父親の役割
家庭内の父親不在はかなり一般的な現象
非行対策として、父親の出番が待たれているばかりではありません。
思春期というのは、それぞれ男として女としての自分を完成させていく時期ですから、男の子にも女の子にも、男性としての父親の存在がたいへん重要な役割をはたす時期なのです。
しかし、とまどう父親が意外と多いのではないでしょうか。
日ごろなにかと仕事に追われて子どもと疎遠になりがちな父親は、ニキビ面にうっすら口ヒゲさえ見える息子や、からだ全体から女を感じさせるようになった娘に、
他人のようにヨソヨソしい態度をとられたりすると、すっかりとまどいを感じてしまいます。
ですから、せめて学校の参観日ぐらいは、日ごろの罪はろぼしのような気持ちで、いそいそと学校に出かけて、お茶をにごすということになるのです。
そのような父親たちになにかもどかしさを感じるのは、ひとりわたしだけではないはずです。
子どもや教育の問題を話し合っても、変にさめたところがあって、子どもの教育にはたいへん熱くなっている母親たちのようには、燃えてこないのです。
家庭内暴力の背景の一つに「父親の無力化」があるという総理府の調査がありますが、これは必ずしも家庭内暴力にかぎったことではありません。
「父親不在」「父権喪失」などといわれるように、かなり一般的な今日の家庭の問題としていわれていることでもあるのです。
叱るべきときに自信をもって叱れない父親
高校一年の長女の非行に悩む母親・兵藤さん(仮名)は、まったく非協力的な夫に絶望して、離婚も考えているといって相談にみえました。
仕事一筋の生真面目な夫で、子どもが二人とも女の子という女性優位の家庭のためか、それまでにも比較的控えめにふるまっていたといいます。
中学三年になった長女に非行の兆しが見えたころから、あきらかに子どもとのかかわりを避けるようになりました。
ひとりで気をもむ母親は、娘の顔さえ見れば口うるさく文句をいうので、しだいに母と子の関係は険悪な状態になっていきました。
そればかりか、父親がなにもいわないことをいいことに、彼女の非行はますますエスカレートする一方です。
高校生になってからは暴走族の少年とつき合うようになり、深夜の帰宅もめずらしくありません。
「子どもが道を踏みはずそうとしているときに、きびしく叱ってくれる威厳のある父親であってほしい」
と兵藤さんは、嘆息します。
この事例の場合にかぎらず、とかくヒステリックな対応になりがちな母親に、ブレーキをかけるのも父親の役目です。
ところで「無力な父親」というのは、このように子育ての責任を回避する父親ばかりではありません。
非行グループに入り、夜遊びを繰り返す中学三年の息子の指導に悩むのは、PTAの役員も買って出た自営業の堀さん(仮名)です。
夜中に先輩のアパートでマージャンをやっている現場を見つけて連れ戻そうとしても、
「みっともねえから、こんなところまでくるな」
と興奮してわめく息子に、なすすべもなく引きあげてしまう父親です。
柔道三段だという堀さんは、力ではまだまだ子どもに負けません。
それでも、毅然として親としての指導をつらぬくことができないでいるのです。
このような、父親の弱い家庭に、家庭内暴力や非行などの問題が多いというのは事実です。
ですから『スパルタ教育』(石原慎太郎著)、『ゲンコツおやじ教育論』(近藤啓太郎著)などという本が書かれたり、「カミナリオヤジの会」が結成されたりするのです。
たしかに、しつけにはある種のきびしさが必要だということは否定できません。
しかし、下手に子どもを殴れば、昔、川崎市で起きた事件のように金属バットで寝込みを襲われかねないご時世です。
「ゲンコツおやじ」や「カミナリおやじ」が、はたしてどこまで通用するか考えものです。
夫婦関係に問題がある場合も
現代家庭の特質は、「父親不在」と「母子一体化」だといわれます。
まえに述べた兵藤さん(母親)の家庭などはその典型です。
父親(兵藤さんの夫)は、仕事一筋といった「会社人間」です。
朝早く家を出て、夜は深夜の帰宅もしばしばです。
兵藤さんは、あてどなく夫を待つ生活にしだいにむなしさを感じるようになりました。
「子どもがいなかったら、とっくの昔に離婚しています」
という兵藤さんは、夫によっては満たされない心の空洞を、子どもによって満たそうとしました。
そして勉強にはきびしいが、しつけに甘い母親となりました。
子どもたちは小さなころから、塾や稽古事に追い立てられる毎日でした。
上の娘がグレたのは、そんな母親にたいする反発でもあったのです。
親子関係の問題は、このように先に夫婦の関係に問題がある場合が少なくありません。
子どもと生活をともにすることもほとんどないうえに、たまに家にいて見せる姿は、きびしい労務管理と俄烈な出世競争に心身を消耗している「くたびれたおとな」の姿です。
そんな父親が、子どもにとって影のうすい存在になったとしても不思議ではありません。
子に見せるべき後ろ姿をもたぬ父親
子どもにとって「父親は伝統的に影のうすい存在」であったというのは、社会人類学者の中根千枝氏です。
伝統的社会にあっても、家族の生計を支える労働に主として携わる父家庭生活と親子関係親は、子育てには直接関与しませんでした。
そのうえ家庭でともにいる時間が圧倒的に長い母親に比べて、影のうすい存在であったとしても当然です。
それでも伝統的な社会(農業などの第一次産業が中心となっていた社会)においては、父親は権威ある存在であり、母親は父親の権威を背景として子どもをしつけることができました。
しかし、高度に工業化した現代の社会では、多くの家庭は職場と住居が分離し、父親の働く姿があまり見られなくなりました。
父親が「伝統的に影のうすい存在」でありながらも、権威ある存在でありえたのは、父親の働く姿が見え、子どももなんらかのかたちで、その父親の労働に参加する機会があったからです。
