</span>

という意見を聞きます。

そして、

<span class="b green">「子どものためを思い、親がいろいろ心配して、厳しくやっているのだ」</span>

という意見もあります。

たとえば、忘れ物を子どもがしないように毎朝

<span class="b green">「ハンカチ持った？　教科書揃えたの？　ほらほら帽子が曲がっているじゃない。もう八時よ。家を出ないと学校遅刻するわよ」</span>

などと、子どもに注意を与えているお母さんがいます。

どうしてそんなに注意を与えるのか聞いてみると、

<span class="b green">「注意しないと自分では何もできないからです」</span>

という返事が返ってきます。


これは私に言わせると

お母さんがいろいろ覚えてくれていて、注意をしてくれるので、自分では忘れ物をしないように覚える必要がないということを、子どもに教えているように見えます。


<span class="b">本当に必要なことは、親に言われてできるということではないはずです。</span>

少しぐらい失敗があっても、自分の力で解決していけた方がはるかに子どもにとっても自信になり、すてきなことです。

もし、お母さんのなかに、子どものためにという考えで、行動するものがあるとしたら、そういう行動はすべて過保護の甘やかしの行動だと考えます。

それは子どもが自分で解決すべき課題に直面することを、避けさせてしまう行動だからです。

<span class="b blue">子どもを信頼できるようになると、この行動は減ります。</span>

失敗してもそのなかから何かを学んで立ち直ってくるということを信じることができるからです。


<h3>「自分も役に立っている」という実感が子どもを支える</h3>


さて最後にアドラー心理学がお母さん・お父さんに提案したいことは、子ども達の心に

<span class="b green">「自分は世のなかに役立っている。世のなかもまた自分に役立っている」</span>

という感覚を育てることです。

私達は一人では生きていけない存在です。

どんなに力がある人でも、その人一人ではできることはたかが知れています。

仲間と協力して、力を合わせて行動するときに、すばらしい力を発揮するのです。

「自分もその成果の達成に役立っている」という実感を持つことは、とても大切なことです。

<span class="b">別な言い方をすると、この世のなかに自分の居場所を見つけることができたということです。</span>

人間を深く傷つけるのはこの居場所を見つけることができなかったときです。

「自分は世のなかに、学校に、クラスに、家庭にどこでも用無しの役に立たない人間だ」と感じることは、ひどく自分を傷つけます。


いま学校で陰湿ないじめが流行しています。

いじめの一つに<span class="b red">シカト</span>があります。

クラスの全員が一人の子を完全に無視するのです。

無視された子は、クラスから締め出され、自分のクラスでの居場所を失います。

クラスに貢献する機会を奪われ、クラスに何も期待が持てなくなった子どもは心を激しく傷つけます。

さて、このような子どもの心に、学校や家庭での居場所を見つけてやるにはどうしたらいいでしょうか？

家庭生活を健全に維持するには、役割に違いはあるけれども、

<span class="b blue">親だけではなく子ども達にも全員に役割がある</span>ということを教えるのです。

役割とは、ある場合には家事の手伝いかも知れません。


<span class="b">しかしこれは親から強制されてするものではありません。子どもの自発的な参加、協力です。</span>


または、親からのお願いを、子どもが納得して行う場合もあるでしょう。

このときも親はこの手伝いを当然だと考えてはいけません。

子どもの行動に、当然やあたり前はありません。

<span class="b blue">「ありがとう」と役立ったことへの感謝の気持ちを伝えましょう。</span>

こうして親から感謝される体験を通して、子どもは

<span class="b green">「自分も家族に役立っている、自分も家族のなかに居場所がある」</span>

ということを学びます。


考えてみれば、人間の成長は家族に居場所を見つけ、学校に居場所を見つけ、さらには社会に居場所を見つけていくことにあります。

子ども達が学ぶ最初の居場所が家族であり、学校であるのです。

親や学校の先生がもし子どもに失望し、家族やクラスの厄介者と感じることがあると、子どもはひどく傷つきます。

自分の居場所を見失います。

子どもはこの時混乱した不安定な精神状態になります。

そして立ち直ることが困難になります。


どんな子どもでも、子どもの可能性のなかには、常に良いものがあります。

我々はどんなときにも、子どもの可能性を信じている必要があります。

自分が他人から役立つ人間だと評価されて初めて、人は自分の可能性を信じることができるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 22 Nov 2008 02:58:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親と子が互いに尊敬し合える関係を作り出す</title>
         <description><![CDATA[最近の子ども達はストレスの多い世界に生きています。

文明の進歩はもしかしたら人間の能力の限界を超えて発展していっているのではないかとさえ思われます。

家族のあり方も離婚や不倫の問題を含め多様化してきています。

<span class="b">一つの倫理で論じることができない時代です。</span>


女性の社会進出も目覚ましいものがあります。

このようななかで、子ども達もまた変貌を遂げているのです。

<span class="b green">「人に迷惑かけなければいいじゃない」</span>という言葉を、子ども達はよく使います。

もちろんこの考え方は悪いものではありません。

<span class="b red">しかし、これは他者との消極的な関わりであるにすぎないのです。</span>

環境が何であれ、積極的にそれを人類に役立つものへ変えていくことに参加する子どもこそ、いま、私達が育てたり教育していかなければならない子どもであると思います。

子どもが自らの力で行動を決断できるのだと、信じることが必要です。


すなわち、私達はどもだからという考えを捨て、<span class="b">子どもと対等の関係</span>を作り出していくことが必要です。

そのためには、私達が大人の関係のなかで行っている関係を、子どもとの関係でも行うことが必要ではないでしょうか。

大人の関係では使わないコミュニケーションを、子どもとの関係で使うことは、それ自体が子どもを大人とは違う、大人に従うべき者という差別をしていることになるのではないでしょうか。

私達は職場で同僚に

<span class="b green">「馬鹿、何やってんだ。早くしろ」</span>

とか

<span class="b green">「もっと素直に言うことを聞かなければダメじゃないか」</span>

などの言葉かけをするでしょうか。

めったにしないと思います。

それなのに子どもとの関係のなかでは、日常茶飯事として、これらの言葉が使われます。

子どもだからいいのだというのは、それだけで差別であると考えるべきではないでしょうか。

子どもとの相互尊敬をどのように作っていくかに、大きな比重を置くべきだと思います。
そしてこのことはもっとも大切な子育ての原点でもあるのです。
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 21 Nov 2008 17:42:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>様々な機関での育児に関する個人相談・相談形態</title>
         <description><![CDATA[

<h3>できるだけ時間枠を設ける方がよい</h3>


保育所や幼稚園では、園児の保護者からの相談は、子どもの送迎時に立ち話的になされることが多いようです。

立ち話ですむような相談もありますが、話を聞いている問に、他の保護者に話の内容が聞こえない場所でゆっくり話を聴いた方がよいと感じることもあるでしょう。

あるいは、保護者から相談したいことがあるので時間を取ってほしいと依頼され、予め時間を決めて相談を受けることもあるでしょう。


心理相談を専門とする相談機関においては、カウンセラーが行う面接相談は予約制をとっています。

1回の面接相談は50分程度と時間枠を決めて行います。

場所も来談者のプライバシーが守れるよう個室で行います。

カウンセラーと来談者の座る場所も面接相談においては重要です。

このように心理臨床の専門家が行う面接相談は、時間、空間の枠を設定し、場面を構造化して行うことが多いようです。


保護者が子どものことを相談する場合、保護者だけで相談に行くこともあれば、子どもを連れて行くこともあります。

子どもの年齢や状況にもよりますが、面接相談を親子一緒で行う場合と、子どもと保護者を別にしてそれぞれに担当者をつけ、並行して面接相談をする場合（並行面接）とがあります。

そして、初回の面接相談では、個人相談の形態をとりますが、相談内容によっては、2、3回目以降は類似の問題を抱える人たちを一緒にしてグループ面接を行うこともあります。

保育者が保護者からの相談を受ける場合にも、できるだけ時間枠を設ける方がよいでしょう。

保護者が話を始める前に<span class="b green">「今日は何時頃までなら大丈夫ですよ」</span>とあらかじめ終りの時間をやわらかく提示しておかれるとよいでしょう。

あらかじめ言えない状況では、<span class="b green">「今日はこれから、○○の用がありますので、また日を改めてお話ししましょうね」</span>など、話が一段落したところで、いったん終りにすることが大切です。

<span class="b">保護者の中には、2時間でも3時間でも話をしたいという人がいるからです。</span>


ある程度の時間枠を設けることで、今日いちばん話したいことは何かを保護者に考えてもらうことを助けます。

長時間の相談では、かえって焦点が暖味になるかもしれません。

また、お互いに心身共に疲れてしまい、保護者の話に注意を集中して聴き続けることが難しく、継続して相談を受けることをも難しくしてしまいます。


保護者のプライバシーを守るということについては、保育所や幼稚園では、保育者と保護者が二人だけで話ができる場所がないという園が少なくないかもしれません。

立ち話では適切ではないと感じて、保護者を事務所や職員室などに招き入れても、話し声が聞こえる距離で他の職員が仕事をしていることもあります。

ですから、なんとなく保護者の話を聞いてしまう保育者もいることでしょう。

そのような場合にも、子どもに生命の危険が伴う虐待などを除いて、外部には口外しないなどの注意が保育者には必要です。


あらかじめ時間を決めて保護者の個人相談を受ける場合、保護者がゆっくり話せるように、なるべく二人だけになれる場所を確保できる曜日や時間帯を選ぶことも必要でしょう。

しかし、保育者はカウンセリングのプロではありませんので、保護者と二人だけの個室で、重たい話を聴くのは責任が垂すぎると感じることもあるでしょう。

他の保育者が同席していてくれた方が、気持ちが楽になるという場合もあるでしょう。

園長や主任が保護者の同意を得て、同席する方がよい場合もあるでしょう。

また、保護者の中にも、二人だけでの面接相談よりも複数の保育者がいる方が話しやすいという人もいるでしょう。

保護者の性格や相談内容によって、どのような相談形態がふさわしいのか、保護者の意向も聞きながら、選択されるとよいのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 20 Nov 2008 18:00:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子ども達の勉強の悩み</title>
         <description><![CDATA[大人になり、社会に参加し、何らかの仕事を引き受けるためには、勉強をマスターしなければならないという課題が、子ども達を待っています。

現代社会が複雑になるに伴い、子ども達が求められる課題はますます複雑になってきています。

義務教育課程である中学生の数学をすらすら教えられる親の数は少ないだろうと思います。

文部省も子ども達にゆとりを持たせるために、現在のカリキュラムの三割近くをカットし、体験を重視した総合教育にしようとしています。

そのくらい難しい内容の勉強をいまの子ども達は求められています。


また受験をめぐる偏差値が子どもの評価にとっての大きな物差しになっています。

<span class="b">偏差値が高い子が頭のいい子だとなってしまうのです。</span>

頭のいい子というのは、知識の豊かな子どもというわけでもありません。


子ども達の間に、マニュアル人間が増えています。

子どもはマニュアルがあるときは、上手にものごとを処理します。

しかしマニュアルでは処理仕切れないような状況に直面すると、どう対処していいか迷ってしまいます。

本来の賢い子どもは、いざというときに上手に新しい発想を持ち込むことができる子どもです。

知恵のある子どもだと言えましょう。

しかしながらいまの教育のなかでは、すなわち偏差値が最終的なところでものを言う教育のなかでは、なかなか賢い子どもを育てることができないのです。


<h3>勉強の挫折が不登校の原因に</h3>


不登校という現象が子どもやその親を苦しめています。

この不登校の子どもと話していると、彼らがとても自分の成績に悩んでいるのがわかります。


また不登校のきっかけに、勉強の挫折ということがよくあります。

いまの子ども達が、いかに勉強に、言いかえれば自分の成績にこだわりを持っているかがわかります。

交友の課題とも関係するのですが、子ども同士は真の仲間になれない構造に組み込まれているのです。

友人は競争相手であり、常に比較されるライバルでしかないのです。

成績のみに自分の価値を置いている子どもがよくいます。


しかし成績で常に優位に立ち続けるということは難しいことです。

挫折をどこかで経験することになります。

勉強のみに自己評価の根拠を置いている子どもは、成績が思わしくなかっただけなのに、自分の全てがダメになったと錯覚してしまうのです。

この挫折は成績にかわりうるものを持っていない子どもにとっては、深いものになっていきます。

かつての成績の良かった自分、満足していたそのときの自分をいつまでも美化し、現実の自分を嫌っていくのです。
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 20 Nov 2008 14:25:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>横たわってぐったりしている場合</title>
         <description><![CDATA[ふと気づくと、いままでなんともなかった子が、白い顔になって、息もしていないようなようすで、抱き上げてもぐったりして意識がない、など、

<span class="b red">まるで死んだみたいなときは、一刻を争って次のことをしてください。</span>

<ul class="topics">

<span class="b f11em">（１）１１９番に電話する。ごく近くに病院があれば、駆けこむ。

（２）救急車がくるまでは人工呼吸と心臓マッサージをする</span>

</ul>

ただし、ひきつけ（けいれん）とまちがえないでください。

ひきつけなら、あわてることはありません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">応急処置</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 19 Nov 2008 20:39:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>いじめを傍観する子ども達</title>
         <description><![CDATA[いじめという問題があります。

これも基本的には交友の問題でもあるのです。

いじめは相変わらず陰湿に子ども達の心を傷つけています。

<span class="b">いじめられた子ども達が、一番心を傷つけられるのは、傍観者によってです。</span>

<span class="b green">「自分はいじめているわけではなし、いじめられている子もいじめている子もどっちもどっち」</span>

いう発想が、傍観者にはあります。

この発想は、いじめられている子どもの心をひどく傷つけるのです。


あるいじめられている中学一年生の男の子が言っていました。


<span class="b green">「いじめる子は頭にくるけど、奴らは悪だから仕方がない。

一番ショックなのはクラスのほとんどの子どもが、自分がいじめられているのを知っているのに、見て見ぬ振りをしていることだ。

他の子ども達が自分の味方でないことに強いショックを受けた。

別に助けてくれって思っているわけではない。

でも一言二言声をかけてくれてもいいんじゃないの。

いじめられていても平気で通りすぎていくクラスの子ども達を見ていると、誰からも助けてもらえないほど俺は魅力のない人間なんだという気持ちになってしまう。

それが一番つらいんだ」</span>

と悲しそうに話をしてくれました。


危機に陥ったときに、初めて自分の仲間内の評価に気がつくのです。

いじめられることもつらいが、それを傍観されることはもっとつらいのです。

このように現代の子ども達の他者への関係の持ち方は、できるだけ精神的な関わりを最小限にするという希薄さが目立っています。

付き合いの価値基準が常に自分になく、他者に向いています。

現代の子ども達も、一見個性にあふれているように見えます。


しかし現実にはどうでしょうか。


同じチェックのマフラーを同じスタイルで首に巻いている女子高校生が、渋谷や新宿を閥歩しています。

個性の一かけらもありません。

また、いまの子ども達はあまりにも遊ぶ時間がなさすぎます。

子ども達の下校の時間に門のそばで子ども達を観察してみればすぐにわかります。

多くの子ども達が、その日の遊び相手を求めて必死に「今日、遊べないか」と友達を求めています。

それでも、多くの子どもは塾があるからとか、お稽古事があるからとか言って断られています。

最近はこういう子どももいなくなるほど、遊ぶことが少ないとも言われています。

かつての子ども達のように、夢中になって身体を動かして遊ぶことが困難になってきています。


子ども達の運動能力も落ちていると言われています。

ファミコンやテレビなどのように、バーチャルリアリティ（仮想現実）の世界で、遊びを楽しむ子どもが増えています。

しかしこれらの遊びは与えられたお仕着せの遊びなのです。

レディーメードのものであり、自発的な知恵や工夫を学ぶ機会を持つことができないのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 19 Nov 2008 05:20:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>交友関係が子ども達のストレスになる</title>
         <description><![CDATA[子どもの交友関係にも、また、様々な問題が発生しています。

心配なものの一つに、子ども同士の関わりの薄さがあります。

人と関わることのおっくうさを訴える子ども達が多くなってきています。

<span class="b green">「自分一人でいるときが一番楽だ」、「友達と遊ぶと相手に気を使い疲れてしまう」</span>

という子どもが多くなっています。


ある小学五年の女の子が言っていました。

彼女のクラスの女の子は毎日違った洋服を着てくるそうです。

彼女も気をつけて前の日と同じ洋服は着ないようにして登校していました。

ある日、お母さんの具合が悪く、弟の世話をしていて学校に遅刻しそうになりました。

あわてて前の日のセーターを着て、急いで登校しました。

幸い遅刻はせずにすみました。

ほっとしていると、早速クラスでもリーダー格の女の子がやってきました。

ちょっとした雑談の後、

<span class="b green">「もしかして、このセーター昨日着てきたのと同じものじゃない？」</span>

と聞いてきました。彼女は真っ赤になりながらも

<span class="b green">「違うよ。似ているけど、これ別だよ」</span>

とかろうじてその場をごまかしました。

でも相手の女の子は

<span class="b green">「よく似てるわねー。色や柄がそっくりだわよ。こういうのがあなた好きなの」</span>

と聞いてきます。

彼女はとても恥ずかしい思いをしました。

それからしばらくして、彼女の不登校が始まりました。


<span class="b">彼女のように最近の子ども達は過剰に自分を相手に合わせてしまう傾向があります。</span>

たぶん彼女も

<span class="b green">「今朝お母さんの具合が悪くて遅刻しそうになったので、同じ洋服を着てきたの」</span>

と話してもそれでどうのということはなかったと思います。

しかしクラスの雰囲気が許してくれない感じにさせるのです。

この心理の裏には相手に嫌われることを恐れている子どもの心があるのです。

同じ仲間と言っても決して心を許せる相手ではなく、自分が嫌われないために、相手の調子に合わせた仲間関係がかろうじて成立しているのです。

本当に理解し合った仲間ではなく、表面的な仲間でしかないのです。

子ども達は当然のことながら仲間はずれにされることを一番恐れています。

どこかの仲間集団に所属することを第一義的に考えるのです。

子ども達のストレスは予想以上に仲間から起こってくるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 18 Nov 2008 08:07:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>孤独な育児の危険性</title>
         <description><![CDATA[若いお母さんを中心に虐待と言われる問題も起きています。

公園デビューなどと関連があるのですが、いまのお母さんは、子育ての相談できる相手もおらず、孤立しています。

ストレスがたまり、そのはけ口が小さな子どもに向かってしまうのです。

虐待してしまった後、そのお母さんはひどく自分をいやになり落ち込んでしまいます。

それでもまた我慢できなくなり、虐待してしまうのです。

そしてまた落ち込むという悪循環を繰り返しています。


子どもの様々な問題に一人で対応することは大変なことです。

相談し、支援してもらえる人がいないことが、いまのお母さん達、特に若いお母さん達の子育てのストレスになっているようです。

自分の言うことを開かずに、泣き続ける我が子をついたたいてしまうということが日常茶飯事になってしまいます。

これが繰り返されると、この子さえいなかったらと、極端な場合、子どもを殺してしまうこともあります。


また、虐待は多くの場合繰り返される可能性があるのです。

虐待を受けた子どもが大人になったときに、再び我が子を虐待してしまう。

そのような悲劇の繰り返しがよく起きるのです。


若いお母さんの話です。お母さんは専業主婦です。

赤ちゃんが生まれる前はデザインの会社で仕事をしていました。

自分も気に入った会社だったのですが、妊娠を機に会社を辞めて子育てに専念することにしました。

はじめは子どもがかわいくて夢中で育てていましたが、だんだん子どもも思うようにならなくなりました。

二歳になった子どもは部屋中を散らかします。

注意すると火がついたように大きな声で泣きます。

近所への迷惑を考えると身のちぢむ思いがして、子どもの好きにさせてしまいます。

家で少しはデザインの仕事ができるかとも思っていたのですが、いつまでたってもそんな時間はありません。

じっと我慢していろいろな子育ての本を読んだり、自分なりには一生懸命がんばっていました。


ところが子どもの方はますます自分の思う通りになってくれません。

イライラが限界に達したときだったのでしょう。

<span class="b green">「牛乳をこぼさないように飲むのよ」</span>とコップを子どもに渡しました。

お母さんが別の片付けをしているときに、子どもはわざとこぼしながら遊んでいます。

それを見つけたお母さんは切れてしまいました。

<span class="b green">「何であなたはお母さんの言うことがわからないの」</span>と、思いきりたたいてしまいました。

気がつくと子どもの腕のあちこちに青あざができていました。

<span class="b green">「何てことをしてしまったんだろう」</span>とひどく落ち込んだ気分になりましたが、その事件を契機にいつのまにか我が子をたたいては落ち込む子育てになっていきました。

幸いお母さんはこれではいけないと気づき、自分から相談の電話を保健所にかけました。

保健婦さんが丁寧にお母さんの謡を聞いてくれました。

ご主人の子育てへの協力も得られるようになりました。

保健婦さんに教えられ、育児仲間もできました。

デザインの下請けもほんの少しですが引き受けてもみました。

一年後には<span class="b green">「何であんなに自分がイライラしていたんだろう」</span>と不思議に思うほど親子の関係もよくなりました。

自分の気持ちがイライラして子どもをたたいてばかりいるお母さんには、専門家の手助けが少しいるかも知れません。

子育て仲間やお父さんの協力も必要なのです。

そうすればイライラして子どもをたたき、自分で落ち込んでしまうという悪循環から抜け出ることができるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 17 Nov 2008 20:43:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てひろばでの育児相談</title>
         <description><![CDATA[

<h3>ここに来れば話を聴いてもらえると安心感がる</h3>


子育てひろばではさまざまな形態で相談が行われています。

<span class="b">（１）非公式の相談</span>

ひろばでのおしゃべりの中で相談を受けることがあります。

身近で相談しやすいという利点があります。

わざわざ改まってどこかよそのところで相談するほどのことでもない「チョット相談」です。

日常的にこのような小さな不安解消の場があることが大きな安心感につながります。


<span class="b">（２）電話相談</span>

電話相談を受け付けている子育てひろばもあります。

情報や他機関の紹介も行われています。

地域の子育て支援の核となる子育てひろばの重要な役割でしょう。


<span class="b">（３）正式な相談</span>

専門の相談員の相談枠を設けているひろばもあります。

改まって時間をとる必要のある相談に対応できます。

話す側、聴く側の双方のために時間と場所の確保が必要です。

他の人の出入りしない守秘義務が守られる部屋の用意が必要です。


<span class="b">（４）グループ相談</span>

同じ悩みをもつ親を集めてグループセッションが行われているひろばもあります。

「オムツはずれ」「きょうだい」「反抗期」などのテーマをあげ、参加者を募りグループで話し合いをします。

<span class="b green">「悩んでいるのは私だけ」</span>と親が孤立感をもつことを防ぎ、他者の話から子育てのヒントを得ることもあります。

他者の話を聴き、自分の話を聴いてもらうピアカウンセリングの機能をもちます。


以上のように形態は多様ですが、相談を受ける時の基本はまったく同じです。

傾聴、守秘義務、受容、共感など、カウンセリングの分野から多くを学ぶことができるでしょう。


<span class="b">しかし子育てひろばならではの特徴もあります。</span>


最も注意すべきは、子育てひろばは相談の専門機関ではないということです。

全ての相談を抱え込むわけにはいきません。

日ごろから専門機関との連携を心がけ、相談の最初の窓口となることが大事な役割です。

まずは<span class="b blue">相談しやすい環境づくり</span>が必要となります。

日ごろから、温かい雰囲気を心がけ、声をかけたり、声をかけてもらいやすいように工夫することが大切です。

多くの子育てひろばは、不特定多数の人が不定期に利用するところです。

初めて会う親からの相談、ふだんの様子や家族関係・友人関係のわからない中での相談、次回はいつ来てくれるかの約束のない中での相談となることもあります。

1回の相談で解決しようとアドバイスを急ぐのではなく、相手の話にじっくりと耳を傾け、ここに来れば話を聴いてもらえる、と安心感をもってもらえることが大切でしょう。

また子育てひろばには、親と子のどちらかを相手にするのではなく、親子を一緒に相手にするという特徴もあります。


子どもだけを相手にすることは、保育者の得意とするところですし多くの保育者が、親のいるところで子どもにかかわるのはたいへん難しいと言います。

おもちゃの取り合い、食事、おむつはずれ、子どもの生活のあらゆることが子どもの育ちにつながることを知っている保育者にとって、親たちの悩みは見当違いに思えたり、時として子どもの育ちを阻害しているように思えるかもしれません。

親に批判的、指導的になってしまうこともあるかもしれません。

保育者は多くの経験と正しい知識をもっていて、親子を支援したいと思っていますから、まだ子育てに不慣れな母親に「こうしたらよい」「こうしてはダメ」と多くのことを教えてあげたくなるかもしれません。

しかし、それは「相談」ではなく「指導」となってしまいます。

正しいことがわかっていても実行できない日常の中で、罪悪感、無力感を抱いている親もいます。

頼りがいのある保育者に依存的になり、何もかも相談する親もいるでしょう。


このような場合、細かな対応が親子の育ちを邪魔することにもなります。

親自身の力を奪わず、育児のパートナーとなることが必要です。


育児というのは、他人がやっている時には「もっとこうしたらいいのに」と、よく欠点が見えるものでもあります。

親子を外から見て批判するのではなく、親子のパートナーとなり、何がたいへんなのか、どこが楽しいのか教えてもらうようなつもりで耳を傾けてくれる相談者、親子の歩みにそっと寄り添ってつきあってくれる相談者が、子育て支援施設には必要でしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 17 Nov 2008 11:23:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>愛、交友、勉強、子どもの三つの課題に親はどう接すればいいのか？</title>
         <description><![CDATA[心理学の世界では、性格は遺伝によって決定されるのか、環境によって決定されるのかという論争がよく行われます。


アドラー心理学というものがありますが、それによると、

外部からその人に影響を与えるものが環境であり、その人の内部から影響を与えるものが遺伝であると考えられてます。

人は、環境を無視し、完全な自由のなかに生きているわけでもないし、また環境に完全に人生が拘束されているわけでもないと考えています。

このような考えをソフト・デターミナント、すなわち「柔らかい決定論」と言います。


私達は環境や遺伝から完全に自由ではないが、環境や遺伝によって自分の人生が決定されるのではないのです。

環境を私達がどのように意味づけし、行動していくかは、その個人の責任であると考えています。


私達にとって重要なものは、この環境（ライフタスク）に私達がどのように応答するかであると考えています。

環境は受け身ではなく、どうその課題を引き受けるか、私達に常に答えを求めています。

私達が応答しなければならない環境、すなわちライフタスク（人生の課題）には三つの課題があります。

子どもにとっては、この課題は<span class="b">愛の課題、交友の課題、勉強の課題</span>であると考えています。


<h3>愛の課題に失敗する親子が増えている</h3>


愛の課題（ラブ・タスク）について考えてみましょう。

愛とは人と人との関係を近づけさせるものであり、人を信頼し、深い安心感を与えるものです。

子どもにとって、「ラブ・タスク」は親子の関係と考えることもできます。

この親子の関係の課題に失敗して起きる問題も数え切れないほど多く見られます。

最近は親の育児への関心が減ってきていると言われています。

子育てだけに専念するのに満足できずに、自分の楽しみも満足させたいという欲望が親にもあるのでしょう。

自分の欲望を満足させる行動に走る親もいます。

パチンコ依存症と呼ばれるようなお母さんは、車に子どもを放置したまま何時間もパチンコを続けます。

結果として、子どもが熱射病などにかかり極端な場合には子どもが死亡してしまうことさえあります。

カラオケ依存症とかアルコール依存症と呼ばれる母親も増加しているようです。


また、若いお母さん達は子育てに<span class="b red">孤立</span>しています。

公園デビューと呼ばれる奇妙な現象があります。

公園に我が子を遊ばせに連れていくと、すでに先輩のお母さん達が仲間を作っています。

その仲間に入れてもらうには、それなりの気を使わなければなりません。

目立つ服を子どもに着せてもいけないし、みすぼらしい服でもいけない。

某デパートでは公園ルックスと呼ばれる子ども服を売っているという話を聞いたことがあります。

仲間に入れないお母さんは、入れてもらえるグループを探して、いろいろな公園をさまようとも言われています。

これを公園ジプシーと呼んでいるとか。


もちろんこれらは一部の親達であり、全体的にはもう少し事情が違うかもしれません。

しかしどちらにしろ、これらの問題が取り上げられることそのものが、現代の育児の困難な現状を表していると言えましょう。


この根底には、親たち自身が孤立化し、子育てを母親一人で行わなければならなくなっている現状があるのではないでしょうか。

子育てに協力してくれる人達との連携が希薄になっているのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 16 Nov 2008 16:20:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「自分を大切にする心」をどう育てるかが問題</title>
         <description><![CDATA[

<h3>自尊心（セルフ・エスティーム）を育てる三つのポイント</h3>


子育てのなかで比較的忘れやすいものの一つに、「セルフ・エスティーム」という概念があります。

日本語では一般には<span class="b">自尊心</span>と訳されることが多いようです。

この自尊心は自己形成にとって、とても重要なものです。

この自尊心が十分育っていないと、心の健康上の問題が起きると言われています。


さて、このような「セルフ．エスティーム」を育てるには、どのような子育てが必要でしょうか。

「セルフ・エスティーム」を育てるには、三つのポイントがあります。

すなわち、「生きている自分を喜び、自己に敬意を払えるようにすること」、

「個々の問題に具体的に対応できる力を高め、自信を持たせること」、

「仲間への肯定的な関心や社会的貢献感を育てること」


の三つです。

こういう子育ては、日々の家庭でのしつけで実践されるものです。

様々な出来事に対する、子どもと親の関わりのなかで、親によって実践されるのです。

上手に実践するためには、親が子どもと関わる対処能力を高めておく必要があるのです。

たとえばお母さんが勉強を教えていると考えてください。

お母さんが質問をしました。

子どもが答えました。

ところが残念にも答えが間違っていました。

こういうときは、子どもの「セルフ・エスティーム」にとって、大ピンチのときでもあるのです。

「セルフ・エスティーム」を守るためには、親は子どもの解答が間違っていても、<span class="b">できるだけ肯定的な応答を返す必要があります。</span>

答えが正しいかどうかではなく、答えを述べたことに敬意をはらって、子どもを扱う必要があります。

<span class="b red">間違った答えを露骨に笑ったり、冷やかしたり、批判したりしてはいけません。</span>

からかうきょうだいがいたら、その子達に、失敗した子どもに協力し、助け合ってほしいということを、教えなければいけません。



また、自信なげに子どもがしているときには、その子の得意としている話題を取り上げて、緊張を取りながら回答を引き出す工夫が必要になってきます。

<span class="b">答えの結果ではなく、答えたことに、お母さんから敬意を払ってもらえると感じた子どもは、

間違った答えを励まされて正しい答えに訂正していく作業を、決して否定的なものとはとらえません。</span>


「セルフ・エスティーム」を健全に育てるには、子育てや学校の教育のなかで、子どもは親や教師に敬意を持って取り扱われていると感じる必要があります。

発言したり、意見を言うことが期待されているのだというメッセージが常に与えられている必要があり、やり方や答えが間違っても許され、親や先生や仲間と助け合えるという雰囲気が教室や家庭になければなりません。


このような体験を、学校や家庭で子ども達が持つことができれば、子ども達の「セルフ・エスティーム」は確かなものになっていくでしょう。

「誰でも自分の感情や意見を表明する価値や権利がある」ということを、しっかり子どもに教えることです。

またこれは子どもの権利条約のなかにある、子どもの意見表明権を大人が認めることでもあります。


一方、競争や他人との比較では、本当の「セルフ・エスティーム」は獲得できません。

ある論文に、アメリカの子ども達に、「セルフ・エスティーム」を教える面白い方法が書いてありました。

<span class="italic">「部屋を暗くして自分のろうそくに火をともす。自分の周りが明るくなる。

次々に仲間がろうそくに火をつける。部屋が全体に明るくなる」。</span>


そこで子ども達に考えさせるのです。


<span class="b green">「他の人がろうそくをともしても、自分のろうそくが暗くなることはない。

自分のろうそくの火を明るく輝かせるために、他人のろうそくを消す必要はない」</span>

ことをこの経験を適して確かめるのです。


<span class="b green">「自分のろうそくも輝く。

それに仲間のろうそくが加わることにより、全体がいっそう輝く。

皆の協力する力が、個人の力をはるかに上回る」。</span>


このことを教えることによって、他人の成功や失敗にいちいち左右されない、適切な「セルフ・エスティーム」を育てていくことができるのです。


<h3>自尊心を育てるには、</h3>


「セルフ・エスティーム」を育てるために、特に「セルフ・エスティーム」のなかでも中心になる、子どもの自己評価を高くするためには、次のことを重視します。

自己評価は、自分で自分を評価するのではなく、他者との関係のなかで、他者に自分が肯定的に評価されることによって、はじめて自分への評価を確立することができるのです。

<span class="b">自己評価を高くするためには、親や教師から無条件の肯定とも言うべき、ありのままの自分を受け入れてもらえる体験を持つ必要があります。</span>

無条件の肯定とは、自分が生きているということを喜んでくれる人がいるということでもあります。

命の尊さを知っている親や教師は、子どもが生きているだけで無条件で喜べるのです。

お母さん達は我が子の命の誕生に立ち会っています。

我が子が生まれたときにはどんな気持ちでいたのでしょう。

産科のお医者さんや看護婦さんに

<span class="b green">「先生、うちの子ども頭の良さそうな顔をしていましたか」</span>

などと子どもの能力を聞いたでしょうか。

そんなお母さんはいないはずです。

どんなお母さんでも

<span class="b green">「赤ちゃん、元気でしょうか？　大きな声で泣きましたか〜」</span>

などと赤ちゃんが生まれてきたそのことを無条件で喜んだのではなかったでしょうか。

お母さんが自分の誕生を無条件で喜んでくれたのだと知った子どもは、自分の存在がどんなに意味のあるものかを感じることができるでしょう。

機会あるごとに生まれたときの話をしてあげることで子どもは自分を好きになるでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 15 Nov 2008 03:48:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの問題行動は大人への問いかけ</title>
         <description><![CDATA[様々な子ども達の問題行動の背景には、他者とのつながりの薄さが見られます。

子ども達はつながりを求めていないのではなく、信頼と結びついた実存的つながりを求めながらも、自分自身に対する信頼感を持てずにいます。

より自己を表現することの少ない「システム」的な、ブーバーの言うところの<span class="b">「我−それ」</span>の関係のなかにいます。

しかしこれは子ども達を満足させる関係ではないようです。

「我−それ」の関係を断ち切り、ありのままの自分が本当に信頼してもらえるかどうかをためす行動として、様々な問題を起こしていると言えるかも知れません。

いま子ども達に私達が教えなければならないものは、自分を信頼する「共同体感覚」の育成であります。

私達は戦後「個」の尊重を最優先として考えてきました。

このことは正しいと思います。


しかし個の優先と個の欲望をすべて認めることとは違います。

<span class="b">個を認めることは、他者を認めることとセットの関係にあります。</span>

他者によって個が支配されるのではなく（過剰適応症候群）、また個によって他者を支配するのでもなく（自我肥大症候群）、

他者と関わる勇気を求め（無関心症候群）、社会に参加する決断を育てる（閉じこもり症候群）ことが必要なのです。


私達は子ども達に何を教え忘れたのか。

私達は、子ども達に自分一人ではなく、<span class="b blue">他者と共に生きていく喜び</span>こそ大切なのだということを、どれだけ教え、体験させてきたでしょぅか。

私達は子ども達に、


<span class="b green">「ありのままの自分をもっと好きになっていいんだよ」、

「人を信じて遠に協力していこうよ」、

「ちょっぴり人にも役立つことをしてみようよ」</span>


という呼びかけを、子ども達が問題を多発させるいまだからこそ、もっともっと伝える必要があるのではないでしょうか。


こんなちょっとした事例が参考になるかも知れません。

小学校二年の道夫（仮名）君は乱暴な子どもでした。

ちょっと気に入らないとすぐにものに当たったり、弟や妹をいじめます。

妹の大好きなおもちゃを取り上げて返しません。

めったに怒ることのないお父さんも我慢できなくなりました。

お父さんは宣言しました。

<span class="b green">「今後おまえがものに当たったりきょうだいをいじめたりしたら、この紙にいじわるシールを貼る。

反対に家の仕事を手伝ったり、きょうだいの面倒を見たりしたら、いじわるシールをはがしてやさしさシールを貼る」</span>

と。

しかし道夫君は相変わらずです。

いじわるシールがどんどん増えていきました。

いじわるシールで紙がいっぱいになりました。

自分でその紙を見て、少しずつお手伝いやきょうだいの面倒を見るようになりました。

いじわるシールが少しずつ剥がされていきました。

やさしさシールが増えていきました。

お母さんはやさしさシールを貼るたびに<span class="b green">「やさしいことできたね」</span>と声をかけていました。

妹が公園に遊びに行っているときに急に雨が激しく降ってきました。

お母さんが公園に傘を持っていこうとすると、道夫君が

<span class="b green">「お母さん、僕持っていくよ。妹も困っていると思うよ」</span>

と言って、土砂降りの雨のなかを妹のために、公園まで傘を届けにいきました。

その話を聞いたお父さんは道夫君に言いました。

<span class="b green">「傘を届けにいってくれたんだってな。お父さんもおまえがやさしい子どもになってうれしいよ」</span>

と。

道夫君は照れくさそうに

<span class="b green">「でも、いままで妹にたくさんいじわるしてきたから、こんなんじゃまだお返しが足りないよ」</span>

言いました。

それからまもなく紙にはやさしさシールがいっぱいになりました。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 14 Nov 2008 21:24:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育て支援、青少年教育に大きな役割を果たす電話相談</title>
         <description><![CDATA[電話相談とは　我が国の「相談」という分野で、電話相談として知られているものに<span class="b">「いのちの電話」</span>があります。

1971年東京に開設されたこの電話相談は、イギリスで1953年「自殺予防」を目的に始められた「電話相談」がモデルとなりました。

日本各地には訓練を受けたボランティアたちが、必要とする人たちの相談にあずかっています。

当初、いのちの電話の深夜待機には緊急時の援助（危機介入）があったといいます。

今では私たちの身近に、種々の電話相談の機関が生まれています。

保健所や教育相談室、また最近では家庭支援センターのようにごく身近な所、青少年対象のヤングテレホンや人権・法律相談のように専門的な相談機関にも電話相談窓口が設けられています。


<h3>電話相談の特性</h3>


相談を求める人（コーラー／caller）たちにとって電話相談は、いつ、どこからでも、誰でも、簡単に、面談が苦手の人や外出が困難な人でも匿名で直ぐ利用できる利便性があります。

相談援助がたとえ一過性であっても、利用者にとってその目的にかなう心理的ケアができるのも電話相談がもつ特性です。

地域資源として　私たちの住む近隣にある保育園・幼椎園でも地域の子育て支援や教育センターとしての役割を担っている昨今では、

地域住民のために日常の子育ての戸惑いにも相談ができるよう門戸を開いています。

若い親たちに安心して育児が営めるようにとの配慮は、虐待防止への一助にもなっています。

そのためには、各種専門機関が地域資源の情報を集め、ネットワークと活用できる体制をっくっていくことが必要です。


<h3>相談を求める人のために</h3>


相談者の年齢、対象はそれぞれに異なりますが、その目的を、


（１）孤独や不安な気拝に取りあえずの安堵を得ること、

（２）気拝を整理し当面の生きる希望を得ること、

（３）情報・社会資源の提供、に集約されるといっています。


従来、ボランティアが電話相談の担い手であることが多いのですが、相談員の研修は必須と考えます。

「顔も見えず」「声と息づかいからその背景を理解する」という力量には、「よい聴き手」になることが先決です。

問題を解決することではなく、

「今を支えること」、気持ちや葛藤の整理と「周囲の人との関係をつなぐこと」、相手の相談に謙虚にのぞみ「共に育つこと」です。

電話相談をさらに充実した援助とするために、必要な機関へつなげるのも電話相談の大きな役割です。
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         <pubDate>Fri, 14 Nov 2008 16:26:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>最近の子ども達をどう理解したらいいの？</title>
         <description><![CDATA[

<h3>子育てが「間違っていた」のではなく、「足りなかった」</h3>


相変わらず子ども達は様々な問題を私達の前に現しています。

問題行動は、その広がりだけではなく程度においても過激になっています。

ナイフ事件に見られるように、教師を刺殺してしまう事件まで発生しています。

中教審などの議論も、学校を中心とした教育的対応には限界があると言い出しています。

家庭教育に期待を表明しています。

しかし、親にとっても、いまの子ども達にどう対応していいのか戸惑っているのが現状ではないでしようか。


<span class="b green">「どのような子どもも問題を起こす可能性がある」</span>

などと言われると、

<span class="b green">「我が子がとんでもないことをしでかすのではないか」</span>

と不安な日々をすごさなければならなくなります。

今後問題を起こさないようにするためには、原因を知ることも必要でしょう。

しかし、いま現在、問題の渦中にいる親や教師にとって必要なことは、原因を知ることではないと思います。

どう対応したらいいかという目の前の子どもの成長に役立つ異体的方法や関わりを必要としているのではないでしょうか。

私達大人の、親や教師も含めて、子どもの育て方や、教育してきたことが間違っていたわけではないのです。


<span class="b">問題は、「教える必要のあることを教えてこなかった」だけだと思います。

子育てが「間違っていた」のではなく、子育てを通して教えることが「足りなかった」のです。</span>


いまの子ども達に改めて<span class="b green">「教えなければならないもの」、「作り出さなければならないもの」</span>が何であるかを考えてみましょう。

子どもの姿はその時代を反映してどんどん変わっていきます。

五年前の子どもといまの子どもではその反応が違っています。

五年前には、学校の帰りに必死に<span class="b green">「今日僕と遊ばないか」</span>と友達を探している子どもを何人も見かけました。

最近はそういう子どもも少なくなりました。

かわりに<span class="b red">無関心症候群</span>とか<span class="b red">過剰適応症候群</span>とか呼ばれる子ども達の姿がよく目につきます。

もちろん症候群という言葉は、病気を表す言葉として使っているわけではありません。

一群のそういう子ども達がいるという意味で使っています。


<h3>変わってきた子どもの姿（１）　−　無関心症候群</h3>


無関心症候群のケースです。

良子（仮名）の場合を見てみましょう。

援助交際で補導されたＳ子がカウンセリングにやってきました。

Ｓ子が友達だと言って良子を連れて面接にきました。

そこでＳ子の了解を取り、良子と面接をすることにしました。

良子はＳ子の行為に、

<span class="b green">「Ｓ子のような援助交際は自分はしない。

良くないことだと思う。

でもＳ子が援助交際をするのは彼女の自由。

私がやめなさいと言うようなことではない。

彼女が自由にやっているのだからそれでいいんじゃないの」</span>

と答えました。


<span class="b">これは最近の子ども達からよく聞く答えの一つです。</span>

友人が行っていることには干渉しない。

<span class="b green">「自分は良くない行いだと思っていても、相手の自由を尊重する」</span>

というのが言い分です。

相手の自由を尊重するという名目で他者と関わることを避けるのです。

関わることが干渉であるかのごとくに考えています。


次に最近増えている、<span class="b red">引きこもり症候群</span>と呼ばれる子ども達を見てみましよう。

他者への無関心から、一歩進んで、他者との関係を遮断し、自分の安全である世界へ、多くの場合は家庭ですが、引きこもってしまう子ども達も増えています。


一九歳の治夫（仮名）の場合です。

治夫は高校を不登校気味ながら、かろうじて卒業することができました。

しかしそれ以後、働くこともせず、家に閉じこもっています。

家を出るときは自分の好きな歌手のコンサートを聞きに、武道館やいくつかのホールへ行くだけです。

歌手に関する雑誌は、母親に言って買ってこさせています。

歌手のビデオも収録し何回も繰り返して見ています。

一九歳になっても生活は変わりません。家族との会話も必要最小限。

ただし注意されても文句を言い返したり、暴力的になったりすることはありません。

黙ってうつ向いています。


歌手の話だと一生懸命になります。

自分が有名な歌手であるかのような気分で話しています。

自分の気に入るビデオも見せてくれます。

しかしそれ以外の話をしようとすると、黙ってしまい沈黙が続きます。

郵便配達の人や集金の人がきても出ようとはしません。

電話にも出ない。

ファミコンと芸能界の世界で毎日を過ごしています。


<h3>変わってきた子どもの姿（２）〜過剰適応症候群</h3>


次は<span class="b red">過剰適応症候群</span>と呼ばれる子ども達です。

一見良い子に見えるので、問題を起こしたときに周りの人がびっくりする子ども達です。

見かけは適応状態がよく、親だけでなく教師を含めて、良い子どもだと思われています。

博美（仮名）の場合を見てみましょう。

博美は中学二年生のまじめな、評判の良い女の子でした。

そんな博美が中学二年の秋に不登校になってしまいました。

そのために、彼女は私達のカウンセリングを受けにきました。

博美には六人の仲良しがいます。

ある日の放課後、仲間の一人がハンバーガーを食べに行くことを提案しました。

しかし彼女はお腹もすいていないし、疲れていたので早く家に帰りたいなと思っていました。

気分としては断りたかったのです。

しかし現実に彼女の口から出た言葉は自分の気持ちとは裏腹に、

<span class="b green">「行こう、行こう。私もちょうど提案しようと思っていたの」</span>

というものでした。

彼女は

<span class="b green">「ここのバーガーおいしいわね。私大好き。またきたいわね」</span>

などと、場を盛り上げました。

実際には、おいしさなどほとんど感じていないのにも関わらずです。

寝るときに

<span class="b green">「明日も、帰りに寄り道を誘われたらどうしよう。

断ったら皆に嫌われてしまうかも知れないし、調子を合わせるのはくたびれる。

でも仲間に入れてもらえなくなるのはもっとつらい」</span>

と考え、なかなか寝つくことができませんでした。


博美のように、相手の気持ちを傷つけたり、嫌われることを恐れて、自分の気持ちを殺してまで迎合している子どもが結構います。


<h3>変わってきた子どもの姿（３）　−　自己中ー（自我肥大症候群）</h3>


最後に、「超自己中」とも言われる、<span class="b red">自我肥大症候群</span>の子ども達を見てみましょう。

周りの人と関係なく、自分の欲望のままに行動する子ども達も増えています。


和彦（仮名）の場合です。

和彦は中学二年のいわゆるツッパリ少年でした。

小学校のときに、先輩の中学生から声をかけられ、仲間扱いされることがよくありました。

中学に入るころには、すっかりいっぱしのツッパリになっていました。

たばこは吸うし、家のお金は無断で持ち出す。

注意しても

<span class="b green">「うるさい。文句あるか。俺は俺のやり方でやる」</span>

と宣言し、親にも暴力を振るうようになりました。

高校生を数人で取り囲み、お金を巻き上げる恐喝行為で補導されました。

一応警察官の前では二度とやらないと約束しましたが、家に帰ってくると

<span class="b green">「あんなのその場しのぎさ。今度は捕まらないようにうまくやるから」</span>

と平然と言っています。

自分のやたいことだけしか考えないのです。人の迷惑はどうでもいいのです。

<span class="b">結局この子ども達も人との建設的な関わりを教えられてこなかったのです。</span>


こういう子ども達の話が、児童精神科医や臨床心理学関係の専門家の間でもよく話題になります。

専門家のなかにも心配する人がたくさんいます。

もう少し、こういう子どもの心の問題を見ていきましょう。


<h3>人とのつながりが薄い子どもたち</h3>


最初は、人と人とのつながりを子ども達はどう考えているかということです。

子ども達に共通して見られることに、他の人とのつながりの薄さがあります。

家庭でも、学校でも、もっとも大切な仲間集団でも、自分がメンバーだという気持ちを持てない子ども達が多くいます。

どこかにつながっている、所属しているという感覚が薄いのです。


このような子ども達でも、形式的には何らかのつながりを持っています。

親子のつながり、教師と生徒のつながり、友達同士のつながり、これらがまったくなくなったというわけではありません。


つながりの薄さとは何が問題なのでしょうか。

人と人とのつながりを表す言葉に<span class="b">「関係性」</span>という言葉があります。

この「関係性」は大きく二つに分けられます。

少し難しいですが、その二つは「システム的関係」と「実存的関係」と呼ばれています。
これは有名な哲学者マルチィン・ブーバーが主張した「我とそれ」と「我と汝」と言うときと同じものです。

関係が薄いということは、関係が成立していないということではありません。

<span class="b red">関係の質の問題</span>なのです。


いまの子ども達も「友達いる？」と聞くと、ほとんどの子どもが「いるよ」と答えます。
子ども達は関係を持ちたくないと言っているのではありません。

いまの子ども達の関係のなかに人間的関係、言いかえれば「実存的関係」が希薄なのです。

自分の都合だけで相手を見ている「我とそれ」の関係が多いのです。

しかし子ども達はどこかで実存的関係を求めているのです。


<h3>本当は心のつながりを求めている子ども達</h3>


警察の少年係の人から聞いた話があります。

夜の十二時過ぎに、スーパー近くの道路にたむろしている少年達の集団を発見しました。

補導する前に、彼らを少し観察することにしました。

彼らはお互い同士で何か話をするわけでもなく、ただ、ぼーっと一緒にいます。

しばらくして、補導をしたのですが、お互いの本名を誰も知らないのです。

もちろん住所も知らない。

お互いが呼び合うのも、あだ名だけです。

九時過ぎに何となく集まり、プライベートなことは話さず、関係ない芸能界やサッカーの話をするだけです。

話題が途切れれば、後はただぼーっと一緒にいます。


<span class="b green">「何が楽しいのか」</span>という警察官の質問に、

<span class="b green">「一緒にいるだけでその時間は落ちつけるんだ」</span>

と答えたそうです。

<span class="b">本名も住所も知らない、ただあだ名で呼び合うだけの仲間でも、子ども達は必死に求めています。</span>

いまの子ども達の心の乾きがわかるような気がします。


インターネットが多くの人の関心と、利用者を増やしています。

このインターネットでのつながりは、まさにシステムとしてのつながりです。

文字情報を通して自分で作り上げた他者のイメージと自分とのコミュニケーションです。

「システム」のつながりは、できるだけプライベートな気持ちや感情を表面に出さずに、情報を中心に関係が作られます。

実際の人間の関係は、匂いもあり、表情もあり、声にも高低があります。

インターネットは生身の相手とのコミュニケーションではありません。

常に匿名性に隠れることのできる、安全な場所に自分を置いてのコミュニケーションです。

あだ名で呼び合う子ども達の人間関係の方がまだ、お互いの姿、形を確認しているだけ、人間関係としては深いものかも知れません。


いま、子ども達が求めているのは<span class="b f11em">「実存的人間関係」</span>です。


人と人との心からの人格的なふれあいとでも言いましょうか。

それができないゆえに、私達から見れば関係の薄い「システム的人間関係」になっているのです。

「実存的人間関係」は必ずしも安全なものではないかもしれません。

傷つけられたり、傷つけてしまうこともあるでしょう。

自分を賭ける勇気や、他者に関与する勇気が求められます。


このような「実存的人間関係」を作り出すことを可能にするためには、いまの子ども達に何を教えればいいのでしょうか。

子ども達に教え忘れたものは<span class="b">共同体感覚</span>と呼ばれるものだ考えています。


では、共同体感覚とは何でしょうか。

共同体感覚は、

<span class="b green">「自分を大切な存在と感じ、肯定的に見ることができ」、

「他者を信頼し共存して生きていることを受け入れ」、

「自分も他者にほんの少しでも貢献できることがある」</span>

という、<span class="b">自分への信頼感</span>なのです。


アドラー心理学の創設者であるアルフレッド・アドラーは、

<span class="b green">「私達は一人では生きられない、社会的存在であり、社会の進歩に参加する勇気こそもっとも大切なものである」</span>

と考えました。

さらに

<span class="b green">「このような共同体感覚は時代や文化を超えてすべての人間が生まれつき持っているもの」</span>

とも考えました。

共同体感覚は、教育や、子育てを通して、常に教えられ、育てられなければならないものでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 13 Nov 2008 22:06:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の行動を見ればいろいろなことが分かる</title>
         <description><![CDATA[
最近の子どもはよくわからないという話を聞きます。

子どもを理解するためには、実は心ではなく行動をよく観察するのです。

心の内面はわかりにくいけれど、逆に表に現れた子どもの行動はわかりやすい、だから、その行動をよく観察して、そこから問題に対処していきましょう。


よくお母さんがうちの子は暗い顔をしていますとおっしゃいます。

しかしこれではあまりにも漠然としています。

よくわかりません。

学校から帰ってきても、下ばかり向いていて、ご飯もあまり食べないと言われれば、わかりやすいですね。

これなら表に現れた子どもの下を向いていて、ご飯をあまり食べないという行動から、子どもの心理状態が良くないのではないかと推量できますよね。

そうすれば子どもの状態を変えていくにはどうしたらいいかを考えればいいのです。

行動は自分が決心すれば変えられるが、心はそう簡単に変えられません。

心の問題を行動の問題から見る必要があるのです。

変えることができるのは心ではなく、行動なのです。


心の問題というのは何かしら行動に反映するのですよね。

たとえば、いじめられている子がいて、あとで周りの人が全然気づかなかったと言われるのですが、それは子どもの行動に関心がいかず、結局子どもの行動の観察が足りなかった結果かも知れません。

子どもの心のなかをのぞこうとしても、行動を観察しないと「げすの勘ぐり」になってしまいます。


行動を見たら相手の心理状態がわかりますね。

よく相手の心理を読むというと、いきなり心から入りがちなんですが、それは非常に難しいんです。

逆に身体から心を見た方がわかりやすいんです。

私は仕事がら子どもと向き合うことが多いのですが、よくやることに握手があるんです。
ちゃんと握手をしてくれればある程度私のことを受け入れてくれているなと。

それがちゃんと握ってくれなかったり、下を向いたりされると、まだ心を開いてくれていないなと。

<span class="b">これは心を読んでいるのでなく、相手の行動を見て判断しているのです。</span>


心と身体は別々ではありません。

どっちかと言えば身体の方が基本というか、先にあると言っていいのではないでしょうか。


<h3>子どもの行動には必ず「目的」がある</h3>


相手の行動を観察するときに大事なことは、<span class="b">その行動がいつもと違っていないかどうかを見ることです。</span>

「変化」を見ることが大事なポイントです。

行動というのはその行動が向かう相手が必ずいるのです。

誰かに向かって行われているものなのです。

もちろんその場にいる人とは限りません。


<span class="b">そうすると、その行動が誰に向けて行われているのかということを見つけないといけません。</span>


たとえば、いつも一人だけ他の子と違った行動をして手を焼かせる子どもがいたとしますね。

普通にはしょうがない子だと怒ってしまいますよね。

しかし、そこでよく考えてみる必要があるのです。

違った行動をすれば先生なり親が注意してくれる、

<span class="b">すなわち注意するということで自分に関心を向けてくれるという結果になります。</span>

関心を引いてもらいたいと思っている子どもにはこれは願ってもない結果なのです。

<span class="underline">一般に注目を浴びるような行動は、親なり先生なりから関心を向けてもらいたいサインなのです。</span>


ですからちょこまか動いて落ちつきのない子どもは、単に脳に問題があるとかではなく、誰かに注目してもらいたい、関心を払ってもらいたいのです。


人間というのは、一番恐ろしいのが<span class="b red">「無視」</span>ということなんですね。

誰からも相手にされなくなることが一番恐い。

いつも誰かからはめられるのが一番だけど、もし、それが無理なら、二番目には怒られることを選ぶ。

<span class="b red">怒られるより無視される方が辛いのですね。</span>

無視されると存在そのものが否定されたように感じるのですね。

怒られている間は、まだ存在が認めてもらえていると感じているのです。


存在を確認してもらいたくて、ちょこまか動く子がいます。

だから子どもの行動には「目的」があるんです。


「原因」というのはよく分からないもの。

「なぜ」そうなったのか。

非行の問題にしても、よく子どもの頃の家庭環境が原因だったと言われますが、では、家庭環境が悪い子どもは皆非行に走るかというとそうでもないのです。

だから過去が必ずしもその人の現在を決めているのではないのです。


それよりも自分がこれからどうしたいか、あるいはどうなりたいかを、いま、その人が選択し決定していく態度の方が行動に影響が大きいのだと考えます。

「原因」があって何かするというのではなく、「目的」が先にあるということです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 12 Nov 2008 13:11:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>どんな社会になっても幸せになれる子どもを育てよう</title>
         <description><![CDATA[親は子どもに良かれと一生懸命子育てをしています。

しかし必ずしも子どもは親の希望通りには育たないものです。

子育てで何よりも大切なことは、一人前に社会に自立していける子どもを育てることです。

いま、目の前の子どもに一喜一憂することではないのです。

日々の子育てはうまくいったり、失敗したりの繰り返しです。

そうしながらそれほど遠くない将来に、子どもは一人前の大人として、親から離れていくのです。

どんな大人として自立していけるかが、子育ての成功か失敗かを決めるのです。


そのためにも子ども達が大人になる二〇一〇年から二〇二〇年の頃を考えた子育てが必要なのです。

今の子ども達が大人になる頃の日本の社会は、厳しい社会になると予想されています。

年金にしろ消費税にしろ失業率にしろ、いまのままではとても済みそうにありません。

大企業と言われる会社も果たして存続していられるかどうかわかりません。

そんな不透明な社会でいまの子ども達は、その日本を支えていかなければならないのです。


ある中学生が言っていました。

<span class="b green">「どうせ俺達が大人になる頃はろくなことはない。せめていまのうちは自由にやらせてよ」</span>

と。

これは彼らの生活を弁解する言葉かも知れません。

しかしそれだけではなく、いまの子ども達も自分達の将来が明るくないということを感じ取っているのかも知れません。


アルフレッド・アドラーという精神科医がいました。

彼はアドラー心理学の創始者です。

彼は人間がどんな状況にあっても幸せになれる条件は三つあると言っています。


その第一は自分を好きと思える<span class="b">自己肯定感、</span>

第二が<span class="b">他人への信頼、</span>

第三が<span class="b">ほんの少しだけれども人の役に立つことができるという貢献感</span>だと言うのです。

そして成功する子育ての秘訣は、アドラーの言うこの三つの感性や能力を育てることでもあるのです。


いま子育てに問題はないけれど、二十一世紀に我が子がたくましく一人前に自立していってほしいと願っているすべての皆さんに、

第二は、自分の子育ては二十一世紀に生きる子ど庵にとって、これでいいのだろうかと不安を感じていられるお母さんに、

そして二十一世紀ではなく、現在お子さんのさまざまな問題に悩まれているご両親にこのサイトが少しでも参考になれば幸いです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 11 Nov 2008 05:47:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>かたい物を飲みこんだ</title>
         <description><![CDATA[一瞬目を白黒させてもがいても、すぐ平気な顔にもどったり、大声で泣いてもすぐ泣きやんで、いつもどおりに遊びだしたら、

その物はどこにも引っかかっておらず、胃の中に入ったと考えてよいでしょう。

小さなおもちゃ類、コイン、ボタンなどは、まず心配はいりません。

針やピンのようにとがった物でも、意外に胃腸の中をうまく通ってでてしまうものです。
二〜三日の間は大便をよく調べ、排泄されて出てくれば安心です。


万一、<span class="b red">腹痛</span>や<span class="b red">吐き気</span>をおこしたら、至急、検査を受けなければなりません。

また、なんともない場合でも、三日以上も排泄されないようなら、いちおう調べてもらうほうがいいでしょう。

意外に飲んでいなかったということもあります。


ボタン形アルカリ電池の場合も、ほとんど自然にでてしまいますが、電池の種類と状態によっては危険なこともありますので、いちおう外科医か<a href="http://www.j-poison-ic.or.jp/homepage.nsf" target="_blank">中毒１１０番</a>に相談しておくのがいいでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">応急処置</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 10 Nov 2008 22:58:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>園での日常的な相談</title>
         <description><![CDATA[保育の場は園児にとって毎日の生活の場です。

大勢の子どもが保育者とふれながら、その発達を促す環境や保育が準備され、その中で育っていきます。

子どもは日々変化していき、その時々の判断や対応、即決即断が求められることも多いでしょう。

家庭にあってもすぐに判断し、対応しなければならないことが多いのが<span class="b">子育て</span>です。

人から聞いていればなんでもないことでも、一人で対応しているとちょっとしたことでも不安のもとになります。

こんな時、先輩や同じような経験をした人の話が役に立つことがあります。

保護者同士の経験や対応策を聞いておくことが参考になったり、経験豊かな保育者の一言がとてもありがたいことがあります。


相談と構えなくても、日常のふれあい、朝夕の立ち話から助けられることもあるでしょう。

保育者は日常的な保護者との対話を大切にしたいものです。

園での日常的な相談は、トイレットトレーニングや食事など生活習慣に関すること、しつけや体のこと、乱暴だとか友だちとの遊びなど行動に関することが多いようですが、どのように対応しているでしょうか。

子どもの園での様子から判断してヒントになりそうなことを伝えることが多いのではないでしょうか。

役立ちそうな方法や考え方、それに関する情報が伝えられることは、保護者にとって助けになると思います。

その際、指導的になったり断定的にならず、保護者自身が考え、ヒントになる材料を提供するといった姿勢が大切になるでしょう。

子どもを育てている主体が保護者であることを、念頭においておくとよいと思います。


園以外でその親子にとって役に立つ地域の資源、場や機関があったらそこにつないで、連携していくことも必要になるでしょう。

そのために、園は地域にある資源や機関について知っておく、情報として揃えておく、必要に応じて関係をつけておくことなどが望まれます。


今は次世代の子どもたちを社会全体で育てていこうという時代です。

園だけでどうにかしようと思わず、地域資源を活用していくことが、子どもが育つ地域をつくっていくことにつながると思います。


相談機関で相談を担当する立場として園に助けられることは、園という保育の場が子どもの生活を引き受け、見てくれるということです。

子どもの園での生活が保障されてこそ、他機関での相談も効果をあげることができるのです。

どんな子どもにも普通の生活、仲間との生活が必要です。

園生活はそれを与えてくれます。

相談機関との連携がうまく取れることは、親子にとってもたいへん助けになることと思います。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 10 Nov 2008 12:26:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>園による育児・子育ての相談</title>
         <description><![CDATA[

<h3>保育者一人で抱え込まない</h3>


少子化や育児不安が高まる中で、園でも最近は園児の保育だけでなく、

<span class="b">保護者の相談、そして地域の親子の相談</span>まで引き受けることが求められるようになりました。

園児の保育だけでもたいへんな中で、保護者への対応や相談に戸惑うことも多いことと思われます。


園は、子育て中の親にとっては子どもの保育をお願いするだけでなく、親が子どもや子育てについてわからないことや聞きたいことが聞ける、頼りになるところかと思います。

今は核家族が多くなって実家からも遠く、近所に知り合いもなく孤立しやすい転勤族も多くいます。

子育ては、親やまわりの人たちから自然に伝えられたものだったのですが、今は小さい頃から勉強に励み、小さい子どもに接することもなく育った人たちが親になっています。

物心がついてから初めて抱いた赤ちゃんがわが子だったという人も少なくありません。

園に入るまでの、特に最初の子育てでは、ささいなことでも不安のもとになります。

まわりに話せる人がなく、孤立している人ほど不安は強くなることでしょう。


入園しても大勢の子どもの中でのわが子がうまくやっていけるのか、ことあるごとに親心は揺れることでしょう。

ちょっとしたことで悩み、困って相談したいことも出てきます。

しかし相談ごとはそう簡単に話すわけにはいきません。

保育者がいつも忙しそうであれば声はかけにくいでしょう。

いつも声をかけてくれる保育者は、わが子をよく見ていてくれるありがたい存在に映ります。

<span class="b green">「この先生はどのくらい話を聞いてくださるだろう」

「わかってもらえるだろうか」

「こんなことを聞いたらどう思われるだろう」</span>

などが気になって言い出せないことがあるかもしれません。

保護者は保育者のちょっとした一言ややりとりからも、聞いてくれそうな先生か、どの先生なら話しても大丈夫だろうかなどをはかっています。

いつでも信頼して声をかけてもらえる保育者でありたいですね。


園は保護者にとって、毎日通って子どものこともわかってもらえる身近な存在です。

気軽に相談しやすい窓口のようなところでもあります。

日々迷うことを保育者に聞くだけでなく、保護者同士で解決できることもあるでしょう。

しかし深刻な相談になると親しい間柄ではむしろしにくく、園で抱え込むには重すぎることもあります。

担任一人で抱え込まないで、守秘義務を守りながら固全体で対応することも必要でしょう。

他の相談できる機関につなげ、園が病院や相談機関の専門家と相談しながら、保護者に対応していく体制をつくっておくことも大切なことです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 09 Nov 2008 06:59:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>自己実現を達成するには、どうすればよいか？</title>
         <description><![CDATA[まず何よりも、自分の子供の「強み」・「弱み」は何なのかをつかまなければいけない。
知性的・感性的な能力、性格、価値観、嗜好性、問題意識といった面から見て、これからの時代において「強み」となる資源は何か、「弱み」となる資源は何かを把握するのである。

そうした前提に立って、では、どうすることが、何を実現することが、子供の人生にとっての幸福なのかと考えるのである。

将来の幸福を考える基本は、どういう方面に向いているか、何ならできるか、ということであり、

子供が何をやりたがっているかとか、親として何をやらせたいか、などではけっしてないことに注意しなければいけない。


これは、幼い子供だから、ということではなく、たとえば、大学生の就職などについても言えることなのである。


キャリア・ウーマン輩出校としても有名な津田塾大学の学生生活課長である西山京子氏は就職活動を前にした学生に対して、次のように指導するという。


<span class="b">1　何をやりたいかは、重視しないこと。</span>

最近の学生は、憧れや見栄から、自分のやりたいことに固執してしまう。

そこには、それが、ほんとうに自分に向いているのか、という観点がないため、結局うまくいかない、ということになりやすい。


<span class="b">2　したがって、あくまで自分の得手不得手は何かという考察を踏まえて進路を決めること。</span>

「自分が英文科にいるのなら、なぜ、英文科に来ようと思ったのか？

それは、英語が得意だったからか？

では、いつ、どういうきっかけで、英語が得意になったのか？

その背景は、いったい何なのか？」


そういう形で、突き詰めて考えていくように指導するのだという。

端的に言うならば、すでに22才に達している女の子たちに対して、10年前まで記憶をさかのぼることによって、自分自身の「人生脚本」をできるだけ正確に把握するよう指導しているのである。

まことにみごとな見識であると言えよう。

どういう経緯で、津田塾大学に入ったにせよ、それが、みずからの「人生脚本」を生かす形のものだったなら、就職の方向も、大きく踏みはずすことは少ないだろう。

しかし、「人生脚本」を生かしていないとすれば、就職もまた、選択を失敗する可能性がきわめて高い。

だからこそ、ここで、「人生脚本」の書かれた時期までさかのぼって、自分の得手不得手を、もう一度確認しよう、というわけなのである。


世の中のあかで、彼女らの直観力も曇っていることだろう。

はたして、どれほど正確に「人生脚本」は見えてくるのだろう。

仮に見えたとしても、方向転換は容易ではあるまい。

残念ながら、残された選択肢はもはや少ないと言うべきである。

やはり、「人生脚本」というものは、それが書かれた前後に、しっかりと読んでおかなければ、どんどん使いにくくなってゆくのである。


真に子供の自己実現を考えるならば、中学入試を考える時点において、<span class="b">「人生脚本」を生かした基本的方向づけは、どうしても必要なのである。</span>

子供には無限の可能性があるなどと言って、決定を先に延ばそうとするのは、単なる怠惰か親としての責任放棄にすぎないということを認識しなければならない。

ただ、だからと言って、あまり神経質になることはない。

いまなすべきことは、あくまで、基本的な方向づけである。

「人生脚本」と社会環境の変化を相互ににらみながら、基本的な方向づけを行い、以後、その実行段階において、微調整を加えてゆけばよいのである。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 07 Nov 2008 16:14:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>人としての根っこをつくる家族関係とは</title>
         <description><![CDATA[一般的には子どもは家族の中に生まれそして育てられます。

今は家族の形も多様になって、構成員は少なくなっています。


三世代で暮らす大家族が減って核家族が増加、一人っ子も増えて、その親と、あるいは親と少ないきょうだいとの核家族で育つ子どもが多くなっています。

祖父母と会う機会も少なく高齢者になじみにくい子どもがいたり、身近に肉親の死に遭遇することもまれになったりしています。

幼い命や赤ちゃんにふれる機会も少なく育ち、赤ちゃんを抱くのは自分が産んだ子どもが初めてという親も、珍しくなくなってきました。


子どもは育つ過程で、たくさんの人にふれ、見守られて育つことが望まれます。

親子の絆をしっかりとつくっておくことは大切ですが、それは親子が密着していたり人々から孤立したりしていてよいということではありません。

子どもが家族の中で安定した関係と居場所をもっていることは、育っていくうえでの安心の基盤となります。

子どもは家族の中で人との関係を学び、価値観、ものの見方などを身につけていきます。

子どもにとって初めての環境、それは家族であって、そのありようが人としての根っこをつくっていく役割をはたします。

親は子どもを産み育て、子どもにとって最初の先生であり、一生の間、子どもに影響を与え続ける存在なのかもしれません。


しかし、子どもの側にも生まれつきの気質というものがあってそれが親に影響を与えることももちろんあります。

上の子がおっとりした子になりやすいのは、親の注目と十分な世話を受けやすいからで、下の子は逆におっとりしていては十分構ってもらえず、注目を得る必要からも自己主張が強くなると考えられます。

また、親にそのつもりはなくても、子どもの反応によってそれぞれの子どもへの接し方が違ってしまうことがあります。

親子関係も相互の人間関係ですから、子どもによってそれぞれ独自な関係ができてしまうのです。


親には、子どもを産むことでなるわけですが、親になるまでにはさまざまな過程があります。

父（母）親となる相手との関係、子どもを産むことを望んでいたのかどうか、生まれた子どもの性別への期待などが、生まれてきた子どもへの姿勢を決めることもあります。

その前に親になる人自身のありよう、自分を好きで肯定できているか、自分のことを理解できているか、成熟した大人になっているかなどは、親になるための大切な条件であると思います。

親であることは、自分という全存在で子どもと向き合うこと、子育てには生身でかかわることが求められます。

親自身について考える作業も、親との相談の中では必要になってくるでしょう。


子どものもう一方の親、パートナーとの関係はどうでしょうか。

パートナー選びには実は自分自身の親との関係がかかわっていることが多いものです。

父と母の関係は自分の夫婦関係のモデルとなりますし、反面教師として逆のタイプの人を選ぶ場合もあります。

理想的と思った相手でもお互いに違った育ちをしているのですから、まったく同じではないし、思い通りになるということもないでしょう。

<span class="b">違った者同士が理解し合い、折り合いをつけて、子どもを愛し、協力して子育てができれば子どもにとっても幸せなことでしょう。</span>


しかし、小さな対立が重なって両親の間に破局を迎えることもまれではなくなりました。

そんなパートナー間の関係が直接、あるいは間接的に子どもに影響することはいうまでもありません。

こうした危悦が感じられる場合、個人的なことではありますが、両親の状況にも注意を向け、家庭への配慮や支援をしていくことも保育の場に求められているのではないでしょうか。

ことに父親にとって、子育て参加が難しい働き方が一般化して、母親に全ての負担がかかっている家庭も多いのですが、

子どもと両親間にバランスのとれた親子関係をつくっていくためにも、父親への働きかけにも工夫が望まれます。


<span class="b">親自身の親との関係ですが、実は子育てに深い関係があります。</span>

親になっていながら、自分の親の娘や息子でいる状態から抜けられない、自立できないでいる人が少なくありません。

祖父母が、親になった娘や息子をいつまでも子どもとして束縛したり介入したりする場合も多く見られます。

このことに気づかない人も多いのですが、気づいた人はたいへん悩みますし、そこから抜け出すにも相当な努力を要します。

親子の関係は一生のものですが、子どもが成長するにつれてその自立を認め、尊重する関係でいたいものです。

子どもも反抗期を経て自立に向けて歩んでいく必要があります。

親になる前に一個の自立した人間になっていることが大切なのです。


「子どもとの関係」をテーマに友人たちと話し合ったことがありました。

自分の親との関係を子どもとの関係に引き継がないようにするにはどうしたらよいか、ということが話題になりました。

今から子どもとの距離を考えておきたいという話も出ました。

自分と母親との関係をどう断ち切るか、ということを真剣に話し合ったこともあります。

娘としては親を否定しなければならないつらいことです。

しかしそれをしないと親としてやっていくことが困難なのです。

そんな思いを抱えている親もいます。

親との相談には、背景にこんなこともあることを理解していただければと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 06 Nov 2008 05:25:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>頭を打った</title>
         <description><![CDATA[打ったとたんに泣きだし、すぐ泣きやんでけろりとしていれば、まず安心していいでしょう。

いちおう、その後三〜四日間は<span class="underline">次の三点</span>にそれとなく注意をして、なんともなければ大丈夫です。

すぐ検査しても異常はでません。

<span class="b red">しかし、次の三点のうちの一点でも現われたら、病院に行ってください。</span>

それからでもおそくはありません。


<span class="f11em">（１）他にこれという原因がないのに、しきりにぐずったり、頭を痛がって、おさまらない。


（２）しきりに吐く。


（３）意識がおかしい。ひきつけた。</span>


すぐ泣きださず、ぐったりし、青くなって、名前を呼んでも応えないとか、ひきつけたときは、大至急、<span class="b">脳外科のある病院</span>に直行してください。

いったん気づいても、もうろうとしているときや、たとえ元気でも、あまり高いところから落ちたときは、念のため病院で診てもらったほうがいいでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">応急処置</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 05 Nov 2008 03:37:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の食事については、多少の飢えが大事</title>
         <description><![CDATA[異なった世代がともに暮らす家庭では、食事はしばしば紛争のたねになるようです。

考えてみれば、おとなと子ども、年寄りと若い人では好みから食べる量、空腹を覚える時間、たしなみかたまで大きくちがうので、トラブルがおきないほうが不思議です。

そうだとすれば、食事にはある程度の目こぼしと、たがいにゆずり合う寛容があるのがよさそうです。

さもないと、紛争が高じるか、だれかが涙をのんで、結局は不快を招くことになりかねません。

子どもが少ししか食べないとか、<span class="b red">「偏食」</span>がひどいと気になるでしょうが、これもあくまで親の側からの感じ。

勝手なあせりかもしれないという一歩退いた見かたをしてみたらどうでしょぅ。

そうすると、これがその子にとっての食事なのかと思えてくるのではないでしょうか。


じっさい、そういうタイプの子はたくさんいますし、それでけっこうやっていけるのです。

それは、栄養はすべての栄養素をいつもまんべんなく取らなければならないものではないからでしょう。

こんな子をやいのやいのと攻めたてるのは酷なことです。

子どもにしてみれば、欲しくもないのに食べさせられるのはつらいし、かえって、いやになってしまいそう。

あとで欲しくなったとしても、意地が許さなかったり、ぐずって親にさからってみたくなるかもしれません。


<span class="b">必要なのは、与えるより、むしろ飢えさせることかと思います。</span>

めいっぱい遊べばおなかも減るでしょう。

そのうえ、いっしょに献立を考えたり、買い物や調理を手伝ってもらったりすれば、もっと食欲はわくでしょう。

食卓では多少散らかしたり、もたもたしていても、あまりうるさくいわないこと。

「正しい」マナーにこだわって、楽しさをなくしてはつまりません。

大食で太りすぎが心配な子も、飢えが大切。

食べることを忘れてとことん遊んだあげくの食欲なら、肥満にはならないはずです。

ただし、いまの日本では、添加物の多い食品には自制心を持たせなければと思います。


<h3>飲みが減る</h3>


あるころから、母乳やミルクの飲みかたが急に減りだすことがあります。

いままでたっぷり飲んでいたのが、勢いがなくなり、見向きもしなくなったりすると、親は大慌て。

<span class="b">病気は別として、飲みが減ったのは、たいてい、赤ちゃんの成長のしかたに変化がおきているのです。</span>

これまでぐんぐんふとって、体重もひと並み以上といった子の場合は、ここで小休止。

このままのペースで飲みつづけると巨人になってしまうので、いわば<span class="b blue">「自動調節」</span>を働かせているわけ。

こういうのに「親心」を押しつけて無理強いすると、本当の「乳ざらい」になってしまう恐れがあります。


離乳食がすすむころになると、母乳やミルクよりも、ほかの食品の昧のほうがよくなって、飲むのをきらう子もでてきます。

たくさん食べるようなら、思いきって離乳をすすめたらいいでしょう。

食べる量が少なく不安があったら、牛乳を与えてみるのも一法。

砂糖は加えないで、初めは三分の二の濃さから、一、二ヶ月もしたら薄めずに。

バニラのエッセンスなどを落とすとよく飲むかもしれません。

晴乳瓶を嫌うときは、スプーンやコップなどで。

調理に牛乳をふんだんに使うのもよいことです。


六、七ヶ月を過ぎた赤ちゃんは、<span class="b blue">「遊び」</span>がさかんになってきます。

おっぱいを飲みながら、周囲のことに気を取られるし、飲むよりもいたずらのほうに興味を示すかもしれません。

それはそれで、うれしい成長をものがたるものです。

テレビなど、授乳時にあまり気を散らす刺激は避けるとしても、栄養より行動の広がりを喜んでやってください。


気分が快いように環境を整えてやることも必要です。

ベッドに寝かせていることが多ければ、なるべく出して動き回ったり、遊んでやる時間をつくってやってください。

旅行とか来客で習慣を乱されたときは、日常を取り戻すために、二、三日はぐっと落ちついた生活を。

食欲は状況に応じて動揺するのを防げませんが、早く回復しないと体調をくずす恐れがあります。


むし暑い巨ハ�kつく妄∵こ、ミルクを冷たくしたり、牛乳にかえたり、むぎ茶、ヨーグルトなどで消耗を防ぐ工夫をしてください。


<h3>食べない</h3>


お誕生を過ぎるころから、急に食べなくなることがあります。

親というものは、子には食べさせたがる性がありますから、これはたいへん気にかかる出来事です。

たいていの親は懸命に格闘を始めます。

でも、なかなかうまくいきません。

いろいろと工夫し、やいのやいのと脅したりすかしたり、結局はため息をつきながら日がたって、いつの間にか、この戦争もうやむやにすんでしまうのが落ちのようです。

そのあげく、栄養とか発育に重大な支障をきたすこともまずありません。

多少やせ気味でも、元気に育っていくのが不思議なくらい。

どうやら、赤ちゃんは、そんなふうにできているのです。

からだのことでは、もうこのころには目覚ましい発育の時期は終えて、皮下脂肪も減り、すらりとした体形に転換しだすので、前よりも栄養はいらなくなります。

けれど、赤ちゃんを見ていると、それよりも、食べること以外のことに気が向いてしまうのが大きな理由のように思われます。

親が食べさせようとするのを、そらしたり拒んだりして、試し、遊び、自己主張もやっているらしい。

これは赤ちゃんの発展であり、親を相対化していく試みなのでしょう。


そうとすれば、無理やり食べさせにかかるのは、生理的にも心理的にもふさわしくない。
いままでの<span class="b">「発育第一」</span>ではなく、食事を楽しみ、子どもなりのしかたで家庭生活に位置づけるよう切り替えるのがよさそうです。

<span class="b">まず、本人の食べる気を待つこと。</span>

遊びに夢中になっているのを、中途でテーブルに着かせるなどは下手なやりかた。

食卓が整う気配に関心を向けたときさっと連れてくるとか、親だけ先に食べ始めて寄ってくるのを誘ったりしたらどうでしょう。

<span class="b">食品は、本人の好むものを食べるだけ与えること。</span>

きらいなものを強制するのは、食欲を閉ざすだけです。

せめてたわむれみたいにして少しずつ口に入れるくらいに。

偏食と「むら食い」は、この時期の赤ちゃんでは普通です。

むしろ、そのほうが心身の現実に忠実なのかもしれません。

<span class="b red">いつも万全な「栄養」をとらせるという考えは、そもそも人間の自然と主体的意志に反するものです。</span>

しかし、単なる放任ではなく、その場の食品の中から選択することになるのですから、食卓は豊かにして、生活のけじめはつけるように。


いまは家庭とか幼稚園とかの努力だけで子どもをちゃんと育てることができなくなった時代です。

いくら親や先生が一生懸命に育てようとしても、人間の生きる基盤である環境そのものがものすごく<span class="b red">汚染</span>されているからです。

<span class="b f11em">ですから、現代の子育ては、なによりも環境をよくすることからはじめなければならないと思います。</span>

まず、身近なところで、空気、食物、衣服、住居、交通の安全を求める必要があるでしょう。

ですが、これらは個人の努力だけではどうしても限界を感じるにちがいありません。


たとえば、食物は、目を皿のようにして有害な添加物の有無を調べようとしても、表示がよくわからないし、その表示さえないものも少なくはないのが実情です。

とすれば、なによりも行政レベルでしっかりした対策をとってもらうことが先決。

そのためには<span class="b blue">消費者運動</span>が不可欠になってくるでしょう。

まして、その食物に放射能が入っているかいないか、どれだけ入っているかといった心配になれば、これは明らかに個人の判断の城を越えています。

とりあえず消費者運動として取り組まなければなりませんが、それだけでは不十分。

国に対策を迫る必要も大きいですが、それでも足りない。


核兵器や原子力発電の危険などは国際的に対策を講じてもらわなければならないことでしょう。

さらに大規模な自然破壊になると、もう地球規模の問題。

人類として阻止するはかないはずです。


そうした思慮と行動を欠いた子育ては、砂上の楼閣。

<span class="b blue">本気になって子どものこととおとなたち自身のことを考えるのなら、家庭とか学校とか狭い場所からでて、社会的にアクションをおこさなければと思うのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 04 Nov 2008 00:38:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てで本当に必要なのか疑問に思う３つのアイテム</title>
         <description><![CDATA[

<h3>携帯電話、ベビーカー、おしゃぶり</h3>


携帯電話については電磁波の人体への影響が指摘されていますが、明確な害については医療機器を使用している人への配慮にとどまっているようです。

この明確にはわからないということが安全であるということではなく、まだ幼い命に絶対安全とはいいきれません。

すぐに、でなくとも将来何らかの影響が現れないとはいいきれないのではないしょうか。

生物としての身体への懸念もさることながら、携帯電話に支配された現代の生活が、

<span class="b red">子育てに及ぼす精神的影響</span>についても考えてみたいと思います。

いまや携帯電話が人々の重要なコミュニケーションの道具になっていることを否定はしません。

しかしそれがないと人と意思を通じ合うことが難しそうな様子があり、目の前にいる人の表情や声、身振りからじかに感じとり、相手と交流していく力が弱まっているのではないかと思わされることが多くなりました。

とりわけ言葉の通じない乳幼児を育てる時には丸ごとの自分で、じかに子どもと向き合っていかなければなりません。

子どもの表情を読み、泣き声からも子どもが求めていることや気持ちを汲みとって、その場その場で言葉や行動で応えていくことが大切な時期です。

街中でも、そばで話しかけたり訴えかけたりしてくる子どもを尻目に、携帯電話の操作に夢中になっている人をたくさん見かけるようになりました。

自宅で電話で通話するだけならまだしも、散歩の途中や電車のホームや車中でさえ、あの小さな携帯の画面に夢中で見入る親の姿を、子どもはどんな気持ちで見ているのでしょうか。

散歩では見るもの聞くもの子どもにはめずらしいものばかりで、あれは何、これは何、と聞きたいことはたくさんあるでしょう。

見ているものについて<span class="b green">「きれいなお花ね」「大きいワンワンだね」</span>と話しかけてもらいたいのだと思います。

電車の中でも駅でも、子どもには話したいこと、聞きたいことはいっぱいあるに違いないのです。


しかし親子が黙々と無表情にそばにいる姿は、親子のコミュニケーションや人と関心を共有し共感する力がどう育っているのか、気になる光景です。

ベビーカーに乗せられた子どももすっかりあきらめ顔で、クッションも悪く、地面に近くてほこりを吸い、親の顔も見えない方向を向いて、無表情にひたすらおとなしく揺られています。

かなり歩けそうな子ども、歩き回りたいのではないかと思える子どもも、歩くことをあきらめたのかのように窮屈な席に乗せられています。

荷物が積めて移動が楽、電車やバスにも持ち込めるようになった今、ベビーカーは便利な道具ですし、とくに一人での子連れ外出には必需品であるのは間違いありません。


しかし、両親や祖父母など大人の手が複数ある場合にも、子どもをベビーカーに乗せる必要があるのでしょうか。

ベビーカーの上で大泣きしている子どもにお構いなく、談笑しながら歩き続ける大人たちも見かけるようになりました。

子どもは泣くことで、どうにかしてほしいと何かを訴えているはずです。

抱き上げないまでも、子どもに声をかけたり、気持ちを確かめたりして泣かなくてもすむようにしてあげればよいのに、と思います。

すぐに抱っこしてあやしながら歩けば簡単なこと、子どもも温もりにふれて安心するのではないでしょうか。

重たいベビーカーを扱い、駅の階段を持ち上げるより、歩ける子どもなら手を引き、必要なときには抱っこやおんぶ紐を使って移動することは、考えられないでしょうか。


車の危険を避け、子どもが勝手な方向へ行かないようにベビーカーに乗せた方が安全ですし、親のペースで行動しやすいでしょう。

しかしその使用は、

<span class="b">子どもの行動する自由と喜びを抑えず、動き回ることによる身体・運動機能の発達を阻害しない範囲にとどめたいものです。</span>

そして<span class="b blue">抱っこやおんぶは子どもに安心感を与え、スキンシップや会話を容易にするメリットもある</span>ことを、今一度見直したいと思います。


