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子供の「反抗期」がなければ、それでいいのか
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思春期はストレスが増加する時期
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最近は九歳頃から第二次性徴が始まる
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中学生の子供に対する接し方
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思春期の子供に対する親の接し方
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仲間が何よりも大切な時期
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お母さん、子どもを信頼していますか?
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親と子が互いに尊敬し合える関係を作り出す
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子ども達の勉強の悩み
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いじめを傍観する子ども達
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交友関係が子ども達のストレスになる
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親と子双方の自立
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母親の役割
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父親の役割
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反抗と自己主張について
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女の子の更正は、男の子の更正より難しい
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非行・問題行動に対して、まずは子どもの言い分をよく聞きましょう
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落ちこぼれを生む能力主義の教育と受験制度
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中学生の非行・問題行動について
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受験ノイローゼ
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受験勉強と偏差値のワナ
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中学生には職業選択はまだむずかしい
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もっとも効果的な勉強法は、家での予習
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子供の「反抗期」がなければ、それでいいのか
反抗期は心身の成長の証という意見もあります。
はたしてそうでしょうか。
様々な視点で考えてみましょう。
子供の反抗期で悩んでいる親へ処方箋
私は「本当に反抗期って、なくなってもいいものなの?」とどうしても思ってしまうのです。
「仲よし親子、それでいいのだ」と思いながらも、どうしても私の頭をそんな疑問がよぎってしまいます。
それは、学生たちの姿が精神科やカウンセリングで出会った(いい子)と重なってしまうからです。
最近、診察室に来る子どものなかにも、「反抗期がなかった」「ずっといい子だった」という子が増えた、という話をよく聞きます。
でも、ちょっと考えてください。
彼らは、
「いまは、家から外に出られない、ダイエットをやめられない、自分の身体を傷つけてしまう」
といった深刻な問題を抱えているからこそ、クリニックまでやってくるわけです。
ずっと(いい子)で親とも仲よしだった子どもが、どうしてそんな泥沼にはまってしまったのでしょう。
ここで、ひとつの例として 「トモコ(仮名)」という子のケースを紹介しながら、この間題を考えてみましょう。
その子、トモコは、地元の中学校に通う3年生でした。
親が言うには、トモコは小さなころから親を困らせたことが一度もなく、自分から進んで宿題もするし家の手伝いもする、だれからもはめられる(いい子)だったとのことです。
「こうしなさい」と親が言うと、「はーい」とすぐに返事をし、「イヤだよ」と反発することはほとんどなかったといいます。
小学校、中学と成績もずっとよく、学校では先生がクラスで、「トモコさんを見習いなさい」といつも言っていたそうです。
周囲の期待通り、トップクラスの成績で中3になったトモコは、クラス替えでいままで出会ったことのなかった同級生グループに出会います。
彼女たちは見た目もとてもおとなっぼく、「私はこう思う」「私はこうしたい」と自分の意見をはっきり言うグループでした。
たとえ相手が先生でも、自分と意見が違っているときは、「それは間違ってると思います」などと言い返します。
もうボーイフレンドがいるという子もいるようでした。
「昨日、親とケンカしてさ、チョームカついたから彼氏の家にプチ家出してやった」
といった声も聞こえてきます。
親や先生の言うことはなんでもきいてきたトモコにとっては、考えられないことでした。
最初、トモコは、
「あの人たちって(悪い子)(ダメな子)なんじゃないだろうか、いまに落ちこぼれになるんじゃないか」
と思いました。
しかし、1学期の中間テストでその予想は見事にはずれたことがわかりました。
クラスの成績上位者のほとんどは、彼女たちで、「はっきりしたことを言うグループの子」で占められていたのです。
「あんなに好き勝手して先生にも逆らって遊んでばかりいる(悪い子)なのに、こんなにがんばっている私より成績がいいなんて…」
とトモコはショックを受けました。
1学期が終わり、夏休みがはじまりました。
ずっと、
「あの子たちに勝つにはどうしたらいいんだろう」
と考えていたトモコは、
「夏休みのうちにかっつこいいスタイルになれば、2学期にみんなをびっくりさせられるかも」
とダイエットをはじめることにしました。
最初は親に気づかれないように、おかずやごほんを少し残す方法からはじめましたが、体重が少し減りはじめると、「もっとやせたい!」と強く思うようになりました。
ある日の夕食のテーブルで、トモコはついに言ったのです。
「ママ、今日から私、ゴバン食べないからね。
おかずも野菜だけにして」
びっくりした母親は、
「なに言ってるの?野菜だけじゃ栄養もエネルギーも足りなくて、勉強にも集中できなくなっちゃうじゃない。
だいたいあなた、最近、食欲もないし顔色も悪いわ。
どこか身体の調子がおかしくなってるんじゃない?
明日、ママといっしょに内科の先生のところに行きましょう」
と早口で言いました。
それを聞いているうちに、トモコの頭の中で何かがプツンと音をたててはじけ、頭がまっ白になりました。
それから、トモコは、
「うるさい、うるさあーい! 何よ、お母さんなんて自分の勝手ぽっかり押しっけて!
私、これまでずっとガマンして言うこときいてきたけど、もうイヤ!
絶対にお母さんの言うことなんて、きかないからね!」
と言いました。
トモコは、自分でも驚くほどの大声で、そんなことを叫んでしまっていたのです。
そして、叫びながら、
「そうか、私っていままでガマンしてきたんだ…。
親の言うことが ”イヤだな””違うな”と思っても、そう口に出さなかっただけだったんだ…」
とはじめて気づきました。
それからトモコは、母親の作った食事にはいっさい手をつけず、わずかなお菓子や水だけを口にして、あとは一日中、自分の部屋に引きこもるようになりました。
母親や父親が部屋に入ろうとすると、「出ていけ!」と大声をあげます。
親に無理やり連れられてクリニックに来たときは、頬はこけ、太ももや腕が棒のように細くなっており、「拒食症」の状態にあることは間違いないようでした。
母親は、私の前で、
「先生、トモコはずっと自慢の(いい子)だったんです。
それがあんな怒鳴り声をあげるなんて、信じられません。
お願いです、トモコを昔の(いい子)に戻してください」
と涙をこぼしました。
問題は、トモコが(いい子)じゃなくなってしまったことにあるのでしょうか?
トモコが怒鳴るのをやめ、部屋から出てきてまた元通りに食事をしたり勉強をしたりするようになれば、それですべては解決なのでしょうか。
ここでちょっと注目したいのは、トモコが(いい子)じゃない同級生の行動を見ているうちに、こう気づいたことです。
「私は、これまでずっとがまんしてたのに!」
そう、トモコはただ素直でものわかりのよい(いい子)だったわけではなくて、
どこかで無理をしながら、親の言うことをなんでもきき、自分から進んで家の手伝いや勉強をする(いい子)だったにすぎないのです。
クラスのあの(いい子)じゃない子たちは、実は本当の(悪い子)ではなくて、(がまんしない子)(自分らしく生きている子)だったのだ…。
そう気づいたときにトモコの心の中で、これまでずっと
「いい子にしなきゃ」と無理をしていい子をしてきた緊張の糸がプツンと切れ、親に対してものすごい反発心や怒りが一気にわいてきたのでしょう。
ですから、無理をしてトモコをいい子にしようとすれば、トモコがまた「がまんする子」「自分を押し殺す子」に戻ることではありません。
それよりもこれからしなければならないことは、トモコがもう緊張して無理をすることなく、たとえ相手が親や先生だとしても、言いたいことは言う、したいことはする、と自然に自分らしく振る舞えるようにすることです。
それを、トモコ自身にも、それ以上に親たちにもわかってもらわなけれげならないのです。
- 子供を引き取りたい : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
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カテゴリー:思春期の子育て・教育
思春期はストレスが増加する時期
保護されている間は自分の家のことだけで良かった子どもの関心が仲間を通して社会へ広がっていきます。
お父さんが最高と思っていた子どもは、だんだん社会的な評価というものがあり、そのなかではうちのお父さんはそれほどでもないと気づいたり、
逆に自分の家の社会的ステータスは高いんだということに気づいたりします。
児童期はどんな会社でもお父さんが社長であれば、それは世界一の社長です。
しかし思春期に入ってきた子どもは小さな家族だけでやっている会社の社長と大企業の社長では社会的評価が全く違うということに気づきます。
「何だ、社長と言ったっていろいろあるのか。お父さんはちっぽけな社長なんだ」
とか
「えー、家のお父さん大きな会社の社長なの。お父さんを乗り越えるのは大変だ。僕には無理だよ」
とか事実を知って子どもは様々な反応を示します。
同じように自分に対しても社会的評価というものがあるということに気づいていきます。
学校の成績順位が子ども達のストレスになってきます。
勉強よりもスポーツや趣味に秀でている子どもは、一番社会的評価が高いものが成績だと知ったときに、強いストレスを感じます。
結局ストレスは子どもの自己評価を下げていってしまいます。
要するに世のなかには自分で思っていたのとは別な評価の仕方があるのだなということを知るようになります。
そのときに自分はそれなりに評価されてしかるべきと考えることのできる子どもはいいのですが、
そうでない子どもは反対に世間の価値観に合わせようとしてストレスを強く感じてしまいます。
世間の価値観と言っても一様ではなく、子どもに大人の社会にもいろいろな考え方があるのだということを教えることが大切になります。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
最近は九歳頃から第二次性徴が始まる
九歳がなぜ一つの発達のターニングポイントと言われるようになったのかを最初に考えてみましょう。
いままでは九歳という年齢は安定した児童期の典型的な年齢と考えられていたのです。
しかし最近の子ども達にとっては必ずしもこの説があたらなくなってきました。
全体に身体成熟が早く、第二次性徴と言われる現象が九歳くらいから始まり出す子ども達が増えているのです。
女の子で言えば、早い子では生理が始まり、いやでも自分が女性であるという性的同一性を求められます。
身体つきも女性らしくふくよかになってきます。
女の子よりいくらか発育は遅れますが、男の子は夢精やマスターベーションの経験がそろそろ始まり出します。
これらは子ども達にとっては強い混乱と不安を引き起こします。
第二次性徴から由来する性の問題はストレートに親にも相談しつらいことです。
一方身体の変化から無性に興奮しやすくなります。
何かとスリルを求めて騒々しくなります。
本来このような思春期の始まりは中学生くらいからだったのですが、最近は成熟が早まり、小学校中高学年からこの思春期の現象を示す子どもが結構増えてきているのです。
危険なのはこのような現象に気がつかずに、それまでと同じく子ども扱いをしていると思春期特有の反抗をもろに受けて親子の関係を複雑にしてしまうのです。
我が子が思春期特有の行動を取るようになったら、年齢に関わらず子ども扱いをやめ一人前の付き合いをする必要があるのです。
児童期から思春期への変化を少し見ていきましょう。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
中学生の子供に対する接し方
子育てから、一人の大人としての付き合いへ、
親は気持ちを切りかえよう。
中学生になると子ども達は急激に変化してきます。
小学校の後半からは身長も伸び出し、第二次性徴である声変わり(男子)や身体の丸み(女子)も見られてきます。
決定的なのは男子には夢精が女子には生理が始まることです。
児童期は性というものをほとんど意識しなかった子ども達が自分が性的存在であるということ、言い換えれば自分の性的衝動をどう抑えるかという課題に直画します。
これは、心理的現象というより生理的な一つの成熟現象ですが、このことが子ども達に心理的な変化を引き起こします。
中学生の特徴
(1)刺激を求める
中学生になる頃から、何かに夢中になることがあります。
多くはクラブ活動であったり、ロックやジャズに夢中になったり、ときにはゲームセンターに入り浸りになることもあるかも知れません。
このような活動の背景には性的衝動の突き上げがあります。
猛々しくどこかイライラし出します。
ささいなことですぐに興奮することもあります。
また、暴力的になることもあります。
大人への批判も厳しいものになり、否定的になります。
極端な行動に走ることもあります。
親はこのような子どもを見て戸惑います。
今度はどんな行動をするのか心配してすごしたり、子どもの行動にショックを受けて、驚くばかりでなく傷つけられたと感じて怒ったりすることも珍しくありません。
多くの場合こうして親と子どもは対立的な関係になり、
子どもを小学生時代のように力で抑え込もうとしてみたり、それが不可能とわかると全くあきらめて何もしなくなるようになっていきがちです。
(2)仲間から受け入れられようとする
性的な新たな変化は親への秘密を作るようになります。
何でも親に話していた素直な子どもでも自分の性については、特に反対の性の親には話せなくなります。
よく中学生の親から
「最近うちの子どもは私に何も話してくれない」
と嘆きの話を聞くことがあります。
子どもが親にあまり自分のことを話してくれないのは淋しいことかも知れません。
しかしこの秘密を作るということは親離れの、言い換えれば自立の最初の現れなのです。
中学生になって何でも親に話しているとすれば、それは少し自立への準備が遅れているのかも知れません。
秘密を作るようになった子どもは、性についての不安を友達のなかで解消しようとします。
中学生は友達の構造が大きく変わります。
小学生時代の遊びを中心とした遊び友達から少人数のいわゆる親友に変化していきます。
この親友は少人数でいつも一緒に行動するような仲間です。
仲間内だけで通用するような言葉を作ったり、共通の持ち物を持ったり、秘密を共有したりして、仲間の団結を強調します。
また、親を含めた他の人達が自分達に干渉することをひどく嫌います。
自分の所属している仲間が批判されると、自分が批判された以上に怒ります。
特に、親が仲間を批判したりすると、親を猛烈に憎みます。
子どもは仲間に受け入れられようと必死です。
仲間の価値観の方が親のそれより優先します。
この時期の子どもの最大の目標は広く仲間に受け入れられるということなのです。
むしろ仲間を批判しないで見守っていれば、少なくとも親と子の関係は悪くなりません。
しかし親は多くの場合自分の子どもが選ぶ仲間が気に入りません。
なぜなら親が与えた友達ではないからです。
そこで子どもの仲間に不安になったり、気をもむようになります。
仲間を批判したり仲間から抜けるように強要すれば子どもは激しく反抗します。
友人との付き合いをやめるということはまずありません。
強引にやめさせたとしても子どもは無気力を装って親に抵抗してきます。
(3)自己の確立
中学生になると物の見方が拡大していきます。
将来の自分のことについてもある程度現実的に考えられるようになります。
自分が勉強でどのくらいの順位にいるのか、
どういう学校を出れば有利な職につけるのか、
親の職業は社会的にはどのレベルのものなのか、
将来なりたいものになるためにはいま何が必要か
等です。
特に他人の評価が気になり出します。
周りの人が自分をどう見ているかということです。
自分で自分を価値付けることのできない子どもは、自分の価値を他人にゆだねます。
親や学校の先生、または友達です。
多くの場合周りの大人は無条件で子どもの価値を認めるということをしません。
常に条件を付けて子どもを承認します。
「有名高校へ入れそうな点数を取ったらお前を認めてやる」
とか
「お母さんの言うことを聞いていればいいの。お前はまだ子どもなんだから」
等の言葉は子どもの自分への価値を低くしてしまいます。
「親にまだ全然信用されていないのか」
「俺はダメな人間だ」
「俺なんか嫌いだ」というように考え出します。
こうなると子ども達は必要以上に自分を高いものだと見せようとして、親や同年齢の子どもをけなしたり、批判したりしてきます。
また必要以上に自分の才能をひけらかそうとしたりします。
他人を見下したりすることもあります。
反対に
「どうせ大人が自分を認めず価値のない人間だと考えているのなら、そのような人間になってやれ」
と自分で決心してしまう子ども達もいます。
中学生で問題を起こす子どもの大多数がこの否定的自己同一視と言われる選択をしています。
親の役割と対処の仕方
さて、このような中学生時代に親はどのように付き合ったらいいのでしょうか。
子ども達は小学生のときと違ってほとんど親を尊敬しなくなります。
親の言うままに自分の行動をするより、仮に失敗するかもわからなくても自分で決めて行動をするようになります。
多くの場合親の感情を揺すぶるような行動をします。
特に親を怒らせることが多くなります。
いわゆる主導権争いを挑んでくるのです。
対立が激化し、争いが繰り返されやすくなります。
しかし、子どもと親が対立したときどんなやり方をやっても、対立のなかでは最終的には子どもが勝ちます。
まず親は争うことを避ける必要があります。
いくつかの場面を検討します。
「あきらめるんじゃない。もっとがんばるんだ。
お母さんだって失敗はあったけどくじけなかったわ。私だってそうしたんだからあなたならできるわよ」
失敗した子どもに自分の成功談を言うことは相当のストレスを与えます。
子どもは
「お母さんにできたのに自分はできない。自分は最低だ」
と考えがちです。
「成績が良くなくて残念に思っているかも知れないけれど、一生懸命にがんばっていたのはお母さんよくわかっていたわよ」
がんばったという事実が大切なんだということを子どもに気づかせます。
がんばった事実を子どもが受け入れられれば、自分ががんばれる人間だという自信を持てるようになります。
子どもの良いところを見つけるには結構努力がいるものです。
特に失敗したときの言葉かけは気をつけないと子どもの心を傷つけます。
試験勉強をサボった結果、ひどい結果が返ってきました。子どもは反省し、期末テストはがんばると言っています。
子どもが自分の過ちを認めて直そうとしている状況だと仮定しましょう。
「お前はいつも気がつくのが遅いんだから。今度からはもっと早くから始めるんだよ。同じ失敗は二度としないこと」
これは子供を傷つける言い方です。子供はストレスがたまり、開き直って、
「もっとダメな子になってやろうか」などと考えたりします。
そうではなくて、こういってみましょう。
「何がいけなかったか気がついたね。自分ではどうしたらよいかわかるようになってうれしいよ」
このように、同じ場面でも、親の対応によって子どもに与える影響に正反対のものになります。
成功する対応の仕方をしっかり身につけて、子どものやる気を引き出してほしいものです。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
思春期の子供に対する親の接し方
この難しい年頃の子どもとどう付き合ったらいいでしょうか。
嵐のようなこの時代を、それほど大きな怪我をせずに無事に通過してほしいとどんな親でも願っています。
しかし現実には思春期のときこそ、親との関係で傷つき問題を悪化させているケースを多く見かけます。
親はどのようにこの子ども達と付き合っていったらいいのでしょうか。
子育てが終わったということを知ろう
子育てすなわち親が子どもの性格形成に影響を与えることのできる年齢は小学校時代までです。
年齢で言えば十二歳まででしょう。
もちろん個人差がありますが子どもが九、十歳くらいになったらそろそろ子育ては終わりだと考えて良いのではないでしょうか。
さて子育てが終われば子どもに対して親は何もしないで良いのでしょうか。
いえ、違います。
子ども達の基本的な性格を変えることは難しいでしょうけれども、
そのできあがった性格を上手に使い、人間関係を作り上げていくやり方を教えていく必要があるのです。
すなわち子ども達は対人関係のスキル(方法)を学ぶのです。
この方法は仲間のなかでも学ぶでしょうが、やはり社会を代表している親が教える必要があると思います。
具体的には良い関係を親と作れることが社会のなかでの人間関係をよくする原点になるのです。
問題はこの教えるということです。
一般的には子どもの悪いことを指摘したり、怒ったりして大人の言うことを聞かせようとします。
しかしこれでは子どもは自発的に自分から大人の社会のルールを守るようにはなりません。
強制や不安、脅しで一時的に子どもを大人に従わせても、それは子どもを納得させたことではありません。
長期的には子どもに力がついたときに、子どもは大人の言うことを聞かなくなります。
かえって密かなる反抗を心のなかに育てる結果になります。
親はまず一歩譲って子どもの意見を受け入れてみることです。
子どもは親の了解で行動している限りそれほど過激な問題行動を取ることはありません。
むしろ子どもの行動を親が認めず拒否していると、子どもは反動で歯止めがなく問題行動に走っていってしまいます。
真美(仮名)さんは高校一年生です。
私立の女子校に通っていたのですが、通学途中に知り合った高校三年生と付き合い出しました。
バイクの好きな子でよく乗せてもらっていました。
だんだん帰りが遅くなってきました。
服装も派手になってきました。
ある日髪を染めたいと言い出したのです。
ついにお父さんが怒り出しました。
「今のおまえは不良だ。勝手なことばかりして」
と言って殴ったのです。
彼女は「クラスの子でも髪を染めている子が何人もいる」と主張したけれども、お父さんは怒るのみです。
そしてたたいたのです。
しばらくして彼女は黙って髪を染めてきました。
それだけでなく外泊もするようになりました。
「不良というのなら本当の不良になってやる」というのが彼女の気持ちでした。
一年の終わりにはたばこを吸ったということで学校を退学させられました。
自分でもオートバイの免許を取り、暴走族に入っていってしまいました。
子どもは自分自身が嫌いだということを知る
最近の子どもはどうも自分をあまり肯定的に見ていないようです。
私が
「自分は好きか」という自己肯定感を聞く質問をすると、多くの子どもは自分が嫌いだと答えます。
これは大人から見れば不思議な現象です。
いまの子どもは物にも愛情にも恵まれています。
ほしい物はほとんど買ってもらってふんだんに手をかけてもらっています。
それにも関わらず自己肯定感はあまり育っていないのです。
なぜでしょうか。
私の意見では、子どもから自己肯定感や自信を奪う強力なばい菌が、いまの子ども達の世界を大きくゆがめているのです。
子どもは親の期待に押しつぶされているところがあります。
あるお母さんがカウンセリングに相談にいったときの話です。
「家の子どもがもう少し……であったら」
とか
「成績があと何点上がってくれたら」
というように子どもへの期待を「……たら」という形で説明していました。
まさにこの「……たら」が、子どもの自信をくじいているもっとも大きな要因だと考えています。
親は当然ながら子どもにこうあってほしいと期待を持ちます。
そしてそのような期待を実現させるために子どもの実際の姿を変えようとします。
言葉を換えればそれは
「子どもへの親の期待−子どもの現実の姿」
という引き算で子どもを育てようとします。
子どもの悪いところを注意してあげることが子どもをよくするのだという考えが当然のようにあります。
この親の理想から出ている言葉の典型的なものが二つあります。
「早くしなさい」
これは親子のなかで交わされる言葉かけのもっとも多いものです。
「遅刻するから早くしなさい」、
「早くお風呂に入らないとぬるくなるよ」、
「ご飯早く食べて。お母さんだって次にしなければならないことがあるんだから」
など、早くという言葉はよく使われます。
このように言われると子どもは初めは早くしなければと思うようです。
しかし繰り返し繰り返し早くしなさいと言われ続けると子どもは
「お母さんがこんなに言っても早くできない僕はダメな人間だ。仕方ない。のろまで生きていくしかしょうがない」
と否定的な自己評価を持つようになります。
これを否定的自己同一性と呼んでいますが、
このように自分からマイナスで良いのだと決心してしまうと子どもはどんどん無気力になっていってしまいます。
しかし子どもにいろいろなことをてきぱきと早くやらせることは必要です。
そのためには親はどのような対応をしたらいいのでしょう。
いろいろな方法があると思います。
これから述べる方法はそのなかの一つです。
「早くやりなさい」
ではなく
「早くやれたね」
と言ってほしいとお願いしています。
些細な違いに見えるかも知れません。
しかしこれはそうではありません。
なぜなら「早くやれたね」という一言葉かけは、すでに子どもが早くやれたことを親が見つけてそれを言ってあげることです。
子どもにとってみれば
「ああそうか。僕も早くやることができたんだな」
と自分ができたことへ目を向けるようになります。
これは子どもにとっては大きな自信になります。
一度でも早くやれたということは決して能力として早くやれないわけではないということに子どもは気がつきます。
自分に自信を持つ、すなわち自分を肯定することができるようになります。
「ダメです。いけません」
これも親が子どもに使う言葉かけとしては多いものです。
繰り返し、「ダメです」と怒られたり注意されたりしていると、子どもは意欲を失い、他人の指示がなければ行動しない人間になっていく可能性が高くなります。
人の指示で行動するということは、仮に間違った行動でも、それは指示した人に責任があることで自分にはないといういいわけをいつも持っているということでもあるのです。
また、あまりダメだと言われ続けると何をやっていいかわからなくなり消極的になってしまいます。
一般に子どもへの声かけで「……してはいけない」のような、禁止を伴うメッセージは子どもをダメにすることが多いと考えられます。
これは子どもの積極性を結果として奪ってしまうからです。
禁止ではなく、「……したら」という肯定的な言い方を子どもにするべきではないかと提案しています。
子どもの問題の行動を禁止するにもただ「いけません」と言うだけではなく「そうじゃなくてこうしたら」と新たな提案をしなければいけないと考えます。
子どもは、やり方は一つではなくいろいろなものがあるということを、大人の提案を通して学ぶことができるのです。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
仲間が何よりも大切な時期
この年齢の子どもにとって一番心配になるのは、親の自分への評価よりも、仲間のなかで自分がどう思われているかの評価です。
親への秘密ができた(主に最初は第二次性徴をめぐって)子ども達は、自分の不安を解消するために同年齢の仲間が必要になってくるのです。
この年代の子どもを考えるときに友達がいるかどうかは大きな判断材料になります。
この友達も児童期の友達とは違う存在なのです。
いわゆる親友というものが必要になってくるのです。
児童期の友達は遊びのテーマを中心にできてくるいわゆる遊び友達です。
この友達の構造は遊びが終わればなくなってしまうようなものです。
比較的誰でもその遊びに参加できます。
開放型の集団です。
友達よりも遊びそのものが目的になります。
ところが思春期に入ってくると、この友達関係ががらっと変わってくるのです。
遊びよりも友達と常に一緒にいることが目的となります。
特に目的がなくても一緒にいるだけで満足しているのです。
仲間の価値観が自分の価値観になります。
いままで親の価値観が自分の価値観だったのですが、親友ができることによりこの価値観が親から仲間のものに変わっていきます。
この変化は当然親からの分離を早めさせます。
親が子どもの仲間を批判したり、けなしたりすると、子ども達は自分がひどく傷つけられたと考えます。
仲間をかばい親を批判します。
また、仲間の様子を親に隠すようになります。
どうせわかってくれないと考え出します。
学校から帰ってくると友達と遊んだことを夢中で親に報告していた子どもが、ある日を境にほとんど話さなくなります。
「あんなに何でも話してくれたのに」と嘆く親がいます。
しかしこれは子どもの一つの成長でもあるのです。
ですから親は子どもの成長を認め、喜んで見守る対応を心がけてほしいと思います。
それがまたこの時期の子どもを勇気づけるのです。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
お母さん、子どもを信頼していますか?
