母親の役割
父親不在の家庭のなかで、取り残された母と子が、異常なまでに密着しているという、現代のわが国の一般的な家庭構造ついては、以前に述べました。
そして、登校拒否、家庭内暴力といった問題は、子ども自体の問題というより、このような家庭構造や親子関係に根をもつ、現代の病理現象であるということについても、以前に述べたとおりです。
子どもだけが生きがいになってしまう母親
思春期が「第二の誕生」と呼ばれるのは、子どもは、それまでの親依存の自分から、自立した自分へと脱皮をはかるからです。
このように子どもの発達を、依存・自立という関係でとらえるとすれば、思春期問題というのは、基本的には親子関係の問題です。
そして、伝統的な子育ての方法からすれば、物理的にも心理的にも、子どもとの距離がもっとも近い母親に課せられた大きな課題でもあります。
「なんのためにきょうまで苦労して子どもを育ててきたのかわからない」
と嘆くのは、子どもの反抗に悩む母親・陣内(仮名)さんです。
陣内さんの家庭は、実直なサラリーマンの夫と、中学二年になる一人娘の三人家族。
陣内さんは、子どもが小学三年生までは専業主婦でしたが、住宅ローンの返済と、子どもの教育費の足しにと、パートで働きに出ました。
「夫の出世と子どもだけが生きがい」と、はばからずにいう陣内さんは、子どもの教育には異常なまでに情熱を傾けてきました。
四歳からピアノと英会話を習わせ、小学校に入学してからは学習塾にも通わせました。
したがって、小学校での成績はつねにトップクラスでしたが、中学に入ったころから、そういう生活に疑問をいだくようになった娘は、母親への反抗から、勉強をしなくなりました。
「わたしには子ども時代がなかった」
という彼女は、口やかましく干渉する母親とことごとに衝突します。
二年生の夏休みに男の子からきた手紙を、母親が盗み見たことが知れて、もう一カ月以上も母親と口をきかない状態がつづいているというのです。
思春期は親子の分離が始まるとき
親が子どもを生きがいにするのは当然のこととしても、「母子一体化」といわれる状況は、「子どもだけ」が生きがいとなってしまうところに、母子双方の悲劇の原因があるのです。
子育てというのは、子どもの自立を助ける営みであるとするなら、親と子は、やがて分離する運命にあるのです。
そして、思春期というのは、親子の分離が始まるときなのです。
子どもは、親のいいなりになっていたそれまでの自分を否定し、親の指図や干渉をきらい、独立した人格として扱うことを要求し始めます。
日常的な生活場面で子どもと接する母親は、子どもにとって、とかく口やかましい存在となるのは、いたしかたないことです。
「さっさとやりなさい」
「そんなことをしてはいけません」
「テレビばかり見ていないで勉強しなさい」
といった調子で、母親は命令・禁止・拒否のことばを使う場面が多くなりがちです。
しかし、それも思春期まえまでのこと。
いつまでも子どもあつかいされたくないと願う思春期の子どもには、逆効果になるということを親は知らなければなりません。
静岡県教育委員会の調査によれば、中学生の親への希望(選択数自由)の第一が、父母とも「あまり口やかましくいわないでほしい」となっています。
そして、口やかましいのは母親の方で、
父親の二〇・三パーセントにたいして、母親が四七・七パーセントとなっています。
「あまり子どもあつかいしないでほしい」というのも、父親(=・五パーセント)より母親(一五・二パーセント)のほうが多くなっています。
子どもの親離れという課題は、親の子離れにかかわる問題だといっても過言ではありません。
記録映画『キタキッネ物語』に、動物としての生存の本能から、母ギツネが一人前に成長した子ギツネを、いまにもかみ殺さんばかりの剣幕で追い出すシーンがありました。
まさに凄惨ともいうべき子別れの儀式です。
思春期の子どもの親にたいする反抗は、キタキッネとは逆の子別れ(規別れ)の儀式なのかもしれません。
しかし、「夫と子どもだけが生きがい」という陣内さんのように、精神的に夫と子どもにまったく寄りかかってしまうような生き方は、
子どもが自立の時期を迎えても、親の子離れができないために、子どもの自立を妨げることになります。
母親像の変化
昔から母親というのは、なにより子どもの成長を生きがいとし、子どものために苦労して老いていてものと考えられていました。
でも、近年、工業化社会における核家族化によって封建的な��家″は解体し、家庭の主婦はわずらわしい人間関係から解放されました。
また、職場と住居が分離することによって、主婦の多くは生産労働にたずさわらなくなりました。
また、計画出産による子どもの数の減少と、家庭電化製品の普及などによる家事の合理化によって、母親は自由な時間をもてるようになりました。
その結果、母親像もさまざまに変化しつつあります。
やや類型的にすぎるきらいはありますが、話をわかりやすくするために、現代の母親像を次の三つのタイプに分類して考えてみたいと思います。
(1)主として母であることに生きがいを見いだすタイプ
(2)主として女であることに生きがいを兄いだすタイプ
(3)母であることと、女であることを統一的に生きるタイプ
現代の母親像3つのタイプの特徴
第一のタイプは、伝統的な母親像の継承者です。
先の陣内さんのように、夫に依存しながら子どもの母であることを生きがいとするような母親は、伝統的母親そのものです。
しかし今日、夫は経済的依存の対象ではあっても、精神的依存の対象となりえていないために、子どもだけを生きがいとするような母親が多くなっています。
子どもの数が少ないということも、母親の子どもへの関心を、より強くしている原因の一つです。