もう一つ、<span class="b">おしゃぶり</span>ですが、親の方から積極的に与えなければならないものでしょうか。

人工乳で吸うことが不足していたからとか、鼻呼吸が身につくからといった理由もあるようですが、子どもが求めていなくても、泣き始めた時、寝かせたい時などに口に突っ込む人を多く見かけます。

中には子どもがいつでも使えるように、子どもの胸に紐で下げている人もいます。

これは衛生的にも問題ですが、どういう意図でそうしているのか理解に苦しみます。

子どもが声を出して泣くのは当たり前のことで、意思を表明したり人に何かを訴えたりする手段です。

それをしようとしているときに異物を口に突っ込まれるのはどんなものでしょうか。

吸うことは嫌いでないので、しかたなく声を出すことを中断して吸い始めるでしょうが、子どもが伝えたかったことはどうなってしまうのでしょうか。

子どもが口をふさがれ、ごまかされているように思えてしまいます。


また<span class="b red">伝える力や言葉の発達への影響</span>も気がかりです。

電車の中などでは泣かせにくい雰囲気は確かにあります。

<span class="underline">人々が子どもの泣き声にも寛容ではなくなっていること</span>も残念です。

まわりの人が一緒にあやしてくれる社会になることが必要なのかもしれません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 01 Nov 2008 20:22:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供が安心できる居場所が必要</title>
         <description><![CDATA[

<h3>物理的・心理的に安心できる場所</h3>


子どもの居場所がなくなりつつあるといわれて久しくなります。

家庭においても、地域社会においても子どもが安心して遊び、憩える場所が少なくなっています。

居場所というのは、物理的な空間と心理的に安心できる場の両方を含んでいます。


子どもの居場所がなくなってきた原因として、<span class="b">社会全体の変化</span>があげられるでしょう。


子どもが2〜3歳になると、極端な場合は0歳の頃から、いろいろな習いごとや塾に連れて行き、他児よりも早く上手に何かができるようになることを親が子どもに要求する家庭が増加しています。

早期教育の普及は、本来は憩いの場であり、子どもがリラックスしてありのままの自分でいられた家庭を変えてきたように思われます。


早くしなさい、上手にしなさいとせかされ、そのままの自分では受け入れてもらえないことを直感し、幼い時からがんばってよい子でいるようふるまわなければならなくなりました。

<span class="b">子どもの成長・発達を、せかさずにゆっくり見守ってくれる大人の気持ちとまなざしが必要でしょう。</span>


また、少子化や電化により家事にかける時間と労力が削減され、一人の子どもに注がれる親の目や期待が過剰になり、子どもに逃げ場がなくなっているように思われます。


さらに、保護者による虐待が増加していますので、被虐待児にとって、家庭は安心して生活できる子どもの居場所ではなくなっています。

地域社会においても、人と人とのつながりが希薄になっていますので、子どものことを気にかけて見ていてくれる近隣の人が少なくなってきています。

地域社会の崩壊は、子どもに対する悪質ないたずらを許し、危険な場所を増やすことになり、子どもが安心して外遊びができなくなってきています。

<span class="b">ですから、保育所や幼稚園は、子どもにとって快適な居場所であってほしいと願います。</span>


保育所だけでなく幼稚園でも<span class="b blue">延長（預かり）保育</span>を行う園が増えましたので、保育時間が長くなりました。

一日のうち、かなりの時間を過ごす保育所や幼稚園が、子どもの居場所として機能することは今の時代には不可欠です。

経済効率を第一にしてしまいますと、園の規模が大きくなり、クラスの子どもの数が多くなり、子どもを集団で一斉に動かす活動が増加します。

それでは、園は子どもの居場所としては不適切でしょう。


乳幼児は、発達が未熟なだけでなく、発達を含むさまざまな面で個人差が大きいのですから、子どもによって生活のリズム、活動のペースや遊びの好みなどが異なります。

子ども一人ひとりのペースを大事にし、保育者と子どもの個別のかかわりを大切にすることで、園が子どもにとって楽しく、気持ちの安らぐ居場所となることでしょう。


最近、保育所や幼稚園での子どもの様子をビデオに撮影して、保護者がいつでも見られるような設備を備えた園があります。

子どもは見られていることを知らないかもしれませんが、ここまで子どもに監視の目が注がれると、ますます子どもの居場所がなくなってしまうような危惧をもってしまいます。

いつでも保護者の保育参加を許し、園に来てもらって保育に入ってもらい、自分の子どもだけでなくよその子どもの様子も見てもらうことができれば、園に対する保護者の見方や子どもを見る目が変わるでしょう。


園やクラスのおたよりを増やしたり内容を工夫したりすること、保育者と保護者の直接のコミュニケーションの機会を増やし、意思疎通をはかり信頼関係を築くことなどができれば、

ビデオで子どもを見られなくても保護者が不安にならず、園も家庭も子どもにとって安心できる心地よい居場所になることでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 31 Oct 2008 19:10:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供への接し方と勉強・学力の関係</title>
         <description><![CDATA[中学、高校、大学受験という大事業にとり組むとなると、家族の老たちは、どうしても重苦しい気分になるし、ピリピリと神経質な気分になってくる。

状況を考えれば、それも、やむをえないことではある。

しかし、こうした雰囲気というものは、まことに不思議なことに、中学入試終了後も、程度の差はあれ、存続し、家庭内の雰囲気の基調をなすものである。

<span class="b">それは、結局、大学受験が終了するまでつづくのである。</span>


たとえてみれば、中学入試のための「戦時体制」が、終戦後も維持され、大学入試という最終戦争に決着がつくまで、その体制はくずれないということなのである。

その「戦時体制」下において、子供は、さまざまな「プレッシャー」を受けることになる。通算すると、<span class="b red">8〜9年</span>ということになろうか？

これだけ長い間にわたる「プレッシャー」によって、子供は、いったいどんな影響を受けるだろうか？


あなたの子供は、すでに「戦時体制」下にいるのだろうか？　それとも、これから入ってゆくのだろうか？　いずれにしても、たいへんな<span class="b">「プレッシャー」</span>に耐えなければいけない。


<span class="b">それは、言うまでもなく、家族からのものである。</span>

代表的なものをあげよう。


（１）家族みんなが、入試に向けて頑張っているんだから、当事者のお前は、目いっぱい頑張れ！　恩着せがましい「国家総動員体制」。

（２）常にベストを要求し、子供の達成水準を、目標と現実の禾離という形ではかろうとする、「減点法」による評価。

（３）生活の隅々まで立ち入り、管理する。ちょっと息抜きでもしようものなら、<span class="b green">「そんなことで、××中学に受かるとでも思っているのか！」</span>などと言う。

（４）競争相手を蹴落とすことにのみ、プラス評価を与え・その他の価値を認めない。価値観の一元化。


このようなプレッシャーを、入れかわり立ちかわり受けることによって、子供はしだいに<span class="b red">ネガホリック（自己否定中毒症）</span>に陥ってゆく。

要するに、<span class="b">自分自身に対して、ＯＫの出せない人間</span>になってしまうのである。

（１）〜（４）のようなあり方は、教育熱心な家庭に顕著に見られる傾向であり、これが、名門と言われる一貫校の生徒たちの特有な雰囲気を醸成していくのである。

表面の伸びやかで、自信ありげな態度とは裏腹に、彼らの自己評価は低く、いつも人の目を気にして、失敗を恐れ、おどおどしている。

<span class="b green">「常に完壁に見せなければいけない！」</span>という強迫観念にさいなまれ、自分の本心を悟られまいと神経質になり、自分の心のまわりには、絶えずバリケードを築いているのである。

そして、このような人間が、異性とまともにつきあえずに、30代の半ばにもなって、処女や童貞でいたり、成田離婚したりするのである。


非常によく使われる例ではあるが、このネガホリックの人間は、コップに半分入った水を見て、半分しか入っていないと思う。

それに対して、健全な人間は、半分も入っていると思う。

ネガホリックは、いまや、教育熱心な家庭に猛威をふるっている。


こうなってしまう原因には、自分の両親や、学校の友人たちの両親が、概して社会的に一流であると同時に、友人にも優秀な者が多いということがある。

しかし、実を言えば、それは子供をネガホリックにする決定的要因ではない。

子供をとり巻く人間たちが、どんなに「りっぱ」であっても、そのことが直接の原因になって子供が萎縮し、つぶれてしまうなどということはありえない。


<span class="b">子供をスポイルしてしまう真の原因は、子供をとり巻く大人たち自身がネガホリックである場合が多いことにある。</span>


最初にあげた（１）〜（４）は、実は、自己評価の低いネガホリック人間特有の態度なのである。

親が高い自己評価を持っていれば子供への接し方も健全なわけであり、問題はないのである。

しかし、親の自己評価が低い場合、そうした価値観は、当然、子供へも波及するので、子供のネガホリズム度は、高まらざるをえないのである。


（１）〜（４）の親の態度に、少しでも心当たりのある人は、赤信号である。

あなた自身がすでにネガホリックになっている可能性がある。


もし、あなたが、程度の問題はあれ、ネガホリックであるなら、なんらかの方法で、それを克服してゆくことが必要である。

それをしなければ、その影響は必ず子供へと及び、不幸な結果を招くことは目に見えているからである。

挫折したエリートたちの両親には、社会的地位も高く、裕福で、教養豊かな人が多かった。

<span class="b red">しかし、彼らには、心の健康が欠けていたのである。</span>

自分の子供を、大学入学までつづく長い受験戦争へと投じるのであれば、まず、両親が、心の「健康診断」を受けることがたいせつであろう。


最後に、「戦時体制」下で、子供をつぶさないためのポイントを幾つかあげておこう。


（１）親がこんなに苦労しているのにとか、こんなに心配しているのに、などという態度は見せない。


（２）子供の出した成果に対し、目標と現実の諦離ではかるという「減点法」ではなく、あくまで肯定的に、「加点法」で評価する。

子供が入れたコップ半分の水を見て、なあんだ半分か、などというのではなく、半分も入れたのかという姿勢をとる。


（３）生活の隅々まで管理して、すきを見つけてはしかりつけるのではなく、多少のむだはあっても、自主性を尊重し、

しかも、その責任は自分で負うということを姿勢として植えつける。


（４）競争相手を蹴落とすことのみを価値あることとして認めるのではなく、そういう価値観の存在を認める一方で、

人間関係の基本は、相手の得る効用と自分の得る効用の積を極大にするところにあるということを教える。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 29 Oct 2008 16:11:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親と子双方の自立</title>
         <description><![CDATA[「思春期の子育てとは、親と子双方の自立のためのたたかいでした」

というのは、一人娘の非行に苦しんだ母親・山科（仮名）さんです。


<h3>子を縛りつけていないか</h3>


「ひとりでは、どこにもいけないような内気な子」と思っていた中学二年生の娘の突然の家出。

三日目に警察に保護されましたが、その日を境に、かけがえのない一人娘は別人のように変わってしまったのです。

<span class="b green">「わたしは、あんたたちのペットじゃない」</span>

警察に引き取りにいった両親に、彼女はそういい放ちました。

親にたいするはじめての反抗です。

以来、喫煙、無断外泊、不純異性交遊といった非行を重ねることになります。

思いあまって、はげしく殴打したこともあります。

子どものまえに手をついて、泣いて頼んだこともあります。

しかし親が一生懸命になればなるほど、娘は親から遠ざかっていきました。


<span class="b green">「ときには、子どもを突き放すことも必要です」</span>

学校の先生はそういって、


・門限を八時と決め、その時刻が過ぎたら家に入れないこと、

・相手がこちらを親として扱うまで、金はピタ一文あげないこと、

・子どもには、いっさい期待しないこと


の三つのことを、親が断固として実行するように助言しました。

子煩悩の山科さん夫婦にとって、これは至難なことでした。

紆余曲折はありましたが、二人は心を鬼にして実行しました。

一八〇度転換した親の態度に、娘は一時は狂ったように母親に暴力をふるったりしましたが、親の姿勢が本物であることを知ると、しだいに態度を改めるようになりました。

そして山科さんも、

<span class="b green">「高校を卒業したら就職して、アパートを借りて独立したい」</span>

という娘に、

<span class="b green">「あなたの人生は、あなたが決めること。

独立するということがどういうことか、あなたが本当にわかっているのなら、あえて反対はしません」</span>

といえるほどに、わが子を客観視できるようになりました。


この山科さんの例は、少し重度の非行に走った子どもという特殊なケースではありますが、巣立ちを控えた思春期の子どもにたいする親のあり方を、教訓的に教えています。


ところで、門限の時刻が過ぎたら家に入れないというやり方について一言ふれておきたいと思います。

この山科さんの場合、子どもの性格や親子関係、そしてこれまでの経過をよく知る先生のアドバイスだったわけですが、<span class="b red">このやり方がどの子にも通用すると考えたら困ります。</span>

締め出されたことをいいことに、平気で夜遊びしたり、外泊するようになるケースもあるからです。

事実、門限に遅れた高校一年生の娘を締め出した結果、友だちと二十四時間営業のレストランで過ごし、以来朝帰りも平気でするようなことになってしまったという話があります。

子どもへのきびしい叱り方で「出て行け」が通用したのは、もうかなり昔のことではないでしょうか。

いまでは、家から締め出されても、子どもが一晩や二晩過ごすところぐらいはいくらでもある世の中です。

<span class="b">原則的にいえば、「出て行け」といったり、門限を破ったからといって締め出してしまうようなやり方はすべきではありません。</span>


山科さんの場合は、これまでの親子の関係をじゅうぶんに考慮に入れたうえでのことだったのでしょうが、

生半可な態度ではなく、腹をくくって親の真剣な姿勢を示すことで子どもの目を覚ますことに成功したのです。


ところで、すでに故人となった評論家の古谷綱武氏は、子どもが親の所有物とみなされていた昔は、「子どもはもっとも安価な投資による確率の高い老後保障であった」といいました。

しかし、親と子の別居が当然のように考えられている今日では、親は高価な投資をしたうえに、子どもにおもねる形で依存するようになったように思います。

子どもを有名校に入れることに懸命な親が少なくありませんが、

<span class="b red">このような親にとって子どもとは「エリート」という血統書付きの愛玩動物にすぎない、</span>

といったらいいすぎでしょうか。

そこまでいかなくても、「愛情」という名の親のエゴイズムによって、自立のための翼を切りとられた「手乗りインコ」のような子どもが、多くなっているのも事実です。

山科さんの娘は非行という形で親からの逃避を図ったと見るべきでしょう。


<h3>子育てを楽しむ親の気持ちが子どもに伝わる</h3>


<span class="b green">「何十年も子育ての楽しみを与えてもらったのですから、これからは子どもも親も、それぞれに自分の人生を生きていきます」</span>


子どもが幼いころに夫と離婚した森村（仮名）さんは、大学生になった一人娘の子育てをふり返って、次のように語りました。

「子どもに依存せず、つねに親として自立しつづける努力をしたからこそ、子育てを楽しむ心のゆとりができたのだと思います。

子育てが楽しいという親の気持ちは、黙っていても子どもに伝わるでしょうが、わたしはおりにふれ、子どもが好きなこと、子育てが楽しくて仕方ないことを話して聞かせました。

子どももそれにこたえてくれたように思います。おかげで、娘はのびのびと育ちました」</span>

つねに子どもとともに成長する母親でありたいと念じてきた森村さんは、いまも娘といっしょに、ラジオで英会話や古典の勉強をしたり、読書をしたりしています。

<span class="b blue">この森村さんのような親の姿勢こそ、危機の年代といわれる思春期の子育ての基本ではないでしょうか。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 29 Oct 2008 11:41:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>片親の子育てをうまくこなすには</title>
         <description><![CDATA[<ul class="topics">

父親（母親）がいないための苦労を子供にさせたくないと、

困難をひとりで背負ってはいませんか？

</ul>


思春期の子どもにとって、父親と母親がそれぞれにはたす役割の重要性については、先に見てきたとおりです。

しかし、不幸にして両親のいずれかを欠いた場合、親として思春期の子どもをどのように扱ったらよいでしょうか。

両親がそろっていても、子どもがまともに育ちにくい世の中です。

まして両親のいずれか一方が欠けるということは、子育てにとってたいへん困難な条件となることは否定できません。


一人娘が五歳のとき、夫と離婚した佐伯（仮名）さんは、以来再婚もせず女手一つで子どもを育家庭生活と親子関係ててきました。

中学一年生のころまでは、テレビを見ながら母の帰りを待つおとなしい子でしたが、二年生になってから非行グループに入り、服装なども目立つようになりました。

あるとき、娘の部屋からたばこの吸いがらを発見した佐伯さんは、はじめてきびしい口調で子どもを叱りました。

ところが、娘はいままで一度もみせたことのないひどい態度で、母親に反抗したのです。
以来、彼女の反抗はエスカレートする一方で、母親の帰りが少しでも遅くなると、

<span class="b green">「腹が減ったよ。早く飯をつくれ」</span>

と怒鳴り、おかずが気に入らないといっては、食器を投げつけたりするようになりました。


彼女の登校拒否が始まったのは、そのころからです。

それと同時に、母親に暴力をふるうようになり、夜中に娘に締め出された佐伯さんを、近所の人が見かねて泊めてやったこともあったといいます。

<span class="b green">「父親がいないことで肩身が狭い思いをしたり、苦労したりしないように育ててきたつもりなのに」</span>

そういう佐伯さんがやってきたことは、一生懸命に働いて、子どもに物質的に不自由させないことと、子どもに家の仕事をいっさいさせないことでした。

その結果が、<span class="b">子どもの登校拒否、家庭内暴力</span>だったのです。


家庭の教育的機能には、<span class="b">二つの機能</span>があります。


一つは親の「しつけ」という意図的に機能する教育であり、もう一つは家庭生活の中で自然に機能する教育です。


意図的におこなわれる教育には、父親のきびしさ（父性）と母親のやさしさ（母性）が必要であることはいうまでもありません。

ところが、佐伯さんの場合、生活面では父親の役割と母親（主婦）の役割の一人二役ですが、

「しつけ」の面では、父性の欠如を補おうとせず、「不憫だ」ということで、甘やかすだけの母親になってしまったのです。


そもそも父親がいないための生活上の困難を、母親ひとりが背負って生きようとするところに問題があるように思います。

父親がいないための苦労を子どもにはさせたくない、というのは親心でしょうが、<span class="b red">結果は裏目に出る場合の方が多い</span>のです。


父親がいないという現実を子どもにもしっかり見つめさせ、

<span class="b">母と子が力を合わせてこのきびしい現実をどう生きていくかということを、ともに考えるような親子の関係</span>が望ましいあり方だと、わたしは思うのです。


<h3>子どもに頼ると、子供から受け入れられる</h3>


それは父子家庭でも同様です。


長女が中学三年の受験期に妻に蒸発された二児の父親・家庭生活と親子関係植村(仮名）さんは、

二人の子どもと、これから親子三人でどう生きていくかについて、<span class="b">率直に話し合いました。</span>

高校受験を控えてはいましたが、長女は夕食の用意を、小学六年生の息子はお風呂の用意と洗濯を受けもつことになりました。

それまで職場の仲間とよく飲んで帰った植村さんでしたが、仕事が終わるとまっすぐに家に帰って、食事のあとの洗いものをしたり、二人の子どもの勉強を見てやるよう努力しました。

朝早く起きて、朝食を作るのも植村さんの仕事です。

<span class="b green">「母親がいたころは、わがままな子としか見えなかった娘と息子が、わがままをいわなくなったばかりでなく、別人のようにたのもしく見えるようになった」</span>

と植村さんはいいます。


佐伯さんのように、子どもが不憫だからと特別あつかいするのでなく、子どもを大胆に頼りにすることによって、生活の危機ばかりでなく、子育ての危機をものり切ったのです。

親と子が力を合わせて生きていく家庭の生活が、すばらしい教育の機能を発揮した例といっていいでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 28 Oct 2008 08:46:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の心身症</title>
         <description><![CDATA[<h3>互いに深くかかわっている心と体</h3>


何らかの身体的な症状が、その発生と経過に心理的な要因が深く関係している場合を<span class="b">心身症</span>といいます。

心と体は互いに影響し合っているので、一方の状態がよくないと、もう一方の状態も悪い状態に変化しやすいものです。

検査を受けて病気の原因が具体的にわからない場合に心身症と診断されることがありますが、ぜんそくや胃潰瘍のように、心身症として認められている代表的な病気もあります。

ストレスに直接影響を受けて身体の症状に現れる一次的な心身症と、日常の生活習慣や不適切な生活の仕方が長期間持続されることによって身体症状が現れる二次的な心身症の二種類があります。


心身症は、子どもから大人までの発達段階に見られますが、

<span class="b red">特に子どもの病気は、すべて心理的な要因が関係しているといわれます。</span>


子どもは外からの刺激や環境の影響を受けやすく、ストレスを感じやすいといえます。

ですが、まだ十分に発達していないので、言葉でうまく伝えることができず、大人のように不安や緊張を表現することで和らげることができません。

そのため、心の問題はさまざまな身体症状として現れると考えられています。


心身症の原因となるストレスは、子どもの発達時期によって異なります。

乳児期は、いらいらした感情や凡帳面すぎる接し方や愛情の欠如、放任などの養育者の育児態度がストレスとなります。

幼児期は、養育者の感情的な育児態度や弟妹の出生、共働きで不在が多くなるなど愛情が欠乏することがストレスとなります。

ストレスから下痢や便秘、食欲不振や拒食、腹痛、頻尿、夜尿、気管支ぜんそくといった身体症状が現れます。


また、言語や身体の全体的な生育の遅れ、チック、指しゃぶりなどの癖も心身症に含まれます。

相談では、子どもや保護者から身体症状の訴えがあっても、それが心理的な問題によって生じているかを判断することはとても難しいことです。

このような場合は、第一に身体の病気に原因がある場合を考えて、医療機関で検査を受けるようにすすめます。

医療機関へ紹介した場合でも、再度来談する可能性があります。

相談員は、このような状況を想定して、子どもと保護者の両方とよい関係性を築いておき、医療機関を紹介する時には

<span class="b green">「またいつでも相談においでください」</span>

などと伝えて、相談者が再び相談に来やすい配慮を心がけておきます。


<span class="b">心身症になると、子どもの発達は損なわれがちになります。</span>

子どもは、発達過程にあって常に成長していますので、健全な発達を促進することを第一に考えたケアが大切です。

そのためには、子どもの情緒的な側面へのアプローチと周囲の環境への働きかけをする必要があります。

成人のように言葉で気持ちを伝えることができないので、子どもの相談では玩具、描画、箱庭、ゲームなどを用いて、主に非言語的な遊戯療法や芸術療法が行われます。


心理療法の中で、子どもは激しい怒りを表現したり、予測しない行動（行動化）をしたりすることがあります。

これらは子どものやりきれない気持ちや混乱を表しているので、相談員は、子どもを注意深く観察し、行動の変化に対応できるように準備しておくことが大切です。

子どもの心身症に対しては、必要に応じて養育態度や教育、人間関係などの養育環境を検討し、環境の変容を試みることが重要になります。

また、身体的な病気になったことで保護者がショックを受けて動揺し、子どもはその動揺を敏感に受け取って混乱することもあります。

このような子どもと保護者の混乱の連鎖を止めるため、相談員は子どもの周囲の人の動きにも配慮して対応することが望まれます。

心身症のケアでは、身体面淘心理面、環境面、成育史的側面、遺伝的側面、子どもと保護者の性格や能力など、多面的な問題を検討することが重要です、

十分な検討を行って、子どもの自由な自己表現の獲得と発達段階に応じた適応能力を育てていくことを目標として、心身症には全面的にアプローチする必要があります。
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 28 Oct 2008 03:41:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>これからの時代は、感受性が鈍いと一流大学に入れない！</title>
         <description><![CDATA[社会環境の大きな変化に伴い、受験界で、大学入試における科目数の削減と、小論文入試の導入が進んでいるという話をした。

そして、その小論文では、社会的関心や、人生に対する主体的な姿勢、あるいは、自分で物を考え、感じとる力が必要であると述べた。

ここでは、<span class="b">感受性の強弱が、小論文入試にどういう影響を与えるか</span>を見てみよう。


<span class="b">長い資料文の「要約」力にすぐれた学生は、ほとんど例外なく、「感想文」を苦手とするということだ。

逆に、すばらしい感想文を書く学生は、必ずと言ってよいほど、要約がまともに書けない学生の中にいるのである。</span>


要するに、論理的で頭の回転の速い学生には、文章の上でも、自己表現のできない者が多いということだ。

それとは逆に、論理性や頭の回転ではパッとしない学生の中に、みごとな自己表現を示す学生がいるのである。

小論文入試において、「要約」＋「感想文」というスタイルは、「分析力」を要求するタイプと並んで代表的なものである。

配点比率は、要約：感想文＝3：7もしくは4：6である。


そうすると、従来型の秀才や才媛は、「要約」で高得点を上げても、「感想文」がまともに書けないために、総合点では、合格ラインには届かないことになる。

それに対して、従来は、どちらかと言えば劣等生扱いされた連中だが、自己表現はみごとだという学生が、「要約」の点は悪いが、「感想文」で、大量に得点することによって、総合点では、合格ラインに到達するということが起こるのである。


しかも、こうした傾向は、けっして二、三の大学ではなく、早稲田・慶応などの超一流大学において、起きているのである。


<span class="b">言いかえれば、子供のころから、勉強中心の生活で、知性ばかり磨き、感受性の育っていない学生は、もう一流大学になど入れない時代になりつつあるということだ。

逆に、勉強はそこそこでも、豊かな感受性を育ててきた学生こそが、一流大学に入りやすい状況が生まれつつあるということなのである。</span>


これからの時代、一流大学に入るためには何が必要かということが、わかっただろう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 26 Oct 2008 13:49:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>母親の役割</title>
         <description><![CDATA[父親不在の家庭のなかで、取り残された母と子が、異常なまでに密着しているという、現代のわが国の一般的な家庭構造ついては、以前に述べました。

そして、登校拒否、家庭内暴力といった問題は、子ども自体の問題というより、このような家庭構造や親子関係に根をもつ、現代の病理現象であるということについても、以前に述べたとおりです。


<h3>子どもだけが生きがいになってしまう母親</h3>


思春期が「第二の誕生」と呼ばれるのは、子どもは、それまでの親依存の自分から、自立した自分へと脱皮をはかるからです。

このように子どもの発達を、依存・自立という関係でとらえるとすれば、思春期問題というのは、基本的には親子関係の問題です。

そして、伝統的な子育ての方法からすれば、物理的にも心理的にも、子どもとの距離がもっとも近い母親に課せられた大きな課題でもあります。


<span class="b green">「なんのためにきょうまで苦労して子どもを育ててきたのかわからない」</span>

と嘆くのは、子どもの反抗に悩む母親・陣内（仮名）さんです。

陣内さんの家庭は、実直なサラリーマンの夫と、中学二年になる一人娘の三人家族。

陣内さんは、子どもが小学三年生までは専業主婦でしたが、住宅ローンの返済と、子どもの教育費の足しにと、パートで働きに出ました。

「夫の出世と子どもだけが生きがい」と、はばからずにいう陣内さんは、子どもの教育には異常なまでに情熱を傾けてきました。

四歳からピアノと英会話を習わせ、小学校に入学してからは学習塾にも通わせました。

したがって、小学校での成績はつねにトップクラスでしたが、中学に入ったころから、そういう生活に疑問をいだくようになった娘は、母親への反抗から、勉強をしなくなりました。

<span class="b green">「わたしには子ども時代がなかった」</span>

という彼女は、口やかましく干渉する母親とことごとに衝突します。

二年生の夏休みに男の子からきた手紙を、母親が盗み見たことが知れて、もう一カ月以上も母親と口をきかない状態がつづいているというのです。


<h3>思春期は親子の分離が始まるとき</h3>


親が子どもを生きがいにするのは当然のこととしても、「母子一体化」といわれる状況は、<span class="b">「子どもだけ」が生きがいとなってしまう</span>ところに、母子双方の悲劇の原因があるのです。


子育てというのは、子どもの自立を助ける営みであるとするなら、親と子は、やがて分離する運命にあるのです。

<span class="b">そして、思春期というのは、親子の分離が始まるときなのです。</span>

子どもは、親のいいなりになっていたそれまでの自分を否定し、親の指図や干渉をきらい、独立した人格として扱うことを要求し始めます。

日常的な生活場面で子どもと接する母親は、子どもにとって、とかく口やかましい存在となるのは、いたしかたないことです。

<span class="b green">「さっさとやりなさい」

「そんなことをしてはいけません」

「テレビばかり見ていないで勉強しなさい」</span>

といった調子で、母親は命令・禁止・拒否のことばを使う場面が多くなりがちです。


しかし、それも思春期まえまでのこと。

いつまでも子どもあつかいされたくないと願う思春期の子どもには、逆効果になるということを親は知らなければなりません。


静岡県教育委員会の調査によれば、中学生の親への希望（選択数自由）の第一が、父母とも<span class="b green">「あまり口やかましくいわないでほしい」</span>となっています。

そして、口やかましいのは母親の方で、

父親の<span class="b">二〇・三パーセント</span>にたいして、母親が<span class="b">四七・七パーセント</span>となっています。

「あまり子どもあつかいしないでほしい」というのも、父親（＝・五パーセント）より母親（一五・二パーセント）のほうが多くなっています。

<span class="b">子どもの親離れという課題は、親の子離れにかかわる問題だといっても過言ではありません。</span>


記録映画『キタキッネ物語』に、動物としての生存の本能から、母ギツネが一人前に成長した子ギツネを、いまにもかみ殺さんばかりの剣幕で追い出すシーンがありました。

まさに凄惨ともいうべき子別れの儀式です。


思春期の子どもの親にたいする反抗は、キタキッネとは逆の子別れ（規別れ）の儀式なのかもしれません。

しかし、「夫と子どもだけが生きがい」という陣内さんのように、精神的に夫と子どもにまったく寄りかかってしまうような生き方は、

子どもが自立の時期を迎えても、親の子離れができないために、子どもの自立を妨げることになります。


<h3>母親像の変化</h3>


昔から母親というのは、なにより子どもの成長を生きがいとし、子どものために苦労して老いていてものと考えられていました。

でも、近年、工業化社会における核家族化によって封建的な��家″は解体し、家庭の主婦はわずらわしい人間関係から解放されました。

また、職場と住居が分離することによって、主婦の多くは生産労働にたずさわらなくなりました。

また、計画出産による子どもの数の減少と、家庭電化製品の普及などによる家事の合理化によって、母親は自由な時間をもてるようになりました。

<span class="b">その結果、母親像もさまざまに変化しつつあります。</span>


やや類型的にすぎるきらいはありますが、話をわかりやすくするために、現代の母親像を次の三つのタイプに分類して考えてみたいと思います。


（１）主として母であることに生きがいを見いだすタイプ

（２）主として女であることに生きがいを兄いだすタイプ

（３）母であることと、女であることを統一的に生きるタイプ


<h3>現代の母親像３つのタイプの特徴</h3>


第一のタイプは、伝統的な母親像の継承者です。

先の陣内さんのように、夫に依存しながら子どもの母であることを生きがいとするような母親は、伝統的母親そのものです。

しかし今日、夫は経済的依存の対象ではあっても、精神的依存の対象となりえていないために、子どもだけを生きがいとするような母親が多くなっています。

子どもの数が少ないということも、母親の子どもへの関心を、より強くしている原因の一つです。


さらに、学歴社会、受験体制という日本的風土のなかで、伝統的な母親たちの多くは、子どもを受験戦争にかりたて、子どもの成績に一喜一憂する「教育ママ」となりました。

いずれにしても、妻であり母であるまえに、ひとりの女として自立する自分をもたないために、なかなか子ども離れできない母親です。


それにたいして、第二のタイプは、女として自立しているかどうかは別にして、女であろうとすることによって、親としての任務を軽んじ、ときには放棄する自己中心的な母親家庭生活と親子関係です。

女としての自己の欲望や幸福のために、夫と子どもを置き去りにして蒸発したりする母親などは、その典型といえるでしょう。

また、そこまで極端に走らなくても、子どもを放置してスナックやカラオケ・バーを遊び歩く母親も多くなっています。


中学二年の洋子（仮名）が、両親の留守中のマンションに男女数人の友だちを泊め、シンナー遊びと不純異性交遊で警察に補導されました。

母親にいわせると、父親は「真面目だけが取りえのうだつのあがらないサラリーマン」で、人のいやがる仕事を押しつけられるため、長期の出張も多く、休日も上司にゴルフの相手をさせられるといったぐあいで、ほとんど家にいることがありません。

母親は、そんな夫を「なんの面白みもない人」といって、子どものまえでも他人のまえでも平気でけなします。


事件のあった夜、父親は出張中で、母親は小学校時代のＰＴＡの役員仲間と二泊三日の旅行に出ていたのです。

母親は、それまでにもなにかと口実をつくっては、夜遅くまで飲み歩くことが多く、深夜の帰宅もしばしばでした。

洋子もまた、親の留守をよいことに、夜遊びや外泊をするような生活だったのです。


現代の母親像の三つめのタイプは、「母であることと、女であることを統一的に生きるタイプ」です。


職業婦人であり二児の母親である竹田さんは、労働組合婦人部長、職場のうたごえ運動、地域の「子どもと教育を守る会」代表など、様々な活躍をする婦人活動家です。

夫は公立高校の教師で、やはり熱心な組合活動家です。

ですから、子どもが小さいころは、勤めが終わると保育所に子どもを引き取りにいき、そのまま夜の会合の席へ連れて行くようなこともしばしばでした。

ときには父親が家に連れ帰って、子どもに食事や入浴をさせ、母親の帰りを待つこともありました。

<span class="b green">「夫の協力があったから、ここまでやってこれたのです。

おかげさまで、子どもはグレもせずどうやらまともに育っています」</span>

そういう竹田さんが、仕事と子育てを両立させるために心がけたことは、次の二つだといいます。

一つは、<span class="b">子どもは親の後ろ姿を見て育つなどと安易に考えず、親子のふれ合い、対話を大切にすることです。</span>

保育所から連れ帰ったわずかな時間、家事をしながら子どもとのふれ合いの機会をつくる努力をしました。

そして、子どもが物心つくようになってからは、おりにふれて両親の仕事について話し、理解を求める努力をしたといいます。


竹田さんが心がけたことの二つめは、

<span class="b">子どもにさびしい思いをさせてかわいそうだからと甘やかすのではなく、自分のことは自分でするようにしっけると同時に、子どもにも家事を分担させ、大胆に子どもを頼りにしてきたこと</span>です。

上の子が中学生になったころには、炊事、洗濯などだいたいの家事は二人の子どもでやれるようになっていたといいます。

<span class="b green">「家に帰って子どもたちと話し合うのがなによりの楽しみ」</span>

と語る竹田さんは、子育てにとって共働きはたしかにきびしい条件だが、子どもを大切にする気持ちさえあれば工夫の余地はいくらでもある、と自信をもって話します。


そんな竹田さんを、母親としても、女性としても尊敬するという高校三年生になる長女は、弁護士になることを夢見て、受験勉強に励んでいます。

「女だてらに弁護士なんて」という人もいますが、竹田さんは

<span class="b green">「子どもがどんな人生を選ぶかは、子ども自身が決めることです。

たとえ、そのことで子どもが苦労することがわかっていても、子どもがあえてその道を選ぶのなら、親は黙って見守るしかありません。

子どもは親とは独立した別な人格なのですから」</span>

といって、娘のよき相談相手になるように努力しています。


<h3>母親がまず親として、女性として自立すること</h3>


ところで、

<span class="italic">「父親が子どもにとって権威の原体験であるとするなら、母親は愛の原体験である」</span>

というのは、社会学者の山村賢明氏です。

稲村博氏も

<span class="italic">「母性というのは、元来は情操豊かなやさしさや思いやりのことである」</span>

といいます。

しかし、包み込むような母親の愛情もうっかりすると子どもの自主性を阻むことになりかねません。

とりわけ思春期の子どもにたいする親の愛情の基本は、子どもを親とは相対的に独立した一個の人格として認め、子どもの自主性を尊重して暖かく見守ることです。

とかく母親というのは、子どもをいつまでも小さな子どもとして扱い、子どもを独立した人格として見ることができないという傾向があります。

<span class="b red">子どもをいつまでも自分のひざの上に置こうとするのは、子離れできない母親の自己満足です。</span>


かかえ込むことだけが親の愛ではありません。


ときには子どもをきびしく突き放して見ることも、親の愛であることも知らなければなりません。

なぜなら、子どもはやがて親の庇護から解き放されて、自分の力で生きていく存在だからです。

子育てというのは、そういう子どもの自立を助ける営みです。


思春期は悩みの多い時代です。

しかし、子どもの悩みを親が代わって悩んでやることはできません。

悩み苦しむ子どもの姿を黙って見守る母親の存在が、子どもにとって大きな心の支えとなるのです。

思春期の子どもと母親の関係は、そのように<span class="b blue">一定の距離を置いた関係</span>でなければなりません。

そして、そのような親子関係は、母親が親としても女性としても自立していることにより、はじめて可能となることなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 26 Oct 2008 13:37:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>かたい物を飲みこんだ</title>
         <description><![CDATA[乾燥剤、蚊取り線香、蚊取りマット、マッチ、クレヨン、粘土、石けんは、まず大丈夫です。

体温計の水銀も口内に傷をつけるくらいですみます。

化粧品は乳液、クリーム、口紅、ファンデーションなど固形のものは心配ありません。

香水や化粧品、ヘアトニックなど液状のものは少量なら安心ですが、大量に飲んだときは手当が必要です。


<span class="b">洗剤は濃度と飲んだ量によります。</span>

漂白剤、入れ歯の洗浄剤、トイレ用洗剤、かび取り剤は危険が大きい。

消毒剤、とくに<span class="b red">クレゾール</span>はたいへん危険です。


パラゾールは一個までは大丈夫です。ナフタリンとしょうのうは一個が<span class="b red">中毒量</span>になます。

それ以下でもあとに肝臓への影響がありえます。

タバコは、口元に葉がついている程度なら心配ありません。

四分の「以上食べている可能性があれば、次の（１）〜（３）の手当をしておいたほうが安心です。

しかし、三分の一以下なら、放っておいても、少し気持ちわるくなるくらいで、時間がたてばおさまります。


<span class="b red f11em">医薬品は、種類と量によりひじょうに危険です。</span>


いずれの場合も、次の処置をしてください。

<ul class="topics">

<span class="f11em">（１）どれだけ飲んだか、落ち着いて量を確かめる。


（２）水かお茶か牛乳を、なるたけたくさん飲ませる。

ただし、牛乳はナフタリン、ベンジン、シンナー、ガソリン、灯油、ペンキ、ラッカー、防虫剤のときには飲ませてはいけない。


（３）種類、濃度、量によって毒性が強いと思われる場合は、（２）の直後、吐かせる。</span><br />
<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/hakasu_1.jpg" wigth="215" height="342" alt="吐かせ方その１" />
<img src="http://useful-infomation.info/images/hakasu_2.jpg" wigth="232" height="220" alt="吐かせ方その２" />
</span>

</ul>

<span class="b red">ただし、吐かせてはいけない場合もあります。</span>


意識がないとき、

酸性の強いトイレ用洗剤、排水パイプ洗浄剤など、

アルカリ性の強い漂白剤、

皿洗い用洗剤、油おとしのようなもの、

灯油、ガソリン、シンナー、ベンジンなどの石油製品


これらは吐かせてはいけません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">応急処置</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 26 Oct 2008 10:19:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>父親の役割</title>
         <description><![CDATA[

<h3>家庭内の父親不在はかなり一般的な現象</h3>


非行対策として、父親の出番が待たれているばかりではありません。

思春期というのは、それぞれ男として女としての自分を完成させていく時期ですから、男の子にも女の子にも、男性としての父親の存在がたいへん重要な役割をはたす時期なのです。

しかし、とまどう父親が意外と多いのではないでしょうか。

日ごろなにかと仕事に追われて子どもと疎遠になりがちな父親は、ニキビ面にうっすら口ヒゲさえ見える息子や、からだ全体から女を感じさせるようになった娘に、

他人のようにヨソヨソしい態度をとられたりすると、すっかりとまどいを感じてしまいます。


ですから、せめて学校の参観日ぐらいは、日ごろの罪はろぼしのような気持ちで、いそいそと学校に出かけて、お茶をにごすということになるのです。

そのような父親たちになにかもどかしさを感じるのは、ひとりわたしだけではないはずです。

子どもや教育の問題を話し合っても、変にさめたところがあって、子どもの教育にはたいへん熱くなっている母親たちのようには、燃えてこないのです。


家庭内暴力の背景の一つに<span class="b">「父親の無力化」</span>があるという総理府の調査がありますが、これは必ずしも家庭内暴力にかぎったことではありません。

<span class="b red">「父親不在」「父権喪失」</span>などといわれるように、かなり一般的な今日の家庭の問題としていわれていることでもあるのです。


<h3>叱るべきときに自信をもって叱れない父親</h3>


高校一年の長女の非行に悩む母親・兵藤さん（仮名）は、まったく非協力的な夫に絶望して、離婚も考えているといって相談にみえました。

仕事一筋の生真面目な夫で、子どもが二人とも女の子という女性優位の家庭のためか、それまでにも比較的控えめにふるまっていたといいます。

中学三年になった長女に非行の兆しが見えたころから、あきらかに子どもとのかかわりを避けるようになりました。

ひとりで気をもむ母親は、娘の顔さえ見れば口うるさく文句をいうので、しだいに母と子の関係は険悪な状態になっていきました。

そればかりか、父親がなにもいわないことをいいことに、彼女の非行はますますエスカレートする一方です。

高校生になってからは暴走族の少年とつき合うようになり、深夜の帰宅もめずらしくありません。

<span class="b green">「子どもが道を踏みはずそうとしているときに、きびしく叱ってくれる威厳のある父親であってほしい」</span>

と兵藤さんは、嘆息します。


この事例の場合にかぎらず、とかくヒステリックな対応になりがちな母親に、ブレーキをかけるのも父親の役目です。


ところで「無力な父親」というのは、このように子育ての責任を回避する父親ばかりではありません。

非行グループに入り、夜遊びを繰り返す中学三年の息子の指導に悩むのは、ＰＴＡの役員も買って出た自営業の堀さん（仮名）です。

夜中に先輩のアパートでマージャンをやっている現場を見つけて連れ戻そうとしても、

<span class="b green">「みっともねえから、こんなところまでくるな」</span>

と興奮してわめく息子に、なすすべもなく引きあげてしまう父親です。

柔道三段だという堀さんは、力ではまだまだ子どもに負けません。

それでも、毅然として親としての指導をつらぬくことができないでいるのです。


<span class="b">このような、父親の弱い家庭に、家庭内暴力や非行などの問題が多いというのは事実です。</span>

ですから『スパルタ教育』（石原慎太郎著）、『ゲンコツおやじ教育論』（近藤啓太郎著）などという本が書かれたり、「カミナリオヤジの会」が結成されたりするのです。


たしかに、しつけにはある種のきびしさが必要だということは否定できません。

しかし、下手に子どもを殴れば、昔、川崎市で起きた事件のように金属バットで寝込みを襲われかねないご時世です。

「ゲンコツおやじ」や「カミナリおやじ」が、はたしてどこまで通用するか考えものです。

<h3>夫婦関係に問題がある場合も</h3>


現代家庭の特質は、「父親不在」と「母子一体化」だといわれます。

まえに述べた兵藤さん（母親）の家庭などはその典型です。

父親（兵藤さんの夫）は、仕事一筋といった<span class="b">「会社人間」</span>です。

朝早く家を出て、夜は深夜の帰宅もしばしばです。

兵藤さんは、あてどなく夫を待つ生活にしだいにむなしさを感じるようになりました。

<span class="b green">「子どもがいなかったら、とっくの昔に離婚しています」</span>

という兵藤さんは、夫によっては満たされない心の空洞を、子どもによって満たそうとしました。

<span class="b red">そして勉強にはきびしいが、しつけに甘い母親となりました。</span>

子どもたちは小さなころから、塾や稽古事に追い立てられる毎日でした。

上の娘がグレたのは、<span class="underline">そんな母親にたいする反発</span>でもあったのです。


<span class="b">親子関係の問題は、このように先に夫婦の関係に問題がある場合が少なくありません。</span>


子どもと生活をともにすることもほとんどないうえに、たまに家にいて見せる姿は、きびしい労務管理と俄烈な出世競争に心身を消耗している「くたびれたおとな」の姿です。

そんな父親が、子どもにとって影のうすい存在になったとしても不思議ではありません。

<h3>子に見せるべき後ろ姿をもたぬ父親</h3>


子どもにとって<span class="b">「父親は伝統的に影のうすい存在」</span>であったというのは、社会人類学者の中根千枝氏です。

伝統的社会にあっても、家族の生計を支える労働に主として携わる父家庭生活と親子関係親は、子育てには直接関与しませんでした。

そのうえ家庭でともにいる時間が圧倒的に長い母親に比べて、影のうすい存在であったとしても当然です。

それでも伝統的な社会（農業などの第一次産業が中心となっていた社会）においては、父親は権威ある存在であり、母親は父親の権威を背景として子どもをしつけることができました。


しかし、高度に工業化した現代の社会では、多くの家庭は職場と住居が分離し、父親の働く姿があまり見られなくなりました。

父親が「伝統的に影のうすい存在」でありながらも、権威ある存在でありえたのは、父親の働く姿が見え、子どももなんらかのかたちで、その父親の労働に参加する機会があったからです。

<span class="b">「子どもは親の後ろ姿を見て育つ」</span>といいますが、いま多くの父親は、子に見せるべき後ろ姿をもたないのです。

そうだとすれば、親はその労働について、子どもに語って聞かせる必要があるでしょう。

そして、母親も側面から父親の権威を支えることが必要です。

しかし、夫に失望している兵藤さんのような場合には、

<span class="b">母親が子どものまえで父親をけなし、父親の権威をますます下げてしまう結果となることが多いようです。</span>


中根千枝氏は、伝統的社会における父権確立の基礎条件として、「父の仕事を息子が継ぐこと」と、「家庭の構成人数が多いこと」をあげています。

子どもの非行に悩む父親・堀さんは、工務店の経営者で、父親の働く姿は比較的見えるほうです。

しかし、息子には父の仕事を継ぐ意志はありません。

現代のように技術革新がいちじるしくなく、息子が家業を継ぐのが当たりまえであった時代には、子は父から多くのものを学ばなければなりませんでした。

したがって、父親はつねに優位に立つことができたのです。


<span class="b green">「権威とは、ある一定の距離が保たれなければならない。

小家族では、あまりにも父親は卑近な存在でありすぎる」</span>と中根氏はいいます。


子煩悩だという堀さんは、ひまさえあれば子どもの遊び相手になるような父親です。

今日、子どもの数が少ないということも、いたし方のないことです。

子どもと友だちのように遊ぶということもけっして悪いことではありません。

だが、堀さんの場合は、「時代が違う」といって、叱るべきこともきちんと叱るということをしないために、ただ子どもを甘やかすだけになってしまったのです。


<span class="b">父親として大切なことは、子どもと友だちのように接するやさしさと同時に、善悪の判断や生きることのきびしさを、ときには妥協を許さないきびしい態度で示すことです。</span>

それは子どもに身勝手な甘えを許さない、親としての「一定の距離」を保つことになるのです。


<h3>男の子は父親に競争心をもつ</h3>


フロイトによれば、ある時期（六歳前後）、子どもは異性の親にたいして性愛に近いような愛着をもち、同性の親にたいしては競争心をもつようになります。

男の子の場合、母親を異性として強く意識し、そのために父親を嫉妬し、恐れるようになるというのです。

フロイトは、運命のいたずらから、結果として父を殺して母をめとったオイディプス王のギリシャ神話によって、オイディプス・コンプレックスと名づけました。

そして男の子には、父親の男としての面と自分の男としての面が共有されて、男性同一化が起こります。

父親に負けないように自分を成長させて、結局父親のようになるということをとおして、父親をのりこえていくというのです。


親子の関係が、フロイトの指摘するほど、性的なものに結びつけられるものかという意見もあります。

しかし、今日的な親子関係のゆがみの典型として指摘されている母子の近親相姦が、近年多くなっているという事実は、フロイトの指摘を全面的に否定できないことを物語っています。

母子相姦を取材した朝日新聞記者・川名紀美の報告（『密室の母と子』）によると、

東京・新宿にある「ダイヤル避妊相談室」が一九七八年十月から一九七九年九月までの一年間に受けた近親相姦に関する相談は、全部で四百十二件。

そのうち母子相姦についての相談は、百十件もあるのです。

その百十件のケースのうち、父親のいない母子家庭が六十二ですから、父親がいても母子相姦が起こっているケースは、かなりの数になります。

川名さんは、その背景として<span class="b">「無力な父親像」</span>をあげています。


<h3>父親の精神的不在が子に与える影響</h3>


今日、父親たちの多くは、勤め、出張、残業、あるいは仕事上のつき合い、単身赴任など、たしかに家庭にいる時間が少なすぎます。

しかしわたしは、仕事による不在はそれほど決定的な問題ではないと思います。


ゴルフやマージャンなど、父親自身のレクリエーションやくつろぎを主に外に求め、<span class="b red">子育ては母親任せで、傍観者的態度をとるような精神的不在</span>のほうが、より子どもにおよぼす影響が大きいのではないでしょうか。


父親にも子育ての責任があるといっても、必ずしも母親のように日常的に子どもと生活を共有し、日常的な生活レベルのしつけに責任をもつということではないでしょう。


長年、労働組合の役員をしている石井さんは、帰宅は夜の十時、十一時という毎日です。
しかし、どんなにくたびれていても、受験勉強で遅くまで起きている息子（中三）の部屋までいって、<span class="b green">「がんばってるな」「からだをこわすなよ」</span>と声をかけることを心がけています。

ときには、<span class="b green">「どうだ、一服しないか」</span>と居間に呼んで、お茶を飲みながらひとときの団らん欒をもつこともあります。

<span class="b green">「接触する時間が少なくても、いつも自分に親としての関心をはらっていてくれるという実感が子どもにあれば、親子の断絶なんてありません。

ですから、叱るべきときは自信をもって叱っています」</span>

石井さんは、胸を張ってそう語ります。


<span class="b">叱るべきときに自信をもって叱る。</span>

子どもは、そういう確信に満ちた態度を頼もしいと思い、そういう親に権威を感じるのです。

父親は子どもにとって、頼りがいのある頼もしい存在でなければなりません。

頼りがいのある父親とは、たんに一家を支える稼ぎ手であるというだけではありません。
ときにはきびしく、家族のだれかが困ったときや家庭に問題が起きたときは、

<span class="b green">「大丈夫だ、お父さんがいるから心配するな」</span>

と胸を張って、全力でその解決に当たる父親です。

社会人としては、政治や社会のことに通じ、人生の先輩として自らの生活経験をとおして、社会のあり方や人間の生き方について、見とおしをもって語ってくれる父親です。

自我を確立し、自立をめざす思春期の子どもは、そのような父親を必要としているのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 26 Oct 2008 09:41:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>安定した人格を育む子育て・教育が大切</title>
         <description><![CDATA[たいていの親はきびきびとした積極的な行動をわが子に期待しますから、内気で憶病、友だちと活発に遊べず、すぐ泣き出してしまうような子は、情けなく思われがち。

「弱虫」で「ぐず」、気がよすぎるというのも、歯がゆく感じられることでしょう。


でも、気が弱そうにみえていた子が土壇場でびっくりするような勇気をみせたり、もたもたしていた子がいつの間にかたいへんな大仕事をなしとげたりといったことはめずらしくないし、

逆に、強そうな子がいざというときに尻込みしたり、てきぱきしている子がさっぱり長続きしないといったこともよくあります。

外向的でなく、能率に欠けていても、やさしい心とかデリケートな感性をもち、内にあふれんばかりのエネルギーを秘めているタイプの子だっているでしょう。


<span class="b f11em">ですから、子どもの表面に現れている性向だけをみて、それを欠点と決めつけるのはやめたほうがよい。

それよりも、奥深いところで安定した人格を育ててやることのほうがずっと大切。</span>


弱虫やぐずだからといって、すぐになおすことばかりを考えないようにしてください。

なるべく、子どもにまかせて放っておき、好きなだけ友だちの中にもだすようにする。

もし、おずおずしているところがあれば、その気持ちを受け入れて、打って出る勇気を分かちもってやるように。

時間もせかさず、敗北はなじらないことです。


こうしているうちに、弱虫の子はむしろ屈辱に耐えることで強さを育むか、またはひとを許すことでやさしさを根づかせるのでは。

ぐずの子もなんとか自分で世間とつきあっていく才覚を身につけるのではないかと思います。

ただ、どちらのばあいも、それが卑屈にならないようにするのはもちろん。

そのためにも、あまり勝敗ばかりを気にさせないこと、親自身が卑屈な態度をみせていないことが大切かと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 24 Oct 2008 09:28:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>反抗と自己主張について</title>
         <description><![CDATA[思春期は、この時期の特徴から、一般的に第二次反抗期と呼ばれていることはよく知られていることです。

しかし、思春期が親子関係にとかく乳轢を生じやすい時期であることを認めても、反抗期などというものはないという人もいます。

わたしは、ここで反抗期といういい方が妥当かどうかを論ずるつもりはありません。

ただ、わたしもこの時期の子どもの問題を、反抗期といういい方でかたづけてしまう親の対応の仕方には、<span class="b red">危惧</span>を感じます。


子どもというのは、親の胸を借りて自己をきたえ、息子は父をのりこえて一人前の男になること、娘は母をのりこえて一人前の女になることが思春期の課題です。

そのために、子どもは親にたいしてある種の闘争をいどみます。

理屈を並べて親をへこませようとしたり、親のいうことやすることの矛盾を鋭く突いたりします。

親の干渉をきらい、口をきかないとか、親のいうことを無視するという、物理的抵抗を示したりもします。

このような子どもの言動は、<span class="b">独立要求からくる自己主張の現れ</span>です。

親心としてやっかいなことには違いありませんが、客観的にはむしろ健全な発達の姿なのです。

それを、「反抗」として<span class="b green">「親に口答えするな」</span>と一喝するやり方で抑えつけてしまったら、子どもは自立のための自己主張を封じ込められてしまいます。


このような一喝主義が子どもの自我を抑圧して、自己表現のない萎縮した性格の子にしてしまうか、

あるいはそのはけ口を母親に向けて、それこそはげしい反抗を示すことになるのです。


また、<span class="b green">「反抗期なんだから、適当にあしらっていればいい」</span>という態度や、「掛れものにさわる」ようなあつかいも、子どもの正常な発達を妨げます。

いずれも子どもの自己主張を正面から受け止めて、親が胸を貸すという態度ではありません。

子どもの気持ちとしては、親に一人前の人間として扱ってもらえないという不満が残るだけでなく、子どもの身勝手な言動をも放任することになりかねません。


親の態度として大切なことは、情緒的にも不安定なこの年代の子どもの特徴をよく知ったうえで、子どもの言動に過敏に反応するのではなく、ゆとりをもって受け止めることです。

親のヒステリックな対応が、子どもの自己主張を反抗的なものにしてまう、というケースが多いのではないでしょうか。

親も自分の間違いを指摘されたときは、率直に認めるいさざよさをもつと同時に、子どもの身勝手ないい分や、親への無理解からくる主張には、きびしくやり返すことがあってもいいのです。

<span class="b">そうすることによって、子どもは自分主義という幼児性を克服していくのです。</span>


結果として親子げんかになったとしても、そのことで親子関係をそこなうなどと恐れることはありませ人。

こどもが「死んでやれ」などという感情をいだくのは、こどもの主張に耳を傾けようとしない親の態度や、納得のいかない叱られ方をしたときなのです。


<h3>親への反抗は思春期の子どもの健全な姿</h3>


親への反発、抵抗、批判などといった反抗期的現象は、親にとってはたいへんやっかいなことですが、多かれ少なかれどの子どもにも見られる、自我の目覚めた思春期の子どもの健全な自己主張です。


しかし、対処の仕方を誤ると、子どもが思わぬ迷路に迷い込む危険性もあるのです。

中学三年生の明男（仮名）が、一学期のはじめにおこなわれた学校での三者面談の席で、いきなり<span class="b green">「高校へは進学したくない」</span>といい出しました。

驚いたのは先生と母親です。

教科によってむらはあるものの、けっして悪い成績ではありません。

英語が苦手で、通信簿の成績は「2」ですが、得意とする体育と社会は「5」　ですから、担任の先生も母親も、高校には進学するものと頭から決めてかかっていたのです。

驚いて問い詰める母親に、明男は学校で人間の価値が決まるわけではないと反発しました。

担任の先生も<span class="b green">「英語さえがんばれば」</span>と励ましましたが、明男の気持ちは変わりません。

学校から帰って母親は、さっそく父親に話し、二人がかりで息子の説得にかかりました。

<span class="b green">「なぜ高校に行きたくないのか」</span>と問い詰めても、

<span class="b green">「やれ偏差値だ、やれ内申書だといわれてビクついているようないまの学校の雰囲気がいやだから」</span>

というだけです。

明男の気持ちは、高校に行きたくないというのではなく、どうやら今日の受験体制と、それにふりまわされている中学校教育のあり方にたいする強い反発からきているようなのです。

しかし、両親は「勉強するのがいやだから、そんな理屈をいって」ぐらいにしか受け止めなかったのです。


そして、いまの社会では高校ぐらい出ていなければ困ること、男の子だからできれば大学にも行ってほしいと思っていることを、くどくどと話しました。

だが、そういえばいうほど、明男は

<span class="b green">「そういう社会が間違っている。ぼくが間違った社会に合わせる必要はない」</span>

と主張して譲りません。

結局、結論が出ないまま、「よく考えておきなさい」ということで打ち切りました。


それ以来、明男は、親とあまり口をきかなくなり、なにかと反抗的になりました。

肝心の勉強の方も、親の心配をしり目に、陸上部の練習にあけくれて、家ではまったくといっていいほどやりません。

成績は下がる一方です。


業を煮やした父親は、

<span class="b green">「受験勉強のつらさから逃げているのなら、親として許さない。
自分の人生を真剣に考えたうえで進学しないというのなら、将来の目標をはっきりと決めなさい」</span>

と、きびしく迫りました。

それにたいして明男は、将来は警察官になりたい、そのために高校卒業の資格が必要なので、定時制高校にいくつもりであると答えました。

かたわらで聞いていた母親は、

<span class="b green">「同じ高校でも、定時制では社会に出たときたいへん不利だ」</span>

といって、なんとか息子の気持ちを変えさせようとしました。

しかし、明男は

<span class="b green">「そんな社会がおかしいんだ」</span>

の一点張りで、ますます定時制高校進学の意志を固めます。

納得しなければテコでも動かない息子の性格は、両親がいちばんよく知っています。

とうとう父親は、勉強からの逃げでない証拠としてふだんの勉強をしっかりやる約束で、定時制進学を認めることを約束しました。


以来明男は、人が変わったように勉強しだしました。

持ちまえの明るさを取り戻し、親への反抗的な態度もすっかり影をひそめました。


おとなの生活や社会のなかにある不正や矛盾に鋭い批判の目を向け、おとなのつくった常識に反発するのが、この年ごろの子どもが本来もつ特徴です。

変におとなの��常識″の枠にはまったこざかしい子どもが多くなっている今日、明男のような若者らしい純粋さはとても貴重です。


親も教師も、真っすぐな目で社会や学校の矛盾をとらえている明男の気持ちに、どれだけ<span class="b blue">共感</span>を示せるかどうかが、彼のかたくなな気持ちを解きほぐすカギです。

反抗期だから、子どもはむやみに反抗するのではありません。

反抗と見える子どもの言動の裏側にある自己主張、親への訴えを、しっかり読み取れる親でありたいと思います。


受験体制と偏差値教育に反発して、高校に行かないといい出した明男の成績が、英語だけがとくに低い、と書きました。

人間ですから得手・不得手があって当然ですから、そのこと自体はそれほど心配することではありません。

<span class="b">しかし、他の教科に比べていちだんと劣る教科がある場合、その原因はなにか、親として知っておく必要があります。</span>

やればできるのに、成績が極端に悪いという場合、その教科の先生をきらって勉強しなくなった、という場合がしばしばあります。

明男の場合も、一年のときに、英語を教えた担任の先生とのトラブルに原因がありました。

三十歳を少し出た女の先生です。

一学期の半ば過ぎ、担任の先生から明男の母親に電話がありました。

登校拒否ぎみのクラスの女の子の母親から、その原因が明男にいじめられるためだという抗議が、学校にきたというのです。

明男は、小さなころから活発な子でしたが、よその子をいじめたという話は、一度も聞いたことがありません。

「まさか」とは思いましたが、担任の先生のとがめるような口調に母親は、さっそく先方の家を訪ねて謝罪しました。

そこでも、あれこれいわれましたが、　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
学校から帰った明男に問いただしても、まったく心当たりがないといいます。

強情だが嘘をついたことのない子です。


母親はさっそく先生に連絡して、よく調べてくれるように頼みました。

その結果、そういう事実はまったくないことがはっきりしました。

女生徒は、口を開けば「勉強」としかいわない母親に反発しての登校拒否でしたが、母親に責められて、口から出まかせをいっていたのです。

しかし、担任の先生は

<span class="b green">「ひどいお母さんです。わたしもすっかりだまされました」</span>

といったきりで、一言の謝罪もしません。

<span class="b green">「担任としてなんの調べもせず、むこうの母親のいい分をそのまま伝えてくるなんて」</span>

そういって、明男の母親は憤慨しました。

しかし、腹の虫がおさまらないのは、ぬれぎぬを着せられた明男です。

<span class="b green">「先生は、どうしてぼくに話してくれなかったのか。それに、間違いだとわかったら、先生だって謝るべきだ」</span>

そういって、よく確かめもしないで先方に謝罪にいった母親にも、くってかかりました。

以来、明男はその担任の先生を信頼しなくなりました。

それでも、まだ学級のリーダーとしてやる気充分だった明男は、なにかと学級の問題について積極的な発言をしました。

しかし、先生の意見とくい違うことが多く、それを先生にたいする「反抗」と受けとられてしまいました。

明男は、そんな先生を徹底してきらうようになり、その先生の教える英語の勉強をまったくしなくなってしまったのです。

かたちとしてはあきらかに<span class="b red f11em">「反抗」</span>です。


<h3>子どもの自立に胸を貸す心がまえで</h3>


<span class="b">親や教師は、このような反抗と見える子どもの言動の裏側にある自己主張を、しっかりと読み取る必要があります。</span>

そして、子どもの主張に対しては、納得のいくかたちで答えてやることが大切です。

明男の場合、親として先生との問題に、もっと真剣に相談にのってやるべきだったのです。

そして、場合によっては、親から子どもの気持ちを先生に話して、先生にも態度を改めてもらうようにはたらきかけをしてもよかったと思います。


子どもの主張には、ひとりよがりや偏見も多くあります。

しかし、それにたいしても、頭ごなしに否定してしまうのでなく、粘り強く話してわからせていくという態度が大切です。

ときには、親子でいい合いになることもあるでしょう。

最後まで意見の一致を見ないこともあるでしょう。

<span class="b">それでも、子どもと正面きって意見をいい合うということが、大切なのです。</span>

親が子どもの自立に胸を貸すというのは、そういうことなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 24 Oct 2008 05:19:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の甘えとわがまま</title>
         <description><![CDATA[<h3>子どもの成長に「甘え」は欠かせない</h3>


「甘えの心理とは、母子関係における乳児の心理にある」と土居健郎がその著書『甘えの構造』に記しています。

人間の（動物一般にも）生後における親子（とりわけ母子）の一体感は、「甘え」を通し愛着の形成に重要な働きをもっています。

つまり人間の健康な育ちに欠かせない人間関係を育てる基盤となるものという理解のもとに、甘えを位置づけて考えてみます。


では並列して取り上げる「わがまま」にはどのような意味があるのか、広辞苑にその意味を求めてみました。

<span class="b">自分の思い通りにすること、自分の思い通りになる</span>と記されています。

人と人との相互関係における意識にあるものとは異なり、自己を中心にした行動や意識がうかがえることに甘えとの違いを感じます。


2歳半になるＴ君は半年前にゆっくり「卒乳」をしました。

家族は祖父母とＴ君の父母が共に生活する3世代5人です。

新旧の育児感覚を様々な形であびせられながらも、可愛がられてすくすくと育ち、いまはトイレットトレーニングが課題というところです。


ある日のこと、突然ママの胸元をめがけて飛び込んできたＴ君は、あれよあれよと驚くうちに、ママのおっぱいを赤ちゃんのように吸い始めました。

その唐突な行動に何が起きたのかわからないまま数日が過ぎました。

お母さんはあまりの痛さに耐えかねて本人に問いかけたところ、

<span class="b green">「Ｔちゃんはまだ赤ちゃんだから…」</span>

と甘えた声を出したそうです。

<span class="b green">「そういえば一人っ子なのに、“お兄ちゃん”や“お兄ちゃんなのに…”という言葉が家族の中で使われるようになっていました」</span>

と報告されました。

この年齢で既におむつが取れた育児経験をもつ祖母の感覚では、

<span class="b green">「お兄ちゃんなのにどうしておむつがね‥」</span>

としばしば口にし、お嫁さんであるママは気になりながらも追従する姿勢があったのでしょう。

幸い人生第一歩の課題である「信頼」を十分に築いていたＴ君は、この「甘え」の蓑に自分を入れ、退行現象をもって自らの防衛を果したということでしょうか。

幸いＴ君のママは賢い人ですから、十分に甘えを受け入れた後、あせらずＴ君とは<span class="b">母乳以外のスキンシップや会話</span>を大切にした育児を心がけ、

家族間のコンセンサスづくりも始めました。


<h3>「甘やかし」と「わがまま」</h3>


（１）電車の中でバギーに乗ったまま泣いている赤ちゃんに、親がキャンデーを与えると、赤ちゃんは直ぐに静かになる情景、

（２）デパートの玩具売り場ではしいものをねだっている幼児が、大声で泣いたり怒っている場面で戸惑う親の姿、などにはよく出会います。

いずれもどのような対応が望ましいのかは議論のあるところです。


でも、子どもの成長過程によっては大人の行動が大きく意味をもっていることを理解したいのです。

（１）の場面では、バギーの赤ちゃんは本当は抱っこを求めて泣いたのかもしれません。
（２）の事例では玩具がほしいと言って駄々をこねている状況と判断できる年齢のようです。


空腹や愛情を満たすための慰めは必要なことです。

でもほしいものをすぐに手に入れたいとの要求をつねに満たすのは甘やかしであり、「わがまま」を育て、多く与えても子どもの幸せ感は薄いでしょう。

発達課題を踏んで　やがて自立期を迎える子どもは、これまでの母子一体感から抜け出て、そろそろ自分を親とは別の存在と理解しはじめます。

自分の恩いや力で動けるようになる技能の獲得は、幼児期の子どもの心に自信や喜びを生みます。

第一次反抗期とも重なり、心地よかった大人の受容から「自律」という新しい発達課題の形成に向けた「しつけ」といわれる親子の「対決」場面も生まれます。

自律を子どもの側に求めるだけでなく、親自らも変らねばならない時のようです。

土居は

「成人後も人間関係が結ばれる際には、初めには甘えが発動し、その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果している」

とも記しています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 24 Oct 2008 02:13:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>女の子の更正は、男の子の更正より難しい</title>
         <description><![CDATA[女の子の場合、いちど非行の泥沼に足を踏み入れると、男の子より立ち直りが困難だといわれます。

なぜでしょうか。


東京近郊のごく一般的なサラリーマン家庭の第二子として生まれた順子（仮名）に、非行の兆しが見られるようになったのは、彼女が中学二年生の夏休みからです。

順子の小学校での成績は、五段階相対評価で体育が「5」のほかは「4」と「3」が半々ぐらいですから、決して悪い成績ではありません。

しかし、両親はことあるごとに成績のよい兄と比較しました。

彼女はそのような親に反発して、勉強はまったくといっていいほどしなくなり、中学二年の一学期には、体育以外はほとんどが「2」というひどい成績になってしまいました。


そんな彼女が、ただ一つの生きがいとしていた運動部をやめたことが、非行の坂道をころげ落ちる直接のきっかけとなりました。

部の上級生との折り合いが悪く、「生意気だ」という理由でリンチを受けたことが原因です。

夏休みに部活動だといって朝から家を出て、ゲーム・センターなどで遊ぶようになりました。

二学期には、そこで知り合った他校の番長グループの女の子と喫茶店やディスコに出入りして、何度か警察に補導されました。

親に叱られると家を飛び出して、無断外泊するといった生活を繰り返しました。

ディスコで知り合った二十歳になる青年のアパートに寝泊まりしていたのです。

春休みには、家の金を十万円ほど持ち出して家出しました。


約半年後に、大阪のソープランドで働かされているところを警察に保護されましたが、すでに覚せい剤常習者となり、暴力団組員のヒモがついて売春させられていたのです。


非行に足を踏み入れている女の子でも、順子のようなところまで落ち込むのはまれなケースと考えていませんか？


順子自身もそうなるまでは、家出、暴力団、覚せい剤、売春という転落の道を、自分とは関係のない別の世界のことだと考えていたのです。

この例に見るように、今日の日本の社会は、とりわけ女の子にとっては危険な落とし穴の多い社会です。


ある教護院（家庭に保護能力がなく、非行性のある子どもを保護し、教育するための児童福祉施設）の関係者の話によると、

<span class="b">施設から逃げ出した男の子はまず九割は親のもとへ帰るが、女の子の場合は、逆に九割が家に帰らずに街に消えてしまうといいます。</span>

また、刑法犯少年に占める女子の割合は二二・三パーセントですが、家出少年の場合は女子が五六・八パーセントと、男子を上回っています。


東京の下町で、家出中の女子中学生三人をマンションに住み込ませて売春させていた暴力団組員が児童福祉法違反の容疑で逮捕されました。

最初はトルエンを吸わせたり、金を貸すなどの面倒をみたうえで、「金がないなら、からだで返せ」などと脅し、ホテルで売春をさせるというお定まりの手口です。


このように女の子の場合、からださえ投げ出せばどうにでも生きていけるという社会的状況が、このような男女差の原因になっているのではないでしょうか。


<h3>自立した女性に育てるためには、手本・憧れとなる女性が身近に必要</h3>


戦後、女性解放の呼び声とともに「性の解放」が叫ばれました。

だが、女性解放が実態をともなわない名ばかりの解放であるのと同様に、

「性の解放」もまた、その実態は、今日の日本の社会に根強く残る男尊女卑の思想と資本の論理による女性の「性の商品化」をカムフラージュするうたい文句にしかすぎません。
人間の性が生殖からも愛からも切り離されるばかりでなく、一方の性が一方に従属し、さらに商品としてあつかわれるという状態は、人間性の否定以外のなにものでもありません。

退廃とは、このような人間性否定の文化（広い意味での）状況をさすことばです。

女子の非行、退廃化の広がりは、構造的にはこのような社会の退廃に根を持つ現象です。
ですから、人間性を疎外する社会の変革こそが、女の子ばかりでなく子どもを非行、退廃から守る本質的な課題とならなければならないでしょう。

そのような社会の変革という大事業は、男性まかせでできることではありません。

女性も、社会や政治の問題に主体的にかかわっていくことが求められますし、女の子も、そのような自立した人格として育てられなければなりません。

そのように子どもを育てるということは、

<span class="b blue">女性の生き方としての身近な手本である母親の生き方が問われる問題であるともいえるのではないでしょうか。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 23 Oct 2008 20:40:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>非行・問題行動に対して、まずは子どもの言い分をよく聞きましょう</title>
         <description><![CDATA[親から見てどうかと思われる教師は少なくありませんが、

親や世間一般の安易な教師批判が、校内暴力を助長していることも事実です。

不用意に先生の批判を子どものまえですることは禁物です。

といっても、子どもが先生の悪口を家庭に持ち込んだとき、子どものいい分をじゅうぶんに聞かずに

<span class="b green">「先生の悪口をいってはいけない」</span>

と叱ることも、かならずＬもよい指導であるとはいえません。

親に本当の気持ちを話さなくなるばかりでなく、<span class="b green">「親も先生と同じだ」</span>と二重の反抗心を持つようになります。


<span class="b">それよりも、先生の立場や努力している点を忘れないようにして、子どもの言い分をよく聞いてやり、納得できる点があれば肯定してやることも必要です。</span>


それは、正しい批判の目を育てることにもなりますし、親が聞いてやったことで反抗心がしだいに解消されてゆく場合も少なくありません。

そのうえで、どんな理由があっても暴力や破壊という形の反抗は絶対に許されないことであることを、きちんと話す必要があります。


暴力や破壊的行動は、一時の感情の発散ではあっても、問題の解決には決してなりません。

いや、それどころか事態をいっそう悪化させてしまうことの方が多いことも教える必要があります。


たとえ最初の原因は教師に非があっても、結果として暴力をふるってしまえば、非は暴力をふるった側に生じます。

したがって、子どもには<span class="b">暴力に訴えない解決の方法</span>を教えなければなりません。

子どもの力だけで解決を見ない場合には、親が直接教師との話し合いをすることも必要でしょう。


大切なことは、子どもの訴えを正面から受け止めて、ともに正しい解決の道をさぐる親の姿勢です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 22 Oct 2008 19:24:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の食事のしつけ</title>
         <description><![CDATA[<h3>発達課題へ挑戦する子どもの姿ととらえる</h3>


乳幼児期の相談の中で、最も多いのがこの<span class="b">「食事」をめぐる問題</span>です。

親は、1歳未満では離乳食のこと、味覚が次第に増してくる離乳食完成期頃からは子どもの食事の好み、量の問題がとても気になってくるようです。

育児書に記された一定の食事量に達しないことから、栄養バランスが悪くならないかと心配になることが多いようです。


またこの頃になると身のまわりのことにさまざまな関心が増えてくるため、親の気がかりになるのが食事時の「いたずら」です。

子どもを叱ることが増えてくるのも、親の思いと子どもの興味関心の芽生えとのずれが生み出すトラブルであることが多いようです。

さらに「大人に食べさせてもらいたい」といった依存しながらの「食事態度」のことなど、1歳から学童期に至るまで、さまざまな問題が取り上げられています。


食事のマナーとして1歳前後の子どもによく見られることですが、食器の中の食べものを「ごちゃごちゃに混ぜる」「食べながら遊んでしまう」

また「スプーンやお箸、コップなどを落として楽しむ」などをはじめ、「他の人のお皿から好きなものをとってしまう」、「手づかみで食べる」「食べものを握りつぶす、鼻につめる」などの訴えがあります。

中には11か月くらいから一人で食べるといって「親の手を払う」という元気な赤ちゃんもいるのです。


<span class="b">しかしながら、このような子どもの姿から、すぐに何がよくて何が悪いかを決めつけてしてしまうのは避けたいものです。</span>

なぜならそれが大切な子どもの成長過程であり、発達課題へ挑戦する姿であることも多いからです。


<h3>親にとって心配な食事に関する主訴（問題）</h3>


月齢や年齢によっては「食べにくい食品」や「好き嫌い」があって食べられない、あるいは「新しい食品」への抵抗などの理由から問題が起きている場合もあります。

親が心配（問題）と思っていることがらには、以下のようなものがあります。


（１）「親の手を払い自分で食べないと気がすまない」11か月

（２）「おかずを一切食べない」2歳　

（３）「白いご飯以外には食べない」2歳　

（４）「食事量が少ない」「牛乳が好きで食事量が少ない」2歳　

（５）「口の中のものを飲み込まない」2歳4か月　

（６）「好き嫌いを言う」2歳4か月　

（７）「家の中で一日中食べものをほしがる」2歳5か月　

（８）「自分から食べようとしない」2歳7か月　

（９）「食事をしないでお菓子類をほしがる」2歳8か月　

（１０）「だらだら食べる」「やってもらいたがる」3歳2か月

（１１）「好きなものだけ食べる」4歳


<h3>子どもの興味・関心が育てる生活の中のしつけ</h3>


親の手を振り払って、下手ながら自分で食べる喜びを達成していく11か月の赤ちゃんのエネルギーは、実は、本人自身はもちろん、まわりの人を育てているのです。

「食べさせてもらうのを待っている」よい子で育ってきた2歳7か月の子どもは、むしろ自分の力を発揮する時期を少々逸したのかもしれません。


こうしたさまざまな子どもの姿には本人自身がもっている育つ力があることを理解しながら、その時期への対応を考えていきたいものです。

家庭にはその家庭を営む人たちの願いや方針があるのですが、子どもが自己を形成していく過程には日々の小さな生活、睦眼や着脱、いたずら・乱暴、きょうだい関係、親子関係、甘えなどが存在することに気づきます。

<span class="b">子どもの機能的・精神的発達段階と照らし合わせて、それぞれの対応の仕方を考えていくことが必要でしょう。</span>


子どもが育つ土壌は、親子関係や家庭のもつさまざまな背景につながっていることを心にとめたいものです。

子どもの「意欲」を育てるためにも、肯定的な対応や表現を用いながら、楽しい食事態度を育てていきましょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 22 Oct 2008 12:54:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>学力アップを目指すなら、勉強以上に注目すべき部分がある</title>
         <description><![CDATA[子供の中学受験を考える場合、どうしても、偏差値至上主義に傾きやすく、子供の人間形成という面は、二の次、三の次になりやすい。

その結果として、仮に上位の中学に入ったにしても、さまざまなゆがみを生じ、本人自身が人知れず悩み苦しむという事態になる。


子供の「人生脚本」が固まりつつあるいま、知性のみならず、感受性にかかわる部分を、いかに生かしてゆくべきかを、親として考えなければいけないのではないだろうか？

<span class="b">「優等生」「インテリ」である前に、まず「健全な人間」でありたいものだ。</span>


<h3>あなたの子供は、秀才型か、それとも努力型か？</h3>


人もうらやむスーパーエリートが、人知れず悩むという状況が、最近非常に多いようだ。
何不自由なく育った「お坊ちゃん」「お嬢ちゃん」に、しかも、どちらかと言えばインテリに、この手のタイプが多いというあたりに、ヒントがあるように思われる。

つまり、子供のころから、塾だ家庭教師だと言って、ほんとうに、それが子供の持ち味にかなっているかどうかという顧慮もなく、知性を伸ばすことにのみ狂奔し、<span class="b red">感受性をすっかり微弱にしてしまっている</span>のである。


表面的には、秀才や才媛で、しかも、すなおで優しい。

しかし、いざつきあってみると、自己中心的で、思いやりがない。

いつも失敗を恐れ、神経質で、本心を見せない。

したがって、当然、相手の心の中に飛び込んでゆくことはできない。

人の痛みを自分の痛みとして泣くこともできない。

しかも、自分では、そういう自分を知っていて、いつもいつも、心は飢餓状態にあり、しかし、自分では、どうすることもできない。

ほんとうは、どうすることもできるのだが、一歩を踏み出す勇気がない。

深い意味での、「ふれ合い」を求めていながら、全く受け身の姿勢しかとれない。

それどころか、他人が、へたに接近してこようものなら、どう対応したらよいかわからず、パニックに陥ってしまう。

肉体的な意味での、男女の「ふれ合い」は、両極に分解する。

しかし、精神的な意味での、男女の、あるいは、性を超えた人間同士の「ふれ合い」になると、ほとんど全滅に近い。

つまり、物理的にセックスはこなすけれども、心のふれ合いのない「つきあい」か、肉体的にも精神的にもふれ合うことのない「つきあい」が、いまや大部分を占めているのである。


スーパーエリートは（もちろんすべてとはいわない）、小・中学生のころから、友達はいたけれども、それは同時に競争相手であって、けっして心を許すことのできない相手だったのである。

異性の友達だって、けっしていなかったわけではないのだが、結局は、受験戦争の「戦友」であったり、「敵」であったりして、「女」として見ることはなかったのである。

そういうエリートにとっては、お母さんだけが、心を開ける人だった。

しかし、それにも限界はあり、思春期以降の性にまつわる問題は、エロ漫画を相手に妄想をたくましくする以外になかった。

そして、そういう状態が、延々と20年近くもつづいたのである。

対人面において、そうした感受性を発揮し、伸ばしていくという機会を全く得なかったために、すっかり感受性微弱に陥ってしまったのである。


これは決して極端な話ではない。

信じられないかもしれないが、20代後半から30代前半の未婚の世代にとっては、こうした現象は、いまや<span class="b red 11em">「常識」</span>なのである。

勉強によって、知性を伸ばしてゆくことは、もちろんたいせつだが、それ以上に、感受性そのものを豊かにしてゆくとともに、それが、対人面において、存分に発揮されるような環境作りをすることが、いまのような時代だからこそ必要なのである。


学歴形成以上に、豊かな人間形成ということが、自己実現達成のための重要な要素であることを忘れてはならない。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 22 Oct 2008 01:42:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>落ちこぼれを生む能力主義の教育と受験制度</title>
         <description><![CDATA[中学生が非行の「主役」であることのいま一つの要因は、学歴社会と今日の受験制度、

ならびに「できる子」と「できない子」を差別し、選別するための能力主義の教育です。

中学校は義務教育最後の段階で、中学生は自分で自分の進路を決定し、自分で道を切り開かなければなりません。

これは、子どもが体験する自立のためのはじめての試練だといっていいでしょう。

この自立のための試練は、子どもがおとなになる過程でだれもがくぐり抜けなければならない関門です。


しかし、学歴によって社会的な階層がある程度決定づけられてしまうような社会構造と、テストの点数や偏差値によって進路がふり分けられ、

そしてそれが、差別的な階層にふり分けられることにつながるような受験制度のもとでの苦悩が、はたして子どもの自立のために必要な試練であるかどうか、議論の余地はないでしょう。


<span class="b red">このような進路や受験にたいする不安が、思春期にある中学生の不安と動揺をいっそう大きくしているのです。</span>

そして、教師やまわりの友だちから「落ちこぼれ」のレッテルを貼られたような生徒が、自分の将来に絶望して荒れたり、ひらき直ってつっぱったりするのです。


校内暴力をはじめとして非行に走る子どもの大半は、授業についていけなくなった、いわゆる<span class="b">落ちこぼれ</span>です。

このような授業についていけなくなった子どもを大量につくり出したものは、

<span class="b">経済の高度成長政策を裏側から支えてきた「人づくり政策」による能力主義の教育と受験体制です。</span>


そして、新しく示された臨教審路線の学習指導要領は、小学校の低学年から履修する漢字の数を増やしたり、小学二年で40×3などの二位数の乗法を加えるなど、

はやい時期から落ちこぼれをつくり、中学では「個に応じた指導方法」だとして能力別のクラス編成（「習熟の程度に応じた指導」）を導入するなど、はやくから「できる子」と「できない子」をふるい分けするような内容になっています。


このようにやむなく非行に走るような状況をつくり出す一方で、校則や体罰などで管理を強めているのが今日の学校です。

もちろん、それは教育全体にたいする管理体制の問題であって、そのような状況下にあっても、どの子にも行き届いた教育をと願いながら、また子どもをのびのびと育てたいと願いながら、頑張っている教師たちのいることも忘れてはならないでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 21 Oct 2008 06:01:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>幼い子どものうそは、あまり心配ない</title>
         <description><![CDATA[<h3>親や保護者の一貫した態度が大切</h3>


うそをつくということは、言葉を話せるようになってからですから、2歳くらいからでしょう。


また子どもといっても、ここでは、就学前の子どもを考えてみます。

子どもの問題行動の一つに<span class="b">「うそをつくこと」</span>があげられます。

親や保育者は、子どもがうそを言うことを、何かのサインではないかと考えがちです。

年齢やうその内容、また頻度について、確かに注目すべきケースもあるかもしれません。

一般的には、幼い子どもの場合は、あまり心配のいらない「うそをつく」ことのほうが多いことに、気がつきます。


たとえば、ピアジェ（J.Piage）の認知発達理論からすると、

2歳から7歳は前操作期にあたり、「ことばが発達し、イメージを便りた思考（象徴思考）ができるようになる。自己中心的な思考が優先で、保存の概念が未発達な直観的思考が見られる」

という認知の仕方です。

その後の具体的操作期（7歳〜11歳）に入り、

「具体的なものについて論理的思考ができるようになり、自己中心性が弱まり社会的行動が生じるようになる」のです。


<span class="b">つまり簡単にいえば、かなり幼い年齢では、うそがうそなのだとわからないからです。</span>

エリクソン（E.H.Erikson）によれば、幼児後期（3歳〜6歳）は、<span class="b">「自発性対罪悪感」</span>という発達課題にある時期です。