他人を好きになる、信頼するということは専門用語では「基本的な他者への信頼」と言います。
この信頼がいまの子ども達に欠けているのはすでに述べた通りです。
他人を信頼することを学ぶためには、まず他人から信頼されるという経験がどうしても必要になります。
誰からも信頼されたことのない人がどうして他人を信頼することができるでしょうか?
これが、子どもに信頼を教えるために、お母さんが、最初に子どもを信頼しなければならない理由です。
お母さん達は、「子どもを信頼している」と言います。
しかし、よく聞いてみると、それは信頼でなく信用と言った方がよいものです。
「五時までに帰ってきて勉強するのよ。あなたを信頼しているからね」
と子どもに言います。
ところが子どもは遊びに夢中になって五時になっても帰ってきません。
遅く帰ってきた子どもに
「あなたを信頼して五時まで遊んでいいって言ったのよ。お母さんの信頼を裏切ってもう絶対あなたなんか信頼しないから」
と言います。
これでは子どもは信頼を学ぶことはできません。
このお母さんは、子どもを信用したのです。
子どもはお母さんの信用を裏切ったのです。
お母さんから怒られることで、子どもは信用を裏切ったことをチャラにします。
すなわち約束を破っても怒られればそれでご破算だという考えを学びます。
本来信用というものは担保をとることによって成立します。
裏切られるという前提で、ものを考えているのです。
裏切られたときに、担保を取れば自分は損をしないという考えです。
ですから担保を差し出したことによって、その信用を裏切った行為はご破算になります。
そして担保を払ったんだから文句はあるかということになります。
だまされることを覚悟の上で子どもを信頼する
私が示したいのは、この信用ではありません。信頼です。
では信頼とは何でしょうか。
先ほどの担保の比喩で言えば、これは白紙委任の小切手を無条件で相手に渡すことです。
だまされることを覚悟の上で相手を信頼するのです。
親は何度も何度も子どもにだまされる必要があると思います。
先はどの子どもが約束を破り遅く帰ってきたときに、子どもはどうせ怒られればいいと考えて帰ってくるかも知れません。
このとき
「お帰りなさい。ご飯できてるわよ。すぐに食べる?」
とやさしく迎えたら、子どもはどう考えるでしょうか。
初めは怒られないで儲けたと思うかも知れません。
しかし約束破って悪かったという気持ちもどこかにあるはずです。
お母さんの信頼を裏切って申し訳ないという気持ちが続きます。
お母さんがこのように子どもを信頼し続けると、子どもの方でも気楽に裏切ることができなくなります。
そして相手の信頼にはこたえなければいけないということを学ぶのです。
よく
「子どもの言いなりになっていたら、とんでもない子になってしまう。厳しくしつけをしなければいけない」
という意見を聞きます。
そして、
「子どものためを思い、親がいろいろ心配して、厳しくやっているのだ」
という意見もあります。
たとえば、忘れ物を子どもがしないように毎朝
「ハンカチ持った? 教科書揃えたの? ほらほら帽子が曲がっているじゃない。もう八時よ。家を出ないと学校遅刻するわよ」
などと、子どもに注意を与えているお母さんがいます。
どうしてそんなに注意を与えるのか聞いてみると、
「注意しないと自分では何もできないからです」
という返事が返ってきます。
これは私に言わせると
お母さんがいろいろ覚えてくれていて、注意をしてくれるので、自分では忘れ物をしないように覚える必要がないということを、子どもに教えているように見えます。
本当に必要なことは、親に言われてできるということではないはずです。
少しぐらい失敗があっても、自分の力で解決していけた方がはるかに子どもにとっても自信になり、すてきなことです。
もし、お母さんのなかに、子どものためにという考えで、行動するものがあるとしたら、そういう行動はすべて過保護の甘やかしの行動だと考えます。
それは子どもが自分で解決すべき課題に直面することを、避けさせてしまう行動だからです。
子どもを信頼できるようになると、この行動は減ります。
失敗してもそのなかから何かを学んで立ち直ってくるということを信じることができるからです。
「自分も役に立っている」という実感が子どもを支える
さて最後にアドラー心理学がお母さん・お父さんに提案したいことは、子ども達の心に
「自分は世のなかに役立っている。世のなかもまた自分に役立っている」
という感覚を育てることです。
私達は一人では生きていけない存在です。
どんなに力がある人でも、その人一人ではできることはたかが知れています。
仲間と協力して、力を合わせて行動するときに、すばらしい力を発揮するのです。
「自分もその成果の達成に役立っている」という実感を持つことは、とても大切なことです。
別な言い方をすると、この世のなかに自分の居場所を見つけることができたということです。
人間を深く傷つけるのはこの居場所を見つけることができなかったときです。
「自分は世のなかに、学校に、クラスに、家庭にどこでも用無しの役に立たない人間だ」と感じることは、ひどく自分を傷つけます。
いま学校で陰湿ないじめが流行しています。
いじめの一つにシカトがあります。
クラスの全員が一人の子を完全に無視するのです。
無視された子は、クラスから締め出され、自分のクラスでの居場所を失います。
クラスに貢献する機会を奪われ、クラスに何も期待が持てなくなった子どもは心を激しく傷つけます。
さて、このような子どもの心に、学校や家庭での居場所を見つけてやるにはどうしたらいいでしょうか?
家庭生活を健全に維持するには、役割に違いはあるけれども、
親だけではなく子ども達にも全員に役割があるということを教えるのです。
役割とは、ある場合には家事の手伝いかも知れません。
しかしこれは親から強制されてするものではありません。子どもの自発的な参加、協力です。
または、親からのお願いを、子どもが納得して行う場合もあるでしょう。
このときも親はこの手伝いを当然だと考えてはいけません。
子どもの行動に、当然やあたり前はありません。
「ありがとう」と役立ったことへの感謝の気持ちを伝えましょう。
こうして親から感謝される体験を通して、子どもは
「自分も家族に役立っている、自分も家族のなかに居場所がある」
ということを学びます。
考えてみれば、人間の成長は家族に居場所を見つけ、学校に居場所を見つけ、さらには社会に居場所を見つけていくことにあります。
子ども達が学ぶ最初の居場所が家族であり、学校であるのです。
親や学校の先生がもし子どもに失望し、家族やクラスの厄介者と感じることがあると、子どもはひどく傷つきます。
自分の居場所を見失います。
子どもはこの時混乱した不安定な精神状態になります。
そして立ち直ることが困難になります。
どんな子どもでも、子どもの可能性のなかには、常に良いものがあります。
我々はどんなときにも、子どもの可能性を信じている必要があります。
自分が他人から役立つ人間だと評価されて初めて、人は自分の可能性を信じることができるのです。
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親と子が互いに尊敬し合える関係を作り出す
最近の子ども達はストレスの多い世界に生きています。
文明の進歩はもしかしたら人間の能力の限界を超えて発展していっているのではないかとさえ思われます。
家族のあり方も離婚や不倫の問題を含め多様化してきています。
一つの倫理で論じることができない時代です。
女性の社会進出も目覚ましいものがあります。
このようななかで、子ども達もまた変貌を遂げているのです。
「人に迷惑かけなければいいじゃない」という言葉を、子ども達はよく使います。
もちろんこの考え方は悪いものではありません。
しかし、これは他者との消極的な関わりであるにすぎないのです。
環境が何であれ、積極的にそれを人類に役立つものへ変えていくことに参加する子どもこそ、いま、私達が育てたり教育していかなければならない子どもであると思います。
子どもが自らの力で行動を決断できるのだと、信じることが必要です。
すなわち、私達はどもだからという考えを捨て、子どもと対等の関係を作り出していくことが必要です。
そのためには、私達が大人の関係のなかで行っている関係を、子どもとの関係でも行うことが必要ではないでしょうか。
大人の関係では使わないコミュニケーションを、子どもとの関係で使うことは、それ自体が子どもを大人とは違う、大人に従うべき者という差別をしていることになるのではないでしょうか。
私達は職場で同僚に
「馬鹿、何やってんだ。早くしろ」
とか
「もっと素直に言うことを聞かなければダメじゃないか」
などの言葉かけをするでしょうか。
めったにしないと思います。
それなのに子どもとの関係のなかでは、日常茶飯事として、これらの言葉が使われます。
子どもだからいいのだというのは、それだけで差別であると考えるべきではないでしょうか。
子どもとの相互尊敬をどのように作っていくかに、大きな比重を置くべきだと思います。
そしてこのことはもっとも大切な子育ての原点でもあるのです。
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子ども達の勉強の悩み
大人になり、社会に参加し、何らかの仕事を引き受けるためには、勉強をマスターしなければならないという課題が、子ども達を待っています。
現代社会が複雑になるに伴い、子ども達が求められる課題はますます複雑になってきています。
義務教育課程である中学生の数学をすらすら教えられる親の数は少ないだろうと思います。
文部省も子ども達にゆとりを持たせるために、現在のカリキュラムの三割近くをカットし、体験を重視した総合教育にしようとしています。
そのくらい難しい内容の勉強をいまの子ども達は求められています。
また受験をめぐる偏差値が子どもの評価にとっての大きな物差しになっています。
偏差値が高い子が頭のいい子だとなってしまうのです。
頭のいい子というのは、知識の豊かな子どもというわけでもありません。
子ども達の間に、マニュアル人間が増えています。
子どもはマニュアルがあるときは、上手にものごとを処理します。
しかしマニュアルでは処理仕切れないような状況に直面すると、どう対処していいか迷ってしまいます。
本来の賢い子どもは、いざというときに上手に新しい発想を持ち込むことができる子どもです。
知恵のある子どもだと言えましょう。
しかしながらいまの教育のなかでは、すなわち偏差値が最終的なところでものを言う教育のなかでは、なかなか賢い子どもを育てることができないのです。
勉強の挫折が不登校の原因に
不登校という現象が子どもやその親を苦しめています。
この不登校の子どもと話していると、彼らがとても自分の成績に悩んでいるのがわかります。
また不登校のきっかけに、勉強の挫折ということがよくあります。
いまの子ども達が、いかに勉強に、言いかえれば自分の成績にこだわりを持っているかがわかります。
交友の課題とも関係するのですが、子ども同士は真の仲間になれない構造に組み込まれているのです。
友人は競争相手であり、常に比較されるライバルでしかないのです。
成績のみに自分の価値を置いている子どもがよくいます。
しかし成績で常に優位に立ち続けるということは難しいことです。
挫折をどこかで経験することになります。
勉強のみに自己評価の根拠を置いている子どもは、成績が思わしくなかっただけなのに、自分の全てがダメになったと錯覚してしまうのです。
この挫折は成績にかわりうるものを持っていない子どもにとっては、深いものになっていきます。
かつての成績の良かった自分、満足していたそのときの自分をいつまでも美化し、現実の自分を嫌っていくのです。
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いじめを傍観する子ども達
いじめという問題があります。
これも基本的には交友の問題でもあるのです。
いじめは相変わらず陰湿に子ども達の心を傷つけています。
いじめられた子ども達が、一番心を傷つけられるのは、傍観者によってです。
「自分はいじめているわけではなし、いじめられている子もいじめている子もどっちもどっち」
いう発想が、傍観者にはあります。
この発想は、いじめられている子どもの心をひどく傷つけるのです。
あるいじめられている中学一年生の男の子が言っていました。
「いじめる子は頭にくるけど、奴らは悪だから仕方がない。
一番ショックなのはクラスのほとんどの子どもが、自分がいじめられているのを知っているのに、見て見ぬ振りをしていることだ。
他の子ども達が自分の味方でないことに強いショックを受けた。
別に助けてくれって思っているわけではない。
でも一言二言声をかけてくれてもいいんじゃないの。
いじめられていても平気で通りすぎていくクラスの子ども達を見ていると、誰からも助けてもらえないほど俺は魅力のない人間なんだという気持ちになってしまう。
それが一番つらいんだ」
と悲しそうに話をしてくれました。
危機に陥ったときに、初めて自分の仲間内の評価に気がつくのです。
いじめられることもつらいが、それを傍観されることはもっとつらいのです。
このように現代の子ども達の他者への関係の持ち方は、できるだけ精神的な関わりを最小限にするという希薄さが目立っています。
付き合いの価値基準が常に自分になく、他者に向いています。
現代の子ども達も、一見個性にあふれているように見えます。
しかし現実にはどうでしょうか。
同じチェックのマフラーを同じスタイルで首に巻いている女子高校生が、渋谷や新宿を閥歩しています。
個性の一かけらもありません。
また、いまの子ども達はあまりにも遊ぶ時間がなさすぎます。
子ども達の下校の時間に門のそばで子ども達を観察してみればすぐにわかります。
多くの子ども達が、その日の遊び相手を求めて必死に「今日、遊べないか」と友達を求めています。
それでも、多くの子どもは塾があるからとか、お稽古事があるからとか言って断られています。
最近はこういう子どももいなくなるほど、遊ぶことが少ないとも言われています。
かつての子ども達のように、夢中になって身体を動かして遊ぶことが困難になってきています。
子ども達の運動能力も落ちていると言われています。
ファミコンやテレビなどのように、バーチャルリアリティ(仮想現実)の世界で、遊びを楽しむ子どもが増えています。
しかしこれらの遊びは与えられたお仕着せの遊びなのです。
レディーメードのものであり、自発的な知恵や工夫を学ぶ機会を持つことができないのです。
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交友関係が子ども達のストレスになる
子どもの交友関係にも、また、様々な問題が発生しています。
心配なものの一つに、子ども同士の関わりの薄さがあります。
人と関わることのおっくうさを訴える子ども達が多くなってきています。
「自分一人でいるときが一番楽だ」、「友達と遊ぶと相手に気を使い疲れてしまう」
という子どもが多くなっています。
ある小学五年の女の子が言っていました。
彼女のクラスの女の子は毎日違った洋服を着てくるそうです。
彼女も気をつけて前の日と同じ洋服は着ないようにして登校していました。
ある日、お母さんの具合が悪く、弟の世話をしていて学校に遅刻しそうになりました。
あわてて前の日のセーターを着て、急いで登校しました。
幸い遅刻はせずにすみました。
ほっとしていると、早速クラスでもリーダー格の女の子がやってきました。
ちょっとした雑談の後、
「もしかして、このセーター昨日着てきたのと同じものじゃない?」
と聞いてきました。彼女は真っ赤になりながらも
「違うよ。似ているけど、これ別だよ」
とかろうじてその場をごまかしました。
でも相手の女の子は
「よく似てるわねー。色や柄がそっくりだわよ。こういうのがあなた好きなの」
と聞いてきます。
彼女はとても恥ずかしい思いをしました。
それからしばらくして、彼女の不登校が始まりました。
彼女のように最近の子ども達は過剰に自分を相手に合わせてしまう傾向があります。
たぶん彼女も
「今朝お母さんの具合が悪くて遅刻しそうになったので、同じ洋服を着てきたの」
と話してもそれでどうのということはなかったと思います。
しかしクラスの雰囲気が許してくれない感じにさせるのです。
この心理の裏には相手に嫌われることを恐れている子どもの心があるのです。
同じ仲間と言っても決して心を許せる相手ではなく、自分が嫌われないために、相手の調子に合わせた仲間関係がかろうじて成立しているのです。
本当に理解し合った仲間ではなく、表面的な仲間でしかないのです。
子ども達は当然のことながら仲間はずれにされることを一番恐れています。
どこかの仲間集団に所属することを第一義的に考えるのです。
子ども達のストレスは予想以上に仲間から起こってくるのです。
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親と子双方の自立
「思春期の子育てとは、親と子双方の自立のためのたたかいでした」
というのは、一人娘の非行に苦しんだ母親・山科(仮名)さんです。
子を縛りつけていないか
「ひとりでは、どこにもいけないような内気な子」と思っていた中学二年生の娘の突然の家出。
三日目に警察に保護されましたが、その日を境に、かけがえのない一人娘は別人のように変わってしまったのです。
「わたしは、あんたたちのペットじゃない」
警察に引き取りにいった両親に、彼女はそういい放ちました。
親にたいするはじめての反抗です。
以来、喫煙、無断外泊、不純異性交遊といった非行を重ねることになります。
思いあまって、はげしく殴打したこともあります。
子どものまえに手をついて、泣いて頼んだこともあります。
しかし親が一生懸命になればなるほど、娘は親から遠ざかっていきました。
「ときには、子どもを突き放すことも必要です」
学校の先生はそういって、
・門限を八時と決め、その時刻が過ぎたら家に入れないこと、
・相手がこちらを親として扱うまで、金はピタ一文あげないこと、
・子どもには、いっさい期待しないこと
の三つのことを、親が断固として実行するように助言しました。
子煩悩の山科さん夫婦にとって、これは至難なことでした。
紆余曲折はありましたが、二人は心を鬼にして実行しました。
一八〇度転換した親の態度に、娘は一時は狂ったように母親に暴力をふるったりしましたが、親の姿勢が本物であることを知ると、しだいに態度を改めるようになりました。
そして山科さんも、
「高校を卒業したら就職して、アパートを借りて独立したい」
という娘に、
「あなたの人生は、あなたが決めること。
独立するということがどういうことか、あなたが本当にわかっているのなら、あえて反対はしません」
といえるほどに、わが子を客観視できるようになりました。
この山科さんの例は、少し重度の非行に走った子どもという特殊なケースではありますが、巣立ちを控えた思春期の子どもにたいする親のあり方を、教訓的に教えています。
ところで、門限の時刻が過ぎたら家に入れないというやり方について一言ふれておきたいと思います。
この山科さんの場合、子どもの性格や親子関係、そしてこれまでの経過をよく知る先生のアドバイスだったわけですが、このやり方がどの子にも通用すると考えたら困ります。
締め出されたことをいいことに、平気で夜遊びしたり、外泊するようになるケースもあるからです。
事実、門限に遅れた高校一年生の娘を締め出した結果、友だちと二十四時間営業のレストランで過ごし、以来朝帰りも平気でするようなことになってしまったという話があります。
子どもへのきびしい叱り方で「出て行け」が通用したのは、もうかなり昔のことではないでしょうか。
いまでは、家から締め出されても、子どもが一晩や二晩過ごすところぐらいはいくらでもある世の中です。
原則的にいえば、「出て行け」といったり、門限を破ったからといって締め出してしまうようなやり方はすべきではありません。
山科さんの場合は、これまでの親子の関係をじゅうぶんに考慮に入れたうえでのことだったのでしょうが、
生半可な態度ではなく、腹をくくって親の真剣な姿勢を示すことで子どもの目を覚ますことに成功したのです。
ところで、すでに故人となった評論家の古谷綱武氏は、子どもが親の所有物とみなされていた昔は、「子どもはもっとも安価な投資による確率の高い老後保障であった」といいました。
しかし、親と子の別居が当然のように考えられている今日では、親は高価な投資をしたうえに、子どもにおもねる形で依存するようになったように思います。
子どもを有名校に入れることに懸命な親が少なくありませんが、
このような親にとって子どもとは「エリート」という血統書付きの愛玩動物にすぎない、
といったらいいすぎでしょうか。
そこまでいかなくても、「愛情」という名の親のエゴイズムによって、自立のための翼を切りとられた「手乗りインコ」のような子どもが、多くなっているのも事実です。
山科さんの娘は非行という形で親からの逃避を図ったと見るべきでしょう。
子育てを楽しむ親の気持ちが子どもに伝わる
「何十年も子育ての楽しみを与えてもらったのですから、これからは子どもも親も、それぞれに自分の人生を生きていきます」
子どもが幼いころに夫と離婚した森村(仮名)さんは、大学生になった一人娘の子育てをふり返って、次のように語りました。
「子どもに依存せず、つねに親として自立しつづける努力をしたからこそ、子育てを楽しむ心のゆとりができたのだと思います。
子育てが楽しいという親の気持ちは、黙っていても子どもに伝わるでしょうが、わたしはおりにふれ、子どもが好きなこと、子育てが楽しくて仕方ないことを話して聞かせました。
子どももそれにこたえてくれたように思います。おかげで、娘はのびのびと育ちました」
つねに子どもとともに成長する母親でありたいと念じてきた森村さんは、いまも娘といっしょに、ラジオで英会話や古典の勉強をしたり、読書をしたりしています。
この森村さんのような親の姿勢こそ、危機の年代といわれる思春期の子育ての基本ではないでしょうか。
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母親の役割
父親不在の家庭のなかで、取り残された母と子が、異常なまでに密着しているという、現代のわが国の一般的な家庭構造ついては、以前に述べました。
そして、登校拒否、家庭内暴力といった問題は、子ども自体の問題というより、このような家庭構造や親子関係に根をもつ、現代の病理現象であるということについても、以前に述べたとおりです。
子どもだけが生きがいになってしまう母親
思春期が「第二の誕生」と呼ばれるのは、子どもは、それまでの親依存の自分から、自立した自分へと脱皮をはかるからです。
このように子どもの発達を、依存・自立という関係でとらえるとすれば、思春期問題というのは、基本的には親子関係の問題です。
そして、伝統的な子育ての方法からすれば、物理的にも心理的にも、子どもとの距離がもっとも近い母親に課せられた大きな課題でもあります。
「なんのためにきょうまで苦労して子どもを育ててきたのかわからない」
と嘆くのは、子どもの反抗に悩む母親・陣内(仮名)さんです。
陣内さんの家庭は、実直なサラリーマンの夫と、中学二年になる一人娘の三人家族。
陣内さんは、子どもが小学三年生までは専業主婦でしたが、住宅ローンの返済と、子どもの教育費の足しにと、パートで働きに出ました。
「夫の出世と子どもだけが生きがい」と、はばからずにいう陣内さんは、子どもの教育には異常なまでに情熱を傾けてきました。
四歳からピアノと英会話を習わせ、小学校に入学してからは学習塾にも通わせました。
したがって、小学校での成績はつねにトップクラスでしたが、中学に入ったころから、そういう生活に疑問をいだくようになった娘は、母親への反抗から、勉強をしなくなりました。
「わたしには子ども時代がなかった」
という彼女は、口やかましく干渉する母親とことごとに衝突します。
二年生の夏休みに男の子からきた手紙を、母親が盗み見たことが知れて、もう一カ月以上も母親と口をきかない状態がつづいているというのです。
思春期は親子の分離が始まるとき
親が子どもを生きがいにするのは当然のこととしても、「母子一体化」といわれる状況は、「子どもだけ」が生きがいとなってしまうところに、母子双方の悲劇の原因があるのです。
子育てというのは、子どもの自立を助ける営みであるとするなら、親と子は、やがて分離する運命にあるのです。
そして、思春期というのは、親子の分離が始まるときなのです。
子どもは、親のいいなりになっていたそれまでの自分を否定し、親の指図や干渉をきらい、独立した人格として扱うことを要求し始めます。
日常的な生活場面で子どもと接する母親は、子どもにとって、とかく口やかましい存在となるのは、いたしかたないことです。
「さっさとやりなさい」
「そんなことをしてはいけません」
「テレビばかり見ていないで勉強しなさい」
といった調子で、母親は命令・禁止・拒否のことばを使う場面が多くなりがちです。
しかし、それも思春期まえまでのこと。
いつまでも子どもあつかいされたくないと願う思春期の子どもには、逆効果になるということを親は知らなければなりません。
静岡県教育委員会の調査によれば、中学生の親への希望(選択数自由)の第一が、父母とも「あまり口やかましくいわないでほしい」となっています。
そして、口やかましいのは母親の方で、
父親の二〇・三パーセントにたいして、母親が四七・七パーセントとなっています。
「あまり子どもあつかいしないでほしい」というのも、父親(=・五パーセント)より母親(一五・二パーセント)のほうが多くなっています。
子どもの親離れという課題は、親の子離れにかかわる問題だといっても過言ではありません。
記録映画『キタキッネ物語』に、動物としての生存の本能から、母ギツネが一人前に成長した子ギツネを、いまにもかみ殺さんばかりの剣幕で追い出すシーンがありました。
まさに凄惨ともいうべき子別れの儀式です。
思春期の子どもの親にたいする反抗は、キタキッネとは逆の子別れ(規別れ)の儀式なのかもしれません。
しかし、「夫と子どもだけが生きがい」という陣内さんのように、精神的に夫と子どもにまったく寄りかかってしまうような生き方は、
子どもが自立の時期を迎えても、親の子離れができないために、子どもの自立を妨げることになります。
母親像の変化
昔から母親というのは、なにより子どもの成長を生きがいとし、子どものために苦労して老いていてものと考えられていました。
でも、近年、工業化社会における核家族化によって封建的な��家″は解体し、家庭の主婦はわずらわしい人間関係から解放されました。
また、職場と住居が分離することによって、主婦の多くは生産労働にたずさわらなくなりました。
また、計画出産による子どもの数の減少と、家庭電化製品の普及などによる家事の合理化によって、母親は自由な時間をもてるようになりました。
その結果、母親像もさまざまに変化しつつあります。
やや類型的にすぎるきらいはありますが、話をわかりやすくするために、現代の母親像を次の三つのタイプに分類して考えてみたいと思います。
(1)主として母であることに生きがいを見いだすタイプ
(2)主として女であることに生きがいを兄いだすタイプ
(3)母であることと、女であることを統一的に生きるタイプ
現代の母親像3つのタイプの特徴
第一のタイプは、伝統的な母親像の継承者です。
先の陣内さんのように、夫に依存しながら子どもの母であることを生きがいとするような母親は、伝統的母親そのものです。
しかし今日、夫は経済的依存の対象ではあっても、精神的依存の対象となりえていないために、子どもだけを生きがいとするような母親が多くなっています。
子どもの数が少ないということも、母親の子どもへの関心を、より強くしている原因の一つです。
さらに、学歴社会、受験体制という日本的風土のなかで、伝統的な母親たちの多くは、子どもを受験戦争にかりたて、子どもの成績に一喜一憂する「教育ママ」となりました。
いずれにしても、妻であり母であるまえに、ひとりの女として自立する自分をもたないために、なかなか子ども離れできない母親です。
それにたいして、第二のタイプは、女として自立しているかどうかは別にして、女であろうとすることによって、親としての任務を軽んじ、ときには放棄する自己中心的な母親家庭生活と親子関係です。
女としての自己の欲望や幸福のために、夫と子どもを置き去りにして蒸発したりする母親などは、その典型といえるでしょう。
また、そこまで極端に走らなくても、子どもを放置してスナックやカラオケ・バーを遊び歩く母親も多くなっています。