「子どもは親の後ろ姿を見て育つ」といいますが、いま多くの父親は、子に見せるべき後ろ姿をもたないのです。
そうだとすれば、親はその労働について、子どもに語って聞かせる必要があるでしょう。
そして、母親も側面から父親の権威を支えることが必要です。
しかし、夫に失望している兵藤さんのような場合には、
母親が子どものまえで父親をけなし、父親の権威をますます下げてしまう結果となることが多いようです。
中根千枝氏は、伝統的社会における父権確立の基礎条件として、「父の仕事を息子が継ぐこと」と、「家庭の構成人数が多いこと」をあげています。
子どもの非行に悩む父親・堀さんは、工務店の経営者で、父親の働く姿は比較的見えるほうです。
しかし、息子には父の仕事を継ぐ意志はありません。
現代のように技術革新がいちじるしくなく、息子が家業を継ぐのが当たりまえであった時代には、子は父から多くのものを学ばなければなりませんでした。
したがって、父親はつねに優位に立つことができたのです。
「権威とは、ある一定の距離が保たれなければならない。
小家族では、あまりにも父親は卑近な存在でありすぎる」と中根氏はいいます。
子煩悩だという堀さんは、ひまさえあれば子どもの遊び相手になるような父親です。
今日、子どもの数が少ないということも、いたし方のないことです。
子どもと友だちのように遊ぶということもけっして悪いことではありません。
だが、堀さんの場合は、「時代が違う」といって、叱るべきこともきちんと叱るということをしないために、ただ子どもを甘やかすだけになってしまったのです。
父親として大切なことは、子どもと友だちのように接するやさしさと同時に、善悪の判断や生きることのきびしさを、ときには妥協を許さないきびしい態度で示すことです。
それは子どもに身勝手な甘えを許さない、親としての「一定の距離」を保つことになるのです。
男の子は父親に競争心をもつ
フロイトによれば、ある時期(六歳前後)、子どもは異性の親にたいして性愛に近いような愛着をもち、同性の親にたいしては競争心をもつようになります。
男の子の場合、母親を異性として強く意識し、そのために父親を嫉妬し、恐れるようになるというのです。
フロイトは、運命のいたずらから、結果として父を殺して母をめとったオイディプス王のギリシャ神話によって、オイディプス・コンプレックスと名づけました。
そして男の子には、父親の男としての面と自分の男としての面が共有されて、男性同一化が起こります。
父親に負けないように自分を成長させて、結局父親のようになるということをとおして、父親をのりこえていくというのです。
親子の関係が、フロイトの指摘するほど、性的なものに結びつけられるものかという意見もあります。
しかし、今日的な親子関係のゆがみの典型として指摘されている母子の近親相姦が、近年多くなっているという事実は、フロイトの指摘を全面的に否定できないことを物語っています。
母子相姦を取材した朝日新聞記者・川名紀美の報告(『密室の母と子』)によると、
東京・新宿にある「ダイヤル避妊相談室」が一九七八年十月から一九七九年九月までの一年間に受けた近親相姦に関する相談は、全部で四百十二件。
そのうち母子相姦についての相談は、百十件もあるのです。
その百十件のケースのうち、父親のいない母子家庭が六十二ですから、父親がいても母子相姦が起こっているケースは、かなりの数になります。
川名さんは、その背景として「無力な父親像」をあげています。
父親の精神的不在が子に与える影響
今日、父親たちの多くは、勤め、出張、残業、あるいは仕事上のつき合い、単身赴任など、たしかに家庭にいる時間が少なすぎます。
しかしわたしは、仕事による不在はそれほど決定的な問題ではないと思います。
ゴルフやマージャンなど、父親自身のレクリエーションやくつろぎを主に外に求め、子育ては母親任せで、傍観者的態度をとるような精神的不在のほうが、より子どもにおよぼす影響が大きいのではないでしょうか。
父親にも子育ての責任があるといっても、必ずしも母親のように日常的に子どもと生活を共有し、日常的な生活レベルのしつけに責任をもつということではないでしょう。
長年、労働組合の役員をしている石井さんは、帰宅は夜の十時、十一時という毎日です。
しかし、どんなにくたびれていても、受験勉強で遅くまで起きている息子(中三)の部屋までいって、「がんばってるな」「からだをこわすなよ」と声をかけることを心がけています。
ときには、「どうだ、一服しないか」と居間に呼んで、お茶を飲みながらひとときの団らん欒をもつこともあります。
「接触する時間が少なくても、いつも自分に親としての関心をはらっていてくれるという実感が子どもにあれば、親子の断絶なんてありません。
ですから、叱るべきときは自信をもって叱っています」
石井さんは、胸を張ってそう語ります。
叱るべきときに自信をもって叱る。
子どもは、そういう確信に満ちた態度を頼もしいと思い、そういう親に権威を感じるのです。
父親は子どもにとって、頼りがいのある頼もしい存在でなければなりません。
頼りがいのある父親とは、たんに一家を支える稼ぎ手であるというだけではありません。
ときにはきびしく、家族のだれかが困ったときや家庭に問題が起きたときは、
「大丈夫だ、お父さんがいるから心配するな」
と胸を張って、全力でその解決に当たる父親です。
社会人としては、政治や社会のことに通じ、人生の先輩として自らの生活経験をとおして、社会のあり方や人間の生き方について、見とおしをもって語ってくれる父親です。
自我を確立し、自立をめざす思春期の子どもは、そのような父親を必要としているのです。
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