子どもはそれぞれの自分の住む社会や文化から、子どもがふれることのできない領域があることを知ります。

そこにふれると、禁止されたり罰せられたりします。

その経験から、大人、とくに親が何を期待し何を禁止するのか、自分がどうすれば親を喜ばせ、怒らせるかに敏感に反応します。

その結果、それに自分を合わせるようになります。

それが、モラルや良心として、その子どもに内在化されるのです。


ですから、幼児後期になれば、道徳心が芽生えてきて、自分の欲求や行動を表そうとする時、罪悪感をいだき、自分自身をコントロールすることもできるようになります。

それができれば、自分自身に自信もでき、自発性が発達し、遊びや探索したい気持ちがわくことになります。

このように、<span class="b">この時期は、親が最も重要な倫理的モデルになるのです。</span>

子どもが「自発性対罪悪感」という危機を解決することに、親の子どもへの評価や制御が深く結びついています。

「うそをついてはいけない」ということをどの親も子どもに教えているかどうかはわかりません。

しかし、「うそをついていいよ」と教える親は少なそうです。

幼児後期となれば、親にとって「よい子でいたい」ために「うそをつく」かもしれません。

子どもの多くは、うそをいたずらでつくのではなく、すでに述べたように罰せられることや「悪い子」と拒絶されることを避けるためにつくと思われます。

子どもが最初にうそをついたら罰するのではなく、学習の機会にしていくことが大切です。

しばしば保育者は、保護者から子どものうそについて相談を受けたり、また保育場面で子どものうそに遭遇したりすると思います。


保育者が子どもに対して、また保護者にアドバイスできることとして、以下に例をあげておきます。

「うそも方便」といって、大人は人間関係を悪くしないためのうそを許容することがあります。

<span class="b">しかし、子どもは、自分がいけないといわれていることを親がしていると、混乱します。</span>

親がついているうそとの違いがわかりません。


ですから、子どもの前で親がうそをつくのはやめます。


子どもが、きっとこういう場合にはうそをついてしまうのではないかと思える時に、本当のことを話したら、その子どもをほめることです。

<span class="b">本当のことを話してくれてうれしいことを子どもに伝えましょう。</span>


真実を話すことの大切さを、説明できるようにします。

うそを言ったことのネガティブな結果についても教えます。

その時は、できるだけ具体的に説明することです。

3、4歳　以下の子どもは「うその概念」がよくわかっていないので、本当のことを話すこととうそをつくことについて、具体的な例を話します。


子どもがうそをつき通す時でも、落ち着いて対応するように努めます。

子どものうそへの対処法が、一貫しているようにします。

一定のルールを作って、うそをつくことの理解ができるようになったら、うそをついたことに対して何らかの結果を与えるようにします。

しかし、<span class="b">罰として恥をかかせること</span>は避けましょう。

親は　<span class="b">うそをつかれてがっかりしたというメッセージを伝えます。</span>


子どもがうそをついた行動に対してで、その子自身の価値を下げるものではないことも、しっかり伝わるようにしましょう。

「うそつき」というレッテルを貼るのはいけません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 20 Oct 2008 19:47:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学生の非行・問題行動について</title>
         <description><![CDATA[<ul class="topics">

どんなにおとなしい子でも、まじめな子でも非行に走る可能性がある。

物質的な豊かさを求めた結果である

</ul>


<h3>非行の多くは一過性、だが……</h3>


一昔前まえまでは、非行と聞けば、わが子とは無縁のことと考えるような親が少なくありませんでした。

だがいまでは、中学生の子を持つ親の多くが、いや、すでに小学生のうちから、わが子の問題として心配するようになった、と言っても決していい過ぎではないでしょう。


中学生を中心とする子どもの非行が深刻な社会問題となり、非行の低年齢化が叫ばれていることが、親の不安をかきたてています。

非行が、特殊な子の特殊な問題でなくなっているという問題もあります。


そればかりではありません。

少なからぬ親が子どもの育ち方に不安をいだいています。


中学生を中心とする子供の非行が深刻な社会問題となり、非行の低年齢化が叫ばれていることが、親の不安をかきたてています。

<span class="b">非行が、特殊な子の特殊な問題でなくなっているという問題もあります。</span>


そればかりではありません。少なからぬ親が子供の育ち方に不安を抱いています。

そして、子どもをとりまく環境もいちだんと悪化し、どの子が非行に走っても不思議でない、という状況もあります。


子どもというのは悪さ・いたずらを繰り返しながら成長していく存在です。

そして、��非行″と呼ばれる行為もまた、おとなになるための通過儀礼で、その多くは<span class="b">一過性</span>です。


だが、一過性に終わらせるかどうかは、親や教師をはじめとするおとなの対応の仕方にかかっています。

それに、今日の子どもの非行は��大人になるための通過儀礼″といって軽く見過ごすことのできない深刻なものが多くなっていますから、十分な注意が必要なことはいうまでもありません。


<h3>少年の非行が慢性化している</h3>


戦後第三の非行（第一のピークは一九五一年、第二のピークは一九六四年）と呼ばれている今日の少年非行は、

一九七三年のオイルショックに端を発した高度成長の終りとともに急増し、以来今日まで高い水準を維持しっづけています。

過去にこれはどながく非行の山がつづいたことはありません。

そういう意味で、少年の非行は慢性化の時代に入ったといえるでしょう。


平成元年版『警察白書』によると、一九八八年の一年間に全国で補導された主要刑法犯少年の数は一九万三千二百六人で（前年に比べて三・二％増）、

一九八三年をピークに若干減少傾向にあった少年非行が再び増勢に転じました。


特徴としては、これまでの非行の主役とされてきた中学生に代わって高校生が全体の三六・六％で最も多く、次いで中学生の三五・九％となっています。

中学生に代わって高校生がトップになったことについて、中学生の生徒指導の成果とみる見方もありますが、

校則と体罰による管理強化によって子どもの問題行動が抑えこまれたために、高校生になって吹き出た結果、高校生の非行が増加したと見るほうが当を得ているようです。


しかし、高校生の非行が中学生を抜いてトップになったというのは、あくまでも警察の補導件数であって、水面下での少年非行の実態からすれば、

非行の主役はやはり中学生だという状況は変わっていないようです。


<h3>いま「普通の子」が危ない</h3>


��非行″といえば、とかく日ごろから問題行動のある子どもと考えがちですが、

最近は、悪質、凶悪な事件が、あまり目立たない<span class="b">「普通の子」</span></span>によって引き起こされています。


東京・板橋区の中学三年の二人の少年が、人目が届きにくいマンションの屋上に小学生などを連れ出し、プロレスの荒技をかけて計六十人に重軽傷を負わせるという事件がありました。

二人は、学校では目立たない普通の少年だったといいます。

先にもふれた両親・祖母殺害事件（一九八八年七月、東京・目黒区）の中学二年生の少年も、学校では「明るく、ひょうきんで人気者」であり、近所でも礼儀正しい評判の子だったといいます。

成績は「中の上」だったといいますから、少なくともはた目には��普通の子″だったといっていいでしょう。


もちろん、本当の意味での普通の子なら心配はないでしょう。

<span class="b">わたしが心配するのは、親や教師によってつくられた「普通」という枠ぐみのなかに、押し込められている子どもです。</span>


親や教師による強制、ということばかりではありません。

親や教師の要求を先取りして、自分からすすんで自己規制することで、必死に「良い子」や「普通の子」を演じているような子どもも少なくありません。


本来、子どもというのは遊びや、遊びのなかで獲得する友だちや仲間のなかで育つものです。

そして、「反抗期」ともいわれる思春期にもなれば、親や教師の期待する「普通」に反発するのが、子どもにとっての普通なのです。


<span class="b">しかし、多くの親や教師は、勉強そっちのけで遊んでばかりいる子どもを、普通とは見てくれないのです。</span>

そして、かりに友だちとあまり遊ぶようなことがなくても、よく勉強する子どもは「良い子」であり、心配のない「普通の子」と見てしまうのです。


しかし、そのような心の揺れや悩みを表現することをしない子どもの場合、

それは内部でいっそう<span class="b red">肥大</span>し、それが極限にたっしたときには、とりかえしのつかない事態を招くことになりかねないのです。


<h3>心身の発達のインバランスが原因</h3>


思春期は、危機をはらむ年代です。

その大きな原因の一つに、心身のいちじるしい変化、とりわけ心身の発達のインバランスという問題があります。

中学二年にもなれば、肉体的に立派なおとなです。

しかし物事の判断はまだ幼く、依存しながら自立するといわれるように甘えた気分もたっぷり残っていて、精神的にはまだまだ子どもです。

とりわけ今日の子どもは、身体の発達が早まる（早熟化）一方、精神の発達という面では逆に遅滞する傾向があります。

そのインバランスな状態がますます顕著になって、思春期危機を増大させています。


中学生という時期は、思春期のなかでも発達のバランスが最も悪い時期なのです。

中学生の時期が、最もむずかしい年ごろだといわれる最大の要因はここにあります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 20 Oct 2008 13:43:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>受験ノイローゼ</title>
         <description><![CDATA[<ul class="topics">

大きすぎる期待や失敗の許されない期待は、

<span class="b red">子供の精神的負担を増し、危機に追い込む</span>

</ul>

<span class="b green">「親の期待が重荷だった」</span>

中学浪人一年目で目指す私立Ｋ高校に無事入学した昇（仮名）は、受験ノイローゼで苦しんだ中学三年の受験期をふりかえって、こういいます。


<h3>親の期待過剰や過干渉は禁物</h3>


どちらかといえば優等生タイプで、親に口答えなどしたことのない昇が、家族のちょっとした笑い声にも神経をとがらせ、母親や妹に当たりちらすようになったのは、中学三年の二学期の半ばからです。

一日おきに通う進学塾の時間を含めると、家庭での学習時間が一日五〜六時間、日曜日は都心の有名進学スクールに通うというのが、三年生になってからの昇の生活です。


学校の部活動は、両親の意向で一年生のときからやっていません。

小学校の卒業期に某有名私立中学の入試に失敗したことから、中学生になってからの昇は、国立大学合格者を多数出しているＫ高校の入試に照準を合わせた生活を、両親によって強いられたのです。


他の生徒たちが部活動に参加したり、のんびりと余暇を過ごしている間に、一目数時間もの猛勉強をしていたのですから、テストの成績はいつも学年で一、二番でした。

だが、夏休みを過ぎたあたりから成績がじょじょに下降しはじめ、十一月初旬におこなわれた業者テストでは、学年で九番となってしまいました。


急にふさぎ込んだり、家族に当たりちらすような昇の変化はこのあたりからです。

が、いらいらしてなんとなく落ち着かず、

<span class="b green">「自信がない」「気持ちが集中しない」「眠れない」</span>

などと母親に訴えるようになったのは、それより一カ月ほどまえあたりからでした。

母親は、昇には家の仕事はいっさいさせず、テレビも本人はもちろん、五つも年下の妹にも、<span class="b green">「お兄ちゃんの勉強のじゃまになるから」</span>といって、あまり見せません。


二学期に入ると、長い間続けてきた着物着付け教室の講師としての仕事もやめて、子どもの受験に備えました。

母親が、学校の担任の先生や塾の先生を頻繁に訪ねるようになり、息子の勉強の仕方にまでなにかと口出しするようになったのは、このころからです。


三学期に入ると、昇のいらいらはますますひどくなり、

<span class="b green">「考えがまとまらない」</span>

といっては大声で怒鳴ったりするばかりでなく、頭痛、耳鳴り、めまい、食欲不振、不眠など、さまざまなからだの不調を訴えるようになりました。

医師は、とくに客観的な体の異常は認められず、心因的なものだといいます。

いわゆる受験ノイローゼです。

昇のノイローゼは、受験当日、頂点に達し、汗をひどくかき、脈拍が速くなり、テスト中に吐くといった状態で、結果はもちろん不合格となりました。


<h3>親の態度で子どもの不安を和らげることが出来る</h3>


親がわが子に期待するのは当然ですが、大きすぎる期待や、失敗の許されないような期待は、子どもの精神的な負担を大きくし、子どもを危機に追い込みます。

自分だけのことなら、たとえ失敗してもあきらめもつきますが、親やまわりの人たちの期待が大きすぎると、絶対失敗は許されないという絶体絶命の境地に追い込まれてしまうのです。

まわりの人たちの気の使いすぎも、子どもの精神的負担を大きくします。

高校受験というのは、ある意味で人生最初の試練ですから家族がそれなりにいろいろ配慮してあげることは必要なことです。

だが、度がすぎると、かえって<span class="b red">逆効果</span>になる場合が多いようです。

受験期の子どもをもつ親の心がまえとして大切なことは、テレビやステレオの音量を下げるとか、やたらと仕事をいいつけないなど、勉強に専念できる環境をつくってやることと同時に、

<span class="b blue">子どもの不安、動揺をいかに和らげてやるか</span>という心遣いです。

そのためには、ふだんと変わらぬ家庭の雰囲気と、親の泰然自若とした態度がなによりも肝心です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 19 Oct 2008 01:53:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>受験勉強と偏差値のワナ</title>
         <description><![CDATA[偏差値は、その弊害についてもいろいろ指摘されています。

だが、高校進学を目指す中学生やその親にとって、無視することのできない大きな力を持っているというのが現実です。


しかし、数字を示されて、<span class="b green">「これがあなたのお子さんの偏差値」</span>ですなどといわれても、あまりピンとこない親の方が多いのではないでしょうか。


偏差値というのは、テストの得点とは違います。

ある限られた集団の中での各人の相対的な位置を示す数字です。


なぜ、順位というわかりやすい数字を使わないのでしょうか。

それは、たとえば十人中の五番と百人中の五番を比べてみればわかるように、順位というのは全体の人数が変われば、その意味も当然変わってきます。


また、テストには必ず問題の難易があります。

やさしい問題で八十点とったのと、むずかしい問題で七十点とったのとでは、どちらがよくできたのか判断がつきません。

偏差値は、全体の平均値に照らしてどのような位置にいるかを表す方法です。

平均からの「偏り」という意味で「偏差値」と呼んでいるのです。

偏差値は平均が五〇で、普通最高は七五、最低は二五ですが、問題がとくにむずかしい場合には、最高八〇ぐらいになることもあります。


<h3>教育的な意味は非常にうすい偏差値</h3>


ところで偏差値というのは、テスト業者の模擬試験の結果をコンピューターが打ち出したものにすぎず、教育的な意味は非常に薄いといっても過言ではありません。

それどころか、学校教育が業者テストの偏差値にふり回されたり、業者の出す偏差値だけで機械的、事務的な進路指導がおこなわれたりするような弊害も指摘されているように、差別、選択の道具にさえなっています。


しかし、現実にはこの偏差値を無視して高校を受けさせた場合、はたして合格の可能性受験体制と学習はどうかということになると、たいへんむずかしいことになります。

教師のデータより、豊富なデータをコンピューターにかけて業者が偏差値でランクづけした資料の方が、はるかに確立が高いというのは、いたしかたのないところです。


また、私立高校が単願推薦入学（他の学校をあわせて受験することをせず、その学校だけを単独に志願する生徒にたいして、出身中学校の推薦を受けて入学者を内定する制度）という形で生徒を受け入れる場合、

<span class="b">「偏差値○○以上」</span>というように条件を示してくるのがふつうで、中学校では偏差値で生徒をふり分ける進路指導に疑問をいだいていても、まったく無視することのできないのが実情です。


要は教師も親も、子どもの進路を偏差値だけで決めるようなことをせず、進学しようとする高校の特色をよく知ったうえで、

その子どもの能力（単なる偏差値学力だけでないより多様な能力）や適性に見合った学校を、子ども自身の意志で選べるようにアドバイスを与えることです。

<hr />

<span class="b green">「わたしは、先生の��成績″のために商業高校に入れられたのです」</span>


現在、某私立大学に通うある女子学生は、高校受験当時をふりかえってこういいます。

彼女は、普通科の都立Ａ高校を希望していましたが、彼女の業者テストの平均偏差値は四九で、

受験案内書の予測するＡ高校の合格基準（八〇パーセント以上の合格の可能性）　の偏差値は、五一となっています。

また、十一月の業者テストの結果、コンピューターがはじき出した彼女の志願するＡ高校についての所見も、

「内申点が今回の学力相応と仮定して、Ａ高校の合否は本試験の当たり外れに左右される」

となっています。


そこで担任の先生は、合格の確立の高い都立Ｃ商業高校を受験するようにすすめました。
先生は、<span class="b green">「大学に進学しないのなら、商業高校の方が就職に有利」</span>といいますが、彼女はあまり気がすすみません。

しかし<span class="b green">「先生の指導を無視するなら責任は持てない」</span>と突っぱねられて、仕方なしにＣ商業高校を受験して合格しました。


しかし、彼女は合格を喜ぶ気持ちになれず、担任の先生にたいする反発から卒業式の日までふてくされていました。

高校に入っても勉強に身が入らず、一時は非行グループにも入り、両親をたいへん心配させました。

その後、さいわいに高校の担任の先生の指導で大学に進学する気になり、二年から進学クラスに入って立ち直りました。


Ａ高校がだめなら、学費のかさむ私立でも普通科を、という彼女の希望を無視して、担任の先生はなぜ商業高校（公立）を強引にすすめたのでしょうか。

だが現実の問題として、担任の先生から無理やり本人の希望しない高校を受験するように言われたらどうしたらよいでしょうか。

なかには、<span class="b">教師のすすめる高校以外は内申書を書かない</span>といったりするような教師もいます。


しかし、どの高校を受験するかを決定するのは子どもの権限に属する問題であることを、親も子どももしっかりと認識しておく必要があります。

そして、<span class="b">実際には内申書を書かないというようなことはできないのだ</span>ということも知っておく必要があります。


なにはともあれ、子どもの一生を左右することにもつながることですので、先の例（女子学生）のように、自分で納得のいかない受験は絶対にさせるべきではありません。

<span class="b green">「公立の合格者をクラスから何人出したかで、先生の評価が決まるからだ」</span>

と、彼女はいいます。

しかし、この間題は先生を批判するだけで解決するような問題ではありません。

公立高校や有名私立高校の合格率によって、学校が評価されるような社会的風潮や親の意識にも問題があります。


<h3>偏差値だけで進路を決める危険性</h3>


政男は、人一倍プライドの高い両親の影響で、自分の実力より偏差値の高い高校ばかり受験して、何と十一校目でやっと合格という学校新記録をつくりました。

七校目あたりからは心身ともに疲弊しきって、寝込んでしまいましたが、栄養剤を飲ませ、父親が車で送り迎えして受験させました。

当時の政男を知る担任の先生は、さながらダウン寸前のボクサーが、無理やりリングの中にはうり込まれるようなありさまだったといいます。


自分の偏差値を度外視して受験校を選ぶことが、偏差値にふり回されないということではありません。

政男の場合、偏差値による進路決定を否定しているように見えながら、やはり偏差値の高い学校がよい学校だとする<span class="b red">偏差値神話の犠牲者</span>です。

さいわいにして政男は、はじめは意に添わない私立高校でしたが、いまは学校がおもしろいと元気に通っています。


志望校を選ぶに当たっては、やたらに偏差値の高いところにばかりこだわらず、<span class="b">教育内容のすぐれた学校</span>を選ぶことが大切です。


都内のある中学校のＰＴＡでは、公私立の高校百校以上の文化祭と体育祭の日程と内容を一覧表にして印刷したものを、ＰＴＡの全会員に配布して見学をすすめています。

文化祭や体育祭を見学することが、各高校の内容を知るのにたいへん役に立つからです。

父母と教師による都高校問題連絡協議会は、「各校の教育内容や特色で志望校を選ぶための手がかりを」と<span class="b">『父母がしらべた都立高校白書』</span>をつくり好評です。

しかし、このようなことで、偏差値に支配される受験体制の矛盾を解消できるものではもちろんありません。

十五の春を泣かせないために、入学した年の学費は公立の五・七倍もかかるという私学の父母負担軽減や、教育条件の公私格差是正、選抜制度を含めた高校教育の見直しなど、抜本的な改革が急がれなければなりません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 17 Oct 2008 15:01:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>保育者のアドバイス</title>
         <description><![CDATA[長年子どもにかかわる仕事をしている方なら、何度も受ける「よくある相談」というものがあります。

友だちができるだろうか、友だちができればうまく遊べているだろうか、乱暴すぎないか、おとなしすぎていじめられやしないか、食が細い、癖があるなどなど。

ベテランの保育者から

<span class="b green">「多くの親が同じことを言う。聞かなくても次に何を言うかわかってしまう」</span>

と聞いたことがあります。


多くの子どもたちの発達の姿を見てきた保育者には、経験からくる見通しと安心感があります。

そのような保育者の

<span class="b green">「よくあることよ。大丈夫よ」</span>

という態度は、相談をした親に大きな安心感を与えることでしょう。


ただ、気をつけなければいけないことは、よくあることというのは相談を受ける側にとってであり、親にとっては初めてのことなのです。

「よくある相談」と思うことで我々は、それがどんな相談であるのか耳を傾けて聴くことをやめてしまいます。

しっかりと耳を傾けて聴いた時、「よくある相談」は一つひとつまったく異なった相談となります。


たとえば、「爪を噛む癖がある」という相談に

<span class="b green">「よくあることですよ。大丈夫。新しい場所に慣れていないからでしょう。

やりたい遊びが見つかれば、じきになくなりますよ」</span>


と保育者が答えを出していた時には同じように思えた相談も、さらに話を聴く時、

ある親は自分の育児が悪いせいではないかと悩んでいたり、

ある親は肉親の死など大きな出来事があったことを語り出したりします。

ある親は

<span class="b green">「その癖を見るといらいらする。主人にも同じ癖がある」</span>

と夫への不満を話し出したり、またある親は保育者の対応が悪いのでうちの子がこんな行動をしていると暗に訴えていたりする場合もあります。

一人ひとりの感じ方、考え方、親と子の性格・組み合わせ、環境、全て違うわけですから、教えてもらうようなつもりで話を聴くならば、多くのことを話してもらえるでしょう。

<span class="b">よくある相談というのは、多くの親を悩ませる子育て期間の大問題でもあります。</span>

その大問題をこの親はどう受けとめ、どう行動してきたのか、この子はどのような発達の姿を見せているのかに耳を傾ける時、それぞれの親子の発達のドラマを聴かせてもらうことができるでしょう。


保育者が答えを出していたのでは聴くことのできなかった一人ひとりの物語です。

話している親も、話しながら多くのことに気づいたり考えが整理されたりします。

よい聴き手がいることは「よくある」困りごとを尊重な成長の糧にしてくれます。

丁寧に聴くことは、保育者自身の価値観も豊かにしてくれるでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 17 Oct 2008 03:59:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学生には職業選択はまだむずかしい</title>
         <description><![CDATA[「どこの高校でもいいから行かせたい」という親や、「勉強は好きではないが、高校には行きたい」という子どもがいても無理はありません。

<span class="b">そもそも十四や十五の年齢で、一生の行き方を左右する職業の選択を迫られるというところに問題があります。</span>

自分の希望で職業を選んだ場合はともかく、経済的な事情や成績で進学をあきらめざるをえなくなった子どもに、一生を左右する職業を選べというのは気の毒な話です。


中卒で就職に就いた昔とは、事情が違います。

社会の工業化がいちだんと進み、職種は多様化しましたが、社会的な視野の狭い中学生では、自分の知る職業の範囲にも限度があります。

また、中学生ぐらいで自己の能力、適性を見きわめることはむずかしいことです。


就職希望者には、職業安定所で<span class="b">「職業適性検査」</span>などである程度の診断はしてくれますが、

おおまかな職業の分野の適性は示してくれるものの、これで実際に自分に適した職業受験体制と学習が見つかるわけではありません。

ですから、どんな職業に就くかという決定は、もう少し勉強して、社会的な視野を広げ、自分を見つめる目を育ててからにしたほうがよいというのは当然です。


そればかりではありません。


科学技術など、社会の進歩発展はめざましく、ロボットが人間の代わりに働き、そのロボットをロボットがつくるという時代です。

このような時代を生き、さらにこのような科学技術の進歩が万人の幸せのために役立つような社会を建設するためにも、今日の高等学校程度の学習内容は、だれもが身につけなければならない基礎的な学力です。

そういう意味で、高校教育は、今や国民のための普通教育だといっていいと思います。

だからといって、現在の学校制度のもとで、なにがなんでも高校に進学させるという考えに賛成するものではありません。

<span class="b">勉強しに行くのだというはっきりとした自覚を持たずに、みんなが行くから行くというような考え方には反対です。</span>

たとえ中学での成績は悪くても、高校でさらに進んだ内容を学びに行くのだという目的意識を持つことが大切です。

高校は学ぶ意志のある者だけが行くところであることを、子どもにしっかり教える必要があります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 16 Oct 2008 01:10:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学生と進路</title>
         <description><![CDATA[もし、子どもが「進学しないで就職する」といい出したら、あなたはどうしますか。

進学率九四・五パーセント（一九八八年）という時代です。

子どもからいきなり「就職する」などといわれれば、たいていの親はうろたえて、

<span class="b green">「お願いだから高校ぐらいは出てちょうだい」</span>

などといってしまいかねないでしょう。


変われば変わったものです。


昔はとりたてて裕福でない家庭の場合、なまはんかなことでは進学させてもらえない時代でした。

それなりに勉強もし、親に懇願してやっと進学を許してもらうといった状況でした。



ところが今日では、「そんなら高校なんか行かないよ」と子どもが親を脅迫する切り札にする例も少なくありません。

親の希望する高校進学と引き換えに、バイクを手に入れたという例もあります。

これではなんのための高校進学なのかわかりません。

高校入学後の中途退学者が年々増加し、暴走族のなかにはこのような高校中退者が多いといわれます。


<h3>折りにふれて子どもと進路の相談を</h3>


いうまでもなく中学生は義務教育学校の最終課程ですから、卒業後の進路の選択という問題は、だれもが否応なしに迫られる問題です。

そして、進路を選ぶということは、子どもにとって人生の岐路に立つはじめての経験です。

<span class="b green">「親がそういうから」「みんながそうするから」</span>

といった主体性のない態度で決めるような安易なものではないはずです。


親としても、子どもが中学生になったら、折りにふれ、子どもとともに進路について話し合い、子ども自身が自分の問題として進路について考え、

生きる目標や学ぶ目的をしっかり持てるようにすることが大切です。


いうまでもなく、ここでいう進路の問題というのは、将来どんな職業に就くとか、そのためにどんな高校、大学に進学するかといったことばかりではありません。

いま生きている社会の現実をリアルに見つめ、一個の人間として、また社会人として、未来をどう生きるかということをつきつめて考えることでもあるのです。

しかし、実際には学歴偏重社会という現実に合わせて、将来有利なように、とりあえず少しでもいい高校、いい大学に入ってくれたらとだけ考える親が少なくないというのが現実です。

もちろん、ここでいう「いい高校、いい大学」というのは、単なる入学時の偏差値が高いとか、名のとおった有名校であるとかいうことがほとんどで、

教育の本筋に照らして本当に「いい学校」であるかどうかは疑問です。


<h3>自分で生きる道を決める最初の機会</h3>


ところが、脅しでも冗談でもなく本気で「就職したい」といい出すこともあります。


わたしの甥の英二も、親の期待に反して、就職を主張した生徒の一人です。

親がいくら説得しても、どうしても就職するといい張って譲りません。

わたしが、「では、どんな仕事に就きたいのか」と聞くと、車が好きだから自動車整備工になりたいというのです。

そこで、わたしの友人の経営する整備工場に連れていったところ、整備士の国家試験は、高校を卒業していないとたいへん不利だという話を聞かされ、高校進学に変わりました。

そして高校から大学へと進み、いまでは、車とはおよそ緑のない図書館勤務のかたわら、めぐまれない子どもたちのためのボランティア活動に生きがいをみいだしています。

中学三年ぐらいの年齢は、好きだというだけで、能力も適性も考えずに将来の職業を考える傾向があります。

それでも、「みんなが進学するのに就職なんてカッコわるい」などと考える子どもより、はるかに主体性があるわけですから、子どもの考えも開かずに親の希望を押しつけるようなことは、つつしまなくてはなりません。


中学生という年代は、精神的自立の時期だとまえに述べましたが、進路の選択という課題は、自分の生きる道を自分で決定するというまさに精神的自立を具体的に迫られる最初の機会であるわけです。

親の願いで子どもに進学させるようなことは、子どもを甘えと依存の関係に封じ込めてしまい、大切な自立の機会を奪ってしまうことになります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 15 Oct 2008 22:05:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>のどに物をつめた場合の対処法</title>
         <description><![CDATA[突然、目を白黒させ、のど元をひっかいたり、息がつまったみたいに苦しみだしたら、のどになにかをつまらせた可能性があります。

<span class="b">とくに食事中や小さい物で遊んでいたときにはその可能性が大です。</span>

幸い、すぐに平気な顔になったり、しゃべりだしたりしたら、あわてる必要はありません。

自分で吐きだそうとしているのなら、こちらからは手をださず、励まして、ようすを見るほうがよいでしょう。


<span class="b red">しかし、息がつまって、声もでないようなときは、すぐに助けなければ危険です。

万が一、のどが完全にふさがっていたら、救急車でも間に合わないことになります。</span>

<hr />

<span class="f11em">（１）口をこじあけ、物が見えたら、指をカギ形にして、のどの横合いからかきだす。

うまくとれなければ、無理しないで、すぐ次の（２）をする。</span><br />

<span class="right">
<img src="http://useful-infomation.info/images/emergency-measure_1.jpg" wigth="161" height="281" alt="応急処置その２" />
</span>
<span class="f11em">（２）子どもが立っているときは、片方の手で子どもの胸を抱き、もう一方の手で子どもの背中をドンドンと強く押さえるようにたたく。</span><br />

<span class="right">
<img src="http://useful-infomation.info/images/emergency-measure_2.jpg" wigth="198" height="268" alt="応急処置その３" />
</span>
<span class="f11em">（３）子どもが寝ているときは、横向きに　して膝を子どもの胸につけて支え、　片手で背中をたたく。</span><br />

<span class="right">
<img src="http://useful-infomation.info/images/emergency-measure_3.jpg" wigth="177" height="286" alt="応急処置その４" />
</span>
<span class="f11em">（４）赤ちゃんの場合は、片方の腕にうつぶせに抱きかかえ、背中をたたく。</span><br />

<span class="right">
<img src="http://useful-infomation.info/images/emergency-measure_4.jpg" wigth="239" height="300" alt="応急処置その５" />
</span>
<span class="f11em">（５）それでもとれないときは、後ろから　両腕をまわして抱き、げんこつを子どもの胃のところにあて、その上を他方の手でにぎり、上方にグッと押し上げる。

あるいは、このやりかたを、最初にやるほうがよいかもしれません。


（６）それでも苦しんでいたら、救急車がくるまで、頭を横に向けて人工呼をする。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">応急処置</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 14 Oct 2008 14:18:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>もっとも効果的な勉強法は、家での予習</title>
         <description><![CDATA[ところで、中学生の勉強の基本はなんといっても学校の授業です。

子どもの成績が親の期待どおりにならないと、すぐ塾や家庭教師をと考えがちですが、

毎日の授業をいいかげんにしていて、塾や家庭教師に頼ってみても、意味がありません。

教科書や必要な用具を忘れたり、授業中、先生の話をしっかり聞かなかったり、ノートをきちんととらないような生徒が少なくありませんが、このような授業中の態度と成績の間には、かなりの相関関係が認められます。

授業をきちんと受けられない子どもが多くなったことの原因は、集中力の欠けた根気のない子どもが多くなったということもあります。

しかし、そればかりではありません。


学ぶことの喜びは「わかる」ことにあるはずなのに、

<span class="b">現在の学校教育が、「なぜそうなるのか」をみんなで考え合うのではなく、大量の知識を短期間に詰め込むような知識偏重になっていることにいちばんの問題があります。</span>


このような制度的な問題にきびしい批判の目を向けることも、大切なことですが、<span class="b blue">同時に、子どもが授業に意欲を持って儀むように援助してやる</span>のも、親としての大切な務めです。

いうまでもなく、子どもにやる気を起こさせるためには、学習の目的を自覚させることですが、それと同時に、毎日の授業を楽しく受けられるような工夫をすることも大切です。

いまの中学校の授業についていくためには、普通、毎日一、二時間の家庭学習は必要だといわれています。

しかし、その習慣がついていない俊男のような子どもなら、勉強は何のためにするのか、具体的に何をどうやったらよいのか、子どもとよく話し合って、たとえ三十分でも、一定時間、机に向かうことから始めなければなりません。


ところで、家庭学習といっても、なにをどのように勉強するかは、かならずしも一律には考えられませんが、授業に意欲的にとりくめるようにするためのわたしの勧める効果的な勉強法は、<span class="b f11em">予習</span>です。

あらかじめ、辞書や参考書で調べておくということができれば最高です。

が、そこまではできなくても、授業を受けるまえに一度教科書に目をとおして、わかるところとわからないところの確認をしておくことです。

疑問点をはっきりさせて授業に臨むのと、ただ漫然と授業を受けるのとでは、たいへんな違いです。

何の準備もなしに、授業ではじめて教科書をひらき、未消化のまま授業を進められるのでは、先生の話を聞くのにあきがくるのも当然です。


また、授業でよくわからないことを、家庭で参考書を使って復習するような後追い勉強は、たいへん能率の悪い勉強法です。

復習は、学校で勉強した内容をきちんと整理したり、習熟するために大切ですが、授業を楽しく受けるための準備としての予習こそが、家庭学習の基本だとわたしは考えます。

もちろん、すでに学校での学習に大きく立ち遅れてしまっている子どもの場合には、過去にさかのぼっての基礎的な学習が必要となります。

その場合、どこでつまずいているのかを明らかにして、あせらずに一つ一つ理解を積み上げていくようにすることが大切ですが、もう中学の勉強の内容ですと、親にはなかなか教え切れないこともあります。

そんな場合、必要に応じて家庭教師を頼むとか、一人一人の子どものつまずきをていねいに見て指導してくれるような塾にお願いするというようなことも考えていいと思います。

しかし、そういう場合には、あくまでも本人の意志が大切にされなければなりません。

親の押しつけでは効果が上がらないばかりか、子どもを追い詰めることにもなりかねません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 14 Oct 2008 12:54:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の発達</title>
         <description><![CDATA[

<h3>人の発育や発達には個人差がある</h3>


人の発育や発達には個人差があります。

発育曲線の上限と下限の幅の中に入っていて、元気であれば、まず心配はないと考えてよいでしょう。


ここでは、よくある状態を取り上げて考えてみようと思います。

二つの言葉…<span class="b">「発育」</span>と<span class="b">「発達」</span>について理解したいと思います。


<span class="b green f12em">発育について</span>


発育とは「育つこと」「発生成育」を示す言葉で、成長と同義語に使われます。

英語ではgrowthといい、形態の量的な変化、明らかに測定することのできる身長・体重などの変化を示す時に用いられます。

つまり数量としてカウントが可能なもので、目に見える形の変化をとらえる際に使用できるものです。

身長も体重もその変化の中で、乳幼児の健康管理ができます。

一般的には乳児では、生後1年で生下時体重の3倍になるという平均的な数量が示されています。

昨今は栄養状態が良好なせいか、ほとんどの赤ちゃんはそれを上回る発育ぶりです。


<span class="b">大切なのは身長と体重のバランス</span>であり、食の細い赤ちゃんも元気で機嫌のよい状態であればあまり問題ではありません。

1歳3か月で90％以上の子どもが独歩を開始していますが、それを過ぎても歩かない場合に過度な心配をする親もいます。

昨今1歳の誕生日の頃に歩行を開始する子どもが増えており、心配の種になっている親もいます。

これは特別な例を除き生活の状況によるところが大きいので、心配な時は保健センターのようなところに相談することをすすめます。


<span class="b green f12em">発達ということ</span>


発達とは生体が発育して完全な形態に近づくことで、英語ではでdevelopmentといい、<span class="b">機能の成熟に向かう量的、質的な変化</span>をいいます。

知能、感情、また肝機能、腎臓機能なども発達の代表的な分野です。

そして簡単には計測が難しい分野ですから、発達で問題になることは、その量や質を十分にとらえることが必要です。

たとえば言葉の表出が普通より遅れているとみなされる場合、男児は言葉が遅いとの言い伝えもあり、つい<span class="b green">「もう少し待ってみよう」</span>ということになりますが、

その月齢における言葉の数のみでなく、<span class="b">質を見ることが大切です。</span>

その際、各分野の専門家が参与している乳幼児健診を十分に利用することが重要です。


たとえば、言葉の出ないことにのみ気づかって難聴をつい見過ごすこともあります。

音を取れない難聴は、子どもの行動から発見されることが多いもので、行動と理解がずれたりすることや、音声の出し方を注意してみること、専門家の診断を仰ぐことで、早期発見が可能になります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 14 Oct 2008 04:16:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あなたの子供は、秀才型か、それとも努力型か？</title>
         <description><![CDATA[ここでは、子供の能力という問題を扱っているので、中学受験生の父兄にとっては、とりわけ関心が強いと思われる、<span class="b">「学力を伸ばすにはどうしたらよいか？」</span>というテーマにも少しふれてみたいと思う。

私は、東大に入るには、瞬発力（頭の切れ）よりも、持久力（努力）が必要であると考えています。

私は、いわゆる「勉強のできる子」には、下記のの四つのタイプがあると考えている。

この四つの類型の中では、タイプＣ・Ｄが最も一般的であり、タイプＡ・Ｂ、とりわけタイプＡは少ない。

<table border="1" cellspacing"0" class="f10pt"  summary="あなたの子供は、秀才型か、それとも努力型か？">

<tr><th>タイプＡ</th><th>瞬発力もあるが、持久力もある</th></tr>

<tr><td>タイプＢ</td><td>瞬発力はあるが、持久力にやや欠ける</td></tr>

<tr><td>タイプＣ</td><td>瞬発力は、それほどでもないが、持久力がある</td></tr>

<tr><td>タイプＤ</td><td>瞬発力はそれほどでもないし、持久力に欠ける</td></tr>

</table>


東京大学には、タイプＣが最も多く、それに、少しばかりのタイプＡがいる。

タイプＢ・Ｄは、まず絶対にいない。

東大に入るためには、何よりも持久力が特に必要だからである。

それに対して、慶応や早稲田などの一流私大ほ、タイプＢ・Ｃが中心である。

タイプＤは、ほとんどいない。


タイプＢについては、持久力が足りなくても、慶応や早稲田の受験科目の少ないのをうまく利用して、瞬発力を生かして、要領よく合格水準にたどりつくわけである。


あなたの子供は、どのタイプに属するだろうか？　

<span class="b">属するタイプによって、今後の勉強方針も異なってくる</span>ので、正しい把握が必要である。


<h3>努力型なら、「ポイントをつかむ力」を鍛え抜け！</h3>


さて、あなたの子供のタイプが明らかになったとして、では、それを今後の勉強にどう生かしてゆけばよいだろうか？

仮に、タイプＣであったとして、では、努力しさえすれば、東大や早稲田・慶応に合格できるのだろうか？残念ながら、世の中そう甘くはない。

はたから見ていて、ほんとうに気の毒になるくらい熱心に勉強をつづけても、一浪、二浪したあげく、三流大学にしか入らないなどというのは、日常茶飯である。

タイプＣの子供が、タイプＡ並みに東大に入ったり、タイプＢ並みに早稲田・慶応に入れるためには、条件がある。

その条件とは何か？

それは、単に一所懸命に勉強するだけでなく、それを通じて、<span class="b">「ポイントをつかむ力」</span>を身につけるということなのである。

タイプＡやＢの「瞬発力」というのは、勉強に即して言えば、それは、「ポイントをつかむ力」である。

教師の話であれ、教科書・参考書の記述であれ、人間が伝えようとするメッセージを聞き、あるいは見たときに、その中から最も重要なポイントをすばやく見抜き、理解する力なのである。

そうした、タイプＡやＢにとっては、ほとんど先天的な能力とも言える「ポイントをつかむ力」を努力で身につけることを通じて初めて、タイプＣの子は、タイプＡやＢ並みの一流大学に入れるのである。


<h3>「ポイントをつかむ力」のない子は、5倍の時間と労力が必要になる！</h3>


では、「ポイントをつかむ力」の有無によって、どの程度の差が生じるのだろうか？

医学博士で、速読の大家として知られる斉藤英治氏は、『全脳速読法』（鹿済堂出版）　の中で、「一冊の本の2割の中に、必要な情報の8割が含まれている」と述べている。

これを<span class="b">「二・八の法則」（にっぱちのほうそく）</span>と言うのだそうだが、

何も本とは限らず、教師の話であれ、何であれ、人間が伝えようとするメッセージには、すべて、この法則が成り立つのではないだろうか？

そして、<span class="b">この「2割」がどこにあるかを鋭く見抜く力</span>こそが「ポイントをつかむ力」なのである。


いま、「ポイントをつかむ力」のある子をＹ君、ない子をＺ君としよう。

この2人が、100時間勉強する。

その間に、マスターするのに通常10時間かかる本を何冊ずつ物にできるか？

Ｚ君の場合は、きわめて常識的に、10冊物にする。

しかも、どの本も、最初から最後まで同じような力配分で読むために、途中、注意力散漫になった部分もあり、習熟度としては、8割となる。

10冊の本を8割物にしたということだ。


ところが、Ｙ君の場合、ポイントをつかむ力があるので、1冊の本につき2時間程度で必要な情報の8割を得てしまう。

100時間の間に、実に50冊を物にしてしまうのである。

50冊の本を8割程度物にしたということだ。


Ｙ君は重要なポイントについて、Ｚ君の5倍もつかんだことになる。

逆に言えば、Ｚ君は、Ｙ君の5倍勉強しない限りＹ君には追いつけないということだ。

しかし、そんなことは、現実には不可能であろう。

Ｙ君であれ、Ｚ君であれ、与えられる時間には限りがあり、その中で、5倍の時間差をつけることなど考えられないからである。


<h3>「ポイントをつかむ力」身につけるには、どうしたらよいか？</h3>


結局、「ポイントをつかむ力」のない子は、ただやみくもにガリ勉しても、全然効果がないわけであり、

地道な勉強を通じて、「ポイントをつかむ力」をしっかり身につけることが、絶対に必要なのである。

では、どうすればよいか？タイプＣや、タイプＤの子供には、どんな「救いの道」が残っているのか？

「ポイントをつかむ力」とは、もう何度も述べているように、「文章であれ、人の話であれ、人間が伝えようとするメッセージに2割程度含まれる、最も重要なポイントをすばやく見抜き、理解する能力」である。

<span class="b">とすれば、そういう練習をすればよいのである。</span>

文章であれば、その内容が、科学論文であれ、随筆であれ、歴史書であれ、小説であれ、一定の時間内に要旨をつかむ練習をすればよいのである。

なにも原稿用紙に書く必要はない。

文章を読ませたら、ただちに、それを伏せ、何が書いてあったか、そのポイントを口で言わせてもよいのである。

また、人の話の場合であれば、テレビのニュースでも見させて、終わったときに、そのポイントを解説させるのでもよい。

ニュースでなくてもよい。

ドラマでもよいし、情報番組でもよい。

かたく考える必要など少しもない。

材料は、そこらじゅうに、ゴロゴロしているのである。

人間が伝えようとするメッセージの要旨をつかむ訓練をすることによって、学校や塾での授業の聞き方も、全然違ってくるはずだし、教科書・参考書のマスター度も、まるで違ってくるはずだ。


私は、タイプＣの子供であっても、努力によって、東大にも入れるし、実際、東大生には、タイプＣが最も多いと言ったが、

東大に入るような、あるいは、慶応・早稲田に入るようなタイプＣの子というのは、その勉強のプロセスにおいて、意識的であれ、無意識的であれ、ポイントをつかむ力を身につけていった子供なのである。

ただガリ勉を繰り返すだけで、ポイントをつかむ力を身につけることのなかった子は、結局ただのガリ勉として、三、四流の大学に入って終わってしまうのである。

中学選択の基準として、夏休みや冬休みに、何冊かの本を読ませて、その要旨をまとめさせたり、それを踏まえてレポートを書かせる学校を選ぶというのも賢明だろう。

<span class="b f11em">そうした作業の積み重ねによって、ポイントをつかむ力は高まってゆくからである。</span>]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/study-method/0810140043.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 14 Oct 2008 00:43:55 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学生と勉強</title>
         <description><![CDATA[中学生の子どもがいる親と、子どもたち自身の最大の悩みや関心事は、なんといっても、勉強とその成績でしょう。

学歴偏重社会でのきびしい受験体制を反映して、学習の目的が受験のためにかたよっているというきらいがありますが、

健全な心身の発育とともに、頭脳の働きが柔軟で知的能力の発達が著しいこの時期に、基礎的な学力を身につけるための学習は、やはり大切です。


小学生や中学生の子どもにたいし、親がいちばんよく口にするのは、

<span class="b green">「勉強しなさい」「宿題はないの？」</span>ということばです。

しかし、口を開けば「勉強、勉強」では、子どもはかえって反発して勉強しなくなったり、机に向かってはいても、気が乗らないために能率が上がらなくなったりすることがあります。


<span class="b red">そればかりか、心の健康にも害を与えかねません。</span>


警察庁統計によると、一九七九年は子どもの自殺が多発した年ですが、

この年度の未成年者の自殺者九百十九人の直接的原因・動機は、<span class="b">「学業問題」</span>や<span class="b">「入試苦」</span>など学校の問題が二百五十二人（二七・四パーセント）と全体の四分の一強を占めてトップになっています。


また、一九八〇年に総理府青少年対策本部がまとめた『家庭内暴力に関する研究調査』でも、その背景のトップに<span class="b">「親の期待過剰」</span>（二一・四パーセント）があがっています。


一九八八年七月、東京・目黒の中学二年生の少年が、両親と祖母を包丁でめった刺しにして惨殺するという事件が起きました。

背景には親子関係など複雑な問題があると思われますが、直接の動機は、日ごろから両親に勉強のことでやかましくいわれていたことです。

両親は有名進学高校に進んだ少年のいとこと比較しては「勉強、勉強」と口やかましくいっていました。

そのうえ、英語、数学、国語の三教科のうち、一教科でも学年平均を下まわるようなことがあったら、小遣いを与えないというペナルティを課していたといいます。


<span class="b">親が子どもに期待をかけるのは当然ですが、過剰な期待は子どもを押しつぶします。</span>

目黒の少年の事件は、自分を追い詰める者への逆襲でしたが、自殺というかたちで逃避する例も少なくありません。


<h3>教育ママの期待に押しつぶされ、班ノートに遺書を書いた子</h3>


学級の班ノートに遺書を書いた富有子（仮名　当時中学一年生）も、「勉強、勉強」という親の期待に押しっぶされそうになった子どもの一人です。


<span class="b green">「（略）−スペリング・コンテストは100点は無理！</span>

<span class="b green">勉強したくない。</span>

<span class="b green">自由になりたい。</span>

<span class="b green">学校行きたくない。</span>

<span class="b green">いなくなりたい。</span>

<span class="b green">疲れた。</span>

<span class="b green">班ノートは遺書に使わない方がいいのかな」</span>


当時の富有子は、学校の成績はトップクラスですが、内向的で友だちの少ない生徒でした。

父親は一流商社勤務で転勤が多く、富有子は中学一年生の時に二度も転校しています。

母親は典型的な「教育ママ」で、子どもに寄せる期待の大きさは普通ではありません。

平日は夕方の五時から夜中の十一時過ぎまで、夕食などのわずかな生活時間を除いて、ピアノのレッスン、学習塾、家庭学習とびっしり。

日曜日には、競争率の高い入塾試験をくぐって入った進学スクールに通っていました。

<span class="b green">「百点か零点か。九十九点は点ではない」</span>

母親が口ぐせにしていることばだといいます。


だが、いちがいに母親だけを責めるわけにはいきません。

<span class="b green">「勉強だけがすべてではない」</span>と百も承知しながら、子どもを勉強一筋の生活に追い込まざるをえないように親を追い込んでいる学歴偏重社会と受験体制こそ、きびしく批判されなければならないでしょう。


さいわいにして富有子は、担任の先生の励ましと仲間の連帯を大切にする学級の支えで、危機をのりこえることができました。

二年生で富有子を受け持った担任の先生は、生活に充実感を持たせることが必要だと考え、学級のリーダーとしての任務を与えました。

はじめは先生の熱意に押された形で立候補した学級委員でしたが、次第にその気になって学年委員にも立候補し、学級や学年の活動の中心になって頑張り出してからの彼女の顔は、見違えるように生き生きとした表情になりました。


<h3>何事にも自主性をと放任された子</h3>


一方、「子どもを受験体制の重圧から解放する」といって、子どもに「勉強」ということばをいっさい言わないのだという親もいます。

先の目黒の両親殺害事件の直後、東京のある中学生の父母懇談会で、ある母親が

<span class="b green">「あれ以来、子どもには『勉強』ということは、いっさい言わないことにしています」</span>

と言ったといいます。

子どもを「勉強、勉強」と追いたてることへの反省としては大切なことですが、

だからといってどんな子にも勉強のことはいっさい言わないというのはどうでしょうか。

中学二年生の俊男の親は、なにごとにも子どもの自主性を尊重するといって、小学生のころから、「勉強しなさい」とは一度もいわなかったといいます。

子どもらしくのびのびと育ち、小学校から中学一年生の二学期まではどうやら上位の成績を収めていました。

ところが、三学期から成績が急激に下降しはじめ、二年生の二学期になると、下位に近くなってしまいました。

とくに数学と英語については、テストの点数が三分の一そこそこになりました。


<h3>適切なアドバイスができる親に</h3>


子どもの勉強をめぐる親の態度について、干渉しすぎと放任という対照的な例を紹介しましたが、親として中学生の勉強についてどう考え、どう子どもにかかわったらよいか考えてみたいと思います。

たしかにいまの子どもは、勉強に追われすぎて子どもらしい生活を失っています。

心ある人ならだれしも、子どもを「勉強、勉強」と追いたてるようなことはしないで、子どもらしいのびのびとした生活をさせたいと願っています。


ところが、いざわが子のこととなると、事情が変わってきます。

「九十九点は点ではない」という富有子の母親ほどではないにしても、子どもの通信簿の成績やテストの点数に一喜一憂し、

子どもの顔さえ見れば、壊れたレコードのように「勉強、勉強」と繰り返す親が意外に多いのです。

<span class="b">しかし、これは、かならずしも「たてまえ」と「本音」という矛盾する問題ではありません。</span>

多くの親たちは、子どもをのびのびと育てたいと願いつつも、今日の受験体制のもとで、勉強至上主義に追いやられているのです。

だが、本当にわが子の幸せを願うならば、体制にふりまわされることなく、バランスのとれた子どもの発達を考えて、勉強についても適切なアドバイスのできる親でありたいと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 13 Oct 2008 04:05:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>友達と遊べない</title>
         <description><![CDATA[<h3>子どもの遊び　遊びの意味</h3>


子どもの遊びは子どもの生活そのものです。

遊びと学習の最も大きな違いは、学習は取り組んでいる活動そのものが目的ではなく、ある目標に達するために行う活動ですが、遊びは、遊びそのものが目的で行う活動です。

子どもは遊びを通していろいろなことを学習し、心身共に発達していきますが、心身の発達は目的ではなく結果です。

大人の視点からは、子どもの遊びの意味は、運動機能、言語機能、認知や探索、手指操作、情緒・社会性など、全ての領域の発達を促し、

<span class="b">バランスのよい心身の発達を促すために不可欠な活動といえるでしょう。</span>


しかし、子どもにとって遊びは、子ども白身の意図や好みにしたがって選択し展開していくことができる活動ですから、遊びは楽しく、子どもの気持ちを満足させる営みといえるでしょう。

心身の発達の中でも、人と人との関係性の発達は、子ども同士の遊びを通してでなければ得ることができないでしょう。

ですから、幼い時から子どもは子どもの中で育てることが大切です。


乳児期から保育所に通う子どもでは、非常に早期から子ども同士のかかわりが見られることがわかっています。

0歳前半の子どもでさえ、子どもが並んで仰向けや腹ばいになっていますと、互いに他児に関心を示し、他の子どもの方を見たりさわったりします。

0歳後半になり、はいはいや伝い歩きなどで移動できるようになりますと、他児のそばに近づいて行ったり、他児が持っているおもちゃに手を出すようになります。


1〜2歳児になりますと、子ども同士のかかわりが増えます。

他児は、魅力的で気になる存在ですから、他児のしていることに興味をもち、傍らに行って同じようなことをしたり、他児に直接働きかけるようになります。

子どもだけではまだ遊びが続きませんし、自我の目覚めを迎え自己主張も激しくなる年齢ですから、子ども同士のぶつかり合いも多く、保育者の介在が必要です。

大人が間に入って、子ども同士をつなぐように配慮すれば、遊びの継続や盛り上がりも見られます。

同じことでも一人でするよりも、他の子どもたちと一緒にする方がずっと楽しいのです。

保育者は、子どもがそういう経験を豊かにもてるよう、保育の方法や内容を工夫します。

3〜5歳児になりますと、大人と遊ぶよりも子ども同士で遊ぶことをより求めるようになります。

毎日の子ども同士の遊びの中で、貸し借り、譲り合い、順番を待つことなどを体験します。

譲ってばかりでは楽しくないけれど、自己主張ばかりしていても他児とうまくいかないこと、大人との関係とは違って我慢もしなければならないことなど、

人とかかわりをもつために必要な技術や感情のコントロールの仕方などを学んでいきます。

言語発達の未熟な段階では、言葉で「貸して」とか「今は私が使っているの、後で貸してあげる」とかを表現できませんので、ほしい物を力づくで取ってしまうことも少なくありません。

自分の欲求を満たすために、時には相手を押したり、たたいたりすることもあります。

そういう場合には、保育者が介入して、子どもが怪我をしないように配慮するでしょう。

保育者は、双方の子どもの気持ちを理解するよう努め、一方の子どもの気持ちを他方にわかりやすく伝え、子どもたち同士がなるべくお互いの気持ちを理解できるよう対応します。

幼くても、本気でぶつかり合い、相手の気持ちを理解したり、自分の気持ちを主張することは、人間関係を学ぶうえでたいへん重要です。

ですから、子ども同士のトラブルも、大人の力で止めてしまわずに、時には見守ることも必要でしょう。


子ども同士の密な関係を日々経験し、保育者の理解と適切な対応によって、子どもの情緒・社会性が発達していきます。


<span class="b">自己主張をするけれども相手の話も聞くことができる子どもに育ってほしいと願います。</span>

そうすれば、5〜6歳になると、子とも同士のトラブルを子どもだけで解決する力がついてきます。


子ども同士のトラブルを避けるために、子どもを大人の中で育てたり、子ども同士のトラブルに干渉しすぎてしまうと、友だちと遊ぶ力が育ちにくくなってしまいます。

幼児期、児童期に子ども同士のかかわりを豊かに経験しないまま成長してしまうと、情緒・社会性の発達に歪みが生じやすくなります。

現代のような少子社会ではきょうだいの数が少なく、家庭の中で子ども同士が密な関係をもつことが困難です。

さらに、近隣にも子どもが少なくなっていますので、子ども同士で遊ぶ体験をもちにくくなっています。

ですから、保育所や幼稚園では、子ども同士が関係をもてるような環境を意識的に準備することが必要です。


子ども同士のトラブルを大人の視点でとらえてしまうと、保護者同士のトラブルに発展してしまうこともあるようです。

発達段階によって子ども同士のかかわり方が変化していくこと、たたいたりたたかれたりはどの子どもにもあり得ることを、保護者会やおたよりなどを通じて理解してもらうことも必要でしよう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 12 Oct 2008 02:09:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>女の子の性教育はお母さんの出番</title>
         <description><![CDATA[女の子の性教育に関してはお母さんの出番ですが、自分の娘に女の性についてきちんと語れる自信がありますか。

生理の手当の仕方は教えても、女性としての生き方と結びつけて、性の問題を子どもに教えている母親はあまりいないようです。


<h3>女の子はムードにあこがれるロマン派</h3>


<span class="b green">「中学生売春や、中学生が妊娠、中絶という話が週刊誌などに載っているけど、やっぱ。
特殊なケースじゃないかしら。

自分の中学生のころを考えても、スターのブロマイドを集めたり、友だちと男の子の話をする程度で、怪についての具体的な関心はそんなになかったように思いますよ」</span>



これは性教育についてのＰＴＡ学習会で、ある母親から出された意見です。

たしかにこの母親のいうように、女の子というのは、からだの機能としては子を産めるように発達していても、男性のように生なましい性的な欲求を持ってはいません。


たとえば中学生くらいの女の子は、手を握ったり、キスをしてみたいというような欲求をあまり強く持ちません。

手紙や交換日記という間接的な接触や、なんとなくおしゃべりをしていたい、自分の好きな趣味を相手といっしょにしたいという程度のものが大半です。

即物派の男の子と違って、女の子はロマンチックなムードにあこがれるロマン派なのです。


しかし、女の子の性が男の子のようでないからといって、先の母親のように、中学生売春や中学生の妊娠・中絶といった問題を、「特殊なケース」と簡単に片づけてしまってよいものでしょうか。

『一九八一年版・子ども白書』は、現代の子どもの性の実態について、次のように述べています。


「昭和五十五年（一九八〇年）三月のＮＨＫ長時間討論��性教育はいかにあるべきか″で、<span class="b">考えさせられる数字</span>が出ました。

十人の専門医が過去十年間に扱った高校生までの妊娠中絶が二百七人、

その中に三名の小学生もあり、その全体数も昭和四十七年（一九七二年）と四十八年の間を境に、後五年間の方にはるかに増加しているというのです」


「米国では、すでに十代の女子七万人が出産し、性病三百万の二分の一が十代という恐るべき時代に入っているといいます」


一九八九年九月二十六日付の『高知新聞』（夕刊）は、産婦人科医の話として、産婦人科の門をくぐる少女が多くなったことを紹介しています。


<span class="b">また、最近のデータによると、中絶した二十歳未満の女性のうち四三％の人が二度三度と中絶しているといいます。</span>

事実、一九八八年に厚生省が発表した「優生保護統計」でも、中絶の総数は大幅に減少していますが、十代の中絶が激増しています。

昭和五十年（一九七五年）二万二千件あった十代の中絶が十年後には倍以上になっています。


快楽の結果、妊娠・中絶・あるいは出産という苦痛を味わうのは女性だけです。

処置に困ってコインロッカーに捨てれば、「殺人・死体遺棄」　の罪に問われるのはやはり女性なのです。


女の子の怪教育とは、生殖にかかわる生理現象としての怪を科学的に教え、

<span class="b">女性であり母性であることに誇りをもたせること、</span>

そして現代の社会の構造や文化的状況のなかで、主体性をもった女性の生き方をともに考えていくことではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 11 Oct 2008 19:41:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育て・教育とは、子供を社会に適応させること</title>
         <description><![CDATA[心理療法というものにかかわるとき、子どもたちにどう育ってほしいのかについて考え続けます。

なぜならうっかりすると子どもに浮世のしがらみや、そのときだけの常識を押し付けてしまうことがあるからです。

ちょっと昔のことを振り返っただけでも、戦争に参加することが善であり、人を殺すことすらはめたたえられた時代があります。

今は学校へ行くのが当り前で、行かないことは普通じゃないとされてしまうことがありますが、

数十年さかのぼっただけで学校なんか行かなくていい、それより家の手伝いや、家計の助けになる仕事をしなさいと言われた子どももたくさんいたはずです。


こうして考えると、

<span class="b">子どもにどう育ってもらいたいのか、どんなおとなになってほしいのかが時代を背景に目まぐるしく変わってくることは容易に想像できます。

今正しいと思われることがその子の一生正しくあり続けるわけではないことを心に留めておかねばなりません。</span>


中学に入ってから休みがちなサブロウ君は、なぜ学校へ行けなくなってしまったかを考え続けていました。

そして自分の勉強がしたいと思う気持ちと、学校での勉強にズレがあるということに気づいたというのです。

彼は科学が大好きで、科学雑誌や宇宙の本はいくら読んでも飽きることがありません。

たとえ英文の本でも辞書を片手に何とか読みこなしたいと思ってしまいます。


ところが中学での成績は、理科や数学はまあまあながら、全体としてはあまり芳しくないために、科学に詳しくても希望する高校は受からないと言われています。


たしかに、そつなく平均的に点数が取れないと受験では不利になるという現実があります。

<span class="b">子どもの個性を伸ばす観点から考えると矛盾を含んでいる話です。</span>


おとなも悩んでいる今の受験体制のひずみは、万事納得してから行動したいサブロウ君にとっても大きな悩みでした。

<span class="b green">「受験のやり方がおかしいんだよなあ……。

ぼくはずいぶん考えた。

将来、文部省に就職しようかなって。

科学が大得意のぼくみたいな子が自由に勉強できることも必要だと思うから……。

でも、そのためには高校に入らなくちゃね。

学校へ行くよ。

そして苦手な教科も勉強しようと思う」</span>

将来、彼がほんとうに文部省に就職するのかどうかはわかりません。

でも彼が現実に流されてしぶしぶ勉強したり、やけになってりせず、社会と積極的にかかわっていこうとする姿は、生涯を通して自分自身の幸せを追求していくことができるだろうと予感させてくれるものでした。


子どもには今の社会のあり方にただ流されて生きてほしくはありません。

また背を向けて社会から逃れるような生き方もさせたくはありません。

子どもには今生きている社会と生き生きかかわりながら、生涯にわたって自分のしあわせを追い求める生き方をと願っています。

これを心理学では<span class="b blue">社会への適応</span>と言います。


社会や環境がどんな状況や価値観であっても、自分をそれにあわせて流されてしまうことを<span class="b">順応</span>といます。


突然暗い部屋に入ったとき、全然見えなかったのにだんだん目がなれて見えてくるようになりますが、こうした現象を順応というのですが、

同じように社会に働きかけることをせず、ひたすら社会に自分のほうを合わせてしまうことを順応と言うのです。

<span class="b blue">適応</span>は自分を殺して合わせることではなく、

自分のやりたいことがわかり、現実の社会のあり方がおかしいと感じたら、その中でどうすれば自分が幸福になれるかについて考えることができるファイトのことなのです。

犯罪のように社会に背を向けて生きることにも、そうなってしまったにはわけがあります。

自分に閉じ込もってしまうことも、それぞれに理由のあることですが、そこには自分の幸せを社会とのかかわりの中で見つけられなかった不幸があります。

なぜなら人間は一人で生きているようで、一人で生きているわけでなく、社会の中でよりよく生きられるはずの動物だからです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 10 Oct 2008 23:40:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>男の子の性教育こそ父親の出番</title>
         <description><![CDATA[性的な発達が思春期の最も重要な特徴でありながら、子どもの問題でいちばん親に見えないのが、この性の問題です。

そして、親が子どもの指導上いちばん苦手とする問題でもあります。

女の子の初潮については、母親がそれなりの心の準備を整え、子どもにもまえもってある程度の予備知識を与えているのが一般的ですが、男の子の精通現象について父親が……というようにはなっていないようです。


子どもの性的な発達は、昔と比べてたいへん早まっていますから、女の子の初潮指導はもちろん、男の子の精通現象についても、

子どもが<span class="b green">「病気ではないか」とか、「異常ではないか」</span>と悩んだりしないように、父親の口からでも予備知識を与えておいてもらうのが理想的です。

こと改めて話すのもぎこちないものになりがちですから、子どもの部屋からポルノ雑誌を発見したときなどは絶好の機会です。

<span class="b green">「お父さんがこんな雑誌に興味を持つようになったのはいつごろだったかな」</span>

というような調子で、父親の体験を話すなどして、息子の気持ちに共感を示しながら、さり気なくやってほしいと思います。

しかし、テレて尻込みしてしまう父親が多いようです。

子育ては母親まかせの父親でも、こんなときこそ出番なのです。


<h3>「不潔だ」などという親の考え方が性をゆがめる</h3>


男子の精通現象は、早い子ですと小学校の五、六年生で見られますし、十三歳までに五〇パーセント以上の子どもが経験しています。（一九七四年・日本性教育協会の調査）。

ですから、母親としても、あらかじめ心の準備をして、汚れたパンツやポルノ雑誌を発見したぐらいでオタオタしないようにしなければなりません。


<span class="b">「不潔だ」「いやらしい」などという親の考え方が、子どもの心を深く傷つけます。</span>

そればかりか、子どもは性というものを罪悪視し、自己嫌悪におちいり、ひいては人格までゆがめられてしまうことさえあるのです。

汚れた下着の始末で子どもを困らせることのないように、洗濯機に水を張っておき、

<span class="b green">「シャツやパンツなどの汚れ物は、この中に入れておきなさい」</span>

といってやるくらいの配慮はしてあげてほしいものです。

また、ポルノ雑誌が出てくれば、すでに自慰行為が始まっていると考えてよいでしょう。

しかし、これもあまり神経質に考えないで、

<span class="b green">「男の子なんだから、ああいう雑誌に興味を持つのはわかるけど、まだ少し早いわね。

それに、人間の性ってあんな品位のないものじゃないのよ。

お母さんが処分しておいたけどいいわね」</span>

ぐらいにとどめておいたらどうでしょう。

男の子の場合は、サラリとさり気なくやるほうがうまくいくようです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 10 Oct 2008 21:56:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の能力・特性・価値観を把握する</title>
         <description><![CDATA[中国古代の戦略家孫子の言葉に、<span class="b">「彼を知り、己れを知れば、百戦して危うからず」</span>というのがある。

自己実現のための将来ビジョンを作るにしても、実社会の環境変化をとらえるとともに、内部環境、この場合、とりわけ子供の能力・特性・価値観をつかんでいることが肝要となる。


<h3>あなたは、子供の「人生脚本」をつかんでいるか？</h3>


「人生脚本」という言葉を聞いたことがあるだろうか？

<span class="b">どんな子供でも、12才までに、能力・特性・価値観の基礎が固まってしまうのである。</span>

先天的に生まれ持った素質としての能力・特性・価値観に、生まれてから12才になるまでの間の環境とのかかわり方がプラスされて、本人の意思にかかわりなく、その子の、その後の人生のおおまかな方向が決まってしまうのである。

これを<span class="b f11em">「人生脚本」</span>と言う。


あなたの子供が、現在小学校の高学年であるとすれば、そろそろ「人生脚本」が、固まってきていることだろう。


これから先、なしうることは、社会環境の変化に対応して、能力・特性・価値観の雛型の、どの部分をより強め、どの部分をカバーしてゆくかということだけなのである。

成長するとともに、周囲が驚くような変貌をとげたように見えることがあるのは、ただ単に、周囲の人間が、その子の「人生脚本」をつかんでいなかったからにすぎないのである。

<span class="b">「子供には、無限の可能性があるから」</span>と称して、将来の方向を限定することを嫌う人も多いが、

それは、単に、子供に無限の夢を託していたい夢想家か、すでにでき上がっている能力・特性・価値観の基礎を読みとることがおっくうな横着者の、どちらかである。

子供の中学受験を考えるということは、すなわち、社会環境の変化を読みとると同時に、子供の「人生脚本」をしっかり読みとって、将来の自己実現のあり方を思い描き、それを達成する手段として、どういう中学に進学したらよいかを考えるということなのである。

さあ、あなたはいったい、どの程度自分の子供の「人生脚本」をつかんでいるだろうか？

<h3>「人生脚本」をどうやってつかむか？</h3>


「ジョハリの窓」というのがある。

これは、人間に対する認識のあり方を、四つの窓にたとえて表現したものである。

つまり、四つの窓をあけることによって、子供の「人生脚本」も、その全貌を明らかにするのである。

1つめの窓は、自分自身よく知っているし、他人から見ても明らかだという自分自身の姿である。

姿とは、<span class="b">能力</span>であり、<span class="b">特性</span>であり、</span>価値観</span>であり、そしてまた、<span class="b">表向きの顔</span>である。


2つめの窓は、自分自身は、よく知っているのだが、他人には見えていない、あるいは見せていない自分自身の姿、または<span class="b">本音</span>である。


3つめの窓は、自分自身では、気づいていないのだが、他人の目には明らかな自分の姿、つまり<span class="b">癖</span>である。


4つめの窓は、自分自身でも気がついていないし、他人の目にも見えていない自分の姿である。


子供の「人生脚本」を的確にとらえるためには、この4つの窓をしっかり、つかむ必要がある。


1は、子供自身と、父親・母親・兄弟姉妹・教師・友人知人などの複数評価によって、比較的容易に、つかむことができるだろう。


2は、周囲の人間には見えにくい部分である。

子供自身に語らせる環境を作ると同時に、さまざまなチャンスをとらえて、つかみとる努力をしなければならない。

なぜなら、この部分に隠れている能力・特性・価値観が、将来大きく花開く可能性があって、それに逆らうような方向づけをしてはならないからである。


3は、比較的容易につかめる部分であり、父親・母親・兄弟姉妹・教師・友人知人などの複数評価によって、とらえることができるだろう。


4は、2同様、いや、それ以上にとらえにくい部分であるが、将来への可能性を秘めている場合があり、父親・母親・兄弟姉妹・教師・友人知人など、周囲にいる複数の人物が、絶えずアンテナを張っている必要があるだろう。


1、2、3、4を極力正確に把握することを通じて、今後の成長過程で、どの部分を特に伸ばし、そして、どの部分をカバーするようにすべきかを見定めてゆかなければいけない。

子供の「人生脚本」を把握したとは、すなわち、<span class="b">よい材料も悪い材料も、すべて手元にそろったということ</span>であり、

それをどう生かすかは、すべてあなたしだいということなのである。


<h3>「人生脚本」は、いかに生かすべきか？</h3>


さて、ジョハリの四つの窓をあけ放って、子供の「人生脚本」の全貌を明らかにしたとしても、その生かし方がわからなければ、何にもならない。

では、どう生かせばいいのだろうか？

結論から言えば、第1番目として、

<span class="b green">「子供の持ち味の中で、勝負すべき部分はどこで、勝負すべきでない部分はどこなのか？」

という視点で、<span class="b">「人生脚本」をとらえ直す</span>ことである。


たとえば、集団・組織の中でリーダーシップを発揮してゆくタイプの人もいれば、人にものを教えるのが特別うまい人もいるだろう。

あるいは、文章を書くことに喜びを感じる人もいるかもしれない。

あるいはまた、パソコン・ファミコンについて語らせたらピカイチの人や・競馬の予想が特技だという人もいるだろう。

このように、どんなことでもよいから、子供の持ち味の中で、人とくらべて秀でている部分はどこか、よい意味で、自分の子供を特徴づけるものは何かがわかっているということだ。

逆に、集団の中では孤立しやすかったり、忍耐力を要するこまかい作業をすると気がめいってまちがいだらけになってしまう。

あるいは、指示されなければ・何もできないとか、論理的思考がまるでダメなど、子供の持ち味の中でも、他と比較して、マイナスの部分もわかっているということなのである。

このように、子供の「強み」と「弱み」を熟知していることが、成功への条件になることをしっかり認識しなければいけない。


「人生脚本」の生かし方の第2番目としては、<span class="b">「強み」を生かせば成功するが、「弱み」を前面に出せば失敗することを認識するということである。</span>


一見、あたりまえのように見えて、実は、きわめて重要なことなのである。

いくら、子供の「強み」や「弱み」を知っていても、それを、実地に活用することを知らなければ、何にもならない。


たとえば、「強み」でないことを知っていながら、さまざまな理由で、子供に無理をさせてしまうことも多いのである。

協調性がなく、組織の中では孤立するようなタイプの子供に、「東大法学部そして一流官庁へ」というコースを歩ませることもあろう。

逆に、大組織の中でこそ真価を発揮するようなタイプの子供に、「文学部から文筆家へ」というコースを歩ませてしまうこともある。


このような、子供の持ち味に逆らったやり方は、本人の猛烈な努力によって、ある程度は成果を上げても、やはり、大きな無理が伴うものであり、「強み」を発揮している人との競争では勝算は薄いと言わねばならない。


孫子の兵法において、「彼を知り、己れを知れば、百戦して危うからず」と言っても、相手の状況と、自分の状況さえ知っていれば、それだけで連戦連勝になるというわけでは、けっしてない。

<span class="b">そうした状況をうまく利用すれば成功するが、利用しなければ失敗するのだ</span>ということをしっかり認識し、成功に導くよう努めなければいけないということである。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 10 Oct 2008 21:06:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>水に溺れた場合</title>
         <description><![CDATA[水から引き上げたとき、すぐ泣きだして、まもなく泣きやみ、元気になったら、心配はいりません。

むせるようにしていたら、水が肺に入った恐れもあるので、慎重にようすを見てください。

せきこみがつづくようなら、いちおう医者に診てもらいます。

むせるのがすぐおさまっても、一週間くらいはせきや熱がでたら、レントゲンで調べてもらったほうがいいでしょう。


水から引き上げたとき、ぐったりして、意識がないようなら、すぐに人工呼吸をします。

脈がふれず、胸に耳をあてても心音が聞こえないようなら、同時に心臓マッサージをします。

水を吐かせる必要はありません。


<h3>人工呼吸法（マウス・ツー・マウス法）</h3>


<span class="f11em">（１）まず脈をみる。脈も止まっていれば、心臓マッサージもやらなければならない。

（２）なるべく硬いものの上にあおむけに寝かせ、頭を後ろにのけぞらせる。

（３）口の中に血やよだれ、吐物などがたまっていたら、顔を横に向け、指でかきだす。
（４）自分の口で、子どもの口と鼻をおおい、すばやく4回ほど息を吹きこむ（下図）。

（５）その後は、1分間に20回の割合で、息を吹きこむ（あまり強くは吹かないこと）。

（６）毎回、吹きこんだら、口を離して、息が吐きでるのを確認する。</span><br />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/jinkokokyuu_1.jpg" wigth="189" height="173" alt="人工呼吸を乳幼児にやる場合" /><br />
<span class="b">乳幼児の場合</span><br />
ロを子どもの鼻とロにあてて<br />
息を吹き込む（1分間に12回）
</span>
<span class="right">
<img src="http://useful-infomation.info/images/jinkokokyuu_2.jpg" wigth="217" height="186" alt="人工呼吸を大きい子にやる場合" />
<span class="b">大きい子の場合</span><br />
鼻をつまみ、口を子供の口にあてて<br />
息を吹きこむ（1分間に20回）
</span>


<h3>心臓マッサージ法</h3>


<span class="f11em">（１）床か、硬い台の上にあおむけに寝かせ、頭を後ろにのけぞらせる。

（２）人さし指と中指を並べて、指先をまっすぐ、胸骨の中央部（およそ両乳首を結ぶ線上の真ん中）にあてる。このとき、子どもの背中に片方の手をあてておくとよいだろう。
（３）胸にあてた指先を、1分間に80～90回（およそ脈の速さ）の割合で、ぎゅっと深く押しこんだり、離したりする。

（４）5回くらい押すごとに、人工呼吸もやらなければならない。だから、2人がかりがよい。

（５）脈が打ち始めたら、心臓マッサージはやめる。</span><br />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/cardiac-compression_1.jpg" wigth="220" height="169" alt="心臓マッサージを乳児にやる場合" /><br />
<span class="b">乳児の場合</span><br />
人さし指と中指を並べて、<br />
指先で胸骨中央部を押したり、<br />
離したりする（1分間に80～90回）
</span>
<span class="right  p10-t">
<img src="http://useful-infomation.info/images/cardiac-compression_2.jpg" wigth="240" height="162" alt="心臓マッサージを幼児にやる場合" />
<span class="b">幼児の場合</span><br />
前胸部と背部より両手ではさみ、<br />
圧迫を繰り返す（1分間に80回）
</span>]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/emergency-measure/0810101940.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">応急処置</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 10 Oct 2008 19:40:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>赤ちゃんの発育度をきちんと知る為に</title>
         <description><![CDATA[親として赤ちゃんの発育が気になるのは自然の情。

よその子にくらべて小さいとか背が小さいといったばあいには、だれもが心配でたまらないようです。

まして医者や保健士さんなどにきめつけられでもしたら、いても立ってもいられないでしょう。


<span class="b">でも、赤ちゃんの発育はひとりひとりがひじょうに異なるもの。</span>

発育のパターンだってさまざまで、どの子もいちょうに大きくなっていくわけではありません。

だからこそ「わが子」の感じがでるのだし、その体をいとおしめるのではないでしょうか。

ですから、よその子とくらべて発育のよしあしで一喜一憂するのは意味がないこと。


<span class="b">「標準」</span>といわれる数値もありますが、標準とは平均値、つまりそれより大きい子も小さい子もいるということです。

<span class="b blue">赤ちゃんの発育を知るには、からだ全体の印象と元気、きげんのよさをみることです。</span>

大きいなら大きいなりに、小さいなら小さいなりにまとまりをみせ、いきいきとした感じさえあれば、まず発育は順調と考えていいでしょう。

もし数字が知りたいなら、体重と身長それぞれでなく、総合的に判断できる「カウプ指数」を計算してみてください。

<h3>カウプ指数</h3>



<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/kaupusisuu.jpg" wigth="300" height="99" alt="カウプ指数" />


<span class="b f11em">15～19・・普通<br />
13～15・・やせ型<br />
19～22・・やせすぎ</span><br /><br />

<span class="b green f11em">やせすぎ</span>

（発育がわるい状態だけれど、その後しだいに数値が上向いてくれば安心）

<span class="b green f11em">ふとりすぎ</span>

（発育がよすぎる状態だけれど、その後しだいに数値が下向いてくれば安心）


すくなくても、あわててミルクや離乳食の量を増やしたり、制限したりといった無理をしないほうがよさそう。

いくら強行しようとしても、赤ちゃんは計算どおりに飲み、食べてくれるものではありません。

赤ちゃんのきげんをそこね、親はいらだつのが関の山でしょう。


もちろん先天性の異常が発見されたり、生気に欠け、発育が極端におかしいときには、医者に相談しつつ慎重に育てなければなりません。]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/health-and-sickness/0810101111.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供の健康と病気</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 10 Oct 2008 11:11:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>早期教育は子供の為になるのか？</title>
         <description><![CDATA[親というものは、わが子に一日でも早く<span class="b">「できる」</span>ようになってほしいと願うものです。

ことばが巧みになり、数がわかり、文字が読め、絵も音楽も運動も上手になってほしい。
大なり小なり、そんなことを望みます。


そんな親の気持ちにとって、子どもの能力はできるだけ早く教育するほど伸びる、という<span class="b">「早教育」</span>の考え方が魅力のないはずはありません。


小学校以前の子に数や文字、さらには英語やコンピュータの使いかたまでを教えて

「知能を伸ばそう」とする幼児教育や通信教育が盛んなのには、このような背景があるからでしょう。

まるで、乗りおくれるととり残されてしまいそうな感じです。


でも、実際ははたしてどんなものでしょうか。

たしかに、子どもは驚くほど早くからいろいろなことを覚えてしまいます。

だからといって、こちらから積極的に教えたのでは、どうも変なことになりそうな気がしてなりません。

子どもがなにかを覚えていくのは、実生活の中で「もの」にとりつかれたあげく、ひとりでにか、だれかにたずねてのこと。

そういったものと、数や文字などがしっかりと結びついて記憶されているわけです。


なのに、一方的に教えこもうとすれば、数や文字などは抽象化されてしまって、もとの「もの」がもつ情感やひだのようなものはそぎ落とされてしまうでしょう。

もちろん抽象化された数や文字を教えるのがいけないことだとはいいませんが、

<span class="underline">それらを操れるようになることだけを進歩とか発達としてプラスに評価するとなると、それはどうかと思うのです。</span>


<span class="b f11em">なにごとでも、なにかができるようになることは、一方で別のなにかをできなくしてゆくというジレンマをかかえているのでしょう。</span>

知能にしても、自然や社会についてわかるように教育していけば、わからないときに感じていた世界の魅力は失われてしまいがちだし、

そのわかったことでひどく誤解させているといったことも実はあるかもしれないのです。
以前書いた、<a href="http://www.y-ads.jp/kosodate/0809232110.html" target="_blank">早期教育について、私が心配していること</a>を書いていますので、参考にして下さい。

ゲゼルという学者が行った実験を紹介していまして、少し難しいお話になってしまいましたが、

<span class="b f11em">子供の心や体の準備が出来ていない段階でいろいろ詰め込んでも子供は伸びていかないことを結論付けています。</span>


しかも「早期教育」がめざすのはエリートの養成。

体験すべき「子供の時代」を体験せずして、早くから<span class="b red">競争社会</span>に飛び込むことになります。

ひとより抜きんでるための感覚や知能や体力を引きだそうとするものです。

<span class="b green">「子どものために」</span>という親の執着はいっけん献身的なようでいて、じつは、わが子を支配し、将来までも先取りしてしまう情念でありえます。
親としては、そのことがどれだけわが子に合うか、

「できる」ようになったとして<span class="b blue">人間形成</span>になにをもたらすかについて、十分恐れをもっておかなければならないと思います。]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/study-method/0810101008.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 10 Oct 2008 10:08:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「赤ちゃん返り」にはこう対処しよう</title>
         <description><![CDATA[突然弟や妹がこの世に出現し、戸惑った子どもたちは<span class="b">さまざまなパフォーマンス</span>にでることがあります。

家族の態度の微妙な変化に動揺するだけの高い感受性を持っていて、自分が家族の中でいつも愛され続けたいと考えている子どもたちは、自分の存在が脅かされたと感じるものです。

それまで一身に集めていた家族の愛情を失うかもしれないという心の危機は、さまざまな波紋を引き起こします。

多くは<span class="b">赤ちゃん返り</span>という方法でその戸惑いをあらわします。

おしっこをちゃんと教えられるようになっていたのにおもらしするようになったり、おまるでウンチができるようになっていたのに、おむつが必要になってしまうことがあります。

またおねしょが始まったり、指をしゃぶったり、赤ちゃんことばに戻ったり、ときにはどもり始める子もいます。

弟や妹の出現で忙しくなったお母さんはそのことでイライラするようになり、ちょっとヒステリックに叱りつけたりすることが多くなります。

子どもにとっては今の自分より何もできなかった頃にもどれば、これまで通りに家族の安定した愛情と注目を取り戻せるのではないか、

「夢よ、もう一度」というせつない行動なのですから、その純な心情をくみとってやらないことにはいい方向には向かいません。


<span class="b">叱られたりするとますます困った行動が多くなったりします。</span>

ときには一人でそうした寂しさをまざらわそうとする子もいます。


三歳のＮちゃんのお母さんが、とても深刻そうな表情で相談にやってきました。

Ｎちゃんが自分の性器をいじるようになったというのです。

最初はさわっている程度だったというのですが、最近では布団にこすりつけてボーッとしていたり、顔を真っ赤にしてうんうんいったりしているものだから、お母さんはすっかりあわててしまったのです。

いくら叱って止めさせようとしても、止めるどころかますますひどくなります。

日毎に回数も増えて、お客さんがいるところでもやるので、お母さんとしてはほとほと困ってしまったのでした。


小さい子の性器いじりというのは、男の子、女の子に限らず、そんなに珍しいことではありません。

偶然さわっていたら気持ちがよかった、癖になってしまったというのがほとんどです。

ところが指しゃぶりや爪を噛む癖と違って、それを見たおとなたちはあわててしまいます。

こんなに小さいうちから性的なものに興味をもつなんておかしい、将来痴漢になったり、淫乱なおとなになったらどうしようというところまで考えがいたります。

おとなのほうが顔を赤らめながらやめさせようとします。

子どもにとっては痺いところをかいたら気持ちよかったぐらいのところから始まっているのに、おとなは子どもが性的興味や快感を求めてやっていると思いこんでいるのです。

そうしたおとなの気持ちは子どもにすぐ伝わりますから、なんだか秘密めいたおもしろさがありそうと感じてしまいます。

こうした二次的な意味づけが、一時的な行動をあえて子どもの癖として定着させていることが珍しくありません。


<span class="b">問題はむしろ自分の身体をいじることで気を紛らすことが必要な子どもの状況や、それ以上に楽しいことが今は何もないということが問題なのです。</span>


Ｎちゃんは三カ月前に弟が産まれました。

それまではお母さんと公園に行ったり、絵本を読んでもらったり、いつもお母さんはＮちゃんのそばにいたのですが、今は違います。

弟がお母さんにだっこされていると自分もとそばに行くのですが、

<span class="b green">「赤ちゃんは一人では何もできないの、いい子にして一人で遊んでいなさい」</span>

と言われることが多くなりました。公園に行くこともほとんどなくなりました。

その頃からＮちゃんの性器いじりが始まっていたのです。


Ｎちゃんに必要なことは、今の寂しさや弟へのやきもちに気がついてあげることと、もっと楽しいことを見つけてあげることでした。

お母さんがＮちゃんと二人だけで遊ぶことは今は無理でしたから、お母さんにＮちゃんといっしょに「弟を育ててみる」という提案をしました。

ミルクを飲ませることやおむつをかえることを、Ｎちゃんといっしょにやることで、Ｎちゃんを一人でいることを減らして、お母さんといっしょにいるという安心した気持ちにしてあげようということになりました。

ときにはお母さんに抱いてもらったり、お父さんと公園に行ったりするうちに、

いつのまにかＮちゃんはつたい歩きを始めた弟といっしょにあそんだり、けんかしたりで忙しくなり、昔の癖は忘れてしまったのでした。


きょうだいが突然出現するということは、子どものそれまでの人生で最大のイベントだったりするのです。

それをちゃんとわかってくれる家族のところに生まれてきたいと、神様の前で生まれる前の赤ちゃんたちが集まって、あみだくじでもやっているかもしれないと思うことがあります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 09 Oct 2008 20:12:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供のしつけを「押しつけ」と混同していませんか？</title>
         <description><![CDATA[子どもが赤ちゃんを卒業するころになると、親はだれでも<span class="b">「しつけ」</span>にとりかかることになるでしょう。