中学二年の洋子(仮名)が、両親の留守中のマンションに男女数人の友だちを泊め、シンナー遊びと不純異性交遊で警察に補導されました。
母親にいわせると、父親は「真面目だけが取りえのうだつのあがらないサラリーマン」で、人のいやがる仕事を押しつけられるため、長期の出張も多く、休日も上司にゴルフの相手をさせられるといったぐあいで、ほとんど家にいることがありません。
母親は、そんな夫を「なんの面白みもない人」といって、子どものまえでも他人のまえでも平気でけなします。
事件のあった夜、父親は出張中で、母親は小学校時代のPTAの役員仲間と二泊三日の旅行に出ていたのです。
母親は、それまでにもなにかと口実をつくっては、夜遅くまで飲み歩くことが多く、深夜の帰宅もしばしばでした。
洋子もまた、親の留守をよいことに、夜遊びや外泊をするような生活だったのです。
現代の母親像の三つめのタイプは、「母であることと、女であることを統一的に生きるタイプ」です。
職業婦人であり二児の母親である竹田さんは、労働組合婦人部長、職場のうたごえ運動、地域の「子どもと教育を守る会」代表など、様々な活躍をする婦人活動家です。
夫は公立高校の教師で、やはり熱心な組合活動家です。
ですから、子どもが小さいころは、勤めが終わると保育所に子どもを引き取りにいき、そのまま夜の会合の席へ連れて行くようなこともしばしばでした。
ときには父親が家に連れ帰って、子どもに食事や入浴をさせ、母親の帰りを待つこともありました。
「夫の協力があったから、ここまでやってこれたのです。
おかげさまで、子どもはグレもせずどうやらまともに育っています」
そういう竹田さんが、仕事と子育てを両立させるために心がけたことは、次の二つだといいます。
一つは、子どもは親の後ろ姿を見て育つなどと安易に考えず、親子のふれ合い、対話を大切にすることです。
保育所から連れ帰ったわずかな時間、家事をしながら子どもとのふれ合いの機会をつくる努力をしました。
そして、子どもが物心つくようになってからは、おりにふれて両親の仕事について話し、理解を求める努力をしたといいます。
竹田さんが心がけたことの二つめは、
子どもにさびしい思いをさせてかわいそうだからと甘やかすのではなく、自分のことは自分でするようにしっけると同時に、子どもにも家事を分担させ、大胆に子どもを頼りにしてきたことです。
上の子が中学生になったころには、炊事、洗濯などだいたいの家事は二人の子どもでやれるようになっていたといいます。
「家に帰って子どもたちと話し合うのがなによりの楽しみ」
と語る竹田さんは、子育てにとって共働きはたしかにきびしい条件だが、子どもを大切にする気持ちさえあれば工夫の余地はいくらでもある、と自信をもって話します。
そんな竹田さんを、母親としても、女性としても尊敬するという高校三年生になる長女は、弁護士になることを夢見て、受験勉強に励んでいます。
「女だてらに弁護士なんて」という人もいますが、竹田さんは
「子どもがどんな人生を選ぶかは、子ども自身が決めることです。
たとえ、そのことで子どもが苦労することがわかっていても、子どもがあえてその道を選ぶのなら、親は黙って見守るしかありません。
子どもは親とは独立した別な人格なのですから」
といって、娘のよき相談相手になるように努力しています。
母親がまず親として、女性として自立すること
ところで、
「父親が子どもにとって権威の原体験であるとするなら、母親は愛の原体験である」
というのは、社会学者の山村賢明氏です。
稲村博氏も
「母性というのは、元来は情操豊かなやさしさや思いやりのことである」
といいます。
しかし、包み込むような母親の愛情もうっかりすると子どもの自主性を阻むことになりかねません。
とりわけ思春期の子どもにたいする親の愛情の基本は、子どもを親とは相対的に独立した一個の人格として認め、子どもの自主性を尊重して暖かく見守ることです。
とかく母親というのは、子どもをいつまでも小さな子どもとして扱い、子どもを独立した人格として見ることができないという傾向があります。
子どもをいつまでも自分のひざの上に置こうとするのは、子離れできない母親の自己満足です。
かかえ込むことだけが親の愛ではありません。
ときには子どもをきびしく突き放して見ることも、親の愛であることも知らなければなりません。
なぜなら、子どもはやがて親の庇護から解き放されて、自分の力で生きていく存在だからです。
子育てというのは、そういう子どもの自立を助ける営みです。
思春期は悩みの多い時代です。
しかし、子どもの悩みを親が代わって悩んでやることはできません。
悩み苦しむ子どもの姿を黙って見守る母親の存在が、子どもにとって大きな心の支えとなるのです。
思春期の子どもと母親の関係は、そのように一定の距離を置いた関係でなければなりません。
そして、そのような親子関係は、母親が親としても女性としても自立していることにより、はじめて可能となることなのです。
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父親の役割
家庭内の父親不在はかなり一般的な現象
非行対策として、父親の出番が待たれているばかりではありません。
思春期というのは、それぞれ男として女としての自分を完成させていく時期ですから、男の子にも女の子にも、男性としての父親の存在がたいへん重要な役割をはたす時期なのです。
しかし、とまどう父親が意外と多いのではないでしょうか。
日ごろなにかと仕事に追われて子どもと疎遠になりがちな父親は、ニキビ面にうっすら口ヒゲさえ見える息子や、からだ全体から女を感じさせるようになった娘に、
他人のようにヨソヨソしい態度をとられたりすると、すっかりとまどいを感じてしまいます。
ですから、せめて学校の参観日ぐらいは、日ごろの罪はろぼしのような気持ちで、いそいそと学校に出かけて、お茶をにごすということになるのです。
そのような父親たちになにかもどかしさを感じるのは、ひとりわたしだけではないはずです。
子どもや教育の問題を話し合っても、変にさめたところがあって、子どもの教育にはたいへん熱くなっている母親たちのようには、燃えてこないのです。
家庭内暴力の背景の一つに「父親の無力化」があるという総理府の調査がありますが、これは必ずしも家庭内暴力にかぎったことではありません。
「父親不在」「父権喪失」などといわれるように、かなり一般的な今日の家庭の問題としていわれていることでもあるのです。
叱るべきときに自信をもって叱れない父親
高校一年の長女の非行に悩む母親・兵藤さん(仮名)は、まったく非協力的な夫に絶望して、離婚も考えているといって相談にみえました。
仕事一筋の生真面目な夫で、子どもが二人とも女の子という女性優位の家庭のためか、それまでにも比較的控えめにふるまっていたといいます。
中学三年になった長女に非行の兆しが見えたころから、あきらかに子どもとのかかわりを避けるようになりました。
ひとりで気をもむ母親は、娘の顔さえ見れば口うるさく文句をいうので、しだいに母と子の関係は険悪な状態になっていきました。
そればかりか、父親がなにもいわないことをいいことに、彼女の非行はますますエスカレートする一方です。
高校生になってからは暴走族の少年とつき合うようになり、深夜の帰宅もめずらしくありません。
「子どもが道を踏みはずそうとしているときに、きびしく叱ってくれる威厳のある父親であってほしい」
と兵藤さんは、嘆息します。
この事例の場合にかぎらず、とかくヒステリックな対応になりがちな母親に、ブレーキをかけるのも父親の役目です。
ところで「無力な父親」というのは、このように子育ての責任を回避する父親ばかりではありません。
非行グループに入り、夜遊びを繰り返す中学三年の息子の指導に悩むのは、PTAの役員も買って出た自営業の堀さん(仮名)です。
夜中に先輩のアパートでマージャンをやっている現場を見つけて連れ戻そうとしても、
「みっともねえから、こんなところまでくるな」
と興奮してわめく息子に、なすすべもなく引きあげてしまう父親です。
柔道三段だという堀さんは、力ではまだまだ子どもに負けません。
それでも、毅然として親としての指導をつらぬくことができないでいるのです。
このような、父親の弱い家庭に、家庭内暴力や非行などの問題が多いというのは事実です。
ですから『スパルタ教育』(石原慎太郎著)、『ゲンコツおやじ教育論』(近藤啓太郎著)などという本が書かれたり、「カミナリオヤジの会」が結成されたりするのです。
たしかに、しつけにはある種のきびしさが必要だということは否定できません。
しかし、下手に子どもを殴れば、昔、川崎市で起きた事件のように金属バットで寝込みを襲われかねないご時世です。
「ゲンコツおやじ」や「カミナリおやじ」が、はたしてどこまで通用するか考えものです。
夫婦関係に問題がある場合も
現代家庭の特質は、「父親不在」と「母子一体化」だといわれます。
まえに述べた兵藤さん(母親)の家庭などはその典型です。
父親(兵藤さんの夫)は、仕事一筋といった「会社人間」です。
朝早く家を出て、夜は深夜の帰宅もしばしばです。
兵藤さんは、あてどなく夫を待つ生活にしだいにむなしさを感じるようになりました。
「子どもがいなかったら、とっくの昔に離婚しています」
という兵藤さんは、夫によっては満たされない心の空洞を、子どもによって満たそうとしました。
そして勉強にはきびしいが、しつけに甘い母親となりました。
子どもたちは小さなころから、塾や稽古事に追い立てられる毎日でした。
上の娘がグレたのは、そんな母親にたいする反発でもあったのです。
親子関係の問題は、このように先に夫婦の関係に問題がある場合が少なくありません。
子どもと生活をともにすることもほとんどないうえに、たまに家にいて見せる姿は、きびしい労務管理と俄烈な出世競争に心身を消耗している「くたびれたおとな」の姿です。
そんな父親が、子どもにとって影のうすい存在になったとしても不思議ではありません。
子に見せるべき後ろ姿をもたぬ父親
子どもにとって「父親は伝統的に影のうすい存在」であったというのは、社会人類学者の中根千枝氏です。
伝統的社会にあっても、家族の生計を支える労働に主として携わる父家庭生活と親子関係親は、子育てには直接関与しませんでした。
そのうえ家庭でともにいる時間が圧倒的に長い母親に比べて、影のうすい存在であったとしても当然です。
それでも伝統的な社会(農業などの第一次産業が中心となっていた社会)においては、父親は権威ある存在であり、母親は父親の権威を背景として子どもをしつけることができました。
しかし、高度に工業化した現代の社会では、多くの家庭は職場と住居が分離し、父親の働く姿があまり見られなくなりました。
父親が「伝統的に影のうすい存在」でありながらも、権威ある存在でありえたのは、父親の働く姿が見え、子どももなんらかのかたちで、その父親の労働に参加する機会があったからです。
「子どもは親の後ろ姿を見て育つ」といいますが、いま多くの父親は、子に見せるべき後ろ姿をもたないのです。
そうだとすれば、親はその労働について、子どもに語って聞かせる必要があるでしょう。
そして、母親も側面から父親の権威を支えることが必要です。
しかし、夫に失望している兵藤さんのような場合には、
母親が子どものまえで父親をけなし、父親の権威をますます下げてしまう結果となることが多いようです。
中根千枝氏は、伝統的社会における父権確立の基礎条件として、「父の仕事を息子が継ぐこと」と、「家庭の構成人数が多いこと」をあげています。
子どもの非行に悩む父親・堀さんは、工務店の経営者で、父親の働く姿は比較的見えるほうです。
しかし、息子には父の仕事を継ぐ意志はありません。
現代のように技術革新がいちじるしくなく、息子が家業を継ぐのが当たりまえであった時代には、子は父から多くのものを学ばなければなりませんでした。
したがって、父親はつねに優位に立つことができたのです。
「権威とは、ある一定の距離が保たれなければならない。
小家族では、あまりにも父親は卑近な存在でありすぎる」と中根氏はいいます。
子煩悩だという堀さんは、ひまさえあれば子どもの遊び相手になるような父親です。
今日、子どもの数が少ないということも、いたし方のないことです。
子どもと友だちのように遊ぶということもけっして悪いことではありません。
だが、堀さんの場合は、「時代が違う」といって、叱るべきこともきちんと叱るということをしないために、ただ子どもを甘やかすだけになってしまったのです。
父親として大切なことは、子どもと友だちのように接するやさしさと同時に、善悪の判断や生きることのきびしさを、ときには妥協を許さないきびしい態度で示すことです。
それは子どもに身勝手な甘えを許さない、親としての「一定の距離」を保つことになるのです。
男の子は父親に競争心をもつ
フロイトによれば、ある時期(六歳前後)、子どもは異性の親にたいして性愛に近いような愛着をもち、同性の親にたいしては競争心をもつようになります。
男の子の場合、母親を異性として強く意識し、そのために父親を嫉妬し、恐れるようになるというのです。
フロイトは、運命のいたずらから、結果として父を殺して母をめとったオイディプス王のギリシャ神話によって、オイディプス・コンプレックスと名づけました。
そして男の子には、父親の男としての面と自分の男としての面が共有されて、男性同一化が起こります。
父親に負けないように自分を成長させて、結局父親のようになるということをとおして、父親をのりこえていくというのです。
親子の関係が、フロイトの指摘するほど、性的なものに結びつけられるものかという意見もあります。
しかし、今日的な親子関係のゆがみの典型として指摘されている母子の近親相姦が、近年多くなっているという事実は、フロイトの指摘を全面的に否定できないことを物語っています。
母子相姦を取材した朝日新聞記者・川名紀美の報告(『密室の母と子』)によると、
東京・新宿にある「ダイヤル避妊相談室」が一九七八年十月から一九七九年九月までの一年間に受けた近親相姦に関する相談は、全部で四百十二件。
そのうち母子相姦についての相談は、百十件もあるのです。
その百十件のケースのうち、父親のいない母子家庭が六十二ですから、父親がいても母子相姦が起こっているケースは、かなりの数になります。
川名さんは、その背景として「無力な父親像」をあげています。
父親の精神的不在が子に与える影響
今日、父親たちの多くは、勤め、出張、残業、あるいは仕事上のつき合い、単身赴任など、たしかに家庭にいる時間が少なすぎます。
しかしわたしは、仕事による不在はそれほど決定的な問題ではないと思います。
ゴルフやマージャンなど、父親自身のレクリエーションやくつろぎを主に外に求め、子育ては母親任せで、傍観者的態度をとるような精神的不在のほうが、より子どもにおよぼす影響が大きいのではないでしょうか。
父親にも子育ての責任があるといっても、必ずしも母親のように日常的に子どもと生活を共有し、日常的な生活レベルのしつけに責任をもつということではないでしょう。
長年、労働組合の役員をしている石井さんは、帰宅は夜の十時、十一時という毎日です。
しかし、どんなにくたびれていても、受験勉強で遅くまで起きている息子(中三)の部屋までいって、「がんばってるな」「からだをこわすなよ」と声をかけることを心がけています。
ときには、「どうだ、一服しないか」と居間に呼んで、お茶を飲みながらひとときの団らん欒をもつこともあります。
「接触する時間が少なくても、いつも自分に親としての関心をはらっていてくれるという実感が子どもにあれば、親子の断絶なんてありません。
ですから、叱るべきときは自信をもって叱っています」
石井さんは、胸を張ってそう語ります。
叱るべきときに自信をもって叱る。
子どもは、そういう確信に満ちた態度を頼もしいと思い、そういう親に権威を感じるのです。
父親は子どもにとって、頼りがいのある頼もしい存在でなければなりません。
頼りがいのある父親とは、たんに一家を支える稼ぎ手であるというだけではありません。
ときにはきびしく、家族のだれかが困ったときや家庭に問題が起きたときは、
「大丈夫だ、お父さんがいるから心配するな」
と胸を張って、全力でその解決に当たる父親です。
社会人としては、政治や社会のことに通じ、人生の先輩として自らの生活経験をとおして、社会のあり方や人間の生き方について、見とおしをもって語ってくれる父親です。
自我を確立し、自立をめざす思春期の子どもは、そのような父親を必要としているのです。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
反抗と自己主張について
思春期は、この時期の特徴から、一般的に第二次反抗期と呼ばれていることはよく知られていることです。
しかし、思春期が親子関係にとかく乳轢を生じやすい時期であることを認めても、反抗期などというものはないという人もいます。
わたしは、ここで反抗期といういい方が妥当かどうかを論ずるつもりはありません。
ただ、わたしもこの時期の子どもの問題を、反抗期といういい方でかたづけてしまう親の対応の仕方には、危惧を感じます。
子どもというのは、親の胸を借りて自己をきたえ、息子は父をのりこえて一人前の男になること、娘は母をのりこえて一人前の女になることが思春期の課題です。
そのために、子どもは親にたいしてある種の闘争をいどみます。
理屈を並べて親をへこませようとしたり、親のいうことやすることの矛盾を鋭く突いたりします。
親の干渉をきらい、口をきかないとか、親のいうことを無視するという、物理的抵抗を示したりもします。
このような子どもの言動は、独立要求からくる自己主張の現れです。
親心としてやっかいなことには違いありませんが、客観的にはむしろ健全な発達の姿なのです。
それを、「反抗」として「親に口答えするな」と一喝するやり方で抑えつけてしまったら、子どもは自立のための自己主張を封じ込められてしまいます。
このような一喝主義が子どもの自我を抑圧して、自己表現のない萎縮した性格の子にしてしまうか、
あるいはそのはけ口を母親に向けて、それこそはげしい反抗を示すことになるのです。
また、「反抗期なんだから、適当にあしらっていればいい」という態度や、「掛れものにさわる」ようなあつかいも、子どもの正常な発達を妨げます。
いずれも子どもの自己主張を正面から受け止めて、親が胸を貸すという態度ではありません。
子どもの気持ちとしては、親に一人前の人間として扱ってもらえないという不満が残るだけでなく、子どもの身勝手な言動をも放任することになりかねません。
親の態度として大切なことは、情緒的にも不安定なこの年代の子どもの特徴をよく知ったうえで、子どもの言動に過敏に反応するのではなく、ゆとりをもって受け止めることです。
親のヒステリックな対応が、子どもの自己主張を反抗的なものにしてまう、というケースが多いのではないでしょうか。
親も自分の間違いを指摘されたときは、率直に認めるいさざよさをもつと同時に、子どもの身勝手ないい分や、親への無理解からくる主張には、きびしくやり返すことがあってもいいのです。
そうすることによって、子どもは自分主義という幼児性を克服していくのです。
結果として親子げんかになったとしても、そのことで親子関係をそこなうなどと恐れることはありませ人。
こどもが「死んでやれ」などという感情をいだくのは、こどもの主張に耳を傾けようとしない親の態度や、納得のいかない叱られ方をしたときなのです。
親への反抗は思春期の子どもの健全な姿
親への反発、抵抗、批判などといった反抗期的現象は、親にとってはたいへんやっかいなことですが、多かれ少なかれどの子どもにも見られる、自我の目覚めた思春期の子どもの健全な自己主張です。
しかし、対処の仕方を誤ると、子どもが思わぬ迷路に迷い込む危険性もあるのです。
中学三年生の明男(仮名)が、一学期のはじめにおこなわれた学校での三者面談の席で、いきなり「高校へは進学したくない」といい出しました。
驚いたのは先生と母親です。
教科によってむらはあるものの、けっして悪い成績ではありません。
英語が苦手で、通信簿の成績は「2」ですが、得意とする体育と社会は「5」 ですから、担任の先生も母親も、高校には進学するものと頭から決めてかかっていたのです。
驚いて問い詰める母親に、明男は学校で人間の価値が決まるわけではないと反発しました。
担任の先生も「英語さえがんばれば」と励ましましたが、明男の気持ちは変わりません。
学校から帰って母親は、さっそく父親に話し、二人がかりで息子の説得にかかりました。
「なぜ高校に行きたくないのか」と問い詰めても、
「やれ偏差値だ、やれ内申書だといわれてビクついているようないまの学校の雰囲気がいやだから」
というだけです。
明男の気持ちは、高校に行きたくないというのではなく、どうやら今日の受験体制と、それにふりまわされている中学校教育のあり方にたいする強い反発からきているようなのです。
しかし、両親は「勉強するのがいやだから、そんな理屈をいって」ぐらいにしか受け止めなかったのです。
そして、いまの社会では高校ぐらい出ていなければ困ること、男の子だからできれば大学にも行ってほしいと思っていることを、くどくどと話しました。
だが、そういえばいうほど、明男は
「そういう社会が間違っている。ぼくが間違った社会に合わせる必要はない」
と主張して譲りません。
結局、結論が出ないまま、「よく考えておきなさい」ということで打ち切りました。
それ以来、明男は、親とあまり口をきかなくなり、なにかと反抗的になりました。
肝心の勉強の方も、親の心配をしり目に、陸上部の練習にあけくれて、家ではまったくといっていいほどやりません。
成績は下がる一方です。
業を煮やした父親は、
「受験勉強のつらさから逃げているのなら、親として許さない。
自分の人生を真剣に考えたうえで進学しないというのなら、将来の目標をはっきりと決めなさい」
と、きびしく迫りました。
それにたいして明男は、将来は警察官になりたい、そのために高校卒業の資格が必要なので、定時制高校にいくつもりであると答えました。
かたわらで聞いていた母親は、
「同じ高校でも、定時制では社会に出たときたいへん不利だ」
といって、なんとか息子の気持ちを変えさせようとしました。
しかし、明男は
「そんな社会がおかしいんだ」
の一点張りで、ますます定時制高校進学の意志を固めます。
納得しなければテコでも動かない息子の性格は、両親がいちばんよく知っています。
とうとう父親は、勉強からの逃げでない証拠としてふだんの勉強をしっかりやる約束で、定時制進学を認めることを約束しました。
以来明男は、人が変わったように勉強しだしました。
持ちまえの明るさを取り戻し、親への反抗的な態度もすっかり影をひそめました。
おとなの生活や社会のなかにある不正や矛盾に鋭い批判の目を向け、おとなのつくった常識に反発するのが、この年ごろの子どもが本来もつ特徴です。
変におとなの��常識″の枠にはまったこざかしい子どもが多くなっている今日、明男のような若者らしい純粋さはとても貴重です。
親も教師も、真っすぐな目で社会や学校の矛盾をとらえている明男の気持ちに、どれだけ共感を示せるかどうかが、彼のかたくなな気持ちを解きほぐすカギです。
反抗期だから、子どもはむやみに反抗するのではありません。
反抗と見える子どもの言動の裏側にある自己主張、親への訴えを、しっかり読み取れる親でありたいと思います。
受験体制と偏差値教育に反発して、高校に行かないといい出した明男の成績が、英語だけがとくに低い、と書きました。
人間ですから得手・不得手があって当然ですから、そのこと自体はそれほど心配することではありません。
しかし、他の教科に比べていちだんと劣る教科がある場合、その原因はなにか、親として知っておく必要があります。
やればできるのに、成績が極端に悪いという場合、その教科の先生をきらって勉強しなくなった、という場合がしばしばあります。
明男の場合も、一年のときに、英語を教えた担任の先生とのトラブルに原因がありました。
三十歳を少し出た女の先生です。
一学期の半ば過ぎ、担任の先生から明男の母親に電話がありました。
登校拒否ぎみのクラスの女の子の母親から、その原因が明男にいじめられるためだという抗議が、学校にきたというのです。
明男は、小さなころから活発な子でしたが、よその子をいじめたという話は、一度も聞いたことがありません。
「まさか」とは思いましたが、担任の先生のとがめるような口調に母親は、さっそく先方の家を訪ねて謝罪しました。
そこでも、あれこれいわれましたが、
学校から帰った明男に問いただしても、まったく心当たりがないといいます。
強情だが嘘をついたことのない子です。
母親はさっそく先生に連絡して、よく調べてくれるように頼みました。
その結果、そういう事実はまったくないことがはっきりしました。
女生徒は、口を開けば「勉強」としかいわない母親に反発しての登校拒否でしたが、母親に責められて、口から出まかせをいっていたのです。
しかし、担任の先生は
「ひどいお母さんです。わたしもすっかりだまされました」
といったきりで、一言の謝罪もしません。
「担任としてなんの調べもせず、むこうの母親のいい分をそのまま伝えてくるなんて」
そういって、明男の母親は憤慨しました。
しかし、腹の虫がおさまらないのは、ぬれぎぬを着せられた明男です。
「先生は、どうしてぼくに話してくれなかったのか。それに、間違いだとわかったら、先生だって謝るべきだ」
そういって、よく確かめもしないで先方に謝罪にいった母親にも、くってかかりました。
以来、明男はその担任の先生を信頼しなくなりました。
それでも、まだ学級のリーダーとしてやる気充分だった明男は、なにかと学級の問題について積極的な発言をしました。
しかし、先生の意見とくい違うことが多く、それを先生にたいする「反抗」と受けとられてしまいました。
明男は、そんな先生を徹底してきらうようになり、その先生の教える英語の勉強をまったくしなくなってしまったのです。
かたちとしてはあきらかに「反抗」です。
子どもの自立に胸を貸す心がまえで
親や教師は、このような反抗と見える子どもの言動の裏側にある自己主張を、しっかりと読み取る必要があります。
そして、子どもの主張に対しては、納得のいくかたちで答えてやることが大切です。
明男の場合、親として先生との問題に、もっと真剣に相談にのってやるべきだったのです。
そして、場合によっては、親から子どもの気持ちを先生に話して、先生にも態度を改めてもらうようにはたらきかけをしてもよかったと思います。
子どもの主張には、ひとりよがりや偏見も多くあります。
しかし、それにたいしても、頭ごなしに否定してしまうのでなく、粘り強く話してわからせていくという態度が大切です。
ときには、親子でいい合いになることもあるでしょう。
最後まで意見の一致を見ないこともあるでしょう。
それでも、子どもと正面きって意見をいい合うということが、大切なのです。
親が子どもの自立に胸を貸すというのは、そういうことなのです。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
女の子の更正は、男の子の更正より難しい
女の子の場合、いちど非行の泥沼に足を踏み入れると、男の子より立ち直りが困難だといわれます。
なぜでしょうか。
東京近郊のごく一般的なサラリーマン家庭の第二子として生まれた順子(仮名)に、非行の兆しが見られるようになったのは、彼女が中学二年生の夏休みからです。
順子の小学校での成績は、五段階相対評価で体育が「5」のほかは「4」と「3」が半々ぐらいですから、決して悪い成績ではありません。
しかし、両親はことあるごとに成績のよい兄と比較しました。
彼女はそのような親に反発して、勉強はまったくといっていいほどしなくなり、中学二年の一学期には、体育以外はほとんどが「2」というひどい成績になってしまいました。
そんな彼女が、ただ一つの生きがいとしていた運動部をやめたことが、非行の坂道をころげ落ちる直接のきっかけとなりました。
部の上級生との折り合いが悪く、「生意気だ」という理由でリンチを受けたことが原因です。
夏休みに部活動だといって朝から家を出て、ゲーム・センターなどで遊ぶようになりました。
二学期には、そこで知り合った他校の番長グループの女の子と喫茶店やディスコに出入りして、何度か警察に補導されました。
親に叱られると家を飛び出して、無断外泊するといった生活を繰り返しました。
ディスコで知り合った二十歳になる青年のアパートに寝泊まりしていたのです。
春休みには、家の金を十万円ほど持ち出して家出しました。
約半年後に、大阪のソープランドで働かされているところを警察に保護されましたが、すでに覚せい剤常習者となり、暴力団組員のヒモがついて売春させられていたのです。
非行に足を踏み入れている女の子でも、順子のようなところまで落ち込むのはまれなケースと考えていませんか?
