健康診断の受け方
健康診断を受けようとする親は、わが子の発育がたしかめられるうれしさと、もしかしてわるいところがみつかりはしないかという不安の入り交じった、多少とも緊張した顔つきをしています。
まして、具体的に心配なことのある親は、それが医者から駄目押しされるのではないか、想像よりわるい事態といわれはしないかと、恐れおののいているようです。
こうした親の気持ちに、健康診断はどれほど応えられているのでしょうか。
よかったという声も聞くけれど、「異常」とか「異常の疑い」のレッテルをはられて、余計な心配をさせられたという怒りの声もよく聞くのです。
それはきっと、いまの健康診断が、親からの相談に来るというよりも、医者などの専門の立場から子どもを評価することに重点が置かれているためではないかと思います。
しかも、その評価のしかたがほとんど統一されていて、いわば○×式に優劣を決めてしまうようになっていることが多いのです。
だから、たいていの健康診断がまるで流れ作業、どの親も同じ質問を受け、どの子も同じ診察を受けるといったふう。
およそ親がこまごまとした話など持ちかけられるような雰囲気ではないわけです。
こうした点は、だんぜん改めてもらっていいことです。
せっかく赤ちゃんのためにするのですから、まず、その子と親の意に沿うように。
そして、お上による決まった形の「調べ」でなく、ひとりひとりの心配にこたえる、地についた「相談」であるように。
そのためには、聞きたいことがあったら、たとえ雰囲気が堅くても、遠慮なくたずねる勇気が必要です。
そうでないと、赤ちゃんは品質検査を受ける物品みたいになってしまいますし、だいいち、医者のチェック項目にない問題を落としてしまう危険があります。
万一、「異常」といわれたときは、たいへんなショックでしょうけれど、ここではぜひ落ちついてください。
いまは「異常」のレッテルを張りすぎるきらいがありますから、納得できなければ、十分に説明を求めたほうがよさそうです。
「精密検査」が必要だとしても、それをどこで受けるかは親の自由であって当然。
とにかく、一切を健康診断に取りしきってもらうのでなく、親も生活感覚からの判断力を鍛えて、楽しく赤ちゃんを育ててほしいと思うのです。
子供の健康診断の結果をどう判断するか
いわれたことがよくわからない
いわれたことがよくわからないとか、聞きもらしたことがあったら、そのままにしないでたずねるように。
その場で機会を逸したら、あとで電話するなり出かけていって、確かめること。
ときには医者や保健婦のちょっとしたことばのはしに猛烈な不安をもたされたり、心ないいいかたにショックを受けることがあるかもしれませんが、そんなときでもめげずに詳しい説明を求め、真意を問うべきだと思います。
発育がわるい
なにか「異常」を指摘されても、できるだけ冷静に。
それはかならずしも決定的ではないし、もともと健康診断はスクーリング(網にかける)の性格をもっているからです。
発育がわるいとか、ふとりすぎといわれても、ただ「標準」と比較してだけのことなら、にわかに心配する必要はありません。
発育のようすは、親をはじめ日常その子をみているひとたちの感じのほうが、意外によくあたっているものです。
もちろんそこには主観が入りますから、確かめたければ、カウプ指数など総合的な発育の評価法を試みてください。
育児のしかたがまちがっている
母乳の与えかた、ミルクの量、離乳のすすめかた、幼児の食事などについてまちがっているとしかられても、それでなんとか育っているのなら、まあいいとしていて大丈夫だと思います。
からだの異常
からだの異常についても、親の感じでたいしたことはないと判断されれば、あわてずに、しばらくようすをみるようにするほうがよさそうです。
発育のさかんな子どもは、そのうちに自然になおってしまうことが多いからです。
しかし、どうしても心配とか、重い異常を指摘されたときは、さらに詳しい検査を受けて確かめてください。
発達がおくれている
発達がおくれているという疑いをもたれると、ショックは大きいでしょうが、これほど、あとになって、なんともなかったとわかることの多いものはありません。
実は、専門的な発達の診断法は考えられているほど確実ではないし、大勢の子どもを短時間に流れ作業式に調べたのではなおさらよくわかりにくいのです。
そもそも発達というのは、子どもによってさまざまな姿をとるし、環境によってもすごく変わるもの。
簡単に表面からだけではとらえられないものでもあります。
ですから、むしろ家庭や地域で日常の子どもと接している自分たちのほうが発達のぐあいはよくつかめると考えていてよいと思います。
もちろん、素人には気づかないこともあるでしょうが、それほどならたいした異常ではないはずです。
また、たとえ大きな発達のおくれがあるとしても、それをただちにマイナスとばかりはきめつけられません。
いま流行の「発達」という概念には、
年齢にともなって一定のことができるようになるのを「正常」とする意味が強く含まれているようですが、
これはあまりにも人間を浅くとらえる考えです。
まず、人間を能力で評価しようとするところが、ひじょうに一面的です。
能力がすぐれていても人間的にどうかと思うひとがいるし、劣っていてもすばらしいひとはいくらでもいます。
しかも、その能力というのが、いまの時代、いまの社会の多数者のできることに基準がおかれている点が気になります。
そういう基準で評価されれば、別のできかたをする少数者は「異常」とされるほかなくなります。
そこからは、少数者の特性を生かす道はひらかれず、ひたすら多数者に近づく努力のみ要求されることになるでしょう。
これでは世の中の奥行きが深くなりそうにありません。
それに、なにかが「できるようになる」ことは、おうおうにして、別になにかが「できなくなる」ということをともないがちです。
たとえば、歩くのが上手になるにつれて、はいはいは下手になります。
はいながら見えていたものも見えにくくなるでしょう。
ことばが巧みになったために、空虚な発言ばかりふえて、真実みのある沈黙や仕草は消えてしまうかもしれません。
数や文字を覚えただけに、事物そのものとのていねいなつき合いをおろそかにしてしまうひともよくいます。
そういうわけで、発達のおくれを、イコール障害と思わないでください。
障害というのは、本人と社会のありようの関係でもたらされるものですから、そうした観点で対応するようにしてほしいと思います。
「要観察」「要精密検査」
健康診断の結果、「要観察」とか「要精密検査」とかいわれたときにも、
それがからだについてであろうと発達についてであろうと、以上のことを考えて、どうするかを判断してください。
かならずいわれたとおりにしなければならないことはないし、すくなくとも、どこで診てもらうかは親の自由です。
観察や検査が納得できないときには、別のところで診てもらうのはよいことですが、あまり性急に結論をえようと「はしご」を重ねるのはどうかと思います。
からだの異常については急ぐばあいもありますが、それならかえって早くどこかで治療を受けるべきだし、発達に関することなら、むしろゆっくりと経過を見るほうがよいからです。
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