世の中のマナー、よいこととわるいことの区別だけは教えておきたいと考えだすのです。

これは一見当たり前のことのように思われますが、

<span class="b f11em">でも、いったいなぜ「しつけ」は必要なのでしょう。

どうして親は熱心にしつけにかかるのでしょうか。</span>


それはたぶん、そうしておかないと大きくなったときに困る、世間からはなつまみものにされかねないといった恐れを持つからでしょう。

そのうえに、きちんとした人格をつくってやりたい、他人に迷惑をかけるような人物には育てたくないといった希望もオーバーラップしているかもしれません。


そうだとすると、「しつけ」は、多分に世間的な価値とか効用をはらむ性質のものかと思われてきます。

つまり、世の中で成功するための、いわばマニュアルを仕込むことといったらいいすぎでしょうか。


しかし、すくなくとも、これを普遍的な「道徳」の教育と考えたら、<span class="b red f11em">かなりのお門違い</span>といわなければならないと思います。

だいたい、「道徳」というもの自体が、どこでも通用する善であるとか真であるとかは、かならずしもいい切れないことでしょう。


早い話が「よいこととわるいことの区別」といっても、時代とか社会の状況によってずいぶん異なってきます。

同じ今の日本でも、階層とか地位、ひとりひとりの性格や人生観によってかなりちがってくるでしょう。

「しつけ」をむつかしく「道徳教育」などと構えないで、もっとリアルに個々の感覚でやるに徹したほうが無理がないような気がします。


<span class="b f11em">だいいち、親にはそれぞれ子に対する期待があるはず。

その願いをそのままぶつけたらどうでしょう。</span>


子どもとまわりのひとがぶつかり合うことによって、たがいに人間的に熟してゆければそれが最高なのだと思うのです。


<h3>気持ちをそのままに</h3>


育児に「しつけ」はいらないとはいいませんが、少なくも、そのやりかたを変えて、のんびりしたほうがよさそうに思います。

そんなにいっしょうけんめいにならなくても、子どもはけっこう育ってゆきます。

大人の目からみて、いやなこと、困ったことでも、子どもにとってはごく当たり前、

ひとつも「異常」ではないことだって少なくありません。


赤ちゃんが「指しゃぶり」をやりだすと、たいていのお母さんはあわててその手を払いのけます。

でも、指をしゃぶらない赤ちゃんがいるでしょうか。

二、三歳だって、ひょっとすると小学生でも、ときに指をくわえる子はいます。

でも、なんということなしに、おとなになっていっているでしょう？


「おちんちん」をいじるのにしても、母親にとっては「いやらしい」行為に感じられるかもしれませんが、これも「指しゃぶり」と同じように、子どもにはもともと自然な行為なのです。

<span class="b f11em">それに恥じらいを感じるのはおとなであり、その感覚を子どもに求めるのには無理があります。</span>

「しつけ」には、どうも、こういった<span class="b red">くいちがい</span>が多すぎるような気がします。

そのために、幼いときに満たされるべきもの、幼いからこそ感じられるものを、捨て去らせてしまうのは惜しいことです。


「清潔のしつけ」などといって、泥や汗にまみれる喜びを経験させないのでは、神経質な人間をつくるだけです。

赤ちゃんがなんでも口にするのを「ばっちい、ばっちい」ととめてばかりいたら、あまり丈夫には育たないのではないでしょうか。

汚れた手で食べものをワシづかみにほおばることのできない子は、たくましく生きるのがむずかしいでしょう。


いたずらや散らかし、けんかも経験を豊かにし、そこから学びとるものは大きいと思います。

だいいち、そこには、<span class="b">子ども時代</span>があります。

人間は、子どものとき、そういうふうにして生きるのがふつうなのです。

それを「してはいけないこと」という、ひとつのスタンダードでしばり、

<span class="b green">「いうことをきく」</span>ようにのみしつけたら、どんな悔いを残すかもしれません。


みかけはしっかりして分別があるように育っても、こころの底では、<span class="underline">満たされぬ思い</span>をたぎらせている子どもがあります。

やはり、道徳は、自分のものになっていかなければなりません。

そうでないと楽しくないですし、他人のみていないところでは悪いことをする人間ができてしまうでしょう。


<span class="b f11em">こう考えると、「しつけ」というのは「押しつけ」であってはいけないようです。</span>

「教育」などと大げさにかまえないで、おとなと子どもがいっしょに暮らしていくうえで、たがいにわかり合い、愉快にやっていけるようにすれば、それでよいのだと思えてきます。

子どもに「いうことをきいてもらう」ためには、親も子どものいいぶんをきいてやる必要がありますし、

命令や禁止にいきりたつより、おとなの気持ちをそのままに伝えるほうが、よほど楽にことが運べるのではないでしょうか。]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/discipline/0810091959.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">赤ちゃんや子供のしつけ</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 09 Oct 2008 19:59:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>共働きの子育てを成功させる考え方</title>
         <description><![CDATA[<span class="b f11em">「家で、母親の手で、朝から晩まで面倒をみてやらないのは悪いこと」</span>

子どもをだれかに預けて仕事に出ている母親たちは、多少ともこうした罪の意識をもっているようです。

母親はとくに子どもにつくそうという気分になりがちで、それが<span class="b red">自己犠牲</span>にはまりこんでいく素地をつくりやすいのです。


でも、働きたいお母さんは、ここのところでくじけないでほしいと思います。

もし仕事に出たいのに子どものことを考えてあきらめたとすれば、子育てはひどく献身的、それでいて内面では嫌悪感をかかえたものになりかねません。

<span class="b f11em">そうした親の葛藤が子どもにとってよいわけはありません。</span>


そんなことを考えると、むしろ仕事に出たほうが、子どもにとっても親にとっても、ずっといいのではないかと思います。

親が生きがいを感じ、さっそうとしていれば、子どもにのしかかることもなく、かえって明るい子育てができるようになるはずです。


共働きをつづけるためには、どうしても<span class="b blue">「ずぶとさ」</span>がいるのではないでしょうか。

それも、ただ「ずうずうしい」のではなく、

<span class="b blue">芯に自分の主張のようなものがしっかりとある必要があるでしょう。</span>


働くお母さんは、子どもをかかえているからといって、責任のある仕事をさけたりせず、背水の陣をしいたほうが、けっきょくは強そうです。

そうなれば、子どもとのあいだも、いやおうなしに、あいまいな一体感から断ち切れて、ひとりの自立した人間として見なおす機会がえられるのでしょう。

また、共働きに不可欠な、男性の協力にしても、背水の陣をしいているひとは、一方的に損をさせられることが少なく、およそ平等に家事を分担するのに成功しているようです。

「子どもには子どもの人生があり、わたしにはわたしの人生がある」

少々子どもが病気しようと、大したことがなさそうなら、がまんさせたり、保育園に頼むという勇気も、そこからうまれてくるはずです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 09 Oct 2008 14:42:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>育児は「情」でするもの</title>
         <description><![CDATA[まじめで神経質なお母さんほど、とかく外から入る知識や情報をかんべきに守ろうとするようです。

たとえば、授乳はお母さんの心臓の音を聞かせながらするのがいいと本に書いてあれば、左腕や肩がガチガチにこってしまっても左手で抱き続けますし、

赤ちゃんが泣き出したら手を握ってあやしてあげないと情緒不安定になると聞けば、一生懸命にスキンシップをしようとします。


<span class="b f11em">でも、育児は「情」でするもの。

自分の感じることをもっと大事にしてほしい。

これは育児、幼児だけではなく、思春期・青年期の子供を教育する時にも同じです。</span>


<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office15.gif" wigth="100" height="100" alt="育児は「情」でするもの" />
</span><span class="b green">「きょうはずいぶんぐずるわね。

このところ外へ散歩に連れていっていないから、エネルギーを発散させたいのね」</span><br /><br />


というように感じとることが大切なのです。

母と子のふれあいやきずなが必要だからといって、一日に何時間抱かなくてはいけないなんていう育児は、どこか変だし、それではほんとうの母子関係は育ちません。


<span class="b f11em">だいいち、人生って　そんなにセオリーどおりにいくものでしょうか。</span>


子どもが持って生まれた性格が千差万別であるように、お母さんの性格だっていろいろでしょう。

だから、それこそ千差万別の育て方があっていいわけです。

とにかくセオリーだけに頼らないで、自分の<span class="b blue">感性</span>を大事に、そして信じてください。

あくまで自分と自分の子どもの関係なのですから。


けっきょく子育ては自分が思うようにやるのがいちばんなのかもいれません（放棄するという意味ではないですよ？）。

スパルタだろうと、甘やかそうと、放任しようと、科学的にやろうと、どれでもたいした問題はなさそうです。


<span class="b blue">ようするに、親が子どもに対して〝情″をもっているかどうか、子どものことを思っているかどうかが肝心なのです。</span>

子どもだって、自分が親から信じられているんだと感じていれば、裏切れないものでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 09 Oct 2008 12:37:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親として心がけたい子供たちの男女交際の５つのポイント</title>
         <description><![CDATA[わたしたちおとなが、おとなの感じ方でだけ子どもたちの男女交際をとらえ、いたずらに警戒しすぎる結果、逆に子どもたちの純粋な気持ちをゆがめてしまっているのではないでしょうか。

親として<span class="b">子どもの男女交際</span>について、次のような点に心がけてほしいと思います。


（１）自分の子が異性に関心を持ったり、異性の友だちができたとしても、まだ早すぎるなどと考えずに、

そのことを冷静に受け止めて、正しい男女交際のあり方をアドバイスできるようにしましょう。


（２）中学生時代はできるだけグループで交際させるようにし、一対一の交際の場合でも、

<span class="b">・時間</span>（明るいうちに）

<span class="b">・場所</span>（一目を避けるようなところには行かない）

<span class="b">・相手にたいする態度</span>（相手の気持ちを尊重し、常にいたわりの心を持つ）など、

男女交際のエチケットをきちんと教えましょう。


（３）<span class="b blue">親にオープンな交際</span>が大切です。

そのためには、<span class="underline">日ごろから親になんでも話せるような関係</span>をつくっておきましょう。


（４）恋は盲目といいますが、自分を持っていない者ほど恋におぼれがちなものです。

<span class="b">日ごろから子どもに心から打ち込めるものを持たせることが大切です。</span>

そうすればたとえ破たんをきたすことがあっても、自分を失うようなことはありません。

（５）先の中二の女の子の作文にあったように、親同士ができるだけ交流を密にすることも、子どもたちの交際を明るいものにするうえで大切なことです。]]></description>
         <link>http://www.y-ads.jp/education-at-adolescence/0810091039.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 09 Oct 2008 10:39:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>心理療法の特徴</title>
         <description><![CDATA[さまざまなストレスにさらされている子どもがここにいるとしたら、私たちは子どものことばに熱心に耳を傾けようとします。

子どもの気持ちを理解したいと真に望めば、子どものそばへ行ってしゃがみこみ、微笑みかけることが、言葉を越えたしぐさとしてごく自然に出てきます。

問いつめて聞き出すのではなく、結論など急がずに、子どもに寄り添うようにして子どもと同じことを感じようとするものです。


子どもの中には、社会生活の約束ごとを守れなかった子どももいます。

ものを盗んでしまったということもありますし、飲酒や喫煙や性の問題を打ち明けられたこともあります。

子どものそばにいるおとなとしてその場に居合わせたなら、そんなことをしてはいけないと言ってあげるべきだと思います。


心理療法の中でのつきあいは、世間一般のつきあいとちょっと違っています。

心理療法の大きな特徴は、守られた空間の中にいて、さまざまないきさつを含んだ今ここにいる自分を無条件にまるごと受け入れられ、さらに人間として対等な立場で自分の心に寄り添ってくれる人がいることを経験することにあります。

共有する空間と時間の中では、世間では「いけない」と善悪で判断されることが、同じようにとりざたされるということにはならないのです。

むしろそうなってしまった心の事情や、そのことで苦しんでいることに焦点をあてていくことによって、<span class="b">心の問題</span>を解決し、心が元気を取り戻すように援助するものなのです。


子どもが「盗んだ」と話したとき、心理療法では「盗んだ」行為に注目するのではなく、盗むことになってしまった子どもの心の経緯に焦点をあてることがその役割であるといえます。

これはそれほどたいへんなことではなく、この子はどんなすばらしいものを持っているのだろうと探し出す楽しい作業でもあります。

彼らの行動の善悪を裁くことは目的ではありませんから、<span class="underline">なぜそんなことをしてしまったのかをまず感じてみようとするのです。</span>

欲しかったから盗んだのだろうか、ひょっとしたら寂しかったのかもしれないなどと子どもの気持ちをいっしょに感じてみる努力をするのです。

そして心理療法の中で話されたことを、あくまでも二人だけのものとして大切に守ることで子どもの気持ちは解放され、発散されていくのです。


子どもがあるがままを安心して振舞えると感じるようになれば、子どもはみずからの生き方を変えてみることに多くは抵抗がなくなります。

たとえどう変わろうと今と同じように、もしくは今以上に安心していられることを信じられるようになるからです。

子どもとの出会いから、子どもが本来持っている立ち直る力を信じて、ちょっと肩の荷を下ろしてやること、そして再びいっしょに背負ってやることが心理療法のなかで行われることなのです。


たしかに私たち自身の正義感や人生観から逸脱した話というものを聞かなければならないことも少なくありません。

もしそこでイライラしたり、腹が立つ自分を感じたなら、そのときは子どもの気持ちよりも、子どもの行為のほうに強い関心が向いてしまったということですから、心理療法として成立しないことを意味します。

相性が合わないというシグナルでもありますので、誰かと代わってもらう決断をするのが心理療法にかかわる者の良心と言えるでしょう。

ちょっと厳しい世界でもありますが、これは心理療法を通して自分自身をちゃんと理解してくれる人に出会ったなら、それだけで社会に適応する準備が整っていくものだからなのです。

人は理解しようと努力してくれる人がいるだけで、心が元気になっていきます。

それは心理療法という枠の中だけのことではありません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 09 Oct 2008 09:43:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの資質に合った子育てをしなければいけない</title>
         <description><![CDATA[<span class="b green">「同じように育てたつもりなのに、どうしてこの子だけが病気になってしまったのでしょう」</span>ということはよくあることです。

子どもがＳＯＳを出すとき、それがお父さんやお母さんの育て方にばかり問題があったとは断言できません。

育て方に問題があったとすれば、きょうだいみな同じようにＳＯＳを出すはずなのにそうとは限らないからです。

このことは子どもがもって生まれた感じ方に違いがあるからだということを示しています。

Ｍ君は頭の後ろのほうに丸いはげができてしまいました。

皮膚科を受診したところ円形脱毛症と診断されました。

その原因に<span class="b red">ストレスが多い</span>と聞いて、お父さんやお母さんはびっくりしてしまいました。

すぐにはストレスになりそうなものが思い浮かばなかったからです。

お父さんやお母さんは、Ｍ君とお姉さんは同じように育てたつもりなのにどうしてＭ君だけがこんなことになったのかと悩んでいます。

お姉さんは部屋のかたづけも勉強もあまり好きではありません。

自分からやろうとするよりは、<span class="b green">「やりなさい！」</span>と言われてからやりはじめます。

最近は強いはげましや激励が意欲を刺激したのか、成績も少し伸びて勉強にも意欲的になってきています。

しかしＭ君は叱られると、それがちょっと気になるのか落ち込んでしまうことがあります。

それに自分のペースでやらないと万事納得できない性格です。

<span class="b">もうすぐ中学だからとちょっと厳しくなった両親の叱咤激励は彼にとって毛が抜けるほどのストレスになっていたのです。</span>

お姉さんには「○○しなさい」が合っていたのかもしれないのですが、Ｍ君には「自分でやってみなさい」と動き出すまで待つ対応が必要だったのです。


きょうだいを同じように叱っているつもりなのに、切り替えが上手な子がいるかと思うと、いつまでも気にしてしまう子がいたりします。

上の子はこの叱り方が効果的だったけれど、弟にはかえって傷つける結果になってしまうことだってあるということを知っていると、

子どものもって生まれたものを客観的に見抜くゆとりが生まれますから、大切なキーポイントを逃さずに済みます。

子どもが持って生まれたものはいっしょなのに、あえて期待するものが異なるために性格や行動が影響を受けることもあります。


一卵性双生児は遺伝的にはまったく同じものを受け継いで生まれてきます。

ところが一卵生双生児であっても<span class="b green">「この子が長男の○夫で、こっちが次男の△夫よ」</span>とあえて、おにいちゃんと弟に役割を設定することがあります。

不思議なことにおにいちゃんということになった子はいつの間にか典型的な長男的性格、比較的慎重でむちゃはしない子になり、弟と設定された子はやんちゃないたずらっこで、おにいちゃんを頼っていたりすることがあります。


<span class="b">遺伝的には同一なのに、周囲が期待するものの違いによって、子どもの性格が影響を受けているのです。</span>

顔も身体つきも区別がつきにくいほどよく似ていたのに、やがて表情や顔つきにだんだん差が出てくることもあります。

年齢を経ていくうちに明らかに別の顔へ変化していくことも珍しくありません。

一人の人間が別の人生を歩むとどうなるのかを示しているようで、生まれたときの無限の可能性をどう生きるかで容貌まで変わっていくことを知るのです。

このことは言い換えると、

<span class="b">生まれたときに持ち合わせたものを親の育て方や、それに影響を受けた生き方によって人生が変わってしまうこともあるということでつくづく考えさせられてしまいます。</span>

子どもが必要としているものに答えようとする柔軟な感性を身につけることも親の役割なのかもしれません。

ときには潔く

「これまでのお母さんのやりかたは、ちょっとあなたに合わなかったみたい……」これからはあなたにあったやり方を探すからねと子どもに伝えられる、

そんなお母さんやお父さんはすごいと思っています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 08 Oct 2008 23:53:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>自己実現</title>
         <description><![CDATA[

<h3>自分らしくあるために</h3>


自己実現という言葉はよく使われますが、元はアメリカの心理学者マズロー（A.H.Maslow）が提唱した用語です。

マズローは人間の動機を、

（１）飢えや渇きをいやしたいという生理的動機、

（２）安全に暮らしたいという動機、

（３）仲間がほしいという所属と愛情の動機、

（４）自尊の動機、

（５）自己実現（self-actualization）の動機、という5つの階層に分けました。


5つ目の自己実現動機は、自分のもつ能力を最高に発揮したい、自分らしく精一杯生きたいという気持ちです。

衣食住が充たされ、仲間に恵まれ自分に自信がもてても、この自己実現の動機が充たされていなければ真に精神的に健康であるとはいえないとマズローは考えていました。

自己実現と似た言葉に<span class="b">個性化の過程</span>というものがあります。

これはスイスの分析心理学者ユングの用語です。


ユングは人間の心は意識と無意識からなり、無意識には個人的無意識と普遍的無意識があるとしました。

普遍的無意識には同じ民族が共通にもっているものや人間が共通にもっている元型があると考えました。

この民族や人間に共通のものと同時に、自分独自のものをもっている自分の内面を意識化し統合させることが、ユングの個性化の過程です。

<span class="b">自己実現と同様に、「自分らしくある」ということが、最大の目的となっています。</span>

日常会話の中で自己実現とか個性化という言葉は、本来の意味とはややずれて用いられることが多いようです。


何か社会的に行動を行うこと、成功することが自己実現と考えられ、目立ってユニークであることが個性化と受けとめられてはいないでしょうか。

本来は「自分らしく」ありたいというのが自己実現動機であり個性化の過程なのですから、皆が同じような到達の理想像をもつというのは最もこれらの用語から離れたことです。

子どもを見る目においても、親、そして保育者自身を見る目においても、一つの理想像にとらわれないようにすることが大事です。

自分らしいとはどういうことか、人とは違う自分のよさとは何か、自分は何をしたいのか、人それぞれでまったく異なった答えが出るはずです。


マズローは全ての人がそのような自己実現欲求、成長への欲求をもっていると考えています。

ユングは個性化の過程を一生をかけてやり遂げることと考えています。

その人なりその子なりの自己実現、個性化の過程に寄り添うのが保育者の仕事といえるでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 08 Oct 2008 15:50:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親が変われば子どもも変わる</title>
         <description><![CDATA[愛と憎しみの感情はそれぞれ遠くかけ離れているようにみえますが、

関心無関心の次元でとらえるとどちらも強い関心があるという点でほんとうはとても近い存在なのです。

「かわいさあまって憎さ一〇〇倍」というように、

かわいいと思い、相手のために自分の気持ちを精いっぱい込めても、相手がそれに答えてくれないとき、それは怒りとなって向かったり、相手を突き放す行為に出たりすることがあります。

<span class="b">愛がなければ憎しみもわくはずがなく、愛と憎しみはいつも隣合わせにあります。</span>

いちばん遠いところにあるのが無関心という気持ちが向かない心のありようであることに気がつきます。


子どもをかわいいと思う気持ちがちょっとずれてしまうとそこには

<span class="b green">「あなたなんか嫌いよ」「うちの子じゃない、出ていけ」</span>

と、心を切り刻むことばとなって出てきてしまいます。

拒否的になっているとき、親の心の片隅に、子どもを傷つけている後ろめたさがほんの少し宿り始めるものだというのは、あまり知られてはいません。

驚いたことに拒否と溺愛は裏表の関係にあることが多いのです。


ジロウ君は小学二年生です。成績はあまりよくありません。

やればできそうなのだけれど勉強が嫌いなのです。

家ではファミコンばかりやってます。

ジロウ君は新しいファミコンカセットを買ってくれと次々に要求してきます。

夜中にコンビニで漫画を買いたいと言い出したときも、結局は彼の要求通りに応じてしまいます。

それに心配なのはジロウ君は外に遊びに行きたがらないことです。

お父さんは新しいファミコンカセットがあればおともだちが家に遊びに来てくれるかもしれないと買い与えました。

たしかに友だちが遊びに来るのですが、ジロウ君が自分のやり方を押し通そうとしたりするので、友だちはやっぱりうんざりしてしまいます。

お母さんはなんでも要求通りに与えてしまうのはあまりよくないことだとわかってはいるのですが、漫画やおもちゃがないと友だちが遊びに来てくれないなどと言われると、家計をやりくりして買い与えてしまいます。

ジロウ君は三歳のとき小児喘息になって以来、大きな発作を繰り返していました。

五歳のときは一年間遠くの病院に入院しなければなりませんでしたし、お父さんやお母さんは体力的にも経済的にも、とてもたいへんだったといいます。

発作に苦しむ姿を見てかわいそうだと、ついわがままと思いながらもおもちゃを欲しがるままに買い与えたりすることがありました。

そうかと思うと徹夜の看病が続いて疲れきってしまったとき、

この子がいるばかりになんてたいへんなんだろういう気持ちが心をよぎったりして邪見に扱ったこともあったといいます。

すぐにかわいそうにとふびんに思い、そしてジロウ君がいないはうがいいという気持ちがよぎったことに後ろめたいものを感じたとお母さんは話してくれました。

最近は発作もだいぶおさまって元気になってきています。

あんなにつらい思いをさせてしまったのは健康に産んでやらなかったからだというお母さんの気持ちと、ときどき心をよぎったこの子がいるばかりにという投げ出したくなった気持ちの後ろめたさが、

どこかでジロウ君の物を欲しがることに毅然と対応できないことにつながってしまっているようにみえました。


がまんすることをあまり経験しないで育ったジロウ君は、友だち関係もぎくしゃくしていましたが、本人はなぜそうなるのかがわからず、友だちの関心をひこうとファミコンカセットや漫画をすぐにあげようとします。

<span class="b">まさしくお父さんやお母さんがジロウ君にしていることを友人関係の中で再現しているのでした。</span>


ジロウ君のお父さんやお母さんは毅然とした態度がとれない自分たちの気持ちの裏側に気づいて相談にやってきましたが、知らないうちに親の気持ちの揺らぎにはまり込んで、大切なものを失って行く子どももいるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 08 Oct 2008 11:58:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>能力は使われなければ開花しない</title>
         <description><![CDATA[知的障害を持つ子ども達のキャンプにボランティアとして参加したことがありました。

キャンプには和義君と康一君も参加していました。（二人とも仮名）

二人とも特殊学級に通う小学三年生の男の子でした。

和義君はキャンプ中走りまわったり、友達に噛みついたり、大声をあげたりとても手がかかる子どもでした。

一方、康一君は友達と仲良く遊び、ほとんど手をかけなくても自立している子どもでした。

私は当然康一君の方が能力の高い子だと思っていました。

ところが指導していた先生の話によると和義君の方が知能は高いということでした。

びっくりしてわけを先生に聞きました。

康一君のお母さんは康一君が自分でできることは手を出さないでやりおわるまでじーっと見守っていました。

和義君のお母さんは和義君がかわいくて何でも言うことを聞いてきました。

和義君は自分の希望が通らないとわがままが出てしまうのでした。

<span class="b">このことからわかるように能力が高いとか低いとかよりも、子どもがどう育てられ、しつけられたかということが子どもの可能性を豊かにします。</span>

どんなに豊かな能力があってもそれが私達の社会を豊かにするために使われなければ、その能力は決して豊かと言えないと思います。


お子さんの能力をお互いが豊かになるように使えるように励ましてください。

康一君のお母さんの育て方はこのような子育てのヒントになるのではないでしょうか？　-----
EXTENDED BODY:]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 08 Oct 2008 09:09:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>思春期の子供には、適度な体力づくりを</title>
         <description><![CDATA[成長期にある中学生にとって運動が大切だということは頭ではわかっていても、

つい高校受験のことが気になって、スポーツよりは勉強というように考えてしまう親が少なくありません。


尚人の母親もその一人です。

尚人は小学校時代からスポーツ万能で、地区の小学校連合運動会では、リレーと幅跳びで入賞した経験もあり、町会の少年野球チームのエースでした。

勉強の成績もよく、小学校では児童会の役員をしていました。


中学に入った尚人は、勉強と両立させる、と両親と約束して、陸上競技部に入りました。
都大会でも入賞者を何人も出している伝統のある部です。

練習のきびしさでも定評があり、家に帰ってくるのは毎日七時過ぎ。

夕飯を食べて風呂に入ると、宿題もそこそこに寝てしまいます。

日曜日も先輩の試合の応援だといってはかり出されて、落ち着いて勉強する時間もあまりありません。

二学期末には、小学校時代に比べて成績が極端に下がりました。

驚いた母親は、父親に話して尚人の部活動をやめさせてしまいました。

そして、それまでの遅れをとり戻すために、夏休みから進学塾に通わせたのです。


スポーツの大好きだった尚人にとって、部活動をやめさせられたことはたいへんショックでした。

しかし根が明るい子どもですから、すぐ頭を切り替えて猛烈に勉強に打ち込み、二年生の一学期に学年でトップクラスの成績になりました。


尚人がからだの変調を訴えだしたのはそのころからです。

気分が悪いといってはよく保健室に行くようになり、二学期の始業式には<span class="b red">貧血</span>を起こしてしゃがみ込んでしまいました。

その原因が運動をやめてしまったことにあると断定することはできませんが、なんらかのかたちで影響をおよぼしていると考えても間違いないでしょう。


とはいっても、尚人からスポーツを奪った両親だけを責めるわけにはいきません。


<span class="b">今日の中学や高校の部活動の多くが、子どものスポーツ要求を満たし、スポーツを通して健康なからだと豊かな人格をつくるというようになっていないところにも問題があります。</span>

大会に優勝するということだけに目を奪われ、一部のスポーツエリートを養成するための活動になって、練習量さえ多ければいいという科学性を欠いた根性主義が横行しています。


<h3>毎日の生活を通じて体力づくりを</h3>


ところで、何でも運動さえしていれば無条件にからだを健康にするとはいえません。

成長期にある中学生に過度の運動を強いることは、逆に健康をそこなう結果にもなります。

半面、体育の授業中や校内マラソン大会で死亡するというような事故がときおり新聞などで報道されますが、これは決して激しすぎたとか、長時間だからという理由ではなさそうです。


少し古い話になりますが、一九七八年一月、鹿児島県のある中学校で、体育の授業中、サッカーの練習試合をしていた三年生の男子生徒が、パスされたボールを受けて相手方のゴールポストに向けて走り出したとたんに、倒れて死亡しました。

新聞は、校医の話として、受験勉強で疲れていたうえに、高台の校庭で寒風に当たったために急性心不全を起こしたらしいと報じています。


<span class="b red">運動習慣がないと、それほど激しい運動でなくても、このような事故につながる心配があるのです。</span>


同じような授業中の死亡事故が一九九〇年一月にも起きています。

亡くなったのは兵庫県西宮市にある関西学院中学部の三年生（男子）です。

試合形式でおこなっていたサッカーの練習中、突然倒れてけいれんを起こし、心臓まひで死亡したものです。

学校側の話によると、この生徒は学内でおこなう健康診断で不整脈が見られ、再検査を受けていましたが、日常生活に支障はないということで、水泳部員として活動を続けていたほか、毎日全生徒でおこなうマラソンにも参加していたといいます。

ただ、この日は、宿題をかたずけるために午前四時ごろまで起きていたらしく、睡眠不足気味だったようで、ここにも過度な学習の問題がからんでいます。


<span class="b">いずれにしても子どもの体力づくりは、子どもの発達段階や個々の子どもの体力や健康状態に見合ったかたちでおこなわれなければなりません。</span>

そして、スポーツもさることながら、毎日の生活のなかで、何か仕事を与えたり、安易に乗り物に乗せずに歩かせたりする、

こうしたことを通じて自然につく体力が、体力づくりの根本だということも忘れてはならないでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 07 Oct 2008 23:11:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもをまるごと受け入れる</title>
         <description><![CDATA[社会と堂々と渡り合い、自己主張しながら生きていくことがどうしてこんなに下手なんだろうと考えるとき、

親とのかかわりの中に、子どもは自分に自信が持てずに、周囲と生き生きかかわろうとする意欲を失っていく根が潜んでいることに気づきます。


子どもが一〇〇点取ったテストをお母さんに見せたとき、

<span class="b green">「あら、珍しいこと。雨が降るかもしれない」</span>

とひやかしたり、

<span class="b green">「おまえが一〇〇点取るくらいだったら、他の子も一〇〇点だったんじゃないのか？」</span>

とけなしたりするお父さんがいたりします。

お母さんやお父さんの本音をのぞいてみれば、

<span class="b green">「一〇〇点か、よくやったのね」</span>

とにんまりしていたり、

<span class="b green">「他の子なんかに負けないでまた一〇〇点取ってこいよ。本当はすごく期待してるんだぞ」</span>

と優秀なわが子が次々とよい成績を取ってくることを思い描いていたりします。


しかし子どもは一〇〇点とれない自分はお父さんにとって望まれていないと感じるか、反抗する気持ちをつのらせていくかもしれません。

こんなとき、子どもは親がほんとうは喜んでいるはずだという確信は持てないことのほうが多く、どうしたらお母さんやお父さんに受け入れてもらえるのかと戸惑うのです。

ときには親が子どもの存在を望んでいないとはっきり伝え続けたために、よりどころを求めてしがみつこうとすることもあります。


フユコちゃんの場合、三歳では子どもへの心理療法はまだ難しいので、お母さんとの面接が中心です。

フユコちゃんは最近お母さんにひどく甘えるようになり、ぐずぐず言うことが多くなりました。

それまでは一人でできることも多かったし、保育園でもしっかり者のフユコちゃんは他の子のめんどうをみるほどだったのに、とうとう保育園にも通えなくなってしまったのでした。

お母さんはフユコちゃんが生まれてからは仕事を止めていました。

やっと仕事に復帰することになったのに、これでは仕事を続けられません。

何とか今までのようにしっかりしてほしいと鍛えるつもりで、今まで以上に叩いたり、　<span class="b green">「ちゃんとしない子は嫌いよ」</span>と言うのですが、かえって状態は悪くなるばかりでした。

私は困りはてたお母さんの相談のったところ、お母さんに、

<span class="b green">「フユコちゃんをどのように育ててきたか教えてください」</span>

と言うと、

<span class="b green">「早く仕事に戻りたいと思っていましたから、甘やかさないように気をつけました。

一人でやれるのにやらないときは『おまえなんかうちにはいらない』と言って夜ベランダに出すこともあります。

子どもは厳しく育てないといけないと思っていますから」</span>

お母さんはどうやらかなり厳しいようなのですが、それより気になるのは、フユコちゃんを鍛えたいという気持ちばかりではないように思えることです。

フユコちゃんの話をするとき、いやに冷たい響きがするので、<span class="underline">フユコちゃんの存在がうとましいと思っているのではないかと感じたのです。</span>

お母さんとフユコちゃんがいっしょにやってきたとき、フユコちゃんはお母さんのスカートのはしをしっかり握っていますが、ほんとうほお母さんと手をつなぎたいのがわかります。

でもお母さんは気づかないふりをしています。

そのうちその手を振り払ってしまいました。

そしてフエコちゃんの前で、

<span class="b green">「この子はお父さんに似ちゃったから、ブスなんです。生まれたときはもう少しましだったんだけど」</span>

と言いだしました。

<span class="b green">「お母さんはフユコちゃんが嫌いなのですか」</span>

とはっきりとたずねてみました。

子どもをかわいいと思いながらも、子どもの要求に無関心であったり、欠点ばかりが目につくことがあります。

<span class="b">心が健康なおとなであっても、突然自分の生活に飛び込んできた子どもとの生活に疲れてしまうことはとてもよくあることだからです。</span>


お母さんははっと顔をあげた途端、目には涙があふれていました。

フユコちゃんはお母さんにとっては姑にあたるフユコちゃんのおばあちゃんに顔も性格もとてもよく似ているのだそうです。

お母さんはおばあちゃんと折り合いが悪くずっと苦労してきたのでした。

そうしたうっ積した気持ちがフユコちゃんに向かい、ときには顔を見ただけでイライラするほど拒否的になっていたのでした。


フユコちゃんは特別な例ではありません。

親子と言えども相性がいいとか悪いといった程度のことは、どこにでもあることです。

<span class="b">大切なのはそのことに目を背けず、どういうつきあいをすればいいのかを前向きに考えるということです。</span>

家族関係の歪みの結果だけではなく、子どもへの愛情を素直に表現できない照れをそのまま子どもにぶつけたり、

親子だからわかっているはずという甘えから、子どもへの気持ちとは反対の行動に出てしまうことがあります。

子どもをほんとうはかわいいと思っているという裏の気持ちが伝わることは少なく、子どもは自分は親にとって大切な存在ではないと思い込み育っていきます。

フユコちゃんの心の中には、<span class="b red">大好きなお母さんからつきはなされているという不安</span>がいつもあったことでしょぅ。

不安で張り詰めていたら、子どもの心の体力が弱まったとき、限界がやってきます。

フユコちゃんは三歳でプッツンと糸が切れましたが、大きくなってから限界に気づくと、家族みんながもっと苦しむことになることがあります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 07 Oct 2008 19:04:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>他人と比較させるとやる気は失せる</title>
         <description><![CDATA[小学校三年の次郎君は勉強は得意ではありません。

でも一生懸命漢字を覚えようとがんばりました。

<span class="b green">「お母さん、僕やったよ。漢字テストで七〇点取ったよ」。</span>

うれしそうに答案用紙をお母さんに見せています。

そばにいた小学六年生の一郎君が言いました。

<span class="b green">「漢字テストはねえ。みんなほとんどできるんだよ。

七〇点はクラスではできない方だよ」。</span>

次郎君はがっかりしてしょげてしまいました。


そのときお母さんが言いました。

<span class="b green">「一郎、次郎はねえ、この前四〇点だったんだよ。

それを今度は一生懸命がんばって三〇点も点数がよくなったんだよ。

ほかの人のことはわからないけれど、お母さんは次郎ががんばって七〇点取ってきてくれてうれしいよ」。</span>

しょげていた次郎君も少し元気が出ました。


私達は子どもの能力を他の子どもと比較してどちらがあるとかないとか考えませんでしょうか。

でも大切なことは他人と我が子を比較することではありません。

<span class="b">自分の子どものなかでどれだけ成長しているかを見ていることが大切なのです。</span>

他の子どもと競い合わせることではなく、

<span class="b blue">自分自身の成長を喜べるように我が子を励ますことが必要なのです。</span>
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 07 Oct 2008 07:53:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>過保護、過干渉では耐える力は身につかない</title>
         <description><![CDATA[過保護とか過干渉とか、最近よく耳にしますが、いったいどういう意味かとたずねると、明確な答えは返ってこないことが多いようです。

甘やかしてるとか、かまいすぎていると感じることを表現しているのですが、では何が甘やかしで、何がかまいすぎなのかというと、みんなが暖味なところで納得しているように感じています。

やっとそろそろ離乳食が始まったくらいの赤ちゃんの側にいて、フーフー冷ましながらスプーンで食べさせてあげている光景はほのぼのとしていますね。

しかし小学生の子どもにスプーンで食事を食べさせているのを見たときはどうでしょう。
ちょっと違って何だかおかしいと感じるものです。

もう一人で食べられるのに過保護なんじゃないのと言いたくなります。


中学生の子どもに、<span class="b green">「忘れものはない？」</span>と声をかけるとき、

子どもは、<span class="b green">「なんて口うるさい親なんだ、過干渉なんだ」</span>と内心うんざりしているかもしれません。

なぜうるさいと感じるかというと、自分の持ち物は自分で管理できるし、たとえ忘れものをしたとしても自分で責任をとれると思っているからです。


<span class="b">こうしてみると過保護か過干渉かの判断は、子どもができることにまで口や手を出しているのか、できないから手伝っているのかということに関係ありそうだということがわかります。</span>


親が子どものできないことを支えてやるのは親として当然なことですが、できることに対して、できるはずがないと決めつけたり、

本当にできるのかしらと疑ったりして介入してしまうとちょっとした問題が起こってしまいます。

喉が渇いたと感じたとき、すぐに冷たいジュースがコップにそそがれて与えられる生活をしている子どもと、

自分で冷蔵庫を開けて麦茶を出して、自分でコップに注いで飲む生活をしている子どもがいるとしたなら、どちらが耐える力が育っているかというと言うまでもありません。

自分で喉の渇きをいやすために麦茶をさがすことがあたりまえになっているなら、少なくとも喉が渇いているときにジュースがないからといって、イライラしたりすることはありませんし、

お母さんがコップに入れてくれないからといって、泣きわめいたりストレスを感じる心配はないでしょう。
自分が考えたり、努力しなくても親が代わりにやってくれるのであれば、子どもは自分でやる方法が身につきませんし、一人でできるという自信も育ちません。

子どもは小さな欲求不満を何度も乗り越えた経験をすることによって、高いハードルを乗り越える準備が整っていくものなのです。

見渡せば、あれやこれやと子どもにまとわりついていたいという親の気持ちが、親がいなければ何もできないという期待通り（？）の子どもにしてしまうことがあります。


<h3>がまんさせる経験を積むことが心の健康の為に大切</h3>


人間は他の動物といろいろなところが違っています。

その一つは赤ちゃんに始まります。

仔馬や仔牛の赤ちゃんは生まれてまもなく立ち�Tがり、おぼつかないながら母親の後について歩くことさえできます。

よく見ると身体は小さくてもおとなの身体に近い体型をしていて、まるでお母さんやお父さんの縮小コピーみたいです。

馬や牛のような草食動物は、生まれてすぐに群れの他の仲間といっしょに行動できなければ、肉食動物に食べられてしまう危険があるからだともいわれています。


比べてみれば人間は立って歩くどころか、一人では何もできない状態で生まれてきます。
身体の割には頭が大きく、おとなの体型とはずいぶん違っています。

それは生まれたときに、まだ目もあかない未熟な状態で生まれる犬や猫などの動物の誕生と共通したものがあります。

しかし、たいがい一人で生まれてくる人間と比べると、ほとんどは数匹いっしょに生まれていますので、やはり少し違います。


ボルトマンという人は、人間は牛や馬の赤ちゃんよりちょっと早くお母さんのお腹から出てくると考えれば説明がつくということから、これを<span class="b">「生理的早産」</span>と呼びました。

牛や馬のように、生まれてすぐに歩けるくらいまで母胎の中で成長していれば、ずいぶん育てやすいことでしょう。

無防備ですべてを与えねばならない時期を、守られた母親の中で過ごすにこしたことはありません。

お母さんたちに、<span class="b green">「一歳になるまでお腹で育てればよかったのにね」</span>と言ったら、たいていは、

<span class="b green">「とんでもない、大きくなりすぎてたいへん！」</span>と答えることでしょう。

生理的早産のわけはそこにあります。

大脳が発達した人間は頭が大きくなりました。

一〇ヵ月以上お腹の中にいたならば、頭が大きくなりすぎて出産が難しくなります。

こうしたわけで人間は一人ではなにもできない存在として未熟な状態のまま生まれてくることになったのです。

本来はお腹の中で過ごすはずだった時期を外で過ごすことで、とても早いうちにさまざまな刺激を受けることになりました。

このことがますます人間を他の動物とは違うものにしていきました。


かつて、生まれて早い時期にオオカミにさらわれて育てられた子どもが見つかったことがありました。

話しかけられたり、周囲のまねをしながら人間らしさを身につけていく時期にオオカミに育てられたのです。

推定年齢が一歳半と八歳で発見されたのですが、ことばは言　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　まえずオオカミのような恥える声を出していました。

生肉しか食べず、二本足で歩かず、服を着ることを嫌がりました。

八歳の子どもはその後九年間生きていましたが、周囲の努力にもかかわらずその発達は三歳レベルまでしか伸びなかったことが報告されています。


オオカミとの生活は、幼い子どもが人間として生きていくにはかなりの障壁を与えてしまったわけですが、ここまで人間社会から隔絶されたならばともかく、一般には人間は幼い頃の学習や記憶が、将来のすべてを決定してしまうほど単純ではありません。

新たな情報を集めることも、それによって行動を変えることも、みずからの意志と気力によって補うことができます。

発達は身体が大きくなる狭い時期を意味するのではなく、生涯にわたっての心身の変化を意味し、人間は変わり続けるものだからです。


生まれてからの早い時期に周囲から与え続けられたメッセージは、心に深く根付いてしまうこともあり、それを修復するためにはそれまで生きてきたエネルギーの何倍も必要になることがあります。

<span class="b">「三つ子の魂、一〇〇までも」</span>とのことわざは、できれば幼いうちから身につけさせるほうがいい、苦労せず心が幸せになれるという先人の戒めではないかと思っています。

一人では移動すらできないその時期に、お母さんやお父さんは育てるためにさまざまな働きかけをします。

子どもはそれに反応し、さまざまなやり取りが繰り返されていきますが、早く生まれた時期が人間らしく成長する基礎となるからです。

幼さにほどほどの耐える経験は、子どもにとって苦痛というよりは挑戦できる経験でもあります。

こうして、耐える力を早い時期から育てていくと、子どもは楽しんで耐えることを身につけていきます。

子どもができるがまんを見つけて、ちょっとはがまんしてみる経験を大切にしていきたいものです。

きっと心の体力がついて、生涯にわたって心が健康になることでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 07 Oct 2008 06:28:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>生活のリズムが乱れると、非行に走る子供が多い</title>
         <description><![CDATA[<span class="underline">子どもの生活リズムの崩れが、子どものからだに異変を起こしている</span>とすれば、

とかくタガのゆるみがちな夏休みの生活は、子どものからだにどのような影響を与えているでしょうか。

夏休みあげの九月、授業中に頭痛や腹痛を訴えて保健室へ行きたがる生徒が目立ちました。


中学二年生の哲夫（仮名）も、そのひとりです。

哲夫は授業中ぼんやりしていることが多く、以前に比べて無気力な感じが目につきます。
<span class="b green">「勉強がいやで保健室に行きたがるんじゃないか」</span>という先生もいますが、母親の話によると、二学期が始まってから毎日のように下痢をしているといいます。

医者の診断では、とくにからだの異状は認められず、心理的なもので、なにか学校生活のうえで悩みごとがあるのではないかといわれたそうです。

母親も、そういえば学校が休みの日は下痢をしないといいます。

担任の先生がいろいろ哲夫にたずねてみましたが、これといって思い当たるものがありません。

<span class="b green">「学校はきらいか」</span>と聞くと、<span class="b green">「好きだ」</span>と答えます。

そこで先生は、哲夫の夏休みの生活に原因がありはしないかと考え、哲夫の夏休みの生活記録を調べてみました。


起きているあいだは、テレビをみるのが最も多く、平均すると一日六時間二十六分。

最高はなんと九時間半にもなっています。

しかも、ほとんど夜中の二時、二時におよんでいます。

哲夫の生活は、極端な遅寝・遅起き型の生活だったのです。


ちなみに勉強時間は、一日平均わずか三十三分です。

九月半ばの身体測定では、四月上旬に比べて、身長は六センチも伸びていましたが、体重はほとんど変わっていません。

このような身体発達のインバランスも、からだの変調をきたす原因になります。

そのうえ、急激な成長期にある子どもが、夏だというのにあまり日にも当たらず、クーラーのきいた室内でテレビを見て過ごすような不健康な生活が続けば、

からだの変調をきたさないほうが不思議です。


<h3>夏休みの生活の乱れから非行型生活へ</h3>


しかも哲夫は、夏休みの惰性で、二学期が始まっても夜ふかしの習慣がなかなかなおりません。

ですから、朝ご飯を食べる時間があれば寝ていたいというほうで、お母さんも毎朝けんかごしで起こすのだといっています。

どうやら哲夫の場合は、心のほうではなく、からだそのものが学校生活を中心とする生活のリズムに適応できていないようです。

しいて病名をつけるとすれば、<span class="b">「夏休み後遺症」</span>といったところでしょうか。

それでなくとも九月は、夏の疲れの出るときで、学校でも保健室の利用者が最も多い月なのです。

それも、すり傷や打撲、切り傷といった外科的なものより、腹痛、頭痛、吐き気、貧血といった内科的なものが多くなっています。


そして、このようなからだに現れた「夏休み後遺症」から、無気力な生活が習慣化し、

やがて遅刻常習、授業エスケープ、無断欠席、夜遊びといった<span class="b">非行型生活</span>におちいっていく例が少なくありません。

哲夫の場合も、その心配は多分にあると担任の先生はいいます。


<span class="b">万引、家出などの非行で警察に補導される子どもの数が増えるのも、九、十月だといわれます。</span>

これは、心の面に現れた「夏休み後遺症」といっていいでしょう。


ところで、あなたのお子さんの場合、毎朝気持ちよく起きていますか。

朝、そう快な気分で起きられるような生活が、人間の生活の基本です。

そのためには、親の協力も必要です。

家族みんなのテレビの見方をふくめ、就寝時間を早めるための努力をしてほしいと思います。


子どもの体力の低下や、「朝礼でバタリ」「朝からボンヤリ」といったからだの問題については、運動不足もその原因としてあげられています。


哲夫の場合も、明らかに<span class="b red">運動不足</span>です。

先にみたように夏休みの生活の大半は、家の中でテレビを見ていたのですから、日焼けをしない不健康な生活が、二学期の学校生活が始まって体調を崩す原因にもなっているのです。

二学期が始まり、久しぶりに顔を合わせた子どもたちのなかに、哲夫のように日焼けしない顔が、最近目につくようになりました。

あなたのお子さんはどうでしょうか。

草木も中学生の心とからだ旺盛に生長する季節です。

人間の子どももまた、真夏の太陽をからだいっぱいに浴びてこそ、健康でたくましく育つのです。

ところで、夏休みに日焼けしないような子どもをみると、ふだんから戸外の遊びや運動から遠ざかった生活をしている場合が多いのです。

ここにより大きな問題があります。


哲夫の場合、とりたてて運動がきらいだということではありません。

中学に入学して、あこがれの野球部に入りましたが、きつい練習についていけず、足が痛い、からだの調子が悪いといってはすぐ休みます。

特別不器用なほうではありませんから、普通にやってさえいれば選手にもなれたでしょうが、休みが多いために技術的にも遅れをとり、仲間との間もしっくりいかなくなって、二学期の半ばで退部してしまいました。

二年生になって卓球部に入りましたが、まじめに練習に参加したのほほんの三週間ほどです。

あとは名ばかりの部員で、夏休みに入る少しまえにやめてしまいました。

からだの各器官が急速に発達する青年期は、運動にたいする欲求がたいへん強く、中学生の場合も、スポーツへの欲求の強さは、このようなからだの発達からきています。


シラケ世代とか、青年の老化現象などといわれますが、

<span class="b">本質的にはどの子どもも、運動をしたいという欲求を強く持っています。</span>



ところが、最近は戸外で活発に遊ぶ子どもが減ると同時に、中学・高校でも運動ざらいが目立ってきています。

哲夫のように途中で、投げ出すような例ばかりでなく、はじめから運動そのものに興味を示さない子どもも少なくありません。

人間の基本的欲求のひとつである運動欲求さえ衰えてきているのだとすれば、これはたいへんゆゆしき問題です。


子どもの運動の欲求を正しく受け入れる環境がないことも、今日の子どもの運動ざらいの一つの原因ですが、子どもの育ち方のなかにも問題があります。


<h3>幼児時代の戸外遊びの不足から運動ざらいの子に</h3>


運動はきらいではないが、長続きせず途中で投げ出してしまい、結果として運動から遠ざかる子どもの場合、よく「根性がない」といわれます。

たしかに、がまん強さやねばり強さに欠ける子どもが多くなったのも事実ですが、運動ばなれはそういう精神的弱さばかりでなく、<span class="b red">からだそのものがしっかり育っていない</span>ところにも原因があるようです。

幼稚園から小学校低学年にかけては、運動能力、とりわけ神経機能がよく発達する時期だといわれますが、

すでにこの時期にリズム体操や遊戯に興味を示さない子どもがあんがい多いのです。

<span class="b">幼稚園に入るまえの幼児期に、あまり外で遊び回る経験を持たなかった子が、そういう子になりがちだといわれます。</span>

哲夫の場合も、からだが弱いということで、ほとんど家の中で遊ぶような幼児期を過ごしました。

幼児期に子ども同士が夢中になって外で遊ぶことによって自然につくられるからだや神経のはたらきが、幼稚園に入ってからのリズム体操や遊戯の基礎になるのです。


哲夫のように家の中にばかりいて、運動の基礎が十分できていない子は、なにをやってもうまくできないということで気後れして、しだいに運動ざらいになっていくのです。

<span class="b green">「欲求というものも、また一つの能力である」</span>

といった人がいますが、からだを使って遊ぶ経験の不足から、運動欲求能力が育っていない子どもや青年が多くなっているとしたら、これは一刻も放置できない問題です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 07 Oct 2008 05:56:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>思春期の体のリズム</title>
         <description><![CDATA[

<h3>朝からアクビをする生徒がふえた</h3>


中学生時代はからだづくりの時代だと述べましたが、最近の中学生のからだはどうなっているでしょうか。

最近の子どもは体格はよくなったが、体力はそれにともなって伸びていないと一般にいわれています。

たしかに、文部省がおこなった『体力・運動能力調査』（一九八九）によると、青少年の体力は、一九七二年前後を境に停滞または低下の傾向を示し、とくに背筋力や柔軟性の低下が目立っています。

いすにきちんと座っていられない、なにかというとすぐ「疲れた」「かったるい」を連発する、「立ちくらみ」を起こす子どもが多くなったなど、子どものからだの異変もよく耳にします。

その端的な例としては、朝礼で倒れる生徒が多くなったことがあげられます。

この朝礼時の「立ちくらみ」は、とくに中学校で目立っているようです。


また、朝からアクビをする生徒も多くなりました。

この「朝ボケ」や「朝礼でバタリ」の原因を、夜ふかしと、朝起きてから学校へ行くまでの活動量が不足しているため、と指摘する専門家もいます。


成長期の子どもにとって十分な睡眠時間は個人差はありますが、ふつう八時間は必要だといわれています。

しかし問題は睡眠時間の不足だけではありません。

深夜放送や受験勉強で大脳興奮が高くなれば眠りが浅くなり、朝起きても食欲がなく、疲労が蓄積されるのは当然です。


わたしたち人間は、からだで使うエネルギーの大半を朝食にたよっているといいますから、朝食を抜くと「朝礼でバタリ」になるのです。

朝起きてから心身がはっきり目覚めるには、二時間は必要だといわれます。

それがなかなかむずかしいことだとしても、余裕をもって朝食をとるぐらいの時間はほしいと思います。

夜、家族につき合って、テレビを見たあとで勉強というような生活だとしたら、親としても考えてみなければなりません。


このように、今日の子どものからだの異変が、遅寝、遅起き、朝食抜きなどといった、生活リズムの崩れからくることが多いとすれば、

親を中心とした家庭生活の見直しを迫られる問題です。


ところで、子どものからだの異変と今日の子どもの非行との間に、なんらかの相関関係があるように思います。

暴力事件を起こしたり、授業妨害を繰り返すような非行グループの多くが、よく体育の授業の見学組となったり、<span class="b green">「気分が悪い」「かったるい」</span>といっては保健室にひんばんに通う傾向が、最近目立っています。

こうした子どもたちは、一昔前までは、数学や英語の授業では居眠りをしたり、騒いで妨害するようなことはあっても、

体育の授業は喜んで参加しましたし、運動会などの体育行事では主役となっていたのです。


精神的に怠惰になったからだ、という指摘もされていますが、

それよりも<span class="b red">精神の土台であるからだがむしばまれていることに多くの原因があるように思います。</span>


子どもが中学生になってしまったからといっても、まだ遅くはありません。

家庭の生活が本当に子どもの発達を保障するものになっているかどうか、からだづくりの面からも問い直してほしいと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Oct 2008 15:58:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>真のエリートの条件</title>
         <description><![CDATA[子どもの勉強を見ていると、なかには本当に頭がいいなと思わせる子どもがいます。

残念ながら能力は皆同じというようにはできていません。

頭のいい子もいるし、それほどでもない子もいます。

親から見ると、とんでもなくできの悪い子もいるかも知れません。


弘（仮名）君は小学六年生です。

私立中学を受験させようということでお母さんが相談にきました。

能力的には問題なく合格の可能性が高い子でした。

お母さんと話をしているときに昔恩師から聞いた言葉を思い出しました。

<span class="b">「エリート」</span>という言葉です。

<span class="b green">「他の者のためにその優秀な能力を使うことのできる人がエリートと呼ばれるのだ」</span>と。

能力のある者が自分の私利私欲のためにその力を使うのは、決してエリートではないのです。


<span class="strong">エリート</span>は自己犠牲を求められる大変な人でもあるのです。

我が子が幸い高い知的能力を与えられていたならば、親は一層責任が重くなるのかも知れません。

真のエリートにするために、我が子がその能力を他人のために使うように教えなければいけないからです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Oct 2008 12:21:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「がんばれ」ではがんばれない子がいる</title>
         <description><![CDATA[最近は<span class="b">心理的ストレスが人間の身体にさまざまな影響を与える</span>ということが衆知の事実となってきています。

身体と心を分けて病気を考えるのではなく、それぞれ大いに関係し合っているということは多くの研究が証明しています。

そうした目で子どもを見ると、子どもはもっと身体と心が分かれていないことに気づきます。

おとなは心配なことがあって胸のあたりがもやもやしていれば、心理的原因があってなんとなく重苦しい気分を味わっているのだと見当をつけることができます。

とても後悔することがあって、胸がちくちくするような痛みが続いても、失恋のときのきゅんとしたしめつけられるような感じがするときも、多くは病院に駆け込むことはなく、気持ちとのかかわりについて納得していることが多いものです。


<span class="b">ところが子どもの場合は、心のありようによって変わる身体の感じは、そのまま身体の痛みとして表すのです。</span>


さまざまな医学的検査をして、彼らの痛みの重大な問題が見つからなかったときは「心が痛い」と訴えているときなのだと理解しておく必要があります。

このようなとき、子どもたちを励まそうと、<span class="b green">「がんばれ」</span>ということばを聞くことがあります。

「がんばれ」ということばは、「おはよう」のあいさつと同じくらい気軽にみんなの口から出てきます。


でも「がんばれ」ではがんばれない子どももいるのです。


このようなとき、

<span class="b green">「検査してみたけれど、どこも悪くないよ。だからがんばりなさい」</span>

と病院で言われ、その報告を聞いた学校の先生が、

<span class="b green">「たるんでいるだけだ。しっかりしろ」「がんばりなさい」</span>

などということは本当によくある話なのです。

これは病院でボディーブローを入れられて、学校でだめ押しのアッパーカットがきまるようなものです。

そしてとうとうダウンしてしまった子どもたちにときどき出会うのです。

そうした子どもの多くは、心の中でがんばってきたけど駄目だったんだ、これ以上しっかりなんてできないと叫んでいることが多いのです。


病院で起立性調節障害と診断された中学二年生のＬ子さんは、授業中に気分が悪くなって、保健室で休むことが多いのです。

起立性調節障害とは児童期から思春期の子どもたちにときどき見られる病気です。

朝なかなか起きれなかったり、めまいを起こしたり、動惇息切れがして疲れやすいなどの症状があり、学校生活に支障をきたすこともあります。


しかしこれらの症状はたいてい成長とともに消えていくと言われています。

Ｌ子さんは主治医の先生からきついときは無理をしないで休むように言われているのですが、身体も大柄で健康そうに見えるためか、担任から、

<span class="b green">「病院で休むように言われても起立性調節障害という病気はやる気があれば克服できるのだから、休まないように」</span>

と言われてしまいました。

ずる休みだと思われていると感じたＬ子さんは、そのことがつらくて心因性の発熱を繰り返すようになってしまったのです。

今、苦しいと感じている子どもに、苦しくないはずだといったところでますます彼らの自信を喪失させるだけです。

何も解決しない空回りは鈍感な人間の根性論です。

誠実に子どもの気持ちを理解しょうとしたら、はげましをもとめているのか、今のつらさを受け止めてほしいと思っているかぐらいは判断がつくはずなのです。


医学的検査に特に重大な問題が見つからなかったという報告を受けたなら、

<span class="b green">「よかったね。悪い病気じゃなかったんだね。痛くてもできることがあるか、いっしょに考えてみよう」</span>

と彼らの身体の苦しさをちゃんと受け止めるゆとりと、彼らの力になりたいおとなとしてそばにいることを伝える努力をしてほしいものです。


朝、学校へ登校するまえに、「今日もがんばってね」と声をかけるお母さんにＬ子さんは、「お母さん、『がんばって』とは言わないで」と頼みました。

<span class="b green">「ただ、『いってらっしゃい』でいい。これ以上がんばるのはちょっとつらいから」</span>

すべてを察したお母さんは、「いってらっしゃい」と送りだしたのでした。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Oct 2008 02:31:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の目の高さで接する</title>
         <description><![CDATA[子どもがストレスによるさまざまな症状に苦しんでいるとき、

<span class="b">おとなの目の高さではなく、子どもの目の高さで周囲を見てみることも大切です。</span>


アキコちゃんは最近微熱が続いています。

小学四年生になってからのことです。

学校では明るく振舞っているようですが、家では大好きな漫画を描くこともしなくなり、元気がなくなってしまいました。

小児科を受診したところ、いろいろな検査の結果からストレスが原因かもしれないと言われたのです。

心理療法を受けるように勧められてお母さんといっしょにやってきました。

子どもの心理療法は、自分のことをことばを通して十分に語れず、問題点を明らかにすることが難しいために、一般に遊戯療法や箱庭療法といったことばを媒介にしない方法が多いのです。

また家族、とくにお母さんやお父さんから話を聞いたり、はたらきかけたりします。


アキコちゃんも家族のこと、学校のことを話してくれましたが、熱がでるほどのことについてはよくわからないと言います。

次にお母さんの話を聞きました。

<span class="b green">「アキコが心の病気になるなんて……。そんな弱い子に育てたつもりはないのですが」</span>

お母さんはストレスによって身体に症状が出たことを受け入れられずとり乱していました。

お母さんの動揺を受け入れ、そして心身症になったからといってそれが弱い子を意味するものではないことを時間をかけて話しました。

そして少し安心したのか、

<span class="b green">「アキコは小さい頃からがまんをする子だったんです。何かをまたがまんしているのかもしれませんね」</span>

と冷静に今の状況を考えることができるようになりました。

発熱を繰り返すようになってからのアキコちゃんの様子について、担任の先生とも話し合うことを勧めました。

お母さんはさっそく学校を訪ねました。

その結果、最近アキコちゃんの隣の席の男の子が、アキコちゃんの教科書をかくしたり、つっついたりなどいろいろといたずらをしているらしいということがわかったのです。

お母さんは事情を担任の先生に説明しました。

担任の先生はさりげなく席替えをするなどの配慮をしてくれました。

それからアキコちゃんは少しずつ明るさを取り戻し、半年後にはほとんど発熱することもなくなりました。

お母さんは、<span class="b green">「自分の気持ちを言えずにつらかったでしょうね」</span>とアキコちゃんの気持ちに共感できるまでになりました。


このように、困った状況を解決したり、ときには環境をかえたりすることで、いろいろな問題があっさりかたづくことがあります。

子どもの場合、自分で問題をはっきりさせて周囲にはたらきかけたりすることができないことのほうが多いわけですから、可能な環境調整は配慮してあげたいものです。

<span class="b">そのためにも子どもの目の高さで子どもの周囲を見直してみることも必要です。</span>


そうは言っても、世の中ままならぬことが多いのは子どもの世界も同じこと、やはりある程度耐える力を身につけておくことも必要になってきます。

子どもの気持ちに共感できるようになると、子どもにとっていま何が必要なのかに気づきやすくなります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Oct 2008 00:59:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>園ができること</title>
         <description><![CDATA[家庭の養育機能の低下、核家族世帯の増加、地域社会の人間関係の希薄化などが進み、乳幼児を抱える家族に対する支援の必要性が高くなってきています。

<span class="b">家庭の養育機能低下では、自分の子どもをもって初めて乳幼児に接する母親が増加したことが主な要因と考えられています。</span>

きょうだいが多かった時代には、母親が弟妹の世話をする様子を日々見ていて、兄姉も見よう見まねで弟妹の世話をし、弟妹は甥姪の世話をし、いつの間にか乳幼児との接し方を学んでいました。

そういう経験がないまま親になると、日常の子育てのささいなことで戸惑うことが少なくありません。


加えて、父親の育児参加が極めて少なく、子育ては母親任せという家庭が多く、母親自身が子育てに不慣れなうえに、パートナーの協力を得るのが難しいことから、乳幼児を育てる母親の心身のストレスは非常に大きいようです。

さらに、核家族世帯の増加により、祖父母からの育児の知識・技術の伝承が少なくなり、日常の子育てに対する援助も少なくなりました。

また、地域社会のつながりが希薄になり、乳幼児をもつ家庭がそれぞれ孤立していて近隣の人々の援助を得にくくなりました。


このような中での乳幼児の子育ては、母親の就労の有無にかかわらず、緊張感、負担感、不安などが伴いますから、<span class="b">子育て家庭に対する支援</span>が必要です。


そこで、乳幼児を持つ家族を支援するため、特に子どもの育ちと母親の子育てを支援するため、さまざまな施策がなされるようになりました。

子育ち親育ちを目的とした支援専用施設も自治体やＮＰＯ法人によって設置されるようになりました。

それだけではなく、保育所や幼稚園も子育て支援に取り組むようになったのです。

保育所や幼稚園の職員は、保育のプロであり、乳幼児の発達や遊びについて高い専門性をもつ人々の集団です。

保育所には、保育士だけでなく栄養士、看護師、保健師など多様な職種の人材もそろっています。

また、乳幼児の発達に適した玩具や絵本などを数多く備え、施設設備も乳幼児向けに整えられていますので、乳幼児をもつ親子が、すぐにでも利用できる場です。

さらに、保育所・幼稚園は全国津々浦々に多数所在していますから、乳幼児とその親の住まいから近く利用しやすくなっています。

このように、保育所や幼稚園は、乳幼児をもつ家族の支援には人的、物的にたいへん適しています。

乳幼児を抱えて、孤立し、途方に暮れている家族に扉を開きましょう。


園ができる支援には、大きく分けて2種類あります。

一つは、専任のスタッフや部屋を準備せずに、通常保育の傍ら、できる範囲で、末就園児とその保護者に対して、園庭や保育室の開放、園行事への誘い、体験保育や育児相談などを行うものです。

もう一つは、保育所併設型の地域子育て支援事業（園の中のひろば）です。


園庭開放では、園庭は公園より清潔で安心して子どもを遊ばせられると保護者には好評です。

砂場には犬猫の糞尿がなく、園児と乳幼児を連れた保護者だけの利用で囲いもありますから、安心して遊ばせることができます。

遊具や玩具も発達段階に適していて、家庭にないものも多く、子どもには魅力的です。

近所に乳幼児が少ない地域では、保育所や幼稚園に行けば園児や利用者の子どもがいますので、一緒に遊ぶことができます。


園庭が狭く、園児が利用する時間の園庭開放は難しいという園では、午前中の開放は週1〜2回で時間も限定し、その代わり昼寝の時間帯に園庭のみほぼ毎日開放しているという園もあります。

親子で園に遊びに来てもらうことで、家にこもりがちな子育てに道が開け、子どもにも親にも楽しみができます。

子どもを遊ばせながら、ふだん感じているちょっとした不安などを同じ立場の人と話したり、保育者に相談したりすることもできます。

ですから、園の存在と園が行っている支援について、地域の乳幼児を抱える家族に知ってもらうことが支援につながります。


園児を地域の公園や遊歩道などに散歩に連れて行く時、保育者はエプロンのポケットに案内のチラシを入れ、小さな子どもを連れた母親や祖父母にチラシを渡して、

<span class="b green">「園に遊びに来てくださいね」</span>

とか

<span class="b green">「今度の○○にお餅つき大会をしますので、来てくださいね」</span>

など、言葉をかけていますという保育者もたくさんいます。

一人ひとりの保育者の意識が変わることで、園と地域とがよい関係になります。

園が所在する地域にも目を向け、園児以外の乳幼児やその家族にも関心をもち、気さくに声をかけ合える関係が生まれることが、子育て支援の土壌となります。


また、<span class="b">在園児と保護者に対する支援</span>も重要です。

日常の保育の充実と送迎時の保護者とのコミュニケーションが子育て支援の基本ですが、保護者の緊張や疲れを和らげ、保護者が相談しやすい雰囲気づくり、保護者同士の横のつながりづくりなど、意図的で継続的な支援も必要でしょう。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 05 Oct 2008 18:00:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもをしつけるには、叱らず、引き下がらず</title>
         <description><![CDATA[親は子どもをしつけることをときどき諦めても、子どもは親をしつけることは絶対諦めません。

気がついてみると子どもにしつけられていたということはよくあることです。

お菓子売り場の床でジタバタと泣きわめき、親を脅迫し続けている子は何度かお母さんに粘り勝ちした経験の持ち主なのです。


学習心理学に、ねずみを使った部分強化の実験があります。

お腹のすいた三匹のねずみをそれぞれ三つの箱に入れます。

箱にはレバーがついていて、それぞれはレバーに触っても「何も出ない」箱と、

レバーに触ると餌がぽろりと転がり出てくる「押すと出る」箱、

レバーに何回か触ってやっと餌が出てくる「たまに出る」箱になっているのです。


狭い箱に閉じ込められたねずみたちは、やがて尻尾の先か足の先かが偶然にもレバーを動かしてしまいます。

そうしているうちに餌が「押すと出る」と「たまに出る」箱に入っているねずみたちはレバーを動かして餌にせっせとありつくことをしっかり覚えるのです。

レバーと餌の関係に夢中になった頃、餌を止めてしまいます。

そうするとどうなるでしょう。

もちろんレバーを足でいくら押しても「何も出ない」箱に入ったねずみはなにもかわりません。

ところがいちど味をしめたねずみたちはそうはいきません。

<span class="b">何度もレバーを真剣に押し続けるのでした。</span>

そうした二匹を観察すると意外にも「押すと出る」を経験したねずみはもう出なくなったんだと割に早く諦めるのです。

ところが押すと「たまに出る」を知ってしまったねずみは出ないときを経験済みですから、きっとまた出てくるに違いないと、めったなことでは諦めずにレバーにしがみつくのでした。


外から眺めている人間は<span class="b green">「ハハハ…」</span>と笑ってみているわけですが、ふと気がつけばわが身に思い当たることが多くてその笑いは凍りついてしまいます。

これは<span class="b green">「今日こそは出るかもしれない」</span>と餌ならぬパチンコ玉へのこだわりそのものだからです。

ついつい通いつめてしまうその気持ちは今のねずみの気持ちと同じものなのです。

およそギャンブルといわれるものの醍醐味は、<span class="b">たまにしか得られない餌ならぬお金のその不確実性</span>にあるといえるでしょぅ。

今日は駄目でもあすは夢がかなうかもしれないと思わせてくれる、それが<span class="b">継続への情熱</span>となっているのです。


ギャンブルはおとなのもののようで、実は子どもたちにとっても魅力的らしく、けっこうはまっている子どももたくさんいます。

<span class="b green">「この子は私の言うことをきかなくて……本当に困っているんです」</span>

という悩みは多いものですが、この「言うことをきかない」の中にはいろいろあるにしても、子どもがひょっとしてギャンブルにはまり込んでいるかもしれないと言ったら、驚くかもしれません。

ギャンブルというのは、いちかばちか、伸るか反るかといったところで、うまくいくかいかないのかそのスリルをあじわいながらやってみるというものです。

しかもまともな人間がすることではないといった思い込みもありますから、まさかうちの子がと驚くかもしれません。


でもやっている側からすればうまくいったら大儲け、だめなら次で取りかえすという醍醐味がおもしろくてやめられないもののようです。

一応は「だめ」と言ってみるお父さんやお母さんがいます。


<span class="b green">「今日はテレビを一〇時までみていい？」</span>

とたずねられると、

<span class="b green">「だめ、遅くまでテレビ見ていると朝起きれないでしょう」</span>

といいます。

それでも、

<span class="b green">「お母さん、お願い、いいでしょう」</span>

としつこく迫られると、

<span class="b green">「しょうがないわねえ、今日だけよ」</span>

ということになります。

子どもの立場からするとどうせ駄目かもしれないと思いながらも、許されることもあるというギャンブル性の高い経験をすると、やがて深みにはまっていきます。

テレビに執着する子どもというよりも、子どもにねだられると結局根負けしてしまう親の姿がそこにあります。


私たちは<span class="b">「叱らないで、だけど引き下がらないで」</span>ということがとても大切だと思っているのは、心理学を通して先ほどのねずみたち実験結果があるからです。

子どもがぐずぐずとねだるのは、お母さんの叱り方の迫力が足りないためではなく、ひょっとしたら今日は許してくれるかもしれないと期待を抱かせる、これまでのいきさつにあるということを知っているのです。

お母さんがやさしくにっこりと「だめよ」と言っても、お母さんの「だめ」はいくら頼んでもいつも駄目なら、子どもはレバーを押しても餌の出ない箱に入っていたねずみのようにレバーにこだわったりはしないのです。

<span class="b green">「しょうがないわねえ、今度だけよ」</span>

とたまに大穴を当ててしまうと、なかなか足を洗えない世界にのめりこんでいってしまうのです。


そんなレバーにしがみつく子どもはとても増えてきているこの頃です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 05 Oct 2008 15:11:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>結果ではなく努力を励ます</title>
         <description><![CDATA[人間にとって最も大切な能力は何でしょうか。

その答えは人によって様々かも知れません。

アメリカの精神科医であるドライカースは<span class="b">「自分が不完全であることを認める勇気」</span>を高く評価しています。


ある小学六年生の子どもの話です。

算数の試験の時間です。

彼は五題の問題のうち四題はすぐに解けました。

ところが最後の一題に引っかかったのです。

あせればあせるほどわからなくなります。

先生が残り五分だと言いました。

すると彼はいままで書いていた答えをすべて消してしまいました。

先生が言いました。

<span class="b green">「あのまま出せば80点は取れたよ。白紙で出せば0点になるよ」。</span>

彼は言いました。

<span class="b green">「僕は0点ではありません。答えを書かなかっただけです」。</span>

一題答えられなかったということが我慢できなかったのでしょう。

彼にとっては全部できなければ0点と同じという考えがあったのでしょう。

<span class="b green">「自分に不完全な部分があってもいいのだ」</span>ということを、彼は受け入れることができなかったのです。


<span class="b">子どもが挫折する場合の多くは、オールオアナッシング（全てか無か）の考えに取りつかれたときです。</span>

<span class="b blue">結果ではなく努力を励ましてください。</span>

そうすれば完全でない自分を認める勇気を持った子どもになるでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 05 Oct 2008 14:03:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>不登校によって不利益を受けない配慮をする</title>
         <description><![CDATA[子どもが不登校になったとき、お父さんやお母さんがもっとも不安を訴えることは、学校を休んでいると進級や卒業ができないのではないかということです。


タロウ君も小学四年生の三学期から休みはじめました。

五年生になってもなかなか登校できずにいた頃に

<span class="b green">「このままだと六年生になれないし、卒業もできない。除籍する」</span>

と言われたことがあります。

お父さんやお母さんはタロウ君が学校へ行けなくなったとき、身体的病気がないと診断されて、心理的理由によって登校できないという現実を受け入れられずにずいぶん苦しんだのです。

タロウ君を叱ったり、無視したり、

<span class="b green">「お願いだから学校に行ってちょうだい」</span>

と頼み込んだりすることもありました。

やっとタロウ君のつらい気持ちがわかりかけ、タロウ君にとって家が安心できる場所となったとき学校から「除籍する」といってきたのです。

お父さんやお母さんは再び混乱し、動揺してしまいました。

ゆっくり待つ時間がないと言われたのと同じだったからです。


困ったことにこうしたトラブルの多くは、子どもに対して、

<span class="b green">「たいへんだ、このままさぼっていたら学校を卒業できなくなってしまう」</span>

とあわてて学校へ登校し始めることを期待し、脅しの意味もこめて宣告されていることから生まれているのです。

その結果、親は無理に登校させようとして、親子の関係までが修復できないほど破綻してしまうこともあります。

こうした焦りはお母さんやお父さんの心のバランスを崩し不安に陥れてしまいます。

子ども以上にお父さんやお母さんが揺れてしまうことはよく経験することです。

これまでもこうしたはたらきかけの結果として登校するようになった例は経験していません。

いわゆる家でファミコンやっていたいから休むとか、怠けていたいから学校へ行かないことと根本的に違うことを知ったなら、安直な方法に頼るのはやめたほうがいいのです。


最近は小学校、中学校の義務教育では子どもが将来、卒業していないことからこうむる不利益から守ってやらなければならないという考えが主流になってきています。

中学を卒業していなかったばかりに、おとなになって勉強したくなったのに、高校や専門学校への道を閉ざされることになってしまうなら、それは再起としての一つの選択を奪い取ってしまうことになりかねないからです。

義務教育の間は学校長の裁量で進級や卒業をさせる配慮がなされるようになってきています。

私たちも小学校や中学校で本人がもう一度同じ学年をやりたいと希望した以外は、これまで不登校により進級や卒業できなかった例は経験していません。


もちろん高校や大学ではちょっと事情が違ってきます。

義務教育を終えた以上、自分が勉強するという意志をもって入学するところだからです。

高校に入学したもののやっぱり登校できなくなることもあります。

励ましてもそれが問題の解決にならないのなら、もうちょっと後ろにさがって眺めてみるのも悪くはありません。

一五の春に中学を卒業したからといって、一人の春に高校を卒業することにこだわらなければ、もっと自分らしい生き方をゆっくり考えることができるのになあとしみじみと思うことがあります。

現に一八の春にこだわらずに自分の夢を実現している子どももたくさんいるからです。


もし勉強は学校に行っている間だけと狭い了見に縛られるなら、やっぱり「人並」にこだわらざるをえないかもしれませんが、それでは人生ちょっと寂しいものです。

現に長いこと学校に行っていなかったけれど、とても勉強したくなったからと勉強を始め、大学へ進学した子どももいますし、

二〇以上の仕事を転々としながら、自分にあった仕事を見つけることができて、生き生き働いている姿に接することもあります。

漫然と「人並」に進学しても、いつも生き生きした心が気持ちいい生活がおくれるものかと考えると、今の自分に正直な生き方の応援も悪くないなと感じるときがあります。


子どもの発達する環境を保障すること、それは不登校によってこうむるダメージをできるだけ少なくしてあげることであり、

進級ができなければますます学校に登校するチャンスを失うであろうということをふまえて、将来の可能性を保障してあげることが今できる最良のことである場合もあるのです。-----
EXTENDED BODY:]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 05 Oct 2008 03:22:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>思春期と児童期の特徴</title>
         <description><![CDATA[いままで九歳から十歳の頃は、もっとも精神状態が安定している時代と言われてきました。

いわゆる児童期の後半です。

この時代の子ども達は、遊びに夢中になり、自分の能力を一生懸命証明しようと、駆け足に、山登りに、プラモデル作りに夢中になっていました。


そしてそれを作れると興奮して喜びを身体全体で発散していました。

もちろんこの時代の子どもに悩みがないわけではありません。

傷つき悲しい思いをすることもあります。


<span class="b">しかしこの年代の子ども達は「いま」に生きている子ども達なのです。</span>

彼らはそんなに時間的見通しを長く持っているというわけにはいきません。

悩んでも何日かたつとケロッと忘れています。

<span class="b green">「お母さんなんか一生許さないから」</span>

などと母親に抗議している子どもが、次の日ケロッと母親に甘えてきます。

<span class="b green">「一生恨む」</span>などと言った言葉はすぐに忘れてしまいます。


しかしこれが思春期の子ども達になってくると、そうはいきません。

<span class="b red">下手をすると一生忘れることなく親への批判や抗議を続けることもあります。</span>


児童期の子ども達の心の世界は「いま」にあります。

過去でも未来でもなく「いま現在」を生きているのです。

しかし思春期になると、子ども達は過去や未来に想いを馳せることができるようになるのです。

時間軸が拡大します。

<span class="b">同じ失敗でも、いまだけの失敗ではなく一生続く失敗と考えたりします。</span>


<h3>部分的自分から全体としての自分へ</h3>


児童期の子どもも、もちろん自分というものを意識します。

しかしそこで子ども達が考える自分とは、勉強ができる自分とか、運動の上手な自分とか、給のうまい自分とか、ある部分の能力に基づいて自分を評価しています。

自分の能力のありようが自分でもあるのです。

「運動がうまいのは」が主語になります。

その能力のあるなしが彼らや彼女達の誇りにもなり劣等感にもなるのです。

<span class="b">彼らの悩みは何々できない自分の能力にあります。</span>

決して自分の存在のあり方そのものに懐疑するということではありません。

すなわち自己評価は、自分の能力評価と関係づけられて考えられているのです。


<span class="b">しかし思春期になると、子ども達は自分の存在のあり方そのものを問題にしてきます。</span>

「できる」「できない」から「良い」「悪い」という価値へ関心が深くなっていきます。
「自分は」が主語になってくることです。

このような自我の目覚めは、思春期の子ども達の第二の特徴と言えましょう。


これは児童期の能力のようなものと異なり、相手との比較の対象が目に見えるものではなくなります。

走る競争で勝つことは事実としてハッキリと理解できます。

それ故児童期の子どもの自己評価は、主観的には揺らぐことがあまりありません。


しかし思春期になると自分というトータルなもので、主観的、観念的なものになっていきます。

思春期の子どもの動揺は、自分についての主観的なものによる動揺です。


<h3>大人への絶対的信頼から大人を否定的に見るようになる</h3>


思春期の特徴の第三の点は、児童期には親を絶対的なものと見ていたその見方が１８０度変わり、<span class="b red">否定的</span>に見るようになってきます。

児童期には親の力を尊敬していた子どもも思春期になり大人の力もそれほどでないと知るようになると、自分の力を誇示するために必要以上に大人に批判的になります。

児童期の子どもにとっては大人の能力はすばらしいものに見えます。

走ってもボールを投げても子どもはとてもかないません。

何を聞いても答えてくれます。

家族もちゃんと守ってくれます。

こういう大人を子どもは尊敬します。


しかし、思春期になり子どもの身体も発育してくると、これらの能力の差はさほどのものではないということに気がつきます。

<span class="b">いままでの保護してほしいという考えから自分でもできるという親離れの最初の考えが芽生えてきます。</span>

この親からの自立はかなりの力仕事になります。

子どもの心には自立したいという気持ちとまだ保護されていたいという気持ちの動揺が大きくなります。

特に親の方が子どもの自立の気持ちに気づかないと、

子どもはいつまでも自分が子ども扱いされていると感じて、<span class="underline">強引に親から自立しようと必要以上に自分を一人前だと強調します。</span>

いままで素直だった子どもが親が何か言うとことごとく反抗したり無視したりします。

一般には第二次反抗期と言われる現象です。


これは基本的には主導権争いの形を取ることが多いようです。

自分の意見を押し通して相手を従わせようというのがこの争いの基本にあります。

これは親が勝っても負けても、子どもの成長には間題を残します。

主導権争いを子どもが取るときには、<span class="b blue">親はできるだけ子どもと上手に妥協することが必要です。</span>

この時期の子どもは「すべてか無か」という考えをしがちです。

１００点でなければ０点でいいと考えるのです。

<span class="b">人生にはお互いが満足し合うためにはゆずり合いが必要だということを教えるのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 04 Oct 2008 18:36:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもからおとなへ脱皮するさなぎの時期</title>
         <description><![CDATA[思春期というのは、からだがおとなのからだとして発達すると同時に、「心理的離乳期」と呼ばれるように、心の面でもおとなとして独立していこうとする時期です。


しかし、いきなり子どもからおとなへと脱皮できるわけではありません。

昆虫でいえば、幼虫から成虫に変身する中間の1さなぎ」の時期で、おとなでもなければ子どもでもない、いわばおとなの部分と子どもの部分を合わせ持ったたいへん複雑な時期なのです。


<span class="b green">「親の都合でおとな扱いしたり、子ども扱いしたり、おとなは勝手だ。

ふだんは『もう子どもじゃない』といっておきながら、都合が悪くなると『子どものくせに生意気いうな』などという」</span>


あなたも一度や二度、子どもからこんなことをいわれたことがあるでしょう。

この子どものことばは、単に親の身勝手さにたいする批判ばかりではありません。

不安定な思春期の子どもにたいする親の戸惑いをついたことばでもあるのです。


人間の子どもの発達というのは、「さなぎ」のように殻の中に閉じこもっておとなになる準備を整え、殻を破って出てきたときには、成虫としての機能を立派に備えている昆虫のようにはいきません。

人間の子どもは、活発に活動しながら発達するのです。

しかも、どの部分も平均して発達するのではありません。

よく、からだはおとなになっても、気持ちのうえではまだ子どもだといわれるように、身体の発達と精神の発達とのインバランスも、この年ごろの基本的な特徴のひとつです。


<h3>身体と精神の発達のインバランス</h3>


また、親にたいする反抗は、

<span class="b green">「私はもう子どもではない。一人前の人間なのだ」</span>

という子どもの独立宣言のようなものですが、一方では親にたいする依存と甘えを強く表します。

一人前のおとなのような生意気な口をきいたかと思うと、つまらないことですぐふくれたり、幼児のようにだだをこねたりする子どもの姿に当惑した経験はありませんか。

<span class="b">子どももまた、おとなである自分と、まだ子どもである自分との狭間で揺れ動いているのです。</span>

思春期危機というのは、このような発達のインバランスによって引き起こされる現象だといっていいでしょう。

しかも今日の子どもの問題で深刻なのは、

身体的発達の加速化がすすむ一方で、自己中心的で依頼心が強いなど精神的発達の面は逆に遅滞して、発達のインバランスをますます大きくし、思春期危機を増大させていることです。

今日の校内暴力の大半は中学生によるものですが、かつては高校生に多く見られました。

今なぜ中学校で校内暴力がひんばんに起こるのか。

そのなぞを解くカギは、今日の子どもの発達上の変化にあると思います。

一九五〇年代の半ばからはじまる高度成長期以降、地域や家庭など子どもの発達環境が急速に変わり、先のような発達のインバランスが増大するという変化を子どものうえにももたらしました。

なかでも中学生という時期はその発達の落差がもっとも大きく、そのために心理的にも以前よりいっそう不安定な時期になったのです。

すでに述べたような暴力とともに、大きな社会問題になっている、不純異性交遊、中・高生売春など、思春期の子どもの怪をめぐる危機もそうです。

肉体的成熟が早まるのに比べ、欲望をコントロールする精神の発達が、十分でないということによるものが大半です。


青年期というのは、

「身体的生物的次元の轟動に始まり、心理的次元の安定によって終わる」

といわれます。

身体的発達の時期が早まる半面、心理的に安定する時期が遅くなったことで青年期が延びる問題は、親や教師ばかりでなく、社会的にも新たな対応を迫られているといえましょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 04 Oct 2008 14:21:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>反抗期の時期があることが、子供の精神発達に重要なことである</title>
         <description><![CDATA[

<h3>自分を見つめるもうひとりの自分の誕生</h3>


思春期における急激なからだの発育は、心理的にも複雑な変化を呼び起こします。

性的成熟によるからだの変化は、自分自身のからだにたいする違和感を感じさせ、

おとなになることへの喜びと不安、誇りと恥じらいといった相対立する感情を呼び起こし、子どもの心を動揺と不安定な状態におとしいれます。

これは別のいい方をすれば、新しい自分との出会いによる戸惑いですが、それは同時に、自分自身にたいする関心が急激に芽生えてきた証拠でもあります。


男の子が、鏡のまえに立つ姿を見かけるのもこのころです。

外見をひどく気にし、髪形や衣服に強い関心を示し、「目立とう精神」が旺盛になります。

つまり他人の目に映る自分の姿が気になるわけで、これを心理学では<span class="b">身体的自我</span>とよんでいます。


思春期は心理的にも成熟期にさしかかる時期で、<span class="b">「自己発見期」</span>とか、<span class="b">「自我（他人と比べた時の自分自身）確立の時期」</span>などといわれます。