順子自身もそうなるまでは、家出、暴力団、覚せい剤、売春という転落の道を、自分とは関係のない別の世界のことだと考えていたのです。
この例に見るように、今日の日本の社会は、とりわけ女の子にとっては危険な落とし穴の多い社会です。
ある教護院(家庭に保護能力がなく、非行性のある子どもを保護し、教育するための児童福祉施設)の関係者の話によると、
施設から逃げ出した男の子はまず九割は親のもとへ帰るが、女の子の場合は、逆に九割が家に帰らずに街に消えてしまうといいます。
また、刑法犯少年に占める女子の割合は二二・三パーセントですが、家出少年の場合は女子が五六・八パーセントと、男子を上回っています。
東京の下町で、家出中の女子中学生三人をマンションに住み込ませて売春させていた暴力団組員が児童福祉法違反の容疑で逮捕されました。
最初はトルエンを吸わせたり、金を貸すなどの面倒をみたうえで、「金がないなら、からだで返せ」などと脅し、ホテルで売春をさせるというお定まりの手口です。
このように女の子の場合、からださえ投げ出せばどうにでも生きていけるという社会的状況が、このような男女差の原因になっているのではないでしょうか。
自立した女性に育てるためには、手本・憧れとなる女性が身近に必要
戦後、女性解放の呼び声とともに「性の解放」が叫ばれました。
だが、女性解放が実態をともなわない名ばかりの解放であるのと同様に、
「性の解放」もまた、その実態は、今日の日本の社会に根強く残る男尊女卑の思想と資本の論理による女性の「性の商品化」をカムフラージュするうたい文句にしかすぎません。
人間の性が生殖からも愛からも切り離されるばかりでなく、一方の性が一方に従属し、さらに商品としてあつかわれるという状態は、人間性の否定以外のなにものでもありません。
退廃とは、このような人間性否定の文化(広い意味での)状況をさすことばです。
女子の非行、退廃化の広がりは、構造的にはこのような社会の退廃に根を持つ現象です。
ですから、人間性を疎外する社会の変革こそが、女の子ばかりでなく子どもを非行、退廃から守る本質的な課題とならなければならないでしょう。
そのような社会の変革という大事業は、男性まかせでできることではありません。
女性も、社会や政治の問題に主体的にかかわっていくことが求められますし、女の子も、そのような自立した人格として育てられなければなりません。
そのように子どもを育てるということは、
女性の生き方としての身近な手本である母親の生き方が問われる問題であるともいえるのではないでしょうか。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
非行・問題行動に対して、まずは子どもの言い分をよく聞きましょう
親から見てどうかと思われる教師は少なくありませんが、
親や世間一般の安易な教師批判が、校内暴力を助長していることも事実です。
不用意に先生の批判を子どものまえですることは禁物です。
といっても、子どもが先生の悪口を家庭に持ち込んだとき、子どものいい分をじゅうぶんに聞かずに
「先生の悪口をいってはいけない」
と叱ることも、かならずLもよい指導であるとはいえません。
親に本当の気持ちを話さなくなるばかりでなく、「親も先生と同じだ」と二重の反抗心を持つようになります。
それよりも、先生の立場や努力している点を忘れないようにして、子どもの言い分をよく聞いてやり、納得できる点があれば肯定してやることも必要です。
それは、正しい批判の目を育てることにもなりますし、親が聞いてやったことで反抗心がしだいに解消されてゆく場合も少なくありません。
そのうえで、どんな理由があっても暴力や破壊という形の反抗は絶対に許されないことであることを、きちんと話す必要があります。
暴力や破壊的行動は、一時の感情の発散ではあっても、問題の解決には決してなりません。
いや、それどころか事態をいっそう悪化させてしまうことの方が多いことも教える必要があります。
たとえ最初の原因は教師に非があっても、結果として暴力をふるってしまえば、非は暴力をふるった側に生じます。
したがって、子どもには暴力に訴えない解決の方法を教えなければなりません。
子どもの力だけで解決を見ない場合には、親が直接教師との話し合いをすることも必要でしょう。
大切なことは、子どもの訴えを正面から受け止めて、ともに正しい解決の道をさぐる親の姿勢です。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
落ちこぼれを生む能力主義の教育と受験制度
中学生が非行の「主役」であることのいま一つの要因は、学歴社会と今日の受験制度、
ならびに「できる子」と「できない子」を差別し、選別するための能力主義の教育です。
中学校は義務教育最後の段階で、中学生は自分で自分の進路を決定し、自分で道を切り開かなければなりません。
これは、子どもが体験する自立のためのはじめての試練だといっていいでしょう。
この自立のための試練は、子どもがおとなになる過程でだれもがくぐり抜けなければならない関門です。
しかし、学歴によって社会的な階層がある程度決定づけられてしまうような社会構造と、テストの点数や偏差値によって進路がふり分けられ、
そしてそれが、差別的な階層にふり分けられることにつながるような受験制度のもとでの苦悩が、はたして子どもの自立のために必要な試練であるかどうか、議論の余地はないでしょう。
このような進路や受験にたいする不安が、思春期にある中学生の不安と動揺をいっそう大きくしているのです。
そして、教師やまわりの友だちから「落ちこぼれ」のレッテルを貼られたような生徒が、自分の将来に絶望して荒れたり、ひらき直ってつっぱったりするのです。
校内暴力をはじめとして非行に走る子どもの大半は、授業についていけなくなった、いわゆる落ちこぼれです。
このような授業についていけなくなった子どもを大量につくり出したものは、
経済の高度成長政策を裏側から支えてきた「人づくり政策」による能力主義の教育と受験体制です。
そして、新しく示された臨教審路線の学習指導要領は、小学校の低学年から履修する漢字の数を増やしたり、小学二年で40×3などの二位数の乗法を加えるなど、
はやい時期から落ちこぼれをつくり、中学では「個に応じた指導方法」だとして能力別のクラス編成(「習熟の程度に応じた指導」)を導入するなど、はやくから「できる子」と「できない子」をふるい分けするような内容になっています。
このようにやむなく非行に走るような状況をつくり出す一方で、校則や体罰などで管理を強めているのが今日の学校です。
もちろん、それは教育全体にたいする管理体制の問題であって、そのような状況下にあっても、どの子にも行き届いた教育をと願いながら、また子どもをのびのびと育てたいと願いながら、頑張っている教師たちのいることも忘れてはならないでしょう。
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中学生の非行・問題行動について
どんなにおとなしい子でも、まじめな子でも非行に走る可能性がある。
物質的な豊かさを求めた結果である
非行の多くは一過性、だが……
一昔前まえまでは、非行と聞けば、わが子とは無縁のことと考えるような親が少なくありませんでした。
だがいまでは、中学生の子を持つ親の多くが、いや、すでに小学生のうちから、わが子の問題として心配するようになった、と言っても決していい過ぎではないでしょう。
中学生を中心とする子どもの非行が深刻な社会問題となり、非行の低年齢化が叫ばれていることが、親の不安をかきたてています。
非行が、特殊な子の特殊な問題でなくなっているという問題もあります。
そればかりではありません。
少なからぬ親が子どもの育ち方に不安をいだいています。
中学生を中心とする子供の非行が深刻な社会問題となり、非行の低年齢化が叫ばれていることが、親の不安をかきたてています。
非行が、特殊な子の特殊な問題でなくなっているという問題もあります。
そればかりではありません。少なからぬ親が子供の育ち方に不安を抱いています。
そして、子どもをとりまく環境もいちだんと悪化し、どの子が非行に走っても不思議でない、という状況もあります。
子どもというのは悪さ・いたずらを繰り返しながら成長していく存在です。
そして、��非行″と呼ばれる行為もまた、おとなになるための通過儀礼で、その多くは一過性です。
だが、一過性に終わらせるかどうかは、親や教師をはじめとするおとなの対応の仕方にかかっています。
それに、今日の子どもの非行は��大人になるための通過儀礼″といって軽く見過ごすことのできない深刻なものが多くなっていますから、十分な注意が必要なことはいうまでもありません。
少年の非行が慢性化している
戦後第三の非行(第一のピークは一九五一年、第二のピークは一九六四年)と呼ばれている今日の少年非行は、
一九七三年のオイルショックに端を発した高度成長の終りとともに急増し、以来今日まで高い水準を維持しっづけています。
過去にこれはどながく非行の山がつづいたことはありません。
そういう意味で、少年の非行は慢性化の時代に入ったといえるでしょう。
平成元年版『警察白書』によると、一九八八年の一年間に全国で補導された主要刑法犯少年の数は一九万三千二百六人で(前年に比べて三・二%増)、
一九八三年をピークに若干減少傾向にあった少年非行が再び増勢に転じました。
特徴としては、これまでの非行の主役とされてきた中学生に代わって高校生が全体の三六・六%で最も多く、次いで中学生の三五・九%となっています。
中学生に代わって高校生がトップになったことについて、中学生の生徒指導の成果とみる見方もありますが、
校則と体罰による管理強化によって子どもの問題行動が抑えこまれたために、高校生になって吹き出た結果、高校生の非行が増加したと見るほうが当を得ているようです。
しかし、高校生の非行が中学生を抜いてトップになったというのは、あくまでも警察の補導件数であって、水面下での少年非行の実態からすれば、
非行の主役はやはり中学生だという状況は変わっていないようです。
いま「普通の子」が危ない
��非行″といえば、とかく日ごろから問題行動のある子どもと考えがちですが、
最近は、悪質、凶悪な事件が、あまり目立たない「普通の子」によって引き起こされています。
東京・板橋区の中学三年の二人の少年が、人目が届きにくいマンションの屋上に小学生などを連れ出し、プロレスの荒技をかけて計六十人に重軽傷を負わせるという事件がありました。
二人は、学校では目立たない普通の少年だったといいます。
先にもふれた両親・祖母殺害事件(一九八八年七月、東京・目黒区)の中学二年生の少年も、学校では「明るく、ひょうきんで人気者」であり、近所でも礼儀正しい評判の子だったといいます。
成績は「中の上」だったといいますから、少なくともはた目には��普通の子″だったといっていいでしょう。
もちろん、本当の意味での普通の子なら心配はないでしょう。
わたしが心配するのは、親や教師によってつくられた「普通」という枠ぐみのなかに、押し込められている子どもです。
親や教師による強制、ということばかりではありません。
親や教師の要求を先取りして、自分からすすんで自己規制することで、必死に「良い子」や「普通の子」を演じているような子どもも少なくありません。
本来、子どもというのは遊びや、遊びのなかで獲得する友だちや仲間のなかで育つものです。
そして、「反抗期」ともいわれる思春期にもなれば、親や教師の期待する「普通」に反発するのが、子どもにとっての普通なのです。
しかし、多くの親や教師は、勉強そっちのけで遊んでばかりいる子どもを、普通とは見てくれないのです。
そして、かりに友だちとあまり遊ぶようなことがなくても、よく勉強する子どもは「良い子」であり、心配のない「普通の子」と見てしまうのです。
しかし、そのような心の揺れや悩みを表現することをしない子どもの場合、
それは内部でいっそう肥大し、それが極限にたっしたときには、とりかえしのつかない事態を招くことになりかねないのです。
心身の発達のインバランスが原因
思春期は、危機をはらむ年代です。
その大きな原因の一つに、心身のいちじるしい変化、とりわけ心身の発達のインバランスという問題があります。
中学二年にもなれば、肉体的に立派なおとなです。
しかし物事の判断はまだ幼く、依存しながら自立するといわれるように甘えた気分もたっぷり残っていて、精神的にはまだまだ子どもです。
とりわけ今日の子どもは、身体の発達が早まる(早熟化)一方、精神の発達という面では逆に遅滞する傾向があります。
そのインバランスな状態がますます顕著になって、思春期危機を増大させています。
中学生という時期は、思春期のなかでも発達のバランスが最も悪い時期なのです。
中学生の時期が、最もむずかしい年ごろだといわれる最大の要因はここにあります。
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受験ノイローゼ
大きすぎる期待や失敗の許されない期待は、
子供の精神的負担を増し、危機に追い込む
「親の期待が重荷だった」
中学浪人一年目で目指す私立K高校に無事入学した昇(仮名)は、受験ノイローゼで苦しんだ中学三年の受験期をふりかえって、こういいます。
親の期待過剰や過干渉は禁物
どちらかといえば優等生タイプで、親に口答えなどしたことのない昇が、家族のちょっとした笑い声にも神経をとがらせ、母親や妹に当たりちらすようになったのは、中学三年の二学期の半ばからです。
一日おきに通う進学塾の時間を含めると、家庭での学習時間が一日五〜六時間、日曜日は都心の有名進学スクールに通うというのが、三年生になってからの昇の生活です。
学校の部活動は、両親の意向で一年生のときからやっていません。
小学校の卒業期に某有名私立中学の入試に失敗したことから、中学生になってからの昇は、国立大学合格者を多数出しているK高校の入試に照準を合わせた生活を、両親によって強いられたのです。
他の生徒たちが部活動に参加したり、のんびりと余暇を過ごしている間に、一目数時間もの猛勉強をしていたのですから、テストの成績はいつも学年で一、二番でした。
だが、夏休みを過ぎたあたりから成績がじょじょに下降しはじめ、十一月初旬におこなわれた業者テストでは、学年で九番となってしまいました。
急にふさぎ込んだり、家族に当たりちらすような昇の変化はこのあたりからです。
が、いらいらしてなんとなく落ち着かず、
「自信がない」「気持ちが集中しない」「眠れない」
などと母親に訴えるようになったのは、それより一カ月ほどまえあたりからでした。
母親は、昇には家の仕事はいっさいさせず、テレビも本人はもちろん、五つも年下の妹にも、「お兄ちゃんの勉強のじゃまになるから」といって、あまり見せません。
二学期に入ると、長い間続けてきた着物着付け教室の講師としての仕事もやめて、子どもの受験に備えました。
母親が、学校の担任の先生や塾の先生を頻繁に訪ねるようになり、息子の勉強の仕方にまでなにかと口出しするようになったのは、このころからです。
三学期に入ると、昇のいらいらはますますひどくなり、
「考えがまとまらない」
といっては大声で怒鳴ったりするばかりでなく、頭痛、耳鳴り、めまい、食欲不振、不眠など、さまざまなからだの不調を訴えるようになりました。
医師は、とくに客観的な体の異常は認められず、心因的なものだといいます。
いわゆる受験ノイローゼです。
昇のノイローゼは、受験当日、頂点に達し、汗をひどくかき、脈拍が速くなり、テスト中に吐くといった状態で、結果はもちろん不合格となりました。
親の態度で子どもの不安を和らげることが出来る
親がわが子に期待するのは当然ですが、大きすぎる期待や、失敗の許されないような期待は、子どもの精神的な負担を大きくし、子どもを危機に追い込みます。
自分だけのことなら、たとえ失敗してもあきらめもつきますが、親やまわりの人たちの期待が大きすぎると、絶対失敗は許されないという絶体絶命の境地に追い込まれてしまうのです。
まわりの人たちの気の使いすぎも、子どもの精神的負担を大きくします。
高校受験というのは、ある意味で人生最初の試練ですから家族がそれなりにいろいろ配慮してあげることは必要なことです。
だが、度がすぎると、かえって逆効果になる場合が多いようです。
受験期の子どもをもつ親の心がまえとして大切なことは、テレビやステレオの音量を下げるとか、やたらと仕事をいいつけないなど、勉強に専念できる環境をつくってやることと同時に、
子どもの不安、動揺をいかに和らげてやるかという心遣いです。
そのためには、ふだんと変わらぬ家庭の雰囲気と、親の泰然自若とした態度がなによりも肝心です。
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受験勉強と偏差値のワナ
偏差値は、その弊害についてもいろいろ指摘されています。
だが、高校進学を目指す中学生やその親にとって、無視することのできない大きな力を持っているというのが現実です。
しかし、数字を示されて、「これがあなたのお子さんの偏差値」ですなどといわれても、あまりピンとこない親の方が多いのではないでしょうか。
偏差値というのは、テストの得点とは違います。
ある限られた集団の中での各人の相対的な位置を示す数字です。
なぜ、順位というわかりやすい数字を使わないのでしょうか。
それは、たとえば十人中の五番と百人中の五番を比べてみればわかるように、順位というのは全体の人数が変われば、その意味も当然変わってきます。
また、テストには必ず問題の難易があります。
やさしい問題で八十点とったのと、むずかしい問題で七十点とったのとでは、どちらがよくできたのか判断がつきません。
偏差値は、全体の平均値に照らしてどのような位置にいるかを表す方法です。
平均からの「偏り」という意味で「偏差値」と呼んでいるのです。
偏差値は平均が五〇で、普通最高は七五、最低は二五ですが、問題がとくにむずかしい場合には、最高八〇ぐらいになることもあります。
教育的な意味は非常にうすい偏差値
ところで偏差値というのは、テスト業者の模擬試験の結果をコンピューターが打ち出したものにすぎず、教育的な意味は非常に薄いといっても過言ではありません。