さらに、学歴社会、受験体制という日本的風土のなかで、伝統的な母親たちの多くは、子どもを受験戦争にかりたて、子どもの成績に一喜一憂する「教育ママ」となりました。
いずれにしても、妻であり母であるまえに、ひとりの女として自立する自分をもたないために、なかなか子ども離れできない母親です。
それにたいして、第二のタイプは、女として自立しているかどうかは別にして、女であろうとすることによって、親としての任務を軽んじ、ときには放棄する自己中心的な母親家庭生活と親子関係です。
女としての自己の欲望や幸福のために、夫と子どもを置き去りにして蒸発したりする母親などは、その典型といえるでしょう。
また、そこまで極端に走らなくても、子どもを放置してスナックやカラオケ・バーを遊び歩く母親も多くなっています。
中学二年の洋子(仮名)が、両親の留守中のマンションに男女数人の友だちを泊め、シンナー遊びと不純異性交遊で警察に補導されました。
母親にいわせると、父親は「真面目だけが取りえのうだつのあがらないサラリーマン」で、人のいやがる仕事を押しつけられるため、長期の出張も多く、休日も上司にゴルフの相手をさせられるといったぐあいで、ほとんど家にいることがありません。
母親は、そんな夫を「なんの面白みもない人」といって、子どものまえでも他人のまえでも平気でけなします。
事件のあった夜、父親は出張中で、母親は小学校時代のPTAの役員仲間と二泊三日の旅行に出ていたのです。
母親は、それまでにもなにかと口実をつくっては、夜遅くまで飲み歩くことが多く、深夜の帰宅もしばしばでした。
洋子もまた、親の留守をよいことに、夜遊びや外泊をするような生活だったのです。
現代の母親像の三つめのタイプは、「母であることと、女であることを統一的に生きるタイプ」です。
職業婦人であり二児の母親である竹田さんは、労働組合婦人部長、職場のうたごえ運動、地域の「子どもと教育を守る会」代表など、様々な活躍をする婦人活動家です。
夫は公立高校の教師で、やはり熱心な組合活動家です。
ですから、子どもが小さいころは、勤めが終わると保育所に子どもを引き取りにいき、そのまま夜の会合の席へ連れて行くようなこともしばしばでした。
ときには父親が家に連れ帰って、子どもに食事や入浴をさせ、母親の帰りを待つこともありました。
「夫の協力があったから、ここまでやってこれたのです。
おかげさまで、子どもはグレもせずどうやらまともに育っています」
そういう竹田さんが、仕事と子育てを両立させるために心がけたことは、次の二つだといいます。
一つは、子どもは親の後ろ姿を見て育つなどと安易に考えず、親子のふれ合い、対話を大切にすることです。
保育所から連れ帰ったわずかな時間、家事をしながら子どもとのふれ合いの機会をつくる努力をしました。
そして、子どもが物心つくようになってからは、おりにふれて両親の仕事について話し、理解を求める努力をしたといいます。
竹田さんが心がけたことの二つめは、
子どもにさびしい思いをさせてかわいそうだからと甘やかすのではなく、自分のことは自分でするようにしっけると同時に、子どもにも家事を分担させ、大胆に子どもを頼りにしてきたことです。
上の子が中学生になったころには、炊事、洗濯などだいたいの家事は二人の子どもでやれるようになっていたといいます。
「家に帰って子どもたちと話し合うのがなによりの楽しみ」
と語る竹田さんは、子育てにとって共働きはたしかにきびしい条件だが、子どもを大切にする気持ちさえあれば工夫の余地はいくらでもある、と自信をもって話します。
そんな竹田さんを、母親としても、女性としても尊敬するという高校三年生になる長女は、弁護士になることを夢見て、受験勉強に励んでいます。
「女だてらに弁護士なんて」という人もいますが、竹田さんは
「子どもがどんな人生を選ぶかは、子ども自身が決めることです。
たとえ、そのことで子どもが苦労することがわかっていても、子どもがあえてその道を選ぶのなら、親は黙って見守るしかありません。
子どもは親とは独立した別な人格なのですから」
といって、娘のよき相談相手になるように努力しています。
母親がまず親として、女性として自立すること
ところで、
「父親が子どもにとって権威の原体験であるとするなら、母親は愛の原体験である」
というのは、社会学者の山村賢明氏です。
稲村博氏も
「母性というのは、元来は情操豊かなやさしさや思いやりのことである」
といいます。
しかし、包み込むような母親の愛情もうっかりすると子どもの自主性を阻むことになりかねません。
とりわけ思春期の子どもにたいする親の愛情の基本は、子どもを親とは相対的に独立した一個の人格として認め、子どもの自主性を尊重して暖かく見守ることです。
とかく母親というのは、子どもをいつまでも小さな子どもとして扱い、子どもを独立した人格として見ることができないという傾向があります。
子どもをいつまでも自分のひざの上に置こうとするのは、子離れできない母親の自己満足です。
かかえ込むことだけが親の愛ではありません。
ときには子どもをきびしく突き放して見ることも、親の愛であることも知らなければなりません。
なぜなら、子どもはやがて親の庇護から解き放されて、自分の力で生きていく存在だからです。
子育てというのは、そういう子どもの自立を助ける営みです。
思春期は悩みの多い時代です。
しかし、子どもの悩みを親が代わって悩んでやることはできません。
悩み苦しむ子どもの姿を黙って見守る母親の存在が、子どもにとって大きな心の支えとなるのです。
思春期の子どもと母親の関係は、そのように一定の距離を置いた関係でなければなりません。
そして、そのような親子関係は、母親が親としても女性としても自立していることにより、はじめて可能となることなのです。
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