外見からしだいに自分の内面に目が向いていき、精神的自我が確立してきます。

「自分を見つめるもうひとりの自分」の誕生です。


三田誠広の芥川賞受賞作に、「甘え世代」といわれる現代の若者の青春の旅立ちを描いた『僕って何』という小説があります。

ここにもでてくる「自分を見つめるもうひとりの自分」の確立は、思春期・青年期での重要な発達課題なのです。


<h3>反抗期は精神発達の重要なふし目</h3>


ところで、このような内面生活が始まるとひとりになる時間をもちたがったり、それまで親の権威や先生の権威というものに比較的素直にしたがっていた状態から、

なにかと懐疑的になって反抗的な態度をとるといった、行動面での変化を呼び起こします。

これを発達心理学では、<span class="b">「第二反抗期」</span>と呼んでいます。


しかし、この「反抗期」といういい方に疑問を投げかける人がいます。

乾孝氏（心理学者）もそのひとりです。

乾孝氏は、『反抗期といわれる中学生の心理』（あすなろ書房）で、「反抗期」という言葉をはじめて使ったのはシャロッテ・ビューラーというお母さん心理学者で、彼女が幼い自分の子どもが急に自分を主張するようになったことに気づいて、

精神発達のひとつのふしを発見した　−　と紹介し、つぎのように述べます。


<span class="italic">「けれどもそのヒントは『母親』の発想に媒介されたものであることも見のがせない事実です。

子どもの自己主張を『反抗』と受けとめるのは、子どもにたいして支配者として臨むものの感覚以外のものではありません」</span>


たしかに、「反抗期」といういい方をされると、親や教師からすれば、けしからぬことだということになり、結果として子どもの自立の芽を摘んでしまったり、

できることならそういうやっかいな時期はないほうがいいというように思い込んでしまう危険性があります。


しかし乾孝氏も、

<span class="italic">「『反抗期』というコトバはまずいけれども、

そう呼ばれる時期を、やはり精神発達のひとつの重要なふしとして、実際に経過しなければならないのです」</span>

といって、ビューラー夫人の「反抗期」説の功績を認めています。


「反抗期」という呼び方に異議をさしはさむかどうかは別にして、いまではこの発達のふし目の重要性については、だれしも認めるところとなっています。


一九八一年七月、総理府青少年対策本部は『家庭内暴力に関する調査研究』を発表しました。


それによると、第一反抗期が「明確にあったもの」はわずか一〇・八パーセントで、

<span class="underline">家庭内暴力をひき起こしたものは、第二反抗期がなかったものが多い</span>という相関関係が出ています。

登校拒否や子どもの自殺にも同様の傾向がみられます。


第一反抗期は、二歳の終わりごろから四歳の初めごろに見られる現象で、ようやく自分のからだを自由に動かすことができるようになり、自分なりの意志も育ち、親の世話や干渉から離れようとする、いわば<span class="b">身体的自立の時期</span>なのです。

さらに、第二反抗期をも体験しない二十歳ないし三十歳の青年のなかに、

思春期危機ともいうべき登校拒否ならぬ出勤拒否や、深刻な家庭内暴力のみられることが、関係医療機関から報告されています。


<span class="b">これは、「反抗期」と呼ばれる発達のふし目が、いかに重要であるかということを改めて提起している、といってよいでしょう。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 04 Oct 2008 07:52:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>学校へ行けなくなってしまった子どもを特別扱いしない</title>
         <description><![CDATA[学校へ行けなくなってしまった子どもは自分を恥ずかしい存在と思い込んでいることが多いのですが、

これは<span class="b">現代社会が価値があると評価していることに添っていないと感じている</span>ということです。

つまり学校の成績がよく、学歴も高く、明るくて友だちにも信頼されるなどということからは程遠いことをしているのだから自分はだめな人間なんだと思い込んでしまっているのです。


たしかに、これほど不登校が問題になる風潮の中には学校に行っていなければ何もできないし、始まらないという思いがあるからでしょう。

学校へ行くことはたくさんある生き方の選択肢にすぎないとしたら、こうまで社会問題として取り上げられることはなかったはずです。

<span class="b red">子どもたちは学校へ行けなくなったことで社会から受け入れられなくなったと感じ、自分自身を否定し続けることが多いのです。</span>


しかし成績がいいとかいい大学を出たといったことが人それぞれの心の幸福に結び付くのかというと、必ずしもそうではありません。

心理療法に携わる方たちは、今を自分らしく生きていると感じ、今日も幸せなときを多く過ごせたと感じることができるということが、

学歴だとか社会的地位によって得られるものではないことを、日々の仕事を通してたくさん経験しています。

子どもたちにはいわゆる世間の言う「ふつうじゃない」や「ふつう以下」が価値がないのではなく、

自分にとって幸せなものを知り、心の幸せが続く生き方に気づいてほしいと願っています。


こうして考えると、登校していようといまいと、

<span class="b">そのことで子どもへの気持ちが変わるものではないというつきあい方になってくることでしょう。</span>

学校へ行かないことを責めたり、学校へ行ったことを極端に喜んだりということもなく、子どもがどんな生き方を選ぶのかをエールをおくりながら、ながめるようになるのではないでしょうか。


タロウ君が六年生の二学期になって一年以上も行っていなかった学校へ行き始めました。
とはいうものの三時間目が始まる頃、お母さんといっしょに教室へ行き、給食を食べずに帰ってくるので、教室で過ごすのは二時間だけでした。

担任の先生はあたかも昨日まで風邪で休んでいた子が、今日は治ったので登校してきたぐらいに淡々と接してくれました。

<span class="underline">「よく来たね」「よかった」「がんばろう」などとはおくびにも出さなかったのです。</span>


先生がその調子ですから、友だちも特別に扱ったりはしません。

心地よい程度の無視と、そこにいるのがあたりまえという雰囲気に自然にクラスになじんでしまいました。

先生はさりげなくタロウ君が学校にいる三、四時間目に毎日国語と算数の授業をするという配慮をしてくれましたので、タロウ君は国語と算数の勉強について行けるようになり、自信もついてきました。

やがて給食をみんなといっしょに食べ、午後の授業にも参加することができるようになっていきました。

無事小学校を卒業して中学に入学した今では、遅くまで部活に忙しい毎日を送っています。


タロウ君が自分のやり方で学校に戻ったのは、

<span class="b">お父さんやお母さんが、タロウ君が学校へ行きさえすればすべてが解決するなどと短絡的に考えず、自分で選び取った「学校へ行く」気持ちを大切にできたからです。</span>

それだけではなく担任の先生が、タロウ君の不登校を責めたり、学校へ来たことを派手に喜んだりせず、<span class="underline">日常のできごととして受け入れたこと</span>が学校への抵抗感を減らしてくれたのでした。

<span class="b blue">みんなが特別な子ども、問題のある子どもととらえなかったからということがとても大きな理由だったのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 04 Oct 2008 05:36:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の「耐える力」を育てるには</title>
         <description><![CDATA[

<h3>がまんさせるだけではだめ</h3>


子どものストレスが増えている一方で、ストレスに耐える力が弱くなっていることにも気づきます。

世の中ままならぬことが多いのは、子どもの世界でも同じことです。

そこである程度ままならぬことに耐える力を身につけておくことが必要になるのです。

子どもを育てているときに誰もが、子どもにはさまざまな困難に打ち勝ってよい人生が歩めるようにと願うものです。


そのためにはストレスに耐える力を育てなければなりません。

しかしそれはがまんさせるだけ、つまり耐える経験をたくさんするだけでは育たないのです。

子どもにとっては、とても魅力的なお菓子やおもちゃが常に目のつくところに並べられています。

いっしょにスーパーやデパートに行けば、子どもに買ってほしいとねだられることも多いことでしょう。

しかもそれは親にとって買えない金額ではないのです。

そんなときお父さんやお母さんは、簡単に買い与えることは子どものわがままを助長するものだ、がまんすることを覚えさせなければと考えて踏みとどまろうとします。

子どもと買物に出かけたとき、お菓子売り場で、

<span class="b green">「お母さん、お菓子が欲しいの。買ってちょうだい」</span>

と子どもはねだることが多いものです。

お母さんはいつも子どもが欲しがるままに与えてはいけない、少しはがまんさせなくてはと考えます。

<span class="b green">「駄目よ。今日は買わないからがまんしなさい」</span>

子どもによってはしぶしぶ諦めるかもしれませんが、そんなことではめげずにがんばる子もいます。

<span class="b green">「嫌だ。絶対買ってよ。ウエーン……」</span>

ここで泣かれては困るし、ちょっと面倒くさくなったお母さんは、

<span class="b green">「しょうがないわね」</span>

と買い与えてしまいます。


お母さんのがまんさせるための最初のしつけはいったい何だったのでしょうか。

ちっともお菓子を食べたい欲求をがまんすることになりませんし、初めからあっさり買ってあげたほうがお互い気持ちよくすごせたはずです。

そしてスーパーに行くたびに子どもとの押し問答は覚悟しなければならなくなります。

そこでお父さんやお母さんは簡単に買い与えることはやめようとします。


<span class="b green">「お母さん、お菓子が食べたいの。買ってちょうだい」</span>

<span class="b green">「だめよ。今日は買わないからがまんしなさい」</span>

毅然として親の威厳を保つことはできました。

しかしお菓子を食べれなかった欲求不満を引きずりながら、しぶしぶ足をひきずる子どもと、

<span class="b green">「いつもお菓子ばかり欲しがって、少しはがまんする気にはなれないのかしら」</span>

とわが子にため息をつくお母さんの二人は、来たときよりずっと不機嫌になったまま帰ります。

子どもはお菓子を結局は食べれなかったわけで、自分の要求が通らなかった経験をしたわけです。

世の中はそんなに甘くはないとがまんする力ついたかというと、それこそ甘くない話で、子どもはお母さんはケチなんだ、今度はおばあちゃんときて買ってもらおうと思っているかもしれません。

それとも今日は頼むタイミングが悪いから買ってもらえなかったに違いない、次のチャンスを待とうと思っているかもしれません。

二人がスーパーの玄関を出たときに、お母さんが、

<span class="b green">「今日は偉かったね。お菓子が欲しかったのに、がまんしたんだね。お母さんはとてもうれしかった」</span>

と子どもに伝えたとしたら、そして子どもの頭を撫でてあげたり、手をぎゅっと握ってあげたりしたら、子どもの気持ちはどうなるでしょう。


子どもはお母さんが自分が食べたかったものをがまんしたことを感じ取ってくれた上に、それを褒めてくれたとなんだかいい気持ちになってきます。

<span class="b">そしてがまんするって悪いもんじゃないと知ることでしょう。</span>


このことは次のがまんへのエネルギーとなって心に蓄えられていきます。

こうした繰り返しが<span class="b blue">将来へのストレスに耐える力</span>となって育ってゆくのです。

耐えたこと、そしてそれをちゃんと認められたということを日常生活の中で繰り返し体験するだけでなく、欲しかったおもちゃを誕生日までがまんするといった長い時間待つという体験も大切です。

<span class="b green">「ファミコンの新しいカセットが欲しかったんだろう。おともだちがみんな持っているのにお誕生日までよくがまんして待っていたね。お父さんはうれしいよ」</span>

大好きなお父さんに言われたら、うれしさは何倍にもなることでしょう。

ところが、

<span class="b green">「こんな高いものばかり欲しがっていてしょうがないな。勉強もしないで……」</span>

などとイヤミを言われたら、耐える力より、この親にどうやって欲しいものを買わせるかということに気持ちが集中するせこい関係になってしまうかもしれないのです。


そろそろ親元を離れて行こうとする大学生の中には、小さい頃がまんさせられたから、自分でお金を稼ぐようになったら貯金なんかしないで、子どもの頃買えなかったものが買いたいと思っているという話を聞いたりします。

親は子どもに堅実な金銭感覚を身につけさせようとしたことがうかがわれるのに、きっとがまんさせることに熱心なあまり、

<span class="b red">がまんすることと心地よい体験とを結び付けることをしてこなかったのかもしれません。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 04 Oct 2008 04:28:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>不登校の子供には、行動を起こすまで「待つ」ことも重要</title>
         <description><![CDATA[学校へ行けない子どもの中には、<span class="b">みずからの問題を自分で考えたり、解決するまでに育っていないことがあります。</span>

年齢相応に耐えることをほとんど経験してこなかったので、困難な状態を自分の力で乗り越えることができないとき、学校で起こるさまざまな問題から逃げる結果が、不登校として出現することがあります。


学校に行くとテレビも漫画も見れないから家にいたいと子どもが思っているのなら、年齢より未熟でわがままであるのかもしれません。

そうなれば教育によって育てなおすという判断も必要になってきます。

また原因が学校でのちょっとしたできごとで、取り除くことも容易ならば、できるだけ早く登校させるほうが望ましいと判断される場合もあります。

こうした例では学校へ行けなくなってもきっかけさえつかめれば比較的短期間で学校に行き始めることがあります。


小学一年生のハナコちゃんが学校へ行けなくなってしまったきっかけは、学校で具合いが悪くなり早退したのに、お母さんが家にいなくてとても心細い思いをしたことのようでした。

お母さんと離れて過ごす学校での時間に不安を感じるようになってしまったのです。

お母さんといっしょなら登校できたので、しばらくはお母さんといっしょに教室で過ごしてもらうようにしました。

そのうち、お母さんが一時間ぐらい教室にいなくても大丈夫になり、やがて朝と帰りの送り迎えだけですむようになって、今では元気に一人で登校しています。


<span class="b">多くはゆっくり待ってあげなければならないことも多いのです。</span>

小学四年生のときから学校へ行けなくなってしまったハルコちゃんを、お父さんやお母さんは無理に登校させようとしました。

本来なら今ごろ学校で元気に過ごしているはずの子どもがベッドで寝ているのをみるのは、親としてはどうしてもなさけなくもなり焦る気持ちになるものです。

ところが登校させようとすればするほど、ハルコちゃんは苦しむようになり、とうとう学校どころか家から一歩も外に出られなくなってしまいました。


中学に入学したある日、学校へ行きたいと外に出ようとしたときには、玄関においてあったハルコちゃんの靴はサイズが小さくて履けなくなっていたほどでした。

ハルコちゃんが不登校に至ったいきさつが昨日今日のできごとに由来するものではなく、ある一定の準備状態を経て、表面に現れるものだったのです。

学校とのかかわりを持とうと動き出すまでには、靴のサイズがすっかり変わってしまうほどの期間が必要だったのでした。

それは成人病といわれるものが、その人の何十年間の生活の積み重ねとして現れることがあり、治療には養生も含めて長期の見通しが必要になることに似ているかもしれません。

不登校の中には集団の中で長い間自分を周囲に合わせ続け、自分らしさを出せなくなってしまった苦しさを背負った子や、

おとなや友人が望む<span class="b">「いい子」</span>を演じ続けるのに疲れてしまった子どもがいます。

その多くは学校ではとても元気だと評価され、どうみても学校を休む子には見えないと言われているのです。

無理をして学校へ行けば「積極的でいい子」を演じて、くたくたになって帰ってくるのですが、そうした姿は、学校での「笑顔での談笑」からは想像もつかないほどのものであったりします。

もうこれ以上合わせ続けるのはできないところまできたとき、学校へは行けなくなってしまうことがあります。

しかもこれまでのいきさつから説得したり、励ましさえすれば登校できるかのように思い込まれてしまった子どもには、それまでのつらい積み重ねについて語るほどの元気もなくなってしまっていることも少なくありません。


そんな子の一人、ナツコちゃんは小学五年生になってまもなく学校へ行けなくなってしまいました。

「学校へ行く」と言ってはみるのですが、朝になると身体が動かなくなるのです。

学校へ行けない苦しさをお父さんやお母さんにもわかってもらえるようになったのは、夏休みも間近に迫った頃でした。

少しだけゆとりが出てきたナツコちゃんは、<span class="b green">「終業式に行きたい」</span>と言うようになりました。

会うたびに、<span class="b green">「終業式には行くからね」</span>と決意表明していきます。

ナツコちゃんは自分自身に言い聞かせていたのでした。

そんなある日病院にやってきたナツコちゃんは、

<span class="b green">「私は学校へ行けなくなってしまった」</span>

と泣きだしてしまいました。

先生から手紙がきて、

<span class="b green">「夏休みになる前に学校に来るように」</span>

と書いてあったのだそうです。

先生はあんなに積極的で勉強もよくがんばるいい子なんだから、学校に来さえすればすべてが解決されると思っていました。

そしてとうとう待ちきれずにナツコちゃんに手紙を書いたのでした。

しかし子どもの中に時間をかけてできあがった問題を、子どもがいったんばらばらにして再び組み立てるには、それまで以上の時間が必要になることがあり、個人差もあります。

<span class="b">ナツコちゃんにとって、終業式に自分から行くことが自分らしく振舞う第一歩でした。

ナツコちゃんは今までとは違ったやり方で、学校で生活するきっかけにしたかったのです。</span>

先生に言われてしまうと、今までのように<span class="b green">「先生の言うことをきいて学校へ行くいい子」</span>を振舞わなければならない、振舞いたくなる自分を感じていました。

何よりも主体としての自分が学校へ行くということを大事にしたいと思い始めていたのです。

一学期のうちにとか、小学校を卒業するまでにとかおとなの守備範囲にこだわらず子どものことを考える体制づくりがが必要になってきているのです。


あと少し親や先生が待ってくれたらと残念に思うことがずいぶんあります。

子どもが自分から行動を起こそうとするとき、それは舞台の花道を通ってそでに大見えをきって引き下がり、やがて衣装替えをして堂々と再び舞台に再登場することに似ています。

<span class="b">子どもに、「さあ、変わりなさい」とせかすことは、舞台のまん中で、みんながみているところでいきなり衣装を着替えさせることと同じです。</span>

子どものメンツは丸つぶれになってしまいます。

そんな恥ずかしいことはおとなだって嫌なことです。

親も学校もそして子どもにかかわるすべての人が子どもの花道を大切にして、

<span class="underline">準備を整えて登場した子ども</span>に拍手をおくってほしいのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 03 Oct 2008 21:11:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どものうそ</title>
         <description><![CDATA[五歳のＩ子ちゃんのお母さんは、Ｉ子ちゃんがつく「うそ」に振り回されています。

「水槽のおさかなさんとお話した」とか「こびとさんとお友だちになった」などというくらいは子どもの言うことだからとがまんもできるのですが、

<span class="b green">「今日、幼稚園の先生がお休みしたよ」</span>といった話から、<span class="b green">「恐いおじさんに連れて行かれそうになった」</span>などはそのたびにお母さんは振り回されてしまいます。

うそをついてはいけない、うそは悪いことだからやめようといくら言っても同じことを繰り返します。

お母さんはなさけなくなって泣きながら叱ります。

<span class="b green">「お母さん、もうしないよ。もううそつかないよ」</span>

とＩ子ちゃんも泣きながら言うのですが、それでも「うそ」が減らないことをを心配してお母さんは相談にやってきたのでした。


うそをつくということは悪いことです。

なぜかというとそれは誠実でないことを意味し、人と人とのかかわりの中では許されないことだからです。

うそは相手をだまして混乱させたり、自分だけが得するための手段だったりします。

果ては犯罪を連想させる後ろ暗いことも伴いますから、親としては<span class="b red">「うそはいけない」</span>と言わなければなりません。


<span class="b">ところがＩ子ちゃんのうそはおとなのお母さんが考えているうそとはちょっと違うのです。</span>

子どもの話を聞いていると、楽しいことがあります。

それは子どもの心の中にありありと浮かんだ想像の情景をとりとめもなく話してくれることがあるからです。

ときには面接室中が色とりどりの花畑になったり、宇宙基地になったりもします。

花畑がいつの間にか空を飛んだり、宇宙にいたはずなのに怪獣と戦っていることもあります。

子どもたちはその日に写る殺風景な白壁をスクリーンにして自分の世界を映しだしているのでした。

そうしたときは見事に現実と彼らの想像の世界とは融合していて、どこまでが現実だとか夢だとかたずねることがいかに野暮な質問であるかに気がつきます。

いっしょにその世界に浸っていると結構楽しいものであることを知るのですが、それがありふれた日常の中で起きると、折り合いが悪いことが起きたりします。

うそをつくことと間違われてしまうからです。


子どものうそはときにその想像力ゆえにおとなには見えないものを見てしまうために起こることがあるのです。

<span class="b">それをいじましいおとなのうそと混乱しないようにしなければなりません。</span>

そもそも絵本やおとぎ話は「うそ」のかたまりではありませんか。

それを与えて想像力を育てようとしているわけで、子どもの子どもらしいうそが想像力の産物であるなら、それはあえておとなが育てようとしたものであることをちゃんと認識する必要があるのです。


子どもだって本気でうそをつくときがあります。

それは学校の担任の先生から、

<span class="b green">「今日、お宅の1君がＫ君と教室でけんかをしまして、Ｋ君はあざができて……」</span>

などと電話があったときのことです。

カッと頭に血が昇ったお母さんは、服を破って帰ってきた1君を、

<span class="b green">「なんでけんかなんかするの！」</span>

といきなり怒鳴りつけました。

Ｊ君は、

<span class="b green">「けんかなんかしていないよ。ころんだだけだ」</span>

と口を尖らせて言い返しました。

Ｊ君のうそにますます怒ってしまったお母さんが、

<span class="b green">「うそをついているわね。先生から電話があったのよ」</span>

と言うと、

<span class="b green">「ぼくは悪くない、何もしていないのにＫ君がいきなりなぐつたんだ」</span>

と泣きだしました。

<span class="b green">「どうしてうそをつくの最初からそういえば言いじゃないの」</span>

イライラしたお母さんはＪ君を責めるのでした。


会社から帰ってきたお父さんにお母さんは、

<span class="b green">「Ｊはどうしてうそばかりつくのかしら。将来が心配だわ」</span>

と嘆くのでした。


こうしたうそは子どもが自分を守ろうとついたうそで、空想と現実がごちゃまぜになったうそとはちょっと違います。

Ｊ君もうそをついてしまったことに気がついていることでしょう。

どうしてこんなことになってしまったのでしょう。


こんな想像をしてみました。

お母さんがＪ君が帰ってきたとき、

「あらあら大変、服が破れているわよ。けがをしてるんじゃない？だいじょうぶ？」

と声を掛けると、Ｊ君は、

<span class="b green">「……あのね、お母さん……今日ぼく学校でＫ君とけんかしちゃったんだ」</span>

と言います。

<span class="b green">「それで服が破れているのね」

「うん、ぼくはこぶができちゃって、Ｋ君はあざができたんだ。Ｋ君が先になぐったんだけど、その前にぼくが『ばか』って言ったんだ」

「それでどうしたの」　

「先生にしかられちゃった。それからあやまって仲直りしたんだよ」

「よかったわね。でもけんかはしないほうがいいわね」

「うん、わかった」</span>


こうしたやりとりなら、Ｊ君がうそをつく必要がなくなります。

そうしてけんかについてその事実関係と自分の気持ちをちゃんとふりかえることができました。

子どもがうそをつくという相談の背景には子どもがうそをつかざるを得ないように追いつめてしまっていることに気づかないお母さんやお父さんがいることがあります。

自分がこれ以上叱られたり怒られたりしないようにと、たまたまついてしまったうそを子どもの中に植え込まなければ、子どもはうそでぬり固めた人生は送らずにすむことでしょう。

自分を守るために何度もうそをつかせてしまうと、うそをつくことがあたりまえになってしまうかもしれません。

とは言っても、社会的に地位のある「立派な」おとながテレビに出て、平然とうそをついていたりすれば、子どもはうそもつき通せば本当になると本気で信じ込んでおとなになっていくのかもしれませんが……。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 03 Oct 2008 12:28:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>受験に挑戦する動機や目的がしっかりしていますか？</title>
         <description><![CDATA[
受験勉強で、子供や家族が破滅しないためにはどうしたらよいのか、幸福な人生を実現してゆくにはどうしたらよいのかを、考えていきたいと思う。

まず最初は、<span class="b">受験の動機および選択基準の問題</span>である。

熾烈な受験戦争に子供を投じようと決意するような父兄には受験に対するその人なりの強い思い入れがあるはずである。

そして、その思い入れが的を得たものであれば良いのだが、そうでない場合には、やがて取り返しのつかない問題となって家族全体に跳ね返ってくるのである。


ここでは、そうした思い入れが、子供や家族の幸福へと結びつくものであるかどうかを再チェックしたい。


<span class="b green f12em">「受験などというやっかいなものは、親として1回でも少ないほうがいい」と思っているようではダメだ！</span>


中学受験をうまく乗り切りさえすれば、あとは大学受験だけ、あるいは、その大学受験すらないということに限りない魅力を感じてはいないか？

経済的な問題はともかく、自分たちの精神的負担を極力避けたいという思いを、「子供がたいへんだから」という問題にすりかえているとすれば、<span class="b red">たいへん危険な傾向</span>である。

<span class="b">なぜなら、そこには、「子供と家族の将来の幸福実現のため」という視点が全く欠落しているからである。</span>

そして、かわりに、そこにあるのは、「とりあえず楽がしたい」という横着で怠惰な気分である。

しかし、その結果として、楽ができるどころか、とんでもない災難に見舞われかねないことには、まるで気づいていないのである。


<span class="b green f12em">親としての体面にこだわるな！</span>


「体面を気にするな」と言っても無理な相談だろう。

だれにでも、ある程度の見栄はあるからである。

しかし、それも程度問題であって、中学受験の動機や選択基準の有力な要素になるようでは困りものである。

いま、「イタメシ」（イタリア料理）がはやっているからといって、たいして好きでもないのに、高い金を払って食べに行ったり、

必要でもなければ、似合いもしないのに、ジョルジオ・アルマーニを身につけたりする感覚で、中学受験をとらえてはいないだろうか？

<span class="b green">「猫も杓子も中学受験をする時代なのに、うちの子は区立＊＊中学では格好が悪い。

やっぱり、私立☆★中学に行ってるよ・なんて言えるようになりたい」</span>

と思っているとしたら、<span class="b red">きわめて危険な傾向</span>である。

言うまでもなく、そこには、子供や家族の将来的な幸福実現という観点が欠落しているからである。

洋服や食事ならお金を損するだけですむが、子供の人生は、それではすまないのである。

<span class="b">中学受験を決意する前に、もう一度・自分たちの気持ちを見つめ直すことも必要だろう。</span>


<span class="b green f12em">私立中学の授業内容を過信するな！</span>


これは、非常に広く見られる現象である。

しかし・私立であれ、国立であれ、いわゆる超一流校の中で、大学入試に即応した授業をやっている一貫校など、ごくごく少数である。

大学進学実績だけを見れば、なるほど東大をはじめ一流大学合格者がずらりと並んではいるが、それは、たまたま生徒が優秀だったからであり、学校の教育内容がよかったからではないのが普通である。


有名なエピソードを紹介しよう。

某一流高校で、数学の先生が病気入院のために長く学校を休み、あるクラスでは、1カ月以上も数学の授業が自習になってしまった。

そして迎えた期末テスト。

<span class="b">ところが、なんと、その「自習」クラスが、数学の平均点で、学年トップに躍り出たのである。</span>

そのとき、先生たちはため息をついて言った。

<span class="b green">「われわれなんかがへたに教えるよりは、全然教えないほうが生徒のためだ」</span>

この例は要するに、この一流校の生徒がふだんいかに厳しいトレーニングを受けていないかを示すとともに、

自学自習にゆだねられて、生徒たちが少しまじめに勉強したとたん、学年のトップになってしまうほど、試験のレベルも低いことを示しているのである。

さらに別の面から見れば、この生徒たちを大学入試即応の教育で徹底的に鍛えれば、東大合格者数も、簡単に2倍、3倍になるだろう、ということなのである。

名門の一貫校の授業それ自体には、必ずしも期待はできないことを知るべきだろう。


<span class="b">公立中・高に入っても、即、大学入試に不利などということはない！</span>


公立中学・高校の荒廃あるいはレベルダウンについては、いまや知らない者はいない。

まさにこのことが、中学受験ブームの大きな要因をなしているのである。

だからといって、中高一貫校に入れば即大学入試に有利で、公立に行けば即大学入試に不利と考えるのは、あまりにも短絡である。


すでに説明したように、中高一貫校だからといって、必ずしも大学入試に有利な教育をやっているわけではなく、

大学入試という観点だけから見れば、中途半端な一貫校なら、ほとんど行く意味がないからである。

反対に、一口に「公立」といっても、それなりに多様性を持ち、特に、公立高校にはいまなお「一流校」の名を維持しているところも多いのである。

そして、そうした高校には、へたな一貫校より、よほど進学実績にすぐれている学校も多いということを知るべきである。


<span class="b green f12em">大学進学実績だけに目を奪われないで、子供の性格や価値観を重視しろ！</span>


たいていの家庭では、子供の幸福というものを、<span class="b">「よい中学・よい高校・よい大学・よい会社」</span>というライン上に考えがちである。

真に幸福かどうかはともかく、少なくとも経済的・社会的地位が安定しやすい、要するに安全確実に生活基盤が確立できると考えるからであろう。

そうなると当然、中学進学を考えるうえで、大学進学実績が非常に重要なファクターにならざるをえない。

その結果、御三家を筆頭にする偏差値の高い中学にばかり目を奪われることになる。


もとはと言えば、自己実現のための考えがないから、こういうことになってしまうのだが、

仮に、将来ビジョン達成のためにハイレベルの中学をねらわざるをえない状況になったとしても、<span class="b red">それでも、大学進学実績だけで、受験校を選んではいけない。</span>

このレベルなら許せるという範囲の学校の中から、子供の性格や価値観に適合するものを選ぶべきであろう。

たとえ、どんなにハイレベルですばらしい学校であっても、子供に合わなければ、たちまち<span class="b red">不適応</span>を起こして脱落してしまうからである。


<span class="b green f12em">「金と時間と労力をかける以上は、少しで上位の中学に」などと思うな！</span>


中学受験には、金も時間も労力もかかる。それも並みたいていのレベルではない。

そのせいだろうか？　どうせ入るなら、少しでも上位の学校に入ってほしいと思う父兄が多いようだ。


しかし、莫大な金と時間と労力を費やす目的は、子供と家族の将来的な幸福であり、自己実現なのである。

それを実現する手段として、最もふさわしい学校に入るための、金であり、時間であり、労力でなくてはならない。

<span class="b green">「親まで巻き込んで、これだけたいへんな思いをしているのだから……」</span>

という気持ちは、よくわかる。

だが、そのたいへんな思いは、あくまで自己実現のためであって、ただ単に、上位校に入るためではないことを、きちんと認識する必要があるだろう。


<span class="b green f12em">塾の進路指導は、全面的に信用するな！</span>


おそらく、ほとんどの父兄が、塾の進路指導にもとづいて、受験する中学を決定していることだろう。

初めから、父兄のほうで受験校を決めてあり、その学校に対する合格可能性がどの程度あるかを、塾の豊富なデータにもとづいて算定してもらうのなら、塾・それも大手進学塾は有用である。


しかし、そうではなくて、父兄の側に何の準備もなく、受験校について、ほとんど何も考えていないような場合は要注意である。

表面的にどんな美しい言葉を並べてみたところで、要するに、塾というところは、金のありそうな家庭からは、何だかんだと理由をつけては金を巻き上げることを考え、金のなさそうな家庭など、適当にあしらうことしか考えてはいないのである。


受験校決定についても同じことで、有名校のボーダーライン前後にいるような生徒の父兄には、甘い言葉をかけて、すっかり、その気にさせて、片っぱしから受験させるというやり方をする。

それこそ、<span class="b">「へたな鉄砲も数打ちゃ当たる」</span>である。

それによって、1人でも2人でも多く、有名校に入ってくれたほうが、安全確実に無名校に入ってくれるよりも、塾としてほありがたいわけである。

それはそうだろう。

<span class="b f11em">「○○中学何人合格」</span>という実績が、塾経営の死命を制することになるからである。


それだけではない。

塾が把握しているのは、子供の偏差値と、中学校への合格可能性だけであって、それ以外の要素、たとえば、その子が、どんな性格や価値観を持ち、あるいは、どんな特有の能力・特性を持って、将来、どういう方向に進むことが幸福につながるかなど、全く把握していないだけでなく、初めから、そんなことをする気もないのである。


塾を責めているわけではない。

そもそも、塾には、そういう機能はないのであり、どんな学校を受けて、どんなコースを歩ませるべきかなどを、塾に求めるほうに、むしろ問題があるのだ。


そうした偏差値以外の側面については、あくまで家庭の問題と言うべきだろう。

だからといって、塾の言うことなどいっさい信用するな、というわけではない。

<span class="b f11em">使う以上はその使い方に注意しろ、</span>ということだ。


<span class="b green f11em">たとえどんなに優秀でも、勉強嫌いの子供の受験には注意が必要！</span>


世の中には、「勉強のできる子」＝「勉強好き」という公式があるらしい。

しかし、小学校や中学校程度では、ほんとうに頭のよい子なら、それほど熱心に勉強しなくても、人の上に立つことはできる。

つまり、勉強嫌いであっても、頭のよさで、ある程度上に行くことは可能なのである。


その辺を勘違いして、この子は、よくできるからと言って、「勉強好き」の集まる中学などに入れたら、それこそたいへんなことになる。

たちまち不適応を起こし、<span class="b red">心身症</span>にでもなるのが落ちだ。


では、公立中に入れればよいかと言えば、話はそう単純でもない。

高校入試があるし、あるいは、さらに大学入試もあるからである。

その子の将来ビジョンとの兼ね合いもあるが、

<span class="b blue">その子の本来的な持ち味を伸ばすにふさわしい中学校に進ませるのが基本である。</span>


ただし、大の勉強嫌いというマイナスの側面をカバーすることを考えて、大学までストレートに上がってゆけるような、準一流程度の私立校に入らせるという方法も考えられるだろう。

その場合、子供の頭の程度より低いからといって、父兄のほうがその学校を嫌ってしまうケースもあるから要注意である。


<span class="b green f12em">第3・4志望校選定は慎重に！</span>


だれでも、第1志望については、よく考えるものである。

しかし、第2志望以下、特に、第3・4志望ともなれば、いいかげんになりやすい。

どうしても、第1志望校に関心が集中しがちで第3志望とか第4志望までは十分な注意が行き届かないのが普通である。


しかし、必ずしも、第1志望校に合格できるわけではない。

第2志望以下の中学に入ってから、シマッタと思うことが少なくはない。

そうならないためにも、将来ビジョンをしっかり持ち、そのうえで、それを実現してゆく手段として、どの学校が適当かという視点に絶えず立って、3〜4校を均等にながめることがたいせつである。

まかりまちがっても、偏差値順に3〜4校並べて、下位の学校を軽視して中身を調べもしないなどということがあってはならない。


<span class="b green f12em">子供に、自分の果たせなかった夢を託すな！</span>


これは、よくあるパターンだ。

いわく

<span class="b green">「自分は二流大学しか出てなくて苦労したから、子供にはなんとしても東大に行かせたい」</span>

これが、子供の自己実現のための将来ビジョンにかなったものならなんら問題はない。

しかしもし、そうでないのなら、そうした親の思い入れは、子供にとって迷惑なだけである。

夢を託すのであれば、自分の果たせなかった自己実現の夢を託すべきだろう。

<span class="b">あくまで優先すべきは、自己実現</span>であることを忘れてはいけない。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 03 Oct 2008 10:36:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>知識よりも知恵を教える</title>
         <description><![CDATA[何人かの子ども達を連れて近くの公園へ散歩に行ったことがあります。

公園にはいろいろな草花が咲き乱れていました。

しかしいまの子どもはあまりそういう自然に関心を示しません。

すぐに飽きてしまいます。

<span class="b green">「テレビ見たい」</span>とか<span class="b green">「帰ってテレビゲームする」</span>とか口々に不満を言い出しました。

そのときです。

小学五年生の明美（仮名）さんが言いました。

<span class="b green">「あ、これクローバーだ。この花で首飾り作れるんだ。こういう風に編んでいくんだよ。

田舎のおばあちゃんが教えてくれたんだ」</span>

といきいきと草を摘み始めました。

すぐにかわいらしい首飾りができました。

何人かの子どももまねし出しました。

<span class="b green">「簡単だね」</span>とか<span class="b green">「おもしろい。ここどうやるの」</span>など明美さんに教えてもらいながらしばらく夢中で首飾りを作っていました。


<span class="b">与えられた遊びではなく、本当におもしろく夢中になれる遊びは自分達が工夫したときに生まれてきます。</span>

おばあちゃんが教えてくれたクローバーで首飾りを作るということは<span class="b blue">遊びを工夫する知恵</span>でもあるのです。


私達には長い歴史のなかで多くの人が体験してきた生活の知恵があります。

子育てのなかで学問的でないからと言って捨ててはいけない知恵がたくさんあります。

私達の生活を成り立たせているのはむしろ知識よりも知恵なのかも知れません。

子ども達にも知恵の大切さを教える必要があります。

<span class="b">知恵のある子どもこそ、少々のことでは負けません。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 03 Oct 2008 09:08:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学生時代はからだづくりの時代</title>
         <description><![CDATA[思春期の第一の特徴は、なんといっても性的な発達ですが、同時にこの時期は、体格、体力、運動機能などすべての面で、飛躍的にからだが成長するときです。

なかでも中学三年間の成長はきわだっています。

身長・体重をみると、男子では十一歳ごろから十四、五歳にかけて伸び方がいちじるしく、その後はゆるやかなカーブになっています。

女子の場合は、男子よりほぼ二年ぐらい伸び方が早くなっています。


人間のからだの発育は二十歳ごろで止まりますが、その間に急激な発育を示す時期が二度あります。

第一の山は、ゼロ歳から二歳ごろまで。

第二の山が、十一歳ごろから十五歳ぐらいまでです。

このようなからだの発育と同時に、体力もまた飛躍的に発達します。

文部省がまとめた体力テストの結果をみても、十二歳から十六、七歳までの期間の体力の伸びはきわだっています。

<span class="b">したがって、子どもの発達にとって中学生時代というのは、からだづくりの時代であるといえましょう。</span>


ところが、今日の子どもはこのからだづくりという面で、めぐまれた条件にあるとはいえません。

「高度経済成長政策」は、人間にとってかけがえのない自然を破壊したばかりではありません。

地域から子どもの遊び場をも奪いました。

また、学歴偏重社会と受験体制のもとで、多くの親の関心は、受験学力（テストの点数に矯小化された学力）に傾いています。


根気がない。

朝の一時間目からアクビを連発する。

朝礼時に貧血をおこして倒れる


こんな子どもが最近多くなっているのも、人間の「内なる自然」であるからだづくりが軽視されていることの証拠だ、といっても決していいすぎではないでしょう。


このように、からだづくりは、思春期と呼ばれるこの時期の子どもの重要な発達課題ですが、なかでもからだの器官で最もいちじるしい発達をとげるのが、生殖器官です。

生殖器官は、それまでも機能していた心臓や肺などの他の器官と違って、この時期になってその機能がはたらくように発育するただひとつの器官です。

したがって性的発達は、思春期の身体的特徴のもっとも重要な側面です。


ところで、子どもを産む機能を備えるということは、同時にそれまで眠っていた本能である性欲が目覚めてくることでもあります。

からだとしての性の成熟は、異性にたいする強い関心や性的興味となって子どもの心を揺り動かします。

とくに男の子の場合は、強い性の欲求に悩まされたり、自慰を覚えることによって、罪悪感や自己嫌悪におちいることも少なくありません。

ところが、子どもの問題でいちばん親に見えないのが、この性の問題です。

女の子でいえば、乳房が大きくなるとか、初潮が現れたというような生理としての性については知っていても、

子どもの意識のなかに轟く「内なる怪」（性欲）については、まったくといっていいほど見えない親が多いのです。


性の目覚めは、不純異性交遊や性にからんだ子どもの事件にみるように、若者をしばしば危機におとしいれます。

もちろん、性の問題に限らず思春期の発達的特徴を、単に生理的成熟の問題に固定してみようとするのは誤りです。

現代の社会の構造や家族をはじめとする人間関係、文化や教育制度によっても、子どもの発達は大きく左右されるものだといぅことを、子どもをとらえる際、しっかりと頭に入れておく必要があります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 12:25:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>兄弟げんかは気配りしながら黙ってみてましょう</title>
         <description><![CDATA[きょうだいはけっこう派手なけんかをするものです。

年の差があるのだから、お兄ちゃんやお姉ちゃんには少しは手加減してほしいのにと思っても、弟や妹はもう少し遠慮すればいいのになどと思っても、どこまでも対等にデスマッチを繰り返すものです。


<span class="b green">ここで考えなければならないことは、いわゆる「けんか」と「きょうだいげんか」の違いです。</span>

この二つは根本的に質が違うのです。


<span class="b">きょうだいげんかは、どこか夫婦げんかに似ています。</span>

外国の小話に、夫婦が大げんかをしたとき、その仲裁に入った警察官が奥さんをかばおうと夫を押さえつけようとした途端、奥さんに<span class="b green">「私の夫に何をするの！」</span>とフライパンで殴られたというのがあります。


ほんとうは仲がいいのにそれでもけんかをするのが夫婦げんか、

人がみたら大げんかしてると思うかもしれないほどのものであっても、当人たちにとっては猿の毛づくろいにも似たスキンシップ程度のものであったりして、かかわり合っては割に合わない「犬も喰わない」代物なわけです。

またやっているなと心配せずに見ていればいいものだと、みんなが知っているのです。


最近はちょっと深刻な夫婦げんかもありますが、それはここでは論外で、もともと仲のいい夫婦のけんかは、きょうだいのそれにもよく似ています。

きょうだいを相手に行う対人関係のウォーミングアップのおかげで、社会生活をしていく上で必要な手加減や自己主張について知ることができるはずですから、きょうだいげんかを思いきりやることによってほんとうのけんか上手に成長していくということができます。


きょうだいげんかは嫉妬する心の表明でもあるわけですが、

<span class="b green">「やきもちをやいているんだ」</span>と自己主張できるということは、成長していく上で大切なことです。

家の中でチョコレートひとかけらのことで泣きをみるけんかをして、

<span class="b green">「どうしてぼくは一人っ子に生まれなかったのだろう」</span>

とおにいちゃんが嘆いていたとしても、公園で弟がいじめられているのを見てしまったら、

<span class="b green">「ぼくの弟になにをするんだ！」</span>

とあわてて助けに飛び出していくことでしょう。


おにいちゃんの姿をみつけた弟はまるでスーパーマンが助けにきてくれたのと同じくらい嬉しくなることでしょう。


最近はきょうだいに限らず、幼い頃のけんかを止められることが多くなってきました。

<span class="b red">おかげで仲間とどうつきあっていいかわからないまま大きくなってしまうことがあります。</span>


自分の限界を知らないまま育ち、相手の力加減を推し量る訓練もできていないわけですから、みんなの中でどう振舞っていけばいいのかについて戸惑うことが多くなります。

手加減がわからないのですから、いじめているということに気づかないまま、必要以上に相手に痛めつけたりすることが起こってしまいます。

子どもはけんかをしたり、仲良くなったりの繰り返しの中で、人とのつきあい方の基本を体験をするようになっているものなのです。

きょうだいげんかは嫉妬心の完全燃焼のようなもの、親はできるだけ黙って見守りたいものです。


小さい頃きょうだいげんかをいつも止められて、「おにいちゃんだから」とよけいに叱られたと思い込んだり、「弟でいつも損をした」と思い込んでおとなになってしまうと、<span class="b">おとなになってもあまり仲のよいきょうだいにはなれないことが多いものです。</span>

ある程度の年齢になっても、嫉妬心の不完全燃焼はけっこう長く心の中でくすぶり続け、しこりとなって残るものだからです。

きょうだいげんかは、てんぷらを揚げているそばで取っ組みあいをしているとか、ベランダから落ちそうになってまでやっているといった危険がない限りは、

<span class="b blue">家族は精いっぱい気配りをしながら、それでもだまって見ている心のゆとりが必要なのです。</span>

そしてけんかが一段落ついたとき、

<span class="b green">「いっしょにおやつを食べようよ」</span>と誘ってあげましょう。

<span class="b green">「けんかをしている二人は嫌い」</span>ではなく、仲良く遊んでいるとき、

<span class="b green">「お母さんは二人が仲がいいととても嬉しいの」</span>

と伝えてあげれば、やがて仲良く過ごす時間が増えてお母さんを喜ばせてくれることでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 10:29:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>実際に子供に体験させる</title>
         <description><![CDATA[ある夏に子ども達と一緒にサマーキャンプに行きました。

参加した子どものなかにいわゆる問題児がいました。

犬が大好きな小学四年の女の子でした。

お母さんに犬を飼ってほしいと言いました。

しかし彼女の家は団地です。犬は飼えません。

お母さんはダメだと言いました。


しばらくしてとんでもない事件が起きました。

お昼休みになると学校から彼女の姿が消えたのです。

先生が心配して彼女の後をつけました。

すると学校の近くのビルの屋上の段ボール箱のなかで小犬が彼女を待っていたのです。

給食のミルクを犬にあげていました。

そのことで学校中が大騒ぎになったのです。


この子がキャンプに参加したのでした。

サマーキャンプに参加した子ども達を連れて近くの河原に行きました。

裸足になって川に入りました。

五分もしないうちに多くの子ども達が

<span class="b green">「足がぬるぬるして気持ち悪い。水が泥で濁って汚い。つまんない。ファミコンの方がいい。テレビが見たい」</span>

の合唱です。

そのなかで彼女だけが夢中になって遊んでいます。
殿様蛙を手で捕まえて<span class="b green">「旅館まで持っていって飼うんだ」</span>といきいき張り切っています。

私は

<span class="b green">「もし大地震のような天災でもきたら、確実に生き延びるのは彼女だろうな」</span>

と話していました。


<span class="b blue">身をもって体験することの大切さ</span>を教えてくれる次のような例があります。

小百合（仮名）さんは小学校二年生です。

あまり運動神経が発達していません。

そのせいか逆上がりができません。

日曜日に公園に行ってお母さんと練習をしました。

お母さんは「腕を引きつけて」とか「もっと力を入れて」とか熱心にコーチをしています。

しかしうまくいきません。

お母さんが途中で一休みしました。

すると小百合さんは一人で逆上がりができたのです。

お母さんの言う通りにやらなければと考えると、かえってうまくいかないのです。

何も考えずに夢中にやっていたらできたのです。

<span class="b green">「あ、これでいいんだ」</span>というひらめきがありました。

それからは逆上がりがどんどんうまくなりました。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 08:35:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の不登校を相談する機関と医療機関の役割</title>
         <description><![CDATA[不登校については<span class="b">精神科</span>を含めた治療機関や、<span class="b">児童相談所</span>や<span class="b">その他の教育相談機関</span>で相談を受け付けてくれます。

しかし自分の子どものことをよそへ相談するべきかどうかを含めて、どうしたらよいのかがわからず途方にくれることが多いものです。

相談にのってくれるところの利用の仕方についての情報を知らない人も多いと思います。

子どもは親だけでも、親がいなくても育たない部分があることをふまえて、社会がともに子どもを育てていくということをこれまで以上に考えなければなりません。

さまざまな問題が起こったとき、大きく開かれた窓口がほんとうに必要になってきています。


子どもが学校を休み始めたとき、たいていの親はあわててしまい、子どもを叱ったり何とか登校するようにと哀願したりしますが、すべてがうまくいかないとやがて不安に陥ります。

不登校の多くは、子どもたちが登校前の頭痛や腹痛など身体のさまざまな不調を訴えることから始まることが多いのですが、

発熱や、下痢、食べた物を吐くといった目に見える症状で、この子は身体の深刻な病気だと周囲が納得するほどの症状がでる場合もあります。


親は身体相伝の病気を心配し、小児科や内科を受診します。

したがって現実的に不登校の子どもが最初に訪れるのが病院であることが多いようです。

ここで一番身近で、たぶん最初に不登校の問題を抱えた親子が訪れるであろう医療機関の役割について考えてみたいと思います。

朝になると頭痛や腹痛が始まり、登校できなくなって病院を受診したとき、病院ではまず身体の病気について検査してそうした症状の原因について知ろうとします。

そしていくつかの身体の不調につながるものがわかったとしても、それが学校を休まなければならないほどのものでもなく、

大きな病気が隠されているわけでもないことがはっきりしたならば、そのことを本人や親に伝えることになります。

身体に異常なしと喜ぶべき結果が出ているのですが、<span class="b">それが学校へ行かないことの問題解決になることは少ないのです。</span>

むしろ<span class="b green">「異常がないから心配ない」</span>ということを機械的に伝えてしまうと、

今度は病気でもないのに学校へ行けないという現実が親や子どもに重くのしかかってきてしまうことがあります。

学校へ行かないことを周囲にも納得してもらうほどの理由がないとはっきり宣言されたようなものですから、ますます追いつめられて途方にくれてしまうことがあるのです。

あいかわらず学校へは行けませんから、その後もいくつかの病院をわたり歩くことになったり、親が子どもを責め続けるなど、問題解決からはどんどん横道にそれる結果になることもあります。


最近では学校に行かない子どもがとても増えてきました。

かつてはほんとうに少数派であったために学校に行かないことは、当然の義務をはたしていない親と子として責められることも多かったといいます。

怠け者のレッテルを貼られたり、問題の親、問題の家庭と言われていました。


子どもが学校へ行かなくなったとき、親や家庭に問題があるといった狭い原因論を振りかざす風潮もありますが、

どんな家庭であっても「たたけばほこりが出る」ものであり、問題のある子どもの家庭として眺めれば、問題の一つや二つは簡単に見つかるものです。


<span class="b">たしかにほこりを取り除く努力も必要ですが、そのことにこだわっているだけでは問題は解決されません。

不登校になるにはいくつかの要因が複雑に絡み合って熟成した結果であることを認識して早く適切な対応が必要なのです。</span>

医療機関でも身体の疾患がないことがわかったとき、登校前に身体症状が出ることや、休日は比較的元気であるとかの情報をもとに不登校と判断し、適切な対応をする重要性が叫ばれています。

いくつかの研究でも、身体症状が出ている間に心理的配慮をすると、よい結果が出るということが言われていますので、ちゃんとした知識を持った人たちが望ましい配慮をしてくれるところも増えてきました。


子どもに現れる身体症状は、強い不安感や、行かなければならないのに行けないという葛藤によって引き起こされたものであるということがわかっています。

身体の病気はないからといって、

<span class="b green">「心配ないからがんばれ」</span>とか、<span class="b green">「気の持ちようだからしっかりしろ」</span>などと叱ったり激励することは、身体的苦痛を感じていて、決してうそをついているわけでもなく、自分のあずかり知らぬところで症状が出ている子どもの人格を見事に傷つけてしまいます。


必要なことは今学校に行けない子どもを無条件に受け入れ、少なくとも病院や家庭では不登校による偏見や不利益を受けないという保障をしてやることです。


身体の症状を否定されてしまうと子どもは自分自身が否定されたと感じ、それでなくても学校へ行けないことに後ろめたいものを感じているところに、阻害感や罪悪感をよけいにつのらせる結果となってしまい、問題をさらに複雑にしてしまうからです。

<span class="b">こうしてみると病院では身体の症状を受け入れ、苦痛を取り除いて楽になるための援助と、できることなら問題を整理するための援助が望ましいと言えるでしょう。</span>


こどもを支え、育てていくために必要な情報を提供できる役割も担ってほしいと願っているのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 03:07:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の性格・気質</title>
         <description><![CDATA[

<h3>子どもは一人ひとり、それぞれの個性をもって生きている</h3>


4歳のＡ君、お母さんはおとなしくて気が弱いことをとても心配しています。

保育者から見ても確かにおとなしくはありますが、工作が好きで長い時間熱心に製作する姿は楽しそうに見えます。

仲のよい友だちにははっきりと自分の意見も言っています。

お母さんに「大丈夫ですよ」と伝えても、不安はなくならないようでした。


現代の子育ては、親が子どもの性格・気質に過敏になりやすい状況となっています。

性格とはその人特有の一貫した行動様式、気質とは性格の基礎となるその人固有の気分といえます。

今、多くの大人は、子どもが成長する姿を身近に見る経験をもたずに親となります。

親になってからも、少子化で近所の子どもの集団関係も希薄であり、きょうだいも少なくなっています。

2歳児の自己主張も3歳児の引っ込み思案も4歳児の強がりも身近にその姿を見、それをこえてさらに発達していく子どもの姿を見ていれば安心してつきあっていくことができますが、

そのような経験がなければ、その時その時の我が子の状態が生涯続く欠点のように思われるかもしれません。

子どもを取り巻く環境の変化（いじめ、犯罪の低年齢化など）も、親たちに大きな不安を与えています。

親たちは子どもに、人とうまくやっていける性格を過度に求める傾向もあります。

望ましい性格・気質、よい性格・気質というものが存在し、教えること努力することによってそれが身につくように多くの親が考えているようにも思われます。

しかし、完壁な子育てをしても親の思い通りの性格に育つわけではありません。

一人ひとり、それぞれの個性をもって、生きて、発達、変化し続ける子どもです。


そもそも、望ましいよい性格・気質というものがあるのでしょうか。

よくいわれることですが、長所と短所は表裏一体のものです。

「乱暴」な子が「活発」であったり、「臆病」な子が「慎重」であったり、「ぼんやりした」子が「おっとり」していたり、さまざまな性格・気質がありますが、「よい性格」「困った性格」というものはないのです。


<span class="b">親にとって「よい」か「困る」かなのです。

子どもは親が自分の性格に困っていることに困っているのです。</span>


冒頭のＡ君も、お母さんが困っています。

社会とＡ君の間に立ち、このままでは社会で受け入れられないのではないか、うまくやっていくことができないのではないかと不安になっているのです。

少しでも生きやすいように、嫌な思いをしないようにと切実に願う親心ゆえに、事細かな注意を子どもに与えています。


こんな時、保育者は何ができるでしょうか。

いくら言葉をつくしても、お母さんの見方・考え方、行動を説得により変えるのは容易ではありません。

それよりはむしろ、親にしてほしいと思うことと同じことをしてあげるとよいでしょう。

困った親だ、よい親だと考えずに、心配しているお母さんの気持ちをそのまま受けとめるのです。

そして保育者自身がＡ君の性格の長所をたくさん見つけ出し、お母さんに伝えていきましょう。

一般的な話ではなく、今日Ａ君はお友だちとこんなことをしていました、こんなことを言っていましたよ、とエピソードをもって伝えられるとよいですね。

Ａ君の性格を別のとらえ方でお母さんに伝えることになり、自分以外にも我が子のよさを見てくれる大人がいるという安心感を与えることにもなります。

安心して余裕ができたり、保育者の子どもを見る視点に影響を受けると、親の育児観も変わるでしょう。

他の子どももわが子と同様に、失敗しながら成長していることにも気がつくかもしれません。

大勢の子どもに囲まれている保育者と異なり、親は我が子だけを見つめています。

期待や不安が過大になることもあるでしよう。

全ての性格・気質の中に長所を見つけ出し、

<span class="b green">「大丈夫。○○ちゃんのよいところ、私たちも見ているよ」</span>

と伝えてあげられたら、親も子もどんなに幸せになるでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 00:45:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学生とはどんな年代か</title>
         <description><![CDATA[一九八二年、東京・新宿歌舞伎町のディスコで遊んでいた中学三年生の少女が、その後ゲーム・センターで知り合った青年にドライブに誘われ、千葉市の郊外で殺害されるという事件が発生しました。

被害にあった少女は、殺される一週間ほどまえから家に帰らず、ディスコなどを遊び歩いていたといいます。


また、同じ年、二学期を目前にした八月末、神奈川県茅ヶ崎市で中学一年生の長男の登校拒否、家庭内暴力に悩む母親が、思いあまってわが子を絞殺するという事件が起きました。

その一週間ほどまえにも、神戸市で、家庭内暴力の高校二年生の息子を父親が思いあまって刺し殺すという事件があったばかりでした。

また、非行の増大とともに大きな社会問題となっている校内暴力事件も年々増加の一途をたどっていますが、子ども同士の暴力でついに死者を出すという事件（一九八二年・大阪）まで発生し、関係者ばかりでなく、同じ年ごろの子をもつ親にも大きなショックを与えました。


以上は、一九八〇年代はじめの中学生をめぐる問題の様子ですが、その後どのように変わったのでしょうか。

一九八三年には国会でも論議されるなど政治問題にまで発展した校内暴力は、その年をピークに下降線をたどります。

そして、代わって浮上してきたのが集団いじめなど<span class="b">陰湿ないじめの流行現象</span>です。

いじめを苦に自殺するという事件が相次ぎました。

また、報復ないしはいじめ地獄から逃れるために、相手を殺害するという事件も起きています。


このいじめの流行現象も三年ほどで下火になりますが、次いで問題になるのが、<span class="b">登校拒否の増大</span>です。

このように、子どもの問題行動の状況はめまぐるしく変化していますが、このことは、子どもをめぐる問題はなにひとつ変わっていないことを物語っています。

その証拠に、いま再び中学校は、子どもの暴力で荒れはじめています。


文部省がまとめた一九八八年度の「児童生徒の問題行動実態調査」は、登校拒否の増大とともに校内暴力がふたたび急増傾向にあると報告しています。

それによると、教師に対する暴力事件は中学、高校で前年に比べ二〇％前後の増加。

学校の設備などを壊す「器物破損」も目立ち、なかでも中学校では前年に比べて六二％も増え、六年前の水準にあともどりした格好です。

「いじめ」も依然として深刻な状況で、一時期ほどではありませんが、「いじめ」が原因と見られる子どもの自殺もあとを断ちません。

勉強で追い詰められた中学二年生の少年が、両親と祖母を殺害するという衝撃的な事件も起きています。（一九八八年・東京）

ツッパリグループではない普通の中学生同士の乱闘で死亡事件も起きています。（一九八九年・千葉）


このような事実は、今日の子どもの発達にもかかわる問題ですが、中学生という年代のむずかしさを改めて示すものといえるでしょう。


もちろん、中学生という年代のむずかしさは、非行、登校拒否、家庭内暴力といった顕著な問題行動ばかりではありません。

<span class="b green">「中学生になったら、なにも話さなくなった」

「なにを考えているのかさっぱりわからない」

「なにかと親に反発する」</span>

といったように、第二反抗期と呼ばれるこの時期の子どもの扱いについての悩みは、一般的に年ごろの子をもつ親の共通の悩みです。


このように親にとって悩み多い中学生という年代は、どのような年代なのでしょうか。


発達心理学（児童心理学や青年心理学のように、子ども・青年の精神発達の過程を扱う)では、中学生、高校生の時期を、思春期とか青年前期と呼んでいますが、中学生はその思春期の入り口にあたります。

それでは、思春期とはどのような特徴をもった年代なのでしょう。


第一の特徴は、思春期ということばが、英語のＰＵＢＥＲＴＹに由来するように、<span class="b">性的な発達</span>です。


第二次性徴期と呼ばれるように、性腺（男女の生殖器官）が発達し、男の子は声変わりしたり、骨格がたくましくなって男らしいからだつきになり、

女の子は乳房がふくらみ、皮下脂肪が多くなって丸みをおびた女らしいからだつきになります。

生理的には、男子には精通現象、女子には初潮があります。そして、おとなのしるしとしての発毛をみるようになります。


第二の特徴は、親への依存を断ち切って、独立をはかろうとする<span class="b">精神的自立</span>という問題です。

自己主張が強くなって、親の干渉をきらい、親や教師にたいする批判の目も育ってきます。


<span class="b">つまり思春期というのは、心身の発達の変容期であり、子どもからおとなへと脱皮をはかる「さなぎの時代」です。</span>


十八世紀フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーは、この時期の特徴をとらえて、「第二の誕生」と呼びましたが、

思春期とか、青春時代というのは、人間の一生にとって、まさに人生のドラマのはじまりなのです。

このように、子どもの発達にとって重要なふし目である思春期をどう生きるかによって、子どもの自己形成の仕方が変わってきますし、

<span class="b">青春時代をどう生きるかによって、その人の人生が決まる</span>といっても、けっしていい過ぎではありません。

このカテゴリーでは、重大な成長期にある中学生を、親としてどのように見守り、どのような励ましと援助を与えていったらいいか、

家庭における親子関係のあり方、受験体制と学習、友だち、男女交際と性、非行など、具体的な問題に即して考えてみたいと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 00:13:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの夢を応援し、勇気づける</title>
         <description><![CDATA[小学二年の孝（仮名）君です。

一生懸命サッカーボールを蹴っています。

孝君の蹴るボールはときどきとんでもない方向へ飛んでいきます。

でも孝君はめげません。

全力で走っていき、ボールを拾っては蹴っています。

お母さんが夕食に呼びにきました。

孝君はあと十本と言ってシュートの練習をやめません。

お母さんが孝君に言いました。

<span class="b green">「お前はサッカーが好きなんだね。大きくなったらサッカーの選手にでもなりたいのかい」。</span>

<span class="b green">「うん、僕大きくなったらＪリーグに入って中山選手みたいになるんだ」。</span>

お母さんが言いました。

<span class="b green">「だってお前、足は遅いし、運動神経だってそんなによくないじゃないか。プロの選手なんか無理だよ」。</span>

孝君は泣きべそをかきながら言いました。

<span class="b green">「大丈夫だよ。僕がんばって絶対なるんだから」。</span>

野球で有名な王選手を始め一流と言われた人も、初めは有名な選手になりたいという夢をただ一生懸命追いかけて努力をしていただけなのです。

孝君は中山選手みたいになれないかも知れません。

<span class="b">しかし夢を追いかけて一生懸命がんばることは大切なことです。</span>

そしてそれは孝君がほかの人生を歩んでも必ず役に立つことなのです。


親は子どもの夢を壊してはいけません。


<span class="b green">「中山選手みたいになれるといいね」</span>と言ってあげることが、我が子を勇気づけ、子どもの能力を発揮させるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 01 Oct 2008 17:23:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「ほうび」を与えることの注意点</title>
         <description><![CDATA[犬に「おすわり」とか「ふせ」といった動作を教えようとするとき、よくほうびに食べ物を与えようとします。

犬に「おすわり」と声をかけ、犬が地面におしりをついてすわったら、それでいいのだと伝えるために餌を与えます。

犬は餌をもっともらおうという意欲をかき立てられ、だんだんと「おすわり」の意味を理解していきます。


これは一見なかなか効果的な方法にみえます。

ビスケットひとかけらや、ちびた者芋のためにけっこうがんばるからです。

ところがいつのまにか<span class="b">「おすわり」と言われると、座りながらよだれをたらす犬</span>になってしまうことがあります。

犬を上品に育てたかったら、「餌でつる」のはほどほどにしたほうがよさそうです。


ところがこうしたできごとは犬に限らないのです。

一〇〇点とったら、おもちゃを買ってあげようとか、お金をあげようとか、こうした犬には効果的なビスケットや煮干がわりの報酬を使って、なんとか子どもの成績をあげようとすることがあります。

子どもはおもちゃやお金欲しさにがんばるかもしれません。

そしてそのうち一〇〇点とるたびに<span class="b green">「おもちゃを買って」「お金ちょうだい」</span>と要求するようになることでしょう。

そのうちもの欲しそうによだれをたらしたりして……。


ところが問題はそれだけではないのです。


子どもにはもともと新しいことが知りたい、のぞいてみたいという気持ちが備わって生まれてきています。

物を壊すいたずらの多くは、子どもの知りたい気持ちがこうじたものであることに気づきますし、

子どもがわからないことに出会うと<span class="b green">「なぜ？」「どうして？」</span>ときらきらした目をして質問してくることからもわかります。

学校の先生たちの中には、そうした子どもの知りたい気持ちを大切にして、やる気を引き出すためにいろいろと工夫を凝らすことに、とても熱心に取り組んでいる先生も多いものです。

ところがおもちゃやお金という目的を鼻先にぶら下げられてしまうと、子どもの心はおもちゃやお金のことで大きく膨らみ、

<span class="b red">勉強の目的が「ほうび」にみごとにすりかわってしまいます。</span>

それまで、子どもがもともと生まれたときから持っていた知りたい気持ちややる気は、とうとうどこかへ押しやられてしまうのです。

子どもはやがて、親からもらうほうびを期待するだけのために勉強するようになることでしょう。

そうなると、ほうびがもらえなければ勉強したいという意欲がわかなくなったり、そしてとうとう少しぐらいのおもちゃやお金ぐらいでは意欲をかき立てることができなくなってしまうのです。

気がつけば勉強への意欲をそぎとってしまった仕掛人は、一番勉強してもらいたいと思っている親自身だったりします。

大きくなるにしたがってだんだん勉強しなくなった子どもの中には、おもちゃやお金で一時的にがんばってしまった子どもたちがいます。

<span class="b blue">勉強で知った知識がおもしろかったり、苦しい練習の結果が上出来だったりすれば、子どもはそれを次のステップへの励みとすることができます。</span>

たとえ結果が思わしくなくても、それまでの努力をちゃんとわかってくれるお父さんやお母さんがいてくれたなら、子どもは次の課題にチャレンジする意欲がわいてきます。

やがて自分の意志で自分のためにやりはじめることでしょう。

犬だっておすわりができたときに、頭を撫でてその賢さに心から敬意を表すれば、次もまた喜んでおすわりをしてくれることでしょう。

自分の意志で喜んでやるという行為に少なくとも餌の見返りを期待する卑しさは感じられません。

子どもも物につられて動く卑しい人間にではなく、上品に育てましょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 01 Oct 2008 14:08:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供が「学校へ行かない」ということ</title>
         <description><![CDATA[なぜ学校へ行かなくなってしまうのか、そんな子どもたちにどんなことをしてあげられるかについては、これまでに多くの人たちがたくさん論議を繰り返してきました。

心理療法としてのかかわりという観点からみても、とても大切な問題が含まれているので真剣に考えなければなりません。

不登校には心身症や他のさまざまな心理的な問題とそのとらえかたにおいて少し違うところがあります。

それは不登校を考えている専門家によって、子どもの何を目指すのかが異なっている点なのです。

胃潰瘍や気管支喘息などの病気は治療目標がはっきりしています。

苦痛を取り除くことであり、病気そのものが治ってしまうように皆が努力をします。

頭痛や腹痛といった痛みもそれを取り除くか、楽になるために治療をします。


<span class="b">しかし不登校の場合、そのゴールは必ずしも同じではないのです。</span>

多くはまず学校に行けるようになること、学校からはみ出しているのだからちゃんと戻れるようにはたらきかけるのだといったとてもはっきりした目標をかかげることがあります。


しかし、今子どもたちが通っている学校は知識偏重があきらかであり、集団から逸脱することを許さず対人関係も歪んでいじめなどの問題を抱えていることを考えれば、

<span class="underline">子どもが学校に不適応を起こすことは正常な反応なのだ、大切なのは学校にこだわらずに生きていけること</span>と考える学者もいます。


教育現場では学校に再び登校するようになったとき、子どもががまんする力をつけ、学校生活をちゃんとやって行こうと決心したのだと考えることが多いので、学校に戻れるようになるよう子どもにはたらきかけ、周囲も努力することが多いようです。


医療や心理療法をする側では、子どもに学校場面も含めてストレスが増えていることや、社会の歪みや学校そのもののさまざまな矛盾が背景にあると指摘する人が多いように思えます。

どちらが絶対正しいということはなく、子ども自身の状況やその置かれている環境によって複雑な問題があるというのが実際のところのようです。


不登校に取り組む人によって背景のとらえ方が異なれば、当然その目指すところが微妙に変わってきます。

こうしたことから学校へ行かなくなった子どもを前にして、何を目指して子どもとかかわるかについて親や先生も含めて混乱してしまうことがあります。


<span class="b">今の社会の中で子どもの幸せがわかりづらくなっているとも言えます。</span>

少なくとも私たちがいつも考えることは、

<span class="b">子どもたちが自分自身のことがよくわかり、自分のしたいことがちゃんと見えるように援助することが必要だということです。</span>


学校に行く行かないに振り回されている状況から、ちょっと離れて子どもが自分らしく生きるために何ができるかを考えてみる努力をしなければならないと思っているのです。

それがほんとうに望ましい将来への道づけであるようにとみんなで考えていくことができるようにのぞんでいます。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 01 Oct 2008 01:30:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>失敗を通して学ぶことがたくさんある</title>
         <description><![CDATA[五年生の男の子達が校長室の前でキャッチボールをしていました。

力があまって一人の男の子が投げたボールが校長先生の部屋のガラスを割ってしまいました。

校長先生が窓の外に出てきました。

子ども達は怒られるのではと身を縮めています。

校長先生は

<span class="b green">「割れたガラスが危ないから片付けようよ」</span>

と静かに話しかけました。

片付け終わったところで校長先生は再び子ども達に言いました。

<span class="b green">「今度キャッチボールをするときどんな風にやったら、ガラスを割らないでやれるかな」。</span>

子ども達は話し合って

<span class="b green">「校舎から離れてキャッチボールするよ」</span>

と具体案を出しました。

<span class="b green">「そうだね。今度からはそうしようね。ところで今度のことをどう思うね」</span>

と校長先生が聞きました。

生徒達は<span class="b green">「ごめんなさい」</span>と素直に謝りました。


<span class="b">子ども達が失敗したときこそ、子どもの能力を伸ばすチャンスなのです。</span>

再び失敗をしないような代替案を考えてもらうのです。

そうすれば子どもは同じ場面で同じ失敗をしなくなります。

経験から知恵を得たことになります。

<span class="b blue">経験から学ぶことによって能力は伸びるのです。</span>


失敗した子どもを親はつい叱ってしまいます。

それでは失敗から子どもは何も学びません。

ぜひ子どもに代替案を考え出すように励ましてください。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 30 Sep 2008 15:39:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゲームをやめさせたい</title>
         <description><![CDATA[<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="子育ての質問" />
</span>

テレビゲームをするときに、兄弟で取り合いになり、けんかが絶えません。

どうしたらいいですか？

親としてはあまり子どもにゲームをしてほしくないのですが……。

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office11.gif" wigth="100" height="100" alt="子育ての質問に対する回答" />
</span>

まず子どもが夢中になっているものをやめさせることは、テレビゲームに限らず余りいいこととは言えないと思います。

やりたいことをやめさせると、何もしない、無気力な子どもになり、一日中つまらなそうにすごすか、親に隠れてやりたいことをやる工夫に精出すかです。

<span class="b">夢中になっているものをやめさせたいのなら、それ以上に面白いものを見つけてあげることが必要です。</span>

外で友達と遊ぶことの面白さを見つけた子どもは、自然にテレビゲームを忘れます。


テレビゲームをストレートにやめさせたかったら、親がファミコンに夢中になってしまうのも一案です。

親が夢中になると、子どもは段々関心を失っていきます。


また、親がテレビゲームは嫌いだからといって、その考えを子どもにおしつけるのは良くないと思います。

きょうだいげんかしないでやってもらいたかったら、<span class="b green">「けんかしないでやってほしい」</span>と提案をしてみる必要があります。

何かに夢中になっているということはとても良いことで、それがテレビゲームでなければもっと良いのでしょうが……。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育てＱ＆Ａ</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 30 Sep 2008 07:17:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あなたが聞き上手になれば、子供は愛される大人に育っていく</title>
         <description><![CDATA[お母さんが子どもの代わりにしゃべり続けることがあります。

<span class="b green">「頭が痛いのは、どんなときに多いの？」</span>

と子どもにたずねます。

子どもが口を開く前に、

<span class="b green">「一日中痛いと言うんです。それからスイミングに行く前なんか特に痛いって言うわねえ。

ひょっとしたらコーチの先生が厳しすぎるのかしら？　薬を飲んでもきかないんですよ。
それから学校では……」</span>

ついでに、
<span class="b green">「この子は自分では何も言えなくて……」</span>

などと締めくくられると、今度は私がこの子に同情して何も言えなくなってしまうのでした。

たしかに子どもは自分のことをちゃんと相手に伝えられるほど器用ではありません。

話すことを繰り返して育っていくうちに、上手な自己主張ができるようになっていくのです。

その大切な過程をいつも邪魔し続けてしまうと、本当に自分のことが何もしゃべれなくなってしまうことがあります。

最近は、<span class="b green">「さあ、しゃべっていいよ」</span>と言うと、戸惑った顔をする子が増えてきました。

<span class="b">これまでしゃべってこなかったこと、そしてしゃべったときに聞いてもらえなかったことがわかるのです。</span>

家族は子どもの自己主張を受け止めるという大切な役割をも担っているのです。

なにより子どもはお父さんやお母さんに話を聞いてもらうのが好きなのです。

ところが、

<span class="b green">「部活の練習がきついんだ」

「じゃあ、やめなさい。やめないんだったら文句言わずにちゃんと続けなさい。

話はそれだけなの？　ぐずぐずしないで宿題やりなさい」</span>

これでは子どもの話を聞いたのではなく、指示しただけの会話で終わってしまっています。


子どもは部活をやめるとか続けるとかその判断をしてもらいたかったのでしょうか。

練習のきつさを聞いてもらいたかっただけかもしれないのです。

きついのにがんばっているのをみとめてもらいたかったのかもしれません。


いずれにしても子どものしゃべりたい気持ちをすっかりしぼませてしまったことには間違いなく、<span class="underline">話してもしょうがない</span>ということだけはちゃんと伝わったことでしょう。


<span class="b green">「うちの子は学校で自分の意見が言えないんです。どうしたらいいでしょう」</span>

という相談の中には、こうして育った子どもがたくさんいます。


今どきは、お母さんが忙しくなってきました。

子どもがお母さんに話したいと思ったとき、それがお母さんにとって、とても忙しいときだったりします。

そんなとき、<span class="b green">「後で話を聞くから」</span>ということが多いものです。

ときには、

<span class="b green">「うるさいわね。あっちへいってなさい」</span>

とまるで悪いことをしたかのように扱うことすらあります。

お母さんの気持ちとしては、どうして私の忙しさがわからないのかしらと子どもの配慮のなさを嘆いたりしますが、

<span class="b">子どもは今話したいことを今話さなければ、煙のように話したい気持ちが消えていったりするので、焦って話そうとするのです。</span>

その証拠に、子どもの話はちゃんと聞いてやらなければならないという子育ての基本に気がついたお母さんが、後になって、

<span class="b green">「なにか話したいことがあったんでしょう。話してごらん」</span>

と声をかけても、漫画に夢中の子どもはそれどころではなく、「別に……」と漫画本から顔すらあげようとしません。

せっかく聞いてあげようと言ってるのにとここでまたお母さんと子どもの気持ちはずれてしまいます。

幼いうちにずれ続ければ、大きくなって思春期にでもなればもっと派手にずれてしまいますから、<span class="b">わが子が何を考えているのかわからない、話してくれない親子ができあがってしまいます。</span>


働いているお母さんが増えてきました。


子どもと接する時間が短いというハンディがありますが、私たちの経験からして、働いているお母さんの子どもに問題が多いということはありません。

働いているお母さんでも、子どもが、

<span class="b green">「あのね、お母さん……」</span>

と駆け寄ってきたとき、頭をからっぼにして子どもの話を聞く心のゆとりさえあればいいのです。

たとえ夕食の準備がちょっと遅れようが、洗濯物を取り込んでいる途中であろうが、今話したい子どもの気持ちに感度よく反応できるデリカシーがあれば子どもはちゃんと自分のことを伝えることができるように育っていきます。

子どもの話はたいして時間はかからないものです。

それにちゃんと聞いてもらった経験が積み重なると、「後でちゃんと話す」ことができるようになりますから、お母さんの手の空いたときにゆっくり聞けるようになるものなのです。


周囲を見渡せば、話を聞いてもらいたい友人がいるものです。

相手の話にちゃんと耳を傾けることができる、そして同じ気持ちを感じようとしてくれる友人です。

そんな友人と話していると穏やかな気持ちになって、ややこしい問題もなんだか解決の方法が見えてくることがありますが、

ちゃんと話を聞いてもらって育った人は、聞き上手になって、愛される大人になっていくのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 30 Sep 2008 05:39:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の反抗は自己主張</title>
         <description><![CDATA[<span class="b">反抗期</span>という時期があります。

二、三歳頃にやってくる第一次反抗期、そして思春期の第二次反抗期をさしていいますが、<span class="b green">「この頃反抗期で……」</span>という場合、親の言う通りに行動しなくなったことと同義に使われることが多いようです。

おとなの立場からするとおとなに反抗するから「反抗期」ということになりますが、はたしてそうなのでしょうか。


中学生のＨ美さんは勉強もできるし、真面目でいい子だと言われています。

Ｈ美さんに仕事を任せれば安心なので、担任にも頼りにされていました。

家でもあまりはめをはずしたことがなく、手のかからない子でした。

最近クラスでいじめがあり、クラス委員のＨ美さんはいじめの当事者と話し合ったりしていましたが、うまくいきません。

その頃より成績が落ちはじめ、家でもぼんやりすることが多くなってきました。

三歳のとき腸の手術を受けたことがあるＨ美さんは疲れると腹痛が起こります。

便秘にもなりやすいのですが、最近は強い腹痛で夜救急外来に駆け込むことが何度か続くようになってしまいました。

そのために学校も欠席することが多くなりました。


お母さんは病院で、腹痛の発作はストレスによって引き起こされることがあると説明を受たまけましたが、信じられません。

何でもよくできるＨ美さんにストレスが溜っているとはとても思えなかったからです。

しかし便秘もひどくなっていたので、治療を受けることになりました。


約三カ月後、だいぶ症状がよくなってきた頃、お母さんは、

<span class="b green">「病院に通い始めたら、扱いにくい子になってしまいました」</span>

とちょっと不満そうな表情でやってきました。

親の言うことに逆らったことがなかったＨ美さんが、<span class="underline">最近は「いやだ」と言うことが多くなった</span>というのです。

しかも言いつけられた家の手伝いをしなくなり、ときには親に内緒で塾をさぼったりします。

叱っても口答えをするので、お母さんとしてはとてもショックを受けたのだそうです。

Ｈ美さんにたずねると、<span class="b green">「今は自分のしたいようにすることがちょっと楽しい」</span>といいます。

<span class="b f11em">親に逆らっているという気持ちはない</span>のでした。

病院の心理療法はＨ美さんに自己主張するきっかけを与えました。

自分が思っていることを外へ表明することはストレスを避けることができたり、解決する手段になることが多いものです。

なにより心の中にため込んで「腹膨るるわざ」の腹痛や便秘にはとても必要なことだったのです。


子どもが自分でやってみようと思い始めたとき、お母さんにしてもらっていたことを自分でやるんだと言い張ることがあります。

自分でコップに牛乳を入れるんだとお母さんの手を牛乳のパックから払いのけようとします。

コップに入れるどころかこぼれることが多いとわかっているので、<span class="b green">「いたずらはやめなさい」</span>と叱ってしまうのです。

毎回<span class="b green">「一人でやる、やらせない」</span>で泣きを見ることが続くと、

<span class="b green">「うちの子は反抗期になっちゃって……」</span>とため息混じりにぐちりたくなることでしょう。

親からすれば反抗以外のなにものでもない、困った問題と思いがちですが、子どもからすると<span class="b green">「ぼくがやってみるんだ」</span>という未知なるものへの挑戦に近い感覚なのです。


自分というものを初めて意識するのが、この第一次反抗期というものです。

中学生ぐらいになると今度はおとなとしての自分を感じ始めます。

何でも万能にみえて、とても大きかった親がもう少し近い存在に見えてくるのです。

そしてもうおとななんだからと親と対等にわたり合いたいという気負った気持ちと、それでも親がいなければ一人ではやっていけない現実もどこかでわかっている力不足のジレンマを感じています。

せめて一人前に扱ってほしい、そのために<span class="b green">「私はこうしたいの」</span>と自己主張し始めるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 29 Sep 2008 21:40:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「自分で決める」経験を積ませる</title>
         <description><![CDATA[おとなは子どもより経験と知識が豊富だから、こっちのほうがうまくいくという見通しがつけられます。

このまま行ったら回り道になることがわかっていると黙っていられなくて、つい誘導したくなってしまうものです。

しかし子どもの責任のとれる範囲で自分で決めるチャンスを与えられる、そんな経験は子どもの自立心を育て、自尊心をはぐくむことができます。

子どもにチョコとバニラのアイスクリームのどちらを食べたいかをたずねて、選ばせてあげたとき、チョコを選んだけれど、食べてみたらやっぱりバニラがよかったのになどということはよくあることです。

お母さんに「チョコレートにしなさい」と言われて選んだのだったら、ほんとうはバニラのほうがよかったのになどと未練がましい気持ちがわくかもしれませんが、

<span class="b">自分が決めたとなると、こんどはバニラにしようと納得するかもしれません。

同じアイスクリームを食べても結果に満足する気持ちに差が出てきてしまいます。</span>


アイスクリームぐらいならどうということはありませんが、

<span class="b blue">自分で決める経験の不足は将来の思わぬつまずきに発展することもあります。</span>


Ｙ雄君は一九歳で医学部一年生です。

彼は今大学の講義が理解できないと悩み続けています。

彼の悩みは、自分が何をしたいのかがわからないということでした。

本当にやりたいことと違うことをしているようでいつも不安な気持ちになってしまいます。

誰がみても能力はあるはずなのに、まるでパイプが詰まってでもいるかのように伸び悩んでいます。

Ｙ雄君がこれまでどんな生活を送ってきたのでしょう。

お父さんはとにかく勉強して、大学に入れば将来が約束されるのだという思いが強く、お母さんと二人で塾へ通うことや成績をあげるための援助は惜しまなかったのです。

私立の幼稚園、小学校に通いそれなりに成績もよかったのですが、高校に入学した頃から成績が思うように伸びなくなり、大学受験にも失敗して浪人しました。

それでもお父さんの決めた予備校で、マニュアル通りの受験勉強をして今の大学に入学したのです。

お父さんは大学にさえ入れば将来は約束されたと、あとは何も言わなくなりました。

お祝いに海外旅行にも行かせてくれましたし、車も買ってくれました。


Ｙ雄君は大学生活を大いに楽しむはずだったのですが、一年生の単位がとれるかどうかもあやしい状況になってしまいました。


Ｙ雄君はこれまでの自分を振り返り、勉強したのは親のためで、

<span class="b">いい点数をとっても、自分ががんばって成績をあげたという実感が持てずに苦しんでいたのでした。</span>

大学に入学できたのも自分の力で受験を克服したというより、お父さんの決めた方法でやれたのだから、自分の力ではないという気持ちになってしまうのです。

いいことばかりが「親のおかげ」というわけにはならず、成績が下がるとこんどは「親のせい」で親を恨みたくなってしまう自分を持てあましていたのです。

必死で親を越えようとジタバタする青年期という時期に、自分で自分のことを決めたという実感が持てないまま一九歳までなってしまっていたのです。


大学は自分で勉強の仕方を試行錯誤する場面にぶつかります。

Ｙ雄君はこれまで選びたくても選べないことを繰り返すうちに、与えられることになれてしまったので、突然の自由はこの上なく不自由となってしまいました。

Ｙ雄君のお父さんは、そのつどＹ雄君の将来にとって最善と思われる方法を選択してきたことでしょう。

こうした親の気持ちの中には、子どもは何もわからないのだからという思い込みがあります。

子どもと深くつきあっていると子どもには判断する力や考える力がかなり備わっていることに気づきます。

足りないのは知識と経験だけなのです。


おとながきちんとした情報を伝えること、そしてみずからの経験を判断材料として子どもに話すとき、子どもは驚くほど冷静に判断することが多いのです。


<span class="b green">「子どもが自分で決めたんですよ。決して親が押し付けたわけではありません」</span>

というお父さんやお母さんがいます。

たしかに子どもは自分で決めたかもしれませんが、ときには親の気持ちを先取りして、親が喜びそうなはうを選ばされていることがあります。

こうした場合、親も子どももとりあえず「手続きをふんだ」という儀式を繰り返しているに過ぎないことがあります。

こうした場合、親は子どもの気持ちを尊重したつもりになっているし、子どもは親の意向にただ添っただけというもっとややこしい問題になることも少なくありません。


<span class="b">私たちは子どもが自分で判断できそうなことにはちゃんと情報を提供して判断させることをもっと考えなければなりません。

そして自分が選んだことには責任があるのだということを知らせてやったほうがいいのです。</span>


だからといって、<span class="b green">「あなたが決めたんでしょう。お母さんは知りません」</span>

とまるで、<span class="b green">「だからお母さんがいいと言ったほうにしておけばよかったのに、これからはお母さんの言うことを聞くのよ」</span>

という影の威圧するメッセージを送ったりすることもありますが、取りきれない責任をときどき背負ってあげるのも、子どもを育てるということです。


チョコとバニラのアイスクリームをニッと笑って交換したりするのはご愛敬、言ってみればハンドルの遊びのようなものなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 29 Sep 2008 12:46:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>上手な子離れ</title>
         <description><![CDATA[子どもが親から離れて生きていけるようにと前もって大げさに考えなくても、子どもの気持ちを尊重して育てていれば、子どもの成長のあかしとしてやがてその時期はやってきます。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　Ｇ雄君は身体が小さくて中学に入学しても、小学生によく間違われます。