それどころか、学校教育が業者テストの偏差値にふり回されたり、業者の出す偏差値だけで機械的、事務的な進路指導がおこなわれたりするような弊害も指摘されているように、差別、選択の道具にさえなっています。
しかし、現実にはこの偏差値を無視して高校を受けさせた場合、はたして合格の可能性受験体制と学習はどうかということになると、たいへんむずかしいことになります。
教師のデータより、豊富なデータをコンピューターにかけて業者が偏差値でランクづけした資料の方が、はるかに確立が高いというのは、いたしかたのないところです。
また、私立高校が単願推薦入学(他の学校をあわせて受験することをせず、その学校だけを単独に志願する生徒にたいして、出身中学校の推薦を受けて入学者を内定する制度)という形で生徒を受け入れる場合、
「偏差値○○以上」というように条件を示してくるのがふつうで、中学校では偏差値で生徒をふり分ける進路指導に疑問をいだいていても、まったく無視することのできないのが実情です。
要は教師も親も、子どもの進路を偏差値だけで決めるようなことをせず、進学しようとする高校の特色をよく知ったうえで、
その子どもの能力(単なる偏差値学力だけでないより多様な能力)や適性に見合った学校を、子ども自身の意志で選べるようにアドバイスを与えることです。
「わたしは、先生の��成績″のために商業高校に入れられたのです」
現在、某私立大学に通うある女子学生は、高校受験当時をふりかえってこういいます。
彼女は、普通科の都立A高校を希望していましたが、彼女の業者テストの平均偏差値は四九で、
受験案内書の予測するA高校の合格基準(八〇パーセント以上の合格の可能性) の偏差値は、五一となっています。
また、十一月の業者テストの結果、コンピューターがはじき出した彼女の志願するA高校についての所見も、
「内申点が今回の学力相応と仮定して、A高校の合否は本試験の当たり外れに左右される」
となっています。
そこで担任の先生は、合格の確立の高い都立C商業高校を受験するようにすすめました。
先生は、「大学に進学しないのなら、商業高校の方が就職に有利」といいますが、彼女はあまり気がすすみません。
しかし「先生の指導を無視するなら責任は持てない」と突っぱねられて、仕方なしにC商業高校を受験して合格しました。
しかし、彼女は合格を喜ぶ気持ちになれず、担任の先生にたいする反発から卒業式の日までふてくされていました。
高校に入っても勉強に身が入らず、一時は非行グループにも入り、両親をたいへん心配させました。
その後、さいわいに高校の担任の先生の指導で大学に進学する気になり、二年から進学クラスに入って立ち直りました。
A高校がだめなら、学費のかさむ私立でも普通科を、という彼女の希望を無視して、担任の先生はなぜ商業高校(公立)を強引にすすめたのでしょうか。
だが現実の問題として、担任の先生から無理やり本人の希望しない高校を受験するように言われたらどうしたらよいでしょうか。
なかには、教師のすすめる高校以外は内申書を書かないといったりするような教師もいます。
しかし、どの高校を受験するかを決定するのは子どもの権限に属する問題であることを、親も子どももしっかりと認識しておく必要があります。
そして、実際には内申書を書かないというようなことはできないのだということも知っておく必要があります。
なにはともあれ、子どもの一生を左右することにもつながることですので、先の例(女子学生)のように、自分で納得のいかない受験は絶対にさせるべきではありません。
「公立の合格者をクラスから何人出したかで、先生の評価が決まるからだ」
と、彼女はいいます。
しかし、この間題は先生を批判するだけで解決するような問題ではありません。
公立高校や有名私立高校の合格率によって、学校が評価されるような社会的風潮や親の意識にも問題があります。
偏差値だけで進路を決める危険性
政男は、人一倍プライドの高い両親の影響で、自分の実力より偏差値の高い高校ばかり受験して、何と十一校目でやっと合格という学校新記録をつくりました。
七校目あたりからは心身ともに疲弊しきって、寝込んでしまいましたが、栄養剤を飲ませ、父親が車で送り迎えして受験させました。
当時の政男を知る担任の先生は、さながらダウン寸前のボクサーが、無理やりリングの中にはうり込まれるようなありさまだったといいます。
自分の偏差値を度外視して受験校を選ぶことが、偏差値にふり回されないということではありません。
政男の場合、偏差値による進路決定を否定しているように見えながら、やはり偏差値の高い学校がよい学校だとする偏差値神話の犠牲者です。
さいわいにして政男は、はじめは意に添わない私立高校でしたが、いまは学校がおもしろいと元気に通っています。
志望校を選ぶに当たっては、やたらに偏差値の高いところにばかりこだわらず、教育内容のすぐれた学校を選ぶことが大切です。
都内のある中学校のPTAでは、公私立の高校百校以上の文化祭と体育祭の日程と内容を一覧表にして印刷したものを、PTAの全会員に配布して見学をすすめています。
文化祭や体育祭を見学することが、各高校の内容を知るのにたいへん役に立つからです。
父母と教師による都高校問題連絡協議会は、「各校の教育内容や特色で志望校を選ぶための手がかりを」と『父母がしらべた都立高校白書』をつくり好評です。
しかし、このようなことで、偏差値に支配される受験体制の矛盾を解消できるものではもちろんありません。
十五の春を泣かせないために、入学した年の学費は公立の五・七倍もかかるという私学の父母負担軽減や、教育条件の公私格差是正、選抜制度を含めた高校教育の見直しなど、抜本的な改革が急がれなければなりません。
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中学生には職業選択はまだむずかしい
「どこの高校でもいいから行かせたい」という親や、「勉強は好きではないが、高校には行きたい」という子どもがいても無理はありません。
そもそも十四や十五の年齢で、一生の行き方を左右する職業の選択を迫られるというところに問題があります。
自分の希望で職業を選んだ場合はともかく、経済的な事情や成績で進学をあきらめざるをえなくなった子どもに、一生を左右する職業を選べというのは気の毒な話です。
中卒で就職に就いた昔とは、事情が違います。
社会の工業化がいちだんと進み、職種は多様化しましたが、社会的な視野の狭い中学生では、自分の知る職業の範囲にも限度があります。
また、中学生ぐらいで自己の能力、適性を見きわめることはむずかしいことです。
就職希望者には、職業安定所で「職業適性検査」などである程度の診断はしてくれますが、
おおまかな職業の分野の適性は示してくれるものの、これで実際に自分に適した職業受験体制と学習が見つかるわけではありません。
ですから、どんな職業に就くかという決定は、もう少し勉強して、社会的な視野を広げ、自分を見つめる目を育ててからにしたほうがよいというのは当然です。
そればかりではありません。
科学技術など、社会の進歩発展はめざましく、ロボットが人間の代わりに働き、そのロボットをロボットがつくるという時代です。
このような時代を生き、さらにこのような科学技術の進歩が万人の幸せのために役立つような社会を建設するためにも、今日の高等学校程度の学習内容は、だれもが身につけなければならない基礎的な学力です。
そういう意味で、高校教育は、今や国民のための普通教育だといっていいと思います。
だからといって、現在の学校制度のもとで、なにがなんでも高校に進学させるという考えに賛成するものではありません。
勉強しに行くのだというはっきりとした自覚を持たずに、みんなが行くから行くというような考え方には反対です。
たとえ中学での成績は悪くても、高校でさらに進んだ内容を学びに行くのだという目的意識を持つことが大切です。
高校は学ぶ意志のある者だけが行くところであることを、子どもにしっかり教える必要があります。
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中学生と進路
もし、子どもが「進学しないで就職する」といい出したら、あなたはどうしますか。
進学率九四・五パーセント(一九八八年)という時代です。
子どもからいきなり「就職する」などといわれれば、たいていの親はうろたえて、
「お願いだから高校ぐらいは出てちょうだい」
などといってしまいかねないでしょう。
変われば変わったものです。
昔はとりたてて裕福でない家庭の場合、なまはんかなことでは進学させてもらえない時代でした。
それなりに勉強もし、親に懇願してやっと進学を許してもらうといった状況でした。
ところが今日では、「そんなら高校なんか行かないよ」と子どもが親を脅迫する切り札にする例も少なくありません。
親の希望する高校進学と引き換えに、バイクを手に入れたという例もあります。
これではなんのための高校進学なのかわかりません。
高校入学後の中途退学者が年々増加し、暴走族のなかにはこのような高校中退者が多いといわれます。
折りにふれて子どもと進路の相談を
いうまでもなく中学生は義務教育学校の最終課程ですから、卒業後の進路の選択という問題は、だれもが否応なしに迫られる問題です。
そして、進路を選ぶということは、子どもにとって人生の岐路に立つはじめての経験です。
「親がそういうから」「みんながそうするから」
といった主体性のない態度で決めるような安易なものではないはずです。
親としても、子どもが中学生になったら、折りにふれ、子どもとともに進路について話し合い、子ども自身が自分の問題として進路について考え、
生きる目標や学ぶ目的をしっかり持てるようにすることが大切です。
いうまでもなく、ここでいう進路の問題というのは、将来どんな職業に就くとか、そのためにどんな高校、大学に進学するかといったことばかりではありません。
いま生きている社会の現実をリアルに見つめ、一個の人間として、また社会人として、未来をどう生きるかということをつきつめて考えることでもあるのです。
しかし、実際には学歴偏重社会という現実に合わせて、将来有利なように、とりあえず少しでもいい高校、いい大学に入ってくれたらとだけ考える親が少なくないというのが現実です。
もちろん、ここでいう「いい高校、いい大学」というのは、単なる入学時の偏差値が高いとか、名のとおった有名校であるとかいうことがほとんどで、
教育の本筋に照らして本当に「いい学校」であるかどうかは疑問です。
自分で生きる道を決める最初の機会
ところが、脅しでも冗談でもなく本気で「就職したい」といい出すこともあります。
わたしの甥の英二も、親の期待に反して、就職を主張した生徒の一人です。
親がいくら説得しても、どうしても就職するといい張って譲りません。
わたしが、「では、どんな仕事に就きたいのか」と聞くと、車が好きだから自動車整備工になりたいというのです。
そこで、わたしの友人の経営する整備工場に連れていったところ、整備士の国家試験は、高校を卒業していないとたいへん不利だという話を聞かされ、高校進学に変わりました。
そして高校から大学へと進み、いまでは、車とはおよそ緑のない図書館勤務のかたわら、めぐまれない子どもたちのためのボランティア活動に生きがいをみいだしています。
中学三年ぐらいの年齢は、好きだというだけで、能力も適性も考えずに将来の職業を考える傾向があります。
それでも、「みんなが進学するのに就職なんてカッコわるい」などと考える子どもより、はるかに主体性があるわけですから、子どもの考えも開かずに親の希望を押しつけるようなことは、つつしまなくてはなりません。
中学生という年代は、精神的自立の時期だとまえに述べましたが、進路の選択という課題は、自分の生きる道を自分で決定するというまさに精神的自立を具体的に迫られる最初の機会であるわけです。
親の願いで子どもに進学させるようなことは、子どもを甘えと依存の関係に封じ込めてしまい、大切な自立の機会を奪ってしまうことになります。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
もっとも効果的な勉強法は、家での予習
ところで、中学生の勉強の基本はなんといっても学校の授業です。
子どもの成績が親の期待どおりにならないと、すぐ塾や家庭教師をと考えがちですが、
毎日の授業をいいかげんにしていて、塾や家庭教師に頼ってみても、意味がありません。
教科書や必要な用具を忘れたり、授業中、先生の話をしっかり聞かなかったり、ノートをきちんととらないような生徒が少なくありませんが、このような授業中の態度と成績の間には、かなりの相関関係が認められます。
授業をきちんと受けられない子どもが多くなったことの原因は、集中力の欠けた根気のない子どもが多くなったということもあります。
しかし、そればかりではありません。
学ぶことの喜びは「わかる」ことにあるはずなのに、
現在の学校教育が、「なぜそうなるのか」をみんなで考え合うのではなく、大量の知識を短期間に詰め込むような知識偏重になっていることにいちばんの問題があります。
このような制度的な問題にきびしい批判の目を向けることも、大切なことですが、同時に、子どもが授業に意欲を持って儀むように援助してやるのも、親としての大切な務めです。
いうまでもなく、子どもにやる気を起こさせるためには、学習の目的を自覚させることですが、それと同時に、毎日の授業を楽しく受けられるような工夫をすることも大切です。
いまの中学校の授業についていくためには、普通、毎日一、二時間の家庭学習は必要だといわれています。
しかし、その習慣がついていない俊男のような子どもなら、勉強は何のためにするのか、具体的に何をどうやったらよいのか、子どもとよく話し合って、たとえ三十分でも、一定時間、机に向かうことから始めなければなりません。
ところで、家庭学習といっても、なにをどのように勉強するかは、かならずしも一律には考えられませんが、授業に意欲的にとりくめるようにするためのわたしの勧める効果的な勉強法は、予習です。
あらかじめ、辞書や参考書で調べておくということができれば最高です。
が、そこまではできなくても、授業を受けるまえに一度教科書に目をとおして、わかるところとわからないところの確認をしておくことです。
疑問点をはっきりさせて授業に臨むのと、ただ漫然と授業を受けるのとでは、たいへんな違いです。
何の準備もなしに、授業ではじめて教科書をひらき、未消化のまま授業を進められるのでは、先生の話を聞くのにあきがくるのも当然です。
また、授業でよくわからないことを、家庭で参考書を使って復習するような後追い勉強は、たいへん能率の悪い勉強法です。
復習は、学校で勉強した内容をきちんと整理したり、習熟するために大切ですが、授業を楽しく受けるための準備としての予習こそが、家庭学習の基本だとわたしは考えます。
もちろん、すでに学校での学習に大きく立ち遅れてしまっている子どもの場合には、過去にさかのぼっての基礎的な学習が必要となります。
その場合、どこでつまずいているのかを明らかにして、あせらずに一つ一つ理解を積み上げていくようにすることが大切ですが、もう中学の勉強の内容ですと、親にはなかなか教え切れないこともあります。
そんな場合、必要に応じて家庭教師を頼むとか、一人一人の子どものつまずきをていねいに見て指導してくれるような塾にお願いするというようなことも考えていいと思います。
しかし、そういう場合には、あくまでも本人の意志が大切にされなければなりません。
親の押しつけでは効果が上がらないばかりか、子どもを追い詰めることにもなりかねません。
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中学生と勉強
中学生の子どもがいる親と、子どもたち自身の最大の悩みや関心事は、なんといっても、勉強とその成績でしょう。
学歴偏重社会でのきびしい受験体制を反映して、学習の目的が受験のためにかたよっているというきらいがありますが、
健全な心身の発育とともに、頭脳の働きが柔軟で知的能力の発達が著しいこの時期に、基礎的な学力を身につけるための学習は、やはり大切です。
小学生や中学生の子どもにたいし、親がいちばんよく口にするのは、
「勉強しなさい」「宿題はないの?」ということばです。
しかし、口を開けば「勉強、勉強」では、子どもはかえって反発して勉強しなくなったり、机に向かってはいても、気が乗らないために能率が上がらなくなったりすることがあります。
そればかりか、心の健康にも害を与えかねません。
警察庁統計によると、一九七九年は子どもの自殺が多発した年ですが、
この年度の未成年者の自殺者九百十九人の直接的原因・動機は、「学業問題」や「入試苦」など学校の問題が二百五十二人(二七・四パーセント)と全体の四分の一強を占めてトップになっています。
また、一九八〇年に総理府青少年対策本部がまとめた『家庭内暴力に関する研究調査』でも、その背景のトップに「親の期待過剰」(二一・四パーセント)があがっています。
一九八八年七月、東京・目黒の中学二年生の少年が、両親と祖母を包丁でめった刺しにして惨殺するという事件が起きました。
背景には親子関係など複雑な問題があると思われますが、直接の動機は、日ごろから両親に勉強のことでやかましくいわれていたことです。
両親は有名進学高校に進んだ少年のいとこと比較しては「勉強、勉強」と口やかましくいっていました。
そのうえ、英語、数学、国語の三教科のうち、一教科でも学年平均を下まわるようなことがあったら、小遣いを与えないというペナルティを課していたといいます。
親が子どもに期待をかけるのは当然ですが、過剰な期待は子どもを押しつぶします。
目黒の少年の事件は、自分を追い詰める者への逆襲でしたが、自殺というかたちで逃避する例も少なくありません。
教育ママの期待に押しつぶされ、班ノートに遺書を書いた子
学級の班ノートに遺書を書いた富有子(仮名 当時中学一年生)も、「勉強、勉強」という親の期待に押しっぶされそうになった子どもの一人です。
「(略)−スペリング・コンテストは100点は無理!
勉強したくない。
自由になりたい。
学校行きたくない。
いなくなりたい。
疲れた。
班ノートは遺書に使わない方がいいのかな」
当時の富有子は、学校の成績はトップクラスですが、内向的で友だちの少ない生徒でした。
父親は一流商社勤務で転勤が多く、富有子は中学一年生の時に二度も転校しています。
母親は典型的な「教育ママ」で、子どもに寄せる期待の大きさは普通ではありません。
平日は夕方の五時から夜中の十一時過ぎまで、夕食などのわずかな生活時間を除いて、ピアノのレッスン、学習塾、家庭学習とびっしり。
日曜日には、競争率の高い入塾試験をくぐって入った進学スクールに通っていました。
「百点か零点か。九十九点は点ではない」
母親が口ぐせにしていることばだといいます。
だが、いちがいに母親だけを責めるわけにはいきません。
「勉強だけがすべてではない」と百も承知しながら、子どもを勉強一筋の生活に追い込まざるをえないように親を追い込んでいる学歴偏重社会と受験体制こそ、きびしく批判されなければならないでしょう。
さいわいにして富有子は、担任の先生の励ましと仲間の連帯を大切にする学級の支えで、危機をのりこえることができました。
二年生で富有子を受け持った担任の先生は、生活に充実感を持たせることが必要だと考え、学級のリーダーとしての任務を与えました。
はじめは先生の熱意に押された形で立候補した学級委員でしたが、次第にその気になって学年委員にも立候補し、学級や学年の活動の中心になって頑張り出してからの彼女の顔は、見違えるように生き生きとした表情になりました。
何事にも自主性をと放任された子
一方、「子どもを受験体制の重圧から解放する」といって、子どもに「勉強」ということばをいっさい言わないのだという親もいます。
先の目黒の両親殺害事件の直後、東京のある中学生の父母懇談会で、ある母親が
「あれ以来、子どもには『勉強』ということは、いっさい言わないことにしています」
と言ったといいます。
子どもを「勉強、勉強」と追いたてることへの反省としては大切なことですが、
だからといってどんな子にも勉強のことはいっさい言わないというのはどうでしょうか。
中学二年生の俊男の親は、なにごとにも子どもの自主性を尊重するといって、小学生のころから、「勉強しなさい」とは一度もいわなかったといいます。
子どもらしくのびのびと育ち、小学校から中学一年生の二学期まではどうやら上位の成績を収めていました。
ところが、三学期から成績が急激に下降しはじめ、二年生の二学期になると、下位に近くなってしまいました。
とくに数学と英語については、テストの点数が三分の一そこそこになりました。
適切なアドバイスができる親に
子どもの勉強をめぐる親の態度について、干渉しすぎと放任という対照的な例を紹介しましたが、親として中学生の勉強についてどう考え、どう子どもにかかわったらよいか考えてみたいと思います。
たしかにいまの子どもは、勉強に追われすぎて子どもらしい生活を失っています。
心ある人ならだれしも、子どもを「勉強、勉強」と追いたてるようなことはしないで、子どもらしいのびのびとした生活をさせたいと願っています。
ところが、いざわが子のこととなると、事情が変わってきます。
「九十九点は点ではない」という富有子の母親ほどではないにしても、子どもの通信簿の成績やテストの点数に一喜一憂し、
子どもの顔さえ見れば、壊れたレコードのように「勉強、勉強」と繰り返す親が意外に多いのです。
しかし、これは、かならずしも「たてまえ」と「本音」という矛盾する問題ではありません。
多くの親たちは、子どもをのびのびと育てたいと願いつつも、今日の受験体制のもとで、勉強至上主義に追いやられているのです。
だが、本当にわが子の幸せを願うならば、体制にふりまわされることなく、バランスのとれた子どもの発達を考えて、勉強についても適切なアドバイスのできる親でありたいと思います。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
女の子の性教育はお母さんの出番
女の子の性教育に関してはお母さんの出番ですが、自分の娘に女の性についてきちんと語れる自信がありますか。
生理の手当の仕方は教えても、女性としての生き方と結びつけて、性の問題を子どもに教えている母親はあまりいないようです。
女の子はムードにあこがれるロマン派
「中学生売春や、中学生が妊娠、中絶という話が週刊誌などに載っているけど、やっぱ。
特殊なケースじゃないかしら。
自分の中学生のころを考えても、スターのブロマイドを集めたり、友だちと男の子の話をする程度で、怪についての具体的な関心はそんなになかったように思いますよ」
これは性教育についてのPTA学習会で、ある母親から出された意見です。
たしかにこの母親のいうように、女の子というのは、からだの機能としては子を産めるように発達していても、男性のように生なましい性的な欲求を持ってはいません。
たとえば中学生くらいの女の子は、手を握ったり、キスをしてみたいというような欲求をあまり強く持ちません。
手紙や交換日記という間接的な接触や、なんとなくおしゃべりをしていたい、自分の好きな趣味を相手といっしょにしたいという程度のものが大半です。
即物派の男の子と違って、女の子はロマンチックなムードにあこがれるロマン派なのです。
しかし、女の子の性が男の子のようでないからといって、先の母親のように、中学生売春や中学生の妊娠・中絶といった問題を、「特殊なケース」と簡単に片づけてしまってよいものでしょうか。
『一九八一年版・子ども白書』は、現代の子どもの性の実態について、次のように述べています。
「昭和五十五年(一九八〇年)三月のNHK長時間討論��性教育はいかにあるべきか″で、考えさせられる数字が出ました。
十人の専門医が過去十年間に扱った高校生までの妊娠中絶が二百七人、
その中に三名の小学生もあり、その全体数も昭和四十七年(一九七二年)と四十八年の間を境に、後五年間の方にはるかに増加しているというのです」
「米国では、すでに十代の女子七万人が出産し、性病三百万の二分の一が十代という恐るべき時代に入っているといいます」
一九八九年九月二十六日付の『高知新聞』(夕刊)は、産婦人科医の話として、産婦人科の門をくぐる少女が多くなったことを紹介しています。
また、最近のデータによると、中絶した二十歳未満の女性のうち四三%の人が二度三度と中絶しているといいます。
事実、一九八八年に厚生省が発表した「優生保護統計」でも、中絶の総数は大幅に減少していますが、十代の中絶が激増しています。
昭和五十年(一九七五年)二万二千件あった十代の中絶が十年後には倍以上になっています。
快楽の結果、妊娠・中絶・あるいは出産という苦痛を味わうのは女性だけです。
処置に困ってコインロッカーに捨てれば、「殺人・死体遺棄」 の罪に問われるのはやはり女性なのです。
女の子の怪教育とは、生殖にかかわる生理現象としての怪を科学的に教え、
女性であり母性であることに誇りをもたせること、
そして現代の社会の構造や文化的状況のなかで、主体性をもった女性の生き方をともに考えていくことではないでしょうか。
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男の子の性教育こそ父親の出番
性的な発達が思春期の最も重要な特徴でありながら、子どもの問題でいちばん親に見えないのが、この性の問題です。
そして、親が子どもの指導上いちばん苦手とする問題でもあります。
女の子の初潮については、母親がそれなりの心の準備を整え、子どもにもまえもってある程度の予備知識を与えているのが一般的ですが、男の子の精通現象について父親が……というようにはなっていないようです。
子どもの性的な発達は、昔と比べてたいへん早まっていますから、女の子の初潮指導はもちろん、男の子の精通現象についても、
子どもが「病気ではないか」とか、「異常ではないか」と悩んだりしないように、父親の口からでも予備知識を与えておいてもらうのが理想的です。
こと改めて話すのもぎこちないものになりがちですから、子どもの部屋からポルノ雑誌を発見したときなどは絶好の機会です。
「お父さんがこんな雑誌に興味を持つようになったのはいつごろだったかな」
というような調子で、父親の体験を話すなどして、息子の気持ちに共感を示しながら、さり気なくやってほしいと思います。
しかし、テレて尻込みしてしまう父親が多いようです。
子育ては母親まかせの父親でも、こんなときこそ出番なのです。
「不潔だ」などという親の考え方が性をゆがめる
男子の精通現象は、早い子ですと小学校の五、六年生で見られますし、十三歳までに五〇パーセント以上の子どもが経験しています。(一九七四年・日本性教育協会の調査)。
ですから、母親としても、あらかじめ心の準備をして、汚れたパンツやポルノ雑誌を発見したぐらいでオタオタしないようにしなければなりません。
「不潔だ」「いやらしい」などという親の考え方が、子どもの心を深く傷つけます。
そればかりか、子どもは性というものを罪悪視し、自己嫌悪におちいり、ひいては人格までゆがめられてしまうことさえあるのです。
汚れた下着の始末で子どもを困らせることのないように、洗濯機に水を張っておき、
「シャツやパンツなどの汚れ物は、この中に入れておきなさい」
といってやるくらいの配慮はしてあげてほしいものです。
また、ポルノ雑誌が出てくれば、すでに自慰行為が始まっていると考えてよいでしょう。
しかし、これもあまり神経質に考えないで、
「男の子なんだから、ああいう雑誌に興味を持つのはわかるけど、まだ少し早いわね。
それに、人間の性ってあんな品位のないものじゃないのよ。
お母さんが処分しておいたけどいいわね」
ぐらいにとどめておいたらどうでしょう。
男の子の場合は、サラリとさり気なくやるほうがうまくいくようです。
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親として心がけたい子供たちの男女交際の5つのポイント
わたしたちおとなが、おとなの感じ方でだけ子どもたちの男女交際をとらえ、いたずらに警戒しすぎる結果、逆に子どもたちの純粋な気持ちをゆがめてしまっているのではないでしょうか。
親として子どもの男女交際について、次のような点に心がけてほしいと思います。
(1)自分の子が異性に関心を持ったり、異性の友だちができたとしても、まだ早すぎるなどと考えずに、
そのことを冷静に受け止めて、正しい男女交際のあり方をアドバイスできるようにしましょう。
(2)中学生時代はできるだけグループで交際させるようにし、一対一の交際の場合でも、
・時間(明るいうちに)
・場所(一目を避けるようなところには行かない)
・相手にたいする態度(相手の気持ちを尊重し、常にいたわりの心を持つ)など、
男女交際のエチケットをきちんと教えましょう。
(3)親にオープンな交際が大切です。
そのためには、日ごろから親になんでも話せるような関係をつくっておきましょう。
(4)恋は盲目といいますが、自分を持っていない者ほど恋におぼれがちなものです。
日ごろから子どもに心から打ち込めるものを持たせることが大切です。
そうすればたとえ破たんをきたすことがあっても、自分を失うようなことはありません。
(5)先の中二の女の子の作文にあったように、親同士ができるだけ交流を密にすることも、子どもたちの交際を明るいものにするうえで大切なことです。
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思春期の子供には、適度な体力づくりを
成長期にある中学生にとって運動が大切だということは頭ではわかっていても、
つい高校受験のことが気になって、スポーツよりは勉強というように考えてしまう親が少なくありません。
尚人の母親もその一人です。
尚人は小学校時代からスポーツ万能で、地区の小学校連合運動会では、リレーと幅跳びで入賞した経験もあり、町会の少年野球チームのエースでした。
勉強の成績もよく、小学校では児童会の役員をしていました。
中学に入った尚人は、勉強と両立させる、と両親と約束して、陸上競技部に入りました。
都大会でも入賞者を何人も出している伝統のある部です。
練習のきびしさでも定評があり、家に帰ってくるのは毎日七時過ぎ。
夕飯を食べて風呂に入ると、宿題もそこそこに寝てしまいます。
日曜日も先輩の試合の応援だといってはかり出されて、落ち着いて勉強する時間もあまりありません。
二学期末には、小学校時代に比べて成績が極端に下がりました。
驚いた母親は、父親に話して尚人の部活動をやめさせてしまいました。
そして、それまでの遅れをとり戻すために、夏休みから進学塾に通わせたのです。
スポーツの大好きだった尚人にとって、部活動をやめさせられたことはたいへんショックでした。
しかし根が明るい子どもですから、すぐ頭を切り替えて猛烈に勉強に打ち込み、二年生の一学期に学年でトップクラスの成績になりました。
尚人がからだの変調を訴えだしたのはそのころからです。
気分が悪いといってはよく保健室に行くようになり、二学期の始業式には貧血を起こしてしゃがみ込んでしまいました。
その原因が運動をやめてしまったことにあると断定することはできませんが、なんらかのかたちで影響をおよぼしていると考えても間違いないでしょう。
とはいっても、尚人からスポーツを奪った両親だけを責めるわけにはいきません。
今日の中学や高校の部活動の多くが、子どものスポーツ要求を満たし、スポーツを通して健康なからだと豊かな人格をつくるというようになっていないところにも問題があります。
大会に優勝するということだけに目を奪われ、一部のスポーツエリートを養成するための活動になって、練習量さえ多ければいいという科学性を欠いた根性主義が横行しています。
毎日の生活を通じて体力づくりを
ところで、何でも運動さえしていれば無条件にからだを健康にするとはいえません。
成長期にある中学生に過度の運動を強いることは、逆に健康をそこなう結果にもなります。
半面、体育の授業中や校内マラソン大会で死亡するというような事故がときおり新聞などで報道されますが、これは決して激しすぎたとか、長時間だからという理由ではなさそうです。
少し古い話になりますが、一九七八年一月、鹿児島県のある中学校で、体育の授業中、サッカーの練習試合をしていた三年生の男子生徒が、パスされたボールを受けて相手方のゴールポストに向けて走り出したとたんに、倒れて死亡しました。
新聞は、校医の話として、受験勉強で疲れていたうえに、高台の校庭で寒風に当たったために急性心不全を起こしたらしいと報じています。
運動習慣がないと、それほど激しい運動でなくても、このような事故につながる心配があるのです。
同じような授業中の死亡事故が一九九〇年一月にも起きています。
亡くなったのは兵庫県西宮市にある関西学院中学部の三年生(男子)です。
試合形式でおこなっていたサッカーの練習中、突然倒れてけいれんを起こし、心臓まひで死亡したものです。
学校側の話によると、この生徒は学内でおこなう健康診断で不整脈が見られ、再検査を受けていましたが、日常生活に支障はないということで、水泳部員として活動を続けていたほか、毎日全生徒でおこなうマラソンにも参加していたといいます。
ただ、この日は、宿題をかたずけるために午前四時ごろまで起きていたらしく、睡眠不足気味だったようで、ここにも過度な学習の問題がからんでいます。
いずれにしても子どもの体力づくりは、子どもの発達段階や個々の子どもの体力や健康状態に見合ったかたちでおこなわれなければなりません。
そして、スポーツもさることながら、毎日の生活のなかで、何か仕事を与えたり、安易に乗り物に乗せずに歩かせたりする、
こうしたことを通じて自然につく体力が、体力づくりの根本だということも忘れてはならないでしょう。
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生活のリズムが乱れると、非行に走る子供が多い
子どもの生活リズムの崩れが、子どものからだに異変を起こしているとすれば、
とかくタガのゆるみがちな夏休みの生活は、子どものからだにどのような影響を与えているでしょうか。
夏休みあげの九月、授業中に頭痛や腹痛を訴えて保健室へ行きたがる生徒が目立ちました。
中学二年生の哲夫(仮名)も、そのひとりです。
哲夫は授業中ぼんやりしていることが多く、以前に比べて無気力な感じが目につきます。
「勉強がいやで保健室に行きたがるんじゃないか」という先生もいますが、母親の話によると、二学期が始まってから毎日のように下痢をしているといいます。
医者の診断では、とくにからだの異状は認められず、心理的なもので、なにか学校生活のうえで悩みごとがあるのではないかといわれたそうです。
母親も、そういえば学校が休みの日は下痢をしないといいます。
担任の先生がいろいろ哲夫にたずねてみましたが、これといって思い当たるものがありません。
「学校はきらいか」と聞くと、「好きだ」と答えます。
そこで先生は、哲夫の夏休みの生活に原因がありはしないかと考え、哲夫の夏休みの生活記録を調べてみました。
起きているあいだは、テレビをみるのが最も多く、平均すると一日六時間二十六分。
最高はなんと九時間半にもなっています。
しかも、ほとんど夜中の二時、二時におよんでいます。
哲夫の生活は、極端な遅寝・遅起き型の生活だったのです。
ちなみに勉強時間は、一日平均わずか三十三分です。
九月半ばの身体測定では、四月上旬に比べて、身長は六センチも伸びていましたが、体重はほとんど変わっていません。
このような身体発達のインバランスも、からだの変調をきたす原因になります。
そのうえ、急激な成長期にある子どもが、夏だというのにあまり日にも当たらず、クーラーのきいた室内でテレビを見て過ごすような不健康な生活が続けば、
からだの変調をきたさないほうが不思議です。
夏休みの生活の乱れから非行型生活へ
しかも哲夫は、夏休みの惰性で、二学期が始まっても夜ふかしの習慣がなかなかなおりません。
ですから、朝ご飯を食べる時間があれば寝ていたいというほうで、お母さんも毎朝けんかごしで起こすのだといっています。
どうやら哲夫の場合は、心のほうではなく、からだそのものが学校生活を中心とする生活のリズムに適応できていないようです。
しいて病名をつけるとすれば、「夏休み後遺症」といったところでしょうか。
それでなくとも九月は、夏の疲れの出るときで、学校でも保健室の利用者が最も多い月なのです。
それも、すり傷や打撲、切り傷といった外科的なものより、腹痛、頭痛、吐き気、貧血といった内科的なものが多くなっています。
そして、このようなからだに現れた「夏休み後遺症」から、無気力な生活が習慣化し、
やがて遅刻常習、授業エスケープ、無断欠席、夜遊びといった非行型生活におちいっていく例が少なくありません。
哲夫の場合も、その心配は多分にあると担任の先生はいいます。
万引、家出などの非行で警察に補導される子どもの数が増えるのも、九、十月だといわれます。
これは、心の面に現れた「夏休み後遺症」といっていいでしょう。
ところで、あなたのお子さんの場合、毎朝気持ちよく起きていますか。
朝、そう快な気分で起きられるような生活が、人間の生活の基本です。
そのためには、親の協力も必要です。
家族みんなのテレビの見方をふくめ、就寝時間を早めるための努力をしてほしいと思います。
子どもの体力の低下や、「朝礼でバタリ」「朝からボンヤリ」といったからだの問題については、運動不足もその原因としてあげられています。
哲夫の場合も、明らかに運動不足です。
先にみたように夏休みの生活の大半は、家の中でテレビを見ていたのですから、日焼けをしない不健康な生活が、二学期の学校生活が始まって体調を崩す原因にもなっているのです。
二学期が始まり、久しぶりに顔を合わせた子どもたちのなかに、哲夫のように日焼けしない顔が、最近目につくようになりました。
あなたのお子さんはどうでしょうか。
草木も中学生の心とからだ旺盛に生長する季節です。
人間の子どももまた、真夏の太陽をからだいっぱいに浴びてこそ、健康でたくましく育つのです。
ところで、夏休みに日焼けしないような子どもをみると、ふだんから戸外の遊びや運動から遠ざかった生活をしている場合が多いのです。
ここにより大きな問題があります。
哲夫の場合、とりたてて運動がきらいだということではありません。
中学に入学して、あこがれの野球部に入りましたが、きつい練習についていけず、足が痛い、からだの調子が悪いといってはすぐ休みます。
特別不器用なほうではありませんから、普通にやってさえいれば選手にもなれたでしょうが、休みが多いために技術的にも遅れをとり、仲間との間もしっくりいかなくなって、二学期の半ばで退部してしまいました。
二年生になって卓球部に入りましたが、まじめに練習に参加したのほほんの三週間ほどです。
あとは名ばかりの部員で、夏休みに入る少しまえにやめてしまいました。
からだの各器官が急速に発達する青年期は、運動にたいする欲求がたいへん強く、中学生の場合も、スポーツへの欲求の強さは、このようなからだの発達からきています。
シラケ世代とか、青年の老化現象などといわれますが、
本質的にはどの子どもも、運動をしたいという欲求を強く持っています。
ところが、最近は戸外で活発に遊ぶ子どもが減ると同時に、中学・高校でも運動ざらいが目立ってきています。
哲夫のように途中で、投げ出すような例ばかりでなく、はじめから運動そのものに興味を示さない子どもも少なくありません。
人間の基本的欲求のひとつである運動欲求さえ衰えてきているのだとすれば、これはたいへんゆゆしき問題です。
子どもの運動の欲求を正しく受け入れる環境がないことも、今日の子どもの運動ざらいの一つの原因ですが、子どもの育ち方のなかにも問題があります。