お父さんは単身ふにん赴任が長く、小さい頃からお母さんとの生活が中心でした。

最近頭痛がひどく病院に適っています。

さまざまな検査をしましたが、特に病気は見つかりませんでしたので、心因性のものだろうと言われました。

Ｇ雄君にどんな悩みがあるのかたずねてみますが、特に何もないと言います。

あまり話してはくれません。

学校では何でもよくできると言われ、成績もよいほうでした。

お母さんはとても心配して自分も頭が痛くなると言います。

小さい頃から二人で生活してきたので、今もいっしょに寝ていますし、Ｇ雄君専用の個室があるのに、いつもお母さんのいる部屋で勉強していました。


ところが最近、ときどき自分の個室に閉じ込もるようになりました。

机にかぎ鍵をかけたりするようにもなりました。

お母さんは学校での様子を聞き出そうとしますが、なんだか以前のようには話してくれないのでした。

心配でたまらないお母さんはＧ雄君が学校へいっている間に部屋を調べたりします。

Ｇ雄君の頭痛はその頃から始まったようなのです。

Ｇ雄君はそろそろ身体にもいろいろな変化が現れる思春期に入ろうとしていました。

今までほお母さんといっしょがとても心地よかったのですが、最近はちょっと違います。

お母さに話したくないことや秘密にしておきたいことができてきたのでした。


ところがそうした心身の成長に気づかないお母さんは<span class="b">自分を無視されたような気</span>になりますから、あれこれ聞き出そうとしますし、Ｇ雄君のことをすべて知ろうと努力していました。


思春期のおとなの入口に子どもが親から自立するとき、それは子どもが秘密を持ち始めるときから始まっていくということを知っておかねばなりません。

そしてそうした秘密を打ち明けることができる親友ができたときおとなになる準備が整うのです。


デスモンド・モリスという人はサルの観察からその子育てを「しっかり抱いて、下におろして、ほっといて」の三段階があるといっています。


（１）赤ちゃんのときは片時も離さず、しっかり抱いて育てて、

（２）自分で歩けるようになった頃は下におろして何かあったらすぐかけつけることのできるお母さんの目の届く範囲内で遊ばせ、

（３）思春期になったら自立させるという子育てがいいということです。


最近は赤ちゃんは何もわからないからとほっといて、思春期になってもまだ子どもだといつまでも抱き続けることが増えてきたように思います。

できればサルのあざやかな子育てに大いに学びたいものです。

Ｇ雄君はぎこちない親離れに頭痛があらわれ、そこには子離れがもっと下手なお母さんがいたのでした。


子どもが生まれて、お母さんと子どもはとても緊密な関係になっていきます。

それはとても大切なことです。

そしてお母さんとは異なった役割でお父さんとも緊密な関係がつくられていきます。

ところが何らかの原因で夫婦としての緊密さより、親子の緊密さが強くなってしまうとちょっと厄介なことが起きることがあります。


Ｇ雄君のお父さんは単身赴任で不在がちでしたが、家族のことを考えるより、仕事の段取りを考えるほうが生き生きしていたり、

家族に向き合うことを少し面倒に思うお父さんやお母さんは、たとえいっしょに生活していてもいなくても、やっていける程度の存在感しかなくなってしまうことがあります。

<span class="b">そんなとき家に取り残される夫や妻は相手に向ける関心の分までも子どもに向けるようになって、ときには親から自立しようとする子どもの助走に立ちはだかることがあります。</span>

ここで大切なことは、お母さんとお父さんの心理的距離なのです。

子どもの存在が両親の杵をより強くしていくことができれば、子どもを一人の人間としてちゃんと扱うことはそんなに難しいことではありません。

ところが夫婦の杵よりも強く親子が結び付いてしまうと、子どもの自立に戸惑いと孤立感が生まれてしまいます。

「私を捨てないで」と意識するしないにかかわらず、

<span class="b">子どもをいつまでも「私だけの子ども」にしておきたくなってしまうのです。</span>




子どもが生まれるということは、それまでの夫婦だけの杵から、親と子という新しい絆が生まれることを意味します。

子どもを含めた関係は、夫婦だけの生活にはなかった複雑さがあります。


子どもが親離れの時期をむかえたとき、

夫婦の関係が以前にもまして親密な間柄に成長し、子ども抜きにしても充実した生活が送れるのなら、子どもの自立を心から喜び、援助していくことができます。

これこそが<span class="b blue">「上手な子離れ」</span>と言うことができましょう。
上手な子離れのためにはずっとその前から、夫婦としての「心の貯金」が必要です。

父親と母親の役割が一段落ついたとき、二人で過ごす時間がなにより心満たされるように、お互いの心をすり寄せて積み上げておかなければならないということです。

これは老後の年金や貯金と同じくらい、もしかしたらもっと大切なことなのかもしれないのです。


母子家庭や父子家庭は「欠損」家庭と呼ばれることがあり、それだけで問題がありそうに言われたりしますが、<span class="b">それは偏見にすぎません。</span>

心身ともに健やかに育っている子はたくさんいます。

あえて問題があるというなら、一人の親が二人分の役割を担うたいへんさがあり、混乱することがあるということです。

そうしたややこしさがあることをちゃんと心にとどめて育てていけばいいのです。

両親がそろっていても一人分の役割を担うこともできない家庭もあるのですから……。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 29 Sep 2008 12:02:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の力が発揮できる場所を探しましょう</title>
         <description><![CDATA[あなたのお子さんはどんなところにすてきな能力を発揮しているのでしょうか。

どんな子どももどこかにすてきな能力を発揮する場所があるものです。

<span class="b">与えられた自分の能力を最大限に発揮できればそれが幸せな人生になるのです。</span>

他人と能力を比較して、自分の能力を悲観することはないのです。

親が見つけなければいけないものは、<span class="b blue">子どもの持っている能力を発揮できる場所</span>なのです。

そしてその場所をお母さんは子どもに教えてほしいのです。

たとえば、こんな例があります。

正彦（仮名）君は自閉症児です。

友達関係が作れず会話も不十分です。

お母さんは将来をとても心配していました。

中学校を卒業することになりました。

学校の先生の紹介で陶芸の先生に会うことになりました。

先生が粘土をいじらせたところ、正彦君は関心を持ったらしく、一生懸命捏ねていました。

しばらく陶芸の先生の元で修行をすることになりました。

陶芸に関してとても集中力があり、反復作業も飽きずに繰り返してがんばります。

どんどん腕が上達しました。

半年もしない間に、売り物になる焼き物を作るようになりました。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 29 Sep 2008 05:09:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>自分を好きになることを教えると子どもの能力は伸びる</title>
         <description><![CDATA[どんな子どもが自分の能力を十分に発揮することができるのでしょう？


不登校の小学五年の男の子の話をしましょう

私は彼に尋ねました。

<span class="b green">「君は自分のことが好きかな？」。</span>

彼はちょっと戸惑って答えました。

<span class="b green">「自分のことなんか大っきらいだよ。勉強はできないし、スポーツすればドジばかり。

僕が出たばかりにクラスの対抗リレーには負けてしまう。

家だって学校だって親や先生に怒られてばかりいる」。</span>


彼は深く自尊心を傷つけられています。

<span class="b">何かを始める前に自分は失敗するに決まっているという誤った信念を心の奥に育ててしまっているのです。</span>

こういう子どもに限ってうまくいくとまぐれだと思い、失敗すれば自分の思った通りだと納得してしまうのです。

何かに挑戦することを避け、結局自分の能力をしぼませてしまうのです。


<span class="b">子どもの能力を伸ばしたかったら、ぜひありのままの子どもを受け入れてください。</span>

こんな僕でもお母さんが喜んでくれていると子どもが感じたとき、子どもは能力を発揮するのです。
（参考リンク）
<a href="http://deztec.jp/design/09/03/11_education.html" target="_blank">子どもに自信を与える方法</a>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 28 Sep 2008 22:30:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「ほめること」と「おだてること」</title>
         <description><![CDATA[
<span class="b green">「この子が小さいときから、ほめてきました。どうしてこんなことに……」</span>

�]夫君のお母さんは戸惑った顔をして私のところに相談しにきました。

隣に座っていた�]夫君は、

<span class="b green">「お母さんは『がんばったわね』とか『上手ね』っていつも言うけど、それはお母さんの口癖だよ。

だって喜んでないもの」</span>

お母さんはとてもびっくりした顔をしていました。

�]夫君は、

<span class="b green">「怒るときはとても真剣なんだけど、はめるときはいいかげんなんだ」</span>

お母さんの顔は赤くなったり、青くなったりしていましたが、やがて自分がなすべきことに気がついたようでした。


最近は育児書やしつけの本には「はめて育てましょう」と書いてありますから、お母さんやお父さんは<span class="b">ほめることの大切さ</span>を知識として知っています。

ところがほめているつもりなのに、叱ったり、けなしたりすることがそれ以上に多かったり、ずっと深く気持ちが込められていることがあります。

またことばでほめさえすればうまくいくといった思い込みが、叱られたり、けなされた子どもの気持ちへの気づきを鈍らせ、子どもを傷つけてしまっていることがあります。


子どもが床に紙をまき散らして遊んでいるとき、

<span class="b green">「かたづけなさい！　何度言ったらわかるの。全部捨てちゃうからね」</span>

とお母さんは叱りつけ、子どもがしぶしぶかたづけ終わったとき、

<span class="b green">「しょうがないわねえ、これからは散らかさないで遊んでよ」</span>

ほめて育てるはずのお母さんはいったいどうしたのでしょう。


盲導犬や人間のパートナーとして活躍する犬たちの訓練は、どのように行われるのでしょうか。

まっすぐ進むことを覚えさせようとするとき、どうしていいのか知らない犬にまっすぐ歩かないからといって叱ったりはしません。

偶然まっすぐ歩くための一歩を踏み出したとき、訓練をする人は「それでいいのだ」と声をかけ、うれしい気持ちを伝えようとするのです。

そのとき犬は<span class="b green">「なんだ、これでいいのだ」</span>と納得し、次の一歩を踏み出すのです。

また<span class="b green">「よし、よし」</span>と頭を撫でられるともっとがんばろうという気持ちになっていくのです。

<span class="b blue">そしてだんだん人間をもっと好きになっていくものです。</span>

こうした訓練の方法はとても効率的でお互いの信頼関係を揺るぎないものにしてくれることがわかっています。

犬に限らず、

<span class="b green">「おもちゃは全部この箱に入れておこうね。そうしたら明日もすぐ遊べるよ」</span>

かたづけ終わったあとに、

「きれいになって気持ちがいいわね。それに今日はとても早くかたづけができたねえ……よかった、よかった」</span>

お母さんが心から喜んでいることを子どもに伝えてあげれば、きっとかたづけることがつらいなどとは思わずに、やがて自分で判断して「かたづけ」ができる子どもに育っていくはずです。


ほめるということは、はめことばを並べ立てることではなく、喜んでいることを伝え、感動を表現することと言い換えることができるといえるでしょう。

<span class="b green">「どんなことばでほめたらいいのでしょう。教えてください」</span>

とたずねられることがありますが、一〇〇人のお母さんには一〇〇通りの感激の仕方があり、表現があるのですから、これが正しいと言えるものはありません。

子どもが措いた絵を持ってきたとき、あるお母さんは、

<span class="b green">「うーん、うまいね」</span>

と言うかもしれません。

<span class="b green">「ここよ、この色がいいわねえ」</span>

と言うかもしれませんし、なにも言えずにポロリと涙を流すお母さんがいるかもしれません。

感動のことばなんてお母さんの数だけあるからです。

<span class="b blue">自分らしく子どもに感動し続け、ほんとうのはめ上手になってほしいのです。</span>


あなたはいい子ねとほめるとき、私の子どもはすばらしいという気持ちから思わず出たことばである場合と、ちょっと違っている場合があります。

<span class="b green">「いい子になりなさい、いい子というのは親が望む子どもですよ」</span>

という<span class="b red">有無をいわせない圧力</span>が背景にあることがあるからです。

ほめることとまざらわしいのは、<span class="b">おだてること</span>なのです。

<span class="b green">「いい子だから、ちゃんとかたづけてよ、ちゃんと勉強してよ」</span>

と、心のどこかで見返りを期待して子どもにちょっとした圧力をかけようとするのは、ほめているのではなく、おだてているだけです。

親の打算が潜むおだてとはちゃんと区別したいものです。

<span class="b green">「そう言えば、あなたのこと、ちゃんとはめてこなかったわねえ……」

「ぼくは病院でほめてもらうからいいよ。急には無理だからお母さん無理しなくていいよ」</span>

と言われてしまったお母さんもいるそうですが、子どもの忍耐にばかり期待してはいられませんね。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 28 Sep 2008 11:20:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>手のかかる子供はよく育っていく</title>
         <description><![CDATA[四歳のＦ美ちゃんのお母さんは、Ｆ美ちゃんがお母さんから離れなくなってしまったことで悩んでいました。

ちょっとの間ぐらいの留守番は平気でしたし、これまではお母さんを困らせることもなく、聞きわけのいい子どもだったのです。

ところが最近はお母さんがトイレに行くというのにも離れずついてくるようになりました。

叱ると泣き叫んでかえってしがみついてきます。

疲れきったお母さんは「育児相談」に電話したり、いろいろな相談機関に相談してみたのですが、<span class="b green">「そのうち自分で離れていくので心配いらない」</span>と言われたり、<span class="b green">「それはお母さんが大好きな証拠だからいいことだ」</span>と励まされても、今困っているのにと納得できません。

とうとう小児科へ相談にいきました。

お母さんは「離れなさい」と強く叱りつけたり、こっそり裏口から買物に出かけたりしてならそうとするのですが、そのたびにＦ美ちゃんは大泣きしてもっとひどくなることを繰り返していました。


Ｆ美ちゃんは生まれたときから手がかからず、とても育てやすかったと言います。

なぜ今ごろになってとお母さんはすっかり気落ちしていました。


Ｆ美ちゃんの気持ちを考えてみましょう。

Ｆ美ちゃんはお母さんから離れたくないと思っているみたいです。


<span class="b green">「そういえば、もうすぐ赤ちゃんが生まれるので、しっかりさせなければと思っていました」</span>


Ｆ美ちゃんは最近お母さんが自分を離そうとしていることに気がついて、お母さんがどこかへ行ってしまうと感じたり、自分を可愛がってくれなくなるのではないかととても心配になっていたのでしょう。

でもなぜそこまで不安をつのらせていったのでしょうか。


育てるのに「手がかからなかった」子どもの中には、少し大きくなってから忘れていたことを取りかえすかのように、

ちょっと手のかかる困ったことをしでかすことがよくあります。


<span class="b green">「うちの子は手がかからないの。泣いたりぐずったりしないからとても楽よ」</span>

<span class="b green">「いいわねえ、うらやましいわ」</span>

などと、手がかからないことははめられるべきことのように言われることがありますが、<span class="b">どうもそうそう安心していいものではないのです。</span>


「手がかからない」を言い換えれば、<span class="b red">赤ちゃんからの訴えが少ない</span>ということになります。


その多くは訴えが弱々しかったり、お母さんやお父さんに答えてもらえないことに、その場で大げさに文句を言わないだけなのですが、

周囲のおとなたちはその控え目な態度に気づかず、子どもの要求に無頓着なことを繰り返す結果になってしまうことがあります。

赤ちゃんが泣いてぐずぐず言えば、お母さんやお父さんは抱き上げてあやそうとします。
それでも泣きやまなければ、どんなに忙しくても、疲れていても赤ちゃんから離れるわけにはいきません。

赤ちゃんは抱かれている時間も話しかけられている時間も、両親を独占する時間もとても長くなっていきます。

反対にあまり泣きもせず、一人でおとなしく過ごす赤ちゃんは親をほっとさせ、<span class="b green">「ちょっと待っててね」</span>と待たされる時間も多くなってしまいます。

目立たない赤ちゃんの要求はそのがまん強さゆえに無視されたり、気づかれなかったりするのです。

こうしたことを繰り返して育っていけば、親子の杵は結ばれているものの、案外弱々しくてもろかったりするのではないでしょうか。

手がかかる子どもは、肉体的にも精神的にも親をへとへとにさせます。

親の立場からすれば育児に自信をなくしたり、窓の外へ赤ちゃんを放り投げてしまいたくなったり、産んだことをつくづく後悔したりと大きな苦痛となってしまうこともあります。

やたらに手がかかる子どもを抱え、疲れはててしまったお母さんたちの相談はよくあることです。

しかし手をかけてもらい、いつも自分を守ってくれる親という存在を確認できる時間が多いということは、子どもにとってとても心地のいいものです。

<span class="b">親に手をかけてもらった経験が多いほど、少しぐらいの困難に出会っても安心して立ち向かっていけるだけの安定感を心に刻んで育っていきます。</span>

手のかかる子どもはそうした意味でラッキーな子どもであり、手がかからない子どもは不遇に陥りやすいと言えるでしょう。

育てやすいとほっとするより、自分から要求することが慎み深い子どもであることを心に留めて、<span class="b green">「遠慮しないでいいのよ」</span>と抱いたり、声をかける必要があるのです。


Ｆ美ちゃんは「今よりもう少ししっかりしてね」というお母さんからのはたらきかけに、「だいじょうぶ」と大見えをきるにはちょっと今までがまんし過ぎたようです。

おかげでお母さんとの絆はまだ確固としたものにはなっていなかったのです。

Ｆ美ちゃんの不安を安心感に変えてあげなければなりません。

Ｆ美ちゃんに、お母さんはいつもＦ美ちゃんのお母さんで、いつもそばにいることをからだごと伝える必要がありました。


そこでお母さんに、Ｆ美ちゃんから離れないでくださいとお願いしました。

<span class="b green">「お母さんはトイレに行くけど、いっしょにいらっしゃい」

「お洗濯物を庭に干しに行くの。いっしょにおいで」</span>

と、お母さんには一日中ずっとＦ美ちゃんにまとわりついてもらいました。

もちろんこっそり買物に出かけるのもやめてもらいました。

二週間後、Ｆ美ちゃんは、<span class="b green">「おかあさん、一人でおしっこできるでしょ」</span>とお母さんのトイレにはつきあうのをやめ、一カ月後には、<span class="b green">「お留守番してるから、お買物にいってもいいよ」</span>と、すっかり元気になったとのことでした。

引き離そうとしたとき、子どもは引き離されまいとよけいにしがみつこうとします。

まだ一人では無理なのと訴えかけてきます。

お母さんのほうがすりよって行くと、なんだお母さんはそばにいる、安心していいのだとこんどは自分から離れていくものなのです。

<span class="b blue">子どもの成長は、自分でやりたいと言い出すこと</span>であり、自分でやるには、いざというときに、すぐ飛び込める母親の羽毛のありかを確信していなければなかなか思い切れません。

ちょっとだけ離れてみては戻り、もう少し自分でやってみるといえプロセスを繰り返していきます。

それをおとなのペースでやってしまうと、もう戻れませんよとお母さんに宣告されてしまったと悲痛な思いにとらわれるのです。

そしてＦ美ちゃんのように「お母さんから離れない」ことが起きてしまうことがあります。

子どものためらいをゆっくりみてあげるとともに、手がかからないことが、貧乏くじを引いたことにならないようにしなければならないのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 28 Sep 2008 02:23:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>セルフエスティーム</title>
         <description><![CDATA[

<h3>あるがままの自分を受け入れ大切にする気持ち</h3>


セルフエスティームとは、<span class="b">「自尊感情」「自尊心」「自己価値」「自己受容」</span>など、いろいろな意味を含む言葉で、自己概念と結びついている自分自身についての感じ方です。

一つの日本語で表すのが難しい概念であるために、

最近はself-steemという英語をそのままカタカナで読み替えて使われることが多くなったものです。

一般に自己概念が肯定的であるほど自尊感情が高いと考えられていますが、セルフエスティームの研究で著名な、ローゼンハーグ（M.Rosenberg）は、自尊感情には、二つの側面があるとのべています。

一つは、自分を「とてもよい（very good）」と考えることで、人と比べて自分は優れていると思う、優越性と関連する気持ちです。

もう一つは、自分は「これでよい（good enough）」と考えることで、人と比べるのでなく自分の価値を認め、自分を好きだと感じられ、自分を尊重することで、あるがままの自分を受容し大切にする気持ちです。


<span class="b">ローゼンハーグは後者の立場をとっています。</span>

私たちは自分自身を肯定的に認識するには、人と比べて優れている、「とてもよい」という自尊感情を満たす場合もありますが、

人と比べると少し劣っていても自分の価値基準に照らして「これでよい」という自尊感情を満たす場合があります。

そしてセルフエスティームとは、他の人はどうであれ自分は「これでよい」という自尊感情をもつこと、自分をかけがえのない存在として認識し大切にする気持ちをもつことなのです。


私たちは日常生活の中で多かれ少なかれさまざまな葛藤的な場面に遭遇しています。

しかし誰でもがある程度のセルフエスティームをもっているからこそ、たとえば友だちと喧嘩をしたり、何かに失敗したり、恥ずかしい思いをしたりなどで、いっとき心が傷ついても、自分自身を肯定し再び元気をとりもどすことができるのです。

ですからセルフエスティームが高いと、自分自身を信頼し、自分の行動に自信をもち、情緒的に安定した行動をとることができますし、

逆にセルフエスティームが低いと、自分自身に否定的な感情をもち、不安感をもちやすく、自分の資質を十分にいかすことができないばかりか、心の問題をひきおこしてしまうこともあります。

つまり同じように困難な事態に出会ったとき、自分ならできるかもしれないと課題に挑戦するか、自分などにできるはずがないとくじけてしまうかどうかは、セルフエスティームのあり方の違いといえるでしょ、ゝつ。


それでは子どもの健全なセルフエスティームはどのように形成されるのでしょうか。


「自分」を認識する能力は人間に特別に備わったものですが、はじめから自分の存在価値を認識しているわけではありません。

誕生直後からはじまる親（養育者）を出発点とする人間関係の中で1歳半を過ぎる頃から<span class="b">「自分というものがある」</span>ことに気づくようになり、

徐々にその自分の価値や能力についての感覚・感情をもつようになります。

とくに6歳頃までは、自分が自分であるという存在価値を感じること、「自分」の根っこを形成する過程として大切にしたい時期です。


健全なセルフエスティームの形成には、まず<span class="b">それぞれの子どもがその成長過程で出会う「重要な他者」から尊敬、受容、関心のあるかかわり方を受けることが必要です。</span>


たとえばある能力の面で劣等感をもっている子どもが、親や親しい友だちから勇気づけられ、受容、支援をえられることによって、かえってその子らしい能力を発揮し、セルフエスティームを健全に発展させるというのはよくあることでしょう。


最後に、親自身のセルフエスティームが高いと子どもを受容しやすい傾向があります]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 28 Sep 2008 01:17:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親の都合で子供を忙しくさせていないか</title>
         <description><![CDATA[子どもたちの様子を見ていると、<span class="b green">「あなたたちも忙しいねえ……」</span>とため息混じりに声をかけたくなってしまうことがあります。

忙しく動き回っていることの多くは充実感を伴うことが多いので、めりはりのある生き方の一つでもありましょう。

でもそれが身体や心を大いに圧迫するものであるとしたら、ちょっと問題になってきます。

最近は<span class="b">頭痛</span>や<span class="b">腹痛</span>を訴える子どもが増えてきました。

朝なかなか布団からぬけ出せず、お母さんの多大な努力によって、たたき起こされて学校へ行くのです。


ところが学校では頭がも．痛くなり、午前中はぼんやりした霧の中で過ごし、給食を食べて昼休みに遊び始めた頃からやっと少し元気になるということがあります。

ときには保健室に行かねばならぬほど頭痛がひどくなって、ずっとベットに寝ていることになります。

こんなことが続くとお母さんは病気ではと心配して病院につれてきますが、特に身体の病気は見つからず、心因性の頭痛ではないかということで、病院にやってくることがあります。


昔から「寝る子は育つ」と言われていますが、子どもの成長にとってごはんを食べることと同じくらい睡眠をとることは大切なことです。

それなのにどうしてそんなに眠る時間が少なくなってきているかというと、最近は子どもがおとなの生活リズムに巻き込まれて、

<span class="b">子どもとおとなの生活時間の境目が暖味になってきている</span>ことが考えられます。

それだけでなく塾通いでも忙しかったりするらしいのです。

塾から帰ってきて宿題までこなすと、一一時、一二時にすぐなってしまうというのです。

身体に頭痛をひき起こすはっきりとした理由がない以上、この過密なスケジュールによる睡眠不足は問題となります。

まずは睡眠を確保した上で次のことを考えなければならないからです。


ところがいっしょに付き添ってやってきたお母さんの中には、

<span class="b green">「塾通いを減らすなんてできません。それより痛みどめがほしいんですけど」</span>

と言う人もいらっうしゃいます。

ときには塾をやめさせるくらいなら、少しぐらい頭痛が続いてもいいとはっきり言うお母さんもいますから、子どもにとっては生きて行くのがつらい世の中になってきたものです。


頭痛だけでなく「お腹が痛い」の訴えの中にも、忙しさゆえの問題が潜んでいることが多いものです。

寝不足で早く起きることができない子どもたちは、身体が寝ぼけた状態では朝ごはんが喉を通るわけもなく、大きな忘れものをして学校へハタハタと出かけて行きます。

食事をしていないので、便意をもよおさないまま登校して行きます。

出すものを出していないと、思わぬときにウンチをしたくなるということはよくあることですが、学校へ到着してからトイレに行きたくなったりします。

授業中だったらがまんしようとしますし、男の子の場合は特に、トイレの個室にはいると、おしっこじゃないということが友だちにばれてしまいますからよけいにがまんしてしまうことがあります。

そうするとお腹が痛くなってしまうことがあるのです。

朝ごはんは食べてないから全然元気は出ませんし、おしりはムズムズするわけですから、とうてい先生の話などはゆっくり聞いていられませんし、ましてや集中力などあるはずもありません。

ときにはやはり保健室に行くほどになり、保健室のトイレで排便したらすぐに元気になったりすることもあります。

子ども自身こうなった理由がよくわからず、「お腹が痛い」と訴えるようになるのです。

こうした状況が続くと便秘になったりするわけで、最近は子どもの便秘も増えてきています。

腹痛や頭痛の中にはこうした単純なメカニズムで起こっているものばかりではありませんが、保健室で子どもたちの健康を眺めている養護教諭の先生たちも同じようなことを感じているようですから、最近ではよくあるできごとの一つだといえるでしょう。


ここまでくると、究極の親の役割は

<span class="b f11em">「食べさせて、出させる、そして寝かせる」</span>であり、これをまずしっかり正しく行うことが子供の発育に必要なことでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 27 Sep 2008 22:54:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>親が子供を信じる気持ちを持っているか</title>
         <description><![CDATA[どんなに子どものことを愛しているとしても、この子がいるためにとても忙しかったり、夜起こされて寝不足になったり、お金が必要になったり、泣くことが続いたりすると、ちょっとは恨みがましい気持ちが心をよぎることがあるものです。

たいがいのお母さんやお父さんが一瞬そんな気持ちになって、そしてときには自己嫌悪に陥ることが少なくありません。

<span class="b">一過性の子どもを疎ましく思う気持ち</span>は、「ない子には泣かされぬ」というように、子どもがいるからこそ出現するストレスであって、塩を一つまみ入れないと砂糖の甘さが生きてこない料理のように、<span class="b">子育ての大切なスパイス</span>かもしれないのです。


お母さんやお父さんに、

<span class="b green">「あなたはお子さんのことが好きですか？」</span>

とうとつと唐突にぶつけてみると、何を言ってるんだろう、あたりまえじゃないかという顔をします。

自分の子どもが嫌いだと思っている人なんてあまりいません。

しかし一過性の疎ましさの影にある、子どもを愛している気持ちをちゃんと伝えられなければ、子どもは疲れた心を癒し、立ち直って行くチャンスを見逃してしまうことがあります。


自分の爪を噛む癖のあるＷ男君は小学三年生です。

あまり熱心に爪を噛むものだから最近は爪を切るどころか、深爪になって指先が盛り上がってしまいました。

心配したお母さんはＷ男君を連れて相談にやってきました。

<span class="b green">「爪を噛まないようにいくら叱ってもやめないんです」</span>

とても心配するお母さんに、

<span class="b green">「Ｗ男君のよいところはどんなところですか？」</span>

とたずねてみました。

思いがけない質問にお母さんは笑いながら、

<span class="b green">「いやだわ。そんなこと考えたことがないけど、そうねえ、勉強はしないし、あとかたづけはしないし、いつもファミコンに夢中で……困ることばかりだわ」</span>

お母さんは、質問を軽い雑談でもしているように済まそうとしていました。

あきらかにお母さんは戸惑っていました。

<span class="b green">「Ｗ男君のことで私に自慢できることはありませんか？」</span>

さらにたずねると、ますますどうしてよいのかわからなくなったようでした。

<span class="b green">「弟ならほめることがあるのに……」</span>

Ｗ男君とつきあってみると、相手の気持ちをゆったりとさせてくれるなんとも魅力的な性格の持ち主であることがわかります。

彼はファミコンゲームを持ってきてやり方を教えてくれました。

そうした努力にもかかわらずこちらはちっとも上達しなかったのですが、根気づよく教えてくれます。

そして何より、「下手だなあ」などとは決して言わないで、「きっと上手になるよ」と励ましてくれるのでした。

お母さんに彼のこうした温かい性格について話しても、

<span class="b green">「ゲームばかりやってるから、そんなことしかできないんですよ」</span>

とかえって腹立たしそうでした。

わざわざ学校を早退して来ているのに、ファミコンゲームのことをほめられるなんてと思っています。


ある日、彼は「エジソンの伝記」を抱えてやってきました。

エジソンは幼い頃学校ではいわゆる落ちこぼれだったのです。

エジソンは先生に頭が悪いと言われ、学校に行かなくなってしまったのです。

エジソンのお母さんは学校によばれてそうした話を先生から聞かされます。

そのときエジソンのお母さんは、<span class="b green">「私の子どもはいい子です」</span>とたんかをきり、エジソンを家でのびのび勉強させたのだそうです。

エジソンを信じたお母さんがいなかったなら、発明王としての成功はなかったと言われています。


学校へほとんど行かなかったのに、多くのことを勉強し、好奇心を持ち続けた彼は、不登校の元祖などと言われています。


私はエジソンの本を開きながら、Ｗ男君に、<span class="b green">「エジソンのお母さんかっこいいねえ」</span>と話しました。

Ｗ男君は、

「僕もそう思うんだ。だからこの本図書館から借りてきたんだよ」

「ところでＷ男君のお母さんはどうなの？」

「まだまだだねえ」

「うん、まだかもね」

「でももうすぐだよ」</span>


彼は彼特有のリズムを持っている子です。

みんなが急いでいるときに立ち止まったりするものだから、要領が悪いと学校でもはみ出してしまったりしています。

なんでもすばやくこなし、ＰＴＡの役員などで活躍しているお母さんにしてみれば自分なりのゆっくりとしたリズムで動くＷ男君にイライラすることが多いのです。


Ｗ男君は学校での不器用さから、先生に叱られたり、友だちにからかわれたりすることがあって疲れていましたが、そうしたストレスを家庭で癒すことができずに、爪を噛んでいました。

それでもＷ男君はお母さんを待っていました。

いつかエジソンのお母さんのように、この子は誰がなんと言おうと私のかわいい子だとたんかを切ってくれることを信じていました。

こうしたＷ男君の魅力的な性格はひょっとするとお父さんに似ているのかななどと思ったものでした。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 27 Sep 2008 18:27:57 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>下の子に手がかかって、上の子をかまってやれません</title>
         <description><![CDATA[
<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="子育ての質問" />
</span>

三人子どもがいて、下の子に手がかかるため、上の子にお手伝いばかりお願いしています。

ゆっくり話し相手になってあげられません。

上の子の気持ちを考えるとどういう風に接していけばいいのか考えてしまうのですが。

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office11.gif" wigth="100" height="100" alt="子育ての質問に対する回答" />
</span>

お手伝いをさせるのではなく、<span class="b blue">手伝ってもらって助かる</span>ということを子どもに伝えてください。

<span class="b">どんどん子どもに感謝してください。</span>

そこで子どもとコミュニケーションをはかれば良いと思います。


ただ一つだけ注意することがあります。

お手伝いを子どもにお願いしても、子どもの都合で断られるかも知れません。

<span class="b red">そのとき決して叱ってはいけないのです。</span>

<span class="b green">「わかった。それじゃ今度お願いね」</span>

と言って一度引き下がってほしいのです。

いやなときは断ってもいいのだということを、子どもに知ってほしいのです。

自分から自発的に協力しているんだという気持ちを育てたいのです。

下の子どもに手がかかるときには、たしかに上の子は淋しい思いをしているかも知れません。

<span class="b">どんどんお手伝いをしてもらって、自分は役に立つ人間だということを教えてください。</span>

それが以前にもお話しした<span class="b blue">貢献感を育てる</span>ということです。

お兄さんがぐんと成長するのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育てＱ＆Ａ</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 27 Sep 2008 13:16:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>園の中のひろばのメリット、デメリット</title>
         <description><![CDATA[

<h3>専任スタッフと専用の場所が必要</h3>


近年、多くの保育所や幼稚園が、末就園児とその保護者に対する子育て支援のために、園庭開放、園行事の開放、育児相談、体験保育などを実施するようになってきました。

末就園児とその保護者を支援するために、専用の場所や専念する人材を用意することなく、在園児を保育する傍らで行う園がほとんどです。

そのため、通常保育にしわ寄せが生じたり、利用する母親も利用のしにくさを感じたりしているようです。


たとえば、園庭開放を実施する日は、未就園児とその保護者が大勢来て園庭で遊ぶため、園庭が広くない園では、在園児、中でも幼児は園庭に出ることができず、公園や遊歩道などに出かけるようです。

保育室を開放する日も、余った部屋がない園では、在園児は散歩に出るなどして、やりくりをしているようです。


また、子育て支援の担当には、その年度の<span class="b">フリー保育士、主任、園長</span>などがあたるところが多いようです。

しかし、日によって担当者は在園児の保育に入らなければならなかったり、急を要する事務作業が山積したりしていると、子どもを園庭で遊ばせている保護者の方に声をかけることができません。

在園児の保育をしながらの子育て支援では、物理的空間と支援スタッフの人材との両面で、かなり無理があり、気持ちはあっても実際に適切な対応が難しいのが現状です。


そこで、日常保育の片手間ではなく、専任スタッフと専用の場所を備えた「園の中のひろば」（保育所併設型地域子育て支援事業）の必要性が高まっています。

子育て支援専用のセンターと通常保育の傍らでの支援との中間的な施設といえるでしょう。

開所日や利用時間は施設によって異なりますが、後者の場合よりも長く、前者よりも短いか、ほぼ同様な場合とがあります。


この「ひろば」には、利用者の方だけのための部屋が用意されていることが多いのですが、園児と一緒にホールなどを使用する園もあります。

ほとんどの園で、園庭は園児と一緒に利用しています。

しかし、専任スタッフが常駐していることはたいへん大きなメリットです。


もちろん、利用者が0歳児を抱えている場合は、清潔な室内で子どもを遊ばせたいと考えていますので、専用のスペースは必要です。

しかし、場所が提供されればそれでよいというわけではありません。

乳児とだけ一日中向き合っている母親は、大人と話す機会がなく、かなりストレスがたまっています。

対等に大人と話がしたい、話を聞いてもらいたいと強く思っています。

同じように子どもを連れた母親や支援スタッフとゆっくり話すことで、気持ちがほぐれ心が安らざます。


<h3>園の中のひろばのメリット</h3>


園の中のひろばのメリットについて考えてみましょう。

常に園児がいることによるメリットはとても大きいものです。

子どもの発達や育児の仕方についてただ話を聞くだけではなく、

実際に園児の様子や園児に対する保育者のかかわりを見られることで、乳幼児をもつ保護者の不安は軽減し、乳幼児に対する理解も得られます。

特に保育所では、0歳児から在園していることが多いので、保護者の子育ての負担感と不安が一番大きい時期に、実際に乳児の様子を見て、保育者から具体的な話を聞くことができることは、とても効果的な子育て支援となります。

0歳児は、発達の速度が著しいだけでなく、個人差も大きいので、第一子で0歳児を育てる保護者の戸惑いや不安は大きいものです。


・離乳食を始める時期やその進め方、

・離乳食の調理の仕方や食べさせ方、

・アレルギー体質に対する対応の仕方、

・乳児の健康と安全、乳児との非言語的なコミュニケーションの取り方


などについて、<span class="b red">先の見えない不安</span>を抱えています。

保育者からだけではなく、栄養士、看護師、保健師などからも適切なアドバイスを得ることができれば、保護者の不安は軽減することでしょう。


さらに、保育体験を実施している園では、0〜3歳の未就園児がその子どもの年齢に該当するクラスに保護者と共に入り、半日程度の保育体験ができることもたいへん魅力的です。

同じ年齢でも発達の速い子どもとゆっくりの子どもがいること、

食事についても量や食べるスピードなどが子どもによって異なること、

子どもが興味や関心をもつ遊びや子ども同士のかかわり

などについて、体験し観察することを通して、母親自身が気づくことができます。


加えて、保育所や幼稚園は施設数が多く、自宅から近いことが二番目のメリットでしょう。

乳幼児を抱える母親には、支援施設が近いことも利用しやすいことです。


<h3>園の中のひろばのデメリット</h3>


次に、デメリットについて考えてみましょう。

保育所や幼稚園は、基本的には在園児のための施設ですから、園児とその保護者がいることで、遠慮や気兼ねをしながら利用することもあるでしょう。

支援専用施設のように、利用者が自分たちの場ととらえて主体的に活動することは難しく、むしろ、お客さん的な存在にならざるを得ない場合が多いのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 27 Sep 2008 11:34:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ちゃんと育てればストレスに強くなる</title>
         <description><![CDATA[

<h3>ミルクだけでは育たない</h3>


赤ちゃんは何で育つかとたずねれば、多くの人はミルクだと答えるでしょう。

たしかにミルクがなければ育ちません。

それどころか生きてはいられません。

しかし人間はパンのみでは生きるにあらずと言われていますが、赤ちゃんだってミルクだけでは生きられないのです。

赤ちゃんにとって大切なものについて多くの研究が示してくれています。

赤ちゃんはまだなにもわからない存在だと信じてきたのは、私たちが自分が生まれた頃の記憶がほとんどないからかもしれません。

生まれた病院のことだの、とりあげてくれた産科の先生のことだの、その頃若かった両親のことだのまったく覚えていないものだから、赤ちゃんの心は闇の中にあると思いこんでいるのかもしれません。

ところが最近は赤ちゃんはお母さんやお父さんの声や顔により多く反応することや、自分から外の世界へはたらきかけていることがわかってきています。

たくさん話しかけたり、だっこされたり、かわいいねと触れられたりするほうが、心も身体もよりよく発達していくことがはっきりしてきました。

赤ちゃんの、声をかけずにはいられない丸っこさは、神様が心の栄養もちゃんと食べられるようにと仕組んでくれた「わな」なのかもしれません。


<span class="b">もしやさしく触れるというスキンシップなくして育ったらどうなるでしょう。</span>


むかし親がいない子どもたちを収容する施設や病院では、人手が足りないという理由から、子ども一人一人にやさしく声をかけたり、抱き上げたりすることが少ない状況におかれたことがあります。

きっと子どもたちに食べさせることや、清潔に保つことで精いっぱいであったことでしょう。

だきあげて晴乳ぴんを飲ませるゆとりがなくて、赤ちゃんに晴乳ぴんを手渡しして、勝手に飲むのを待つことがあったといいます。

またそれを責められない社会状況であったことでしょう。


そうして育った子どもたちは、十分な栄養を与えられたにもかかわらず、身体は小さく貧弱で、病気にもかかりやすかったそうです。


ところが問題はそれだけではなく

<span class="b red">喜怒哀楽の感情表現に乏しく、知的発達も遅れがちでした。</span>

こうした事実から、子どもは食べ物だけでは育たないことがわかったのです。


なぜ幼い頃のスキンシップに注目するかというと、子どもの健やかな心と身体の発達にとって必要なのはもちろんのことなのですが、

<span class="b">なによりストレスに強くなるために大切なことだからなのです。</span>


ちゃんと触れられて育つということは、あなたは大切な子、あなたはいい子、あなたは望まれて生まれてきた子と感じて生きることです。

家族みんなが自分の存在を喜んでいるのだと幼いときにしっかりと身体で感じることができれば、心も身体も大きくなっていいのだと安心して育っていくことができます。

大きくなって少々じゃけんに扱われようが、自分は生きていく価値があるからだいじょうぶ、またすぐいい状態に戻れると信じることができるのです。

ドカーンといきなりふりかかったダメージよりも、嫌なことがあるかもしれないとおびえ続けたり、また起こるに違いないと先の心配をすることで、長く続くダメージのほうがストレスとしては大きいと言われています。

少なくてもそうしたストレスにつきまとう不安や恐怖感に対して、とても強い人間に育っていくには心の栄養が不可欠です。


ちゃんと触れられずに愛されたという実感がもてないままおとなになったとき、人はとう愛されたらいいのかがわからなくなります。

それだけでなく人を愛することも下手になり、冷たさを感じさせるおとなになってしまうことがあります。

人間は愛された経験を通して、人を上手に愛せるようになっていくものなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 26 Sep 2008 19:34:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子ども達はいろいろな能力を持っているが、</title>
         <description><![CDATA[子ども達はいろいろな能力を持っています。

計算の得意な子ども。

絵を描かせたら大人顔負けの子ども。

走ることが得意な子ども。

皆の前で発表するのに優れた力を発揮する子ども。

心のやさしい子ども。


こんな能力もあります。


木登りなら誰にも負けないと思っている子ども。

めんこなら僕に任せてという子ども。

なかにはけんかなら負けないよという子どももいるかも知れません。


<span class="b">子どもは皆能力の塊です。</span>

大人にとってその能力が望ましいかどうか別ですが。


私の子ども時代にはドングリ博士や海老カニ博士などの博士もいました。

野球博士も竹トンボ博士もいました。

これらの博士は仲間から尊敬されていました。


<span class="b">いまの子ども達の不幸は、博士と認められるいろいろな能力が大人や社会によって狭められていることではないでしょうか。</span>

お母さんにとっては、子どもが得意になっている何とか博士は勉強博士になるための邪魔に見えてしまうようです。


でも本当にそうでしょうか。

二十一世紀を生きる子ども達がたくましく生き抜くためには、勉強博士だけで十分でしょうか。

もちろん勉強博士も大切です。

しかしもっと大切なことは、

<span class="b blue">私達大人が子ども達の能力に多様なものがあることを認めることです。</span>

このように考えればどんな子どもにもかならず能力はあるのです。

親がしなければいけないことは、能力を発揮できるように勇気を子ども達に与えることなのです。

我が子のなかにきらりと光る能力を見つけてください。

それはもしかしたら勉強博士の能力ではないかもしれません。

でもそのきらりと光る能力こそ、その子の人生を豊かにするものなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供のやる気を引き出す方法</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 26 Sep 2008 16:49:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>お小遣いを、あげたらいいのか迷います</title>
         <description><![CDATA[
<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office12.gif" wigth="100" height="100" alt="子育ての質問" />
</span>
年齢の近い兄弟がいます。

小学校低学年の上の子どもにはお小遣いをあげています。

下の幼稚園の子には与えていないのですが、下の子も上の子と同じようにお小遣いをほしがります。

その場合はどうしたらいいですか？

<hr />

<span class="left">
<img src="http://useful-infomation.info/images/office11.gif" wigth="100" height="100" alt="子育ての質問に対する回答" />
</span>


まずお小遣いはどうしてあげるのかということを考えていただきたい。

子どもがほしがるからあげるということではなく、

自分でお金の管理ができるようにするために、与えた方が良いと思います。

<span class="b">お小遣いを与える年齢としては、買い物が一人でできる年齢に達しているかどうかを考える必要があります。</span>

買い物ができれば、与えてもいいと思います。


兄弟間ではお小遣いの額に少々差をつけた方がいいです。

もちろん子ども達の納得が必要ですが。

お小遣いの問題で大切なことは、子どものお小遣いの使い方に干渉してはいけないということです。

最初から計画的に使う子は、そうはいません。

無計画に使い、失敗してお金に困らなければ、お金の管理の仕方は学べないのです。

また学用品代を含めてお小遣いとして与える親もいますが、子どもには自由に使えるお金を与えたほうが良いと思います。

お年玉などで高額なものをほしがったときには、十分に考えさせて、それでもほしいと子どもが決めたときは、子どもの意思に任せた方が良い結果を生むことが多いようです。


親戚からお年玉を二万円近くもらった小学校四年生の順次（仮名）君です。

彼の家にはお兄ちゃんと二人で共用して使うファミコンがあります。

共用と言ってもいつもはお兄ちゃんが使っていて順次君はなかなか使えません。

それが彼の不満でした。

<span class="b green">「お年玉でファミコン買っていい？」</span>とお母さんに聞きました。

「二万円全部使っていいの？今のファミコンじゃダメなの？もう少しよく考えてみて」</span>

とお母さんはすぐには買うことに賛成はしませんでした。

順次君も二日ほどよく考えました。

<span class="b green">「やっぱり僕ほしい。ゲームのソフトは一緒に使えるし、大切に使うから買ってほしい」</span>

と順次君はよく考えたあげくにお母さんに言いました。

お母さんは

<span class="b green">「一日に一時間だけでファミコンやめるっていう約束できる？」</span>

と条件を付けました。そしてファミコンを買ってやりました。

順次君はファミコンを大切に扱い、お兄ちゃんとの争いもなくなり、一時間という約束もしっかり守りました。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育てＱ＆Ａ</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 26 Sep 2008 12:16:25 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ほめる子育てより、勇気づけの子育てを</title>
         <description><![CDATA[以前、「<a href="http://www.y-ads.jp/education-at-adolescence/0809261036.html" target="_blank">子どものすてきなところを発見しよう</a>」と、書いたことがあります。

そのうえで、次に親がとるべき行動は何でしょうか？

親はどうしたらいいでしょう。

ほめればいいのでしょうか。

<span class="b green">「お母さんにおはようと一言えて、お前は偉いね」</span>と言えばいいのでしょうか。


ほめることも叱ることも方向は違うが、構造は同じです。

<span class="b">これは両方とも上に立つ人がいて、その人が下の人を判断、評価している構造です。</span>

下の人はほめられるにしろ、叱られるにしろいつも判断、評価の対象になる人です。

この構造はあまり民主的な構造とは言えません。


たとえば子どもが、

<span class="b green">「お母さんおいしい夕食作ってくれて偉いね」</span>

と言ったとしたら、お母さんはどんな感じがしますか？

あまり気持ちがよくないと思いますがいかがでしょうか？

それではどうしたらいいのでしょう？


叱ったり、ほめたりする子育てから、<span class="b">勇気づけの子育て</span>に変えるようにしましょう。

勇気づけの具体的な方法はいろいろありますが、もっとも基本的なものは、

<span class="b red">子どもの行動に感謝を表す</span>ことから始まります。


<span class="b green">「元気におはようって言ってくれてお母さんもうれしいわ。ありがとう」</span>

と、子どもに言ってみるのです。

自分のうれしい気持ちをそのまま子どもに伝えてみることなのです。

喜びを子どもとわかちあいたいと願う行動が、勇気づけの基本になります。


<span class="b green">「お母さん、おいしい夕食を作ってくれてありがとう」</span>

と言われた方が、<span class="b green">「偉いね」</span>と言われるより、どんなにうれしいことでしょう。


子どもも同じだと思います。

さて、ありのままの自分でいいのだということを、周りの大人から教えてもらえた子どもは、今度は他人に対してもありのままの他人を受け入れるようになります。

<span class="b">すなわち他人を好きになり、受け入れることができるようになります。</span>


私達は競争原理が支配している世のなかを生きています。

他人に勝たなければいけないという考えです。

極端に言えば手段はどうであれ、結果が勝てばいいのだという考えさえあります。

多かれ少なかれ、子どもの世界でも、同様の競争原理があります。

ある意味では、大人の世界より子どもの世界の方が、成績という数字に現れる評価があるだけ、この競争は過酷かも知れません。

子ども達は仲間を親友と見ずに、ライバルと見がちになります。

人には勉強以外にもいろいろな価値があります。

勉強の本来の目的は、将来の生活の安定のためにあるのでなく、勉強で得た力を皆のために役立てることにあります。

<span class="b">私達は子ども達のなかにもう少し成績以外の価値を認めてもいいのではないでしょうか。</span>


かつての私の友達に勉強は大したことがなかったけれども、手先の器用な友達がいました。

竹とんぼを作っても模型飛行機を作っても奴凧を作っても、私よりもはるかに素晴らしい作品を作っていました。

その度に、<span class="b green">私は「彼みたいに手先が器用になれたらなあ」</span>と羨ましい気持ちで見ていました。

そして仲間内でも工作なら彼だという一定の評価を得ていました。

彼は手作りの靴屋さんとして立派に成功しています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 26 Sep 2008 10:41:25 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもは何に悩んでいるのか分かりますか？</title>
         <description><![CDATA[<h3>自分を好きになれない子ども達</h3>


マスコミで子ども達の問題がよく取り上げられています。

「不登校児が全国で十万人を突破」「学級崩壊が小学校で」「少年非行の暴力化」「むかつく、キレる子ども達」「超ジコチュー児の対応」など毎日のように新聞の紙面を賑わせています。

保健室をかろうじて憩いの場にしている子ども達も増えています。

また、保健室にだけ登校している保健室登校生　もたくさんいます。


いじめ問題もますます深刻になっています。

けんかの仕方が腕力に訴えるものから、もっぱら言葉を使うものや、悪い噂を友達に流すなど間接的に相手にダメージを与えるものになってきています。


いつだったか、そのような子供たちと話す機会がありましたので、いくつか質問してみたのです。

<span class="b green">「君は自分のことが好きかな？」</span>

と質問しますと、するとどうでしょう。

<span class="b green">「何でこんな自分が好きなの！大嫌いさ」</span>

と答えました。

おそらく大部分の彼等（彼女）が同じ答えを出すでしょう。


ものに不自由を感じたことのない子ども達が、ほしいもののほとんどを買ってもらっている彼等（彼女等）が、自分が嫌いだと言うのです。

私達の眼から見ると、こんなに恵まれていて、どうして自分が好きになれないのだろうと理解に苦しみます。

しかし彼等（彼女等）と話していくうちに、何で彼等（彼女等）が自分に苦しんでいるかがわかるようになってきました。

そして彼等（彼女等）の悩みは、カウンセラーに相談にいくような特殊な子ども達だけの問題でなく、たぶん大多数の子ども達の共通の悩みでもあるように思えてきました。


ある不登校の小学五年の女の子がいました。

花子（仮名）さんはクラスに嫌いな友達がいます。

その子は忘れ物をよくします。

するとその子は花子さんに借りにきます。

初めのうちは花子さんも貸してあげていましたが、だんだんいやになってきました。

断ろうと思うことも何度かありました。

しかし断るとその女の子にいじめられるのではないかと心配です。

ある日貸そうか断ろうか迷ってモジモジしていると、

<span class="b green">「何してるの。早く貸してよ。けちんぼね」</span>

と言われました。

数日して、花子さんは登校する時間になるとお腹が痛くなりました。

そして二週間後には学校を休むようになりました。


もちろん彼女にも、自分が好きかどうかを聞いてみました。

彼女も自分が嫌いだと言いました。

いやなのに断れない自分、相手が自分を馬鹿にしたのに言い返せない自分、いつも相手の顔色をうかがっていなければならない自分を嫌っていました。


<span class="b">人間関係のなかで自分の意見を相手にちゃんと伝えることは、大人でもなかなか難しいものです。</span>

特に「いや」と言うのは相手の気持ちを傷つけるのではと考え、なかなか言えません。

そして言えない自分に後悔し、腹が立ってきます。

最後に自分が嫌いになります。


<h3>自分を好きになれば、幸せになれる</h3>


さて花子さんのような子どもに我が子をしないためには、親はどのような子育てをしたらいいでしょうか。

ひとが幸せになる為には三の条件が必要だと考えています。


その一つは<span class="b blue">「自分を好きになる」</span>ことです。

「自己肯定感」の育成です。

自分で自分を好きになるということは、簡単なようで案外難しいものです。

人はありのままの自分より、理想の自分を追い求める傾向があります。

自分の至らないところ、そして欠点にばかり眼がいってしまいます。

<span class="b green">「完全でなければならない」</span>または<span class="b green">「安全でなければならない」</span>という信念を作り上げていきます。

自分を嫌いという多くの子どもは、自分が理想としている自分でないから嫌いと言います。

ありのままの自分を受け入れることができないのです。

<span class="b green">「勉強も大してできない。運動もあまり得意でない。でもいいや。僕（私）には仲間がいるもの」</span>

と、こんな風に考えることのできる子どもだったら、まず学校生活で挫折することがないと思います。

多くの子どもは

<span class="b green">「勉強ができないといい学校に入れない。いい学校に入れなければいい会社に入れない。いい会社に入れなければ生活が安定しない。こんな成績じゃ僕の人生真っ暗だ」</span>

と考え、勉強ができない自分を嫌っていきます。

学校生活に挫折していきます。

そして

<span class="b green">「やっぱり僕の予想した通りだ。僕の人生は絶望だ」</span>

と言います。


ところで子ども達はなぜこのように「完全でなければならない」または「安全でなければならない」という考えを持つのでしょうか？

<span class="b">多くの親は子育てを子どもの欠点を矯正して正しくすることだと考えています。</span>

あるお母さんと子どもの会話をテープにとって分析した実験があります。

するとお母さんから発せられるメッセージの八〇パーセントは

<span class="b green">「いけません」「ダメよ」「早くしなさい」</span>だったそうです。

要するに、<span class="b red">禁止</span>と<span class="b red">命令言葉</span>なのです。

お母さんの眼が子どもの間違いにいつも向いていることを示しています。

これらのメッセージからは子どもは勇気や自信を学ぶことはできません。

勇気や自信をくじかれるだけです。

しかし親はなぜこのような子どもに否定的なメッセージを出すのでしょう。

親には理想の我が子という幻の子がいるのです。

我が子であればこそ、我が子のためにと願う理想があるのです。

現実の我が子ではなく、理想の我が子が好きなのかも知れません。

<span class="b">いつも元気で精いっぱいがんばり、礼儀正しく失敗をしない我が子が理想だとすると、

子どもはどんなときでものんびりすることができなくなります。

緊張しがんばっているときのみ親から評価の対象にされるからです。</span>


子育てのなかで親がしなければならない第一の課題は、眼の前にいるありのままの子どもを好きになることです。

眼の前の子どもの良いところをできるだけ多く発見する必要があります。　　　　　　　
どんな子供にも良いところはたくさんあります。

もし我が子に良いところを見つけることができないお母さんがいたら、子どもに良いところがないのではなく、お母さんが良いところを見つける方法を知らないだけなのです。


現実の我が子を好きになるということは、

<span class="b blue">我が子と今日も一緒に生きていけるということを喜ぶことから始まるのかも知れません。</span>

そんなのあたり前だと言うお母さんもいるかも知れません。

しかしこのあたり前のことを、もっともっと子ども達に喜びとして伝える必要があります。

不登校の子どものお母さんにとっては、朝、元気に学校に行っている子どもが何とすてきに見えるでしょう。

非行で外泊を繰り返している子どものお母さんにとって、夕方お腹をすかして帰ってくる子どもが何と素晴らしく見えることでしょう。

問題を起こして、初めて親はいままでの子どもの何でもない行動が素晴らしいものだったと気がつくのです。


<span class="b red f12em">しかしこれでは遅すぎます。</span>


子どもが問題を起こさず順調に成長しているときこそ、我が子のあたり前の行動の素晴らしさに気づいてください。

もし、このことに気づかれれば、我が子の良いところをたくさん見つけることができるでしょう。

朝起きてきて子どもがお母さんに「おはよう」と言う。

何とすてきなことでしょう。

友達との楽しかった遊びを夢中になってお母さんに話している。

これも何とすてきなことでしょう。

暗くなるまで、外で思いきり遊んで帰ってくる。

これもすてきです。

まだまだたくさんあるはずです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 26 Sep 2008 10:36:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の個性を伸ばす教育が必要</title>
         <description><![CDATA[みんなと同じが安心なのはなぜだろう、違っているとはみ出しているように感じてしまうのはどうしてなのかを考えてみましょう。


幼い頃は子どもの感受性を大切にしようとします。


葉のそよぎに「おしゃべりしている」と思い、朝露が滴り落ちるのを見て「おかあさんにしかられて泣いている」と言って、

木や花にも自分と同じようにさまざまな感情や行動の意味づけをする子どもの感性をほほえましく思うものです。

もっと感受性豊かにと絵本をみせ、物語を読んで聞かせようとします。


ところがもう少し大きくなると、

<span class="b green">「いつまでそんな子どもみたいなこと言ってるの」</span>

と知識としての植物の名前や成り立ちを覚えることのほうが大切だと言い始めます。

感受性を高め、個性をのばそうとしていたおとなたちは、その舌の根も乾かぬうちにやがてみんなと同じように行動する子どもを見てなぜかほっとするようになります。

同じ制服を着せようとし、同じ持ち物にこだわらせようとします。

<span class="b">みんなと同じようにすることがいいのだと暗黙のうちに圧力をかけ始めるのです。</span>

なぜか自分は自分なんだと言おうとする芽を、あえて許さないようにしてしまいます。

そして紙に書き込む正しい答えはたった一つだからそれにこだわりなさいと言い続けます。


制服にちょっと手を加えたり、靴下の色をかえてみたりといった精いっぱいの自己主張さえ、その裏にある自分らしさの迷いや模索について感じ取ってやるだけの感受性を持たないおとなにとっては、淀やぶりであり、<span class="b red">非行につながる重大事</span>です。


個性の芽をちゃんと発信させてやらないから、チューブの端から中身がもれるように、ちっとも似合っていないかもしれない改造制服やちょっと違った靴下に自己主張をすることもあるのです。


子どものメッセージを感じ取ってあげようと私たちが言ったとき、


<span class="b green">「私は『かっこいいね』と言ってあげていますよ。

でも規則だからやめなさいと説得しています」</span>


と話してくれた中学の先生がいました。

たしかにいきなり校則違反だといきり立つ先生よりはあたりが柔らかいとは思いますが、なんだか前よりも気が重くなってしまったのです。

ほんとうはかっこいいなんて思ってはいない、ちょっとだけいい気持ちにさせて規則に従わせようと聞こえたからです。

そうとう意地悪な解釈ではありますが、

<span class="underline">なぜ「みんなと同じ」からはみ出したくなるのか、そしてなぜみんなと同じのほうがおとなの自分たちが安心するか</span>について少し困って欲しかったのに、この先生はあまり困っていなかったからです。


私たちは決して制服がどうのというつもりはありません。

しかし前からあるものだから動かしがたいものだという発想は自分から型にはまろうとしているか、はまるのがあたりまえということになります。

子どもにとって制服とはどんな意味を持ち、そのことをいっしょに考えていこうという同じ目線が必要なのではないかと思っているのです。

自分で納得して「ここにいる」のと、「ここにいなさい」と言われてここにいるのでは、客観的な行動は同じであっても、心の受けとめ方は自由な青空の下と牢獄ほどの差があるものです。


<span class="b">子どもたちはやがてみんなと同じにしていさえすればいいのだと無力感を感じ、やがてはみんなと同じがいいに慣れてしまうのかもしれません。

だから障害をもつ「みんなと同じではない」人たちへのやさしい気持ちなど育つはずもない社会なのだ、といえば言いすぎでしょうか。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 26 Sep 2008 04:35:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供のやる気を引き出す親の接し方・考え方</title>
         <description><![CDATA[子供は何か、声を掛けてほしいと思っています。

ところが、この御用聞きもやらない親や先生がいます。

押し付けがましのも困りますが、子供に何もやらないのも困ります。

子供に声をかけてやることは、<span class="b green">「関心があるよ」</span>という意思表示にもなり、子供はそれだけでも安心します。

子供が頼んでくるものがあったら、自分に出来る範囲で協力してあげればいいのです。

<span class="b">子供の要求を聞きだすのが大切です。</span>


もう一つ重要なのは、

<span class="b">子供にどれだけの能力があるかではなく、能力をどう使っているかを知ることです。</span>


どんなに頭がいい子でも、それを自分の為にだけ使っているのでは決して偉くはない。

自分の能力を誰に使っているのか、それが問題にります。

こうした考え方を<span class="b">「使用の心理学」</span>と呼びます。


巨人軍の松井選手だって、けがでゲームに出られなければ何の意味もありませんね。

松井選手よりも能力がなくても、代役の選手ががんばった方が巨人軍には役立ちます。


子どもを見るときに気をつけることは、<span class="b green">「この子は能力を何に使っているのかな」</span>ということです。


実際、その子にどれだけの能力があるかはわかりません。

それよりもその子がやっていること、すなわち、行動を見ている方がはるかにいいのです。

<span class="b green">「何くだらないことしているのだ」</span>とか<span class="b green">「無駄なことはやめなさい」</span>と言ってしまったら子どもはいっぺんにやる気をなくしてしまいます。

そうじゃなくて、子どもがやったり言ったりしていることから、その子の望みをくみ取り<span class="b green">「できるといいね」</span>とその子の希望や意欲、あるいは喜びを分かち合う、共有してやることが大事だと思います。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 25 Sep 2008 22:22:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の個性を押し付けていませんか？</title>
         <description><![CDATA[お母さんの中には子どもが勉強をたくさんするようにと願いながら、外へ遊びに出ようとしないと心配したり、<span class="b green">「友だちがいないのかしら」</span>と気をもんだりすることがあります。

そして、小学校に入学する頃になると<span class="b green">「友だち一〇〇人できるかな」</span>と親子で歌っては、友だちは多いほうがいいと素直に信じていたりします。

集団生活が始まれば<span class="b green">「みんなでいっしょに……」</span>と仲間との協調をやっぱり期待されることでしょう。


たくさんの友だちの中で過ごすことが大好きな子はたくさんいます。

明るく活発な子やリーダーの素質を備えた子がいきいきと過ごしているのを見るのは、子どもらしさの象徴を見るような気にさせられます。


私たちがこの「子どもらしさの象徴」と感じる気持ちについてちょっと立ち止まって考えてみるとき、

それは友だちとは仲良くするのがいいのであり、友だちが多いということは、性格が穏やかで協調性もあるいい子なのだと<span class="underline">「思い込んでいる」</span>ことに気づかなければなりません。


テレビや漫画のヒーローはみんなに好かれる魅力的なキャラクターに措かれていたりして、ヒーローに自分を重ね合わせる子どもたちは自分もそうありたいと願って育っていくことでしょう。

もともと関心が外へ向かう子どもはそうした形で自己実現をはたしていきます。


しかしここでちょっと考えなければならないのは、

<span class="b">どの子どもも同じように「活発に動くことが好き」とは限らないということです。</span>

一人でいるのが好きだったり、限られた友人と深くつきあいたい子どももいるということなのです。

そうした子どもに、外で元気にみんなで楽しく遊びなさいという一つの価値観を押し付けてはたしていいものなのか、

ひょっとすると子どものもって生まれた個性をどこかに押しやってストレスにすり替えてしまってはいないかを少し考えてみることも必要です。


<span class="b green">「学校へ行くと、とても疲れる」</span>というＥ子さんは身体が弱いということもあるのですが、<span class="underline">なぜ疲れるかの本当の理由</span>について最近まで気づきませんでした。

私たちからみると、友だちとのつきあいが疲れてしまう原因のように思えます。

<span class="b green">「友だちとは仲良くしなければいけないし、友だちはたくさんつくらなきやいけないと思い込んでいるんじゃない？」</span>

とはっきり伝えてみました。

<span class="b green">「え！　だって友だちは多いほうがいいに決まってる。

少ないとなんだか私が嫌われているみたいに思われてしまうでしょう？」</span>


<span class="b green">「たくさんの友だちとつきあうのが好きな人もいるけど、一人でいる時間がとても大切な人もいるし、いっしょに過ごしたい人がたった一人という人がいたっていいでしょう。

まだほんとうの友だちといえる人に出会わない人だっているかもしれない」</span>


友だちがたくさんいることがいいことなんだとそのために努力していたＥ子さんはちょっとびっくりしたようでした。

そして自分の周囲にいる友だちに好かれようと努力してきた自分について考え始めました。

次にやってきたときには、


<span class="b green">「私はとても友だちに気を遣っていたの。

友だちが今どうしたいのかなって先に考えてあげたりしていたの。それで疲れていたんだと思う。

それに嫌われたら困ると思って不安だった。

でももう少し自分らしくてもいいかなと思うようになりました」</span>


と話してくれました。


<span class="b">周囲に合わせようと長い間続けていると、自分自身が本当はどうしたいかがわからなくなってしまうことがあります。</span>


そうした積み重ねはおとなになって社会に媚びることを処世術と思い込み、心の幸福感とはかけ離れた「いつも心が疲れている」生活を送ることになったりします。

その反動としてときには偏った価値観がみずからの信じる道と錯覚する深刻な結果すら起こってしまうことがあります。

<span class="b">それはみんなと同じ集団にまざれてしまうと安心するからです。</span>

自分らしく生きるということはさまざまな生き方を認めることから始まるということをおとなもちゃんと自覚しなければなりません。

<span class="b">「違っていてこそあたりまえ」がほんとうにあたりまえなのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 25 Sep 2008 10:30:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>しゃべらないことが気持ちのバランスにつながることもある</title>
         <description><![CDATA[学校へ行っていない子どもたちに行う集団療法というものがあります。

集団療法のいいところは学校へ行けない自分は「ふつう」じゃないとつらい気持ちを抱えている子どもたちが、自分だけじゃないと感じる場ができる点にあります。


�X子ちゃんは小学四年生です。ほかの子供たちと一緒に集団療法を受けていました。

ある日、大きな紙に落書き大会を行うことになりました。

おおきな紙にみんながいろいろ描き始めるのを見ていたのですが、

<span class="b green">「担任の先生の顔をかいていい？」</span>

とたずねるのです。

ちょっと深刻そうな顔をしています。

<span class="b green">「それからめちゃくちゃにしていい？」</span>


�X子ちゃんは学校へ行けなくなって半年以上経つのですが、当初の落ち込んだ様子からはだいぶ元気になった頃、お母さんといっしょに参加するお楽しみ会には行けそうだと話してくれたことがありました。

そして子どもとしての精いっぱいの勇気を出して学校にでかけていったのです。

ところがそのとき担任は

<span class="b green">「これまで学校にこないでみんなに迷惑をかけたのだから、みんなに謝りなさい」</span>

と言ったのです。

学校に行かなかったのは彼女自身の問題であって、そのことで級友にあやまらなければならない筋のものではありません。

「あやまれ」は担任の不登校に対する苛立ちの表現であったと察せられます。

�X子ちゃんに与えられた罰によってやっと学校にたどり着いた彼女の気持ちはずたずたに傷つき、そのまま泣きながら家に帰ったのだと、やはり泣きながらお母さんは教えてくれたのでした。

そんないきさつを知っていましたから、�X子ちゃんが担任へのくやしい思いをぶつけるつもりなのだと考えました。

�X子ちゃんは、担任の似顔絵と名前をかいてから、<span class="b green">「大嫌い」</span>と声に出しながら足で踏みつけていました。


ところがこのことは�X子ちゃんをさらに深く傷つけてしまいました。

先生にとても悪いことをしてしまった、足でふまれたら私はとても嫌だと思う、なのに私は先生を踏みつけてしまったと落ち込んでしまったのです。


�X子ちゃんはこれほどの優しさと、相手の気持ちを自分のことのように感じてしまう鋭い感受性を持ち合わせていました。

思っていることを何でも話してもらったほうが、どうして学校に行けないんだろうとか、どうして髪を染めてしまうんだろうとただただ悩んで迷ってしまうおとなにとっては助かることです。

<span class="b">ところが話したくても話せないことや、口に出して自分の耳で聞いてしまってもっとつらくなることがあります。</span>

それはおとなでも同じことですが、子どもは自分の気持ちを表現することばという手持ちの手段がそれほどたくさんありませんし、しゃべらないことが気持ちのバランスを保つために必要だったりします。

何でも聞き出そうとすると、おとなをだまらせようとして、心にもないことを言ったり、本筋ではなく枝葉のことを言ったりします。

混乱してしまうことが少なくないのです。

子どもがしゃべらないことも大切な気持ちとして受け取ってあげなければなりません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 25 Sep 2008 04:42:37 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の気持ちを知りたいと思っている大人への処方箋</title>
         <description><![CDATA[私たちおとなは子どもの気持ちを知りたいと思っています。

子どもの心の中にあるものを話してもらいたい、そして解決してあげたいと思っているのですが……。


Ｔ子さんは中学二年生のとき、右腕が腫れて強い痛みに悩まされるようになりました。

小学生のときの交通事故の後遺症の可能性があり、入院してリハビリ中心の治療を行っていました。

ところがなかなか腫れと痛みがよくなりません。

Ｔ子さんに家族のことや学校のことをたずねるのですが、

<span class="b green">「お父さんやお母さんは自分のことをとても心配してくれるし、なにも心配なことはありません」</span>と言います。


いくら聞いてもそれ以上のことは話してくれそうもありませんでしたから、あえて開き出そうとはしませんでした。


いつも緊張しているＴ子さんの心と身体をリラックスさせる必要を感じましたので、リラックスする方法の訓練を行いました。

やがて表情が固くていつも構えているようにしていたＴ子さんも、気持ちが楽になってきたらしく、陸上部の部活が厳しくてやめたかったけれどやめると根性がないと思われそうで悩んでいることや、成績が落ちてしまったことなどを話してくれました。

その頃から少しずつ痛みがやわらぎ、目に見えて腫れがひいていきました。

<span class="b green">「自分でリラックスする訓練を続けていけば、学校に行けると思う」</span>と話すようになった頃、退院が決まりました。


それから五年後、大学生になってすっかりおとなびたＴ子さんと偶然会いました。


「あの頃、両親はいつも言い争いをしていました。離婚話が持ち上がっていたんです。

私はとてもつらかった。

家を出たいと思ったこともあったけれど自分一人では生活できないし、悩んでいたんです。

痛みが続いたのは家に帰るのが嫌で入院していたかった気持ちも関係あったと思っています。

それよりお父さんもお母さんも大好きだったから、どちらとも別れたくなかった……」</span>


実を言いますと、Ｔ子さんの症状にそうした家庭状況がかかわっているだろうということはわかっていました。

Ｔ子さんに、どうしてあの頃話してくれなかったのかをたずねました。


<span class="b green">「あの頃は自分でも何がつらいのかがわからなかったんです。

混乱していたと思うし、話すのがつらすぎて話せなかったような気もします。

でも今ならあの頃の自分のことがよくわかるし、話せると思ったので、聞いてもらいたくてここへ来ました」</span>

五年たって、ようやくＴ子さんは<span class="b">自分の気持ちをことばに表すことができるようになった</span>のでした。


話すことで楽になるとは限りません。

<span class="b blue">立ち直って話せる元気が出るまで待つのも大切なおとなの役目なのです。

そして話せないほどのつらさを知って無理に聞かないことも大切な思いやりなのです。</span>


中学三年生のＵ夫君が学校へ行けなくなりました。

Ｕ夫君と初めて会い、家族のことや友だちのことをたずねても何も言いません。

しかしその表情からは言うもんかといった反抗的なものでないことがわかります。

うなだれた様子に

「学校に行くより、学校へ行かないほうが苦しいんだね。ずいぶんつらかったね」</span>

と話しました。

それにも何も言わずに帰って行きました。


二週間後一人でやってきたお母さんは、

「Ｕ夫が少し話をしてくれました。『学校に行けなくなってから、お父さんやお母さんになぜ学校に行かないのかと登校しない理由ばかりをたずねられてきた。

同じことを学校でもきかれたけど、自分でもわからないから聞かれるたびにつらかった』と言うのです。

ここへ来たときも、『きっと同じことを聞かれると思っていたのに、先生はつらかったねと今の自分の気持ちをわかってくれたと思ったらすっとした。

それがとても嬉しかった』そうなんです」</span>


そして、

<span class="b green">「私もこれからは学校へ行けないつらさをわかってやれる親でいたいと思います」</span>

とお母さんは話してくれました。


今学校に行けない子どもの行動に注目すれば、「なぜ学校に行かないの？」とたずねたくなります。

学校に行かない子どもをわかろうとすれば、苦しんでいる子どもが見えてきます。

子どもに必要なことは原因を突き詰めてもらうことではなく、<span class="b blue">今の自分の気持ちをわかってもらうこと</span>なのです。


<span class="b">ほんとうにつらいことはことばにできないことがあります。</span>

何とか原因を知りたいと無理に聞きだそうとすると、子どもは心の糸口が見つからないままに、途中から糸をぷっつりと切って、みずからも納得しようとしてしまうことがあります。

そうすると心の中に割り切れないものがくすぶってしまうのです。

学校へ行けない理由を担任や親に何度も問いただされ、

<span class="b green">「いじめられているんじゃない？」</span>

とたずねられて、そうに違いないと思い込んでいるおとながそばにいたりすると、

子どもはそういうことにしちゃったほうがいいみたいだとか、そんな気にさせられたりすることがあります。

原因がわかったと思い込んで、転校させたりしてもやっぱり学校に行けなかったということは珍しくありません。

子どもの中で心の葛藤が熟成するまで待つ<span class="b blue">ゆとり</span>も必要なのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 24 Sep 2008 20:54:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供は、「勉強は苦痛」と教え込められている</title>
         <description><![CDATA[思えば「勉強ができる、できない」とか「成績がいい、悪い」とかがこれまで生きてきて一番身近な基準だったと感じている子どもは多いことでしょう。

子どもを取り巻くおとなたちもこうした基準に振り回され一喜一憂の日々でもあります。

では勉強ができるとはどんな状況をさすのかとたずねてみれば<span class="b green">「テストの成績がいいことでしょう」</span>とささやく本音が聞こえてきます。


テストに象徴される勉強の中身をよくみてみると、見たり聞いたりしたものをどれだけ多く記憶したかが重要なキーポイントになっていることがわかります。

そして記憶したものをいかに要領よく表現できたか、他人との競争に勝とうと闘志を燃やしたかがとても大切に見えたりします。

「速くそつなく抜け目なく」というところがキーポイントなどと言ったらひんしゅくを買いそうですが、当たらずとも遠からずであることは否めないところでしょう。


しかし人間の能力がこれだけなら、ずいぶん貧弱なものということになります。


もし記憶力や反応の早さが能力を測る決め手なら、二〇歳も過ぎれば誰もがこうした能力が徐々に低下していくものですから、みんなが「頭が悪くなってだんだん使いものにならなくなる」というわけです。


世間を見渡せば「頭が悪くなる」頃からこそ、いい仕事をする人もたくさんでてくることを考えると、能力というものはもう少し幅広いものであることがわかります。


経験に基づく知識や何年かにわたって積み重ねられたものをまとめる能力はかなりの年齢まで発達することがわかっているのです。


子どもでも、<span class="b">性格を含めた個性</span>でその能力の発揮の仕方が違っています。

狭い経験を深く突き詰めたがるタイプや、ゆっくりていねいにするのが大好きで、人のことは気にしないマイペースの子どもは、いわゆるテストを中心にした勉強にはちょっと不利なことが多いようです。

多少のハンディキャップがあるような場合はもっと不利になります。


<span class="b">でも問題を一〇分で解けることも大切ですが、一時間かかっても解こうとする気持ちはもっと大切です。</span>

それに世の中を見渡しても本当に一〇分で解く必要のあるものは案外少ないものです。

それでも一定の短い時間で解ける学力がすべて主義がまかり通っていて、子どもを病気へ追い込み始めていることに気づく必要があります。


<span class="b green">「あなたは国語の漢字は苦手だけれど、昆虫の名前はたくさん憶えているし、じっくり観察することができるしすごいなあ。理科をもっと勉強して得意な力を伸ばそう」</span>


とは言わないで、

<span class="b green">「教科書に出ていない昆虫の名前ばかり憶えていたってしょうがないでしょう。それより漢字の練習を毎日一〇〇回やりなさい」</span>

とすごんだりするのです。

好きなことに打ち込んでこそ、不得手なものに取り組むファイトが出てくるというものです。

あまり好きでないことは誰だって続きません。

続けていれば間違いなく<span class="b red">「大嫌い」</span>になります。

なぜそのことに気づかず、勉強にこだわるかというと、やっぱりお父さんやお母さんもそんなふうにさせられてきたからかもしれません。

そして子どもにも自分が味わったような勉強を嫌いになっていく道筋を歩ませようとしているのです。

日常の中での新しいことや目新しいことを知る楽しさを削り取られた子どもは、親の期待通りに、「勉強は苦痛そのものである」と感じ、ストレスとして抱え育っていくことでしょう。


昆虫が好きで、図鑑を読むうちに難しい漢字に遭遇し、どうしても漢字の読み方や意味を知りたいと、教科書以上の漢字を読みこなすまでになったり、

知りたいという熱い思いはやがて英語やドイツ語にひろがっていくかもしれないのです。

こんなとき勉強はちっともつらいものではなくなって、楽しいエネルギーになっていくことでしょう。

「幼い頃はよく勉強したし、成績もよかったのにだんだん勉強しなくなって……」という相談が目立ちます。

知識を吸収することがおもしろいと感じる力があったのに、そうした力を発揮できないまま終わってしまっている子どもが増えてきました。

お父さんやお母さんは、勉強とは机に一定の時間しがみつくことであり、そうした苦痛に耐えることこそが勉強そのものの本随と本気で信じこんでしまっているものと思われてなりません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 24 Sep 2008 18:21:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ビジョンのない偏差値人間が待っているもの</title>
         <description><![CDATA[最近の若い人に、<span class="b green">「将来何をやりたいか？」「どんな人生を送りたいか？」</span>と聞くと、決まって返ってくる答えが、

<span class="b green">「何をやっていいかわからない」「考えたこともない」</span>だ。


彼らにとって、人生とはいったい何なのだろうか？

そもそも、彼らの人生はいったい誰のために、何のために生きているのかわからないような彼らは、何ゆえに5年以上もかけて「受験戦争」を戦い抜くのだろうか？


本来人生の目的実現の手段であったはずの進学・就職が、その競争の激しさゆえに、いつしか<span class="b">自己目的化</span>してしまったのだろうか？

それでも、彼らが将来、その努力にふさわしい幸福を獲得できるのなら良い。


しかし、現実には、「何をやっていいかわからない」若い人たちが、大学入学後や就職後、目的を喪失することによって、あるいは無気力化し、あるいは環境不適応を起こして挫折していっているのである。

これでは、小学生以来の努力も全くの徒労になってしまう。


ここでは、どんなに成績優秀で、名門中学・高校に入ったとしても、ビジョンもなく偏差値の追求に明け暮れた場合、<span class="b red">将来いかに悲惨な形で、そのツケが回ってくるのか</span>を示してみよう。


<h3>ただ勉強できるという理由だけで名門中学受験</h3>


Ｇ子さんは、いま入院中である。

東大を卒業後、あるメーカーに就職したものの、間もなく不適応を起こし、陰湿なセクハラに悩まされたことも影響して、体をこわし、入院したのである。

退職願もすでに提出ずみだという。

どうしてこういうことになってしまったのだろうか。

彼女は、小学生時代・勉強がとてもよくできたので、学校の担任のすすめもあり、某国立大学付属中学を受験する。

<span class="b green">「君くらいの成績なら、この中学は受かるから、やってみないかって言われたんです。

それで、両親とも相談して、じゃあ、物は試しで、やってみよう、みたいな感じで受けることにしました。

でも・そのときは、両親にしても、私にしても、将来どうしようみたいなプランは何もなかったですね。

担任の先生にしても、成績がいいから受けさせるっていう感じでした」</span>


Ｇ子さんは、6年生から都内の有名進学塾に通い・家庭教師はつけなかったが、おもしろいほど成績が伸びて、首尾よく・第1志望の国立大付属中に合格した。

もともと勉強の嫌いでないＧ子さんは、すっかり気分をよくして、中学入学後も、よく勉強した。

マンガも読まず、テレビも見ず、学校の成績を上げることにだけ専念した。

そのかいあってか、高校3年になったころには、学年でもトップクラスをキープできるようになった。

<span class="b green">「その時期になっても、将来何をやろうという希望は、別にありませんでした。

成績のうえからは、文系でも理系でもだいじょうぶでした。

どこかの国立大学の医学部にでも入ろうかと思いました。

でも、まだ、そこまで自分の可能性を限定したくなかったし、せっかくいままで、トップクラスを走ってきたんだし、大学入試でも頂点をきわめたいなって思ったんです。

そうすると、やっぱり東大かなあという感じで……といっても、大学で何かを勉強したいという希望を持っているわけではなかったのでなんとなく、つぶしのききそうな文1にしようって……」</span>


東大文1には、現役で合格した。

<span class="b green">「東大といっても、ほんとうに優秀な学生はちょっとしかいないんです。

頭は悪いけど、小学校の3年生とか1年生のころから、さんざんお金をかけて、やっとはい上がってきたような人が多いんですよ。

女の子は運動神経の鈍い子ばっかりでしたし、男の子なんか人間的につまんない人ばっかりで、がっかりしました。

東大とかいばっていても、たいしたことないなって思いました」</span>

Ｇ子さんは、一流志向の強い人である。

あらゆる面で、自分の上を行く人でなければ、人間としての存在価値を認めない。

そして、自分自身「一流の人」に認められるための努力は惜しまない。

そういう意味では、向上心の強い人である。


<span class="b green">「恋愛ですか？　東大法学部の助手をやっているかたと、プラトニックなおつきあいをしました。

何でも相談できる、お兄さんのような人でしたね。

私にとって、よい思い出です」</span>


東大法学部の助手と言えば、法学部生700名の中でも、成績上位10名程度しか選抜されないスーパー・エリートである。

さらに、その中から1〜2名が、29才前後で、法学部助教授に抜擢される。

一流好みのＧ子さんらしい人選である。


<span class="b green">「でも、東大出身でないかたにお話しする場合には、言い方を変えるんです。

恋愛感情に学歴は関係ないから、親しくした人はＮ大学の人ですって言うようにしてるんですよ。

私って、相手に劣等感を与えやすいので、言い方にも気をつかうんです」</span>

と言ってのける。


<span class="b">しかし、恋愛に学歴は関係ないからＮ大生とつきあうという言い方こそ、この上なく学歴主義的で、何よりもＮ大生をばかにした言い方ではないだろうか？</span>


大学4年も夏になり、就職の季節がやってきた。

Ｇ子さんに特別やりたい仕事があったわけではない。

子供のころから周囲に吹き込まれてきた、<span class="b green">「よい中学・よい高校・よい大学・よい会社」の最後の仕上げ</span>という感覚であった。

<span class="b green">「日本の代表的な業種のそれぞれトップ企業を受けました」</span>

学生の人気ランキング上位に椅羅星のごとく輝く企業ばかり4社受験した。

結果は全勝であった。

二流企業4社の中から好きな企業を自由に選択するというぜいたくをＧ子さんは楽しんだ。

翌年、彼女は、あるメーカーに就職した。才色兼備の彼女は、エリートとして、経営企画部門に配属された。しかし……


<span class="b green">「パッとしない職場でした。

上にはこびへつらい、下にはいばり散らす小心な中年男の集まりなんです。

配属後、3日でいや気がさしました」</span>


東大法学部に入ってさえ、程度の悪い人間の集まりだと感じるくらいのＧ子さんである。
メーカーの経営企画室の人間など、彼女のものさしではかれば・口をきくにも値しない「人間以下」の存在であった。

特に彼女のように、目的を持たずに会社に入ってしまうと、身の回りのマイナス要因にばかり目が行ってしまうのだろう。


しかし、もっと重大な問題があった。

<span class="b">つまり、大学までの生活を、人生における自己実現の手段とみなすことのできない人にとっては、いままで身につけてきたものを実社会で、いかに生かすかなどという発想を持てないということである。</span>

そして、意識の切りかえもできないまま、<span class="b red">いままで自分のいた「受験界」の一元的な偏差値至上主義を実社会にそのまま持ち込んでしまう</span>ということなのである。

<span class="b green">「あの人の最終学歴は？」「東大での学部や成績は？」</span>などということばかり気にかかってしまう。

心で思っていることは、どうしても態度に出てしまう。


Ｇ子さんの心に巣食う「軽蔑の念」は、しだいに職場の人たちに伝わっていったのだろう。

人間関係が、だんだん、ぎくしゃくしたものになっていった。

それでも、最初の数カ月は、エリートということで、職場の人たちも気をつかってくれて、仕事上のチャンスを与えてくれたのである。


しかし、周囲との溝は、決定的な段階にまで進んでいった。


<span class="b green">「会社に行っても、やる仕事がないんです。

上司も同僚も私を無視して、かってにやっているので、しょうがないから、小説を読んで時間をつぶしたりしていました」</span>


人間は無視されることがいちばんつらい。

ストレスがこうじ、Ｇ子さんは神経性胃炎になった。

夜になると胃ケイレンに襲われた。

職場で孤立しているとき、接近してくる人物がいた。

部長だった。

なにくれとなく親切にしてくれた。しかし……


<span class="b green">「お前の歩き方は、まるでロボットみたいに無機的だな。

男を知らないんだろう？　おれが女らしくしてやる。

今夜どうだ？」</span>


Ｇ子さんのヒップにふれながら、不倫を迫ってきた。それも一度や二度ではなかった。


<span class="b green">「無機的だとか言ったって、そんなことしたことないんだからしかたがないじゃないですか！

でも、だからといって、なんで、あんな男としなきゃいけないの？」</span>

それまで冷静だった彼女もこのときばかりはほおを紅潮させ、こぶしをふるわせた。


<span class="b green">「人事部長にも相談したんです。

でも、結局、あいつらは、同じ穴のムジナなんです。

あいつらは、腐った豚よ！」</span>


すでに神経性胃炎を起こしていたＧ子さんの身体的症状は悪化し、胆嚢や脾臓にも異常が出始めた。

病気欠勤する日がしだいに多くなり、ついには出社不能になった。

こうして彼女は入院したのである。


<span class="b green">「この先どうするつもりかって言われても……留学するか、どこかの大学の医学部に入り直すか、

それとも東大法学部に学士入学して司法試験を目ざすか……どうしたらいいんでしょう？
でも、ひょっとしたら、何もやりたいことなんかないのかもしれませんね」</span>


11才で有名国立中学を目ざして以来、営々と積み重ねてきた努力の一つの結末がこれであった。


なるほど、常に現状に甘んじることなく上を目ざしつづけるというのは、りっはな姿勢である。

やろうと思っても、なかなかできることではない。


しかし、<span class="b f11em">上を目ざすこと、それ自体を目的にしてしまったこと</span>はＧ子さんにとって大失敗であった。

学生時代の彼女のあらゆる努力は、あらかじめ設定された将来ビジョンの上に位置づけられて初めて生かされるものだったのである。

そうしたビジョンをけっして持つことのなかったＧ子さんにできたことと言えば、実社会で、もはや目ざす目標もないままに、<span class="b red">職場の人間を受験界の「偏差値」で評価すること</span>だけだった。


やがて彼女は退院してゆくだろう。

しかし、いままでのような意識を持っている限り、何をやっても結果は同じだろう。

だからといって、いまから彼女の意識を変革することは、困難に違いない]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子供がつぶれない為の勉強法、学習法</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 24 Sep 2008 08:08:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供が育つ教育とは</title>
         <description><![CDATA[ある小学校の先生が、

<span class="italic">「○○幼稚園出身の子は三、四年生ごろからあまり伸びなくなってしまうけど、△△幼稚園出身の子は五、六年頃から伸びてくるから楽しみだ」</span>

と言うのです。

出身幼稚園によって子どもの成長に差があるというのはなかなか興味ある話なので詳しくたずねると、次のように話してくれました。


<span class="italic">「○○幼稚園は字や数についての勉強を教えているので、小学校入学後にはちょっとした作文まで書きこなすことができます。

音楽教育も盛んでハーモニカも吹けますから、一年の音楽は簡単だと言うんです。

それに対して△△幼稚園ではよく遊んでくるらしくて、一年生に入っても少々お行儀が悪いくらいやんちゃな子が多いんです。

字もちゃんと書けないし、ハーモニカも吹けない子がほとんどです。


ところが○○幼稚園の子はまだ字や数に関心を持つ前や、鉛筆をしっかり握ることができない段階でもさせられるものだから、学校に入ってからちょっとしらけちゃうのかあまり伸びないのです。

どうもお勉強はつまらなくてたいへんなものという思い込みがあるみたいなのです。

ところが△△幼稚園の子は字や数を憶えるのに興味がわくらしく、楽しそうにやるのです。

ハーモニカだって手も大きくなってますし、息のコントロールも幼稚園の頃より上手ですから、苦痛が少なくできますから、早く上手になりますし、音楽そのものを楽しめるのかもしれません」</span>


最近は、早い時期に子どもにさまざまなチャンスを与えて、その能力を発揮させることに熱心になりました。

それも子どもの可能性を伸ばすひとつの方法で、もって生まれた才能が花開くこともあります。


しかし多くは彼らがこれから与えられようとする課題を十分やりこなす<span class="underline">下地</span>ができあがっているかを考える必要があるのです。

　
かつてゲゼルという学者は、遺伝的には同じ形態を持つ一卵性双生児（仮にＣ君とＤ君としておきましょう）に階段のぼりの実験を行いました。


Ｃ君には生後四六週から階段をのぼる練習を開始しました。

まだ一歳になっていませんから、そろそろ歩き始めるかなというおぼつかない時期にさらに難しい階段をのぼることになったわけです。

それから六週後（生後五二週）、Ｃ君は二六秒でのぼれるようになりました。


Ｄ君のほうはもう歩けるようになった五二週から階段のぼりの練習をさせました。

そうするとわずか二週間で、しかも一〇秒でのぼれるようになってしまったのです。

Ｃ君のほうはというと二六秒からほとんど速くなりませんでした。


歩けるようになってから練習したほうが結果的には速くのぼれるようになってしまったのです。


この結果は<span class="underline">子どもにとって子どもの身体や心の準備が整わない状態で訓練をしても、子どもに負担をかけるだけで能力を伸ばすことにはならない</span>ことがあるのだということを示しています。

子どもがその訓練を受け入れるまでに成熟したときにこそ最もよい効果が得られるのでした。


早くから鍛えれば鍛えるほどうまくいくという強い思い込みは根強いものがあります。

早期教育として早々と読み書きを教えたりすることがありますが、ときとして階段のぼりの練習と同じことが起きたりします。

よく考えてみるとどんなに早くから教えたからといって、おとなになったとき誰よりも早く階段をのぼれるようになるかというと、それほどの差があるものでもありませんし、

たとえ差があったとしてもそれは体格と体力の差程度のもののはずです。


小さいとき誰よりも早くことばを言えるようになったとか、

書けるようになったとかということがおとなになったときたくさん漢字を知っているとか、

誰よりも早口に話せるとかに直接結び付くものでないことは皆の知るところです。


<span class="b">大切なことは子どもが知りたいと思ったときそれに答えてやれる環境と、そうした気持ちを積極的に育てていくということなのです。</span>


最近は子どもの発達を待つだけでなく、<span class="b blue">子どもの準備が整うように育てていこうという試み</span>がなされるようになってきています。

いきなり小さな手でピアノの練習曲を弾かせるより、音が出ることや音を出すことを楽しませてやることが、結局は将来の上達につながるということに気づいたからです。

<span class="b">人間は楽しんだ経験がなければ何も続かないものなのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 23 Sep 2008 21:10:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どものおねしょは叱らない</title>
         <description><![CDATA[子どものおねしょが続いている、それも毎晩のこととなるとお母さんの悩みは深刻です。

カラッと晴れた日が続けばまだしも、布団どころかタオル二枚もなかなか乾かないときは、とてもにこやかに子どもと接することなんてできそうもありません。


Ｓ夫君は小学校三年生ですが、ほとんど毎日おねしょが続いています。

相談にやってきたお母さんに、<span class="b green">「おねしょをしても叱らないでくださいね」</span>とお願いすると、ちょっとけげんな顔します。

お母さんはＳ夫君に「おねしょはいけないことだ」とちゃんと教えてやるべきだと思っているし、Ｓ夫君が自分で治そうとしないようになってしまうのではないかという不安を感じているからです。


それでも「叱らないで」と言うのにはわけがあるのです。

Ｓ夫君はわざとおねしょをしているのではありません。


もし夜トイレに行くのが面倒だから布団の中でおしっこをしているとしたら、それはおねしょとはいわずに、「ずぼら」といいます。

おねしょは夜眠っている間、意識のないままに起こるのです。

子どもにとっては自分の力ではどうしようもできない、いわば不可抗力のできごとです。

おとなだって正体なく酒に酔いつぶれたとき、失禁することがあります。

当然のことながらわざとではありません。

しかしおとなは、前後不覚まで酒を飲んでしまうと周囲に迷惑をかけることもあるということを判断できるのに飲んでしまったのだから、やはり「ずぼら」であったとのそしりはまぬがれません。

しかし夜遅くまでジュースをがぶ飲みしたわけでもないＳ夫君は、自分のコントロールを越えたできごとに自分でも傷ついています。

その上、<span class="b green">「おまえが悪い」</span>と言われたら、どうしていいかわからなくなってつらい思いを背負っていかなければならなくなってしまいます。

これは余分なストレスです。

小学校の修学旅行で、夜中に先生に起こしてもらったほうが安心だという子どもたちは学校全体で何人かいますが、そのほとんどがやがてそんな心配から解放されていきます。

子どもの発達はそれぞれで、おねしょにかかわる膀胱の許容量や睡眠のパターンの変化や夜のおしっこの濃縮具合いなどは個人差があるのです。

おねしょというものは夜のできごとなので、誰かに気づかれることもなく過ごすことができます。

そういうわけでみんな「おねしょが続いている」などと告白しませんから、お父さんやお母さんはうちの子だけがおしっこの閉りが悪いと不安になり、病院に相談にやってきます。

昼のおむつがはずれてからほとんど夜も大丈夫な子もいれば、小学生になっても毎晩はでに布団をぬらし続ける子もいます。

昼間もおしっこがちびちびもってしまうとか、何かの異常や心配があれば病院に相談しましょう。

<span class="b">そこで特に問題なければ本人のあずかりしらぬできごとは叱らずに待ちましょう。</span>

とは言うものの「私は叱っていません」が手荒く叱るのはやめたというだけで、露骨に嫌な顔をしたり、ため息をついているとしたら、それは叱っているのと同じことです。


<span class="b">子どもが自分でもどうしていいかわからないことに無理難題をふっかけてはいけないということをちゃんと心得ているということが必要だということです。</span>


おねしょに限らず自分の守備範囲を越えたところのできごとを叱られるということは子どもの日常に結構あるもので、

高いところから飛び降りてけがをしたのは、おにいちゃんのまねをしたからだと、おにいちゃんが怒られたなどというのもよくある話です。

おにいちゃんは身体が大きいから飛び降りたのであって、それを小さな弟がまねてしまったのですから、無茶をやった弟はそのことについては反省しなければなりませんし、

そのことをわからせてやることのほうが必要なことです。

学校でも忘れものをした子のいるグループの子が全員そうじをさせられてしまったり、全体責任を取れといわれて罰を受けることがありますが、

時間割の準備まで手伝うわけにはいかない子どもたちはいたずらにストレスを増していくことがあります。


どこかにありそうな話だと見回してみると、部下の働き具合いで社長にはめられもするが、ひんしゅくを買ったりもする中間管理職のお父さんの立場によく似ていることに気づきませんか？

自分の裁量で仕事をして失敗したとき、ショックも大きいかもしれませんが、それなりに納得もできます。

しかし部下の失敗でその責任を問われたとき、身動きが取れないジレンマから受けるストレスは大きいものです。

子どもが自分で始末をつけられるものはちゃんと責任をとらせましょう。

しかし今から中間管理職の悲哀をあじわうようなことは避けたいものです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 23 Sep 2008 15:57:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>しつけと虐待、虐待防止法について</title>
         <description><![CDATA[

<h3>虐待を早期に発見し、子どもを援助していく</h3>


児童虐待とは、親または親に代わる保護者による子どもの人権を侵害する行為であって、反復される行為ですが、性的虐待に限っては一度限りの行為でも虐待とみなされます。

また、虐待をする者の故意の有無は関係しません。

したがって、何をもって虐待とするかは、子どもの視点から見て判断されます。

ある行為を親はしつけと認識していても、子どもにとっては虐待であり、著しい人権侵害である場合があります。


虐待は、<span class="b">身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、放任</span>の4種類に分類されます。

中でも身体的虐待は、単なるしつけだと親が主張することがあります。


たとえば、子どもが親の指示に従わない場合、子どもが悪くわがままであると一方的に決めつけ、罰を与えなければ子どもはますます悪くなるからと、子どもの身体が傷つくような叱り方をする場合があります。

骨折や打撲傷になるほどたたいたり蹴ったり、体調不良になるほど長時間戸外に出したり食事を抜いたりといった叱り方をし、一度限りでなく、日常的に繰り返されるような場合です。

親は、子どもがかわいいから厳しくしつけていると主張するかもしれません。

しかし、子どもが身体的苦痛や生命の危険にさらされ、親に対して著しい恐怖心を抱き、<span class="b red">心的外傷</span>を被っているなら、これは明らかに虐待です。


児童相談所で、児童虐待の相談受理件数について統計を取り始めた1990年度には1,011件でしたが、年々増加し続け、2004年度には32,979件、<span class="b">約32倍に増加</span>しました。

これは、通報された数ですから、氷山の一角に過ぎず、実際にはこの何倍もの虐待事例があることが推測されます。


2000年11月に児童虐待防止法が施行され、2004年4月に同法が改正されました。

いくつかの点が改正されましたが、国民の通告義務の対象に関しては、<span class="b">「児童虐待を受けた児童」</span>から<span class="b">「児童虐待を受けていると思われる児童」</span>に拡大されました。

もしその通告が誤りであったとしても、責任を問われることはありません。

したがって、児童相談所や福祉事務所への通告は今後一層増加することが予想されます。

被虐待児の年齢を見ますと、<span class="b red">就学前の乳幼児が1/3〜1/2を占めていますので、保育所や幼稚園は虐待事例に遭遇しやすい場です。</span>

特に保育所は、乳幼児が1日の大半を過ごす場ですから、早期発見が可能でしょう。

「保育所保育指針」の第12章、第13章にも虐待などへの対応として、虐待の早期発見、通告、援助などについての保育者の役割が記されています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 23 Sep 2008 07:33:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>性非行に走る女の子の大半が、父親に問題がある</title>
         <description><![CDATA[子どもが親に隠れて異性の友達と交際しているとしたら、あなたはどうなさいますか。

お父さんとお母さん、あるいは子どもが男の子であるか、女の子であるかによって多少考えが違ってくるかもしれません。

いずれにせよあなたは、人生の先輩として適切なアドバイスをしてやれるでしょうか。


<h3>男の子からの電話に神経をとがらせる父親</h3>


信子（中二　仮名）の場合をみてみましょう。

信子の父親は、中学生の間は一対一の交際を認めないという考えです。

だから、ときおり、男の子からかかってくる電話にも相当神経を使っていました。

母親は、理解のある考えをもっていましたが、頑固な父親に自分の意見をなかなか言えません。


信子が中学一年の夏休みのことです。

卓球部の先輩の男子からもらったラブレターを父親に発見され、きびしく叱られたあげく、部をやめさせられてしまいました。

小学生のころまでは、どちらかといえばお父さんっ子だっただけに、父親は娘の男女関係に必要以上に神経質になってしまったのでしょう。

信子も、大好きな父親の変化にショックを受け、そういう父親にしだいに反感をもつようになりました。

勝気な性格ですから、はじめのころは父親と正面からやり合うことがありましたが、やがて父親とほとんど口をきかなくなりました。

母親は間に立ってただオロオロするばかりです。


そんな信子が特定の男の子と交際しているのを母親が知ったのは、二年生の夏休み明けのことです。

担任の先生から、

<span class="b green">「近ごろ、男の子とのつき合いが目にあまるようになったので注意してほしい」</span>

といわれたからです。

放課後、教室で二人だけで遅くまで話していることが多く、生徒間では公認のカップルで、しかも、相手の男の子はとかく問題のある生徒で、番長グループの一員だというのです。

こんなことが父親に知れたらたいへんです。

しかし、娘から、

<span class="b green">「先生はすぐそんな目で生徒を見るが、わたしたちはそんな仲じゃないし、それに相手の男の子も先生のいうような悪い子じゃない」</span>

といわれると、母親はホッとして、娘のことばを信じ込んだのです。


ところが、それから一カ月足らずの間に、二人の関係は担任の先生が心配していた以上に進んだ形で表面化してしまったのです。

建築中の建売住宅の中に、二人で入り込んでいたところを近所の人に見つかり、先生に補導されたのです。

担任の先生は、母親ではらちがあかないと判断し、父親に来校してもらって一部始終を話しました。


娘に特定の男友だちがいることさえ知らなかった父親にとっては、まさに晴天の霹靂です。

逆上した父親は、家に帰るなり娘を殴りつけました。

父親にただの一度も殴られたことのない信子には、たいへんショックでした。

彼女はその晩、家を抜け出し、そのまま相手の男の子と二晩家をあけ、三日目の朝、あるマンションの屋上出口の踊り場で寝ていたところを、こんどは警察に補導されました。

父親の無理解と母親のあいまいな態度が、娘を誤った男女交際に追いやってしまった一例です。

中学生ぐらいにもなれば、からだの性的な成熟にともなって、性的欲求が高まるとともに、自我意識の発達によって、人格的な共鳴や尊敬といった契機からとくに親しい異性の友だちを求めるようになります。


中学二年生を対象にしておこなった調査があるのですが、それによりますと、


<span class="b green">「特定の異性の友だちがいる」</span>と答えた生徒は、男子二六・七パーセント、女子二八・一パーセント、

<span class="b green">「いない」</span>と答えた生徒でも、そのうち男子は六〇パーセント、女子は九〇パーセントが「異性の友だちを欲しい」と答えています。

三年生になれば、この数字はさらに高くなるでしょうが、これは<span class="b">きわめて自然なこと</span>なのです。

しかし、わが子のこととなると、<span class="b green">「うちの子はまだ子どもだ」</span>と考えている親が多いようです。


信子の場合も、親の見方より、子どもの実態の方がすすんでいたわけです。

<span class="b green">「もしボーイフレンドができたら、真っ先にお母さんに紹介するのよ」</span>

ぐらいの先手を打っておけば、親に隠れてこっそり交際するようなことにはならなかったでしょう。


<h3>子離れできない親の姿勢が問題</h3>


子ども（特に女の子）がせめて、母親にだけは気軽に話したり相談したりできる関係を作っておくべきです。

母親があいまいな態度をとりつづけていたために、信子は母親にさえ<span class="b green">「そんな仲じゃない」</span>と偽るようになったのです。


信子の場合、いちばん問題になるのは父親です。

母親の立場から父親に対して、頭ごなしに反対するだけではかえって火に油を注ぐ結果になることも話して、冷静に子どもと話すようになだめるべきだったと思います。

この父親も、子どもが男の子ならもう少しさめた見方ができたでしょう。

子どもは、いつまでも親の愛がん物としての存在に甘んじてはいません。

年ごろになれば異性に心を寄せ、やがては親から離れていくものです。


思春期は精神的離乳期だといわれますが、信子の父親のように、逆に〝子離れ″できない親が多くなっているように思います。

それに、いままで目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた父親が、年ごろになって思うようにならないからといって、感情にまかせて暴力をふるうケースも少なくありません。

性非行に走る女の子の大半が、その背景にこのような父親の問題があるということを考えると、思春期を迎えた娘と父親の問題を、改めて考えてみる必要がありましょう。


<h3>父親の優しさをほかの男性に求める</h3>


成績が上位で、生まじめな女の子だった瞳（仮名　当時中学一年）が、通りすがりの青年の車に乗ってドライブし、一晩家をあける事件を起こしたのも、父親の女性関係がもとで両親が離婚した直後のできごとでした。

『昭和五十四年（一九七九年）版・警察白書』は、女子中・高校生の性非行の動機を、「興味本位」と指摘しています。


<span class="b">しかし、それは表面的な動機にすぎないように思います。</span>

彼女たちを、無謀とも思える性行動に走らせるものは、わたしの知るかぎりでは、子どもを内面で支えていた父親像の崩壊が原因と思えるケースが大半です。

ロマン派の女の子だけに、失った父親の優しさをほかの男性に求める結果、性的関係にのめり込んでいくように思えるのです。


女の子は、父親をとおして理想の男性像を作るといわれます。

<span class="b green">「お父さんのような男性と結婚したい」</span>

と子どもがいうような父親なら、まず心配はありません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 23 Sep 2008 06:07:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>思春期の子どもの問題</title>
         <description><![CDATA[親への反抗、異性の問題、非行などの逸脱行為。

いつの時代にもあった揺れ動く思春期の子どもの問題です。

それは、年ごろの子どもをもつ親の共通の悩みであり心配ごとでした。


だが、この思春期の子どもの問題が社会問題になるなどということはありませんでした。
思春期まっただなかの中学生を中心とする子どもの問題が、日常的に社会問題になるようになったのは、一九六〇年代に入ってからのことです。

万引きや性的非行などの遊び型非行の広がり。

シンナーなど、薬物に溺れる子どもの問題。

そして校内暴力、いじめ、自殺。

さらに、現代的な子どもの問題として登場してくるのが登校拒否、家庭内暴力、拒食症などの病理的な子どもの問題です。


そして、これらの問題は、一部の例外的なものを除けば特殊な子の特殊な問題ではありません。

その本質は、<span class="b">思春期における発達のつまずき、発達途上にある子どもの苦悩の現れです。</span>


そもそも思春期というのは、いつの時代にあっても、その発達上の特性からさまざまな危機をはらむ年代なのです。

思春期まっただなかの中学生という年代は、性的成熟に向かって急激にからだが変化する時期であるとともに、

心の面においても自立をめざして飛躍的な成長をとげる輝かしい年代です。


しかし、そのことが同時に、子どもを大きな不安と動揺におとしいれ、さまざまな過ちを引き起こしたりする原因ともなるのです。

加えて激化するいっぽうの受験戦争は、このような中学生の危機的状況をさらに増幅しています。

まさに、中学生は悩み多き年代であり、中学生が、校内暴力、登校拒否など社会問題になるような子どもの問題に常に主役として登場してくるのはそのためです。


ところで、時代の変化とともに、このような思春期の危機は増大し、深刻の度合いを深めています。

わが子の心がつかめず、とまどい、悩む親が多くなっています。

わけもなく荒れたり、堅く心を閉ざす子どもにはどこす術を知らず、親としての自信を失いかけている者も少なくありません。


いったいなにがこのような事態をもたらしたのでしょうか。

経済の高度成長がもたらした豊かなモノ社会の出現は、いっぽうで子どもの発達にとって欠くことのできない地域や家庭を構造的に破壊し、

その教育力を大きく衰退させると同時に、子どもをとりまく人間関係をも希薄にしました。

さらに、大企業の要請に応える能力主義の教育と学歴偏重社会のもとでの受験体制。

それに拍車をかける親たちの教育投資の過熱が、これまた子どもの発達に欠くことのできない子どもらしい生活を奪っています。

このようにして、現代の子どもたちは発達の危機にさらされることになったのです。

当サイトが、むずかしいといわれる中学生という年代の子どもを理解し、そのかかわり方を考えるうえで、少しでも参考になれば幸いです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思春期の子育て・教育</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 22 Sep 2008 16:52:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>いたずらをする子供の「心の叫び」</title>
         <description><![CDATA[子どもたちの中には小さいときから心臓病や喘息などの病気を背負っているために、家を離れて長いこと入院暮しをしなければならないことがあります。

そんな子どもたちがたくさん入院している病院の廊下を歩いていたとき、小さい子どもたちにいきなり蹴飛ばされたことがあります。

驚いて振り返ると、子どもたちはちょっと離れたところでにこにこしながらかたまってみています。

子どもたちに何か失礼なことをしたのかとわが身を振り返りますが、わからないのです。
なにしろ初対面なのですから思い当たるはずもありません。

首をかしげながらまた歩き始めると、前にも増した勢いでちょっかいをだされてしまいました。

子どもたちの気持ちを心底知りたいと眺めれば、子どもたちの眼差しの中には憎しみの鈍い光はなく、むしろ<span class="b">これから始まることへの期待</span>に満ちていることに気づきます。

私たちが振り向いて真剣に怒ったり、叱ったりするだろうと期待して、そのためにやったことだからです。


病院というところは、どこでもとても忙しいところなのです。

そしてこれで十分と言えるほどの人手に恵まれていることなんてほとんどないのです。

とりあえず今しなければならないことにみんなが追いまくられています。

今、発作が起きている子どもや、重症の子どもの治療や看護が何と言っても最優先です。

そうなってくると病気がひどくなるか、はたまたひどいいたずらでもしなければ振り向いてもらえないことがあります。

それは家族からやむなく離れて生活しなければならない子どもたちにとって、なかなかきついことのはずでした。

<span class="b">たとえ叱られることであってもいいから、ちゃんとこっちを向いてと、心の中で叫んでいるのが聞こえました。</span>


子どもたちは「そばにいて、こっちを見て」とことばで言うより、「困ったと振り返って」と困ることをやったほうが、自分に関心を向けてくれるのに効果的だということを日々の生活の中で感じてしまっていたのです。

見回せばこのようなことは病院に限って起こることではありません。

子どもが困ったことをしでかしたときにこそ、お父さんやお母さんはとても熱心に子どものほうを向いて気持ちを集中するのに、おとなしくいい子にしていたらちっともかまってくれないことが続いていることがあります。

子どもはお母さんやお父さんの関心を引くためには、<span class="b">「ちょっと困ったこと」</span>をしなければならなくなります。

子どもがわざと何かを壊したり、高いところに昇って飛び降りようなどと危険なことを周りを意識してやることがあります。

またおとなが人前で言って欲しくない「ウンコ」とか「バカ」を「ニッ」と笑って言うとき、お父さんやお母さんの子どもへの関心の向け方をちょっと立ち止まって考えなければなりません。


家の中で身につけたことは外に出ても繰り返されます。


同じ保育園に通うＰ子ちゃんが大好きで、おともだちになりたいと思っているＱ夫君は、いつもＰ子ちゃんの髪の毛を引っ張ります。

「やめて」とＰ子ちゃんがおこって振り向くのを喜んでいるのがはた目にもよくわかるのです。

ところがＰ子ちゃんのほうは泣きながら

<span class="b green">「こんないじめっことは絶対友だちになんかならないわ」</span>

とますます思いつめてしまいます。

今日もＱ夫君は大好きなＰ子ちゃんが自分のほうを振り向いてくれるように髪の毛だけでなく、スカートをめくったり、おもちゃを取り上げてみようと思って続けているのでした。

こんな光景はそんなに珍しいことではなく、よく見かけることです。

いじめっこの中には自分を振り向いてほしい、ただそれだけの気持ちから始まることがあるということを知っておかなければなりません。

いつのまにか気がついたときにはみんながＱ夫君を避けはじめ、Ｑ夫君は遊んでもらえなくなったりするのですが、

そこまでになっても、どうしてそうなってしまったのかが理解できなくて、

<span class="b">おとなになっても人間関係に苦労したりすることがあります。</span>


イソップ物語の中に「北風と太陽」というお話があります。

北風と太陽が通りがかった旅人のマントを脱がせる競争をしました。

北風は冷たい風でマントを吹き飛ばそうとするのですが、旅人は寒いのでよけいにマントをしっかりと身体に巻き付けようとします。

太陽は暖かい光で旅人を包み、旅人はその暖かさにマントを脱いでしまうのです。

入院している子どもたちやＱ夫君が<span class="b green">「いっしょに遊ぼうよ」</span>と気持ちをそのまま伝えれば、十分「あなたへの気持ち」が伝わって好意が通じあいます。

困ったことや嫌なことで関心を引こうとするのは、まさしく北風の振舞いと同じこと、気がついたら相手の心に冷たい風を送り込んでしまっているのです。


こうしたやりかたを身につけてしまった子どもたちを<span class="b">「北風症候群」</span>と呼ばれています。

「北風症候群」が慢性になってしまうと、おとなになっても同じことを繰り返してしまいます。

ほんとうは好きなのに「好きだ」と言えない恋人同志や夫婦が、

<span class="b green">「おまえなんか嫌いだ」「あなたとなんか結婚するんじゃなかった」</span>

などと言い、「嫌いが好きということなんだ、そこまで言わせるな、ばかやろう」と開き直ったりします。

やがて結婚して子どもができても子どもとの関係で同じことを繰り返し、子どもに「北風症候群」の種をしっかり植え込んでしまうことがあります。


中学生の女の子が学校で決められた制服ではなく、とても短すぎたり長すぎたりするスカートをはきたいと思うとき、どうしてもマニキュアをつけたいと思うとき、

きっと「私を見て」と心の中で叫んでいるのかもしれません。

いつもの自分では誰も振り返ってくれないと思うから、ちょっと目立つスカートやマニキュアを見て、そして「私を見て」と叫んでいることでしょう。


社会の中でそうした手段を使うということは、ますます彼女を追いつめていくかもしれないのに、それでも必死に振り向いてと送り続けられるメッセージをできることなら受け取ってあげたいと思っています。


回り道をせずに「私を見て」と言えばいい。

そうすればきっとあなたをちゃんと見てくれる人がいるはずだと伝えて、そしてもっと今より愛されるはずだと言ってあげたいのです。

できることなら赤ちゃんのうちから、北風症候群になる前に伝えてあげたら、苦しまなくてもすんだはずだと思うのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 22 Sep 2008 15:52:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の心の病気に気を向ける必要がある</title>
         <description><![CDATA[心身症ということばを最近よく耳にするようになりました。

どのような病気かというと、「身体疾患のなかで、その発症と経過に心理社会的因子が密接に関与している」ということになります。

わかりやすく言いますと、心身症という一つの病気があるのではなく、さまざまなからだの病気の原因の一つにストレスみたいなものがかかわっているために、

薬を飲むとか、手術をするだけでは治りにくかったり、また治っても生活や行動を変えなければ再発しかねないような場合をさすのです。


消化性潰瘍の一つである胃潰瘍だって、すべてが心身症というわけではありません。

忙しくて生活が不規則だったり、接待が多くて酒を飲み過ぎてなった場合だってあります。

仕事を減らして休みをとったり、酒をひかえるなど身体への負担を軽くすることで回復するのなら、心身症と考えなくてもいいでしょう。

ところが働くことが生きがいだったり、悩みがあって酒を飲まずにはいられないのなら、休むことや酒をやめることがほんとうに病気を治すことにはなりません。

たとえ一時的に治ったとしても再発を繰り返すことになります。


考え方を切り替えることや悩みの解決は病気を治療する上でとても大切なことになりますから、病気を心身症と考えて対応を考えることが必要となってきます。


心身症は心が弱い人がなるというのは偏見であって、どんなに健康でも、どんなにストレスに強い人でもその限界を越えた状況にさらされれば、<span class="b red">誰にでも起こりうる可能性がある病気</span>なのです。


<span class="b">子どもにだって、つらいことがたくさんあります。</span>

子どもはおとなよりずっと心と身体の境目がはっきりしていません。


おとなは心配なことがあって胸が重苦しかったり、失恋の痛手に胸がきゅんと締め付けられるようになっても、それは自分の気持ちとのかかわりで理解することができます。

あわてて心臓をみてもらいに病院に駆け込んだりしません。

ところが子どもは心のありようによって変わる身体の感じを身体の痛みとしてあらわすことが多いのです。

子どもたちは身体が痛いといって「心が痛い」と訴えていることもあることに気づかなければなりません。


私たちはこれまで心理療法というものにかかわってきました。

お年寄りから働き盛りの方たち、そして子どもたちのさまざまな悩みやストレスとつきあってきました。

子どもの心理療法にかかわってきた中で、子どもの心の発達をじっくり見つめていると、子どもの「心が痛い」にちゃんと耳を傾けなければならないと知りました。

なぜなら心の痛みを乗り越えておとなになった人たちは、おとなになってからストレスに耐えるだけの「心の体力」を持ち合わせていることを知ったからです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 22 Sep 2008 10:25:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>虐待を受けている乳幼児の12つの特徴、虐待を行っている保護者の3つの特徴</title>
         <description><![CDATA[<span class="b">早期発見の手がかりとなる、虐待を疑われる子どもとその保護者の特徴</span>について見てみましょう。


<h3>虐待を受けている乳幼児の特徴</h3>


・子どもの身体に不自然な傷や傷跡、あざや火傷などの皮膚外傷がある、

・乳児期の骨折、虫歯の本数が多い、

・お尻のただれや頭髪や体の汚れ、

・体重が増えない、

・毎日同じ衣服を着ている、

・異常な食欲、

・発達の遅れ、

・身体接触を極端に嫌ったり過剰に人に接近したりする、

・衝動的で攻撃的な言動、警戒心が強く少しの刺激で怯えたり身構えたりする、

・友人関係をもつことが難しい、

・強い者にはこびるが弱い者には暴力をふるう、

・親が迎えに来ても帰りたがらない


などがあげられます。


<h3>虐待を行っている保護者の3つの特徴</h3>


・子どもに対していらいらしてよく怒り厳しく叱る、

・乳児の扱い方が乱暴、体罰をしつけと考えている、

・表情が硬く情緒が不安定、家庭の状況を保育者に話したがらない、

・子どもの話と矛盾する点が多い


などがあげられます。


児童虐待が疑われる子どもや保護者がいる場合、子どもの生命にかかわる問題ですから、できるだけ迅速な対応が求められます。

保育所や幼稚園だけで対応することはできませんので、通告だけでなく、児童相談所、市町村の福祉事務所や保健センター、児童委員などと連携して対応することが必要です。

関係機関と連携しながら、日常の保育の中で被虐待児に対する特別な配慮、送迎時の保護者対応などが求められます。


被虐待児の行動特性として、粗暴な言動や暴力的な行為をすることが指摘されており、他の子どもたちとの間にトラブルを起こすことが多々あります。

ですから、クラス担任は、保育における子どもへの日々の対応に疲れています。


また、子どもだけではなく、保護者への対応もたいへん難しいのです。

園長や主任は担任の立場と苦労を理解するよう努め、いつでも担任の相談相手になり、担任が孤立したり行き詰まってしまうことがないよう心理的支援をする必要があります。

それだけではなく、フリーの保育者を被虐待児のいるクラスに配置するとか、保護者への対応は主任や園長が引き受けるなどの支援も必要です。

そして、定期的に事例検討会をもつなど、園全体での取り組みが欠かせません。


また、児童虐待予防のために、虐待の予兆を示す子どもを早期発見し、リスクを抱えた家庭を把握することも大切です。

特別な支援を要する家庭の子どもと保護者に配慮し、保育所や幼稚園で何ができるかを園全体で話し合いましょう。

虐待ケースに至る可能性の高い事例では、子どもと保護者に対する特別な配慮を、クラス担任だけにまかせてしまうのではなく、園長や主任がリードして、園全体で取り組むことが必要です。
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て支援</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 22 Sep 2008 06:28:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育て支援のための機関をおおいに活用しよう</title>
         <description><![CDATA[子どもをめぐる痛ましい事件や事故が後を絶ちません。

家で孤立する親子、心のゆとりをなくした大人たち、多発する虐待などで、地域も家庭も子どもにとって必ずしもよい環境とはいえなくなっているのではないでしょうか。

こうした中で、保育の場は子どもとその親にとっての数少ない拠り所であり、居場所になっているように思います。

親の方も、社会のめまぐるしい変化と安全が脅かされる中で、どう子どもを守り、育て、かかわったらよいか迷い、悩みながら日々の子育てにあたっています。

親たちはこうした思いや不安を聴いてくれる人、相談して一緒に考えてくれる人を求めています。

子どものことをよく知っている保育の専門家のいる園という場は、身近にあって親にとって最も相談しやすい窓口なのです。

地域の支え合いがなくなり、家族が孤立するようになって、地域の親子のニーズも高まってきました。

<span class="b">園は今、園児以外の子育てを支援し、相談に対応することも求められるようになりました。</span>

親たちのニーズに応え、相談に応じるためにはそれなりの専門性、知識やスキルが必要になりますが、保育現場や子育て支援の場で保護者からの相談を受ける保育者に、大きな助けとなるでしょう。


このカテゴリーでは、、相談の場となる園や支援センターでの相談、親や家族との相談など、相談の場や形、相談相手にかかわる項目を入れてみました。

また、子育て支援として園が取り組むひろばや情報提供など、園ができる支援について取り上げています。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 22 Sep 2008 06:27:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供はなんとなく察知する</title>
         <description><![CDATA[わが家には二匹の犬が家族として生活しています。

この地に転居してからの犬たちの主治医は近所のＮ先生です。

最近になって鼻が日焼けしただの風邪をひいただのとずいぶんお世話になっていて、犬の気持ちがよくわかる先生と犬たちにも尊敬されていますが、<span class="b">それにはわけがあるのです。</span>

うちの犬たちはこれまでも手術を受けたり、病気で痛い経験をしたことがあるものですから、特に注射となると大騒ぎをします。

そのたびに飼い主としては肩身の狭い思いをしながら、必死に押さえつけることを繰り返していました。

ところがＮａ先生は、<span class="b green">「押さえなくても大丈夫、離れていてください」</span>というのです。

見ると驚いたことに犬たちはおとなしく注射をしてもらっているではありませんか。

Ｎａ先生は、

<span class="b green">「犬が注射を恐がっていたのではありません。

飼い主が痛そうだとか恐いと思っているから、それが犬に伝わっているだけなのです。

信頼している人が恐いと思ったのがわかったら不安になります」</span>

だから私たちが側にいないほうが注射を受け入れることができたというのです。

犬たちはことばを越えた私たちの気持ちを感じ取っていたのでした。

計算のできる犬や、文字が読める賢い犬がときどき話題になります。

なんてすごい犬なんだと思ってしまいますが、本当は頭の中で暗算をしているわけでも、本が読めるわけではないということがわかっています。

<span class="b">問題を出した人のことばにならないことば、つまり身体からにじみでてきてしまう心の内を鋭い感覚で感じ取って反応しているのです。</span>

ことばというコミュニケーションの手段を持っている人間が、今ではあてにしなくつた相手のすべてから感じとる能力をちゃんと大事にしているということのようです。


実はこうした能力は、まだことばを持たない赤ちゃんや、おとなのように流暢にことばを話せない子どもにも備わっていると感じることがあります。

犬の注射と同じようなことは、子どもにも起こることに気づきます。

人間の赤ちゃんがいつごろから耳が聞こえるようになるかというと、ほとんどの赤ちゃんが生まれる前からすでに音が聞こえているということが今ではわかっています。

ちょっと早く新しい世界がみたいと思った好奇心の強い未熟児といわれる赤ちゃんにも、音を聞き取る能力はすでに備わっているといわれています。

妊娠四カ月頃から胎児にも音が聞こえるらしいとわかっているとのことですから、予定外の妊娠に気がついて、ちょっと迷ってあたふたして、

<span class="b green">「どうしよう、中絶しなければ」</span>

などと物騒なことをつぶやいて、赤ちゃんがお腹の中でぎょっとしているかもしれません。

それはさておき、生まれた後にしろ前にしろ、赤ちゃんがお父さんやお母さんが話していることばそのものを理解できているとはちょっと言い難いでしょう。

でもお母さんがイライラしているときに限ってぐずったり、家族が楽しそうだったりすると機嫌がよかったりすることはよくあることです。

こうしたことを考えれば、ことばを越えて、子どもにはわかってしまうことがあるということを認めないわけにはいきません。


0子ちゃんは、お母さんが面と向かって言えないお父さんへの不満をお母さんから聞かされて育ちました。

二歳六カ月になった頃から0子ちゃんは自分の髪の毛を抜いてしまうようになり、お母さんは驚いて病院に連れてきました。

右の耳の上には五〇〇円硬貨ほどの抜けたあとが二箇所もできてしまったのです。

落ち着きがなくお母さん以外の人にはなつかず、保育園にも泣き続けるので通わせられません。

お母さんは0子ちゃんはまだ何もわからないと思っていましたが、お父さんへの不満からくるお母さんの怒りや、高ぶった気持ちが強い緊張感となって、0子ちゃんにもしっかり伝わっていたのです。

お母さんと違ってまだ愚痴を言えない0子ちゃんは自分の身体を痛めつけるしかはけ口はなかったのでした。

当初お母さんは親戚の子よりことばをしゃべるのがおそかったので、

<span class="b green">「赤ちゃんの0子に私の話がわかっていたなんて信じられません」</span>

と言っていましたが、0子ちゃんがバシッと音をたてて自分の髪の毛を抜く姿をみて、考えなおさざるをえませんでした。

このように子どもの「何も知らないふり」にだまされて、その鋭い感覚を甘くみると手痛いしっぺがえしを受けることがあるのです。

おとなは自分の幼い頃の記憶があいまいだということに安心して、ときどき子どもが心を痛めるであろうことを隠そうとしないことがあります。

そのことでどんなに子どもが傷ついているかを忘れてはならないのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 21 Sep 2008 20:50:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どものストレス病が増えている</title>
         <description><![CDATA[おとなの私たちはイライラすると「胃が痛い」思いをすることがあります。

また思い悩むと食欲がでなくなったり、不安や緊張が続くと下痢や便秘になるという胃腸症状を経験することは珍しくありません。


<span class="b">胃腸は「心の共鳴盤」</span>と表現されることもあるのですが、心のありように敏感に反応するところです。

テレビのドラマで、部下が失敗を繰り返すたびに胃薬を飲む中間管理職がでてきたりしますが、これもストレスで胃が痛い人が増えているからでしょう。


ねずみを使った一つの実験を紹介しましょう。

ねずみの首から下を水の中につけておき、とても嫌な状態は続くけれど自分の力では絶対に逃れられない状況にしてしまうのです。

そうすると半日もしたらりっぱな消化性潰瘍（胃潰瘍や十二指腸潰瘍）ができあがるといいます。

ねずみでさえ、自分で解決できそうもないストレスにさらされると病気になるというわけです。


<span class="b">どんなに体力があり精神的にも強い人であっても、それを越えるストレスにさらされると身体や心に変化が起きるものなのです。</span>


子どもも例外ではありません。


最近は<span class="b red">子どものストレス病</span>がとても増えてきています。


おとなが、

<span class="b green">「最近はストレスが多くて、とうとう十二指腸潰瘍になっちゃって」</span>

と言っているのを聞けば、

<span class="b green">「そうですか。それはたいへんですね」</span>

あいさつなどと事情もわからないことをお互い承知の上で挨拶したりするものです。


しかし子どもが、<span class="b green">「胃に穴があいちゃって、ストレスがたまってるんだ」</span>などとしゃべっているとしたら、なにかとても思いがけない感じがするでしょう。

<span class="b green">「最近は塾通いもなかなかたいへんで……」

「うちなんか、親が毎日けんかばかりで、これもかなりのストレスですよ」</span>

などと話していたら、ぎょっとしてことばにつまるかもしれません。


子どもというものは、小さくて何もわからないから美味しいお菓子が食べたいとか、たくさん遊びたいとかその程度の悩みしか持ち合わせていないという思い込みがあるからです。

ところが最近の研究では、おとなのストレス病と言われていた消化性潰瘍が、子どもにも増えてきていると報告されています。


その原因としては受験という周囲と競い続けるストレスや、学校や家庭でのつきあいにかかわるストレスがあり、

さらに<span class="b red">ストレスに耐える力が育っていない</span>という背景もうかがわれます。

消化性潰瘍といった深刻な状況まで至らなくても、ストレス病が広く深く子どもの世界に広がりつつあります。

食事がとれなくなってやせてしまったり、頭痛や腹痛で学校を休まねばならなかったり、熱を出す子どももいます。

薬や注射だけでは治らないことが続いたりします。

突然おねしょが始まることもありますし、髪の毛が抜けたり、自分で抜いてしまうこともあるのです。

なぜこんなことが増えてきたのかについて知ることは、子どもたちの成長を援助する上で大切なことなのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 21 Sep 2008 17:43:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>本番に弱い子、プレッシャーに弱い子に育ってしまう原因</title>
         <description><![CDATA[子どもの中には<span class="b green">「イザ！」</span>というとき、思いがけない力を発揮する子がいます。

それに対して力はあるはずなのに、プレッシャーに負けて、実力を出せないまま終わってしまうことがあります。

本番に強い子は何かと安心してみていられますが、そうでない場合は悩みの種になってきます。

さまざまな相談の中には受験を控えた子どもたちのせっぱ詰まった悩みや、試合にいい記録が出せないスポーツ選手のとまどいが訴えられることがあります。

<span class="underline">自分の力がちゃんと出せたという心地よい疲労感</span>があれば、たとえその結果がどのようなものであっても納得して次へのステップがふめるのだから、なんとかしてあげたいといつも思っています。

こうした子どもたちの話を聞いていると、

<span class="b">周囲からどのようなメッセージを受けたかにちょっとした違いがあることに気づきます。</span>


Ｒ君は中学二年生で野球部員でした。

彼の一歳年長のお兄さんも同じ野球部員でした。

お兄さんは少年野球の頃から野球がうまく、中学一年からレギュラーに抜てきされるほどで、お父さんは将来を大いに期待していました。

いつも野球を比べられて育ったＲ君は<span class="b green">「おまえは下手だ」</span>とお父さんに言われていました。

Ｒ君はここぞというときに打てません。

大事なときにエラーをすることもしばしばあります。

どんなに練習して努力しても試合でその力を発揮できないで苦しむようになりました。


指導する先生によれば、いい素質を持っているし、よく練習もするのにそれが試合に限って出せないでいるとのことでした。


Ｒ君に試合のときどんなことが頭に浮かぶのかを話してもらいました。

<span class="b green">「また失敗するかもしれない。失敗したらどうしよう」</span>

とばかり考えてしまうというのです。

<span class="b green">「そんなときは余計に身体が固くなって動かなくなってしまう。焦れば焦るほどだめになっていくみたいだ」</span>

と言います。

どうして失敗することばかり浮かんでしまうんだろうとたずねると、

<span class="b green">「それはいつも言われているから」</span>

と答えてＲ君自身もちょっとびっくりした顔をしました。

<span class="b">Ｒ君はいつもお父さんに言われているように振舞っていることに気づいたのです。</span>


Ｒ君のお父さんはほんとうにＲ君は下手だと思っていたのでしょうか。

お父さんの気持ちになって考えると、きっとそうではなくてもっと上手になってもらいたい、下手だといわれたことで、よしがんばるぞと奮起して欲しかったことでしょう。

ところが下手だと伝え続けたことがＲ君の身体をぐるぐる巻にして、上手になってはいけないと縛り上げていたのでした。

このようなことはひたすら子どもを鍛えたいという親の思いだけでおこることもありますが、ときどき親が消化しきれなかった気持ちのくすぶりが背景に浮かんでくることもあります。


フロイトは<span class="b">人間の心の中にある無意識の世界</span>に注目しました。

意識できている部分は氷山の一角にすぎず、多くの部分は私たちが普段気がつかないでいる無意識の世界だというのです。

無意識の世界に閉じ込められたものがときどきその人の行動を規制することがあり、その行動を操っていることがあると考えました。

フロイトのこうした新しい考え方は、精神分析としてその後の心理学や精神療法に大きな影響を与えてきました。

その理論は優れた理論であるだけに、膨大で難解であり、ちょっとかじったくらいでは手がだせないものです。

巷では無意識からの語りかけとされる夢の分析によって、あなたの性格や本音がわかるといった週刊誌的興味をそそる取り上げ方をされたりもしますが、

その多くはまやかしで、そんなことで深層心理がわかるくらいなら、フロイトでなくてもなんでもよかったと言えるものがほとんどです。


精神分析とは実際は長期間の理論的学習とトレーニングを受けた、ごく一部の人たちによって正しい使われ方をするものなのです。

そうした精神分析を誰もが理解でき、自分のために使えるように開発されたものに<span class="b blue">「交流分析」</span>があります。


交流分析では子どもの頃から無意識の世界にすり込まれた、自分自身の人生を決定づける見方を<span class="b">人生脚本</span>とよんでいます。

それが芝居の脚本と似ていて、自分の人生ドラマの中で一つの生き方として貫かれているものであり、<span class="b">子どもの頃に言い聞かされた役割</span>や、<span class="b">強い思い込みにかかわりがある</span>と言われるものなのです。

私たちの中にも生き方を振り返ってみれば、何度か同じことを繰り返していたりするものですが、それが人生によりよくかかわっていくものであればいいものの、ときにはいったいどうしてこうも同じ過ちを繰り返すのかと頭をかかえることもあります。

そのことに気づき、修正のチャンスを与えてくれる理論が交流分析であり、これまで多くの人たちによりよく生きるための示唆を与えてきました。


子どもを叱ってばかりで、気がつくと<span class="b green">「だめメッセージ」</span>のサインばかり送り続けて、

子どもの<span class="b green">「うまくいくはずがない」</span>とか「失敗したほうが自分にふさわしい」などという、子どもの人生脚本作成にかかわる親たちは決して少なくありません。

その中には、自分自身も同じ様な脚本を持ち、<span class="b">自分すら信頼しない人</span>がいたりします。

なにしろ子どもは自分の中から生まれた分身みたいな存在ですから、自分自身をいとおしむことができないと、わが子をいとおしむことなど不可能に近いわけです。


なぜそんなに「だめメッセージ」を送り続けるのかとたずねると、

<span class="b green">「この子の将来のためにしつけをしているのです」

「あまやかすとこの子のためにならないからです」</span>

と答えるかもしれません。

そう信じているように見えるお父さんやお母さんの瞳の奥に、<span class="b green">「私はだめな人間なんだ」</span>という鈍い光が見えることがあります。

自分を含めて人間を肯定的に見ることができるおとなは、子どもも肯定的に見ることができ「大好きメッセージ」を伝えることができますが、

自分自身さえ好きになれないおとなは自分の中から生まれた子どもに<span class="b blue">「大好きメッセージ」</span>は送れなくなってしまうはずです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 21 Sep 2008 12:27:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>音楽教育について</title>
         <description><![CDATA[最近のわが国の音楽教育はすはらしいと思います。

器楽の早期教育も盛んですし、おかげで音楽の全般的な水準は、たいへんに高いのです。

合唱から始まって、声楽、器楽の国の内外におけるコンクールで発表する日本人のレベル、さらにはその実績をみれば、それは明らかではないでしょうか。

だからこそ、世界の音楽界で活躍している音楽家がたくさん出ているのです。

小沢征爾さんはその代表といえるでしょう。

世界各地のオーケストラの指揮者や演奏者、そして、オペラのプリマドンナさらには団員として活躍している人は数えきれません。

わが国の音楽教育のレベルがこんなに高く、しかも社会での音楽活動が活発であるにもかかわらず、幼稚園や小学校の先生のなかには歌を歌えない子どもがいるとおっしゃる人がいるのです。

しかも、いわゆる音痴ではないのです。

歌えないというより、歌う喜びを知らない、歌うことを楽しめない、みんなといっしょに歌えない子どもたちというほうがよいかもしれません。

コーラスのときなど、歌わないで立っててくれと仲間にいわれるのだそうです。

高い音楽水準のなかで、そういう子どもが目立つのです。


歌は人の心を揺さぶります。

独唱であろうと合唱であろうと、また歌を聞いている人であろうと歌っている人自身であろうと、いろいろなかたちで心は揺さぶられると思うのです。


なぜ、歌は人の心を揺さぶるのでしょうか、

大脳生理学的にみれば、ふつうの人では、音楽に関係しているのは右の、言葉に関係しているのは左の大脳側頭葉の皮質です。

ですから、右がやられると今まで楽しんでいた音楽がわからなくなってしまいますし、左がやられると言葉がわからなくなってしまうのです。

そして解剖学的にみると、側頭葉は前に述べたリウオーディソグ・システムや情緒反応に関係する大脳辺縁系の海馬に近く、基底部にすぐ連絡しているのです。


歌を歌うとき、メロディやリズムや音色などの音楽にとって本質的なものは右の大脳皮質を、歌詞の内容は左の大脳皮質を刺激して、両方から脳全体を揺さぶるからこそ、あのように心の高揚を覚えるのかもしれません。

なお、右の大脳皮質への音情報を受けるのは左耳と考えられており、右の耳よりメロディに対して敏感だと言われています。


<span class="b">歌を楽しめない子、歌えない子は、右の脳になんらかの障害があるのでしょうか。</span>


しかし、そのような子どもでも、ふつうの日常生活はちゃんとやっているのですから、そんなに重大なことであるはずがありません。

正常な脳で生まれてくるのですが、<span class="b red">むしろ赤ちゃんのときの育てられた背景に問題がある</span>というのです。


ある音楽教育の先生は、赤ちゃんのときの母と子の声のやりとりが十分でなかったからではないかと考えておられます。


子育てのなかで、母親の歌う子守歌ばかりでなく、母親の語りかけの豊かさが、音楽教育の出発点として重要だというのです。

小児科医は、生まれてからの育児行動を介して人間的なやりとり、だっこ、おんぶ、あやし、そして母乳哺青などの母子相互作用が、母親のわが子への母性愛を確立し、子どもの母への愛着を育てると考え、とくに<span class="b blue">スキンシップ</span>の重要性を強調しています。

それが母と子の心のきずなを結び、人間に対する基本的信頼を育てるのです。

そんな子育てのなかで、声を介しての母子相互作用が音楽教育の出発点としても重要だとおっしゃるので、関心をもたざるを得ません。


赤ちゃんに何も話しかけないで子育てをしているお母さんはいないでしょう。

お母さんは白然に語りかけているのです。

とくに母子相互作用のなかでは、赤ちゃんの応答を引き出すために、母親は自然に独特な声を出したり言葉に抑揚をつけたり、語句や限定された文型を繰り返します。

すなわち母親の用いる赤ちゃん語で、母語ともマザリースとも呼ばれています。


一方、赤ちゃんは生まれると同時に産声を発しますし、少なくとも泣き声を出すことはできます。

それは、エマージェンシー・クライ、すなわち<span class="b">「助けてサイン」</span>なのです。

それまでは泣いているだけの赤ちゃんも、生後一か月ごろになると泣き声とは違う<span class="b green">「クー」</span>とか<span class="b green">「ウー」</span>というような声を出し始めます。

これは自然に自発的に出されるもので、音楽教育でいう発声練習のようなものと考えられています。

さらには、歌詞のない短い歌曲ボーカリーズといってもよいかもしれません。


赤ちゃんのボーカリゼーションは、母子相互作用のなかで互いに高揚しているとき、赤ちゃんと母親の視線が合っているとき（アイ・ツー・アイ・コソタクト）、


赤ちゃんの手足の動きが母親の語りかけに同調したあと、赤ちゃんが心身ともに気持ちよい状態にあるときにみられます。

独りで声を出して楽しむボーカルプレイの初めかもしれません。

これを<span class="b">プレジャー・サイン、</span>「うれしいよサイン」と呼びます。

赤ちゃんのプレジャー・サインのボーカリゼーションを活発にするには、それを出しているとき、それに対して母親がタイミングよくマザリースで語りかけることが大切です。

このとき赤ちゃんは、それなりにお母さんの発声をまねようとします。

こんなやりとりのなかで、赤ちゃんは歌うことを学んでいるにちがいないのです。


歌を歌うこと、歌を聞くことは、人生の大きな楽しみです。


はじめに申し上げたクラシック音楽ばかりでなく、演歌や歌謡曲のカラオケブームをみても、それは明らかです。

読者のなかにも大好きな方がおられるにちがいありません。

また、音楽のこの不思議な魔力を自閉症や情緒障害児、さらには老人性痴呆の治療に利用しょうという考えもあります。

音楽療法がそれです。

教育に関係する方ならどなたでも、音楽教育はその技術を高めるばかりでなく、子どもの心を育てるのに重要であることは御存じでしょう。

音楽的な能力と子どもの知性とが関係するという心理学者もいるようです。

しかし、音楽教育には家庭教育も重要であることを忘れてはならないのではないでしょうか。

音楽教育は、ある意味で赤ちゃんのときから始まっているのです。

付言しますが、絵の方はどうなっているのでしょうか。


ある小学校の図工の先生におたずねしたところ、やはり絵がかけない子どもが目立つそうです。

その原因は、子どもになにか心を開く力がないからだとおっしゃるのです。

だから、伸び伸びと自分の考えているものを画用紙にぶつけて、絵にすることができないと考えておられるのです。

これも乳幼児期の親子の相互作用のなかで人間に対する基本的信頼が育てられていないことに原因があるかもしれません。


音楽にしろ絵画にしろ、心の発露であるわけですから、子どもたちの心が豊かでなければ音楽にも絵画にも、見たもの、聞きたいもの、感じたものを表現できないのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 21 Sep 2008 06:22:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供が育つ教育とは</title>
         <description><![CDATA[ある小学校の先生が、

「○○幼稚園出身の子は三、四年生ごろからあまり伸びなくなってしまうけど、△△幼稚園出身の子は五、六年頃から伸びてくるから楽しみだ」

と言うのです。

出身幼稚園によって子どもの成長に差があるというのはなかなか興味ある話なので詳しくたずねると、次のように話してくれました。


「○○幼稚園は字や数についての勉強を教えているので、小学校入学後にはちょっとした作文まで書きこなすことができます。

音楽教育も盛んでハーモニカも吹けますから、一年の音楽は簡単だと言うんです。

それに対して△△幼稚園ではよく遊んでくるらしくて、一年生に入っても少々お行儀が悪いくらいやんちゃな子が多いんです。

字もちゃんと書けないし、ハーモニカも吹けない子がほとんどです。


ところが○○幼稚園の子はまだ字や数に関心を持つ前や、鉛筆をしっかり握ることができない段階でもさせられるものだから、学校に入ってからちょっとしらけちゃうのかあまり伸びないのです。

どうもお勉強はつまらなくてたいへんなものという思い込みがあるみたいなのです。

ところが△△幼稚園の子は字や数を憶えるのに興味がわくらしく、楽しそうにやるのです。

ハーモニカだって手も大きくなってますし、息のコントロールも幼稚園の頃より上手ですから、苦痛が少なくできますから、早く上手になりますし、音楽そのものを楽しめるのかもしれません」


最近は、早い時期に子どもにさまざまなチャンスを与えて、その能力を発揮させることに熱心になりました。

それも子どもの可能性を伸ばすひとつの方法で、もって生まれた才能が花開くこともあります。


しかし多くは彼らがこれから与えられようとする課題を十分やりこなす<span class="underline">下地</span>ができあがっているかを考える必要があるのです。

　
かつてゲゼルという学者は、遺伝的には同じ形態を持つ一卵性双生児（仮にＣ君とＤ君としておきましょう）に階段のぼりの実験を行いました。


Ｃ君には生後四六週から階段をのぼる練習を開始しました。

まだ一歳になっていませんから、そろそろ歩き始めるかなというおぼつかない時期にさらに難しい階段をのぼることになったわけです。

それから六週後（生後五二週）、Ｃ君は二六秒でのぼれるようになりました。


Ｄ君のほうはもう歩けるようになった五二週から階段のぼりの練習をさせました。

そうするとわずか二週間で、しかも一〇秒でのぼれるようになってしまったのです。

Ｃ君のほうはというと二六秒からほとんど速くなりませんでした。


歩けるようになってから練習したほうが結果的には速くのぼれるようになってしまったのです。


この結果は<span class="underline">子どもにとって子どもの身体や心の準備が整わない状態で訓練をしても、子どもに負担をかけるだけで能力を伸ばすことにはならない</span>ことがあるのだということを示しています。

子どもがその訓練を受け入れるまでに成熟したときにこそ最もよい効果が得られるのでした。


早くから鍛えれば鍛えるほどうまくいくという強い思い込みは根強いものがあります。

早期教育として早々と読み書きを教えたりすることがありますが、ときとして階段のぼりの練習と同じことが起きたりします。

よく考えてみるとどんなに早くから教えたからといって、おとなになったとき誰よりも早く階段をのぼれるようになるかというと、それほどの差があるものでもありませんし、

たとえ差があったとしてもそれは体格と体力の差程度のもののはずです。


小さいとき誰よりも早くことばを言えるようになったとか、

書けるようになったとかということがおとなになったときたくさん漢字を知っているとか、

誰よりも早口に話せるとかに直接結び付くものでないことは皆の知るところです。


<span class="b">大切なことは子どもが知りたいと思ったときそれに答えてやれる環境と、そうした気持ちを積極的に育てていくということなのです。</span>


最近は子どもの発達を待つだけでなく、<span class="b blue">子どもの準備が整うように育てていこうという試み</span>がなされるようになってきています。

いきなり小さな手でピアノの練習曲を弾かせるより、音が出ることや音を出すことを楽しませてやることが、結局は将来の上達につながるということに気づいたからです。

<span class="b">人間は楽しんだ経験がなければ何も続かないものなのです。</span>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 20 Sep 2008 16:44:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の創造力を育てるには</title>
         <description><![CDATA[<span class="strong">創造力</span>とはいったい何なのでしょうか、それはどのように育てられるのでしょうか。

多くの発明や発見は、ある人が（多くは天才と呼ばれるような人ですが）みずから解決しようとする問題を持って一生懸命に取り組んでいるうちに、

なんらかの機会にまったく関係のない「何か」がひらめいて、一挙になぞを解いて成功に至ったものだといわれています。

アルキメデスがお風呂で「ユーレカ」（紫の火花）と叫んで浮力（アルキメデスの原理）を発見したのはその代表でしょう。


その「何か」あるいは「ユーレカ」とは、よくいわれるＩＱとか私たちの周りで問題となっている偏差値などで測ることのできない、特殊な知性あるいは知能ではないでしょうか。

創造的知性あるいは知能とでも呼ぶべき<span class="b">特別なもの</span>のように思われます。


では知性とか知能とはなんでしょうか。

まったく体験したことのない新しい状況に直面したとき、盲目的にもがくというような本能的なやり方によらないで適応する、あるいは課題を解決する脳の機能とでもいったらよいでしょうか。

なお、適応するとか解決することなどの行動が知性の現れであり、その基盤となる大脳の機能としてとらえるとき知能と呼ぶのです。


ハイハイしはじめたばかりの赤ちゃんが、教えられることなくテレビのスイッチを押して画像を楽しむようになるのも知性の現れといえましょう。


実験的に知性を示すと次の報告のようになります。


チンパンジーは、高い所にあるバナナを取ろうとして、初めは盲目的な行動をとりますが、ついには近くにある箱をみつけて、その上に乗ってバナナを取るようになります。

このチンパンジーは、一度も経験したことのない事態に当面して、それを知性によって解決したのです。


これは、次の三つの面を示しています。


第一は、バナナのある位置と箱の存在を含めて、全体的な状況をつかんだこと。

第二は、箱が踏み台になるという、一般的な特性をつかんでいること。

第三は、突如として課題の解決に成功したこと。


全体的状況の把握、一般的特性の把握、そして課題の解決、これが知性の特徴といえるのです。

もちろんその基盤には、あのバナナを取りたいという内発的な動機があります。

知性、そして知能は過去の経験を利用することが多いので、それを記憶する能力も知能のなかに入れることができます。

これを<span class="b">「再生的な知性あるいは知能」</span>と呼びます。


目の前にあるものから離れて、そのものの持っているいろいろな性質のなかから、ある限られた特定の視点から見て本質的であると認められた部分的な性質、

あるいは相対的な関係だけを引き出して考えることを抽象的な思考と呼びます。


つまり、青い四角形から青という性質あるいは四角という性質だけを取り出して考えることです。

知性とは、この抽象的な思考を指し、知能は抽象的な思考をする脳の機能であるという考え方もあります。


知性や知能を評価するのはたいへん難しいことです。


ＩＱを含めていろいろな方法がありますが、それは脳の機能効率のある断面を見ているにすぎません。

しかし、ＩＱの基になるいろいろな評価変数の六〇～七〇％は生育環境によることは事実のようです。

今問題の偏差値は教育の効果、悪くいえばテストの技術的な面も含められていますから、知性とか知能を測るには決してよい方法とは考えられませんが、全く否定もできないのです。

心理学者や教育学者は、この百年間にわたる研究成果に基づいていろいろなテスト法を工夫してきました。


その歴史を見ると面白いのです。


前世紀末に出来たメソタル・テストは優秀な者を見つけるためのものでしたが、今世紀の初めに作られたビネー・テストは、逆に精神発達の度合いを見るために工夫されたのです。

現在、知性と知能を評価するにはいろいろな方法がありますが、それでも決定的な方法がないというのが実情ではないでしょうか。

知能の座が記憶の座とともに大脳にあることは、どなたも御存じのとおりです。

そして知能は記号を作製し利用する能力、

つまり心の外に映る像を構築する能力で、記憶や推理、さらに数と言語の利用力、知覚速度、空間対象の知覚能力・抽象能力などが関係するといわれています。


知能活動には脳全体が関係しています。


もちろん、外からの情報を取り込む五感の果たす役割も大きいのです。

創造的な知能は知能のなかでも特殊であり、また同時に多様な知能が組み合わされたものといえます。

プログラム論からみれば、なんらかの刺激によって、あるいはまったく偶然に、脳に存在するいろいろな心のプログラムのいくつかから他人にはないような新しい組み合わせがポンとできたり、プログラムのスイッチが転々と入るからではないかと思うのです。

いろいろなプログラムといっても、パターンやデジタルの認識に関係する、それぞれの個人によって異なったものであると考えられるのです。


もちろん、このプログラムの基本や、それが作動して働く神経細胞のネットワークの基本も、その相当部分は遺伝的なもので決まることは否定できません。


なにかを発明したり発見したりするときには、その人は心のプログラムを、もっとはっきりさせるならば知性に関係するプログラム、前に述べたまねる・学ぶ・記憶する・考えるなどをフル回転させて、その間題と取り組んでいるにちがいありません。

想像力豊かな天才が新しい問題を考え、それに対する新しい回答を作り、問題解決のためにそれを繰り返し回転させているのです。

すなわち内発的な動機で、考えに考え抜いているのです。

これを、創造的思考の準備期と呼びます。


そして鳥が卵を温めているように問題と取り組み続けているうちに、インスピレーションが育ってくるのです。

その間を創造力の醇卵期と呼んでよいかもしれません。

やがてそれが、例えば太陽が静かに沈むのを見たとき、リンゴの落ちるのを見たとき・夜中にふと目を覚ましたとき・紫の火花を見たときなどに、突然その人の脳のなかに現れてひらめくのです。

これが啓示期と呼ばれる時期です。

続いて、それを学問的な検証に基づいて、確かなものにするのです。


これが<span class="b">検証期</span>です。


そのとき働く知能のプログラムは取り組む問題によって異なっているのでしょう。

創造力は先躯的な科学者ばかりでなく、芸術家や哲学者にも必要なものです。

しかし、準備期でプログラムをいろいろと働かしているうちに、まったく関係ないプログラムと組み合わさって新しいプログラムができたり、

働いているプログラムが他のプログラムにスイッチを入れたり、あるいは止めたり、次々にいろいろなプログラムと結びついたりするのは、どんな種類の創造力を発揮する場合でも共通ではないでしょうか。


<span class="b">それが啓示期のインスピレーションとなるのです。</span>


こう考えてくると、創造的知能を育てるためには、

<span class="underline">まず多種多様なプログラムが子どものときに作られなければなりませんし、フログラムとプログラムをつなぐものがなければならないと思うのです。</span>

プログラムが働かせる神経のネットワーク・システムは、何百万個という神経細胞からなっていると計算されています。

神経細胞（ニューロン）のネットワーク・システムの基本パターンは、胎生中期にほぼ出来上がると言われています。

しかし、それだけではありません。

胎生期から、とくに赤ちゃんのときから始まる生活環境からの刺激が、その子の持っている遺伝子の組み合わせと相互作用して、神経細胞から突起を出させたり、

神経細胞と新しい結びつき（シナプス）を作ったりするのです。

そして、その神経細胞の間を走る配線である神経線経を絶縁テープのように取り巻く細胞（シュワン細胞）や神経細胞に栄養を与える細胞（グリヤ細胞）が増加していきます。

こうして、子どもの脳の大きさや重さが増加するのです。


<span class="b">こういった神経細胞のネットワークが複雑になることが、心の発達に関係しているのです。</span>


それには遺伝子の組み合わせばかりでなく、生まれてからの生活環境からの<span class="b blue">いろいろな刺激</span>が重要であることを、神経生物学者は指摘しています。

すなわち文化も関係しています。子どもをとりまく人々の期待も含めて。


神経生物学的にみれば、神経細胞の増殖やシナプスの形成は、乳幼児期においていつも一方的に増加しているわけではなく、

環境との相互作用のなかで新しく作ったり、いらないものを捨てたり、いろいろ工夫しているようです。

生まれてから間もない時期の子育ての刺激は、人間臭い情緒的なものが中心です。

それがネットワークを多様化するのに重要と考えられます。

その多様性が、プログラムの組み合わせ変換につながると思うのです。


文化的側面を示すものとして、日本の子どもの学業成績、とくに数学の成績と子育てのあり方の比較研究があります。

わが国の子どもはアメリカの子どもたちと比較して数学がたいへんよく出来ますが、それは赤ちゃんのときの育てられ方によるという報告があります。

わが国では、乳幼児期の母子相互作用が豊かで、学校教育を受ける準備がよくできているというのです。

基本的信頼関係がよくできているからでしょうか。

いっぽうアメリカのお母さんは返事を言葉でいわせる傾向が強く、繰り返し厳しく教えるのに対して、日本のお母さんは教えたことを正しく行うようにしむける、そして指示に従わなかったときの結果の気分的な面を強調するなどの違いがあるそうです。


一般に、新しいことを考え出すには、定理などの与えられたものから数式を証明したり、文法にかなった文章を作ったりする、与えられたものの上に新しいものを考え出す集中的思考と、まったくの無から新しいものを考え出す拡散的思考とがあります。


創造的知能は新しいプログラムの組み合わせを作るわけですから、どちらかといえば拡散的思考が重要ですが、

あるプログラムを働かせるのには集中的思考も重要で、創造的知能にまったく関係ないことはないと思います。

人間の考えるプログラムは、言語や代数のような抽象的なことを考えるものと、視覚や幾何学に見られるようなパターン的なことを考えるものとの二つに大きく分けられます。


創造的な知能は、その両方のプログラムがバランスよく発達し、相互作用のできる状態になければならないと思います。

おもしろいことに、赤ちゃんのときにパターン的な物に関心が強いとか、いろいろな物に関心を持って注意深く見る子は、就学時になってからＩＱがよいという報告があります。

b<span class="b">いずれにしても、生まれてからの生活環境からの知的な刺激が重要なのでしょう。</span>


<h3>天才と呼ばれる人の育てられ方のパターン</h3>


わが国で文化勲章や学士院賞をもらったようなりっばな科学者の育てられかたをみると、次のような傾向があるそうです。


まず、赤ちゃんのときに人間性豊かな環境で、とくに母親に優しく育てられていること、
幼児、学童期に親が好きなことを（たとえそれが学校に関係のない囲碁であろうと、チョウチョウ採りであろうと、プラスティック・モデル作りであろうと）やらせてくれたこと、

そして家庭にはいつも文化的なにおいが（例えば洋書や百科事典が転がっているとか、家庭での話題が科学的であるとか、すなわち、カルチャー・キャピタルがあったとか）こういう生活環境が多いそうです。


そして、いよいよ研究を始める第一歩となる大学を出たときに、よい先生、すなわち「好きなことをしなさい」と言ってくれた先生に出会ったような人が多いと言われています。

いずれをみても、心のプログラムを回転させるためのよい生活環境のように思えます。


もっとも、芸術における創造力というとこんなに単純ではないでしょう。

もっともっと自由でなければいけないし、そのプログラムも特殊かもしれません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 20 Sep 2008 14:26:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>人間関係の重荷を軽くする10のコツ</title>
         <description><![CDATA[---追記：
参考記事です。→<a href="http://d.hatena.ne.jp/favre21/20080421#1208730315" target="_blank">上手に叱るには、「叱り方よりも、もっと大事な事」がある </a>
人生のさまざまな局面で、私たちは人間関係につまずくことがあります。

「人間関係がうまくいかない」と悩みはじめると、人間関係がつらくなってきます。

そのために自分の世界に閉じこもるようになると、「憂うつ」な気持ちがますます強くなってきます。

そこで、「人間問係がうまくいかない」と悩んでいる人のために、人づきあいの重荷を軽くするヒントを10のポイントにまとめてみました。


<h3>自分で自分を好きになる</h3>


人間関係がうまくいかなくなってくると、私たちほぞの原因をいろいろとさぐり出そうとします。

ものごとをまじめに考えようとする人の場合、人間関係のトラブルを自分のせいにしてしまいがちです。

つまり、自分の欠点を並べ立てて「自分たたき」をはじめてしまうのです。

「私が悪い」という前提に立って自分のアラを探すのですから、当然、自分のすることなすことすべてが欠点にみえてしまいます。

これでは「私」がつらくなるばかりです。

また、このように自分で自分のことを受け入れられない状況では、他人を受け入れることなど、とうていできません。

そのために、ますます人間関係がこじれてしまう、という悪循環に陥ってしまいます。


この悪循環を断ち切る為には、まず自分自身が自分の存在をそのまま受け入れるようにすることが必要です。


誰にだって欠点はあります。でも、それ以上に今の「私」にもプラスの面あがあるはずです。

もっと自分のことを信じて、「ありのままの自分」を受け入れるようにしましょう。


<h3>相手のことももっと認める</h3>


人間関係がこじれると、つい他人のせいにしたくなるのが人情というものです。

食事中、しょうゆがほんの一滴はねかえって洋服にできてしまった小さなシミも、いったん気にしだすと、いてもたってもいられなくなるものですが、

他人の欠点もそれと同じで、気にしてばかりいると、他人の悪いところばかりが目についてしかたがなくなってしまいます。


自分の性格がなかなか変わらないのと同様、他人の性格もそんなに簡単に変わるものではありません。


相手のマイナス面をありのままに受け入れ、さらにその人のプラス面にも注目するようにしてみましょう。


<h3>問題を具体的に考える</h3>


人間関係でトラブルが起きるのは、なにも当事者たちの人間性ばかりに原因があるとは限りません。

ところが、私たちはどうしても、<span class="b green">「私がダメなんだ」「なんてひどい人なんでしょう」</span>と、人間性の問題にしてしまう傾向があります。


しかし、それでは　事態を解決することなどできません。


<span class="b green">「人間関係がうまくいかないのは誰のせいか」</span>と悪者さがしをする前に、そのエネルギーを

<span class="b green">「お互いの間に何が起きているか」「どんな部分でうまくいかなくなっているのか」</span>と問題を具体化するほうに向けてはどうでしょうか。

具体的な問題がみえてくれば、それに対する解決法を発見しやすくなります。


<h3>人間関係も晴れたり、曇ったりする</h3>


誰とでも伸よくすることはできませんし、いつでもうまくいく人間関係もありません。

お互いに違う世界で生きているのですから、うまくいくこともあれば、ぶつかることもあります。

もちろん、誰とでも「仲よくできて、トラブルのない人間関係」をもてればいいのですが、その思いにしばられて、そうでなくてはならないと考えるようになると、人間関係はつらくなってきます。


<h3>意見の食い違いを忘れない</h3>


人と話を接しているとき、「相手と意見が食い違ってはいけない」と考えて、自分の気持ちを押さえ込んでしまっている人も少なくありません。

相手を「大切な人だ」と思えば思うほど、「同じ考えでいたい」という願いが強くなるものですし、少し意見が違っただけで大変だと悩むことになります。


<span class="b">しかし、少しくらい意見が食い違ったところで、人間関係が崩れ去ってしまうことはありません。</span>


むしろ、その食い違いを認め合うことで親密になれることだってあるのです。

そうしたことでダメになってしまう関係だとすれば、どんなに無理をしていてもいずれどこかで破綻してしまうでしょうし、それはそれでしかたのないことでしょう。


<h3>いいづらいこともしっかり伝える</h3>


<span class="b green">「こんなことをいうと、相手が傷つくのではないかしら」「腹を立ててしまうのではないかしら」</span>と心配して、何もいえなくなってしまうこともあります。


しかし、黙っていては相手に自分の気持ちは伝わりません。


黙っていたために、あとあと人間関係がこじれてしまうことだってあるのです。

別に無理をして気のきいたことをいう必要はありません。

相手の気持ちを傷つけないような表現の仕方を考えて、それを言葉にすればよいのです。
どうしても自分からいいだしにくい場合には、第三者から伝えてもらってもいいでしょう。


<h3>コミュニケーションは言葉だけじゃない</h3>


相手に自分の気持ちを伝えるために言葉は大切な道具ですが、言葉に頼るだけでは不十分です。

言葉がもつ意味は人によって違います。

たとえば、<span class="b green">「けっこうです」</span>という言葉は、相手の意見に同意するという意味もあれば、逆に相手の申し出を断る意味をもつこともあります。


また、<span class="b green">「あなたの意見に賛成です」</span>といったとしても、本当に賛成していることもあれば、しぶしぶ賛成していることもあります。


あるいは腹立たしく感じていることだってあるかもしれません。


<span class="b red">言葉だけで判断しようとすると、相手の真意を見落としてしまう危険があるのです。</span>


コミュニケーションは言葉だけではなく、言葉の抑揚や調子、あるいは態度や雰囲気など、私たちの存在すべてを使って行うものです。

人づきあいでは、言葉にならない「コトバ」を伝えたり、感じ取ったりする必要があるのです。


<h3>思い込みは排除する</h3>


前にもいいましたが、私たちの判断には、かなり自分の思い込みが影響しています。

その思い込みがあるからこそ、相手の発言を直感的に理解し、いわゆる「あうんの呼吸」の人間関係をつくり上げることもできるのですが、

いったんその歯車が狂い出すと、関係がギクシャクしてしまうことにもなりかねません。

相手のちょっとした発言やしぐさに触発され、「私のことが嫌いなんだろうか」と思い出すと、「私のことが嫌いに違いない」と思うようになって、

人間関係の悩みのうずに巻き込まれてしまうということも少なくありません。


人間関係がつらいと感じたときには、ちょっと立ち止まって何を根拠にそう判断したのかを考えてみることが大切です。


<h3>「自分流」を捨ててみる</h3>


これも前に書きましたが、人間関係に限らず、何か問題が起こった場合、私たちは自分がやりなれた方法で対処しようとします。

その方法が「一番いい」と感じているからそうするのですが、「一番いい」と思っているだけに、それがうまくいかないときにはまるで自分が否定されたように感じて不安になってしまいます。

その不安を打ち消すために<span class="b green">「うまくいかないわけがない」</span>と考えて、逆にますます「自分流」に強くこだわるようになるのです。


ときには、思い切って「自分流」を捨て、新しい視点に立って問題を解決することも必要です。


<h3>「困った」ときこそ、チャンス！</h3>


人間関係で問題が起きたときにはまず、<span class="b green">「どのように解決するか」</span>と考えるようにしてください。

問題をひとつひとつ解決していけば、それが結局は、その後の人間関係に生かされることになります。

長い目でみれば、トラブルはけっして「困った」ことだけではなく、宝箱のようなものなのです。


<span class="b">実際、困らなければ問題はみえてきません。</span>

問題がみえなければそれを解決して前に進むことはできません。


困ることを恐れず、自分を信じ、相手を信じてしんぼう強くつきあううちに、新しい人間関係が生まれてきます。


<a href="http://d.hatena.ne.jp/mari777/20081022/1224697313" target="_blank">それを個性とはよばない</a>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 18 Sep 2008 18:42:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>何故、人づきあいが怖いのか？</title>
         <description><![CDATA[以前紹介した公園デビューに失敗した若いお母さんは、「自分の悪口をいわれているように感じて」公園に行けなくなってしまいましたが、

この<span class="b">「自分の悪口をいわれているように感じる」</span>という感覚は、人間関係でつまずきを感じている人にわりとよくみられるものです。

そう「感じている」だけならいいのですが、その感覚が強くなりすぎると日常生活の活動に支障をきたすようになってきます。


精神医学でいう<span class="b red">「対人恐怖症」</span>がそれにあたります。


対人恐怖症とは、他人と接する際に緊張があまりにも強すぎて、社会生活に適応できなくなっている状態のことをいいます。

顔が赤くなるのを気にして人前に出られないという人や、自分の視線がほかの人を不愉快な気分にさせるのではないかと心配になる人、自分のからだが出すにおいが周囲に迷惑をかけているのではないかと気に病む人、いろいろな対人恐怖症のケースがあります。

しかし、対人恐怖症の状態にある人が気にしていることは、ものごとを客観的に判断したうえでの認識ではありません。

自分の思い込みでそう信じ込んでいる場合がほとんどです。


では、対人恐怖症の状態にない人、心身ともに健康な人であれば客観的に現実を認識できるのかというと、そういうわけでもありません。


私たち人間は、誰もがそれぞれの主観にもとづいて現実をみているにすぎません。

主観という色メガネを通して世界を見て、自分なりの世界をつくり上げて、そのなかで一喜一憂しているという点では、私たちも対人恐怖症の症状がある人も、変わりはありません。

私たちは、こうした主観的な判断を瞬間的にしていて、それがあるからこそ日常の生活のなかで起きるいろいろなできごとにうまく対処できています。

しかし、ストレスが強くなると、そうした瞬間的な判断に狂いが生じてきます。

マイナス面ばかりに目がいって、次々と悲観的な考えが頭に浮かぶようになったり、不必要な心配ばかりするようになってくるのです。


そうすると、現実を客観的に把握して適切に問題を解決するという本来もっている力をうまく発揮できなくなってきます。


<span class="b">強いストレスにさらされると考えが極端に狭くなって問題を解決することができなくなる</span>例として、劇場内で火災が発生したときの人間の行動がよく引用されます。


心理学の本によく出てくる話なので、みなさんのなかにもご存じの方がいらっしゃるかもしれませんが簡単に紹介しましょう。


劇場内に煙が立ち込めて、「火事だ！」と判断すると、人は外へ逃げ出そうと出口に殺到してドアを押し開けようとします。

そのドアが引かなければ開かない場合でも、多くの人は「生懸命ドアを押し開けようとします。

引けば難なく開くドアなのに、不思議なことに「開かない、開かない」と必死になって押し続け、結局は煙に巻かれてしまうことになります。


このとき、多くの人が「ドアを押す」ことしか考えられなかったのはなぜでしょうか。


それは「ドアを押してドアを開ける」という考えにこだわりすぎたからです。

私たち人間には、やろうとしたことがうまくいかないとわかったときに、逆にその方法にこだわってしまう傾向があります。


私たちが問題を解決する方法として最初に選ぶのは、自分にとって一番なじみのある、自分と一体化した方法です。

ですから、それがうまくいかないと、不安になります。


自分がいちばん自信をもっていることが否定されたために、まるで自分が否定されたように感じてしまうのです。

はっきりとは意識しないところで「そんなはずはない」と考えて、自分が否定されたという思いを打ち消そうと、最初のやり方にこだわって、そこからなかなか離れられなくなります。

そのために、「押す」だけでなく「引く」というほかの行為を試してみようと考えることができなくなってしまうのです。


<span class="b">同じことが人間関係でも起こります。</span>


自分なりに考えた万全の準備をして公園に出かけ、思ったほどうまくいかないときにも、「そんなはずはない」と考えるだけで、新しい対策を考えることができなくなることがあります。


その結果、<span class="b green">「自分のことを悪くいっているのではないか」</span>と思うようになって、ちょっとした他人の言葉に敏感に反応するようになります。

そして、自分の世界に閉じこもって自分を責めるようになり、それがさらに「うつ」な気分を強めることになるのです。

こうした悪循環を断ち切るためには、自分の「こだわり」に早く気づき、そのこだわりに対してより現実的に、より柔軟に対処していくことが大切なのです。


公園デビューなど環境の変化にともなってあらわれる人間関係の「うつ」以外に、

<span class="b">友人あるいは近所の人など、比較的近しい人たちとのつきあいでも憂うつな気分になってしまうことがあります。</span>


人の性格やものごとに対する考え方はそれぞれ違います。


そのような人々といっしょにいると、当然のことながら、性格の不一致や意見の食い違いのためにイヤな気持ちになることがあります。

そうした摩擦を避けるために私たちは、直接的な感情表現を避け、あいまいな空間をつくることで人間関係をスムーズに進めるようにしています。

ところが、場合によってはそうした距離をうまくとれなくなって、お互いに傷つけあうようになることがあります。


そのおもな原因が相手の態度や言葉による場合、私たちはその人のことを「イヤな人だ」「困った人だ」とラベル付けして自分の世界から排除し、そのことでなんとか心のバランスを保とうとします。


<span class="b red">このように、いったん「困った人だ」だというラベル付けをしてしまうと、相手のイヤなところばかりが目につくようになってしまいます。</span>


こうして、ますます人間関係がこじれることになるのです。


しかし、そうしたときには、ちょっと立ち止まって、その人が本当に「困った人」なのか考えてみてください。

「あの人は困った人だ」と決めつけてしまえば、一時的に不安は軽くなります。

しかし、それは一時的なものでしかありませんし、その決めつけが正しいとも限りません。

人間には、よいところも悪いところも、いろいろな面があるのです。

イヤな部分があったとしても、それだけがその人なのではありません。

一方的に「困った人」と決めつけられれば、その人が反発してしまうのも当然です。

不安を解消しようとしてしたことが、人間関係をさらにもつれさせることになります。


本当に困ってしまう人とは、できるだけ距離をおいて関わらないようにするのがいいのですが、近所づきあいなどでは距離をおこうにもおけないことがほとんどです。

いやでもつきあっていかなくてはなりません。

だとしたら、ただ決めつけるのではなく、問題を具体的に考えてひとつひとつを解決していくのが一番です。


また、期待や価値観など、お互いに食い違っているところがないかを考え、そのギャップを埋めていくことも大切です。


相手に対して過剰な期待を寄せてはいないでしょうか。

その期待が大きければ大きいほど、それが裏切られたときには相手に対する不満が強くなります。

また、それぞれ違う価値観を無理やり押し付けあってはいないでしょうか。


このようにして、ひとつひとつ問題を解決していければ、今まで以上によりよい人間関係が築けるようになるはずです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 18 Sep 2008 09:32:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>母親が働いている子どもと、専業主婦の子どもの発達の差異について</title>
         <description><![CDATA[小さな子どもを抱えながら働いているお母さんのなかには、子どもからいわれる「お母さんがお仕事でいないのはさみしいよ」という言葉に「胸が痛む」という人も少なくないと思います。