幼児時代の戸外遊びの不足から運動ざらいの子に
運動はきらいではないが、長続きせず途中で投げ出してしまい、結果として運動から遠ざかる子どもの場合、よく「根性がない」といわれます。
たしかに、がまん強さやねばり強さに欠ける子どもが多くなったのも事実ですが、運動ばなれはそういう精神的弱さばかりでなく、からだそのものがしっかり育っていないところにも原因があるようです。
幼稚園から小学校低学年にかけては、運動能力、とりわけ神経機能がよく発達する時期だといわれますが、
すでにこの時期にリズム体操や遊戯に興味を示さない子どもがあんがい多いのです。
幼稚園に入るまえの幼児期に、あまり外で遊び回る経験を持たなかった子が、そういう子になりがちだといわれます。
哲夫の場合も、からだが弱いということで、ほとんど家の中で遊ぶような幼児期を過ごしました。
幼児期に子ども同士が夢中になって外で遊ぶことによって自然につくられるからだや神経のはたらきが、幼稚園に入ってからのリズム体操や遊戯の基礎になるのです。
哲夫のように家の中にばかりいて、運動の基礎が十分できていない子は、なにをやってもうまくできないということで気後れして、しだいに運動ざらいになっていくのです。
「欲求というものも、また一つの能力である」
といった人がいますが、からだを使って遊ぶ経験の不足から、運動欲求能力が育っていない子どもや青年が多くなっているとしたら、これは一刻も放置できない問題です。
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思春期の体のリズム
朝からアクビをする生徒がふえた
中学生時代はからだづくりの時代だと述べましたが、最近の中学生のからだはどうなっているでしょうか。
最近の子どもは体格はよくなったが、体力はそれにともなって伸びていないと一般にいわれています。
たしかに、文部省がおこなった『体力・運動能力調査』(一九八九)によると、青少年の体力は、一九七二年前後を境に停滞または低下の傾向を示し、とくに背筋力や柔軟性の低下が目立っています。
いすにきちんと座っていられない、なにかというとすぐ「疲れた」「かったるい」を連発する、「立ちくらみ」を起こす子どもが多くなったなど、子どものからだの異変もよく耳にします。
その端的な例としては、朝礼で倒れる生徒が多くなったことがあげられます。
この朝礼時の「立ちくらみ」は、とくに中学校で目立っているようです。
また、朝からアクビをする生徒も多くなりました。
この「朝ボケ」や「朝礼でバタリ」の原因を、夜ふかしと、朝起きてから学校へ行くまでの活動量が不足しているため、と指摘する専門家もいます。
成長期の子どもにとって十分な睡眠時間は個人差はありますが、ふつう八時間は必要だといわれています。
しかし問題は睡眠時間の不足だけではありません。
深夜放送や受験勉強で大脳興奮が高くなれば眠りが浅くなり、朝起きても食欲がなく、疲労が蓄積されるのは当然です。
わたしたち人間は、からだで使うエネルギーの大半を朝食にたよっているといいますから、朝食を抜くと「朝礼でバタリ」になるのです。
朝起きてから心身がはっきり目覚めるには、二時間は必要だといわれます。
それがなかなかむずかしいことだとしても、余裕をもって朝食をとるぐらいの時間はほしいと思います。
夜、家族につき合って、テレビを見たあとで勉強というような生活だとしたら、親としても考えてみなければなりません。
このように、今日の子どものからだの異変が、遅寝、遅起き、朝食抜きなどといった、生活リズムの崩れからくることが多いとすれば、
親を中心とした家庭生活の見直しを迫られる問題です。
ところで、子どものからだの異変と今日の子どもの非行との間に、なんらかの相関関係があるように思います。
暴力事件を起こしたり、授業妨害を繰り返すような非行グループの多くが、よく体育の授業の見学組となったり、「気分が悪い」「かったるい」といっては保健室にひんばんに通う傾向が、最近目立っています。
こうした子どもたちは、一昔前までは、数学や英語の授業では居眠りをしたり、騒いで妨害するようなことはあっても、
体育の授業は喜んで参加しましたし、運動会などの体育行事では主役となっていたのです。
精神的に怠惰になったからだ、という指摘もされていますが、
それよりも精神の土台であるからだがむしばまれていることに多くの原因があるように思います。
子どもが中学生になってしまったからといっても、まだ遅くはありません。
家庭の生活が本当に子どもの発達を保障するものになっているかどうか、からだづくりの面からも問い直してほしいと思います。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
子どもからおとなへ脱皮するさなぎの時期
思春期というのは、からだがおとなのからだとして発達すると同時に、「心理的離乳期」と呼ばれるように、心の面でもおとなとして独立していこうとする時期です。
しかし、いきなり子どもからおとなへと脱皮できるわけではありません。
昆虫でいえば、幼虫から成虫に変身する中間の1さなぎ」の時期で、おとなでもなければ子どもでもない、いわばおとなの部分と子どもの部分を合わせ持ったたいへん複雑な時期なのです。
「親の都合でおとな扱いしたり、子ども扱いしたり、おとなは勝手だ。
ふだんは『もう子どもじゃない』といっておきながら、都合が悪くなると『子どものくせに生意気いうな』などという」
あなたも一度や二度、子どもからこんなことをいわれたことがあるでしょう。
この子どものことばは、単に親の身勝手さにたいする批判ばかりではありません。
不安定な思春期の子どもにたいする親の戸惑いをついたことばでもあるのです。
人間の子どもの発達というのは、「さなぎ」のように殻の中に閉じこもっておとなになる準備を整え、殻を破って出てきたときには、成虫としての機能を立派に備えている昆虫のようにはいきません。
人間の子どもは、活発に活動しながら発達するのです。
しかも、どの部分も平均して発達するのではありません。
よく、からだはおとなになっても、気持ちのうえではまだ子どもだといわれるように、身体の発達と精神の発達とのインバランスも、この年ごろの基本的な特徴のひとつです。
身体と精神の発達のインバランス
また、親にたいする反抗は、
「私はもう子どもではない。一人前の人間なのだ」
という子どもの独立宣言のようなものですが、一方では親にたいする依存と甘えを強く表します。
一人前のおとなのような生意気な口をきいたかと思うと、つまらないことですぐふくれたり、幼児のようにだだをこねたりする子どもの姿に当惑した経験はありませんか。
子どももまた、おとなである自分と、まだ子どもである自分との狭間で揺れ動いているのです。
思春期危機というのは、このような発達のインバランスによって引き起こされる現象だといっていいでしょう。
しかも今日の子どもの問題で深刻なのは、
身体的発達の加速化がすすむ一方で、自己中心的で依頼心が強いなど精神的発達の面は逆に遅滞して、発達のインバランスをますます大きくし、思春期危機を増大させていることです。
今日の校内暴力の大半は中学生によるものですが、かつては高校生に多く見られました。
今なぜ中学校で校内暴力がひんばんに起こるのか。
そのなぞを解くカギは、今日の子どもの発達上の変化にあると思います。
一九五〇年代の半ばからはじまる高度成長期以降、地域や家庭など子どもの発達環境が急速に変わり、先のような発達のインバランスが増大するという変化を子どものうえにももたらしました。
なかでも中学生という時期はその発達の落差がもっとも大きく、そのために心理的にも以前よりいっそう不安定な時期になったのです。
すでに述べたような暴力とともに、大きな社会問題になっている、不純異性交遊、中・高生売春など、思春期の子どもの怪をめぐる危機もそうです。
肉体的成熟が早まるのに比べ、欲望をコントロールする精神の発達が、十分でないということによるものが大半です。
青年期というのは、
「身体的生物的次元の轟動に始まり、心理的次元の安定によって終わる」
といわれます。
身体的発達の時期が早まる半面、心理的に安定する時期が遅くなったことで青年期が延びる問題は、親や教師ばかりでなく、社会的にも新たな対応を迫られているといえましょう。
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反抗期の時期があることが、子供の精神発達に重要なことである
自分を見つめるもうひとりの自分の誕生
思春期における急激なからだの発育は、心理的にも複雑な変化を呼び起こします。
性的成熟によるからだの変化は、自分自身のからだにたいする違和感を感じさせ、
おとなになることへの喜びと不安、誇りと恥じらいといった相対立する感情を呼び起こし、子どもの心を動揺と不安定な状態におとしいれます。
これは別のいい方をすれば、新しい自分との出会いによる戸惑いですが、それは同時に、自分自身にたいする関心が急激に芽生えてきた証拠でもあります。
男の子が、鏡のまえに立つ姿を見かけるのもこのころです。
外見をひどく気にし、髪形や衣服に強い関心を示し、「目立とう精神」が旺盛になります。
つまり他人の目に映る自分の姿が気になるわけで、これを心理学では身体的自我とよんでいます。
思春期は心理的にも成熟期にさしかかる時期で、「自己発見期」とか、「自我(他人と比べた時の自分自身)確立の時期」などといわれます。
外見からしだいに自分の内面に目が向いていき、精神的自我が確立してきます。
「自分を見つめるもうひとりの自分」の誕生です。
三田誠広の芥川賞受賞作に、「甘え世代」といわれる現代の若者の青春の旅立ちを描いた『僕って何』という小説があります。
ここにもでてくる「自分を見つめるもうひとりの自分」の確立は、思春期・青年期での重要な発達課題なのです。
反抗期は精神発達の重要なふし目
ところで、このような内面生活が始まるとひとりになる時間をもちたがったり、それまで親の権威や先生の権威というものに比較的素直にしたがっていた状態から、
なにかと懐疑的になって反抗的な態度をとるといった、行動面での変化を呼び起こします。
これを発達心理学では、「第二反抗期」と呼んでいます。
しかし、この「反抗期」といういい方に疑問を投げかける人がいます。
乾孝氏(心理学者)もそのひとりです。
乾孝氏は、『反抗期といわれる中学生の心理』(あすなろ書房)で、「反抗期」という言葉をはじめて使ったのはシャロッテ・ビューラーというお母さん心理学者で、彼女が幼い自分の子どもが急に自分を主張するようになったことに気づいて、
精神発達のひとつのふしを発見した − と紹介し、つぎのように述べます。
「けれどもそのヒントは『母親』の発想に媒介されたものであることも見のがせない事実です。
子どもの自己主張を『反抗』と受けとめるのは、子どもにたいして支配者として臨むものの感覚以外のものではありません」
たしかに、「反抗期」といういい方をされると、親や教師からすれば、けしからぬことだということになり、結果として子どもの自立の芽を摘んでしまったり、
できることならそういうやっかいな時期はないほうがいいというように思い込んでしまう危険性があります。
しかし乾孝氏も、
「『反抗期』というコトバはまずいけれども、
そう呼ばれる時期を、やはり精神発達のひとつの重要なふしとして、実際に経過しなければならないのです」
といって、ビューラー夫人の「反抗期」説の功績を認めています。
「反抗期」という呼び方に異議をさしはさむかどうかは別にして、いまではこの発達のふし目の重要性については、だれしも認めるところとなっています。
一九八一年七月、総理府青少年対策本部は『家庭内暴力に関する調査研究』を発表しました。
それによると、第一反抗期が「明確にあったもの」はわずか一〇・八パーセントで、
家庭内暴力をひき起こしたものは、第二反抗期がなかったものが多いという相関関係が出ています。
登校拒否や子どもの自殺にも同様の傾向がみられます。
第一反抗期は、二歳の終わりごろから四歳の初めごろに見られる現象で、ようやく自分のからだを自由に動かすことができるようになり、自分なりの意志も育ち、親の世話や干渉から離れようとする、いわば身体的自立の時期なのです。
さらに、第二反抗期をも体験しない二十歳ないし三十歳の青年のなかに、
思春期危機ともいうべき登校拒否ならぬ出勤拒否や、深刻な家庭内暴力のみられることが、関係医療機関から報告されています。
これは、「反抗期」と呼ばれる発達のふし目が、いかに重要であるかということを改めて提起している、といってよいでしょう。
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中学生時代はからだづくりの時代
思春期の第一の特徴は、なんといっても性的な発達ですが、同時にこの時期は、体格、体力、運動機能などすべての面で、飛躍的にからだが成長するときです。
なかでも中学三年間の成長はきわだっています。
身長・体重をみると、男子では十一歳ごろから十四、五歳にかけて伸び方がいちじるしく、その後はゆるやかなカーブになっています。
女子の場合は、男子よりほぼ二年ぐらい伸び方が早くなっています。
人間のからだの発育は二十歳ごろで止まりますが、その間に急激な発育を示す時期が二度あります。
第一の山は、ゼロ歳から二歳ごろまで。
第二の山が、十一歳ごろから十五歳ぐらいまでです。
このようなからだの発育と同時に、体力もまた飛躍的に発達します。
文部省がまとめた体力テストの結果をみても、十二歳から十六、七歳までの期間の体力の伸びはきわだっています。
したがって、子どもの発達にとって中学生時代というのは、からだづくりの時代であるといえましょう。
ところが、今日の子どもはこのからだづくりという面で、めぐまれた条件にあるとはいえません。
「高度経済成長政策」は、人間にとってかけがえのない自然を破壊したばかりではありません。
地域から子どもの遊び場をも奪いました。
また、学歴偏重社会と受験体制のもとで、多くの親の関心は、受験学力(テストの点数に矯小化された学力)に傾いています。
根気がない。
朝の一時間目からアクビを連発する。
朝礼時に貧血をおこして倒れる
こんな子どもが最近多くなっているのも、人間の「内なる自然」であるからだづくりが軽視されていることの証拠だ、といっても決していいすぎではないでしょう。
このように、からだづくりは、思春期と呼ばれるこの時期の子どもの重要な発達課題ですが、なかでもからだの器官で最もいちじるしい発達をとげるのが、生殖器官です。
生殖器官は、それまでも機能していた心臓や肺などの他の器官と違って、この時期になってその機能がはたらくように発育するただひとつの器官です。
したがって性的発達は、思春期の身体的特徴のもっとも重要な側面です。
ところで、子どもを産む機能を備えるということは、同時にそれまで眠っていた本能である性欲が目覚めてくることでもあります。
からだとしての性の成熟は、異性にたいする強い関心や性的興味となって子どもの心を揺り動かします。
とくに男の子の場合は、強い性の欲求に悩まされたり、自慰を覚えることによって、罪悪感や自己嫌悪におちいることも少なくありません。
ところが、子どもの問題でいちばん親に見えないのが、この性の問題です。
女の子でいえば、乳房が大きくなるとか、初潮が現れたというような生理としての性については知っていても、
子どもの意識のなかに轟く「内なる怪」(性欲)については、まったくといっていいほど見えない親が多いのです。
性の目覚めは、不純異性交遊や性にからんだ子どもの事件にみるように、若者をしばしば危機におとしいれます。
もちろん、性の問題に限らず思春期の発達的特徴を、単に生理的成熟の問題に固定してみようとするのは誤りです。
現代の社会の構造や家族をはじめとする人間関係、文化や教育制度によっても、子どもの発達は大きく左右されるものだといぅことを、子どもをとらえる際、しっかりと頭に入れておく必要があります。
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中学生とはどんな年代か
一九八二年、東京・新宿歌舞伎町のディスコで遊んでいた中学三年生の少女が、その後ゲーム・センターで知り合った青年にドライブに誘われ、千葉市の郊外で殺害されるという事件が発生しました。
被害にあった少女は、殺される一週間ほどまえから家に帰らず、ディスコなどを遊び歩いていたといいます。
また、同じ年、二学期を目前にした八月末、神奈川県茅ヶ崎市で中学一年生の長男の登校拒否、家庭内暴力に悩む母親が、思いあまってわが子を絞殺するという事件が起きました。
その一週間ほどまえにも、神戸市で、家庭内暴力の高校二年生の息子を父親が思いあまって刺し殺すという事件があったばかりでした。
また、非行の増大とともに大きな社会問題となっている校内暴力事件も年々増加の一途をたどっていますが、子ども同士の暴力でついに死者を出すという事件(一九八二年・大阪)まで発生し、関係者ばかりでなく、同じ年ごろの子をもつ親にも大きなショックを与えました。
以上は、一九八〇年代はじめの中学生をめぐる問題の様子ですが、その後どのように変わったのでしょうか。
一九八三年には国会でも論議されるなど政治問題にまで発展した校内暴力は、その年をピークに下降線をたどります。
そして、代わって浮上してきたのが集団いじめなど陰湿ないじめの流行現象です。
いじめを苦に自殺するという事件が相次ぎました。
また、報復ないしはいじめ地獄から逃れるために、相手を殺害するという事件も起きています。
このいじめの流行現象も三年ほどで下火になりますが、次いで問題になるのが、登校拒否の増大です。
このように、子どもの問題行動の状況はめまぐるしく変化していますが、このことは、子どもをめぐる問題はなにひとつ変わっていないことを物語っています。
その証拠に、いま再び中学校は、子どもの暴力で荒れはじめています。
文部省がまとめた一九八八年度の「児童生徒の問題行動実態調査」は、登校拒否の増大とともに校内暴力がふたたび急増傾向にあると報告しています。
それによると、教師に対する暴力事件は中学、高校で前年に比べ二〇%前後の増加。
学校の設備などを壊す「器物破損」も目立ち、なかでも中学校では前年に比べて六二%も増え、六年前の水準にあともどりした格好です。
「いじめ」も依然として深刻な状況で、一時期ほどではありませんが、「いじめ」が原因と見られる子どもの自殺もあとを断ちません。
勉強で追い詰められた中学二年生の少年が、両親と祖母を殺害するという衝撃的な事件も起きています。(一九八八年・東京)
ツッパリグループではない普通の中学生同士の乱闘で死亡事件も起きています。(一九八九年・千葉)
このような事実は、今日の子どもの発達にもかかわる問題ですが、中学生という年代のむずかしさを改めて示すものといえるでしょう。
もちろん、中学生という年代のむずかしさは、非行、登校拒否、家庭内暴力といった顕著な問題行動ばかりではありません。
「中学生になったら、なにも話さなくなった」
「なにを考えているのかさっぱりわからない」
「なにかと親に反発する」
といったように、第二反抗期と呼ばれるこの時期の子どもの扱いについての悩みは、一般的に年ごろの子をもつ親の共通の悩みです。
このように親にとって悩み多い中学生という年代は、どのような年代なのでしょうか。
発達心理学(児童心理学や青年心理学のように、子ども・青年の精神発達の過程を扱う)では、中学生、高校生の時期を、思春期とか青年前期と呼んでいますが、中学生はその思春期の入り口にあたります。
それでは、思春期とはどのような特徴をもった年代なのでしょう。
第一の特徴は、思春期ということばが、英語のPUBERTYに由来するように、性的な発達です。
第二次性徴期と呼ばれるように、性腺(男女の生殖器官)が発達し、男の子は声変わりしたり、骨格がたくましくなって男らしいからだつきになり、
女の子は乳房がふくらみ、皮下脂肪が多くなって丸みをおびた女らしいからだつきになります。
生理的には、男子には精通現象、女子には初潮があります。そして、おとなのしるしとしての発毛をみるようになります。
第二の特徴は、親への依存を断ち切って、独立をはかろうとする精神的自立という問題です。
自己主張が強くなって、親の干渉をきらい、親や教師にたいする批判の目も育ってきます。
つまり思春期というのは、心身の発達の変容期であり、子どもからおとなへと脱皮をはかる「さなぎの時代」です。
十八世紀フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーは、この時期の特徴をとらえて、「第二の誕生」と呼びましたが、
思春期とか、青春時代というのは、人間の一生にとって、まさに人生のドラマのはじまりなのです。
このように、子どもの発達にとって重要なふし目である思春期をどう生きるかによって、子どもの自己形成の仕方が変わってきますし、
青春時代をどう生きるかによって、その人の人生が決まるといっても、けっしていい過ぎではありません。
このカテゴリーでは、重大な成長期にある中学生を、親としてどのように見守り、どのような励ましと援助を与えていったらいいか、
家庭における親子関係のあり方、受験体制と学習、友だち、男女交際と性、非行など、具体的な問題に即して考えてみたいと思います。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
ほめる子育てより、勇気づけの子育てを
以前、「子どものすてきなところを発見しよう」と、書いたことがあります。
そのうえで、次に親がとるべき行動は何でしょうか?