いまだに世間には「小さな子どもを保育園にあずけて働きに出るのはかわいそう」という考え方がありますから、周囲からそのような目でみられると、お母さんたちの胸の痛みはいっそうつのることでしょう。


たしかに、<span class="b">「乳児期にお母さんが育児に専念しなければ、子どもの心に将来まで深い傷が残る」</span>ということを指摘した論文があります。

その代表がボウルビイの「愛着行動制御理論」です。


しかし、この研究対象となったのは、「特別な理由で施設で養育されている」という特殊な環境におかれていた子どもたちです。


また、ボウルビイの説については、施設の教育環境が十分なものでなかったり、母親が精神的に不安定で子供に愛情を注げなくなっているケースもあることなどを考慮すると<span class="b">「必ずしも正しくない」</span>と指摘する研究者もいます。


さらには、米国カリフォルニアの産院で誕生した乳児130人の発達状況を1歳から7歳まで追跡調査したコットフライドらの研究によれば、

母親が働いている子どもと専業主婦の子どもでは、社会性の発達や行動上の問題、学業成績などに差は認められなかったといいます。


もちろん、乳児期の子どもは、養育者との間で愛情ある関係を形成することで、身体的・精神的に安心し、信頼感を獲得し、ほかの人との交流を学んでいきます。

しかし、乳児期には母親が育児に専念しなければならないというわけではありません。


<span class="b">なにより、「養育者」とは、母親だけを指す言葉ではないはずです。</span>


子育てで中心的な存在は母親かもしれませんが、母親だけでなく、父親の存在、あるいは、そのほかの家族も養育者です。

ですから、働く主婦が「私が働いているから子どもにさみしい思いをさせてしまう」と、自分を責めすぎるのは問題です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 22:50:37 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>性格は脳内物質で決まる？</title>
         <description><![CDATA[脳内物質は気分の変化だけでなく、人間の性格にも影響を及ぼしています。

アメリカの精神科医、ロバート・クロ二ンジャーによると、

<span class="b">ドーパミン</span>という脳内物質は新しいことや珍しいことに輿味をもって衝動的にものごとを探究していく<span class="b blue">「新奇追求性」</span>という性格に関係しているといいます。


セロトニンは危険が予測されるときにそれを回避しようとする心の動きに関係していて、不安や人見知りに、またノルアドレナリンは、いいことが起きたときに<span class="b green">「このままこの"いい状態"が続くんじゃないか」</span>と思う心の動きに関係しているといいます。


最近の研究から、神経と神経の接合部で脳内物質を受け取る受容体に関連する遺伝子と性格との関係が解明されてきました。


遺伝子というのは、私たちのからだをつくるアミノ酸という成分の配列を指定する設計図で、アデニン、チミン、シトシン、グアニンという4種類の分子（塩基ともいう）で構成されています。

これら4つの分子は、さまざまな順番で3個1組になり繰り返しつながっていて、それが暗号となってアミノ酸の配列を指定しています。


イスラエルのリチャード・工ブスタインやアメリカのジョナサン・ベンジャミンは、好奇心をもって突き進んでいく「新奇追求性」の性格とドーパミンの受容体の遺伝子の様子との関係を調べました。


ドーパミンの受容体の遺伝子のなかには、アミノ酸配列が繰り返される回数が人によって違っている部分がありますが、アミノ酸配列が繰り返される回数が多いほど、新奇追求性の傾向が強くなることがわかりました。


また、不安に関しては、ドイツのクラウス・ピーター・レッシュらの研究でセロトニンと関わる遺伝子の違いが影響していることがわかりました。

神経の末端から放出されて次の神経の受容体に結びついた脳内物質は、「トランスポーター」とよばれる、いわばリサイクル回収業者のはたらきでもとの神経の末端に取り込まれます。


セロトニンをリサイクルするセロトニン・トランスポーターの一部に、44対の塩基をもつ遺伝子と、それをもたない遺伝子がありますが、

<span class="b">44対の塩基をもたない人はもつ人にくらべて不安で神経質な傾向が強いことが確認されたのです。</span>

しかし、これらのことだけで性格が決まるわけではありません。


これらの遺伝子で説明できるのは、ごく一部でしかないのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 19:06:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>やる気満々の子供、無気力な子供</title>
         <description><![CDATA[子どもたちの中には、やる気いっぱいの子がいます。

そして、子どもによって何にやる気を出すか、いろいろと違います。

勉強が大好きで、学校でも塾でも楽しく学ぶ子、

眠い目をこすりながら夜中になっても勉強をやめない子、

水泳が好きで毎日でも泳ぐ子、

走ることが大好きで毎朝ジョギングを続ける子、

夏休みのラジオ体操を毎朝ちゃんとやり遂げる子、

本が好きな子、

絵が好きで授業中でも先生の目を盗んではノートに絵をかく子、

大人を負かすほど碁が強くて碁会所に楽しく通っている子……。


いったい、何が子どもたちにそうさせるのでしょうか。


子どものやる気、どうしてもこれをしようと積極的に行おうとする心、あるいはこれはすまいという積極的に自制する心‥…・。

意志・意欲を科学的にとらえるのはたいへん難しいことです。

確かに、人間というものは自分の意志で、目的志向的な活動を通して生命を営むことができる唯一の動物であると考えられます。


われわれは、遊びたいが勉強しなければならないから勉強するというように、義務感によって何かを行っていることがあります。

二つの心の流れの葛藤によって一時的に停止した、あるいは停止しそうになった行動をより高い心の流れに向かわせる心のプログラム、それが「意志」であるといえるかもしれません。

また同時に、このプログラムは、二つの行動のプログラムのどちらかを選択するものといえましょう。

意志・意欲の心のプログラムは、いったいどうなっているのでしょうか。


人間の行動をよく見ると、確かに、喜びや満足が得られるから、楽しいから、うれしいから、その行動のプログラムが意志のプログラムによって作動するのだと説明しやすいものがたくさんあります。

例えばおなかがすいたから食べるのは、空腹感を満たし、満腹感が味わえるからだといえます。

好きな音楽を聞きたいと思ってレコードをかけるのは、その音楽の美しいメロディーを聞いて、良い気持ちになるからであるといえます。


人間はいろいろな報酬を、すなわち<span class="b">「報い」</span>を求めて行動していると考えられるのです。


しかし、一見したところ、とくに報酬がないのに取る行動もあります。


柔道、剣道、陸上競技、野球などの猛練習とか、難しい算数、国語、外国語の勉強を続けるとなると、簡単に楽しいからではすまされない場合も多いのではないでしょうか。

なぜ、ある子は積極的でやる気満々なのに、ある子はまったく意欲がなくてやることができないのでしょうか。

たしかに、はた目に見ても、練習とか学習が楽しいとは決して思えないことも多いと思うのです。

もちろん、いつかは優勝旗を、メダルを、入試合格をという報酬があるからかもしれません。

さおの先につけたニンジンを鼻の先にぶら下げられて走る馬と同じでしょうか。

それも、あまりに簡単な説明のように思えるのです。


<span class="b">人間には、この報酬を求めているようにはまったくみえない、もっと高等な行動がたくさんあります。</span>


なぜ、徹夜して芸術作品を作ったり、寝食を忘れて医学や生物学の研究をするのでしょうか。

なぜ、数字だけを並べて考え続けることができるのでしょうか。

なぜ、断食の苦しみのなかで仏の道を求めるのでしょうか。

なぜ、自分を犠牲にしてまでボランティアとして心身障害児や寝たきり老人の世話をするのでしょうか。


人間の高次の行動となると、<span class="b blue">抽象的なものに対しても強い意欲を示します。</span>

このような現象はある意味で最も人間らしい行動であり、なぜそうするのかという説明は大変に難しいのです。


有名な動物実験があります。

この事実が人間のそのような行動のなぞを解くかぎになるように思えます。

ネズミの脳に電極を差し込み、ネズミがレバーを踏みさえすれば弱い電流が電極に流れて脳を刺激するような配線を作ります。

そこで、電極の位置を脳の中であちこちと変えてみます。

そうすると、ネズミが自分でレバーをあやつり白分から積極的に刺激を求めるような場所が脳の深部に見つかるのです。

ネズミはレバーを踏み続けるようになるのです。

これは、<span class="underline">体の中からの信号でなにか報酬が出る部位があるからではないか</span>と考えられています。


<span class="b">この事実は、生き物にはある行動をとるのに必要な報酬を作る神経回路が脳の中にあることを意味します。</span>


これがリウオーディソグ・システム（報酬系）であり、前の実験で示された脳の部位はリウオーディソグ・センター（報酬中枢）と呼ばれるものなのです。

このシステムがある以上、それを機能させるプログラムがあると考えるのは当然のことです。

このプログラムは、意志のプログラムと表裏の関係にあるようにみえます。

リウオーディソグ・システムは、いちおう視床下部と脳幹頂部の大脳辺縁系の神経細胞のネットワークと考えられるのです。


現在、食欲や摂食の行動に関係のあるものでは、リウオーディソグ・システムとその中枢が比較的明らかにされています。

その報酬中枢は視床下部にあり、その外側を壊すと食欲は低下し、内側を壊すと亢進するというのです。

もちろん、味や匂い、さらには色や形などの感覚的な情報、さらには情緒などの精神・心理状態もこのシステムに関係することは言をまちません。


リウオーディング・システムは、いろいろあるにちがいありません。

それは、決して簡単なものでなく、何百万もの神経細胞が関係する極めて複雑な回路からなっていると考えられるのです。


食欲に関係するリウオーディソグ・システムでは、血糖などの化学的な因子もプログラムの作動に関係しています。

飲水などのリウオーディソグ・システムでは、血液中のナトリウムなどの電解質や珍透圧も関係しているのです。

行動が高次になればなるほど、単なる化学的な因子による刺激や電気的な刺激ばかりでなく、神経ペプチド（アミノ酸の鎖）のような特殊な化学的な因子も関係しているようです。

<span class="b">脳の組織は、モルヒネと似た作用をする物質さえ分泌するのです。</span>

例えば、ジョギングのような単純な行動でも、この分泌が増加するのですから、人間らしい行動になればなるほど、リウオーディソグ・システムにはいろいろな因子が関係してくるのでしょう。

医学・生物学的にいえば、

<span class="b">子どもたちの意欲にもリウオーディソグ・システムが関係していることはありうることです。</span>

ですから、子どもたちの意欲を高めるにはそのプログラムがよく働くようにしてやらなければなりません。

しかし、その方法は難しいでしょう。

とくに、内的なプログラムの作動についてはわからないことがあまりにも多すぎるといえます。


しかし、<span class="underline">あるお母さんから聞いたこんな話</span>が何かヒントを与えてくれるのではないでしょうか。


お子さんの通っている小学校に、満点を取るまで同じ問題を繰り返し出す先生がおられるそうです。

出来ない子どもは、十回も同じ問題を出されたのかも知れません。


しかし、先生に赤い字で１００点と書いてもらった答案用紙を持って帰って、

<span class="b green">「お母さん、今日満点とったよ」</span>

と誇らしげに見せるその子どもの心の中では、リウオーディングのプログラムがフル回転しているにちがいありません。


これと同じ考え方で、

<span class="b">家庭の中で子どもをしつけるとき二つしかったら必ず二つ褒めなさい、とくにしかった後では、</span>

と私は申しあげています。


どの子どもにも必ず良いところはあるものです。

子どもたちは、与えられた目的や自分で立てた＝的を達成したり、知性的なもの、情緒的なものを求めるプログラムを持っているのです。

それによって、逆境にあっても、つらさに耐える力を持つのです。

そのプログラムをうまく働かすとき、満足とか喜びを感ずることができているのです。

それを感覚的に感ずるかどうかは別として、だからこそ子どもたちはそうするのです。


子どもたちの求めるものが知性的な対象であるか、感覚的な対象であるか、運動的な対象であるかによって、リウオーディングのプログラムは異なるでしょう。

それを内から働かすことは難しくても、外からならなんとかできるのではないでしょうか。

また、外から何回も動かしていれば、内からも働かすことができるようになるのかもしれません。

教える立場にある者は、先ずそれを試みるべきであると思うのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 13:11:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の教育環境の在るべき姿</title>
         <description><![CDATA[「しつけ」の欠如と過度な「しつけ」はいろいろな問題を起こします。


このような立場からみると、子どもの生活の場である生態システムは人間的でなければならないと思います。

それには、<span class="b blue">教育環境を人間化</span>する必要があります。


<h3>家庭教育</h3>


まず、家庭教育の立場から考えてみましょう。

優しい心、人間を信頼する心、他人を受容する心を育て、子どもに基本的なしつけをするには、家庭教育の果たす役割が大きいと思います。

なかんずく、乳幼児期におけるそれは決定的といえましょう。

家庭教育は両親によってなされるものですが、父親と母親とでは分担が異なり、乳幼児期では母親の役割が大きいと思います。

したがって、乳幼児期の母親の役割を中心として次の対策を強調したいと思うのです。

子育てに専念し、子育てを楽しむことができるようにするには、

働く母親は出産前数週から出産後のある期間まで仕事を休むことができるような育児休業制度を確立する必要があると思うのです。

これは、母子相互作用が豊かに行われ、母親の母性的愛情の確立と子どもが母親に対し愛着を十分に持つことができるようにすることが目的なのです。

愛される体験を持つことです。


もちろん個人差はありますが、母親の母性的な感情がとくに高まるのは出生後六か月ぐらい、離乳の始まるころといわれています。

また、子どもの母親に対する愛着は相対的に長く、その意味で生みの親より育ての親であり、一〜三年、すなわち乳児期全般、さらには幼児期前半も重要であるといわれています。

したがって、育児休業の必要な期間は短くて六か月、長くて三年ぐらいといえますが、家庭や個人の条件はいろいろ異なるので、母親の希望によって期間を決めるのがよいと思います。

私は個人的には、子どもが集団生活の場である保育園あるいは幼稚園に喜んで行くようになる時期までがよいと思っています。

もちろん、初めての赤ちゃんとそれ以後とでは、やり方も大きく違うと思います。

この期間の収入を保障する失業保険に準ずるような制度や、再就職でハンディにならないようにするための職業教育などについても、社会として配慮すべきではないでしょうか。

また、母親によっては、働く生きがいと子育ての楽しみとが両立するようにくふうする必要があるでしょう。


母親が子育てに専念し、母子相互作用がうまくいくには、母親の心が安定していなければなりません。

それには、<span class="b">エモーショナル・サポート</span>が重要なのです。

そのためには、分娩後の数週間、必要に応じて父親も育児休暇を取ることができるように、配偶者出産休暇とか育児協力休暇とでもいうべきものをもっと活用するべきでしょう。
個人の申請により休暇を得るというものではなく、会社・企業が積極的に休暇を当てるべきでしょう。

また、母親が子育てに奮闘している重要な分娩後の一年ぐらいは、必要に応じて父親の遅刻・早退も認めるようにすることも一案ではないでしょうか。


乳幼児期の子どもに対する父親の役割は、子どもに直接接触して子育てをするとともに、子育て中の母親の労働的な支援ばかりでなく、精神的安定を保つ意義が大きいのです。

すなわち、子育て中の母親への<span class="b">エモーショナル・サポート</span>です。

父親としては、子どもが外に関心をもちはじめ、歩行を開始し、社会性が発達しはじめるに従って、社会生活に必要な基礎基本としてのしつけをする役割と責任が大きく、社会的な規範意識をしっかり子どもにつけなければいけません。

甘いばかりでなく、厳しい態度も必要でしょう。

さらに母親には十分にできないような活動的な遊びを介しての相互作用が期待されます。

また、赤ちゃんをだっこしたり入浴させたりすることも、父と子のきずなを作るのにもちろん必要ですが、

子どもに優しさを、さらにそれを介して基本的信頼を体得させる親の役割としては、母親に期待されるものが大きいことは、心理学のなかでしばしば言われることです。

それは、<span class="b">「大いなる母」</span>を子どもに体験させることなのです。

非行や暴力など、思春期の行動問題を起こした子どもたちをみていると、母親の優しさを求める姿が多いのです。

乳幼児期における母親との体験は、（母なる大地）のように、土地や海などの自然にみられるもの、マリア像や仏像などに表現されている、人間の心の中に無意識のうちに普遍的に存在する母なるものと結び付いているのです（ユング）。

ですから父親に期待されるのは、どちらかというと、よちよち歩きを始めるまでは母親へのエモーショナル・サポートが第一で、父親と母親には大きな役割分担があると思うのです。

私は学校・授業参観に対する親の休日制度を確立してもらいたいと思います。

親、とくに父親が子どもの保育園・幼稚園・学校などの参観日に出席する場合、それを指定休などに準ずる休日として認めることも、親の教育的役割を強化し、学校と家庭を結びつけるのに重要なことでしょう。

このような育児に関係して父親・母親の休暇・休日を制度化することは、我が国の社会では、決して実現困難なことではないと思うのですが、いかがなものでしょうか。


<h3>学校教育</h3>


次に、学校教育の立場から考えてみましょう。

とくに、保育園・幼稚園の果たす役割が大きいと思うのです。

幼稚園の先生や保育園の保母の資質の向上、これがまず必要ではないでしょうか。

子どもに直接対応する幼稚園の先生や保育園の保母さんには、子どもの心と体の健康、さらに発育などについての十分な知識を、また行動問題などを早期に発見するために、

それを基盤としたカウンセリング的な技術を少しでも持ってもらいたいのです。

さらに、子どもたちに優しさを体験させるために、「子ども好き」な性格であることを幼稚園の先生や保育園の保母さんなどの採用条件にするのもよい考えでしょう。


こういう人たちにとって、わが子を育てる育児休暇はある意味で研修の役割を果たすことも忘れてはなりません。

保母さんや先生が世話をする子どもの数を少なくしなければなりません。

乳児期のマルチマザーリングは、乳児の心の発達に好ましくないことが指摘されています。

したがって、とくに生後一年間の保育の現場ではひとりの保母さんが世話をする乳児数を少なくし、しかも決まった乳児に限って養育する体制を作ることが望ましいと思います。

いちおう、現行でもそうなっているようですが、私は保母一人に対して乳児三人ぐらいが適当であろうと思います。

そうすれば、保母さんは三つ子の母親の役目を果たすことになるのです。


幼稚園・学校などの教育施設では、教育効果を考えて一クラスの子どもの数を可能なかぎり少なくする必要があるのではないでしょうか。

欧米諸国並みに、幼稚園では十五人、小学校低学年では二十人、小学校高学年さらに中・高校では三十人などが望ましいようですが、

授業方法によって数を変えるなどの方法も考えられると思います。

教育環境は自然を豊かにしなければなりません。

子どもたちが楽しく勉強し、伸び伸びと遊び、スポーツを楽しむことができるように、保育園・幼稚園・学校およびそれに関係する施設の人間化も重要です。


例えば、校舎を木造の温かい感じのものにする、校庭には花や樹木を多くして自然を豊かにするなどの必要があると思います。

公園と学校を組み合わせたりするのもひとつの考えでしょう。

それには、子どもの生活を考えた学校建築学・都市工学の発展が必要です。

べディキスティックスというこの方面の学問体系もできているのです。


アメリカのシアトルでは、町全体を子どもたちにとって住みやすくするために、「キッドプレース」というプロジェクトがあります。

わが国のどこかの市や町でも始めていただけないものでしょうか。

さらに、いろいろな方法で、自然学級などによって豊かな自然に触れる教育の枝会を多くすることが望まれます。


また、学校における行動間墓に対する相談機能を充実してもらいたいと思います。

いじめの舞台は学校だからです。

行動問題をもつ子どもたち、とくに「いじめられっ子」は、学校で心身の愁訴、例えば頭痛・腹痛などを訴えて保健室を訪れる場合が少なくありません。

やがてそれが<span class="b red">登校拒否</span>にも発展し得るのです。

したがって、養護の先生は体の健康ばかりでなく、心の健康もモニターする重要な役割を果たします。

そのためには、専門性を高める必要があると思うのです。

子どもの心と体のプログラムをよく理解して、カウソセリングの能力を持ってもらいたいと思います。

また、スクール・カウソセラーなどの心理の専門家を配置したり、あるいは学校を月一回ぐらいの割で巡回するような体制をつくる必要もあると思うのです。

学校保健室はそういった子どもたちの行動問題のサーべランスの基点となりうるので、その情報を集め、それを整理して対策を立てることも可能だと思います。

さらに、地区医師会、とくに小児科医のグループなどの医療システムと連携すれば、対策はよりよいものになるのではないでしょうか。


現在の学校はあまりにも<span class="b red">閉鎖的</span>ではないでしょうか。

学校に起こっている「いじめ」などの行動問題は、ある意味では社会から隔離され、地域社会の人々の目の届かない学校という子どもたちの生活の場で起こっています。

極言かもしれませんが、一般社会から見ると特別ともいえる独特の文化や規範のもとに起こっているとさえいえます。

そのうえ、問題となる学校は、「いじめ」の加害者・被害者の双方にとって健全な心の発達、さらには人格の完成の場としての機能を果たしえていないにもかかわらず、

多くの場合、社会的にみるとみずから閉鎖的にして、隠しているのではないでしょうか。

一般に、子どもや親が学校を選ぶことは簡単でなく、場合によってはその閉鎖性のために社会からの助けを受けられないのが実態であるという例も見られるのは重大なことです。

「いじめ」などの行動問題が今日の学校において多発していることの一因として、このような学校の閉鎖性が指摘できると思います。


<h3>「いじめ」問題</h3>


この「いじめ」問題は、さらに次の三つに整理することができます。


その第一は、学校・教室が地域社会および家庭から隔離された施設であり、

父母・地域住民が学校における子どもの日常の姿を、地域・家庭と違った同世代集団のなかでどのように行動しているかを把握しにくい状況にあります。

この点、学校はもっと開放されなければならないと思うのです。


第二は、元来、子どもの文化は世代間および同年代間の交流、さらには淘汰によって社会的に発達し、成熟することが期待されるものです。

しかしながら、現在の多くの学校においては社会に向けて中心となる窓口は先生だけであり、極めて閉鎖的になっています。

また、先生自体には必ずしも社会規範の代弁者たり得ていない場合が少なくないと思います。

「いじめ」が問題となっていた学校で、生徒と教師によってつくられる文化的な空間では、

いわゆるパロディー文化、いじめの正当化論理、偏差値偏重の一元的価値基準といった独特の文化・規範が形成されているようにみえるのです。


第三は、いじめが自分のクラスに起こっているのに気付かない先生、気付いても見て見ぬふりをする先生、さらにはいじめに加担している先生さえおられることです。

いじめる子どもたちの書いた弔辞に名を連ねた先生とか、いじめられた子どもを除くクラス全員にいじめられている子どもについての作文を書かせた先生とか、

「いじめ」に加担しているようにみえる先生のことが報道されるたびに、心が痛みます。

いじめられる理由はいろいろあるにしても、その子を追い詰める先生では困ると思うのです。

どんなに悪い子であっても、少しでも味方になってやってもらいたいと思うのです。

その子の将来を目の前のことだけで予測するのはたいへんに難しいということを忘れてはなりません。


わが国の教育システムにはその画一閉鎖性についていろいろな問題があり、

とくに学校指定・就学義務の問題と教育組織との固い関係が大きいことも指摘されますが、かといって自由化による混乱も心配です。

しかし、もう少し柔軟であってよいと思います。


子どもたちには憲法によって教育を受ける権利が保障されています。

この実現のため、公立の小・中学校においては学区制による学校指定が行われ、子どもたちの多くは事実上この指定校への就学が義務づけられています。

もちろん、経済的に余裕があったり、上級学校の受験を目標として限られた有名校に進む例外もみられます。

問題なのは、「いじめ」の加害者・被害者双方にとって、指定された当該学校の教育能力が著しく低下していることです。

アメリカのように自由にするのがよいかどうかは問題ですが、もう少し自由にならないものでしょうか。


<span class="b">さらに、教育界の各機関自体および機関相互の関係にみられる硬直性も問題です。</span>

教育というすべての国民にかかわりの深い行政について、親の考え方を反映させる方法が十分でないと思います。

情報の交流、さらには教育機関相互の連携が十分でないばかりか一部には対立関係すらあり、他の機関との連携も不十分である点が問題なのです。

文部省のなかで、子どもたちの心と体の健康を管理する部門と、「いじめ」が多発したときに対応する部門とが違っているのに驚いたことがあります。


これらを解決するためには、いろいろな局面でこの固いシステムや画一閉鎖性を開放していかなければならないのです。


まず、校舎・教室などの学校の施設を明るく開放的にし、地域住民・父母が学校での子どもたちの生活を気軽に見られるようなものにする必要があると思うのです。

また、学校という施設のあり方を検討し、地域住民に学校施設の利用を認めるのみならず、地域の施設（民営、公営）を学校教育の場として一時または常時使うことを考える必要があります。

<span class="b">つまり、学校と家庭、さらに地域社会との交流の活性化です。</span>


第四は、子どもの発達段階に応じて社会的・文化的に成熟させるため、

地域の工場、病院、老人ホーム、乳児院、障害者施設、公共棟閑などへの見学、勤労体験の機会をできるだけ多くすることが必要であると思います。

また、先生がたの社会的見識を広め、社会人として共通の基盤をする機会を作ってもらいたいと思います。

とくに、わが国では、まだまだ社会主義国の実態についての認識が偏っているように思われるので、ぜひそれらの国を見ていただきたいと思うのです。

私は何回か訪れて実際に見る機会がありましたが、それについて考えるところがありました。

そういった国々と比べると、わが国の教育はまだまだ良いと思うのが実感です。

また、いろいろな社会人を教員に登用して、教育の人間性を高めるのも良い手段かと思われます。

さらに校用のなかで毛髪の長さとかスカートの丈などを細かく規制しなくてもよいのではないでしょうか。

今の子どもたちは情報化社会のなかで育ち、いろんなことを知っているので、規則だけではすべては直せません。


<h3>「いじめ」の解決の方法</h3>


学校教育のシステムの硬直性・画一性、閉鎖性に「いじめ」の一因があるとするならば、解決の方法は二つあると思います。


第一は、システムの現状を維持しつつ、子どもたちにとって快適な空間となるように、校舎や校庭などのハードな面と、先生の資質などのソフトな面の大幅な改革を行うこと、


第二はシステム自体を大幅に弾力化し、自由化し、さらには開放的なものにすること、すなわち教育システムを人間化することです。


今日の教育問題の現状は、社会的パラダイムの転換期において、教育目的（国家の役割、国家と個人の関係）の変遷、親ばかりでなく子ども自身の、そして社会の教育ニーズの変化、教育を供給する機関の理念や方法の多様化、民間の教育（情報提供）能力の向上などに、現在の教育システム持ちうるように知識を高める必要があります。

そのための研修を充実したり、海外を見学したりが対応しきれていないことによるものと理解されます。

したがって、弾力化を進め、自由化を選択することも考えられると思います。


もし、「いじめ」に直接関係する子どもたちにもっとふさわしい人格の形成にとって良い教育をする学校や教育機関などがあるとすれば、

彼らにそういう教育を受けさせる機会を選択する権利を与えることこそ必要なのではないでしょうか。

好きな学校で好きなように勉強できるようにしてやってほしいのです。

楽しい学校なら楽しんで勉強できるものです。

もちろん、これは程度問題であり、すべての子どもたちの教育を受ける権利に応えるよりよいシステムはどうあるべきかが今問われているといえます。

無論、現在の教育問題は一過性のものであり、急いだ改革より漸進的改革が望ましいという主張は十分傾聴に値します。


しかし、画一的・統括的な改革ではなく、地域の特異性や学校の実情に応じて、もろもろの条件の整った市町村において勇断をもって多様な試みの一つとして実施するのも一つの方法と思われます。


最後に、社会教育の立場から考えてみましょう。


まず、家庭の教育棟能を高めるサポーティング・システムを作らなければなりません。

社会は先進化・都市化とともに核家族化し、また女性の就労は増加し、家庭の教育機能は低下しています。

したがって、家庭の教育機能を強化するサポーティング・システムが必要なのです。

とくに、子育てのあり方についての社会教育が重要でははないでしょうか。

すなわち、保育園・幼稚園・学校・保健所・児童館などの場で、小児科医・心理カウンセラーなどによる授業形式でする子育て教育ばかりでなく、

子育ての体験者やこれから子どもをもつ妊婦が輪になり、その中に専門家も入って、自然なやりとりのなかで教育効果を高める方法が考えられます。


<span class="b">つまり、その昔、井戸端で行われた子育ての情報交換を現代的にするというわけです。</span>

臨時教育審議会の答申に述べられているいわゆる<span class="b">「新井戸端会議」</span>がこれなのです。


さらに、地域のなかに行動問題をもった子どもの親が気楽に相談できるカウンセリングのシステムを作ることは、家庭の教育機能を強化するのに有用だと思います。

現に教育相談所・保健所などもありますが地域の医師会や小児保健協会が対応するシステムを作ることも考えられます。

私たちは、社会の中の「いじめ」現象についても考えなければなりません。

「いじめ」のモデルは社会の中にも少なくないと思うのです。

例えば、学校管理者、政治家や芸能人などに対する「いじめ」ととられやすい出来事を、新聞・雑誌・テレビなどで見る機会があることは御存じのとおりです。

これが子どもたちの「いじめ」のモデルになりうるという可能性は否定できないと思うのです。

私たち大人も、子どもたちのことを考えて、みずからのあり方を反省する必要があります。

現在は、日本人のもっている伝統的な「武士のなさけ」、すなわち人を許す心が見られないように思いますが、いかがでしょうか。


社会教育に対する対策は、子どもの社会活動が大きくなる思春期前後から重要になるでしょう。

エロ・グロ・ナンセンスなどのテレビ・雑誌の内容は、子どもの心に、とくに思春期の子どもたちに決してよい影響を与えてはいません。

とくに、非行などに関連しては、性教育などの立場からジャーナリズムなどの報道メディアのあり方を考えなければならないと思います。

こういったメディアをつくる人々の心こそが問われているのです。

「ノーテレビ・デー」を決めるとか、あるいは「もう九時になりました。子どもたちは寝ましょう」など、テレビの画面にテロップを流すなどの方法を提案した小児科医がおられます。


結局のところ、優しい心を育てるには、赤ちゃんのときに母親、そして父親によって愛のプログラム、信ずるプログラムにスイッチを入れてやること、

そしてその後の子どもたちの生活の場、すなわち生態システムを人間化し、愛のプログラムを回し続けるように、私たち大人が努めることです。

そのための社会制度の確立に対して、私たちがやらなければならないことがたくさんあります。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 06:23:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>小児医療の問題点</title>
         <description><![CDATA[

<span class="b green f12em">小児医療の問題点・・・</span>

<span class="b red">一番の原因は医師不足。</span>小児科の労働条件の厳しさが小児科の医師が増えない最大の原因。

ほとんどの小児科が診療時間が過ぎても患者が減らず、朝から晩まで働きっぱなし。

また、小さなお子さんを扱うため他の診療科以上にサポートスタッフの人数を必要とするわりに、他の診療科より診療報酬が低いという小児科の経営的実情も追い打ちをかけているそうです。


<hr />

救急医療の問題点

・総合病院からの医師離れ・医師の人材不足。

・患者のたらいまわし・約9割が緊急を要しない患者である。

・その他　


小児医療の問題点

・医師不足（小児科へ進む医師が少ない）

・小児科の診療報酬の低さ＝小児科医の地位の低さ

・他の診療科目以上にサポートスタッフを必要とする診療科のため、人件費をはじめ経営的に厳しい。

・その他

<hr />


沖縄県の例でいえば、救急医療は全て総合病院が中心に行っています。

救急医療の当直医は昼間も一般の患者さんを診ています。

そういった極めて厳しい労働条件のため医師が増えず、更には地域の診療所などへ開業するなどの医師離れが起きている事が一番の原因です。

また、よく耳にする救急医療における待ち時間の長さや患者のたらいまわしの最大の要因は緊急を要しない患者の多さが原因です。

現在、夜間の救急医療で本当に緊急を要した患者は全体の患者数の1割で残りの9割は翌日に診察しても問題ないそうです。

救急医療の大きな問題点は医師不足と一方では軽い症状の患者数の多さが原因ともいえます。


<span class="b green f12em">医師を大切に</span>

何よりも自分たちのために・・・私達が本当に必要な時に適正な医療が行き届くように、医療全体の事、医療スタッフの事を大切に考えていくべきではないでしょうか？

医療スタッフも人間です。

現在の極めて厳しい労働条件のもと最良の医療を皆さんに提供できるように日々励んでいます。

現在、小児医療や救急医療に携わるお医者さんや看護士さんは皆さんが考える以上の高い使命感と志をもって、医療に取り組んでいるのです。

そのためには緊急以外は昼間の診療時間に診察にいくようにしましょう！
忙しい人は親、兄弟などの親戚との協力関係を築いておく事や職場の理解を求める事が必要です。

夜間診療は症状の重い患者が多いため小さなお子さんは病気をもらう事が頻繁にみられるそうです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 04:42:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの健康な発育に必要なもの</title>
         <description><![CDATA[子どもに心と体のプログラムのあることはよく理解されたことと思います。

その上、子どもは育つものですから、心と体のプログラムを発育に合わせる発育のプログラムも備えているのです。

発育の生体システムといっても特別な限られたものではなく、体全体・生体システムのすべてです。

とくに骨格系・結合組絨系などの体をつくる骨・筋肉などは目立って大きくなりますが、それには神経系、内分泌系などの発育に関係ある生体システム、

とくにそれが作る成長ホルモンなどのホルモン、さらには発育因子が支配的な役割を果たしています。

発育のプログラムは、体全体の臓器や組織、それぞれの生体システムのプログラムを調整せ、その相互作用によってホルモンなどを介して、全体としての統合をはかりながら、子どもの心と体をすくすくと育てるのです。

そのプログラムの中心として、発育センターと呼ぶべきものが考えられるでしょう。

人間が健康に生活するためには、心と体のプログラムを円滑に機能させなければなりません。

逆に、健康とは、心と体のプログラムが相互作用をしながら協調し、スムーズに働いている状態であるといえます。

子どもも同じです。

そうなれば発育のプログラムも作動します。

心と体のプログラムの一方に不調があると他の一方に不調がみられるようになるのは、どなたも御存じの通りです。

一般に、大人ではストレスが、すなわち外からの原因で心のプログラムに異常が起こると、それが心気亢進・胃痛から始まって、胃潰瘍・心因性大腸炎などの消化器症状から心筋梗塞などの心症状まで、いろいろな疾患の原因となるなどはその代表です。


子どもも同じなのです。


とくに乳幼児では、母親に愛されない、育児環境が悪いなどの状態では、無気力になったり、下痢や腹痛・頭痛を起こしたり、さらには体重の増加や身長の伸びが遅れたり、行動異常が現れたりするのです。


小児科医はこれを<span class="b">母親愛情剥奪症候群、</span>そのうちとくに身長の伸びの停止した状態を<span class="b">小人症</span>と呼んでいます。


もっとも、そのような子どもでも入院したり施設に入ったりして可愛がられるとすぐにこにこ笑うようになり、すくすく育ち始めるので、

母親や父親に原因があるとしても病名にするのはどうかというので、情緒遮断症候群と呼びます。

これは、子どもの心のプログラムが乱されるために体のプログラムや発育のプログラムが失調することによると説明されています。

子どもの健康な発育にとっては、心と体のプログラムが円滑に作動し、発育のプログラムがよく機能しなければならないのです。


<span class="b blue">したがって、家庭や学校での子どもの生活環境が本当に重要なのです。</span>


ここでひとつ、教訓的な症例をお話ししましょう。


第二次大戦後のドイツで、あるイギリスの栄養学者が発表した研究です。

イギリス占領地域のドイツに、ＡとＢという二つの孤児院がありました。

Ａの孤児院の尼さん（園長）は優しく、子供好きでした。

Ｂの孤児院の尼さんは大変うるさい尼さんで、しつけが厳しく、ガミガミと管理する人でした。

この二つの孤児院の子どもたちには・両方とも同じ量のパン・バター・砂糖などの食糧品が連合軍から配給されていました。


しかし、子どもたちの体重増加率を調べてみると、優しい尼さんに世話されていたＡの孤児の方がＢの孤児より良かったのです。


ところが、うるさい尼さんにも八人の好きな子がいて、その子たちの体重増加はＡとＢの平均の中間でした。

ところで、二人の尼さんの入れ替えが行われたのです。

Ａの孤児院にうるさい尼さんが彼女の好きな八人の子どもといっしょに移り・Ｂの方に優しい尼さんが移りました。

そうして体重増加のよかったＡの子どもたちにはうるさい尼さんが来たので、食べたいだけ食事が与えられました。

Ｂの子どもは体重増加が悪かったのですが、優しい尼さんが来たので食事の量は前と同じようにしておきました。
ところが半年たってみると、優しい尼さんに世話されたＢの子どもたちの方が、前と同じ食事量にもかかわらず、体重増加がよくなったのです。


すなわち、食べたいだけ食べさせているＡの子どもたちの発育速度を上回ったのです。


ここでおもしろいことに、うるさい園長が特にかわいがっていた子ども八人は、Ａに移って食事がほしいだけ与えられることによってさらに体重増加がよくなったのです。

当然といえば当然ですが、<span class="b blue">孤児の成長発達に園長さんの愛情がいかに重要であるか</span>を示したよい例だと思います。


もう一つ、二卵性双生児の例をお話ししましょう。


ある母親は男と女の双子を生みました。

ところが、乳幼児期では男と女の発育に差はないはずなに、女の子の発育の方が男の子よりはるかに良いのです。

調べてみると、子どもたちの父親、すなわち母親の夫は悪い男で、アルコール中毒であるばかりかほかの女の所へ走り、その上生活費も渡しませんでした。

ですから母親は夫を憎み、男性一般を憎み、夫に似ている自分の男の子さえも憎んでいたのです。

逆に女の子の方は女性であるが故にたいへんかわいがったのです。


その結果、双生児の女の子と男の子の発育の差が現れたのです。

愛情に恵まれなかった男の子を母親から離して入院させたところ、男の子の発育は急速に改善されました。

この例も、子どもの成長発達には、単に栄養だけでなく愛情が必要であることを物語っています。


小児科医は、「置き去り赤ちゃん」症候群、「おしおき」症候群（虐待児症候群）、母親愛情剥奪症候群、心身症、情緒障害、不安神経症、家庭内暴力、自殺、さらに非行などの子どもたちを診療の場でみるようになってから二十年ぐらいになります。

ここでいう「置き去り赤ちゃん」症候群とは、だれかに育ててもらおうとして赤ちゃんを捨てるのではなく、まったく育児意欲がなくて、子どもを生んでも育てようとせず、産院などに自分の赤ちゃんを置きっぱなしにしている状態です。

その極限型が、昔あった<span class="b">コインロッカー事件</span>です。

コインロッカーにわが子を入れてかぎをかけて拾てるとは、恐ろしいことです。

「おしおき」症候群とは、親が子どもを骨折や頭蓋内出血するまで打榔する状態を病気としてこう呼ぶのです。

前に申し上げた母親愛情剥奪症候群がさらにアグレッシブになったものです。

こういった子どもの問題は、親の行動異常として表に出ていますが、<span class="b red">親子関係</span>の破綻によるもので、子どもの心を著しく痛めつけています。


教育の現場で見られる「登校拒否」「いじめ」「校内暴力」「非行」なども、子どもの心の大きな問題です。


小児科医や、教育の現場に関わる人達は、これらをまとめて<span class="b red">子どもの行動問題</span>と呼んでいます。

また、こういった問題を対象とする小児科学を行動小児科学と呼びます。


新しい概念ですが、近ごろでは小児科学の流れにも新しい変化がみられています。


行動問題の原因は決して単純ではありません。

親子関係（母と子・父と子）の失調、離婚などによる家庭基盤の破綻、教育の荒廃、さらには思春期の不安定な心理状態による挫折などが考えられ、しかもそれが互いに構造的に関係しているのです。

そしてこのいずれもが、母子関係を中心とする親子関係が安定していれば、

すなわち親と子のきずなが強ければ<span class="b blue">予防可能</span>であり、

また治療も可能である場合が少なくないと考えられるのです。


さらに、そうなれば、教育の場における子どもの心も生活も安定し、<span class="b blue">教育の効果も高められる</span>と思います。

ですから、親と子のきずなが家庭教育の核となることは言をまちません。


こう考えてみると、子どもの生活環境がいかに重大であるかがおわかりでしょう。


子どもが生き生きと生活し、すくすくと発育するためには、子どもの持っている心と体のプログラムを円滑に作動させ、十分に発育のプログラムを機能させなければならないのです。

発育にとって相互作用は重要で、生態システムとの相互作用なくしては発育は進みません。

子どもの発育にとっては、単に栄養があればよいというものではないことは、よくおわかりになったでしょう。

したがって、生態システムの質は良いものでなければなりません。

子どもの生活環境の質がどんなによくても、それは贅沢ではないのです。


こう考えてきますと、生態システムの中の人間的な因子はきわめて重要です。

人間は多彩な行動パターンをもって社会生活を営み、その社会は多様な人間関係、すなわち<span class="b">人間関係のネットワーク</span>で成り立っています。


そのネットワークは社会・経済因子と深く関係しますが、その基盤は<span class="b blue">信頼関係</span>であり、心のきずなといわれるものなのです。


母と子の人間関係は、ひとりの人間が一生の間で持つ多様な人間関係の中の最初のものであって、いろいろな意味で特別であることは周知のとおりです。


したがって、豊かな母子関係は、子どもの生態システムの質を良くします。

反対に、質の良い生態システムの中で母子関係は豊かになるものです。


そして、それが子どもの心に基本的信頼を作り上げ、後の人生の人間関係をも豊かにするのです。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 00:28:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「いじめ」をなくすためには</title>
         <description><![CDATA[「いじめ」は昔もありました。

私もかつてはいじめられっ子でしたが、だからといってあまり嫌な思い出はありません。

いま問題となっているのは、昔のいじめと違ってその経過が長く、陰湿で、子どもがノイローゼになったり、登校拒否をしたり、場合によっては被害者の人権が損なわれ、死に追いやることさえあるということです。

その点で、われわれ大人は真剣に考えなければなりません。

このような「いじめ」の原因を明らかにすることはたいへん困難ですが、家庭・学校・社会の多様な要因によって起こる構造的な子どもの心の問題と考えられます。

しかし、学校での子どもの病いであることを忘れてはならないのです。

最も重要なのは、いかに心身ともに健康に生まれた子どもでも、その育つ環境、学校を含めての生活する環境によって「いじめっ子」になり、また「いじめられっ子」になりうることではないでしょうか。

<span class="b">すなわち、これは問題行動ではなく、行動問題なのです。</span>


私は、「問題」というレッテルを子どもたちの行動にはり付けたくありません。

いうなれば、体の病気である「風邪」や「下痢」のように、対応のいかんによって治りうる心の病気であって、先天性の心臓病とか小児病というような治りにくい、場合によっては治らないものではないといえるのです。一過性に起こった行動の問題として、優しい目で見てあげたいと思うのです。


「いじめっ子」の対策として、教育的にみて最も重要なのは、子どもに優しい心を育てること、人間関係を信頼し、他人を受容する心、他人の悩み、苦しみ、痛みを読みとる知性を育てることではないでしょうか。

それには、安定した家庭のなかでの乳幼児期の親子関係、なかんずく豊かな母子関係を作り、やさしさの体験をすることが必要ですが、

<span class="b blue">子どもの良い点を積極的に認める態度</span>も重要だと思います。

不幸にして、家庭のなかでそういった心が育っていない子どもは、「いじめっ子」になる可能性が高く、それに続く学校、社会の教育環境によっては行動問題を起こしうると思うのです。

ですから、子どもにかかわる人は、とくに悩み迷う心を読みとる力を持つこと、子どもへの優しい目を持つことが重要なのです。


子どもの「いじめ」には「しごき・制裁・非行型」と「遊びの荒廃・悪ふざけ・パロディ型」とがあるといわれていますが、

<span class="b">これらは互いに移行しうるものである</span>ことに注意しなければなりません。

いじめられる子どもは、その子の属する集団のなかで異種な子が多いようです。

服装や態度が皆と違うとか、興味の対象が違って仲間に入れないとか、外国帰りとか、ときには心身に障害があるとか、そんな子が優しさ、豊かな心を持っていない子たちにいじめられるようです。


子どもは、生態システムとしての生活環境との相互作用で育ってゆきます。

したがって　「いじめ」を予防するには、子どもの持って生まれた心と体のプログラムを円滑に作動させ、健康な心と体を育て、

子どもの時期ばかりでなく、成人期においても社会生活を手際よく行うことができるように、質の良い生活環境を、物質的な豊かさよりも人間的な豊かさを与えなければならないと思うのです。

そのためには、豊かな親子関係とともに、小児期全般にわたって、心と体のプログラムがフル回転するように、子どもたちどうしの「遊び」の機会を多くすることがなによりも必要だと思います。


「遊び」は、子どもの年齢によって違いますが、人との、道具・おもちゃなどとの、さらに自然との相互作用による三つのパターンに分けられますが、

そのいずれもが単に楽しんだりストレスからの解放に役立つばかりでなく、子どもの健康な心と社会性を育てるのに重要な役割を果たしているのです。

とくに、日本人としての心を育てるためには、日本文化とともに育ってきた伝統的な「遊び」の復活も必要でしょう。

さらに、年齢とともに「遊び」の延長としてのスポーツを活発にさせ、子どもたちに集団で遊ぶ機会を作ることも重要だと思います。


また、社会生活を営むためには、人間としてなすべきこと、善いこと悪いことのけじめ（規範意識）からはじまって、礼儀作法、あるいは言葉遣いなどの基礎・基本としての「しつけ」も重要であることは言うまでもありません。


<span class="b">言葉遣いや礼儀作法は対人関係をつくる原点だからです。</span>


なお、こういった教育が有効に行われるためには、家庭での親子の間、教育の場での教育する者と子どもとの間に信頼関係が確立していることが必須だと思います。


<span class="b">こういった「心のきずな」が出来上がっていなければ、良い「しつけ」はできないのです。</span>

したがって、心のきずなができていれば体罰も多少は効果があるかもしれませんが、いたずらに用いてしつけるような教育態度は、この立場から問題となるのではないでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 16 Sep 2008 21:47:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>睡眠と食事の大切さ</title>
         <description><![CDATA[
<h3>子供と食事</h3>

忙しいから、食欲がないからと、朝食を抜いたりしていませんか？
朝、食欲がないのは夜更かしが原因かもしれません。寝る時間を早める工夫をしましょう。

朝食をきちんと食べると、エネルギーが補給され、からだがしっかり目を覚ましてくれます。

簡単でバランスのとれた朝食は、たとえば和食なら、ご飯またはおにぎりに、卵料理と野菜料理、プラスみそ汁。

パン食なら、パンに卵料理と野菜料理。

プラス牛乳またはヨーグルトかスープといった感じ。

前日の夕食の支度と一緒に準備しておけば、時間をかけず簡単に作る事ができます。

<h3>子供と睡眠</h3>

子どもの成長と健康にとって、夜間の睡眠はとても大切です。
睡眠不足や夜型の生活は免疫力を低下させ、ホルモン分泌の乱れを引き起こします。

また、睡眠不足の子どもは、将来肥満や生活習慣病に陥りやすくなるとも言われています。大人の生活に子どもをつき合わせてはいけません。

子どものいる家庭は早寝早起きの習慣をつけ、生活のリズムを整えましょう。

できれば大人の生活習慣も一緒に見直してみましょう。

<span class="b green">「おはよう」「いただきます」「おやすみ」</span>など、家族で挨拶することもどもに生活のリズムを身につけさる事に役立ちます。

朝起きて太陽の光を浴びさせる、食をきちんととる、昼間は外でよくばせる、夕食の時間を早くする、夜くまでテレビを見せないようにすなど、周囲の大人が規則正しい生活身につけさせるようにしましょう。

夜遅くなる仕事をしている人は、どもとのコミュニケーションは朝休日にとれるように工夫してみてださい。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 16 Sep 2008 21:26:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てに疲れたら、公園でストレス解消</title>
         <description><![CDATA[女性は子どもを産むと周囲から「お母さん」とよばれるようになりますが、子どもを産んだその直後から、問題なく子育てができるようになるわけではありません。

迷い、悩みながら、子どもといっしょに<span class="b">「親育ち」</span>していくようなものです。

そうはいっても、子育てに悩みを抱えたままでいるのはとても不安です。

親育ちの過程では<span class="b green">「こんなことで悩んでいるのは私だけじゃないか」「こんなことで落ち込んでしまう私は、ダメな母親なんだ」</span>

と自分を責めてしまうこともあるでしょう。


そのようなときは誰かに相談し、新しい視点からの意見を開くことができれば、お母さんたちが「うつ」になる可能性は低くなります。


しかし、誰かに相談できない、あるいは相談できる人が身近にいないという状況におかれているお母さんが少なくないのも事実です。

地域で交流する機会も少なくなってきています。


また、仕事で忙しい夫とは、なかなか話し合う時間ももてないこともあるでしょう。

「疲れているだろうから」と、夫に遠慮してしまうのかもしれません。

しかし、小さい子どもを抱えていると外に出かけていくことは現実的に困難ですし、保育園にあずけるといっても、都市部ではなかなか簡単なことではありません。


<span class="b">ほかの人とコミュニケーションがもてない環境におかれやすいのが、今のお母さんたちの現状です。</span>

でも、お母さんたちにだって、自分たちの世界をつくる力はあります。

そういう状況のなかから、自然発生的に生まれてきたのが<span class="b blue">公園</span>なのです。

公園で子どもを遊ばせながら、お母さん同士で交流を深めている光景に、


<span class="b green">「母親同士が集まって派閥を形成している」、「公園でのオキテを破ると仲間に入れてもらえない」、「公園で繰り広げられる母親たちのイジメ」</span>


といった声が一部マスコミで報じられたりもしましたが、

<span class="b blue">公園は小さな子どもを抱えているお母さんたちが孤独感をふりきるには格好の場所だと、私は思います。</span>

アメリカには、日本のように、お母さんたちが公園に集まっている光景はありません。

アメリカのお母さんたちには、そういう場所が必要ないというわけではありません。

日本のお母さんたちと同じように、アメリカのお母さんたちも子育てするなかで孤独になります。

でもアメリカでは危険な街が多く、公園はお母さんと子どもが安心してくつろげる場所ではありません。

そこでお母さんたちはどうしていたかというと、公園のかわりに教会に集まっていました。

教会の広い部屋で子どもたちが遊び、別の部屋ではお母さんたちが集まってミーティングをしたり、精神科医などの専門家の話を問いたりします。


アメリカではこのような場所が人為的に設定されていたのですが、日本の場合は、公園が自然にそういう場所になっているのです。


お母さんたちの知恵はすばらしいと、私は思います。


たしかにマスコミが、公園で繰り広げられるお母さんたちの確執を取り上げるということは、どこかで実際にそのようなことがあったからなのだと思います。

それを否定するつもりはありません。

見栄の張り合いや縄張り争い、イジメということは公園に限らず、いろいろな場所でみられるものです。


しかし、だからといってそれがすべてではありません。


ある一部の公園で起こった確執を、その一点だけでとらえると公園がまるで怖い場所のように思えてきます。


<span class="b">大切なのは、公園を「いいところ」「悪いところ」という観点で論じることではなくて、お母さんたち自身が公園をどうやって活用していくかを考えることなのだと思います。</span>


ひとつの公園にこだわる必要はありません。


できる範囲内で、いろんな公園を渡り歩いて楽しんでいるお母さんたちもいます。

また、公園にこだわる必要もないでしょう。

インターネットを開けば、子育て奮闘中のお母さんたちのホームページがたくさん出てきます。

自分なりのやり方でけっこうですから、自分自身を孤独の底なし沼にハマらせないようにしていってください。

絶対に、「私はダメなお母さんなんだ」と思いつめないで、肩の力を抜いてもっと気楽に子育てをするようにすることが大切です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 16 Sep 2008 11:23:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの成長には「適度な失望」が必要</title>
         <description><![CDATA[子どもに、

<span class="b green">『お父さん（お母さん）はすごいんだね』</span>といわれたら、<span class="b green">『そうだよ』</span>と素直に喜ぶようにしましょう。


なぜなら、子どもは親を「理想的な存在」ととらえることで、「いつか自分もあんなふうになりたい」というエネルギーがわき、それが子どもの成長を導くからです。


はっきりと口にはしなくても、親を頼り、あこがれを抱く時期が子どもにはあるものです。

このような世界を大切にすることで、子どもの世界は広がっていきます。


そうはいっても、世の中に完璧な人間はいません。

それは親だって同じです。

いくらやさしくて思いやりのある親でいようと思っても、かっと腹を立てることだってあるでしょうし、疲れて投げやりになることもあるでしょう。

そのような親の一面を知ることも、また教育なのです。


イギリスの精神分析医ウイニコットが、「ほどよい母親」という言葉を用いて「母親としての機能」について説明しています。


ほどよい母親というのは、<span class="b blue">完璧ではなく、かといって欠点ばかりでもない、ほどほどに欠点があるお母さんという意味</span>です。


完璧なお母さんなんていません。

いや、なんにでも手が行き届いていて、理屈が通っている完璧なお母さんなど、子どもにとっては、困る存在なのです。


子どもは、多少の欠点がある、ほどよい母親と接することで、依存しながら徐々に失望し、「自分の足で歩いていくことが大切なんだ」と理解するようになるのです。

いくら親がいつまでも子どもと伸よくしていたいと考えても、思春期のころになれば、子どもは親の欠点を見つけて失望し、親をやたらと低く評価したり、反発したりするようになってくるものです。


それはけっして、母親の育て方が悪かったせいではありません。


そのような態度をとることで、子どもは意識せずに親離れしていけるようになるのです。

また、子どもの成長にとって親に対する失望が必要なように、親にも子どもへの思い込みを捨てていく作業が必要です。

子どもが子どもの思い込みで親を評価するのと同じように、親のほうも子どもに対していろいろな思い込みをしています。


子どもが新聞広告の裏側に、なにげなく人の顔らしきものを描いた。

その顔を指して「お母さん」とつぶやいた。

それをみたら「この子は絵の才能があるんじゃないかしら」などと思ってみたりするものです。


逆に、その期待に子どもがこたえられないと、「この子はダメなんじゃないかしら」と思うこともあるでしょう。

やっかいなことに、子どものことを思えば思うほど、このような思い込みは強くなり、気になる行動にばかり目がいってしまうようになります。


しかし、子どもは子どもなりに一生懸命生きているのです。


いい面が出ることもあれば、よくない面が出ることだってあるでしょう。

そんなとき、子どもの一部分だけをみて決めつけすぎると、子どもは苦しくなってしまいます。

何より「この子はダメなんじゃないかしら」と思い込んでいる親自身が、つらくなってしまいます。


<span class="b">子どもの力を生かし、そしてお母さんたちの心が元気で明るくあるためには、「親の思い込み」にとらわれない自由な目で、長所も短所もあるひとりの人間として子どもを見つめていくことが大切です。</span>


そのためには、「私はこの子の母親だから」と、子育てのすべてを自分で背負ってしまわずに、夫や友人、あるいは専門家などと話し合うことが役に立ちます。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 16 Sep 2008 08:13:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の健康</title>
         <description><![CDATA[<span class="b">
周囲の大人が、夜更かしや運動不足など、子どもを不健康な生活に巻き込んでいませんか？子どもの健康は私たち大人にかかっています。

子ども達のために、大人も一緒に、生活のリズムを整えていききましょう。</span>


<h3>生活のリズムを整えましょう。</h3>

外に出ると車が多く、子どもが自由に遊べる場所は減っている上、小学生になると、塾や習い事があり、屋内は冷房が効いている等、子どもが思いっきり汗をかいて遊ぶ機会は減るばかりです。

また、テレビやゲームに子守りをさせて、子どもを運動不足にさせている家庭も多いようです。

しかし、鬼ごっこをしたり、縄跳びや一輪車に挑戦すること、買い物や犬の散歩など家の手伝いをすること、ジャングルジムや「うんてい」などで遊ぶことなど、身体を動かして思いっきり外で遊ぶことは、子どもが健康に成長するためにぜひとも必要なことなのです。

子どもが運動不足だと感じたら、大人も一緒に、たくさん歩く、階段を使う、外で遊ぶ、ストレッチを頻繁にやる等、日常の生活の中に運動を取り入れることを考えてみましょう。

親が積極的に子どもと遊ぶのは、親にとっても良い運動不足の解消になります。

また、自転車、縄跳び、水泳、野球など積極的に身体を使って楽しむ事をはじめてみると良いでしょう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 16 Sep 2008 05:26:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子育てで大切なこと</title>
         <description><![CDATA[私は子育てで大切なことは、<span class="b blue">「子どもの力を信じ、育てること」</span>だと思っています。

いくら母親ががんばっても、それ以上のことはできないのです。


でも、小さな赤ちゃんを抱えているお母さんたちのなかには、その力を信じきれない人が少なくないように思います。

だから、<span class="b green">「私がしっかりしないと…」</span>ということになってしまうのです。


実は学問的にも、ある時期まで「生まれたばかりの赤ちゃんの精神世界はまとまりがなく、そのために外からの刺激を上手に受け入れることができない」と考えられていました。

赤ちゃんは、外からの刺激を遮断する「刺激障壁」によって守られていて、自分の世界のなかに閉じこもっていると思われていたのです。

赤ちゃんが外の世界と交流をもてない存在だと仮定すれば、当然、親が外部の情報を取捨選択して赤ちゃんを守りながら、精神世界を成長させていかなくてはならないということになります。

今でもそのようなことが書かれてある一般書や育児書がありますが、

最近の研究では、赤ちゃんには、赤ちゃんなりの方法で外の世界と積極的に交流し、成長していく力があることがわかってきています。


赤ちゃんは生まれてまもないころから、すでにお母さんのにおいをかぎわける力があるという話をご存じですか。

このことは、1975年に行われたマクファーレンの研究であきらかになりました。

マクファーレンは、生後3日目の赤ちゃんの枕もとの片側にお母さんの胸あてを置き、もう一方の側に別の赤ちゃんのお母さんの胸あてを置きました。

すると、赤ちゃんは必ず自分のお母さんの胸あてのほうへ頭を向けたのです。


また、ファンツの報告では、赤ちゃんは上下対称の絵よりも、人間の顔と同じ左右対称の絵のほうを長く見つめることがわかっていますし、ソロコフやバーラインの研究では、赤ちゃんが微笑みの表情を見飽きてしまっても、驚きの表情をみせると再び興味をもって見つめ直すことがわかっています。

<span class="b">つまり、赤ちゃんは主体的に外部からの刺激を受け入れようとしているのです。</span>


しかも、赤ちゃんはあるひとつの感覚器から入手した外界の情報と、ほかの感覚器官から入手した情報とをつなぎあわせて、上手に活用することもできるのです。


とはいっても、雲をつかむような話でわかりにくいと思うので、実際にこのことについて研究したメルツォフとバートンの実験の様子を紹介しましょう。


彼らは、生後3週目の赤ちゃんに目かくしをし、ある赤ちゃんにはスベスベしたおしゃぶりを吸わせ、また別の赤ちゃんにはブツブツのついたおしゃぶりを吸わせました。


その後、目かくしをとり、赤ちゃんの目の前にスベスベのおしゃぶりとブツプツのおしゃぶり両方を置いて、どんな反応を示すかを観察しました。


すると、スベスベのおしゃぶりを吸っていた赤ちゃんはスベスベのおしゃぶりに目を向け、ブツブツのおしゃぶりを吸っていた赤ちゃんはブツブツのおしゃぶりに目を向けたのです。

この実験から、赤ちゃんたちは舌で感じた情報を脳にインプットし、その情報を目で見た体験と結びつけた、ということがわかりました。


こうした研究結果が報告されるまでは、さきに説明したように、赤ちゃんの精神世界はまとまりがなく混沌としていると考えられていました。

しかし、これらの研究から、赤ちゃんは生まれてまもない時期からすでに外部の情報を関連づけて体験する能力を備えていることがわかり、従来の説はくつがえされたのです。

もちろん、赤ちゃんは大人と同じかたちで外の世界を体験しているとは限りませんが、主体的に外の世界と交流する力をもっていることはあきらかです。


私はこのような子どもがもつ力をもっと信じていいと思うのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 22:39:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>かかりつけのお医者さんをみつける</title>
         <description><![CDATA[<ul class="topics">
<span class="b">身近にいて日頃から健康相談をしたり、病気になったときにまず診てもらうお医者さんのことを、「かかりつけ医」といいます。</span>
</ul>


身近にいて、日頃から健康相談をしたり、病気になった時にまず診てもらうお医者さんのことを<span class="b blue">「かかりつけ医」</span>といいます。信頼できるかかりつけのお医者さんがいたら、とても安心です。


運悪く重い病気にかかってしまった場合でも、かかりつけの小児科があれば、そこで相談して入院治療や詳しい検査が必要かどうかの判断をしてもらい、その病気に詳しい専門医や必要な設備のある病院を紹介してもらうことができます。


これまでにかかった病気や体質など、子どもの事を良く理解してくれていて、ちょっとした症状でも気軽に診てもらえ、育児の相談にものってもらえる、そんなかかりつけの医師が身近にいれば安心ですね。


<span class="b f12em green">かかりつけ医：選び方のポイント</span>

<span class="b">家の近くにある病院を選ぶ。</span>
ちょっとした症状でも気軽に診てもらう病院なので通いやすい近くの病院を選びましょう。

<span class="b">近所に住んでいる人や友人に相談して、評判の良い病院を選ぶ。</span>
なぜその病院が良いのか、どういうところがが信頼できるのかも聞いておくとよいでしょう。

<span class="b">質問や相談にもわかりやすく気軽に応じてくれ、人としても信頼できる医師を選ぶ。</span>
子どもの健康について、不安な事や知りたい事など何でも相談できるのが、かかりつけ医を持つメリットです。

治療に対する考え方や人柄などについても、信頼できる医師を捜しましょう。

<span class="b">勉強熱心な医師を選ぶ。</span>
熱心な医師は常に最新の治療法や研究、医学情報を勉強しています。また、どこに優秀な専門医がいるかもよく知っています。

<span class="b">必要なときに専門医を紹介してくれる医師を選ぶ。</span>
重い病気の可能性があるときには、すぐにその分野の専門医を紹介するのが、かかりつけ医の重要な仕事です。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 20:49:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供の発熱</title>
         <description><![CDATA[発効熟が出るのは、健康な身体の反応です。

子供が熟を出した時、あわてないで、症状を見て適切に判断できるようにしておきましょう。

生まれたばかりの赤ちゃんはあまり熟を出すことはありません。

身体の中にお母さんからもらった「抗体」を持っていて、ウイルスや細菌などの病原体を排除してくれるからです。

ところが、生後半年くらいでこの抗体もなくなってきます。

そうすると、病気を治すために身体が働いた結果として、熟を出す事が多くなります。

また、保育所や幼稚園などで集団生活を始めると、細菌やウイルスなどの病原体をもらう機会も多くなるので、最初はどうしても熟を出す事が多くなります。

発熱はウイルスや細菌などの病原体から身を守る身体の働きのひとつで、普通は身体に深刻なダメージを与えるものではありません。

ウイルスや細菌に感染すると、熟が出る事で病原体が増殖するのが抑えられ、病原体を排除するしくみ「免疫」のスイッチが入ります。

一度自分の力で病気を治すと、身体の中にその病原体に対する「免疫」ができ、同じ病気にはかかりにくくなります。

子どもの発熱の原因は、ほとんどがウイルスや細菌などの病原体が引き起こす喉や鼻の炎症、いわゆる「風邪」ですが、一度風邪をひいて治っても、また風邪をひくというのはよくある事ですね。

それは風邪の原因となる病原体が何百種類とあり、一言で風邪といっても全て同じ病気というわけではないからです。

子どもの頃に様々な病原体に対する免疫をたくわえる事で、病気に対する抵抗力がつき、大人になると病気にかかりにくくなります。

子どもが夜間や休日に熟を出したとき、診療時間を待って小児科の病院でみてもらうか、それとも救急病院を利用するか、症状を見て適切に判断できるようにしておけるといいですね。

夜間など、病院の診療時間外の急な発熱では、救急病院を利用する人も少なくありません。

ところが、救急で診療を受ける子どもの多くは、実際に診察してみると、自宅で安静にしておいて、翌日の診療時間を待って小児科の専門医にみてもらった方が良い場合がほとんどなのです。

子どもは大人と比べると体温調節が苦手で高熱を出しやすいものです。
まず、熟が高いかどうかだけでなく全身の症状を見て判断するのがポイントです。

熱があるだけで元気に遊んでいて食欲もあるようなら自宅で様子を見て、病院の開いている時に、小児科の専門医に診てもらいましよう。

日頃から、信頼できるかかりつけの小児科をみつけておくと、こういう場合も安心です。

ただし、様子を見て、症状が大きく変わるようなら休日でも救急診療所を受診します。
生後4ケ月未満で、38度以上の発熱がある場合は急いで病院に行きましよう。生まれたばかりの赤ちゃんは普通あまり熟を出す事はないからです。

それでも熱が出る時は治療を急いだ方が良い病気の可能性があります。

4ケ月以降でも、

<span class="b red">

・けいれんが起こる

・意識がハッキリしない

・頭痛が激しい（小さな子供の場合ひどく機嫌が悪くなります）

・吐く

・下痢がひどい

・水分が摂れない

・体に発疹が出る

・たんがからんだせきをしている

・ヒューヒューいって息苦しそう

・熱が３日以上続く</span>


など、発熱以外にも気になる症状がある場合は、熟の高さに関わらず、急いで病院を受診しましょう。


<span class="b blue">熱が高くて苦しそうなとき</span>

寒気や震えのあるときは厚着にし、汗をかいたり署がったりする時は薄着にするように調節します。

5才以下の子どもの場合は薄着にさせて身体を冷やすとそれだけで熟が下がる事もあります。目の届くところに寝かせて様子を見ましょう。

<span class="b blue">水分を補給しましょう</span>

発熱によって身体から失われる水分が多くなる上、水を飲まなくなると身体に必要な水分が不足してしまいます。

子どもは水分不足に弱いので、こまめに水分を補給してあげましょう。

なかなか飲まない場合は、子ども用のイオン飲料や水などをスプーン一杯くらいから、2分おきくらいで少しずつ飲ませます。

なかなか飲まなくても怒らないで、優しく真剣に飲ませてあげてください。

多少下痢をしていても、冷たい飲み物の方がよく飲んでくれるようなら、少しずつのませてあげてください。

<span class="b blue">解毒剤</span>

解熱剤は熟を下げてくれますが、病気を治すわけではありません。
38度5分以上の熟があり、身体がつらそうで、十分な休息が取れないときなどは、医師に相談し、指示に従って解熱剤を使用します。

病院で処方する薬は体重に応じて処方しているので、兄弟が使っていたからといって薬を使いまわすのは危険です。

また、まれに重い副作用の例が報告されたりして使用禁止になっている薬もあるので、本人が使っていた薬でも使い残しは使用しないでください。

かかりつけの小児科でそのつど処方してもらいましよう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て・教育・人間関係に関するコラム</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 18:48:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの性格は育て方だけでは決まらない</title>
         <description><![CDATA[今まで、子どもの性格は、母親の育て方で決まってくるといわれ続けてきました。


しかし、最近の研究からは、<span class="b green">性格の半分以上は遺伝子で決まる</span>ということがわかっているのです。

性格が遺伝に影響されていることが認識されるようになったのはされるようになったのは、１９７０年代後半のことです。

きっかけとなったのは、一卵性双生児はたとえ別々の場所、違った環境で育てられたとしても、その好みや行動が驚くほど似ている、ということがマスコミなどで報じられたことでした。


たとえば、ある二卵性双生児は、生まれてすぐに離れ離れになり、ひとりはチェコスロバキアでナチスに入り、もうひとりはトリニダードでユダヤ人として育てられていました。

このふたりが再会したとき、なんとふたりとも同じタイプのシャツを着ていたのです。


また、トイレを使用する前後に水を流したり、エレベーターに乗ると突然くしゃみをするというクセも同じだったそうです。


一卵性双生児は同じ卵子と精子から生まれるので、<span class="b">基本的に同じ遺伝子</span>をもっています。

それぞれまったく違う環境で育ったのに、このように行動が一致するということは、遺伝の影響が大きいのではないか、そう考えられるようになったわけです。


しかし、ほんの1、2組の双生児が似ているからといっても、それだけで遺伝との関係を決定づけることはできません。


そこで、今度は米国ミネソタ州立大学のブシャードを中心とする研究グループが、別々の環境で育てられた一卵性双生児をたくさん集め、調査研究を行いました。


その結果、やはり一卵性双生児は別々に育てられても知的能力や性格、職業選択、余暇の過ごし方、社会的な態度にいたるまでが一致していることが多く、

<span class="b">性格の特性の半分以上が遺伝的な支配を受けている</span>ことがあきらかになったのです。


ただし、誤解のないようにいっておきますが、性格は遺伝に支配されているといっても、<span class="b red">人間の価値や生き方が生まれつき決まっているというわけではありません。</span>

ひとつひとつの能力や感情の動き、身体状態や身体の疾患に遺伝的な影響があるというだけであって、遺伝が人間の価値を決めるわけではありません。


性格が遺伝に強く影響されることがいえるかもしれませんが、同時に、自分が選んだ目標に向かって行動する傾向（自己志向性）や、思いやりや気配りをする傾向（協調性）は、環境の影響も受けていることがわかりました。


というと、みなさんから<span class="b green">「遺伝だけじゃなくて環境も影響するのなら、やっぱり子どもにとって身近な存在の母親の影響が大きいんじゃないの？」</span>という指摘を受けそうですが、でも、早合点しないでください。


<span class="b">子どもにとっての環境は母親がすべてではありません。</span>


幼稚園や学校、そこで出あう友だちなど、いろいろな出会いがあります。

さきほども触れた双生児研究からは、母親がつくり出す環境よりも、こうしたいろいろな出あいのほうが、ずっと大きな影響を性格形成に与えるという結果が、一貫して得られています。

つまり、お母さんの性格や育て方が悪いから子どもが「イケナイ子」になってしまうわけではないのです。

もちろん、人の性格に「よい」「悪い」はありません。

コインの裏表と同じです。

コインには最初から裏表があるわけではありません。

この絵柄を表としようと決めたから、その反対側が裏になっているだけです。

性格もそれと同じです。

どこをどうみるかによって裏になったり、表になったりします。


内向的で臆病な性格は、一見するとよくないもののように思えたりするものですが、その一方では慎重で手堅いことが評価される場面はいくらだってあります。


また、明るくて積極的な性格は誰もがうらやむものですが、そんな人も��つい�′�こうみずな行動をとって周囲に迷惑をかけてしまうことだってあるのです。

ときどき「自分の性格を変えたい」とおっしゃる方がいます。

内向的な性格が原因で自分は「うつ」になってしまったんだということで、その悪い性格を変えたいというのです。

自分の性格を受け入れることをせず、変えようとしたり、周囲と無理に歩調を合わせようとすると、苦しくなってしまいます。


親子関係でも同じです。


母親がそのような態度をとり、自分の子どもにも同じことを強要すれば、親子でつらくなってしまいます。

性格を変えるのではなく、性格のいい面をうまく生かす生き方をすることが重要なのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 15:28:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子供は真似をして育つ</title>
         <description><![CDATA[生まれて間もない赤ちゃんでも、ものまねをします。

もう名前がつけてあるなら、低めの優しい声で、<span class="b green">「○ちゃん、○ちゃん」</span>と何回か語りかけ、

そのうちに何となく気が通じ合ったと感じたら、赤ちゃんの目の前で、ゆっくりと舌を大きく出してごらんなさい。

赤ちゃんはすぐに反応して、ベロリと舌を出すわけではありませんが、口をモゴモゴと動かし始め、舌の先をちょっと唇の問からのぞかせます。

もう少し大きく、一、二か月にもなれば、堂々と舌を出したり、複雑な表情をまねする赤ちゃんもいるのです。

模倣行動は、今書いたように、母親の動きに同調したり、母親の語りかけた声をまねたりすることから始まります。

口の動きは、赤ちゃんにとって・乳幼児でもそうですが、最も関心の探いものなのです。
こうしたことから、子どもは自然と言薬を学んでいくのでしょぅ。


また、赤ちゃんは口をよく動かします。


なにしろ、妊娠初期、胎生十数週にもなれば胎児はいろいろと体を動かしますが、なかでも口の動きは活発で、目立ちます。

口は栄養摂取にも関係しますから、いろいろな意味で重要なのです。

アメリカのテレビに　「セサミ・ストリート」　という有名な幼児の教育番組があるのを御存じの方は多いと思います。

その中でおしゃべりしながら言葉や数を教える漫画化した蛙の人形を思い出されるでしょう。

その蛙の口は大きく、身長の半分もありますが、その方が口の動きによる教育効果が強いからだそうです。


年齢をとるにつれて、親子の間ばかりでなく子どもどうしの間でも、動作や言葉の模倣、そしてすべての活動に模倣がみられるようになります。

子どもが自分の外にあるものを模倣するのは、目の前にあるモデルを取り込むこと（同化）ばかりでなく、年齢とともにモデルを越えて拡大し変換して取り込むこと（調節）もするようになります。


<span class="b">このように、子どもは模倣により外から新しい情報を取り込んで知識にしているのです。</span>

子どもが一歳半も過ぎますと、その場にないものまで模倣するようになります。

印象の強かったものを記憶していて、何かがそれを引き出して模倣行動に転換するのでしょう。

<span class="b">空想して模倣しているのです。</span>

これを延期模倣と呼びますが、これはその場にない行動を再現する活動で、象徴機能・表現活動の芽生えを示しています。

子どもの心の発達にとって、遊びの中での模倣行動は重要な役割を果たします。

どなたでも思い出されるでしょうが、「ままごと」の中での両親の役割をまねた「ごっこ」遊びはその代表でしょう。

大人のモデルを遊びに取り込み・イメージの中でそれを模倣することによって、大人になることに備えているのです。

人間が生まれながらにして模倣能力をもっていることは素晴らしいことであり・「学ぶ」と「まねる」は表裏の関係にあるので、これこそ教育の出発点といえるのです。

また、このことは当サイトの基調となる私の考え方でもあるのです。

確かに、読み書き・そろばん（算数）にしろ、音楽にしろ、習字や絵画にしろ、子どもたちはこの生まれながらの模倣能力を駆使して学んでいるのです。

もちろん赤ちゃんはそれを意識していないでしょう。

そしてある年齢になれば、それを意図的に意識してやっているときもあるでしょうし、意識していないときもあるでしょう。


一方、教える側の先生方も、いろいろな椒会にそれを利用しているに違いありません。


「学ぶよりまねろ」ということわざもあるように、<span class="b blue">模倣は学習方法の第一の原則</span>ではないでしょうか。

この十年来、赤ちゃんのものまね行動の研究は、世界中の発達心理学者や乳児行動学者の間で盛んに行われています。


ノーベル賞を受賞した利根川博士のおられるマサチューセッツ工科大学でも認知科学のグループが、人工頭脳への応用などを考えて研究しています。


認知科学とは、人間をふくめた生体における情報処理に関する科学体系で、脳の機能をマクロ的に説明しようとする理学的なアプローチ、人工知能の基礎研究に関する工学的なアプローチのほかに、

この人間学的なアプローチが重要で、その代表が模倣研究なのです。


しかし、二十年ぐらい前には、生まれたばかりの赤ちゃんにも模倣能力がちゃんとあるということは認められてはいませんでした。

子どもの心理学の泰斗、ピアジェのもとにトルコから留学していた若い女性の心理学者が、観察に基づいて新生児にも模倣能力があるという論文を書いたそうですが、師に認められず、発表の椀会を失ったそうです。

新しいことを確立するのは、洋の東西を問わず大変なことのようです。


もちろん、教育に関係する「学ぶ」という能力、すなわち学習能力が模倣能力だけで決まるわけではありません。

記憶する、思考する、認知するなどの人間の高度の精神機能ばかりでなく、外からの情報を取り込む、聞く、見るなどの感覚機能と関係していることは言をまちません。

この点については、またの機会にあらためて私の考えをまとめてみたいと思います。


まず、生まれたばかりの赤ちゃんのものまね行動が教育を考える上に重要だと思う私の理由づけを申しあげたいと思います。


生まれたばかりの赤ちゃんを支えて、固い板の上に軽く立たせますと、赤ちゃんは反射的に足を歩くように動かします。

これを原始歩行、あるいはステッビング反射と呼んでいます。

もっとも、この反射は妊娠後半に入ると胎児にも見られ始め、末期に入ればほとんどすべての胎児に見られるものなのです。

だからこそ妊婦さんは、この行動で赤ちゃんにおなかの中から蹴られるのを胎動として感じ、母親になった実感を味わっているのです。

生まれたばかりの赤ちゃんがものまねをしたり、歩くような格好で下肢を動かすことができるということをどのように説明するかはなかなかむずかしいことですが、

私はシステム理論・情報理論で考えるのがよいと思っています。


人間の体は、細胞とか、組織・臓器の組み合わされた多種多様なシステムからなっていて、<span class="b">そのそれぞれを働かせるプログラム</span>をもっているのです。

ここでいうプログラムとは、本や芝居のプログラムではなく、コンピュータのプログラムに準ずるもののことです。

人間は、生きるためにプログラムを作動させ、生体のシステムをいろいろな組み合わせで機能させているのです。

この点についても、後に整理して述べてみたいと思います。


模倣行動をさせるシステムは、脳の神経細胞の組み合わせで、お母さんの舌を出すという行動を見るとその視覚情報がそのシステムを働かせるプログラムにスイッチを入れ、口を動かさせ、舌の先を出すという行動をとらせると考えられるのです。


原始歩行は、骨、筋肉、関節、皮膚、神経からなる下肢という生体システムが、足を固い板に当てて刺激を受けることにより、歩行のプログラムにスイッチが入って起こるのです。

このように、受精卵が子宮に着床してから、胎芽、胎児と育っていく間に、生体システムとそのプログラムの基本は出来上がっていると考えるのです。

<span class="b">ですから、生まれたばかりの赤ちゃんでも、あのようなものまねという人間らしいことができるのです。</span>


もっとも、赤ちゃんの模倣行動は生後六か月くらい、原始歩行は二か月くらいになると、いったん消えていきます。

そして、それらが再び現れるときには、今度は高度の精神機能の支配のもとにあります。

<span class="b">すなわち、子どもの意志によってものまねをしたり、歩いたりするということになるのです。</span>

原始歩行が消えていく過程をみると、なにかが恐ろしくて足が出ないという感じです。


羊水の中で、宇宙遊泳をしているように無重力に近い状態で生活していた赤ちゃんは、重力のある三次元のこの世に生まれ出てみると、段々おっかなくなって、歩くプログラムのスイッチが切れてしまうと説明することができます。

しかし、毎日毎日の生活の中で重力の感覚を体得し、自分の足で体を支える力も発達し三次元の空間を認知することができるようになると、再び自分で歩くプログラムにスイッチを入れることができるようになるのです。


ですから、赤ちゃんは十二か月にもなると、ある機会に自然とよちよち歩くことを始めるのです。


だれも、赤ちゃんに左足の上げ方、右足の上げ方を教えたりはしません。

「両方の足を同時に上げると尻もちをつきますよ」とも教えません。

まさに、歩行のプログラムに自分でスイッチを入れているのです。


<h3>赤ちゃんが正しく成長するには、心の安定が必要</h3>


歩き始めた赤ちゃんが大きくなり、保育園や幼稚園に入ると、先生から教えられたり友達のやり方をまねたりして、スキップやダンスをすることができるようになります。

模倣のプログラムが新しい情報を取り込んで歩行のプログラムを変え、歩行運動がスキップやダンスの足の運動になると言えるのです。

もちろん、このときの模倣のプログラムは、赤ちゃんのものまねのときとは違って、<span class="b">自らの意志</span>によるものです。


赤ちゃんのものまねや歩く運動や、胎児の行動などを、私たち大人や年長の子どもたちのものとはまったく異なるもの、下等なものと見なすわけにはいきません。


<span class="b">いずれも、赤ちゃんの心理状態が良くなければ出て来ません。</span>

特にものまね行動は、語りかけて、なにか心が通じたと思われる状態でなければ出て来ません。

ですから私には、赤ちゃんにも<span class="b blue">心</span>があり、

<span class="underline">プログラムにスイッチが入るのには心が安定していなければならない</span>と思っています。


教育は、親なり先生なりの教える行動と、子どもの「学ぶ」という行動の相互作用によって成り立っています。

子どもの「学ぶ」という行動は、模倣・記憶・認知・思考などの多数のプログラムが互いに関係し、統合されたものと考えられます。

私は、その中心に、外の情報を取り込む模倣のプログラムがあると思うのです。

丸々を覚えることは模倣の繰り返しから始まりますが、それを記憶し、掛け算を学んでいるのです。

こうして算数の教育効果を上げていることをみれば明らかです。

読み書き・そろばん（算数）のいずれの教育をみても、その基盤に模倣があるのです。

私は、生まれて間もない赤ちゃんでもものまねすること、すなわち生得的な模倣能力があるということに深い感銘を受けるのです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 09:20:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>子どもの可能性は無限です</title>
         <description><![CDATA[母親の胎内に宿った生命は、この世に生まれ、子どもとして育ち、学び、やがては大人になって社会に参加し、家庭をつくり、新しい世代を育て、文化を伝承し、未来へと旅立っていきます。

子どもたちのこの旅は、人類の初めから始まり・人間の歴史の中で・世代を繰り返しながら永遠の未来へと続いています。


子どもは生まれながらにして心と体のプログラムを持っています。

心のプログラムのなかには・学習・思考・記憶などのプログラムがあり、家庭や学校などの生活の場でそれらを働かせて・未来に向けて人生の旅をする術を学んでいくのです。


モンゴルの子どもたちは、生まれたときから馬と生活を共にすることによって・馬に乗って草原を風のように走るようになります。


エスキモーの子どもたちは、何も見えない雪原で我が家へ帰る道を間違いなく見つける力を親や兄姉から学びます。


ポリネシアの子どもたちは、泳いで遊んだり、魚を釣ったりする生活のなかで、迷路のような島の問を手際よく航海する知恵を学びます。


アラブやトルコの子どもたちは、コーラソを高らかに繰り返し読みあげて、イスラム教の心を体得します。


それらはみな、子どもたちが<span class="b blue">心と体のプログラム</span>を働かせて学んでいるからです。


私が第一に申し上げたかったことの一つは、子どもたちのこの心と体のプログラムが円滑に作動するようにするのが、子どもたちを取り巻く私たち大人の責務であるということです。

子どもたちにとっての環境は、どんなによくしてもぜいたくということはありません。

そのためには何をなすべきかについて、日ごろ私が考えていることを書かせていただきました。


第二に申し上げたかったことは、乳幼児期に親と子のきずなを太く豊かに作り、人間に対する基本的信頼がなければ、家庭でしつけもできません。

基本的信頼を持って、保育園・幼稚園・学校に入り、楽しく学び、遊び、先生や友人たちといろいろな人間関係を持つことにより、他人への思いやりばかりでなく、自主性をも育てることができるのです。

他人に頼らず自分の考えで行動する力ができるのです。

人間に対する基本的信頼は、子どもの心のプログラムにスイッチが入ったり、円滑に作動するのを助けているのです。

その基本的信頼は・心の中の愛のプログラム・そして信ずるプログラムにスイッチが入るからできあがるのです。


子どもたちの自主性は自発心（主体性、独立心）と自己統制心とから成り立っています。
求めたとき確実に親の支持や受容が得られるという自信が自発心を育てるのです。

それがさらに人間の基本的欲求と考えられる好奇心や探索心（いたずら心）のプログラムを働かせ・創造力へと発展していくのです。


そして同時に・基本的信頼は愛のプログラムを働かせ、自己以外を受け入れる性格、共感性、すなわち思いやりの心を育てることになるのです。


<span class="b">それは、他人の悩み、痛み、苦しみを読み取る知性を育てることを意味します。</span>


また、自分の欲求に一方的に支配されないで、理性を持って行動する力が自己統制心ですが、それも基本的信頼が基盤となっています。

それが責任感や判断力、そしていろいろな認知力を育て、情操の発達にも関係してくるのです。


第三に申し上げたかったのは、教育の基盤としての理念にヒューマン・サイエンス（人間科学）を置くべきではないかという考え方です。

人間は・生物学的に見れば哺乳動物の霊長類の一種に位置付けられますが、文化・文明を持っているのが大きな特徴であり、それを作り上げるのは人間の心だと思うからなのです。

ヒューマンサイエンスは人間のすべてのいとなみ、細胞や臓器の機能から始まって、呼吸・循環から始まって芸術・宗教までを自然科学の立場でとらえようという理念です。

当サイトは、人間科学や心理学、脳科学の観点から、子育て、育児、教育での悩みを解決してもらうという目的があります。

少し難しい話になるかもしれませんが、なるべく分かりやすく解説します。

皆様の子供が精神的にも肉体的にも健康で、幸せになる為の「教育のヒント」がみつかれば幸いです。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">子育て</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 06:05:30 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>