親はどうしたらいいでしょう。
ほめればいいのでしょうか。
「お母さんにおはようと一言えて、お前は偉いね」と言えばいいのでしょうか。
ほめることも叱ることも方向は違うが、構造は同じです。
これは両方とも上に立つ人がいて、その人が下の人を判断、評価している構造です。
下の人はほめられるにしろ、叱られるにしろいつも判断、評価の対象になる人です。
この構造はあまり民主的な構造とは言えません。
たとえば子どもが、
「お母さんおいしい夕食作ってくれて偉いね」
と言ったとしたら、お母さんはどんな感じがしますか?
あまり気持ちがよくないと思いますがいかがでしょうか?
それではどうしたらいいのでしょう?
叱ったり、ほめたりする子育てから、勇気づけの子育てに変えるようにしましょう。
勇気づけの具体的な方法はいろいろありますが、もっとも基本的なものは、
子どもの行動に感謝を表すことから始まります。
「元気におはようって言ってくれてお母さんもうれしいわ。ありがとう」
と、子どもに言ってみるのです。
自分のうれしい気持ちをそのまま子どもに伝えてみることなのです。
喜びを子どもとわかちあいたいと願う行動が、勇気づけの基本になります。
「お母さん、おいしい夕食を作ってくれてありがとう」
と言われた方が、「偉いね」と言われるより、どんなにうれしいことでしょう。
子どもも同じだと思います。
さて、ありのままの自分でいいのだということを、周りの大人から教えてもらえた子どもは、今度は他人に対してもありのままの他人を受け入れるようになります。
すなわち他人を好きになり、受け入れることができるようになります。
私達は競争原理が支配している世のなかを生きています。
他人に勝たなければいけないという考えです。
極端に言えば手段はどうであれ、結果が勝てばいいのだという考えさえあります。
多かれ少なかれ、子どもの世界でも、同様の競争原理があります。
ある意味では、大人の世界より子どもの世界の方が、成績という数字に現れる評価があるだけ、この競争は過酷かも知れません。
子ども達は仲間を親友と見ずに、ライバルと見がちになります。
人には勉強以外にもいろいろな価値があります。
勉強の本来の目的は、将来の生活の安定のためにあるのでなく、勉強で得た力を皆のために役立てることにあります。
私達は子ども達のなかにもう少し成績以外の価値を認めてもいいのではないでしょうか。
かつての私の友達に勉強は大したことがなかったけれども、手先の器用な友達がいました。
竹とんぼを作っても模型飛行機を作っても奴凧を作っても、私よりもはるかに素晴らしい作品を作っていました。
その度に、私は「彼みたいに手先が器用になれたらなあ」と羨ましい気持ちで見ていました。
そして仲間内でも工作なら彼だという一定の評価を得ていました。
彼は手作りの靴屋さんとして立派に成功しています。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
子どもは何に悩んでいるのか分かりますか?
自分を好きになれない子ども達
マスコミで子ども達の問題がよく取り上げられています。
「不登校児が全国で十万人を突破」「学級崩壊が小学校で」「少年非行の暴力化」「むかつく、キレる子ども達」「超ジコチュー児の対応」など毎日のように新聞の紙面を賑わせています。
保健室をかろうじて憩いの場にしている子ども達も増えています。
また、保健室にだけ登校している保健室登校生 もたくさんいます。
いじめ問題もますます深刻になっています。
けんかの仕方が腕力に訴えるものから、もっぱら言葉を使うものや、悪い噂を友達に流すなど間接的に相手にダメージを与えるものになってきています。
いつだったか、そのような子供たちと話す機会がありましたので、いくつか質問してみたのです。
「君は自分のことが好きかな?」
と質問しますと、するとどうでしょう。
「何でこんな自分が好きなの!大嫌いさ」
と答えました。
おそらく大部分の彼等(彼女)が同じ答えを出すでしょう。
ものに不自由を感じたことのない子ども達が、ほしいもののほとんどを買ってもらっている彼等(彼女等)が、自分が嫌いだと言うのです。
私達の眼から見ると、こんなに恵まれていて、どうして自分が好きになれないのだろうと理解に苦しみます。
しかし彼等(彼女等)と話していくうちに、何で彼等(彼女等)が自分に苦しんでいるかがわかるようになってきました。
そして彼等(彼女等)の悩みは、カウンセラーに相談にいくような特殊な子ども達だけの問題でなく、たぶん大多数の子ども達の共通の悩みでもあるように思えてきました。
ある不登校の小学五年の女の子がいました。
花子(仮名)さんはクラスに嫌いな友達がいます。
その子は忘れ物をよくします。
するとその子は花子さんに借りにきます。
初めのうちは花子さんも貸してあげていましたが、だんだんいやになってきました。
断ろうと思うことも何度かありました。
しかし断るとその女の子にいじめられるのではないかと心配です。
ある日貸そうか断ろうか迷ってモジモジしていると、
「何してるの。早く貸してよ。けちんぼね」
と言われました。
数日して、花子さんは登校する時間になるとお腹が痛くなりました。
そして二週間後には学校を休むようになりました。
もちろん彼女にも、自分が好きかどうかを聞いてみました。
彼女も自分が嫌いだと言いました。
いやなのに断れない自分、相手が自分を馬鹿にしたのに言い返せない自分、いつも相手の顔色をうかがっていなければならない自分を嫌っていました。
人間関係のなかで自分の意見を相手にちゃんと伝えることは、大人でもなかなか難しいものです。
特に「いや」と言うのは相手の気持ちを傷つけるのではと考え、なかなか言えません。
そして言えない自分に後悔し、腹が立ってきます。
最後に自分が嫌いになります。
自分を好きになれば、幸せになれる
さて花子さんのような子どもに我が子をしないためには、親はどのような子育てをしたらいいでしょうか。
ひとが幸せになる為には三の条件が必要だと考えています。
その一つは「自分を好きになる」ことです。
「自己肯定感」の育成です。
自分で自分を好きになるということは、簡単なようで案外難しいものです。
人はありのままの自分より、理想の自分を追い求める傾向があります。
自分の至らないところ、そして欠点にばかり眼がいってしまいます。
「完全でなければならない」または「安全でなければならない」という信念を作り上げていきます。
自分を嫌いという多くの子どもは、自分が理想としている自分でないから嫌いと言います。
ありのままの自分を受け入れることができないのです。
「勉強も大してできない。運動もあまり得意でない。でもいいや。僕(私)には仲間がいるもの」
と、こんな風に考えることのできる子どもだったら、まず学校生活で挫折することがないと思います。
多くの子どもは
「勉強ができないといい学校に入れない。いい学校に入れなければいい会社に入れない。いい会社に入れなければ生活が安定しない。こんな成績じゃ僕の人生真っ暗だ」
と考え、勉強ができない自分を嫌っていきます。
学校生活に挫折していきます。
そして
「やっぱり僕の予想した通りだ。僕の人生は絶望だ」
と言います。
ところで子ども達はなぜこのように「完全でなければならない」または「安全でなければならない」という考えを持つのでしょうか?
多くの親は子育てを子どもの欠点を矯正して正しくすることだと考えています。
あるお母さんと子どもの会話をテープにとって分析した実験があります。
するとお母さんから発せられるメッセージの八〇パーセントは
「いけません」「ダメよ」「早くしなさい」だったそうです。
要するに、禁止と命令言葉なのです。
お母さんの眼が子どもの間違いにいつも向いていることを示しています。
これらのメッセージからは子どもは勇気や自信を学ぶことはできません。
勇気や自信をくじかれるだけです。
しかし親はなぜこのような子どもに否定的なメッセージを出すのでしょう。
親には理想の我が子という幻の子がいるのです。
我が子であればこそ、我が子のためにと願う理想があるのです。
現実の我が子ではなく、理想の我が子が好きなのかも知れません。
いつも元気で精いっぱいがんばり、礼儀正しく失敗をしない我が子が理想だとすると、
子どもはどんなときでものんびりすることができなくなります。
緊張しがんばっているときのみ親から評価の対象にされるからです。
子育てのなかで親がしなければならない第一の課題は、眼の前にいるありのままの子どもを好きになることです。
眼の前の子どもの良いところをできるだけ多く発見する必要があります。
どんな子供にも良いところはたくさんあります。
もし我が子に良いところを見つけることができないお母さんがいたら、子どもに良いところがないのではなく、お母さんが良いところを見つける方法を知らないだけなのです。
現実の我が子を好きになるということは、
我が子と今日も一緒に生きていけるということを喜ぶことから始まるのかも知れません。
そんなのあたり前だと言うお母さんもいるかも知れません。
しかしこのあたり前のことを、もっともっと子ども達に喜びとして伝える必要があります。
不登校の子どものお母さんにとっては、朝、元気に学校に行っている子どもが何とすてきに見えるでしょう。
非行で外泊を繰り返している子どものお母さんにとって、夕方お腹をすかして帰ってくる子どもが何と素晴らしく見えることでしょう。
問題を起こして、初めて親はいままでの子どもの何でもない行動が素晴らしいものだったと気がつくのです。
しかしこれでは遅すぎます。
子どもが問題を起こさず順調に成長しているときこそ、我が子のあたり前の行動の素晴らしさに気づいてください。
もし、このことに気づかれれば、我が子の良いところをたくさん見つけることができるでしょう。
朝起きてきて子どもがお母さんに「おはよう」と言う。
何とすてきなことでしょう。
友達との楽しかった遊びを夢中になってお母さんに話している。
これも何とすてきなことでしょう。
暗くなるまで、外で思いきり遊んで帰ってくる。
これもすてきです。
まだまだたくさんあるはずです。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
性非行に走る女の子の大半が、父親に問題がある
子どもが親に隠れて異性の友達と交際しているとしたら、あなたはどうなさいますか。
お父さんとお母さん、あるいは子どもが男の子であるか、女の子であるかによって多少考えが違ってくるかもしれません。
いずれにせよあなたは、人生の先輩として適切なアドバイスをしてやれるでしょうか。
男の子からの電話に神経をとがらせる父親
信子(中二 仮名)の場合をみてみましょう。
信子の父親は、中学生の間は一対一の交際を認めないという考えです。
だから、ときおり、男の子からかかってくる電話にも相当神経を使っていました。
母親は、理解のある考えをもっていましたが、頑固な父親に自分の意見をなかなか言えません。
信子が中学一年の夏休みのことです。
卓球部の先輩の男子からもらったラブレターを父親に発見され、きびしく叱られたあげく、部をやめさせられてしまいました。
小学生のころまでは、どちらかといえばお父さんっ子だっただけに、父親は娘の男女関係に必要以上に神経質になってしまったのでしょう。
信子も、大好きな父親の変化にショックを受け、そういう父親にしだいに反感をもつようになりました。
勝気な性格ですから、はじめのころは父親と正面からやり合うことがありましたが、やがて父親とほとんど口をきかなくなりました。
母親は間に立ってただオロオロするばかりです。
そんな信子が特定の男の子と交際しているのを母親が知ったのは、二年生の夏休み明けのことです。
担任の先生から、
「近ごろ、男の子とのつき合いが目にあまるようになったので注意してほしい」
といわれたからです。
放課後、教室で二人だけで遅くまで話していることが多く、生徒間では公認のカップルで、しかも、相手の男の子はとかく問題のある生徒で、番長グループの一員だというのです。
こんなことが父親に知れたらたいへんです。
しかし、娘から、
「先生はすぐそんな目で生徒を見るが、わたしたちはそんな仲じゃないし、それに相手の男の子も先生のいうような悪い子じゃない」
といわれると、母親はホッとして、娘のことばを信じ込んだのです。
ところが、それから一カ月足らずの間に、二人の関係は担任の先生が心配していた以上に進んだ形で表面化してしまったのです。
建築中の建売住宅の中に、二人で入り込んでいたところを近所の人に見つかり、先生に補導されたのです。
担任の先生は、母親ではらちがあかないと判断し、父親に来校してもらって一部始終を話しました。
娘に特定の男友だちがいることさえ知らなかった父親にとっては、まさに晴天の霹靂です。
逆上した父親は、家に帰るなり娘を殴りつけました。
父親にただの一度も殴られたことのない信子には、たいへんショックでした。
彼女はその晩、家を抜け出し、そのまま相手の男の子と二晩家をあけ、三日目の朝、あるマンションの屋上出口の踊り場で寝ていたところを、こんどは警察に補導されました。
父親の無理解と母親のあいまいな態度が、娘を誤った男女交際に追いやってしまった一例です。
中学生ぐらいにもなれば、からだの性的な成熟にともなって、性的欲求が高まるとともに、自我意識の発達によって、人格的な共鳴や尊敬といった契機からとくに親しい異性の友だちを求めるようになります。
中学二年生を対象にしておこなった調査があるのですが、それによりますと、
「特定の異性の友だちがいる」と答えた生徒は、男子二六・七パーセント、女子二八・一パーセント、
「いない」と答えた生徒でも、そのうち男子は六〇パーセント、女子は九〇パーセントが「異性の友だちを欲しい」と答えています。
三年生になれば、この数字はさらに高くなるでしょうが、これはきわめて自然なことなのです。
しかし、わが子のこととなると、「うちの子はまだ子どもだ」と考えている親が多いようです。
信子の場合も、親の見方より、子どもの実態の方がすすんでいたわけです。
「もしボーイフレンドができたら、真っ先にお母さんに紹介するのよ」
ぐらいの先手を打っておけば、親に隠れてこっそり交際するようなことにはならなかったでしょう。
子離れできない親の姿勢が問題
子ども(特に女の子)がせめて、母親にだけは気軽に話したり相談したりできる関係を作っておくべきです。
母親があいまいな態度をとりつづけていたために、信子は母親にさえ「そんな仲じゃない」と偽るようになったのです。
信子の場合、いちばん問題になるのは父親です。
母親の立場から父親に対して、頭ごなしに反対するだけではかえって火に油を注ぐ結果になることも話して、冷静に子どもと話すようになだめるべきだったと思います。
この父親も、子どもが男の子ならもう少しさめた見方ができたでしょう。
子どもは、いつまでも親の愛がん物としての存在に甘んじてはいません。
年ごろになれば異性に心を寄せ、やがては親から離れていくものです。
思春期は精神的離乳期だといわれますが、信子の父親のように、逆に〝子離れ″できない親が多くなっているように思います。
それに、いままで目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた父親が、年ごろになって思うようにならないからといって、感情にまかせて暴力をふるうケースも少なくありません。
性非行に走る女の子の大半が、その背景にこのような父親の問題があるということを考えると、思春期を迎えた娘と父親の問題を、改めて考えてみる必要がありましょう。
父親の優しさをほかの男性に求める
成績が上位で、生まじめな女の子だった瞳(仮名 当時中学一年)が、通りすがりの青年の車に乗ってドライブし、一晩家をあける事件を起こしたのも、父親の女性関係がもとで両親が離婚した直後のできごとでした。
『昭和五十四年(一九七九年)版・警察白書』は、女子中・高校生の性非行の動機を、「興味本位」と指摘しています。
しかし、それは表面的な動機にすぎないように思います。
彼女たちを、無謀とも思える性行動に走らせるものは、わたしの知るかぎりでは、子どもを内面で支えていた父親像の崩壊が原因と思えるケースが大半です。
ロマン派の女の子だけに、失った父親の優しさをほかの男性に求める結果、性的関係にのめり込んでいくように思えるのです。
女の子は、父親をとおして理想の男性像を作るといわれます。
「お父さんのような男性と結婚したい」
と子どもがいうような父親なら、まず心配はありません。
カテゴリー:思春期の子育て・教育
思春期の子どもの問題
親への反抗、異性の問題、非行などの逸脱行為。
いつの時代にもあった揺れ動く思春期の子どもの問題です。
それは、年ごろの子どもをもつ親の共通の悩みであり心配ごとでした。
だが、この思春期の子どもの問題が社会問題になるなどということはありませんでした。
思春期まっただなかの中学生を中心とする子どもの問題が、日常的に社会問題になるようになったのは、一九六〇年代に入ってからのことです。
万引きや性的非行などの遊び型非行の広がり。
シンナーなど、薬物に溺れる子どもの問題。
そして校内暴力、いじめ、自殺。
さらに、現代的な子どもの問題として登場してくるのが登校拒否、家庭内暴力、拒食症などの病理的な子どもの問題です。
そして、これらの問題は、一部の例外的なものを除けば特殊な子の特殊な問題ではありません。
その本質は、思春期における発達のつまずき、発達途上にある子どもの苦悩の現れです。
そもそも思春期というのは、いつの時代にあっても、その発達上の特性からさまざまな危機をはらむ年代なのです。
思春期まっただなかの中学生という年代は、性的成熟に向かって急激にからだが変化する時期であるとともに、
心の面においても自立をめざして飛躍的な成長をとげる輝かしい年代です。
しかし、そのことが同時に、子どもを大きな不安と動揺におとしいれ、さまざまな過ちを引き起こしたりする原因ともなるのです。
加えて激化するいっぽうの受験戦争は、このような中学生の危機的状況をさらに増幅しています。
まさに、中学生は悩み多き年代であり、中学生が、校内暴力、登校拒否など社会問題になるような子どもの問題に常に主役として登場してくるのはそのためです。
ところで、時代の変化とともに、このような思春期の危機は増大し、深刻の度合いを深めています。
わが子の心がつかめず、とまどい、悩む親が多くなっています。
わけもなく荒れたり、堅く心を閉ざす子どもにはどこす術を知らず、親としての自信を失いかけている者も少なくありません。
いったいなにがこのような事態をもたらしたのでしょうか。
経済の高度成長がもたらした豊かなモノ社会の出現は、いっぽうで子どもの発達にとって欠くことのできない地域や家庭を構造的に破壊し、
その教育力を大きく衰退させると同時に、子どもをとりまく人間関係をも希薄にしました。
さらに、大企業の要請に応える能力主義の教育と学歴偏重社会のもとでの受験体制。
それに拍車をかける親たちの教育投資の過熱が、これまた子どもの発達に欠くことのできない子どもらしい生活を奪っています。
このようにして、現代の子どもたちは発達の危機にさらされることになったのです。
当サイトが、むずかしいといわれる中学生という年代の子どもを理解し、そのかかわり方を考えるうえで、少しでも参考になれば幸いです。
カテゴリー:思春期の子育て・教育

